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5.神への祈り



 やって来た拝礼日、神ノ宮は予想通り──というか、予想をはるかに上回って、大勢の人々で埋め尽くされた。

 守護人は、今日は一日中、私室内にいるとされている。念のため、ロウガさんが警護と一緒に部屋の前に立っているが、俺とハリスさんは朝から神ノ宮内を巡回したり、警備の持ち場をあてがわれたりと、いつもとは少々違う仕事を忙しなくこなしていた。

 なにしろ、部外者がどっと敷地内に立ち入るということになると、広大な神ノ宮の隅々まで警戒していなければならない。本来ならば警護の役目であることも、連中だけではとても手が廻りきらないので、俺たち護衛官も駆り出されることになるわけだ。

 訪れる人は、早いのだと、昨日からずっと門の外で待っていた、なんていうのもいるらしいが、国中から集まってくるので、そこまで悠長な時間を費やせないのもたくさんいる。門が開いて、もうすでに二限ほどが経つはずだが、まだまだ列に加わる人の数はあとを絶たなかった。拝礼をする人々は門から神ノ宮をぐるりと囲む塀に沿って並ぶため、塀の内側にいても、ざわざわとした外の落ち着かない雰囲気が伝わってくるほどだ。

 ずらりと続く長い列。けれど、そこに粛々と並んで、やっと門を通る順番が廻ってきても、すぐに目的が達せられるわけじゃない。

 まず、門のところで、一人ずつ、受付を済ませなければならない。記名と、簡単な身体検査だ。子供も老人も、例外は認められない。

 それを終えて敷地内に入ると、今度は拝殿へと進むために、またずらずらと並ぶ列に加わることになる。拝殿は、主殿に比べると格段に小さな造りの建物で、中に祀ってあるのは、幕で覆い隠された神獣の像だけだ。

 じりじりとした速度に我慢して、像の前に到着すると、ようやくそこで、手を合わせて祈りを捧げることが出来る。

 だが、心ゆくまで長い間じっと祈っていられるかというとそうでもなくて、そういう場合は、神獣の像の前に立っているいかつい警護の男に、流れの邪魔だと急き立てられて拝殿を追い出されてしまう。ひたすら長いこと待っていても、祈りの時間は瞬きほどに短い、ということだ。小さな建物なのに、人がひしめき合うので、普通に呼吸をするのも苦しいという状況になることもあった。

 そんな窮屈極まりない拝礼なのに、人々は、ありがたいありがたいと感謝して頭を下げるのである。どんな姿をしているかも見えない神獣の像にさえ、涙を流して喜ぶ人もいる。奥行きもなく、広さもなく、主殿の壮麗さとは比較にならないほど簡素な拝殿を、立派だねえ美しいねえと口々に褒めそやす。

 俺は実際に神獣を見たことはないし、本当のところ神がどういうものなのかもよく判っていないのだが、彼らの姿を見ると、やっぱりその存在は、この世界を生きる人々にとって、重要な支えになっているんだな、と改めて思う。



          ***



 人が多くてごった返しているため、迷子が出たり、立ちくらみを起こして倒れるのがいたりと、小さな問題はいくつかあったらしいが、それでもなんとかつつがなく、拝礼日は午後を迎えた。

「トウイ、昼メシ食って来いよ」

 主殿の周りを巡視していた俺は、ゆったりとした足取りで近づいてきたハリスさんに、声をかけられた。そういや腹が減ったな、と腹部を手で押さえる。

「じゃ、急いでかっこんできます。ハリスさんは?」

「俺はもう食った。他の護衛官も警護も、順番に休憩をとってる。まだ夕方まで続くからな、この間に息を抜いておけよ。俺は仕事の合間合間に抜いてるけど、お前はそういうのがヘタクソだろ」

 ちょっと噴き出してしまう。ハリスさんはいかにも息を抜くのが上手そうだ。

「でも今のところ、静かなもんですよね」

「まあ、そうだな。今のところは」

 俺の言葉に、ハリスさんは少し微妙な返事をした。含むような目を、ここからは見えない拝殿の方向に向ける。

 そして、ぼそりと言った。

「……まだ、人は増えてる一方らしい」

「そうなんですか?」

 驚いて、俺も同じほうへと顔を向けた。今でさえ、神ノ宮の塀の周りは、ぎっちりと並ぶ人で囲まれているというのに──これ以上増えても、時間内には門を通れないんじゃないか。

「去年の拝礼日とは比べ物にならないほどの数ですね。やっぱり、守護人の来訪があったってことで、今年は特別なんでしょうかね」

「もちろん、それはあるだろうさ。でも、どうも、そればかりでもないな」

「は?」

 問い返すと、ハリスさんは今度は俺に顔を向けて、声音を落とした。

「今からこんな長い行列に加わったって、どう考えても、閉門の前に中に入るなんて無理だろう。それでも、それが判っていても、並ばずにはいられない人間の心理ってのは、どんなもんだと思う?」

「は?」

 もう一度同じ言葉を出してしまう。何も判っていない俺の表情を見て、ハリスさんは呆れたような小さなため息を漏らした。

「休憩をとるついでに、拝殿の近くまで行って、そこに来ているやつをよく見てみな。ただの信仰の一部として来ているのもいりゃ、年に一度のお祭りだと浮かれてるやつもいるが、半分くらいは、恐ろしいまでに暗く思い詰めたような顔をしてることに、お前だってイヤでも気づくだろうさ」

 俺は目を瞬いた。

「思い詰めた顔……」

「そういうやつらは、揃いも揃って、遠方から来た連中だ。この神ノ宮の周辺の街に住む人間よりも、ずっと貧しい身なりをしてる。中には、真っ黒に汚れた服を着て、ほとんど満足に飲み食いもせず、何日もかけてようやくここに辿り着いた、っていうのもいるんだ。唯一の希望に縋りつくようにして神ノ宮を目指してきた、そんな人間が、これからもどんどん増え続けると考えたら、ちょっと怖いような気がしないか」

「…………」

 ハリスさんの真面目な瞳を見て、背中がひやりとする。

 俺も声の音量を下げ、慎重に言った。

「……それってひょっとして、国が、荒れはじめてるってことですか」

 そういえば、今年は天候が不順で、作物があまり育たないって話を聞いたけど。でも大きな天変地異などは起きていないし、そこまで酷いという情報は、耳にしなかった。

「荒れや困窮は、大体、国の端のほうから、ゆっくりと真ん中に向かって侵食してくるもんだ。王ノ宮と神ノ宮のあるここセラリスは、ニーヴァの首都。この地一帯には、それがまだ、まったく届いていない。だから、今すでに暮らしに喘いでいる端っこの住人たちとの間に、温度差が出来る。列に並んで暗い顔をしてる連中は、このあたりで祝事に騒いでいるやつらを、どんな気分で見ているんだろうな?」

 そこに生まれるのは、羨望か、嫉妬か。

 こんなにもたくさんの人が溢れかえっている中で、どうやったって他人のことも、目に入らずにはいられないだろう。神ノ宮に入れるということできちんとした衣服を身につけているこのあたりの人々を見て、遠くからやった来た貧しい人々は、自分の恰好を見下ろさずにいられるだろうか。

「……じゃ、余計になんらかの手を打ったほうがいいんじゃないでしょうか。拝礼の時間を延ばすとか」

 せめて神に祈ることで、わずかなりとも救いを得ようとしている人間──浮かれて騒ぐ首都の呑気な光景に、いろいろな感情を刺激されているかもしれない人間が、目の前で門を閉じられ拒絶されてしまったら。


 ──その時、一体、何が起こるのか。


 ハリスさんは、俺の言葉に、チッと舌打ちした。

「正論だが、あいにく、それを決める権限は、俺たちにはないんだよ。言ったところで、あの神官たちが聞く耳なんて持つもんか」

「…………」

 確かにそうだ、と押し黙るしかなかった。今も主殿にこもって普段と変わらない一日を過ごしている神官たちは、「拝礼日」なんてうるさくて厄介なものは、少しでも早く終わって欲しい、としか考えていないだろう。わざわざ足を動かして、拝殿のほうを覗きに行く神官がいるとも思えない。

 いや、見たとしても、そこから何かを感じとるかも疑問だ。神ノ宮の中で、外とは違う空気に染まって生きている神官たちの感覚は、一般民衆とはかけ離れている。人々の貧しい身なり、必死な顔つきを見たとしても、ただ眉を寄せるだけかもしれない。

「それを考えると、今回の拝礼日が早い時期に前倒しされたのも、判る気がするな」

 ハリスさんが顎に手を当て、考えるように言った。

「守護人が来たから、っていう理由だけでなく?」

「伝え聞いたところによると、時期を早めるようにって指示を出したのは、王ノ宮だったらしいからな。あっちではそりゃ、ここよりはもう少しマトモに、国の内情ってやつを把握してるんだろうさ。……つまり、貧困に窮した連中が他の街を襲ったりしないように、牽制する目的があったんじゃないか。とりあえず今は、神に祈って我慢しとけ、ってことだよ」

 ハリスさんの言い方は乱暴だが、その理屈は判らないでもない。苦しさや怒りや嘆きを向けるべき対象がはっきりしていれば、精神的に楽になる、ということはあるだろう。祈りを捧げることで、また明日からの活力が得られるかもしれない。信仰とは、そういう一面もあるはずだ。

 ……でも。

「でも、この場合はそれが逆効果にならなきゃいいけどな……」

 ハリスさんの呟きは、どこか暗澹たるものを滲ませていた。



          ***



 神ノ宮の門は、定刻ぴったりに閉じられた。

 最初は、入れなかった人たちが、控えめに談判するだけだったらしい。お願いです、ここに来るために、三日もかけて歩いてきたんです、すぐに済ませるからどうか拝殿に──と。

 しかし、門のところにいた警護の男たちは、聞く耳を持たなかった。それはそうだ、いくら個人的には相手に同情したり、気の毒に思っていたって、ここで門を開けるような真似をすれば、自分たちが命令違反で罰せられる。

 それで、門の中と外とで、懇願と無言のやり取りが繰り返されることになった。入れないと知って殺到するのは、みんな遠方から来た人々。間に合うようにと必死に頑張ったけれど、天候や連れの病気など、どうしようもない事情で、列の後ろに並ばざるを得なくなった人たちだ。

 近辺の住人は、時間が過ぎたとなったら、残念そうながら諦めて帰っていったが、はるばる遠くから来た人々は、そう簡単に諦められるようなものではなかったのだろう。数日かけてようやく到着し、しかし拝殿の近くにも寄れないとなったら、なんのためにいろんなものを犠牲にして家を出てきたか判らない。しかも、彼らはこれからまた、数日かけて帰らなければならないのだ。目的も果たせずに、どうやってその長い距離を移動しようという気になれるのか、と思うのも無理はなかった。

「入れろ、入れてくれ!」

「神ノ宮に慈悲はないのか!」

「私たちを見捨てる気なの?!」

 懇願と不満と嘆く声は、次第に、怒りと責めと罵声に変わっていく。それがだんだんと膨れあがっていくにつれて、声も大きくなり、悲鳴を上げたり怒鳴ったりする人間まで現われはじめた。

 応援要請を受けて、神ノ宮内に散っていた護衛官と警護が集まった時には、さらに状況は悪化していた。門の前には黒山の人だかり、ガシャンガシャンと耳障りな音を立てながら門を揺すっている人々が、口々に非難の叫びを上げている。

 その様子を見て、俺は愕然とした。


 ──ここまでとは。


 あたりには、凶暴な怒声と叫喚が満ちている。門の外にいる人々の暗い瞳は、みんな何かに取り憑かれたように、ぎらぎらと攻撃的な光を放っていた。

 どう見ても、集団になったことで、より興奮状態が高まっているとしか思えない。一人一人は大人しい性格なのかもしれないが、怒りと不信がその場に伝染して広がってしまったのか、今や全員が目を血走らせて喚いているのだ。

 それだけ、抑えられていたものが、大きく、根深かったのかもしれない。ずっと底のほうに押し込めていた感情が、祈りとは別の手段をとり、加速をつけて集中的に神ノ宮に向けられようとしているのを、目の当たりにしている気分だった。

「トウイ、いつでも剣を抜けるようにしておけ」

 駆け寄ってきたハリスさんに厳しい表情で言われて、俺はうろたえた。

 剣を、抜く?

「でも、相手は──」

 賊でもなければ、敵でもない。普通に市井に暮らす人々だ。今は頭に血が昇っているけど、きっといつもはただ優しいばかりの、働き者の人たちだ。本物の剣なんて、扱ったこともなければ、実際に持ったことすらないだろう。

 それに、あの中には子供もいるのに。

「馬鹿野郎、普段はどうでも、あの状態になった群集ってのはいちばん厄介なんだよ。見ろ、今にも門が壊されそうだ。あれが開いたら、素手でも襲い掛かってくるぞ」

 すでに自分の剣に手をかけたハリスさんに、鋭い声で叱責される。でも俺は、まだためらっていた。もしもあの門が壊されて、人々の群れがこの神ノ宮になだれ込んできた時、俺はここを護るために、あの人たちを傷つけたり手にかけることが出来るのか。

「トウイ!」

 あちら側から力ずくで押され揺すぶられ、門がぎしぎしと不吉な音を立てている。門前で、無言と無視を貫いて、彼らの懇願をやり過ごそうとしていた警護の男が、そのことに動揺して、咄嗟に剣を鞘から抜いてしまった──のは、明らかに失敗だった。

 それを見た門の外の人々が、一斉に、咆哮のような雄叫びを上げたのだ。その瞬間、彼らは神ノ宮と、そこにいる俺たちのことを、完全な敵だと認識したのだった。

「壊せ!」

「叩き潰せ!」

「神ノ宮でぬくぬくと過ごしてるやつらめ、俺たちの苦しみを少しは知るといい!」

 その目にあるのは、もう怒りを通り越して、憎悪に近くなっている。「トウイ!」と、ハリスさんが切羽詰まった口調で、俺を怒鳴りつけた。

 額に汗が滲む。でも、俺の手は、まだ逡巡を続けていた。

 神ノ宮を護るのが自分の仕事、場合によっては戦ったり、他人を手にかけることもある。それは承知していたし、そのために厳しい訓練だって受けていたはず。

 けど──

 迷っている間に、あちらからの圧力に耐えかねて、とうとう門に取り付けられていた頑丈な錠が、ガキッという音を立てて歪んだ。

「開くぞ!」

 大きな声が響く。門の外の人々の目が爛々とした光に支配されている。これはもう、暴動だ。止めようがない。俺を除く、その場の警護と護衛官が、次々に剣を鞘から抜いて──


「待ってください」


 門が強引に開けられて、外の人々が神ノ宮の敷地内に一気に押し寄せてこようとした、まさにその時、背後から声がかかった。

 その声は、野太くもなければ威圧的でもなかった。神官たちの神経質なものとも異なる。命令ではなく、依頼だとはっきり判るくらいの穏やかなものだったのに、喧騒が充満したこの場でさえも、よく通った。

「え──」

 後ろを振り向いた俺は、ぽかんとした。

 いつもと同じすたすたとした足取りでこちらに向かってくるのは、守護人の少女。

 しかしいつもと違って、彼女は、男の子のような格好はしていなかった。

 王ノ宮で行われた式典の時に見た、足の先まですっぽり隠れる、裾の長い衣装を着ていた。白銀の、艶々と美しく輝く布地で作られたそれは、よほど改まった公式の行事でなければ身につけないような、れっきとした正装だ。

 彼女の後ろには、固い顔つきをしたロウガさんと、緊張で泣きそうな表情のミーシアが付き従っている。ミーシアは、両手で捧げ持つように、神獣の剣を携えていた。

 守護人は少しばかり息を弾ませて、そのまま一直線に門の近くへと進んでいく。寸分も迷いのないその態度に、周囲の警護と護衛官たちは、誰も制止の言葉をかけることが出来ない。

 俺はすぐに地を蹴って、ロウガさんと並ぶようにして守護人の後ろについた。ハリスさんもだ。

 少女は振り返ることはしなかったが、前を見ながら口を開いた。

「すみません、遅くなりました。あの話の通じないクソジジイの説得に、ちょっと手間がかかって」

「…………」

 クソジジイ……


 ──それって、もしかして、大神官のこと?


 困惑し、傍らのロウガさんたちをちらっと見る。ロウガさんとミーシアは二人して別の方向に視線を逸らし、聞こえないフリをしているので、俺もそうすることにした。ハリスさんは難しい顔を保とうとしたらしいが、失敗して、口許を奇妙な形に歪めている。

 守護人は、門の手前でぴたりと立ち止まって、抜き身の剣を構えていた警護の男に顔を向けた。

「開けてください」

 そう言われ、男がどうしたらいいのか判らずに、オロオロと視線を彷徨わせる。

「しかし、許可がなければ……」

「大神官さんの許可はとりました。拝礼日は、ここにいる人たちすべてが拝殿に入れるまで、時間が延長されることが正式に決定しました。日が沈んでも、です。今のうちに、明かりの用意をしておいてもらえますか。その剣はしまって」

「え、いや、しかし」

 警護の男はやっぱり混乱していたが、守護人はもうそちらには構わなかった。今度は、まっすぐに門へと顔を向ける。

「──みなさん、こちらの手際が悪く、申し訳ありませんでした」

 そう言って、頭を下げるのを見て、俺たちは息を呑んだ。

 ……王にさえ礼を取らなくてもいいと言われている守護人が、平民たちに向かって、謝罪をするなんて。

 門の外の人々は、はじめて見る少女の姿に気を削がれ、叫ぶことも怒ることもすっかり忘れてしまったようだった。口と目を丸くして、あっけにとられたように、まじまじと視線を据えている。

 この国の人間とはまったく違う、流れるような黒髪、黒い瞳。そして、特に身分の高い人間しか身につけることの出来ない、白銀色の衣装。

 ややあって、一人の女が、おどおどと口を開いて問いかけた。

「あの……あの、あなた様は、もしかして」

「守護人です」

 きっぱりと返ってきた答えに、大きなどよめきが上がる。

 守護人が、守護さまが、と狼狽したように口々にその名を出して、それからはっとした顔で、誰からともなくその場に膝をつき、叩頭した。

 そこにはもう、さっきまでの一触即発の空気はない。目の前に出てきた守護人という衝撃に、どこかへ吹っ飛んでいってしまったらしい。冷めやらぬ熱気と興奮は今もあるが、それはすっかり、別の形のものに変貌している。

「遠いところから来てくださって、ありがとうございます。神ノ宮はどうしても、規律を重んじる風潮があるので、融通の利かない対応を取ってしまいました。ここにいる警護と護衛官の人たちは、自分の職務と命令に忠実であろうとしただけなんです。どうか、許してください」

 守護人の言葉に、平伏している人々が身体を強張らせるのがよく判った。ここにいるのは、祈りを捧げるために、遠い場所からわざわざ拝礼日にやって来るような──つまり、信仰心の篤い人々なのだ。神獣と同様に敬うべき守護人に、「許してください」などと言われて、平常心でいられるはずがない。

「今、門を開けます。もう途中で閉じられることはありませんから、ゆっくりと、順番に、拝殿へと進んでください。夜になったら、王ノ宮からの厚意で、炊き出しがされるはずです。いっぱい食べて、温まって、明るくなったら、気をつけてまたおうちに戻ってください」

 ざわ、という当惑が広がる。

 無理もない。俺だって耳を疑った。拝礼日に炊き出しだって? そんな話、今まで一度も聞いたことがない。ましてや王ノ宮の厚意って──王ノ宮にそんな「情」があるなんて、初耳だ。


 誰かの意志が働いているとしか、思えない。


「あ、ありがとうございます、守護さま……!」

 門の外にいる人々は、感激したように声を震わせ、さらに深く地面に頭を擦りつけるようにして礼を述べた。

「…………」

 守護人は口を噤んでその様子を見ていたが、「お礼はカイラック王に」とだけ静かに告げると、するりと踵を返した。

 ギギギと軋むような音を立てて、門が再び開けられる。平伏した人たちは、それでもそこから動かなかった。守護人が視界から消えるまでは、ずっとそうやって頭を下げ続けているつもりなのだろう。

 方向転換した守護人は、突っ立っている警護と護衛官の男たちにも、声をかけた。

「しばらくしたら、王ノ宮から応援が派遣されてくる予定になっています。それまで、もう少しだけ残業をお願いします」

 残業? と男たちは首を傾げたが、その顔にはぱっと安堵が広がった。王ノ宮から応援が来るなんていう話も滅多にないことだが、人手が増えるのならこんなにありがたいことはない、と思ったのだろう。

 なにしろ、まだまだ拝礼日は続きそうなのだから。

 守護人が、また主殿のほうへと戻っていく。警護と護衛官は、膝をつくことはしなかったが、恭しく頭を下げて、去っていく彼女を見送った。

 ロウガさんに、「一緒に来い」という意味の目配せをされた俺とハリスさんは、守護人の後ろについて歩いた。

 ちらりと肩越しに振り返ると、人々はまだ従順に叩頭したままだった。


 ──これで、暴動は回避され、破裂の一歩手前だった人々は落ち着き、王ノ宮は一気に株を上げた、わけだ。


 いいこと尽くしだ。素直に喜ぶべきなんだろうけど。

 ……なんだか、妙に手回しが良すぎないか、という気がする。大体、いつ王ノ宮と連絡を取ったんだ? 使いを送るにしたって、神ノ宮から王ノ宮までは、馬車で半限ほどかかる。事が起こるよりも前に、打ち合わせでもしていたみたいじゃないか。

 まるで、こうなることを予見していたように。

 ハリスさんを見ると、また難しい顔をして、前を歩く小さな背中をじっと見つめている。なんとなく釈然としないまま、俺も同じように視線を前方に戻した。

 が、その時になってはじめて、あることに気づいた。

 いつもと違い、きちんとした正装をしている守護人。一見、このまま王ノ宮で王に謁見しても差し支えないような、そんな格好だ。

 でも。

 よくよく見たら、履いているのは、いつもと同じ、紐と布で出来た異世界の靴だった。

 慌てていたのか。踵の高い履物では動きにくいと思ったのか。それとも、どうせ足許は隠されて見えないからいいやと思ったのか。

 歩くために少し持ち上げた裾から覗く、そのゴツッとしたおかしな形状の靴は、どう見ても、洗練された美麗な衣装とは合っていなくて、ちぐはぐだった。

「変だ……」

「変じゃないし」

 思わず小さく呟くと、前方から、少女のぼそっとした声が聞こえた──ような気がした。

 ん?

 目線を上げたが、彼女はこちらを振り向きもしない。すたすたと歩くその足取りにも、まったく乱れはない。

 俺は首を捻った。


 ……やっぱり、この守護人は、変わっている。



      (第三章・終)





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