表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
100/102

5.100日目



 アオの黄金の瞳は、たった今自分がその身を貫いた人間を、じっと見つめていた。

 そこには怒りも憐憫も存在しない。縦長の黒目の部分がすうっと細まり、前脚を動かして爪を引き抜く。湿った音と共に、リンシンさんの背中から勢いよく血煙が上がった。

 リンシンさんの灰色の目はまだこちらを向いている。そこからは、さっきまでの殺気と冷酷さは消えていた。

 どこか夢でも見ているような表情のまま、彼の身体がゆっくりとくずおれるように沈む。赤く染まって濡れた下草がそれを受け止め、かすかに、ぴちゃんという音を立てた。

 わたしはしばらく、その場から動けなかった。剣を構えかけた腕が空中の中途半端な位置で停止して、そこで固まっている。見開いた目で、リンシンさんが足許に倒れるまでの一部始終を見ていたけれど、それをすぐに認識するのは、ひどく困難な気がした。

 わたしの前では、庇うように立ったトウイが同じように硬直している。彼もまた茫然と、血溜まりの中のリンシンさんに視線を釘付けにしていた。荒い息遣いだけが、はっきりと耳に届く。

 ぎこちなく腕を下ろし、足を動かした。数歩進んだところで、力が抜けて膝をつく。リンシンさんの身体から今もなお止まることなく流れ出る赤い血が、わたしの服に浸み込んでいったけれど、そんなことも意識にのぼらなかった。

「──リンシンさん」

 周囲はしんと静まり返っている。争っていた人々はみんな動きを止め、息をするのも忘れてしまったように、こちらに目を向けていた。

 リンシンさんは、わずかに顔を傾けて、わたしを見た。

「……やあ、僕としたことが、不覚を取りました」


 こんな時でも、この人は微笑んでいる。


 手足を動かす力も残されていないだろう。顔も身体も自身の血にまみれ、顔色は髪や目と同じ灰色に変わりつつある。本当なら喋ることだって難しいのだろうに、そんな時でさえリンシンさんは、苦しそうに表情を歪めることもしなかった。

 もう、この人を助けることは出来ない。わたしには、消えていくこの命を引き留める力はない。いつもいつも、そんなことだけ、はっきりと判ってしまう。

「君、いつの間に、妖獣まで味方につけたんですか。……本当に、君って人は、僕の想定外のことばかり、するんですね」

 喉から漏れるひゅーというか細い息の合間を縫うようにして、リンシンさんの口から少しずつ言葉が出てくる。責めるというよりは、まいったなあ、というような軽い調子だった。

 あまりにも小さく、今にもかき消えてしまいそうなその声に、わたしは全力で耳を澄ました。一言も聞き漏らすことのないように。

 リンシンさんの唇が、少しだけ苦笑するような形を作る。

「これが、器の違い、というやつですかね……君は運命を変え、国を変え、世界を変える。結局、僕は、運命に抗いきることができなかった……」

 咳と一緒に、ごぼりと大量の血を吐いた。リンシンさんの瞳からは、徐々に、生命という名の光が抜けていくようだった。

 わたしは自分の手を動かし、震える指で彼の土気色の頬に触れた。

 リンシンさんが、不思議そうに言った。


「……なぜ、泣くんです?」


 わたしは首を横に振った。どうして泣いているのかなんて、自分でも判らない。この人に対して、どう思っていいのかも、ずっとよく判らないままだった。

 自分と母親が負わなくてはならなかった、あまりにも惨い運命に、最後まで戦いを挑み続けていた人。人を人とも思わない残酷なやり方で、殺し、破壊し、たくさんのものを踏みにじることも厭わなかった。是か非か、善か悪か、と問われれば、彼は迷いもせずに笑って一方の答えを指し示すだろう。わたしだって、それが正しいとは、決して思わない。

 でも、それでも。

 わたしは、この人との別れが悲しい。喪失がつらく、苦しい。自分の目から零れ落ちる涙が止まらない。リンシンさんはもう一人のわたし。この世界でたった一人の、わたしの同胞であったのに。

 塞がる喉から、声を絞り出した。


「──リンシンさんの、望みは、なんですか」


 その問いに、リンシンさんの唇が笑いの形をとるのをやめた。細い目がかすかに開かれて、こちらに向けられる。

「復讐は、リンシンさんの『生きる目的』だった。じゃあ、あなたの本当の、いちばんの望みは、なんですか」

「望み……」

 リンシンさんは、その言葉を口の中で繰り返して、目線を天に向けた。まるで、青く澄んだ空の中に、答えを見つけようとしているみたいに。

 その顔は、「幸せ」という言葉を噛みしめていた時のニコと、よく似ていた。今まで考えもしなかったことを、はじめて考える、という顔。言葉の意味を掴みかねて、少し途方に暮れているようでもあった。

「では」

 再びその目がこちらを向いた時、その口許にはまた微笑が戻っていた。けれどそれは、今までのどの微笑とも違っているように、わたしには見えた。

 他にどうしていいか判らないから浮かべる笑いではなく、苦笑でもない。

「……では、せめて君だけでも、僕の母のことを、覚えていてくれませんか」


 優しい目と、優しい口調で。

 彼が口にした唯一の望みは、やっぱりお母さんのことだった。


「生まれ育った世界から引き離されて、もう戻ることも出来ず、たった独り、この異邦の地に眠っている母のことを……。神獣に見捨てられ、神ノ宮から追い出されて、誰から庇護されることもなく、受け入れられることもなかった。精神を病んでも守ろうとしていた人でさえ、この世界では彼女のことを知らない。前代の守護人は記録にも残されず、『はじめからなかったもの』にされてしまった。……けれど、母は確かにこの場所で生きて、存在していたんです。それを知っている僕がいなくなってしまったら、その時こそ、あの人は消えてしまうでしょう。ですから……」

 そこで言葉を途切れさせ、リンシンさんはまた咳き込んだ。全身の痙攣が止まらない。呼吸音が聞こえないほどに弱くなっていた。

 わたしは彼のその手をしっかりと握った。灰色の目を覗き込み、「はい」と強い声で返事をした。

「覚えています。忘れたりしません。お母さんのことも、リンシンさんのことも。──必ず」

 リンシンさんの目が細められた。

 それから彼は、わたしが握っているほうとは別の手を動かし、持ち上げた。どこにそんな力が残っているのか──ぶるぶると震える指先で、空中をなぞる仕草をする。

 何かを書いている。

 文字?

 わたしはじっと目を凝らして、頼りなく描かれる線を、辿るように追った。

 その文字は、わたしにとって、とても見覚えのある形をしていた。

「……僕の名前ね、母が、つけたんです」

 リンシンさんが少し笑ってそう言った。

「君たちの、世界では、ひとつひとつの文字に、意味がある、そうですね。けどね、僕、自分の名にどんな意味があるのか、聞き損ねてしまって。母はもう、この世に、いないし、君、わかりますか」

 わたしは頷いた。何度も、頷いた。涙の粒が、ぽろぽろといくつも落下した。


「う……美しい玉が鳴らす、澄み切った音のことです。それから、心」

 とても柔らかい調べの、綺麗な名前だ。


 リンシンさんは口を閉じて、わたしの顔をじっと見返してから、ふっと微苦笑らしきものを浮かべた。

「ああ……じゃあ僕は、ものの見事に、その名に背いた人間になってしまいましたねえ……」

 独り言のように呟く。

「ようやく、スッキリしました。この世界には、誰も、わかる人がいなくてね──」

 こちらの世界と、あちらの世界の血を受け継ぐ人間。故郷を持たず、故郷を知らず、どちらの世界からも弾かれて、どちらの世界をも拒絶した。

 この人こそ、世界と世界の狭間の暗闇で、ただ一人、立ち尽くしていたのだ。

「……君は、正しい答えを見つけたんですね」

 最後にそう言い残して、リンシンさんは目を閉じた。

 そしてもう二度と、開くことはなかった。




 わたしはゆっくりと、握っていた手を地面に下ろした。

 ぐいぐいと腕で顔を拭う。

 目を上げると、ぐっと歯を食いしばってリンシンさんの死に顔を見つめているトウイがいた。その近くで、ハリスさんもやるせなさそうな沈痛な表情で、口を結んでいる。

 彼ら二人以外の人たちの視線はすべて、わたしの傍らで後ろ脚を折って座っているアオのほうに、集中して向けられていた。みんながみんな、青くなって凝固し、それでも妖獣から目は離さずにいる。イーキオの枝によって擲ってしまったはずの恐怖心は、圧倒的な力の差がある存在に対しては、まだ有効に働くらしい。

「……この人のことを、可哀想だと思いますか」

 水を打ったように静まり返った場に、わたしの声はよく響いた。数人がビクッと身体を揺らして反応し、誰かの手から武器が滑り落ちたのか、地面に当たって転がる硬い音がする。

「ずっと自分の居場所が見つからず、たった一人の大事な人を失って、凄まじいまでの孤独を抱え、そして死んでしまった人です。最後まで、自分の幸福を望むことも、願うこともしなかった。それほどまでに不幸だったこの人のことを、あなたたちは、可哀想だと、思いますか。──この人よりは、自分のほうが幸福だと」

 人々の虚ろな顔つきに、わずかに戸惑いが走った。

「誰かを下に見ることによって得る安心感や優越意識は、本当に幸福ですか。人を傷つけ、奪い取るものは、あなたたちに喜びをもたらしますか。わたしは──わたしは、そうは思いません」

 彼らの一人一人は、街にいる他の住人たちと何も変わらない。ここにいるのは、弱く脆く、幻の神に縋ることで、かえって心を食い荒らされてしまった人々だ。

 けれどやっぱり、間違えている。わたしは、そう思う。

「あなたたちの『神』は、束の間の美しい夢を見させてくれるでしょう。けれどそれは、長くは持続しません。夢から覚めた時、そこにあるのは何ですか。あなたたちの手に、何が残っていますか。それを考えたことがありますか」

 イーキオの枝は、人間の善なる部分に蓋をし、その下にある欲望を引き出して、形となってその目に見せ、声となってその耳に吹き込む。心地いいだろう。安心するだろう。イヤなことは忘れ、見たくないものは見なくていい、とその何かは笑って言うのだから。

 けれどもそれは結局、自分自身でしかないのだ。鏡に映った自分を見て、これが正しいんだと自分で呟いているに過ぎない。

 それでは、心が満たされるはずがない。


 この人たちの過ちは、鏡に映った自分の姿を、「神」と名付けてしまったことだ。

 求めるものは、そこ以外の場所(・・・・・・・)にこそあるのに。


「つらく、苦しいことはあるでしょう。今までだって、たくさんあったでしょう。つらい時、悲しい時、疲れた時、それを癒してくれたのは、何でしたか? 誰でしたか? あなたたちの『神』でしたか?」


 そんなわけ、ない。

 人を傷つけ、苦しめるのは、人かもしれないけれど。

 人を癒すのも、救うのも、また人だ。

 ──自分ではない誰かの言葉、誰かの手、誰かの笑顔が。


「……あなたたちを外に出すわけにはいきません。イーキオの枝に頼らず自分の幸福を見つけようという人は、武器を捨てて、大人しくしていてください。それでも自分の神を信じるという人、選ばれた者だけの空っぽの国を作りたいという人は、武器を取りなさい。遠慮せず、叩き潰します」

 神獣の剣を構えて、わたしは言った。




          ***



 一時間も立たないうちに、大勢は決した。

 神官たちの命令によって主殿詰めとなっていた護衛官らが、そこから出てきた途端、今までの鬱憤を晴らすかのように大声を上げながら突進してきたこともある。よっぽど、建物内でじりじりと焦れた気分でいたらしい。

 戦意を喪失していた半分くらいの人々は、その勢いに恐れおののき、武器を捨てて投降の意を示した。彼らのほとんどが、呆けたような表情で、だらんと両腕を下げてその場に立ち竦んでいる。

 あとの半分ほどはまだ何かにとり憑かれたように武器を振り回したり、主殿に向かっていこうとしていたけれど、警護と護衛官によって難なく取り押さえられた。もともと格段に力の差があるのだ。一人対十人だった時と、三人対五人である時とは、まったく比較にならない。

 負傷者は多いけれど、死者は出なかったという報告を聞き、わたしはほっとした。

 ちなみにこの間、アオはまったく我関せずという態度だった。わたしの傍らで座り込み、せっせと毛づくろいをしたり、くわあと大きな口を開けて欠伸をしたり。くるんと丸まった長くて太い尻尾がわたしを囲んでいるので、トウイが面白くなさそうに、「なんだその『自分のもの』みたいな態度は」とずっと文句を言っていた。


「捕らえた者たちは、どうしましょう」


 ロウガさんに訊ねられ、わたしは、警護と護衛官に連行されていく人々に目を向けた。

 どろんとした目でぶつぶつと一人で呟いている人もいれば、うっそりと笑って遠くに目線を投げている人もいる。けれど中には、眠りから覚めたばかりでどうして今自分がここにいるのか判らない、という顔をしている人もいた。

「いずれカイラス王が、兵を応援に寄越してくれると思います。そうしたらあの人たちは、王ノ宮に引き渡しましょう。イーキオの枝は麻薬物質です。依存性が強ければ禁断症状が起きるかもしれないし、その時にどういう行動をとるか予測できません。もとの生活に戻れる状態になるまで、王ノ宮の監視の下に置いてもらったほうがいいと思います」

 それに、王と大臣たちにも、イーキオの枝の実態をその目で見て、もっと知ってもらったほうがいいと思う。

 こんなものを民に与えようとするのが、どんなに馬鹿げた行為であるか。イーキオの枝を使っても、決して神になどはなれないということを、身に染みて思い知ったほうがいい。

「承知しました」

 ロウガさんが頷き、それから気遣わしげな表情になって、わたしを覗き込んだ。

「シイナさま、顔色がひどくお悪いようです。汗も大量に……どこか負傷なさいましたか」

「平気です」

 脇腹の傷自体は大したことはないのだ。なかなか復調しないのは、毒素が完全に抜け切っていないためなのだろう。

「いざとなったら、トウイに負ぶってもらうし」

「は」

 ロウガさんがちょっとぽかんとした顔で、わたしとトウイの顔を見比べた。トウイは顔を赤くしたけれど、ハリスさんはくくっと喉を鳴らして笑っている。

「どうやら俺たちの知らないうちに、二人の間に何かあったようですよ。一体、『何』があったんだろうなあ。奥手で不器用なガキと思ってたが、トウイも男だし、やる時はやる──」

「トウイお前シイナさまに何を!」

「ちがっ、違いますよ! ハリスさん、誤解を招くような言い方しないでください! 俺、何もしてな……い、いや少しはしたかもしれないけど、あれはやむを得ないっていうか、だからそれとこれは別の話で」

 眉を逆立てたロウガさんに詰め寄られ、トウイが慌てて弁解をしている。しどろもどろに、あれは違う、治療行為、とか言っているけど、なんのことだか意味が判らない。トウイ、なにを言ってるんだろ。

 突っ込んで聞いてみたい気もしたけれど、くらりと立ちくらみがしたので、諦めた。わたしには、まだやることが残っている。

 アオに寄りかかって息を吐く。艶々とした青黒い体毛からは、草の匂いがした。

「……ロウガさん、リンシンさんの亡骸は?」

 トウイの首を締めようとしていたロウガさんは、ぱっと手を離して真面目な顔でこちらを振り返った。

「布で包んで、運ばせました。現在は建物内に安置しています」

「そう……」

 わたしは目を伏せた。

 彼の遺体も、王ノ宮に引き渡すことになるんだろうか。こちらの世界では、罪人は、どのようにして弔われるのだろう。

「じゃあ」

 顔を上げ、口を開きかけた時、誰かの甲高い声が聞こえた。

「なんたることだ! なんだこれは! この神聖な神ノ宮でこんなことが起こるとは!」


 そちらに顔を向けると、主殿のほうから、神官たちの一行がぞろぞろと歩いてくるのが見えた。


 騒ぎが収まったと知って、祈りの間から出てきたらしい。周囲にいる警護や護衛官に対して怒鳴り散らし、捕らえられた人々にはこの身の程知らずの者めらがと声高に罵る。肝心な時には怯えて引っ込んでいたくせに、自分の身に危険が及ばなくなったと知れば、途端に元気になるのか。現金な人たちだ。

 神官たちは、わたしを見て──というより、わたしがもたれているアオを見て、ぴたりと立ち止まり、悲鳴を上げた。数十人分の金切り声は、きんきんと空気を引っ掻いて、耳が痺れるくらいだった。

 こちらに向けて、まっすぐに人差し指を突きつける。

「あれを見よ!」

「なんということ! 守護人は、神獣のおわす崇高なる神ノ宮に、よりにもよって妖獣を引き入れたぞ!」

「あれはもはや人などではない! 災厄を持ち込む魔性のものだ!」

「あのような汚らわしいものが神獣の守護人であるなどあり得ぬわ! ましてや、大神官の代理など! 王太子もたぶらかされたに違いない! いずれ王ノ宮と神ノ宮を乗っ取り、国を災いの渦中に落とすつもりだぞ!」

「何をしている、お前たち! さっさとあの異世界の娘を捕らえよ! それらの愚か者どもと一緒に王ノ宮に突き出すのだ!」

 警護と護衛官は、神官たちの言葉に、互いの顔を見合わせた。

「早くしろ! 命令だ!!」

 大音量のその声に、みんなの足がじりっと動く。トウイとハリスさんが表情を引き締め、右手を剣の柄にかけた。

 ──でも。


 警護と護衛官の中で、こちらに向かってくる人は一人もいなかった。

 彼らは足を動かし、その場で片膝をついた。

 そして、一斉に頭を下げた。

 ……わたしに向けて。


「な、な……」

 神官たちが揃って唖然とし、ぱくぱくと口を開けたり閉じたりする。警護も、護衛官も、誰もそちらには目を向けようとしなかった。

「……ご不在の間、守護さまが何をされていたのかは、ロウガより聞き及んでおります」

 いちばんわたしたちの近くにいた護衛官が、顔だけを上げてそう言った。

「この国に危難が迫っていることを察知し、それを止める方策を探るため旅に出ておられたと。そして実際、守護さまはこうして我々を救うため、自ら駆けつけてくださった。ロウガに託された、『仲間を死なせないで』というお言葉は、我々の身と心に深く刻まれております。神ノ宮にお戻りになられたこと、喜びに堪えません。──我ら護衛官と警護はみな、神獣の守護人に従います。どうぞ、ご命令を」

 凛とした声が響き渡る。

 わたしは馬鹿みたいに突っ立って、ずらりと下げられた頭を見ていた。言葉を出そうとしても、喉に何か熱いものが詰まっているみたいだった。

「──では」

 やっと、声が出た。

「しばらくの間、神官たちを主殿から遠ざけておいてもらえますか。自分たちから出て来てくれたのならちょうどいい。王ノ宮の兵が到着するまで、余計なことをしないよう、見張っておいてください」

「承知しました」

 にやっと笑って、立ち上がる。跪いていた他の警護と護衛官たちも次々と立ち上がり、動き出した。

 彼らに取り囲まれる格好になった神官たちが口々に喚いたけれど、全員揃って無視を決め込んでいる。「命令ですので」と真顔で言ってるけど、けっこうみんな、楽しそうだ。

 その様子を見届けてから、わたしは、トウイ、ハリスさん、ロウガさんのほうを向いた。

「……主殿に向かいます」

 はい、と三人が頷いた。




 主殿の建物まで近づいたところで、一直線に駆けてきたミーシアさんに飛びつかれた。

「シイナさま!」

 そのまま、ぎゅうっと強く抱擁される。すでに泣いていたミーシアさんは、濡れた顔でわたしに頬ずりしながら、無事でよかった、心配した、を何度も繰り返した。

「……あの、ミーシア、今はその愛情表現はちょっと」

 トウイの遠慮がちな声に、ミーシアさんが我に返ったのか、わたしから身を離す。実を言えば、ちょっと、傷が開きそうになった。

「ま、まあ、私ったら、つい。大丈夫ですか、シイナさま。……まあ! この顔色、お加減が悪いのですか。どこか痛むのですか。早くお休みにならないと。そういえばお身体も熱いようですけど、お熱が出ているのではありませんか」

 忙しく赤くなったり青くなったりしながら、ミーシアさんは気を揉むようにして一気に問いかけてきた。わたしはその顔をまじまじと見ながら、ああ、ミーシアさんだなあ……ということを、しみじみと思っていた。

 両腕を伸ばして、今度は自分から、ぎゅっと抱きつく。しなやかで温かい身体は、優しくわたしを受け止めてくれた。

「……私、ずっと、シイナさまをお待ちしていました」

「はい」

 ミーシアさんの涙声がじわりと沁みる。

 よくよく気がつくと、主殿の建物前には、ミーシアさんだけでなく、他の侍女の人たちも集まっていた。みんな驚いたように目と口を開けて固まっている。ん? と思ったけれど、なんのことはない、わたしの後ろからついてきたアオを見ているのだった。

「大丈夫です、あなたたちには何もしません」

「ええ、大丈夫よ」

 安心させようと思ってわたしが口を開いたら、そんなことは大した問題ではないとばかりに、ミーシアさんまでが朗らかに言いきった。……いいのかな。なんか、侍女の人たちのミーシアさんを見る目が、宇宙人を見るようなものになりつつある気がするんだけど。

「シイナさま、侍女たちはみんな、シイナさまのお味方です。なんでもお申しつけくださいまし」

「…………」

 微笑むミーシアさんを見返して、わたしは口を噤んだ。


 わたしの味方。

 ……でもそれは、わたしの力で得たものじゃない、よね。

 神ノ宮に戻ったロウガさんとミーシアさんが、話して、説得して、信頼関係を結んで、苦労して作ってくれたんだ。

 わたしがいつ戻ってもいいように。


「ありがとう」

 笑ってそう言うと、ミーシアさんはちょっと目を見開いて、それから嬉しそうに口許を綻ばせた。

「ミーシアさん、大神官はまだ目を廻してますか」

「はい、そう思いますが……」

「もうちょっとだけ、寝ていてもらいたいんです」

「…………」

 ミーシアさんは少し考えるような顔をしてから、にっこりと笑った。

「では、私どもで、なんとかいたします」

 胸のところをぽんと叩いて、頼もしく請け合ってくれる。ミーシアさんも、あの旅でずいぶんと逞しくなったよね。それがいいか悪いかは、この際考えないでおこう。

 お願いします、と言ってから、わたしたちは主殿の建物内に入った。アオも当然のようについてきたけど、侍女の人たちはみんなして、見ないフリをすることに決めたようだ。

 廊下を進み、目指す場所にまで辿り着くと、わたしはくるりと振り返った。

「みんなに、手伝って欲しいことがあるんです」




          ***



 最奥の間は、相変わらず白一色だった。

 部屋の真ん中には、白くて丸くてふかふかの椅子。そこに深く沈み込むようにして座っている神獣も、いつもの通りだ。白い肌、銀色の髪、黄金の瞳も、変わりない。

 わたしはぴたりと足を止めた。

 こちらに向けられた神獣の顔は、いつものようなニコニコ笑いを浮かべてはいなかった。それどころか、憎たらしい子供の顔もしていない。


 ……そこは一面が、無数の細かな皺に覆われている。


 身体は子供のままなのに、顔だけが老人。あまりにも異様で、あまりにも奇怪だ。年齢を重ねた皺というよりは、水気をなくして茶色く枯れてしまった花に似ていた。ぴんとした白い肌の張りが、今は見る影もなくかさかさに干からびてしまっている。

「神獣の剣の力──幻獣の力は、かなり堪えたみたいだね」

「…………」

 神獣は身動きもせず、じろりとわたしを睨んだだけだった。黄金の瞳にやっぱり感情はなく、だからこそ余計に、その外見のグロテスクさに拍車がかかる。

「神獣と幻獣の力はお互いに拮抗し、相殺する、だっけ? 要するに、同じくらいの力と力がぶつかると、双方ともにゼロになる、ってことかな。世界の管理者の片割れの力をまともに浴びて、もう片割れのあんたの管理者としての力は消えた。そういうことだよね?」

「……すぐに回復する」

 神獣が、いつもの高い声とは別人のような低い声で言い返す。

「けど、今は無力。そうでしょ?」

 わたしのその言葉を、神獣は否定しなかった。

「わたし、前から思ってたんだけど」

 ちらりと後ろを振り返り、閉じられた白いドアを見る。

「このドアの向こうの廊下って、両側の壁に細かな模様が彫られてるよね? 文字なのか、模様なのか、よく判らないもの。幻獣のいる部屋に通じる廊下にもあったよ。……それから、狭間にある『運命の扉』にも」

 神獣が、わずかにピクリと眉を動かした。

「あれって、あんたたちの力を伝えるためのものなんじゃないの?」

 それはたとえば、呪のような。

 その文字だか模様だかが、神獣や幻獣の力を発動させるための、依代の役割を負っているのではないか。そこに宿った力が、消えたり現れたりする廊下を作り出したり、扉を外の攻撃から守っている。

 目には見えない壁で剣を弾き返す本体のように。

「だったら、何をどうやっても、壊れないよね」

 そこで言葉を切って、わたしは神獣を見た。

普通なら(・・・・)

「…………」

 神獣は黙ったままだ。

「あの音、聞こえる?」

 かすかに伝わる、どん、という重低音。耳を澄ませば、ちゃんと聞こえる。


「現れの間にある、絵の扉が描かれた壁を壊している音だよ」


 神獣がぐっと唇を引き結んだ。

「あんたの力が消えている今なら、あの扉の守りも効力を発揮しないんじゃないかと思って。試しに思いきり剣の鞘で叩いてみたら、呆気ないくらい簡単に石が欠けた」

 何をしても、傷ひとつつかない扉の絵。この数百年の間、天災が起きても、火に包まれても、無事であり続けたという伝説の扉。

 壊せるのは、神獣の力が失われている今しかない。

「……本当にわかっているのか、キミ」

 神獣が唸るような声を発した。

「あの扉を壊してしまえば、キミはもとの世界に帰れないんだぞ」

「うん」

 わたしは頷いた。わかっていた──というより、たぶんそうだろうと思っていた。

 あの絵の扉がなくなれば、狭間にある運命の扉も消えるのだろうと。

 定着させるための扉が消えれば、世界の綻びもやがては閉じる。

「だから、今しかなかった。100日を過ぎてしまえば、わたしはまた強制的に狭間に戻されて、みんなの頭からわたしの記憶は消えるんでしょ? 壊すなら、その前じゃないと。わたしが神ノ宮の最高責任者という立場にある今しか、機会はない」

「ゲームをクリアしても、キミは帰らないというのか」

「そうだよ」

 トウイは生きる。ずっと胸に抱き続けてきた、たったひとつの望みは叶う。けれど。

 でも、わたしは、「もとの世界へ帰る」道を選ぶのはやめた。

 諦めた、のではなく。


「わたしは、ここ(・・)で生きる」

 自分で、そちらの道を選びとったのだ。


 神獣の皺だらけの顔を、まっすぐ見据えた。

「わたしが、『最後の神獣の守護人』だよ、神獣」

 もう、これ以上異世界の人を、神獣のゲームに巻き込ませることはしない。二度と、前代の守護人やリンシンさんのような人は、生み出させない。

「…………」

 神獣は目線を下げた。

「……キミは、史上最もタチの悪い異物だ」

 ぼそりと、幻獣と同じ言葉を呟く。二匹揃って失礼な。

 わたしは踵を返して、白いドアに向かった。

 その背中に、神獣の声が追いかけてくる。

「本当にいいのかい。あの扉を壊してしまったら、キミはもう戻れない。それは、やり直しが出来ない、ということだ。ゲームが終わっても、トウイはいつか死ぬだろう。災厄でなくとも、病気で、事故で、あるいは老衰で。キミはまた、いつか必ず彼を失うことになる。けれど、もう、やり直すことは出来ないんだよ。どれほど泣いても叫んでも。それでいいのかい?」

 わたしはドアの手前で立ち止まって、後ろを振り返った。

「──けど、それが、『生きる』ってことでしょう?」

 神獣はもう、何も言わなかった。




 最奥の間を出ると、廊下にトウイが立っていた。

 そこに近づいて、胸に顔を埋める。トウイの両腕が、ゆっくりとわたしの身体に廻された。

「……本当に、よかったの?」

 トウイも神獣と同じことを言う。思わず笑ってしまいながら顔を上げ、ひどく複雑そうな色を浮かべている赤茶の目を見返した。

「うん」

「そりゃ、俺は……でも、あんなに」

 もごもごと言って、困ったように口を閉じる。その先をどう続ければいいのか、本人にもよく判っていないみたいだった。

「今の自分がしたいことを、したんだよ」

 ね、と笑いかけて、わたしはトウイの手を握り、引っ張るようにして歩き出した。ロウガさんとハリスさんとミーシアさんが待っているところに戻らなくちゃ。

 100日目がちゃんと終わるまで、油断は出来ないんだから。

「行こう、トウイ。そばにいてくれるんでしょう?」

 そう言うと、トウイがやっと微笑んでくれた。もちろん、と目を細める。

「ずっと」



 一緒に行こう。

 ──100日目の、その先へ。




      (第二十章・終)





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ