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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第四話 枯葉
99/220

阿呆船 1


 カイエンがサヴォナローラの執務室へ、殴り込み的に突然訪れたのは、午後も遅い時間だった。

 だが、まだ日没には間があったので部屋の中はランプがなくとも明るかった。

「ところで、大公宮の方は大丈夫ですか。……シイナドラドの皇子殿下は大人しくしていらっしゃいますか」

 宰相付きの侍従が、カイエンとサヴォナローラの前に特別に濃く淹れたらしい紅茶のカップと、五月が旬のメロンと枇杷を皿に盛ったものを置いて下がっていく。脇に茶器を載せてきた銀盆に冷めないように布をかけたポットを置いていったところを見ると、しばらくここへ入ってくることはないらしい。

 カイエンもサヴォナローラも、すぐには話を始められず、対話は当たり障りのない話題から始まった。 

「まあまあ、大人しくはしているようだ。ガラから聞いているだろう? ただ、私の飼い猫をたぶらかしているのは許しがたいが」

「……飼い猫ですか」

 ちょっと気の抜けた顔をしたサヴォナローラへ、カイエンは紅茶のカップを手に取りながら、忌々しそうに首を振った。

「一昨年の十九の誕生日にヴァイロンが贈ってくれた猫だ。名前はミモ。顔もかわいいし毛並みもいいし、人懐こくて頭もいい。一度教えたことは二度と間違わない、本当にいい猫なのだ」

 聞くなり、サヴォナローラの緊張していた顔に、苦笑いが浮かぶ。彼もまた、カイエン同様に陰鬱な古い話を始めるきっかけが摑めなかったらしい。

「おやおや、殿下もお惚気のろけをおっしゃるようになりましたか」

 サヴォナローラの口から出てきたのは、年長の兄が妹をからかうような内容だった。

 ミモ、とは甘やかすこと、過保護、などの意味がある。カイエンがその猫をヴァイロン共々にかわいがっていることがすぐにわかったのだろう。

「この頃、私はこの通り忙しいし、ヴァイロンもこのところ、仕事もいそがしいってのに、リリの世話にまで首を突っ込んでいてな。ミモを二番目、三番目にしているから、猫なりに寂しいのだろうが……。なんであの変態の部屋に入り浸るのかなぁ。実のところ、教授も私も嘆いているのだ」

「おやおや」

 サヴォナローラは大公宮の奥事情を聞かされて、嫌な顔をするどころか、くくく、と笑いを洩らした。カイエンがエルネストを「変態」と切り捨てた事にも笑いを誘われたようだ。

「ソーサ先生も猫好きでしたか。ふふふ。あの方らしいと言えば、あの方らしいですね。目の寄る所へ玉も寄る、とか申しますが、まさか、あの皇子様もとは! 面白いものですねえ。それに、ヴァイロン殿がリリ様のお世話をね。きっとお母上がわりであるはずの殿下よりも、お父様らしくしているのでしょう?」

「言うなあ。まあ、私はひとり子で兄弟を知らずに育ったから、いきなりリリのような赤ん坊を引き取っても、どうしていいやらわからないのだ。いつも機嫌のいい赤ん坊だし、乳母やサグラチカは隙をみては私に抱かせようとするのだが、ふにゃふにゃしていて猫よりも頼りないし。ミモなら落としても大丈夫だが、リリは自分ではまだ立てないからな」

 カイエンが苦笑すると、サヴォナローラは聞き捨てにせず、突っ込んでくる。

「ひとり子として育ったのは、ヴァイロン殿も同じですよ、殿下」

「!」

 カイエンは灰色の目を見開いたが、すぐに皮肉そうに言い添えた。

「では世話好きか否か、の違いなのだろう。私は今まで世話を焼いてもらうばかりで、自分が世話を焼くことがなかったから。いや、もうそれではいけないと言うことはわかっている、大丈夫だ」

「そうですね。私も初めて師父のところに後輩の神官が来て、それを導く兄役になった時にはなかなかに大変でした」


 そうして。

 しばらく、二人は変な笑いを交わしながらお茶を飲んでいた。

 良かったにせよ、悪かったにせよ、彼らを育てた人々の過去を暴き立てることになる話を始める気力が、事ここまで来てしぼんでしまったとでも言うように。

 だが、陰鬱な話題へ話を戻したのはカイエンの方だった。と、言っても、単刀直入に切り込んだわけではない。 

「もう、武装神官を呼び出したのか」

 カイエンが言ったのは、宰相府に入った瞬間に覚えた違和感のことだった。

 今までは皇帝の執務室の周りや、この宰相府の警備は親衛隊が行なっていたが、今日はその臙脂色の制服の姿は見えなかった。

 代わりに廊下の要所に佇んでいたのは、普通の神官よりも丈の短い膝までの褐色の僧衣の上に、アストロナータ神殿の五芒星の紋章を胸に縫い取った白いアルバと呼ばれるガウンを着た、武装神官の姿だったからだ。

 薄い金属を埋め込んだ籠手とすね当てを身につけた神官の姿は、ものものしく、歴史を感じさせる古びた意匠の僧衣は古の歴史書から出て来たように周りの空気と反発しあってでもいるように見えた。

 武装神官は通常、アストロナータ神殿か、修道院に常駐しているものなので、その姿を皇宮で見るのは初めてだった、ということもあるだろう。

「ええ。親衛隊にはもう、私の警護など任せられないですからね」

 サヴォナローラは低い声でそう言った。

 確かに、親衛隊長のモンドラゴン子爵はオドザヤの女帝即位には反対の立場らしかったから、そういうことなのだろう。オドザヤの方の警備には、すでに大公軍団から腕利きの女性隊員、トリニとブランカが派遣されている。

「まだ、死ぬわけにはいかないか?」

 カイエンはもう、親衛隊隊長のモンドラゴン子爵が、女帝の即位を嫌う陣営に属していることを知っている。皇帝サウルの死が周知された瞬間から、この国の上層部は次代の皇帝を誰にするかで真っ二つに割れているのだ。

 おそらくは、フロレンティーノ皇子の母であるベアトリア王女マグダレーナの祖国だけでなく、ハウヤ帝国内にも女帝の即位を良しとしない勢力が歴然としてあるのだろう。

 そして、恐らくはその勢力の人々は皇帝サウルの生前には冷遇されたり、無視されたりしてきた上位貴族の者たちだ。

 それはもう、カイエンが知っているモリーナ侯爵やモンドラゴン子爵、それに螺旋帝国の外交官だけではなさそうだ、と言うことも、カイエンには分かっていた。

「そうですね。シイナドラドの血族から伝わる謎を背負っておられた、サウル様とアルウィン様の軋轢の歴史を知るものとしても、アルウィン様の子飼いからこの国の宰相にしていただいた身としても、まだしばらくは死ぬわけには参りません。私が今、死んだら殿下もお困りでしょう?」

 サヴォナローラは、カイエンの揶揄を静かにまっすぐに受け取った。だが、最後の一言は余計だ、とカイエンは思った。

「サウル様、アルウィン様、か」

 曖昧な表情をして、カイエンはその二つの忌々しい名前を、苦い思いで舌にのせた。特にアルウィンの方は発音するのも、本当は嫌だった。

「皇帝陛下は、サウル様はもう、この世を離れられました。アルウィン様の方も、もはやその肩書きのすべてを失っておられます。おそらくはアルウィンというお名前も、今は使われてはおりますまい」

 サヴォナローラは冷徹に事実を述べてきた。そうだ。確かにサウルはもう亡くなり、アルウィンもまたもはや大公ではなく、ハウヤ帝国の敵としてカイエン達に認識されつつある。

 今、アルウィンが持っている肩書きは、あの桔梗星団派でのもの。そして、若い頃、下町で呼ばれていた彼のもう一つの名前、チェマリなのだろう。

 そもそも、シイナドラドから帰国してすぐに、前大公アルウィンを国家叛逆の罪でサウルの前で告発したのは、カイエン自身だった。

「そうだな。もう、あの人たちには肩書きはいらないな」

 カイエンは静かにうなずいた。

「殿下。殿下はもう、サウル様の遺言書ですべてご存知なのでしょう?」

 サヴォナローラの問いに、だが、カイエンは凍ったような顔のまま、答えない。

「サウル様の遺言書は、オドザヤ皇太女殿下と、カイエン様、あなた様宛てのものがひどく分厚かった。生前にお伝えできなかったことが多かったのでしょうね。……実際に、お読みになるのにお二人ともに時間がかかっておいででした。……そして、一番薄いものを受け取られたのが、クリストラ公爵夫人ミルドラ様でした。でも、ミルドラ様はそれを読み下すのに、殿下方以上に、一番長い時間をかけておられました」

「そうだな」

 カイエンも、あの時、オドザヤの部屋に集まった面々の様子が思い出された。

 あの時、集まった人々。


 摂政皇太女オドザヤ。

 大公カイエン。

 宰相サヴォナローラ。

 大将軍エミリオ・ザラ。

 クリストラ公爵ヘクトル。そしてその夫人であり、サウルの妹であるクリストラ公爵夫人ミルドラ。

 元老院長フランコ公爵テオドロ。


 七通の遺言書が、あの部屋で開かれたのだ。

「そうだな。ミルドラ伯母様は、私達の受け取ったものとは違って、何枚もない手紙を、何度も何度も読み返しておられたな」

 カイエンが低い声で言うと、サヴォナローラは静かに答えてきた。

「殿下。ミルドラ様は過去の物語のすべてを、ほぼすべてをご存知です。それでも、あの場であのようにお時間をかけてサウル様の最後のお言葉を読んでおられました」

「……皇帝陛下、いや、伯父上はおそらく過去の事情をご存知の伯母様宛てには事実の暴露以外のことを書き残されたのだろう」

 カイエンがそう言うと、サヴォナローラは真っ青な目をやや曇らせた。

「公爵夫人は気丈な方です。そして、サウル様亡き後、オドザヤ皇太女殿下を直接に後見なされる血縁の方となると、まずは大公殿下とクリストラ公爵ご夫妻ということになります。ですが、サウル様の星と太陽の指輪を、カイエン様とオドザヤ様のお二人が受け継がれたことからすると、サウル様は公爵夫人にオドザヤ様とカイエン様、お二人をお守りするように言い残されたのではないでしょうか」

 カイエンはサヴォナローラの言を聞きながら、サウルの死からずっと考えてきたことを思い出していた。

 このハウヤ帝国の西の端にあるのが帝都ハーマポスタールである。そして、その領主と言えるのはこの街の大公のカイエンだ。

 そして、ハウヤ帝国の東の端、クリスタレラからベアトリア国境までを領地とするのがクリストラ公爵家。

 実入りの少ない貧しい地域ではあるが、ハウヤ帝国の北方を領地とするのは、元老院長のフランコ公爵だ。

 つまり、サウルが女帝として立つオドザヤを支えることを願った六名のうち四名は、このハウヤ帝国の東西、そして北を領地としている者たちなのだ。

 これは偶然ではあるまい。

 残りの二名は宰相府の長、サヴォナローラと、元帥府の長であるザラ大将軍だ。

 さらには、サウルはベアトリアの向こうのネファールに娘のカリスマを王太女として送り込み、北方の自治領スキュラへもアルタマキアを目していた。

 だが。

 だが、サウルの敷いたこの「布陣」には大きな穴がある。恐らく、その部分への働きかけは間に合わなかったか、失敗したか。

 カイエンは首を振って、今はその先を考えるのをやめた。

「恐らくは、お前の言う通りなのだろう。私が思うに、伯父上は伯母様に『過去の清算』とでも言うべきことを頼んで逝かれたのではないかな?」

 カイエンがそう言うと、サヴォナローラは真っ青な目をきらりと光らせた。

「さすがです。殿下は本当に大きくなられた。……確かにもう、誰も殿下に隠し事など出来ますまい」

 この言いようには、カイエンも苦笑いするしかなかった。

「人を頭の悪い妹みたいに褒めるのはもうよせ。次は桔梗星団派のことだ。……あのアストロナータ神殿から盗まれた盾、それも五芒星を桔梗星紋に描き変えたものを持たされ、大公軍団配給の剣を持たされて殺されていた、あの侍従。あれを殺したのはサヴォナローラ、お前の手のものか?」

 カイエンが声を落とした平坦な口調でそう、聞くと、サヴォナローラはゆっくりと首を振った。その様子は、おのれの不覚を後悔している者のそれだった。

「いいえ。私もそろそろ殿下に桔梗星団派のことはお伝えするべき時期だとは思っておりました。しかし、私はいささか時期を逸してしまっていたようです」


(……ヘルマン、だったっけ? あんたの侍従に囁きかけた奴は、俺が始末したよ。あの宰相さんにはそれももう、承知の内だろうね)

(あの宰相さん、変なところで手が遅いんだよね。殿下には早く教えなきゃいけなかったのにさ。あの桔梗星団派の事は。あの人に続く、確かな道のりの道標なのに)

 イリヤが大公宮の裏庭で、エルネストに言った言葉。


 それを、今、サヴォナローラが認めていた。

 カイエンは眉と眉の間にしわを寄せた。

「では、誰が?」

 サヴォナローラはちょっとの間、どう言おうかと考えているようだった。

「殿下。このハーマポスタールには、アルウィン様が去られてからも、ずっと桔梗星団派の繋ぎの者が残っておりましたのです。あれは、恐らくはその者が行ったことでしょう。……私が殿下に話すべき頃合いを逸してしまったから……だから、彼が、自分の手を汚してまで殿下に桔梗星団派のことを知らせたのでしょうね」

 カイエンは無言のままだ。彼女は無言でサヴォナローラに話の先を促した。

「それは、『盾』と呼ばれていました。いいえ、一人ではありません。ある者を頭に何人かが、この皇宮や大公宮に残っていたのです」

 サヴォナローラはここで一回、口を閉ざした。

「……この皇宮に残っていた者は、一昨年、あのスライゴ侯爵一味の事件の後、私が密かにガラに命じて始末いたしました。私はサウル様の側につくことを決め、内閣大学士から、宰相に抜擢されることになりましたので、あのような者たちがうろちょろする中にいるわけにはいかなかったからです」

「そうか。では、大公宮の方は? その頭というのはどうなった?」

 カイエンの顔がすっと厳しくなった。サヴォナローラはこの皇宮の『盾』の一味は始末したのだ。となれば、頭とやらは彼女の大公宮の中に紛れているということになるから。

「『盾』の頭は、先代の大公軍団長が任命した者です。先代の団長は一昨年の事件で死んだとされている、アルベルト・グスマンという男ですが」

 聞くなり、カイエンは嫌な予感がした。

 宰相の執務室の窓の外が、そろそろ、夕日の赤に彩られている。その赤い色が、血のように部屋の中へ流れ込んでくるような気がした。

「もう殿下もご存知のように、グスマンはアルウィン様の腹心中の腹心でした。ですから、アルウィン様が死を装われて去られた後、彼も大公軍団を去り、帝都の公認遊興場『カンパヌラ』楼主、アルベルト・グスマンという隠れ蓑の内側へ隠れたのです」

「それは、もう知っている」

「ええ。では、彼の育てあげた、元は帝国軍人崩れの、あの男のことは?」

 あっ。

 カイエンはあまりにも彼女のそばにいたために、疑ってみることさえなかったあの男の、甘ったるい美貌を瞬時に心に描いていた。

 そうだ。

 カイエンはイリヤが、前の大公軍団長グスマンの子飼いだったことはとっくに知っていたのに。   

「……そうです。彼が、『盾』の頭でした。大丈夫です。彼ももう、ああして同じ『盾』の人員を大公宮から消し去ってまで、あのような手段で殿下に桔梗星団派のことを知らしめたからには、目が覚めているはずです」


 イリヤが「盾」。つまりはアルウィンへの連絡係だった。

 イリヤはアキノの同郷だったはずだ。あの、プエブロ・デ・ロス・フィエロスの。

 それは、カイエンにとってはやはり、驚くべきことだった。そして、それを知っていたアキノやこのサヴォナローラが、あえてカイエンに伝えようとはしなかったという事実も。

「どうして、お前やアキノは、今まで私にそれを教えてくれなかったのだ。……その頃の私にはまだ、それを聞かされてもどうにも出来なかったからか?」

 カイエンが苦い思いでそう聞くと、サヴォナローラはそっと顔を上げた。

「その通りでございます。一昨年までの殿下はまだ本当の大公とは言えませんでした。これは仕方のないことです。たった十五であなた様は本来、アルウィン様の為すべきことを一気に背負わされたのですから。なによりも、このことはアルウィン様が実は生きておられるという事実の暴露の後にしか言えないことでした」

 カイエンは心の中の苦い思いを打ち消すように、もう温くなった紅茶をすすった。

 確かに、カイエンがアルウィンの生存を確信してからでなくては、伝えられない事実であったのだろう。

 皮肉にも、アルウィンの生存を自分の目で確認するために、カイエンはシイナドラドまで行かされたのだ。

 カイエンは、俯いて深く、深く息をついた。ここは一人無知のままに置かれたことを憤る場面ではない。それはもう、彼女には分かっていた。

「なるほどな。さすがに上手いこと言うな。そう言えば、私はもうイリヤを詰問するわけにはいかないとでも言いたいか? いいや! 帰ったら地べたに這いつくばらせて全部聞き出すぞ!」

 カイエンがそう言うと、サヴォナローラは口元だけで笑った。実際にイリヤがそうされるところを想像したのだろう。そして、そんなことは彼にはどうでもいいことだったのだ。

「ところで殿下」

 サヴォナローラはそこまで話すと、改まった口調になった。

「なんだ」

「ミルドラ様の周囲には?」

 いきなりの質問だったが、カイエンは破顔した。それはすでに用意の終わっていたことだったからだ。

「なんだ、そのことか。それなら抜かりはない。もとよりクリストラ公爵も気をつけると言っておられた。その上に、こちらからもザラ大将軍のところからやってきた奴らを張り付かせている。伯母様の侍女として女性隊員も配備した。……大公宮の方はガラもいるし、女騎士やシーヴ以外にもさりげなく隊員を配備しているから、大抵は大丈夫だろうからな」

 ザラ大将軍の「影使い」。東西南北の東西はシイナドラドで死んだが、南北のシモンとナシオはカイエンの元に遣わされている。

「そうですか。本当に殿下は大人になられましたね」

 これにはカイエンは本当に嫌そうな顔をしてみせるしかなかった。 

「じゃあ、最後の話だ。……私は伯父上の遺言書で読んだが、伯父上とミルドラ伯母様の、あの『醜聞』、あれは本当なのか? そして、あいつがアレをこの街にばら撒いたのか?」

 カイエンはサウルの残した自分宛の遺言書で、その古い物語を読んだ。サウル自身が書いているのだから、「醜聞」の内容自体は本当なのだろう。だが、サウルの死後、すぐにそれが暴露されたのは偶然などではない。

 カイエンがそう聞くと、サヴォナローラはその顔にやや疲れた色を滲ませた。

「殿下がお受取りになったサウル様の遺言書には、前の大公軍団長アルベルト・グスマンとアイーシャ様のことについての言及はありましたか」

 そして、サヴォナローラが言ったことはやや意外な名前だった。

「……あった。伯父上はそこまでご存知で、それなのに、あえて、あいつの思うがまま振る舞うことになさったのだと……」

 カイエンは血が滲むほどに唇を噛み締めた。

 サヴォナローラは初めて紅茶のカップに手をつけた。それはもう、とっくに冷えていたが、彼は構わずに一口飲んだ。

「時系列順に並べていくと、こう言うことではないかと思われます」

 そして、サヴォナローラの理知的な頭で整理された内容は、カイエンが生まれる前の、父や母、伯父や伯母、そして彼らと同じ場所で同じ青春時代を過ごしていた人々の物語だった。


 







 その日、もう午後も遅くなった時間に、ミルドラはハーマポスタール市内の墓地を訪れていた。兄である皇帝サウルの喪中であることもあり、彼女は鈍色の地味なドレスに身を包んでいた。同じ色の帽子に濃いベールをつけているので、その顔はうかがい知れない。

 そこは、生まれは皇女、降嫁したとはいえ公爵夫人であるミルドラが訪れるような墓地ではなかった。

 神殿の敷地内にあるのでもない。有力貴族達のための見晴らしのいい、美しい木々や草花に飾られ、芝生の植えられた、広い空間でもない。

 そこは、ハーマポスタールの市内ではあったが、中心部を外れた場所にある、共同墓地。

 白から灰色、黒っぽいのまで新旧とりどりの大きさの違う暮石が雑然と立ち並ぶ場所だ。その後ろには民家の裏通りが真っ黒な鉄柵の向こうに透けて見える。

 ミルドラはお付きの侍女をやや遠いところに待たせ、一人でここまで歩いてきた。

 そして今、ミルドラが立っている真ん前の墓。

 それは、小さな白い墓だった。だが、その暮石の周りにはそれを囲むように真っ白な大理石が敷かれ、新しく植えられたブーゲンビリアの木陰が周囲を覆っていた。だから、それはこの市内の共同墓地の中ではかなり立派な墓の一つだった。

 その小さな白い暮石には生前の名前が彫りつけられていない。こういうことになるのには、理由は二つしかない。

 もちろん、一つはそこに眠る死者の身元が分からず、名前を彫りつけたくとも出来なかった場合。

 そしてもう一つの理由。それは、そこに眠る死者が、成人する前に亡くなったことを意味していた。

 この墓の場合には、理由は後者であった。

 この墓の下に眠る人物は、最初、一番皇宮に近い地下墓地カタコンベに安置されていたのだが、その後、ここに移されたのだ。それは、彼を実父である前大公アルウィンの墓地のある、皇家の陵墓へは葬るわけにはいかなかったから。

 そして、この墓を建てた者にとって、真っ暗でじめじめとした地下墓地カタコンベに永遠に葬るには、彼はあまりにも若かったから。

 ここに彼の墓を移した人物は、彼に明るい日の射す場所で、永遠に眠っていて欲しかったのだろう。

 だから、齢十四、五で亡くなった死者の暮石には、たった一行の詩のような文句のみが刻み込まれているだけだ。


「花散らせ十五の四季を重ねつつあの地この地で君もも泣く」


 ミルドラはその言葉を噛みしめるように音読し、深く首を垂れた。

「……かわいそうに。かわいそうにね。あなたは、あなたにお姉様がいたことも知らなかったのでしょうね。私も、あなたを知らなくて、見つけられなくて、悲しいわ。ああ、勝手なこと言っていると思うでしょうねえ。ええ、その通りよ。あなたは多分、何にも知らないで、人でなしの親に、酷い大人に利用されて、子供のままで死んじゃったんですものね。私だってあなたのことを聞いてたのに、今日までここへお参りにも来なかったわ。酷いわね。本当に私たちは酷い、酷い、汚い大人だわ」

 そこまで言うと、ミルドラは白い暮石の表面、文句の刻み込まれた場所をそっと、手袋を取った手で撫でた。

「でも、あなたのお姉様は、あなたにこの言葉をくれたのね。一緒に泣こうって言ってるのねえ。不器用なあの子らしいわ」

 そうして、ミルドラはしばらくの間、そのまま、動かなかった。

 しばらくして、顔を上げたのは、背後からこの場にはそぐわない、軽くて明るい男の声がかけられたからだった。

「やだなあ。カイエンも姉さんも、めそめそして! その子は僕にも姉さんにも、カイエンにもちっとも似てない子だったのにさ!」

 ミルドラは声を聞くなり、ものすごい目をして、振り返った。

 その、彼女の先祖であるハウヤ帝国の皇帝たち、両親、兄や弟、そして姪のカイエンやリリとも同じ、深い色を底に秘めた深い灰色の目は、怒りのために火を噴くようだった。  

「あらあなた、螺旋帝国へ向かっていると聞いていたけれど」

 ミルドラは優雅な動きで立ち上がり、彼女の後ろに立つ、彼女のたった一人の弟を見上げて言った。

 カイエンと同じく、小柄な彼女の目線からは、さして男性としては大きくはないその人物の目線でさえもやや上方にあったからだ。

 そこにあったのは、四十をとうに過ぎたとは思えないほどに、若々しい顔。

 紺色の、肩をおおうやや癖のある髪、彼の娘とそっくりな顔。シイナドラドの皇宮の地下神殿に安置された、アストロナータ神の「不朽体」にそっくりな、整いすぎていて、その上に表情がのっていないと何の面白みもない顔。神殿の神々の彫像のような顔。

 その顔が、彼の娘の顔には決して浮かぶことのない種類の笑みに覆われる。そうすると、その彫像のような顔が、急に血の通った人間の顔になる。だが、その顔は危ない顔だ。それは、微笑みながら、どんな残酷なことも「命じる」ことができる顔だった。決して自分の手を汚すことのない、卑怯者の顔だった。

「ああ、ああ。五年ぶりに会う弟への言葉がいきなり、それですか? 相変わらずだなあ、姉さんは。僕のカイエンがこの頃、かわいげのない悪い子になったのは、姉さんのせいもあるんだろうなあ」 

 ミルドラは弟、アルウィンへは返事をしようともしなかった。

「そこの! 木の後ろに隠れているあなた、出てきなさいな。……おかしいわねえ。あなたも、もうとっくに死んでいるはずの人なのにね」

 ミルドラはアルウィンの後ろにある、背の高い大きな落葉樹の深い木立の向こうへと話していた。

 すると、木立の向こうから一人の男の影がゆっくりと現れる。

 背丈は中背のアルウィンと同じくらいだろう。

 やや明るい茶色の髪を短くした、整ってはいるが平凡な顔立ちの中年男だ。だが、顔の中のたった一つの部品が、彼を底知れないものに見せていた。恐らくはそれは多くの人に恐怖の感情を与えるだろう。

 それは、彼の両眼。

 琥珀色とも金色ともつかない色だが、金属の円盤のように平面な印象を見る人に与える瞳。

 

 アルベルト・グスマン。

 それは、アルウィンの佯死とともに、イリヤに全権を移譲して去った、前の大公軍団長の姿だった。


「ごきげんよう、公爵夫人。……一昨年、地下墓地カタコンベで喉を掻き切って死んだ、私の死骸を検視して私と確定したのは、今の大公軍団長でございます。あの時のイリヤボルト・ディアマンテスは、まだこちらの手の中、『盾』として残した者共の束ねでしたのでね」

 ミルドラは表情を変えなかった。

「そうね。でも、もうその団長さんもカイエンのものよ。そうでしょう? 螺旋帝国へ向かったはずのあなた達が、ここに私を呼び出したのは、きっと、そのせいなんですもの。カイエンに宰相サヴォナローラ、それにあのシイナドラドの皇子様、子飼いの大公軍団長さんまで、次々と目が覚めてあなた達の支配から抜けちゃったんですものね。でも、もう、みんな大人なんですもの、それが当たり前だわ。いつまでも汚い大人のおもちゃじゃいませんよ」

 そう言うと、ミルドラはすうっと動いて、白い暮石、それはあのアルウィンの隠し子、カルロスの墓だったが、を守るように立ちふさがった。

「そうそう。あんな古い思い出を噂にして流してくれて、ありがとう。でも、兄上が死んだ後にしてくれて感謝してるわ」

 ミルドラは人の悪い笑いを浮かべた。その顔は蒼白だったが、声は怪しい高揚を含んで張りがある。

「カイエンもオドザヤも、私の娘達も、もうあれっくらいのことじゃ驚きゃしないもの。それでも、兄上が生きてたらちょっとバツが悪かったかもしれないけどね」

「姉さんは変わんないなあ」

 アルウィンは、何か言おうとしたグスマンを抑えて、ミルドラの顔を間近に覗き込んだ。そう、それは吐息がかかるほどの近さで。

「カイエン達はもう、大人になったんだろ? じゃあ、姉さん達はもう用済みだ。……呼び出されて、のこのこ出てきて、ここで殺されるとは思わなかったの?」

 それに対するミルドラの返答にはなんの揺るぎもなかった。

「あら。私が一人でのこのこ出てきたと思っているの? そっちもちゃんと周りに手のものがいるんでしょ? こっちも同じよ。そっちが動いたらこっちも動くわ」

 ミルドラは、彼女の侍女が待っている方角をちらりと見た。

「だから、さっさと言いなさいよ。私をここに呼び寄せてまで言いたかったことをね。この、あなたのかわいそうな息子の前で、言えるもんならねえ」

 その時。 

 さあっと吹き抜けた、五月の風が三人の中年の男女の服や帽子をはためかせた。

 そして。

 静かに、ただそこに佇む真っ白な暮石が、荒地にすっくと咲いた真っ白な百合のように、彼らの姿を黙って見つめていた。

  

 


 怒涛の過去謎解き開始です。

 一気にはいきませんが、この第四話、「枯葉」の中で過去の物語は全て出尽くす予定です。

 第五話からは、今を生きる人々の争いや葛藤になると思います。

 と言っても、第四話はまだまだ続きます。まずはオドザヤちゃんがすんなり女帝として即位できるか、です。

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