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1.見捨てるもの



 以前、神獣に、こちらの世界の雛型を見せてもらったことがある。

 雛型というか、それを見たわたしの頭に真っ先に浮かんだ言葉は、「ジオラマ」だ。

 昔、デパートの特設広場で、数十分の一というサイズの街の中を小さな鉄道がのんびり走る、という情景を模型にしたジオラマ展示がされていて、母と一緒に感嘆しながら眺めた覚えがある。神獣が見せたのはそれよりもずっとずっと小さく、そこまで精巧ではなかったけれど、感じとしては似ていた。

 この世界の地図ならトウイが見せてくれたし、その後も何度も見る機会があった。だから全体がどんなものなのかは知っているつもりだったけれど、こうして立体的になると、まったく受ける印象が違う。これなら、どこにどんな形の山があり、街があるか、それぞれの国がどのあたりを中心にして栄えているか、そういうことが一目で見て取れる。

「なかなかよく出来ているだろう?」

 ふかふかの大きな椅子に埋もれるようにして座る神獣──銀の髪と、金の瞳を持つ、子どもの形をした生き物は、そう言ってくすくす笑った。

 こういう時、「普通の人間っぽく」自慢げな顔つきや態度をとったりすれば、多少は可愛げがないこともないのに、その口許はやっぱりいつもと同じで、笑っているけれど笑っていない。

 見ているだけで不愉快になるので、わたしはじっと世界のジオラマに視線を据えた。

「これ、あんたが作ったの?」

「まさか」

「そうよね、あんた、生産的なことは何ひとつ出来ないんだもんね」

「出来ないんじゃなくて、しないんだ」

 わたしの嫌味をするりとかわし、神獣はまたくすくすと笑った。

「カイラック王の数代前の王が──名前はなんていったかな、その王が、ボクに献上してきたんだよ。ニーヴァ国王にしては、まだしも気の利くほうだった。無能という点では、今のカイラック王と変わりはないけど」

 神獣が王に対して……というより、人間全般に対して見下すような言い方をするのもいつも通りなので、わたしはそれについて特にコメントしようとは思わなかった。いや正確に言うと、見下しているわけでもないのだろう。神獣は本当に、心の底から、人間というものを、「どうでもいいもの」としてしか認識していないのだ。

 返事もせずに、ジオラマに見入る。

 この世界にある七つの国はそれぞれ別名を持っているが、これを見ると、その名は各国の特色を表したものになっているのだ、ということが改めてよく判った。


 砂の国ゲルニアは、国土の三分の一を占めているのが砂漠。

 火山の国カントスは、国の真ん中あたりに、大きな噴火口が天を仰ぐ山がどんと居座っている。

 湖の国スリックは、王宮が大きな湖の上に造られ、その湖の周りを囲むようにして街がある。

 森の国モルディムは、覆い茂る森林で、街の様子がほとんど隠れてしまっている。

 鉱山の国キキリは、ゴツゴツとした岩肌を露わにした山脈が連なり、そこかしこに採掘のための穴が見える。

 大地の国ドランゴは、あまり緑のない荒れた土地であることが窺える。

 ……そして、真ん中のぽっかりと空いた場所は、妖獣の国。

 このジオラマには、生物の模型は入っていないため、そこは穏やかそうな単なる草原地帯でしかない。


「こうしてみると、このニーヴァは取り立てて特色がない」

 わたしはぼそりと言った。

 七つの国の中でいちばん広い国土を有しているニーヴァだが、山があり、川があり、街がある、という、ごく普通の景観だ。

 特に何かが目立つというわけではない。バランスがいい、といえばその通りで、逆に言えば受ける特別な恩恵もないが害も少ない、ということか。あるいは国にとっては、それがなによりの長所であるのかもしれない。

 だからニーヴァは大国「一ノ国」として、権勢をふるっていられるのだろうか。

「馬鹿だね、キミ」

 神獣が鼻先で笑った。

「もちろん、特色はあるよ。それも、他の国には求めても願っても手に入らない特色が。なぜこの国が『光の国』と呼ばれると思ってるんだい?」

 言いながら、細くて白い指先を、ジオラマの中のニーヴァのとある地点に当てて指し示した。

 そこには、実際の広く大きな建物をぎゅうっと握りつぶして小さくしたような、神ノ宮の模型がある。

「このボク、神獣がいる。それがニーヴァの、なによりの特色さ。他の国には、実体をもった神はいない。だからこそこの国は、一ノ国でいられるんだ」

「あんたなんていないほうが、人は幸せになれると思うけど」

 わたしが素っ気なく、しかしまごうことなく本音を口にすると、神獣は「あはははは!」と面白そうに声を立てて笑った。

「そんなこと言うの、キミくらいだ。愚かな人間たちは、神というものに縋らなければ、明日というものを安心して迎えることすら出来やしないんだよ」

「何もしないくせに」

「そうさ、ボクは何もしない。何もしないけれど、人間は『何かをしてもらえる』という浅ましくも欲深い望みを勝手に抱いて、神を敬う。救ってもらえる、守ってもらえる、何かを恵んでもらえる、と願いを押しつけ頭を下げるのは彼らのほうさ。一般民衆も、王も、この神ノ宮の神官たちもね」

「救うことも、守ることも、出来ないんでしょ」

「さっきも言ったけど、出来ないのではなく、『しない』んだ。どうしてボクがわざわざそんなことをしなければならない? 人は勝手に生まれ、勝手に死んでいく。ボクはそれに、関知しない」

 そう言ってから、金色の瞳を弧の形に細めた。

「キミはボクと真逆だね。救いたい、守りたい、と思っているにも関わらず、毎回失敗する。キミの場合は、しないのではなく、『出来ない(・・・・)』」

 あはははは! と甲高い笑い声が収まらないうちに、わたしは腰の剣に手をかけ、同時に、素早く身を捻った。

 鞘から抜かれた白刃が、滑るように閃く。

 が、白く輝く刃は、神獣の身体に届く手前で、キイン! という音とともに弾き返された。

「キミも懲りないなあ。ボクを傷つけることなんて出来っこないと、いい加減覚えてもよさそうなものだよ」

 最前からの姿勢をぴくりとも動かさず、椅子に座ったままの神獣が、ニコニコしながら言った。

「いつか殺してやる」

 痺れが走って動かない右手を左手で押さえて、わたしは無表情で呟いた。こういうことを言うと、神獣はますます楽しそうな顔をして、それがいっそうこちらの神経を逆撫ですることが判っていても、口にせずにいられない。

「あはは! いいね! それでこそ、ボクの守護人だ!」

 神獣は笑いながらそう言った。

 わたしは剣を鞘に収め、陰鬱な気分で再びジオラマに視線を戻した。



 きっと、実際の世界も、神獣には、この模型と同じようにしか見えていないのだろう。

 ──そこに、何千万という、本当に生きた人間が、笑って、泣いて、喜んで、悲しんで、一生懸命に今日という日を生きているとしても。




          ***



 拝礼は、なんとか滞りなく再開したようだと、ミーシアさんが教えてくれた。

「これも守護さまのおかげです。本当に、何事もなくてよかった」

「……そうですね」

 いつも健康的なふっくらとした頬を、今はさらにピンク色に染めて、にこにこしながら胸に手を当て安堵の仕草をするミーシアさんに、なんと返していいか判らなくて、わたしはとりあえず同意の言葉を出した。

 神ノ宮の主殿内にあるわたしの私室の窓から見えるのは、美しく整えられた中庭だけだ。間違っても賊が入り込まないようにという理由で、その中庭は、三方が建物の壁と柵とで囲まれている。

 いくら窓を開け放っても、ここから離れた場所にある拝殿の様子を窺い知ることは出来ない。

「守護さまも、お疲れのことでしょう。ご夕食はどういたしますか。先にお飲み物をお持ちいたしましょうか。このご衣裳は綺麗にして、またしまっておきますから、どうぞご安心くださいませ。そうそう、今夜は冷えるかもしれませんので、上掛けをご用意いたしましょうね」

 ミーシアさんがまめまめしく働いて、世話を焼いてくれる。

 ようやく、あの動きにくいことこの上ない、だらっとしたドレスを脱ぎ捨てて、いつもの恰好に戻って椅子に座っていたわたしは、彼女が忙しく口と手を動かしながら部屋のあちこちを歩き回るのを、目で追っていた。考えて喋って歩いてを同時にしたら危ないんじゃないかな、とちょっとハラハラする。

「きゃっ!」

 あ、やっぱり転んだ。

「大丈夫ですか?」

 急いで椅子から立ち上がり、ミーシアさんのところに駆け寄って、手を出して助け起こす。

 ミーシアさんは真っ赤になって、「まあ、わたくしったら、申し訳ございません。いやですわ、守護さまの前でこんなみっともない──わたくし、いつもこうなんです」と、今度は謝るのと恥ずかしがるのと自己嫌悪をいっぺんに口にして、しょぼんとした。表情もそれに伴い、くるくると変わる。忙しい。

「そんなことより、怪我はないですか」

「は、はい、ございません。申し訳ございません」

 繰り返された謝罪を聞き流して、わたしはざっと彼女の姿を上から下まで検分した。どこにも大した被害はないと知ってほっとする。ミーシアさんはちょっとそそっかしくて、今までにも──ここにいる彼女が知らない「今まで」にも──よく転んだりぶつけたりで怪我をしていた。

 わたしは、起こすために取ったミーシアさんの手に目を落とした。

 その手はいつもの通り、柔らかくてすべすべしている。侍女の人は水仕事もするから決して荒れていないわけではないけれど、働き者の女性の、温かくて優しい手だった。

 そして、その手を包んでいる自分の手が、彼女とは対極にある、剣を握る手であることに気づいて、すぐに離した。こんな肉刺だらけの、ごつごつとした感触の不格好な掌、これまでに何度も血に塗れた掌は、彼女の綺麗な手に触れていいものじゃない。

「すみません、わたしのワガママで、ミーシアさん一人にお世話をしてもらっているので、忙しいんですね」

 本当なら、守護人には数人の侍女がつくものだと決められている。そこをわたしが強引に、侍女はミーシアさん一人でいいと言い張ったのである。いわば数人分の仕事を、彼女一人に押しつけたようなものだ。

「まあ、いいえそんな、とんでもない。守護さまはなんでもご自分でなさるので、一人で大変だなんてことはまったくございません。選んでいただけたことは、この上ない光栄にございます。わたくしもなんとかそれに報いたいと思っております。ただあの、ひたすら、わたくしの手際が悪いので、守護さまには本当に申し訳なく」

「…………」

 ミーシアさんがさらに顔を赤くして身を縮めるのを見て、わたしはそっと目を伏せた。

 侍女はミーシアさん一人でいい、と言った理由はふたつ。


 ひとつは、彼女の温もりを傍で感じていたかったから。

 そしてもうひとつは、大勢の侍女が周りにいたら、いざという時、動きを制限されてしまうから。


 どちらも、わたしの完全なエゴだ。

 ミーシアさんには近くにいて欲しい。けれど実際に事が起こった時、わたしはトウイを助けることを優先して動く。それを、誰より自分がよく知っている。

 自分の近くにいれば、敵に襲われた時に守りやすい。なるべく守りたいと思っている。彼女一人なら、なんとか庇いながら動けるかもしれない。でも、トウイのほうに危険が迫ったら、わたしは間違いなく、ミーシアさんから離れてそちらに向かうだろう。

 ──なんて、勝手な。

「……ゆっくりでいいので、ひとつずつやっていきましょう。お腹は空いていないから、食事はまだいいです。そのドレスは腐らないのでしばらくほっといても問題ありません。上掛けのことは、もっと暗くなったら考えましょう」

「は、はい」

 ミーシアさんがこくこくと頷く。

「でも、喉が渇いたので、冷たい飲み物を持ってきてくれると嬉しいです」

「は、はい! 承知いたしました! 今すぐ!」

 そう返事をすると、ミーシアさんはお辞儀をして、飛ぶように部屋を出て行った。ゆっくりでいいって言ったはずなんだけど……また転ばなきゃいいんだけどな。

 ふう、と息を吐きながら再び椅子に腰を下ろした。

 そろそろ暗くなりかけてきた窓の外に目をやり、思考を切り替える。

 今頃は、拝殿にまた長々とした行列ができている頃だろう。しばらくしたら王ノ宮からの応援部隊が炊き出しを始めて、人々の心を和ませる役割を果たすはず。

 そう思って、口を引き結んだ。

 何事もなくてよかった、とミーシアさんは安心しきって言ったけれど。


 ──根本的には、まったく何の解決もしていない。


 なんとか抑えられたとはいえ、神ノ宮で暴動が起きようとしていたのは事実なのだ。

 もしかしたらと思って準備していたことだけれど、それが実際に起こってみると、今度は違う疑惑が強まっていった。

 暴動を起こそうとしていたのは、ごくごく普通の一般民衆だ。このニーヴァの国民で、しかもわざわざ遠い地から足を運び、あの神獣なんかに祈りを捧げようという、強い信仰心の持ち主ばかり。

 そんな人々は、通常、そうそう簡単に、怒りを爆発させたりしないものじゃないだろうか。

 王ノ宮はこれを、不幸な要因が重なったただの一過性のものと見ているのだろうけど。

 ……きっと、わたしや王ノ宮が頭で考えている以上に、問題の根は深い。

 今年は天候が不順で、そのため作物があまりとれず、ニーヴァの経済は停滞気味だ、という話は聞いた。これが続けば、国民の不満も高まりはじめる。だから王ノ宮は、神ノ宮とはまた違った思惑で、守護人来訪を喜んだ。

 拝礼日を早めたのは、王ノ宮が威信を回復することと、貧しさで荒んできた人心を信仰に逸らすことが、一度に出来る好機だと考えたためだろう。それはおそらく間違ってはいない。間違ってはいない──けれど。

 人の心の荒廃は、本当に、貧しさだけが理由なんだろうか。

 まだ、他の理由も隠れているんじゃないだろうか。

 自分たちの世界に閉じこもって満足している神ノ宮は問題外として、王ノ宮はもっとちゃんと国の内情に通じているはずだ。そうであって当然だ。それでも、そこまでは見て取れていない。そういう深いところにあるもの。

 それが解決できなければ、結局また同じことがどこかで繰り返されるのではないだろうか。

 門の外で大声を上げていた人たちの顔を思い出す。

 貧しさは確かにつらいだろう。首都に来て、劣等感を煽られた、というのもあるだろう。ここまでずっと歩いて来て、疲労が溜まっていた、というのももちろんあるだろう。

 でも、あの姿は、それだけではないものがあるように感じた。

 この場所からは見えないもの。

 ──よほど、鬱屈した何か。

「…………」

 わたしは黙って、窓の外の景色を眺め続けた。



          ***



 しばらくして、コンコン、という控えめなノックの音がして、ミーシアさんがドアから顔を覗かせた。

「あの……守護さま」

 いつもなら、頭を下げてからすぐに部屋の中に入って来るのに、なぜかそこで立ち止まったまま、もじもじしている。ひょっとして、さっきのことをまだ恥ずかしがっているのかな? と思い、わたしはことさら何もなかったように無表情で「どうぞ」と応じた。

 すると、ミーシアさんは淑やかに入ってきたのだが、その後で、彼女とは別の人物も頭を下げながら入ってきた。

「……今日、何かしなきゃならないことがありましたか」

 とわたしが訊ねたのは、その人が、ミーシアさんと同じ侍女の恰好をした若い女性であったからだ。わたしの日常の世話をしてくれるのはミーシアさん一人だが、たまに改まった行事や予定などがあると、衣装を整えたり髪の手入れをするために、他の侍女の人が一人か二人応援に来る。

「いいえ、そういうわけではないのですが」

 飲み物を載せた盆を手に持ち、ミーシアさんが遠慮がちに答える。少し気遣うように、後ろにいる、まだ頭を下げたままの女性をちらっと見やった。

「ここにおりますのは、わたくしの同僚のサリナと申します。どうしても、守護さまにお礼を申し上げたいと言うものですから……よろしければ、お聞きいただけましたら」

「お礼?」

 問い返して、わたしはもう一度サリナという名のその女性を見た。ミーシアさん以外の侍女で、個人的に関わりを持った人はいないはずだけど。わたしはなるべく故意にそういうことを避けてきたし、あちらからも近づいてくるような人はいなかった。

 ミーシアさんよりも線の細いサリナさんは、ずっと頭を下げているので顔が判らなかった。この国の人はみんな赤茶色の髪の毛をしていて、頭しか見えないと、誰もが同じに思えてしまう。

「…………」

「…………」

 しばらく黙って待ったけれど、一向に彼女は頭を上げてくれない。部屋の中に落ちる居心地の悪い沈黙に当惑してミーシアさんを見ると、そちらもちょっと困ったように目配せをした。

 あ、そうか。

「……顔を上げてください」

 最近はいちいちそう言わなくてもよくなっていたのでつい忘れそうになっていたけれど、本来、神ノ宮の侍女や護衛官や警護の人たちは、わたしの前では許可があるまで顔を上げてはいけない、というバカバカしい決まりがあるのだった。

 そんなものに従う必要はなし、と大神官を通じて伝えてもらっているのだけど、それでもまだまだこうして縛られたままの人たちもいるらしい。

 わたしは頭を下げられるのも、ましてや平伏されたりするのも、好きじゃない。というより、はっきりと、嫌いだ。もっと徹底するように大神官に頼んでおこう。

「し、失礼ながら、わたくしごときのために、お、お時間をとっていただき……」

 やっと顔を上げたサリナさんは、顔を上げた途端、頬っぺたを真っ赤にして、つっかえながら言葉を出しはじめた。どうやらひどく緊張しているようだった。

 ミーシアさんが、落ち着いて、というように、空いた片手で優しく彼女の腕をぽんぽんと叩く。でもその拍子にもう片方の手で維持している盆が揺れて飲み物を零しそうになり、あらららと慌てた顔で両手で持ち直した。

「…………」

 わたしは手を口元に持っていき、目を逸らした。噴き出してしまいそうだ。

「あ、あのっ、どうしても一言、守護さまにお礼を申し上げたいと、ミーシアに無理を申したのはわたくしですので、どうぞ、お咎めのないように、お願いいたします!」

 わたしの態度を何か勘違いしたのか、サリナさんは必死の顔つきでそういうと、また深々と頭を下げた。

「まあ、守護さまは、とてもお優しい方だもの。お咎めなんてなさらないわ、サリナ」

 ミーシアさん、それよりも、手元に注意を向けたほうがいいと思いますよ。ほらまた零しそうになってる。

「……お礼というのは、どういうことでしょう」

 噴き出すのを懸命に堪えていたため、わたしの声は自然と低くなった。サリナさんが目に見えて身体を固くしたが、その誤解を解くつもりはないのでそのまま口を閉じる。怒りっぽい傲慢で偏屈な守護人と思われたら、それはそれでいい。

「そ、その、先日、廊下でわたくしが神官様に叱責を受けていたところを、お助けいただきまして……」

「…………」

 ああ、と思い出した。

 トウイと一緒に神ノ宮の中を歩いていた時に、神官に怒鳴られていた侍女の人だ。あの時もほとんど頭を下げていたので、まるで顔を覚えていなかった。

「お礼は不要です」

 わたしがそう言うと、サリナさんは「で、でも」とさらに言葉を続けようとした。

「たまたま、あの神官さんの長ったらしい裾が邪魔なところにあったので踏んづけてしまっただけです。わたしは歩く時、あまり下を見ないので」

「あの、でも」

「あなたを助けようと思ったわけじゃないんです。なので、お礼は不要です」

「…………」

 サリナさんは、困惑しきった表情で、わたしを見て、ミーシアさんを見た。ミーシアさんから、ね? というような微苦笑を向けられた彼女は、また思いきったようにわたしを向くと、顔が足にくっついてしまうのではないかというくらい、今まででいちばん深い角度で頭を下げた。

「あの、でも、わたくしは本当に、助かりました。守護さま、どうもありがとうございました!」

 それだけ言うと、サリナさんは慌てて部屋を出て行った。




 ことん、と小さな音を立てて、ミーシアさんがテーブルの上に飲み物の入ったグラスを置いた。あれだけ零しそうになったのに、中身は無事残っていたらしい。

「守護さま、どうぞ感謝の気持ちを受け取ってあげて下さいまし。そうでないと、サリナも気持ちの向けどころがございません」

「……感謝なんて」

 わたしはぼそりと呟いて、窓の外に顔を向ける。

 感謝なんて、される立場じゃない。

 わたしは本当に、彼女を助けようとしたわけじゃなかったのだから。


 あの時、サリナさんを殴ろうと手を振り上げた神官に、トウイが声を上げて制止するか、行動を起こしそうだった。

 だからわたしはそれを止めただけ。

 止めたのは神官ではなく、トウイのほうだった。

 いつも無謀な真似をして他人を助けようとしてしまうトウイが、そのために罰せられることになるかもしれない未来を変更しようとしただけだった。


「──わたしは、感謝なんて、されるような人間じゃない」

 声にならない声で呟いた。

 門の外で、地面に手をつき身を伏せていた人々の姿が、まだ瞼の裏に焼きついている。

 ありがとうございます、守護さま──と。

 やめて。

 頭を下げられるのは嫌い。平伏されるのも嫌い。お礼を言われるのも、感謝をされるのも、嫌い。

 そのたび、胸が痛むから。


 救ってもらえる、守ってもらえる、何かを恵んでもらえる、と願いを押しつけ頭を下げるのは彼らのほうさ。


 ずっと前に聞いた、神獣の声が頭を過ぎる。

 そう、頭を下げられるたび、平伏されるたび、守護さまと敬われるたび、わたしは毎回、そう言われているような気になる。

 救ってください。守ってください。

 胸が痛い。彼らを正視できない。それが出来ないことは、わたしがいちばん身に染みて判っている。わたしはあの人たちを救ったり守ったりできない。これまでだって、いつも見捨ててきた。

 トウイを失い、狭間に落とされ、トウイの生を望んで新しく扉を開けることで、その前の世界のすべてを、そこに住む人々を切り捨てた。

 ──わたしがしていることは、命に優先順位をつける、ということ。


 救おうとしている命はひとつだけ。

 守ろうとしている命も、ひとつだけ。



 本当は、わたしこそが、剣で斬られるべき人間だ。




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