2.不信
詰所の外でいつものように体をほぐしていたら、「ロウガさんが呼んでるぞ」と護衛官仲間に言われて、俺の心臓が跳ねあがった。
……え、俺、何かした?
と咄嗟に考えてしまったのは、ロウガさんが俺を呼びだす時なんてのは、おおむね、叱責を喰らう時と相場が決まっているからだ。
俺は護衛官になってまだ経験も浅いし、仲間内でも年少のほうに入る。だからあれこれ至らないところがあったり、無駄な動きが多いこともある。それは自覚しているが、とはいえやっぱり、お小言をもらうのはあんまり喜ばしいことじゃない。ましてやロウガさんの場合、口数は少ないのにその威圧感や迫力はハンパじゃなくて、上官に怒られるよりもずっとおっかない思いをするのだから、なおさらである。
まだ半人前の域を出ていない俺が、守護人の護衛、という重要な任務を任せられることになったのは、ロウガさんの推薦があったからと聞くし、多少は俺のことを買ってくれているのかもしれない。それを考えれば、何かと厳しく指導されたり注意をされたりするのは、むしろ俺の成長を促すためだと思って、感謝しなくちゃいけないくらいだ。
そうは思っても、やっぱりこれから訪れる、胃がキリキリと痛むような時間を想像すると気が塞いできて、はあーと深いため息を落としながら、俺は早足でロウガさんの許へと急いだ。
「来たか」
ロウガさんの部屋に赴くと、彼は椅子に腰かけて俺を待っていた。
この詰所では、俺を含め、ほとんどの護衛官は、三人や四人が詰め込まれる大部屋で寝起きする。狭い一室に、寝台だけが人数分ぎゅっと押し込まれ、睡眠をとるのが普通だ。
どこを向いても男の顔があるというのはむさ苦しいし、物理的に息苦しくもあるので、大体の場合、本当に寝る時にしか、その部屋を使用することはない。そんなに多くはない自由時間は、食堂で過ごしたり、許可を得て街中に出たりして息を抜くことに費やされる。
が、同じ護衛官でも、上官から絶大な信頼を得ていて、実質的に他の連中の指導に当たっていたりもするロウガさんのような人は、別格として、詰所内に個人の部屋を与えられることもある。置かれた寝台はひとつ。狭いながらも、一応机と椅子もある。
ロウガさんの真面目な性格と腕の良さは全員が認めていることなので、その待遇に対して、羨望はあれど嫉妬はない。でもたぶん、ロウガさんの部屋が、別名「説教部屋」と呼ばれて俺たちに怖れられているのは、本人も知らないことだろう。
「呼ばれたと聞きました」
椅子に座ってこちらを向くロウガさんに対して、後ろに手を組んだ直立不動の姿勢で向き合う。実際の立場としてはロウガさんは俺の先輩だが、気分的にはこの人が俺の直接の「上官」だ。
「そう固くならなくてもいい、トウイ。今日はお前に説教をするために来てもらったわけじゃない」
「あ、そうなんですか」
少しほっとして、力を抜く。だよな、最近の俺、そんなに目立ったヘマはしてないはずだし。
「まあ、先日お前が、食堂でハリスその他の連中の飲酒を見逃していたことについては、あとでゆっくり話をすることとして」
さりげなく続けられた言葉に、うげっ、と飛び上がりそうになった。
油断させてそれか! どうしてバレてるんだ?! ていうか、その件は俺まで怒られなきゃならないのか?!
背中に冷水を浴びせかけられたような気分になって固まったが、ロウガさんにとっての本題はそこではないのか、改めて俺の視線を捉えて口を開いた。
「明後日、教練場で剣闘訓練があるだろう」
「は?」
いきなりの話題転換に、面食らう。
「え、と……はあ、ありますね」
教練場は、俺たち護衛官や警護の男たちが、戦闘のための訓練を行う場所だ。神ノ宮を護る上で最低限身につけなければならない体術や剣技を、ここでみっちりと仕込まれる。もちろん戦闘といっても、それは「護るための戦い」なので、王ノ宮が擁する兵士たちのそれとは方向性もやり方も異なる。それでも基礎はしっかりと教わるし、それなりにハードでもある。
「剣闘訓練」というのは、そういった訓練のうちのひとつで、そこそこ技量の見合った人間同士が、剣を持って一対一で戦うもののことを言う。
本物の剣で戦ったら最悪の場合死人が出てしまうので、刃を落としたものを使うわけだが、それでも一応勝負であるから士気も揚がるし、剣の腕を互いに競わせることによって上達も早くなる。俺たちのような年数の浅い人間には、実戦を経験してはじめて判ることもあれば、臨機応変さも身につけられるという、重要な意味合いもある。
なにより、普段、人や建物の護りについてばかりの護衛官や警護にとっては、自分の力試しが出来る機会など、そうはない。
他に行事のない時にしか出来ないし、大神官の許可も必要とするのでそんなに頻繁には行われないが、俺たちにとってその訓練は、なかなか心の踊るものなのだった。
「それで、それが何か?」
俺が訊ねると、ロウガさんはわずかに口を曲げた。
「……守護人が、見学の意向を示している」
「はあ?」
今度は思わず、間の抜けた声が出てしまった。
一瞬、あの無表情な少女の顔が脳裏を過ぎる。神ノ宮の建物内、それから外をやたらとウロついて、それがようやく落ち着いたと思ったら、今度は訓練の見学だって?
まったく意味が判らない。守護人がそんなものを見て、どうしようっていうんだ。
「剣闘訓練をですか」
「そうだ」
「見学したいって?」
「そうだ」
「なんのために?」
「わからん」
ロウガさんの返答は、率直かつ明快だった。ロウガさんはロウガさんで、あの少女の意味不明の言動には戸惑っているのかもしれないが、厳めしい顔つきは最初からちっとも変わることはない。
「それで、受けたんですか」
「断れると思うか?」
「無理ですね」
あっさり納得する。
どんな事情があろうが、ただの気まぐれであろうが、それが守護人の望みであれば、こちらに断る選択肢などは存在しないのだ。どういうルートを通ってロウガさんのところにその話が行ったのかは定かじゃないが、なぜですか、と問い返すことすら出来なかっただろう。
「どういうつもりなんでしょうかね」
ちょっとした腹立ちと、呆れの入り混じる感情が、つい言葉になって口から滑り落ちた。剣闘訓練は、言っちゃなんだが、男同士の戦いだ。何も判らないであろう異世界の女の子に、物見気分で観戦されるのは、こちらの緊張と高揚に水を差されたような気分になって、正直あまり愉快なものじゃない。
「さあな……」
いつもなら、守護人の意志や意向に、俺たちが口を挟む権限などない、とぴしりと叱りつけるロウガさんは、この時は口数少なくぽつりと答えただけだった。
ロウガさんも俺と同じように、面白くない、と多少なり思っているのかと窺ったが、そういうわけではなく、他のことを考えて、そちらに意識が向かっているようだった。
「……お前は」
何もない中空に飛ばしていた視線を俺に戻して、問いかける。いつもよりも声が低いのは、万が一にも部屋の外に洩れないように、意図的に抑えられているためらしい。
「どう思う?」
何を、という言葉は出なかったが、すぐに察した。
──守護人を、どう思う? と聞かれているのだ。
俺はかなり驚いた。
常に職務に忠実で、岩のようにガチガチに堅苦しいロウガさんの口から、そんな質問が出るなんて。普段なら、俺たちのような立場の者が、守護人についてどう思うのかと考えるだけでも許されない、とか言いそうなものなのに。
この間のハリスさんと一緒だ。
そういえば、いつも仕事は仕事と割り切って、その対象や中身にはほとんど関心を寄せないハリスさんが、あんなことを言いだすのも滅多にないことだ。
「どう、といっても……変わってる、としか」
同じ問いをされても、俺はハリスさんに答えたのと同じものしか返せない。曖昧にそう言うと、ロウガさんは頷くような、首を傾げるような、微妙な動きをした。
「ミーシアは、とても優しい、と全力で主張するんだが」
そういえば、ロウガさんの妹のミーシアは、先日から、守護人付きの侍女になったんだっけ。守護人が選んだ唯一の侍女、ということで、張り切っていた顔を思い出す。
しかし、「優しい」?
あの守護人が?
「……まあ、ミーシアは性格が少し単純だ、ということもあるかもしれない」
「そうですね」
「何か言ったか」
「いえ決して」
じろりと睨まれて、慌ててすっとぼける。こんな強面のくせに、ロウガさんはかなり妹に愛着が強く、かつ、甘いのである。当然、妹への非難や批判、もちろん下心などを向ける人間には、恐ろしいまでに容赦がない。
「だが、俺から見るものと、ミーシアから見るもの、その人間像がこうまで食い違っているというのも、正直なところ解せない。ミーシアの言うことを聞いていると、まるで別人のことについて話しているようだ」
「はあ……」
あやふやに返事をして、首を傾げた。
まあ確かに、あの少女が優しいと言われたところで、当惑するしかないのは俺だって同様だ。ミーシアは何に対してもわりと過剰に愛情を抱いてしまうようなところもあるから、実像に、少々肥大した幻想を乗せている──のかもしれないが。
でも実を言えば、ロウガさんやハリスさんの瞳に現れる、少女に対する明確な「警戒心」も、俺にはあまりピンとこないのだ。
……もしかして、俺が見る彼女も、他の人間が見るそれと、違っているのかな。
「──いや、つまらないことを聞いた。忘れてくれ」
束の間、自分の思考に気を取られてぼうっとした俺をどう解釈したのか、話を強引に断ち切るようにロウガさんが言った。
「とにかく、明後日は守護人が教練場まで来る、ということを心に刻んでおくように。その場における守護人の護衛は俺がする。お前とハリスは、通常通り、剣闘訓練に参加してもらいたい」
「はい、わかりました。だったら、出来るだけ見やすい位置に、席を設けたほうがいいんでしょうね」
本来、教練場に、身分が上の人間が訪れるなどということはない。ましてや訓練の見学なんてことは想定もされていないため、改まった席、というものははじめから存在しない。かといって、まさか守護人を、他の護衛官や警護の男連中と並んで地べたに座らせられるはずもないし。
ロウガさんは、俺の言葉に頷いた。
「そうだな、頼む。守護人は『物陰からこっそり覗くからお構いなく』と言っているそうだが、そういうわけにはいかんだろう」
「……そりゃそうですね」
あの守護人は、やっぱりどっか、変なんだよなあ。
「いつものようにあれこれ質問されるかもしれないからな。他の護衛官にも、聞かれたことは直接答えてもいいという指示を徹底しておくべきだろうな」
「は?」
俺がぽかんとしたのを、ロウガさんは怪訝な顔で見返した。
今、なんて?
いつものように?
あれこれ質問?
「……聞かれるだろう?」
顔だけでなく、ロウガさんの声にも、訝しげなものが混じる。俺は少し狼狽した。
「何をですか」
「神ノ宮のことや、ニーヴァのことや、他の国のことについて……あの記憶力は大したものだなといつも感心するんだが。質問の内容が細かすぎて、こちらも勉強しないと追いつけないことがある、とハリスでさえ愚痴っていたくらいだからな。守護人というのは、そこまであらゆることに詳しくないといけないものなのだろうか」
「…………」
ロウガさんは独り言のように言葉を続けていたが、俺は無言でその場に突っ立ったままだった。
内心、かなり穏やかじゃない。
え、何それ。
俺、そんなの聞かれたこと、ただの一度もないんだけど。
***
守護人の護衛を終え、食堂で寛いでいるハリスさんにこっそり確認してみたら、ロウガさんと同じように、怪訝な顔をされた。
「は? 聞かれるだろ?」
当たり前のように反問されて鼻白む。俺も聞かれるがもちろんお前だって聞かれるだろ? というその言い方には、ほとんど疑問さえ含まれていなかった。
「……どんなことを聞いてくるんです?」
「この国のこととか、他の国のことだとか、まあ、いろいろだよ。今日はさんざん妖獣のことについて問い詰められて、参ったぜ。そんなもん、こっちだって見たこともないんだから、そうそう答えようがないんだっつーの」
疲れたようなため息と共に出された言葉に、目を見開く。
妖獣だって? 守護人がなんだってそんなことを知りたがるんだ。しかも、ハリスさんがこんなにうんざりしたような顔をしてるってことは、相当突っ込んだことまで訊ねてきたということじゃないだろうか。
「……俺、そんな質問されたこと、一度もないんですけど」
ぼそぼそと低い声で言うと、ハリスさんは少し驚いたように俺を見た。
「妖獣のことを?」
「それに限らず、質問自体されたことがないです。ていうか、話しかけられたこともないし」
「ウソだろ?」
いつもヘラヘラしてばかりのハリスさんに本気で驚かれ、なんとなくグサッと胸に突き刺さるものがある。いや別に、決して傷ついてるわけじゃないんだけどさ……
俺が黙ってしまうと、ハリスさんは驚き顔を引っ込めて、今度はちょっとニヤニヤした笑いを口許に張り付けた。
「あー、そりゃあれだ」
からかうような言い方になる。
「つまりお前が、見るからに頼りなさそうで、こりゃ何を聞いてもマトモに答えられそうにないなと踏んで、相手にもされてない、と」
「…………」
自分では認めたくないことを、ハリスさんにずけっと言ってのけられて、思わず身体が前のめりになった。うわ、すごいダメージ。
だよな。だって可能性としては、それしかないよな。ええー、俺ってそんな風に見られてたのか。そりゃロウガさんやハリスさんに比べたら、子供っぽい外見をしてるのかもしれないけど、もう十八だぞ。これでも護衛官になって二年経つってのに。
時々、何かを言いかけて口を噤んでいた少女。あれってもしかして、質問をしようとしたけど、やっぱりコイツには無理だと諦めたってことなのか。身分の上下が問題なんじゃなくて、どう見ても自分よりも年下の女の子に、子供扱いされてたってこと?
どうしよ、ちょっと落ち込んできた。
「しかし、そうか……トウイには何も……」
小さく呟く声に顔を上げると、顔から今までの軽い笑いも消したハリスさんが、考えるように視線を空に投げて顎に手を当てていた。
どこか鋭い眼つきは、昼間見たロウガさんとよく似ている。少なくとも、落ち込む俺のことは、その眼中には入っていないらしかった。
「トウイ」
ちらっと視線を寄越されて、名前を呼ばれた。その声音に混じる何かに少し緊張して、背筋を伸ばす。
「はい」
「……だったら、もしもこれから何かを聞かれても、迂闊なことは喋るなよ」
「は?」
言われたことが判らなくて問い返すと、ハリスさんはちょっとだけ苦いものを呑み込むような顔をした。
「ロウガさんは心配ないんだ。あの人は何があっても、うっかり口を滑らせる、なんてことはしないからな。不安要素があるとしたら、お前のその甘っちょろいところと、情に流されやすいところだ。だから狙うんだったら、真っ先にお前にいくだろうと思ってたんだが……その素振りもないとはね」
まったくよくわからねえな、と言って、荒っぽく赤茶の髪の毛に手を突っ込んでかき回す。
俺はその言葉を耳にして、唖然とした。
狙う?
「──ハリスさんは」
一拍ためらってから、抑えた声で問いかける。
「……疑ってるんですか」
ロウガさんと同じく、何を、という言葉は出せない。
神獣の守護人は、このニーヴァの国の重要人物。王に対してさえ礼をとらずとも許される、特別な存在だ。軽口を叩いただけでも、不敬罪で罰せられる。
本人がそれを嫌がるというからしないけれど、本来なら俺たちは、常に頭を伏せて、口をきくことは無論、顔を仰ぎ見ることさえ遠慮しなければならなかった。そういう相手。
その守護人を、疑っているっていうのか。
何をしでかすか判らないから警戒する、なんていうレベルではなく。
──積極的に、「こちらに対して害を及ぼす存在」であるかもしれないと。
ハリスさんは、俺の問いに、あっさりと首を横に振った。
「疑ってるわけじゃない。ロウガさんは、そうだな、警戒はしてるな。だから慎重に見定めようとしてるんだろ。けど、俺は違う」
そう言って、にやっと口角を上げる。
「俺は、信用してないんだ。これっぽっちもな」
「でも……」
守護人ですよ、という言葉は呑み込んだものの、不得要領な表情になってしまうのは止められなかった。
そうだ、彼女は間違いなく、守護人だ。他でもない神獣が、そう認めているのだから。そこを疑う要素はないはず。
なにより、常人には決して開けられない「絵の扉」を開けて、そこから出てくるところを、俺たちはその目で見ていたじゃないか。
ハリスさんは、俺の顔を見て、チッと小さく舌打ちした。
素早く周囲を見回してから、俺の胸倉を掴んで、ぐっと自分のほうへと引き寄せる。それでなくとも、他の男たちがいる食堂内はザワついているというのに、耳の近くに落とされた声は、たとえ他人が全精力をかけて耳を澄ましていたとしても聞き取れないというほど、極限まで抑えられた音量だった。
「──異世界人だ、守護人だ、って理由で、なにもかもを鵜呑みにするなよ、トウイ。それじゃ、神ノ宮の低能な神官どもと同じだ。あの娘はどこかおかしい。目的はさっぱり判らないが、それでも何かをしようとしてるのは間違いない。お前も、うまいこと利用されて、余計なことに巻き込まれたくねえんなら、付け入られる隙を与えないことだ。絶対にアレのことを信用するなよ、わかったな?」
ハリスさんは、強い口調でそう囁くと、突き飛ばすように手を離した。
そのまま何事もなかったかのように、踵を返してスタスタと歩き去る。
「…………」
小さくなっていくその後ろ姿を見送って、俺はひたすら混乱するしかなかった。
ロウガさん、ハリスさん、ミーシア。
守護人に対する見方がそれぞれ違っていて、一体、そのうちのどの意見に与せばいいのか、途方に暮れる。
俺にとって、守護人は守護人。それ以上でも、以下でもない。信用するもしないもない、んだけど。
……利用、ねえ。
侍女を罵倒する神官の衣服の裾を踏んづけて転ばせた少女の姿を思い出し、俺はうーんと唸った。