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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第四話 枯葉
93/220

桔梗星紋の謎

「イリヤ。アルベルト・グスマンというのは、どんな男だった? 先代大公に心酔していたと聞いているが、彼との関係はどんなものだったのだ?」

 カイエンの質問。

 結局、イリヤはそれに対してすぐには、はかばかしい答えをすることが出来なかった。

 カイエンとイリヤが見分を済ませた後、死骸にはこういう時のための灰色の毛布が掛けられた。衆目の好奇の眼差しから守るためである。

 その周りでは、実況見分が始められている。

 一昨年のモラレス男爵の時と同じく、工事中の開港記念劇場の夜警が隊員の質問ぜめにあっている。だが、有力な証言は得られていないようだった。

 イリヤは隊員たちの動きを目の端で追いながら、何度か口を開きかけたが、その度に彼らしくもなく躊躇し、ついに意を決したように顔を上げて言った言葉は逃げ口上のように弱々しかった。

「難しいんですよねえ。……俺は前の軍団長になんだか知らないけど気に入られてて、それで取り立ててもらったんですけどね。でも、前の大公さんと軍団長の様子を見てたのはほんの数年間のことですから」

 そこで言葉を切ると、イリヤは自分よりかなり下の方にあるカイエンの顔を見ることなく、港の方をしばらく眺めていた。

 まるで、一昨年、アルウィンがラ・パルマ号で去って行った方角を探すように。

「そうですねえ。うまく説明できそうにないんですけど、まずはグスマンのことから話しましょうかねえ」

「どこからでもいい。話してくれ」

 カイエンがそう言うと、イリヤは鉄色の目をちょっと細めた。

「うーん。年齢は前の大公さんとおっつかっつでしたよ。生きてたら四十、三、四かなあ。まあ、一昨年地下墓地カタコンベで頸動脈ぶった切って死んでたんですけどねえ。大公軍団長を辞めてからは女房の経営する女郎屋の主人だったわけですが、大公軍団へ入ったのは普通に一般公募に応じてだったみたいですよ。その前は港の港湾係の小僧だったとか」

 イリヤはそこまで言うと、一度考えるように黙り込んだ。

「あれぇ。でもおかしいな。十代で入団したって言ってたから、そうすると、グスマンが軍団に入ったのは前の前の大公さんの時ってことになりますねえ」

 前の前の大公とは、カイエンの大叔父に当たるグラシアノのことだろう。グラシアノ大公は今のシイナドラド皇王バウティスタの婚礼に参列するためにシイナドラドへ赴いたことがある。

「あいつが大公になったのは二十一の時だと聞いている」

 カイエンが言うと、イリヤはカイエンの方をちょっと複雑な顔つきで見た。カイエンがアルウィンをもはや「父」と呼ばない不自然さに気がついたのだろう。

「じゃあ、殿下の生まれる前なんですね。そういや、グスマンは見た目はぜんっぜん強そうには見えなかったなあ。実際には結構剣も使えましたがね。背もそんなに高くなくて。まさに中肉中背って感じでした。顔つきも穏やかで、どう見てもあんなひでえ拷問をするような男には見えなかったんですよ。……でもねえ。あの目だけは怖かった。そうそう、髪の色はくすんだ茶色でしたが、目の色は変わってたな」

「目の色?」

 カイエンはなんだか嫌な予感がした。

「……ほとんど金色、って言うか琥珀色? って言うんですかね。ああ、そうだ。リリちゃんの灰色じゃない方の目に近かったかなあ。でもグスマンのはいつも嫌な感じで底光りがしてて。なんだか金属の目玉がはまってるみたいだったなあ。あの目で見られると、どんな悪い奴も不気味だったみたいでね。拷問されるとよく吐いたっけなあ」

 カイエンは、現皇帝の皇女で大公の養女を「リリちゃん」と呼ぶ不遜な態度などは今更咎める気もしなかったが、リリの左目と似ていると言われた方は気になった。

 言うまでもなく、リリの左目の色は母親のアイーシャと唯一、似ているところだ。 

「まさか、な」

 カイエンはそっと呟いた。

 カイエンが知る限り、アイーシャには弟は二人いたが、兄や姉はいなかったはずだ。

 アルウィンと同年代とすれば、グスマンはアイーシャよりも七歳ほども年上になる。と、すれば親類縁者なのかもしれない。

 そこまで考えて、カイエンはハッとした。

(私はアイーシャの家の名前を知らない!)

 アイーシャが皇后に冊立された時、貧乏官吏だったアイーシャの父親は子爵の称号を与えられた。

 それ以降、わずか数年で一家全員が死に絶えるまで、彼らは「マスカレニャス子爵家」を名乗っていた。

 だが、それ以前の彼らの家の名前を、カイエンは知らなかったのだ。

 その、カイエンの様子を、イリヤは上から無表情に眺め下ろしている。    

 死体の前で突っ立って話している大公軍団の上から二人を、周囲の実況見分中の隊員たちが、不思議そうに見ていた。

 その時だった。

 一人の隊員がアストロナータ神殿の神官らしい、褐色の衣の中年男を連れて、駆け足で二人の前へやってきたのは。

「どうした?」

 イリヤが聞くまでもなく、隊員は顔を伏せて、息を整えながらも報告を始める。

「団長、自分はそのアストロナータ神の盾のことで、簡単に取ったスケッチを持って神殿へ確かめに行ってたんですが……」

「そう。それで? 神殿の像からはやっぱり盾が無くなってたのか」

 イリヤが聞くと、隊員は勢いよく顔を上げた。

「それなんですが、神官どもが変なことを言ってるんですよ。それで、この人に一緒に来てもらったんです」

「変なこと?」

 カイエンが聞きとがめると、隊員はやっとそこに大公であるカイエンがいたことに気がついたようだ。

「ひぇっ」

 と息を吸い込んで固まったのへ、カイエンは話の先を促した。

「いいから! 報告を続けよ」

「はいっ」

 まだ若い隊員は背を伸ばして敬礼すると、早口に続きを話し始めた。

「あのですね、神官どもが言うには、この盾はアストロナータ神殿の回廊に据えられている像のもので間違いなさそうなのですが……」

「うん、それじゃあ、これは盗まれてきたってわけになるね。それでぇ?」

 面白くなってきたらしく、ついさっきまで歯切れの悪い物言いだったイリヤの声にいつものとぼけた元気さが戻ってきた。

「はい、でもこの盾、盗まれたままじゃなさそうなんです」

「盗まれたままじゃない? どこかおかしいのか」

 カイエンが聞くと、若い隊員はなんとなく眩しそうにカイエンの方を見た。

「は、はい。ここの、この星のところが神殿にあったものと違うそうで……」

 すると、そこまでは黙って隊員の脇に控えていた、中年のアストロナータ神官がここで口を挟んで来た。カイエンとイリヤへ深々と礼をしてから話し始める。

「あの。私にそのアストロナータ教団の紋章と言うのを見せていただけないでしょうか。先ほど、こちらの方に見せていただきましたスケッチの紋章には、ちょっと変なところがありましたのです」  

 カイエンとイリヤは思わず、顔を見合わせた。

「そうなの? じゃあ、見てよ。悲惨な死体だけど、神官さんなら大丈夫だよね」

 イリヤがそう言うと、いつの間にかそばに集まって来ていた実況見分の隊員の一人が死骸にかけられていた毛布をそっと持ち上げる。実況見分が終わるまで、死骸は発見時のまま置かれていたのだ。

 もちろん、遠巻きに見守る野次馬には見えない方向である。

「失礼いたします」

 中年の神官はそっと身をかがめ、死骸の左手がまだしっかりと掴んでいる、アストロナータ教団の紋章入りの盾を見た。

「おお!」

 見るなり、神官は恐ろしそうに身じろぎした。この奇天烈な格好を取らされた大公宮の侍従の死骸は、神職にあるものをも慄かせるものだったようだ。

 それでも、神官は低い声で死者への祈りを捧げると、すっくと立ちあがった。

「恐れ入ります。この盾は間違いなく、アストロナータ神殿の回廊にございます神像のものに相違ありません。ですが、なんと言うことでしょう……この盾の紋章は汚されておりまする」

「汚されてって……別に汚れてはいないけど」

 イリヤが口を尖らすと、神官は静かに首を振った。

「いえ、汚れのことではございませぬ。この五芒星の中の花の文様、これはもともとは無かったものなのでございます」

「ええ!?」

 カイエンとイリヤ、それに周りの隊員たちもが揃って盾の表の精緻な文様に注目する。

 確かに、銀色の五芒星の中には、花のシルエットを形どった絵柄が描かれている。だが、よく見ればそこだけ絵の具の色が新しい。銀色の古ぼけた塗料の上に描かれた花の色は、灰色とも紫ともつかない青黒い色合いだ。

「あーあ。この花かあ」

 イリヤも絵の具の違いに気が付いたらしい。

 カイエンは注意してその花の文様の輪郭を目でなぞっているうちに、鳩尾のあたりから冷たいものがせり上がってくるのを感じた。

(この花は、まさか……)

 カイエンが湧き上ってくる恐ろしい疑惑に息を止めた時。

 神官がため息交じりに言うのが聞こえた。

「この隊員さんが持ってきたスケッチでも見ましたが、これは、桔梗星紋でございます。私も見るのは古いアストロナータ教団の歴史書以外では初めてでございます。若い神官たちの中には知らないものも多いでしょう。ですから、私がそこの隊員殿について参りました」

 桔梗星紋。

 言うまでもなく、今やカイエンの敵となったアルウィンが仲間を集め、子供たちを集めて良からぬ企みをしていた、あの桔梗館の「桔梗」だ。これはもちろん、偶然の一致などではないのだろう。

「この、桔梗星紋と言うのは、汚れたものなのか」

 カイエンが問うと、神官は急いで首を振った。

「いいえ、いいえ。先ほど私が『汚されている』と申したのは、神聖なアストロナータ神の五芒星の上に新たに文様を描き足した不心得に対するものです」

「なるほど。ではこの桔梗星紋について教えてくれ」

 カイエンが促すと、神官は深々とうなずいた。 

「桔梗星紋とは、この花だけのことではありません。周りの五芒星と一緒になって初めて桔梗星紋となります。……これは、このハウヤ帝国建国よりも古い時代に、現在のアストロナータ教団から分派した、桔梗星団派という宗派の紋章でございます」

「桔梗星団派?」

 カイエンは、もちろん初めて聞く名前である。

「現在のアストロナータ教団も、国によって様々な宗派がございます。ですが、大元の教義は同じ。ですから宗教問答などは起こりえません。ですが、桔梗星団派は少し違います」

 ここまで聞くと、実況見分中の隊員たちは皆一様に首を振って、見分に戻っていく。難しい神官の教義話などはカイエンやイリヤに任せようと言うのだろう。

「これは私も神殿の歴史書で読んだだけですから、真実とは開きがあるのやも知れません。歴史書に拠れば数百年前、シイナドラドでは次期星教皇の選出で真っ二つに国が割れたことがあるそうです。そして、内乱に近い状態にまで陥ったようです」

 内乱。

 カイエンは鋭く思い出していた。

 シイナドラドでカイエンをフィエロアルマから引き離した理由の一つは、内乱でも恐れているかのような国内の軍備を見られないためだったと言うこと。

 だが、それはカイエンを追ってシイナドラドに潜入した、ザラ大将軍の影使い二人とガラに見られている。それを見た中でガラだけは生き残り、このハウヤ帝国帝国に戻ってその報告をしているのだ。

「その時、争いに敗れてシイナドラドを追われたのが、桔梗星団派だそうです。また、これは後世、とある神学博士が唱えた説ですが、三百年前にここハウヤ帝国を建国したシイナドラドの皇子、サルヴァドールその人こそが、その時内乱で敗れた桔梗星団派の担いだ星教皇候補だったのではないか、とも言われています」

「へぇ〜」

 イリヤの馬鹿にしたような軽い受け答えを、カイエンは壁越しに聞くような距離感で聞いた。

 カイエンの知らなかった歴史。

 だが、当然知っていたはずなのに、彼女にあえてそれを話そうとはしなかった者がいる。 

「あのクソ宰相め!」

 カイエンは側のイリヤでも聞き取れないほど、小さな声で吐き捨てた。

 あのサヴォナローラがこのことを知らなかったはずがない。彼は間違いなく、意図的にカイエンたちに話さなかったのだ。

 どす黒い疑惑が、カイエンの胸のうちで渦巻いた。

 どうしてサヴォナローラはアストロナータ教団の歴史の中にある、桔梗星団派のことを黙っていたのか。

 アルウィンの作った桔梗館。

 そこに集った者共。

 それはまだ、桔梗星団派がこの世に存在する証ではないのか。

「で、その桔梗星団派は、今、どうなっている?」

 カイエンは中年の穏やかな顔をした神官に聞いた。その声は低く、やや嗄れていた。

「わかりません。ですが、このハウヤ帝国帝国の歴史上にその名前がないことだけは確かなことでございます」

 アストロナータ教団の歴史には詳しくなかったカイエンも、この国の歴史はその身分がらすべて頭に入っている。確かに、この国の歴史書に桔梗星団派は出てこない。

「……よく話してくれた」

 カイエンは神官をねぎらった。

「最後に一つ聞きたい。貴殿はこの死骸が、アストロナータ神殿から盗み出され桔梗星紋を描き足された盾と、我が大公軍団支給の剣を持って殺されていた理由に何か思い当たるところはあるか」

 神官はびっくりしたように、やや目を見開いた。そんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。

「なにをおっしゃいます。そのようなこと、私には何も思い当たるようなことはございませぬ。私が言えるのはただ、この盾に描かれていたのは五芒星で、元々は桔梗星紋などではなかったと言うこと、それのみでございます」

「そうだろうな」

 カイエンは侍従の死骸を恐れげもなく見ながら、心の中では凄まじい速さで様々なことを考えていた。 

 サヴォナローラはなぜ、カイエンに桔梗星団派のことを黙っていたのか。彼は桔梗館に集められた子供達の一人だった。当然、桔梗星団派とアルウィンとの関係に気がついてたはずなのだ。

 そして、逆にこの侍従殺人事件の犯人はなぜ、カイエンにこのことを知らせようとしたのか。

 こんな判じ物めいた殺人を犯さなければ、カイエンはこのことをもっとずっと後まで知らずにいたはずなのだ。

 では、犯人はアルベルト・グスマンの方法を用い、桔梗星団派を暗示する盾を用意して、わざわざカイエンに気付かせたことになる。

「ああ、頭がおかしくなりそうだ」

 だが、これだけは確かになったことがある。それはアルウィンが娘のカイエンを星教皇にさせようとし、事実としてそれを実現したことは、きっと古の時代の桔梗星団派に繋がっているのに違いないということだ。

「さあ。どうしたもんか」

 カイエンはイリヤに手を振って、事件現場を後にしながら考えていた。

 桔梗星団派のこともそうだったが、アイーシャと同じ目の色をしていたというアルベルト・グスマンのことも気にかかっていた。グスマンがアルウィンの腹心の部下だったとすれば、どこかでアイーシャと繋がっていてもおかしくないように思われたからだ。

「そうか!」

 カイエンは己の不明を呪う気持ちだった。

 カイエンに桔梗星団派のことを話さなかったサヴォナローラだけではない。

 若い頃のアルウィンを知っていたであろう、年長者たち。

 執事のアキノ、乳母のサグラチカ、叔母のミルドラ、ザラ大将軍にザラ子爵。それに、あの皇帝サウルもだ。

 彼らすべてが意図的かそうでないかは分からぬながらも、なにがしかの事実を未だにカイエンに開示しようとしないままでいるのだ。

 だが、一方で彼らが去年からのあれこれの間に、カイエンを案じてくれた気持ちには偽りはないだろう。カイエンには去年、帰国後にカイエンが陥った状況に対する彼らの心配と心労に嘘はないように思えた。

 だが、彼らは、あの親世代の者共には、子世代のカイエンたちに未だ、話さないでいる共通の秘密があるのだ。意図したものかそうでないのかはわからないながらも。

「なんてこった」

 カイエンは忸怩たる思いとともに、馬車に乗り込んだ。

「私を操り人形にしたいのは、あいつだけじゃないってことか」

 どいつもこいつも。なんであの方々はこうも隠し事をしたがるのか。

「あっは、は」

 乾いた笑いが、カイエンの喉から絞り出された。

「……どいつから責め立ててやるかなあ」

 彼女らしくもない皮肉な笑みが頰に昇る。だが、カイエンは自覚していた。そんな意地悪な考えは自分の地から出てきたものではないこと。これは、裏切られたと思う心の傷が作った演技であることを。

 だが、それでも彼女は知らなければならなかった。

 隠された真実。

 彼女を引きずり込んだ者たちの真意を。





 エルネストの元に、大公宮への引っ越しが告げられたのは、もう五月が始まった麗らかなある日の夜のことだった。

 大公宮の侍従の殺人死体が発見されてから数日の後の事である。

 それを彼に告げたのは、シイナドラド大使のガルダメス伯爵だった。

「殿下。お引っ越しにはヘルマン一人を伴うように、とのお達しです」

 そう告げたガルダメス伯爵ニコラスの顔には皮肉な微笑みが浮かんでいた。

「殿下。殿下があのような結婚契約書に署名なさるからいけないのですぞ。あなたの財産も意志も、もはやあの女大公殿下のなされるがまま。私とても一言の異論も挟めませぬ」

「申し訳なかったね」

 それに答えたエルネストの声はなぜか弾んでいた。

「まあ、俺はともかくヘルマンはあの結婚契約書には縛られてねえからな。連絡はうまくやってくれよ」

 そう言って、エルネストがガルダメス伯爵の部屋を出て、大使公邸の二階へ上がると、そこにはしかつめらしい顔のヘルマンが待っていた。

「エルネスト様、お客人です」

「へえ。早速だな」

 エルネストは予期していたらしい。

 彼が自分の居間に入っていくと、そこにはあの、『盾』の男が待っていた。

 今日も、男は大公軍団の署長級の制服姿だ。

「ガルダメスは知ってんのか?」

 エルネストが問うと、男はにやりと皮肉な笑いをその顔に貼り付かせた。

「さあて。どうですかな」

 男はしたたかにはぐらかした。

「今日はまた、何の用だ? 俺が結婚式でカイエンに言ったことを責めに来たのか」

 エルネストはあの結婚式で、カイエンに迫られてアルウィンの居場所について白状させられている。

 エルネストは一つだけの漆黒の瞳で男を見ながら、その向かいのソファに座り込んだ。

「俺は明後日には大公宮の後宮の一番奥のお部屋にお引越しだ。さすがにお前も大公宮の後宮までは訪ねて来られまい。お別れの挨拶かなんかか」

 『盾』の男は、エルネストの揶揄には乗って来なかった。

「大公の後宮には、あなた様を襲った狼がおりますぞ」

 エルネストは動じなかった。

「ああ。あの俺に噛みつきやがった狼野郎か。あいつ、宰相の弟だって言うじゃないか」

 エルネストの背後で、ヘルマンがわずかに身じろぎしたようだ。

「ふふふ。ご存知でしたか。それなら昔、桔梗館でお会いになっているのではないのですかな」

 『盾』の男はなんだかうれしそうだ。

「さあてなあ。兄貴の宰相の方はさすがに覚えてるが、弟の方は覚えてないな」

 エルネストは正直に答えた。

「あいつがどうかしたか」

 エルネストがヘルマンの差し出した酒のグラスを受け取り、一口、口に含むと、男も同じように酒に口をつけた。

「恐ろしくはないのですか」

 聞くなり、エルネストは吹き出した。

「はっは。俺の右肩はまだ元どおりには動かねえんだぜ。あんなケダモノのいるところに行きたくはねえよ」

「だけどな。面白そうな所だぜ。カイエンの後宮ってのは」

 エルネストは愉快そうだ。

「このヘルマンが大公宮へ挨拶に行った時、カイエンは二匹のケダモノを引き連れてたんだそうだ。俺を襲った奴ともう一匹とな。……そのもう一匹の方がカイエンのお気に入りなんだってな」

 『盾』の男の表情が引き締まった。

「ヴァイロンは大公殿下の唯一の公式な男妾。それは皇帝の命令で決められたことですので」

「そうだってなあ」

 エルネストはあくまでも愉快そうに続けた。

「でも、公式じゃないのが他にも後宮に住んでるんだろ」

 『盾』の男は用心深く沈黙している。

「ご警告、ありがとう。だがな、これだけはあの人に伝えてもらおうか。俺はもう選んじまったんだ。あの人じゃなくて、カイエンの方をな」

 エルネストの低い声が、『盾』の男の顔を撫で上げた。

「あの人への気持ちは変わらない。だが、俺はあの人の世代じゃないんだよ。俺はカイエンと同じ世代なんだ。人間はな、同じ世代の奴らとつるみたがるもんなんだ」

「そうでしょうね」

 男の声がわずかに震えていたのを、エルネストとヘルマンはしっかりと聞き取っていた。

「それはそうでしょう。それでは、お暇いたします。ですが、殿下、あなたはまだ我らの手の内ですぞ。自由になれたなどとは、ゆめゆめ、思いなさるな」

 エルネストは当然だ、という顔をした。そして、こう言い切った。

「自由か。いい言葉だな。それを手に入れる時が楽しみだ」

 と。

 

 男が去って行った後、エルネストは酒のグラスを片付けているヘルマンに聞こえるように呟いた。

「面白えなあ。シイナドラドに残らなくてよかったぜ。その点ではあの人に感謝だな」

 その後に続いた低い笑い声は、しばらくの間止まることがなかった。






 そうして。

 エルネストは五月の初旬、侍従のヘルマン一人を従えて、大公宮の後宮へ引っ越して来た。

 大公宮の後宮へと繋がる、青銅の扉。

 カイエンは立ち会わなかったが、そこには大公宮のカイエンのそばに仕える男たちが打ち揃っていた。

 ヴァイロンの姿だけがないのは、血の雨が降らないようにと皆が彼を押しとどめたからだった。

「皇子殿下、ようこそ大公宮へ。私は大公殿下の執事、アキノと申します」

 そう言って、エルネストと後ろに控えるヘルマンの前で挨拶したのは、執事のアキノだった。アキノはもちろん、カイエンとエルネストの間に起きた出来事を熟知している。だが、その声にはなんの感情もこもってはいなかった。

 アキノの後ろにはマテオ・ソーサ。

 その後ろにはガラとシーヴ。それになぜかイリヤの姿があった。

 自分にひどい怪我を負わせたガラの姿を認めても、エルネストの表情は動かなかった。この辺りの感情を制御できるところは、変わっているとは言ってもさすがは大陸で一番古い国の皇子だけのことはあった。

 アキノは静かにゆっくりと、教授から始めて、その場に集った面々を順々に紹介していく。紹介されると、皆は一応、それなりの礼儀を示した。

 その中で、シイナドラドのリベルタでエルネストを見ているシーヴの顔は真っ青だった。彼はエルネストを睨んだままで、胡桃色の目は彼らしくもなく爛々と燃えていた。

 イリヤの方はにやにやと嫌な笑みを浮かべて、エルネストを見ているだけだ。

 それを目にしたエルネストの顔が、にわかに厳しく引き締まった。馬鹿にされたと思ったのかもしれなかった。

「案内せよ」

 だが、エルネストは教授やガラ、シーヴやイリヤにも一言の挨拶さえくれることなく、すぐにアキノへそう促した。

「は」

 アキノの方も、落ち着いたものだ。

「では、こちらへ」

 アキノの痩せた背中の後を、エルネストとヘルマン二人の大柄でたくましい背中が追っていく。さらにはアキノとエルネストたちを挟むようにして、教授とガラが続いた。

 その後ろ姿を見送ったイリヤとシーヴ。

「あんなに怖い顔で睨まなくってもいいのにねえ」

 後宮へ入っていくエルネストたちを見送ったイリヤが、ため息をつきながらシーヴに言う。

「せっかく、ご挨拶に出たってのに、下々に見せる愛想はないって言うのかねえ」

「知りませんよ。あんな人たちのことなんか!」

 シーヴが珍しくも不機嫌そうに応じた時には、エルネストたちの姿は後宮の中へと消えていた。


 後宮の青銅の扉の両脇には、シェスタとナランハの女騎士が控えていた。

 アキノが目配せすると、女騎士二人は黙って重い青銅の扉を開けにかかった。

 その向こうには長い長い中庭を巡る回廊。

 アキノに連れられて、エルネストとヘルマンはそこへ足を踏み入れた。後ろから、ここの住人である教授とガラが静かに付いて来ている。

「こちらが青牙宮、今はガラが住んでおります」

 最初の区画の大扉の前で、アキノがエルネストを振り返って言った。

 エルネストが黙ったままでいると、アキノは何事もなかったかのように次の区画へと回廊を曲がる。

 そこには、あれが待っていた。あの、肖像画が。

 二人の男女が寄り添っている肖像画。

 男の方は二十歳前後。女はまだ十代の幼さを残した美貌の、「前大公夫妻」の肖像画が。

 仲良く腕を組んで、画面におさまる二人は、幸せに満ちた微笑を浮かべて画面に収まっている。 

 あの日、カイエンを驚かせた肖像画が、今また、エルネストを驚かせた。

 驚きを隠せないエルネストをアキノは静かに見上げた。

「カイエン様にそっくりでございましょう? あなた様にも似ておりますが、これが前の大公殿下アルウィン様です」

 アキノはすでにエルネストとアルウィンの関係を知っている。なのに、知らぬふりでこう説明するのである。

「お隣の大公妃様はもうおられませんが」

 確かに大公妃アイーシャはもういない。彼女は今、皇后と呼ばれているのだから。

 アキノはそう言うと、エルネストを後宮の奥へと誘った。

「こちらが象牙色の波のお部屋です。マテオ・ソーサ先生がお住まいです」

 次の部屋の前でアキノがそう言うと、ガラを従えた教授がそそくさと前に出て来た。

「畏れ多いことですが、私が皇子殿下の隣人となります。よろしくお願い申し上げますよ」

 エルネストはそう言う教授を、嫌そうに眺めやった。こんな平民の中年男と一緒にされたくないとでも言うように。

「俺の部屋はこの奥か?」

 エルネストが促すと、アキノは後宮の奥を優雅な動きで指し示した。

「さようでございます。殿下の部屋はこの後宮の一番奥のお部屋になります。……カイエン様からお聞きしましたが、皇子殿下には黒から銀色に繋がる色合いがお好きだとのこと。きっと気に入っていただけると思います」

 エルネストはちょっと驚いた。彼は自分の趣味をカイエンが見通しているとは思ってもいなかったのだ。

 アキノに連れられて、いくつかの締め切ったままの区画の前を通り過ぎる。

 やがて、回廊のどん詰まりに、黒から白へと変化する色合いのタイルで覆われた一画が見えて来た。

「こちらでございます」

 アキノは後宮のどん詰まりの区画の扉を静かに開いた。

「お荷物はもう、お部屋の中にお運び入れてあります。殿下のお食事は大公殿下の料理人が作らせていただきましたものを、ここまでお運び致します。細かいことは後ほど、そちらの侍従殿と打ち合わせ致しましょう」

 そう言うと、アキノは後をヘルマンに託して下がっていく。

 それを見送って、エルネストはこれから自分が住む区画へ足を踏み入れた。

「へえぇ」

 扉のすぐ内側は小さな控えの間であるらしく、奥へと続く黒っぽい木の扉がそれに続いていた。周りをぐるりと取り囲むのは、外を彩っていたタイルと同じ、黒から白へ変化するガラスタイルと、真っ白な漆喰で彩られた壁。

 床は白と黒の大理石で組まれた幾何学模様で覆われていた。

 エルネストはそれらを見ながら、満足そうに奥へと入っていく。

 それを追うヘルマンの目の前に、広い居間が広がった。

 居間は小さな箱庭のような中庭に面しており、中庭の向こうには高い石造りの壁がそびえ立っていた。後宮に収められた寵姫たちが逃げ出すことがないように整備されたものなのだろう。

 それでも、綺麗に整えられた芝生と石畳に覆われた庭には、春の花が綺麗に咲き誇っていた。 

「悪くねえな」

 そう言って、エルネストは居間のソファに座り込む。そのソファもまた、重厚な木組みに鈍い銀色の生地が張られたもので、生地の方は最近張り替えたものらしく新しかった。

 ヘルマンは侍従としてこの区画の様子を知る必要があったので、エルネストを置いたまま、居間から続くいくつかの部屋を見分して行った。

 この区画の中心は居間であるらしく、そこから続く扉の奥には大きな寝台の置かれた寝室があり、そこにはエルネストの荷物が運び込まれていた。また、別の扉の向こうには食堂らしい大きな漆黒の黒檀のテーブルが置かれた明るい部屋もあった。

 他には書斎らしき部屋もあり、寝室の隣には立派な浴槽の置かれた、全面タイル張りの浴室もあった。

 一番小さい扉の奥は召使いの住む部屋へ続くもので、井戸に面して簡単な調理の出来そうなかまどのある場所も設えられていた。飲み物などの支度はここでするのだろう。

 ヘルマンはそこまで見て回ると、居間へ戻ったが、そこで見た光景に目を見張った。

「おう。見分は終わったか」

 そう言うエルネストの腕の中には、白地に茶色のぶちの細長い猫が抱かれていたから。

「どうしたんですか、その猫?」

 ヘルマンが聞くと、エルネストは首をかしげた。

「知らねえよ。俺たちの後から入ってきたんだよ。人懐こい猫だな」

「みやぁー」

 エルネストもヘルマンも未だ知らなかったが、それはカイエンの飼い猫であるミモだった。

「簡単に外へは出られなくなっちまったが、まあまあ居心地は良さそうだ。俺はここに囚われ人だが、お前はうまく立ち回って外にもつなぎをつけろよ。……はは。この大公宮には『盾』の奴らがしっかり混じり込んでる。せいぜいうまく立ち回らなくっちゃな」

 そう言うエルネストの顔はなんだかうれしそうで、生き生きとして見えた。 

「カイエンには悪いが、俺も自分の命の心配をしながら、自由とやらを手に入れる算段をしなけりゃならないからなあ」

 黙ったままエルネストを見るヘルマンの目には明らかな危惧の色があったが、彼もまたエルネストに仕える以上、せいぜい上手く立ち回らなければならないのだった。

 ヘルマンは重い足取りで、猫と戯れるエルネストに何か飲み物を準備すべく、居間から下がって行ったのだった。 

    

   

 

 

 謎が謎を呼んでおります。

 変態が猫と戯れる大公宮の後宮も、いつまで平穏かはわかりません。

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