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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第四話 枯葉
91/220

チェマリの亡霊

 カイエンが、鏡を避け、それを見ないようにしている自分に気がついたのは、まだシイナドラドで囚われの身だった時だ。

 彼女の身の回りの世話をしてくれていたヘルマンが、朝の洗顔などの後に差し出す鏡。

 いつの間にか、カイエンはそこに映った自分の顔をなるべく覗き込まないように視線をそらすようになっていた。

 はっきりと自覚したのは、リベルタでジェネロたちの元に戻った直後のことだった。

(馬鹿か、あんた。鏡持ってきて見せてやろうか。……泣きそうな顔してるんだぜ)

 ジェネロのその言葉を聞いた時、すぐに思ったのは、冗談じゃない、鏡など見たくない、という強烈な拒否の気持ちだった。

 あの時、カイエンは頭をがつんと殴られたような気がした。

 鏡の中の自分の顔が見られない。

 いや、正確に言えば、無理におのれを叱咤して見ようとすれば見られる。だが、見た途端に何か叫び出したいような、地面から足が浮いてそのままどこかへ行ってしまいそうな、天地がひっくり返りそうな、凄まじい不安感を覚えるのだ。

 自分の顔が恐ろしい。

 その原因はすぐにわかった。

 一つはシイナドラドで囚われの身になってから、自分の顔が日に日にやつれていくのを見続けていたからだろう。だが、これだけが原因ではない。それは帰国して体が回復しても鏡が見られなかったことでわかる。

 だから、二つ目の理由は、エルネストだ。

 自分によく似た顔の男と男女の関係になっているという事実を、体はともかく精神は許容していないのだ。嫌悪しているのだ。

 彼女とエルネストの顔は偶然の相違ではない。エルネストと彼女の父のアルウィンは従兄弟に当たるのだから。

 いや。

 正確にはそれだけではないのだろう。

 カイエンはジェネロの言葉で我に返ってから、考えたくないことではあったがそのことについては何度か考えた。きちんと考えなかれば自分はおかしいままだと思ったからだ。

 同じような顔の男なら、以前にも自分のすぐそばにいた。

 言うまでもなくそれは、父であるアルウィンである。

 アルウィンとエルネストと、どちらがよりカイエンに似ているかと言ったら、それはもちろん、アルウィンだ。

 二十歳になった、現在のカイエンの顔は、大公宮の後宮に飾られている、あの新婚のアルウィンとアイーシャの肖像画の頃のアルウィンと生き写しといってもいいほどだ。

 だが、アルウィンは父だった。

 父と娘が似ていることは不思議なことでもなんでもない。その類似の程度は異なれども普通にあることだ。

 だが。

 カイエンはシイナドラドの首都、ホヤ・デ・セレンの皇王宮の地下宮殿での星教皇の即位式で、見ている。

 彼女にそっくりだった、あのアストロナータのものだと聞かされた不朽体。あれが偽物の人形だったとしてもあの顔はカイエンによく似ていた。そう、父のアルウィンと同じほどには。

 そして、彼女の即位を手を叩いて喜んでいた、あの二階にいた男。

 五年前に死んだはずの父、アルウィンの生存はすでにカイエンの中では確信となっていた。その父の後ろ姿にそっくりだったあの黒っぽい紺色の衣装の背中。

 事あるごとに、「あの人」を語るエルネスト。

 そのエルネストはあの時、なんと言ったか。

(まだだめなんだ。あんたはまだ、あの人には会えない)

(あんたの即位式にだけは立ち会いたいって言うから、隠れて見ていてもらっただけなんだよ、……だけど、いくらうれしいからって、拍手しなくてもいいのになあ)

 あの時はまだわからなかったが、エルネストのあの言いようは。

 アルウィンが生きている。

 生きて、娘であるカイエンを操って、何かを成し遂げようと蠢動しているということではないのだろうか。

 その頃には、カイエンはもう父であるアルウィンへの見方を百八十度、変えていた。

 あの男は自分の娘をおのれ自身か体の一部であるかのように使おうとしている。意のままに操ろうとしている。

 いや、あの男にはおのれと娘が違う人間であると言うことが、その根本で理解できていないのかもしれない。

 一回、そう気がつくと、カイエンは子供の頃からアルウィンがいなくなった十五の時までのあれこれが腑に落ちた。

 アルウィンにとってのカイエンは、おのれの一部と同じなのだと。おのれの一部同様に操れる分身なのだと。そしてそれは、アルウィンとカイエンが外見的にあまりにも似ていたからなのだと。

 そして、自分に似ているというその一点でだけ、アルウィンにとってカイエンは価値があるのだと。

 それは、彼のカルロスへの扱いを見れば明白だ。カルロスの母は下町の女だが、カイエンの母のアイーシャだとて貧乏官吏の娘なのだ。母親の身分で差別していたとは思えない。

 いや。

 もしかしたら、かなり早い時期から、アルウィンは娘のカイエンがもう二十年も空位のままの「星教皇」になれる唯一の存在であることに気が付いていたのかもしれないのだ。


 そう、はっきりと気がついてしまえば。

 カイエンの心の中のアルウィンは、もはや嫌悪の対象でしかなかった。


 エルネストへの嫌悪はその延長線上にある。

 それは、おそらくはアルウィンを「あの人」と呼ぶエルネストもまた、アルウィンの手駒の一つなのだと気がついてしまったからだ。

 自分をいいように弄んだエルネストを焚きつけたのもアルウィンなのだと、気がついてしまったからだ。

 そう分かってしまえば、エルネストもまたアルウィンの被害者なのかもしれなかった。もちろん、彼がカイエンにしたことを許す気にはならなかったけれども。

 リリを引き取りたいとふらふらの体で皇宮へ上がった時。

 皇帝と宰相サヴォナローラにアルウィンを告発した後。

 大公宮へ戻ったカイエンはこのことを、ヴァイロンにだけは話した。

 それは、カイエンの容体が落ち着いた頃のことで、ヴァイロンと二人きりになったある夜の事だった。

 その時の、ヴァイロンの驚き。

 そして、彼もまた、その時、やっと気がついたのだ。

 

(ねえ。君さあ、あの子が、欲しい?)

 十二の時。

 あの、大公宮の裏庭。

 あの、微笑みたたえる白い庭で。

(僕が君をカイエンに見合う男にしてあげる。だから、その時が来たら、君はカイエンのものになるんだよ)

(……約束だよ)


 あの言葉の通りに。

 ヴァイロンは獣神将軍になり、そして皇帝サウルの一言で女大公の男妾に落とされた。

 だが、ヴァイロンが将軍になっていなかったら、それさえあり得ないことだったのだ。そして、ヴァイロンが士官学校へ入れたのも、将軍まで上り詰めたのにも、その背後にはいつも当時の大公だったアルウィンがいたのだ。

 ヴァイロンは、あれはアルウィンが約束を守ったのだと、ただただ、そう思っていた。

 だが。

 あれもまた、アルウィンの目的のための置き石の一つだったのか。

 驚愕がヴァイロンの体に電撃のように伝って落ちた。

「なんてことだ」

 驚愕が去ると、ヴァイロンもまた、カイエンに話した。

 あの、青いハチドリが極楽鳥花に群がる白い庭で、アルウィンが彼に言ったこと。そして、その結末を。

 ヴァイロンは、語り終わるなり、大きな体をカイエンの足元に投げ出した。

 カイエンの顔を、もうまともに見ることもできなかった。急に自分が薄汚いものに見え、堪らない気持ちになった。

「許してください」

 カイエンの意思を無視して彼女を傷つけたことでは、自分もあのシイナドラドの皇子も同じなのだと思ったからだ。

 だが。

 カイエンの答えは彼の予想とは違っていた。

「それは、目が覚めたら、もう私のことが嫌いになったと言うことなのか?」

「えっ」

 カイエンの目は据わっていた。怒っているのだ。

「……私はもう、あの男のやり口にはうんざりしているんだ。もう、死ぬまであいつを父とは呼ぶつもりはない」

 それは、カイエンのアルウィンへの宣戦布告とでも言うべきものだった。

「でも、あいつがしでかしたことの中にも、感謝すべき出来事は、ある」

 カイエンはヴァイロンの顔を両手で包んだ。男の肌の手触りは乾いていて、そしてしっかりとしていた。

「あいつに操られていたことに気がついて、私が嫌いになったのなら仕方がない。……そうなのか?」

 ヴァイロンは自分で意識する前に顔を激しく横に振っていた。

「いいえ! いいえ!」

「違うのか」

 優しい目元と口元に、あるかないかの微笑みを浮かべ、意地悪そうな顔をしたカイエンは、あの日のアルウィンとそっくりだった。

 そのことにヴァイロンはかえって安心した。どうしてだかはわからない。

「カイエン様は、変わられました」

 自分の言った言葉に、ヴァイロンはびっくりした。そんなことを言うつもりなどなかったからだ。

「そうか」

 一方、カイエンの方はどきりとしたが、その感情を固まった微笑の中に押し殺した。

「……カイエン様はもはや大公としてこのハウヤ帝国になくてはならぬお方におなりです。そして、リリ様を引き取られ、人の親となられました。もはや、皇帝陛下の姪でも、アルウィン様の娘でもありません。一人のカイエン様なのです」

「なに?」

 カイエンはびっくりして目を見張った。ヴァイロンの言ったことは彼女にはまったく、予想外のことだったからだ。

「そして、カイエン様は変わらず私の唯一です。……これは、最初にお会いした時から変わりません」

 なんだそれ。

「どうして、そう言い切れるのだ?」

 カイエンは微笑を消し、不満そうに色の悪い頰を膨らました。眉もしかめられて、眉間にしわが寄っている。灰色の目が生き生きとした輝きを宿す。それは、心の内をすべてさらけ出した、裏も表もない子供のような顔だった。

 その顔はもう、アルウィンとはちっとも似ていなかった。アルウィンはきっと、こんな表情はしたことがないに違いない。

 ヴァイロンは思い出した。

 あの時。初めてカイエンを見たときに、庭で転んだ後のカイエンは確かにこんな顔をしていたと。

「あの時。アルウィン様と一緒に裏庭へ来られたカイエン様は、小さくて、本当にかわいらしかった。そして、今のリリ様と同じように、小さいのにどこか力強いところがおありだった。あの時、アルウィン様に声をかけられる前から、私はカイエン様から目が離せなくなっていたんです」 

 ヴァイロンは床に膝をついた姿勢のまま、立っているカイエンの腰にそっと手を回した。

「ハーマポスタール大公カイエン様。私の命と存在は、今までもこれからもあなた様一人のものです」

 ヴァイロンはみるみる赤くなるカイエンの顔を見上げながら、思っていた。

 ああ。

 こんな顔もあのアルウィン様は絶対にしないに違いない。するとしたらそれはとても嘘くさい顔になるだろう。誰にでもわかるような。

(あなたを大切に思っているのは、今や俺一人ではないのですけれどもね)

 あの、ジェネロやシーヴも言っていた。

(あの人はこの街に必要な人だ。よく分からねえが、きっとあの人こそが、この先何があろうとこの街を守ってくれる人だ。俺はなんでか知らねえが、それだけはもうわかった。……もしかしたらこの先、この街がこの国じゃなくなるような時代になってもな。この街を、俺の家族を守ってくれるのは大公殿下だ。そして、ここにいる奴らはそれを助けるに違いねえ。だから俺はあの人を守るよ)

(カイエン様はこの街の未来に必要な方なんです。あの方だけがきっと、この先この街を守ってくださる方なんです。それは殿下お一人だけのことじゃない。殿下に関係がある俺たち全てがそうなんです)

(でも、殿下がいなかったら、俺たちは一緒になれないんです)

 恐らくは、彼らにとってのカイエンはこの街そのものなのだ。

 そして、この街を彼女が守ろうとする限り、彼らは彼女の元で戦う。

 その中でも、自分は彼女の「唯一」にならなくてはならない。彼女が自分の「唯一」であるように。

 ヴァイロンはもう、アルウィンのことは考えなかった。

 ただ一つ確かなのは、彼がカイエンの敵となった今、もはや彼の意に従うことはない、と言うことだけだった。 


 そして。

 カイエンはすぐにアルウィンが若い頃、そう、十代の終わりから、あのカルロスを下町の女に産ませた頃までのことを調べさせた。

 二十年前の事ではあったが、まだ、その頃のことを覚えている人々は何人もいた。

「へえ」 

 鏡をまっすぐに覗き込むことはまだ出来なかったが、大公宮表の執務室で調査報告書を読み下したカイエンは、面白そうに笑っていた。

「亡霊め。大人しく死ななかったことを後悔させてやる。もう、お前のさせたいようには決して動かないぞ」

 そう言うカイエンの顔は強い意志に溢れ、灰色の瞳はぎらぎらと燃えていた。







 そして、時はカイエンとエルネストの悲惨な結婚式へ戻る。

「もとより祝福された婚姻ではございません。そのことはご存知のはず。さあ、こちらへご署名を」

 宰相サヴォナローラ、大将軍エミリオ・ザラ、それにクリストラ公爵夫妻の四人だけが立ち会った、カイエンとエルネストの結婚式。

「ここにはアストロナータ神官である私も立ち会っております。シイナドラドの形式にもこれで法っているはずです」

 そう言いながら、エルネストの前に立ちふさがったサヴォナローラ。

 彼に促されて、エルネストは黒くて立派な机の前によろめき出た。大きな体を操り人形のように、まるで見えない力で引っ張られてでもいるように。

「この結婚誓約書には、お二人のご婚姻に必要であろう条件をすべて、書き記してございます」

 これだけは厳かに言うと、サヴォナローラはエルネストに「さあ」とでも言うように、箇条書きで長々と文言の書き記された、長大な羊皮紙を指し示した。

「皇子殿下、この文言はもうこちら側では確認を済ませております。……ですから、あとはあなた様にこれに同意していただき、ご署名をいただけば終わりです」

 エルネストは重い足を引きずって、羊皮紙の前に出た。

 なるほど、シイナドラド大使のガルダメス伯爵を同席させなかった理由はこれなのだろう。彼がここにいれば、この文言を持ち帰って吟味した上で署名するべきだと進言したに違いないのだ。

 ハウヤ帝国側が、いや、この抜け目のない宰相が用意した結婚契約書だ。あらゆる面でハウヤ帝国と、そしてカイエンに利する内容であることは間違いなかった。

「なんだ。もうそっちは署名済みか」

 それでも気を取り直して文面を見たエルネストは、すぐにその末尾に署名されたカイエンの名前を見つけた。それはもちろん、螺旋文字での署名だった。流麗なペンの動きは躍動的で、彼女の気性そのもののようだった。

「ええ。ですから大公殿下には今日、ここまでご足労いただく必要もなかったのです。ですが、大公殿下が立ち会いたいと仰せになったので、いらしていただきました」

 エルネストは羊皮紙の結婚契約書には触ろうとはせず、大きな体を黒い机の上へうつむかせて文面を上から丁寧に見ていった。

 そこに書かれていたことは、彼らの財産のことから始まって、住処について、公式な場所での扱いについて、そして日常のかなり仔細なことにまで及んでいた。

 そして、文末には用心深くこのような文言までが書かれていた。

「……この婚姻に関わるこの約定について、シイナドラド側からは変更の要望をしないものとする。一方、ハーマポスタール大公カイエン・グロリア・エストレヤ・デ・ハーマポスタールは不都合のあり次第、条文を付け足すことができるものとする、か」

 エルネストはもう、衝撃から立ち直っていた。

「なるほどなあ。こんな契約書に署名する花婿は頭がおかしいか、真性の愚か者だよなあ」

 文書から体を起こして、サヴォナローラを見たエルネストの顔は、しかし面白そうだった。

「ご丁寧に、署名欄の上に条文付け足し用の長々とした空白まで用意してやがる。なるほど、これならお前らは安心だな」

 サヴォナローラだけを見て話すエルネストの言葉遣いは、先ほどミルドラに答えた時とはまったく違っていた。そして、それこそが彼の地だと言うことは、ミルドラに抱えられたまま聞いていたカイエンにだけはわかっていた。

「では、シイナドラドへお帰りになりますか? それでもこちらとしてはお引き止めすることもございませんが」

 サヴォナローラがそう言うと、傍からザラ大将軍エミリオも口を挟んできた。その顔はうれしげだ。

「お若いの。帰っちまった方が身のためですぞ。御国にはこれからなにやら波乱があるそうではないですか。それから逃れるための婚姻なら、御国へお戻りになって正々堂々、御国のためにお働きになっちゃあいかがですかな」

 カイエンを胸に抱え込んだ、ミルドラも黙ってなどいなかった。

「さっきから聞いていれば、お言葉遣いの汚いこと! まるで破落戸ごろつきだわ。ああ、嫌なやつを思い出すわね。あんなのに近くをうろつかれるのはもうたくさんだわ」

 カイエンはミルドラの腕の中で驚いた。

 ミルドラはエルネストの言葉遣いから、早くもカイエンと同じ真実を探り当てたらしかったからだ。

「なんだよ。みんなして、ひでえ言い様だな」

 だが、エルネストはなんだかうれしそうに喉の奥で笑った。

「さすがにちょっと驚いたが、俺もこうして片方の目を置いてまでこの国まで婿入りにきたんだからな。どんなに腐されても帰るわけにはいかねえんだ」

 そう言うと、エルネストは羊皮紙の脇に置いてあった、ペンを手に取った。

 そして、側にあるインク壺にペン先を浸すと、カイエンの名前の下に、一動作で署名した。

 さすがにシイナドラドの皇子らしく、それはもちろん、螺旋文字での署名だった。

 螺旋帝国の人々の名前は螺旋文字の持っている音韻と意味を併せ持つが、他の国の人々の名前を記す場合には螺旋文字の持っている音韻だけが当てはめられる。

 それでも同じ音韻の文字の中から、意味のいい文字を選ぶのが普通だった。

 エルネストが署名した文字を見たサヴォナローラが、訝しげな顔をした。

 そこにある、長々とした螺旋文字の連なりを音韻だけで読み下す。

 そこには、「エルネスト・セサル・ガロピン・デ・ドラドテラ」と記されていた。

「“ガロピン” ……なんです? このふざけた名前は?」

 エルネストはその新しい三つめの名前を自分で音声として名乗ったことはなかった。

 署名として書いたのは、この時が初めてである。

「親父が俺に、婿入りの餞けにくれた名前さ。親父としちゃあ、『いたずらもほどほどにしとけ』とでも言いたかったのかもな」

 ガロピン。

 それは、いくつかの意味を持つが、普通は人間の名前として名乗られる性格のものではない。

 二つ名やら、あだ名やらで呼ばれるべきものだ。

「そうでしょうか。……ならず者とか、暴れ馬の間違いじゃないですか?」

 サヴォナローラは皮肉げにその真っ青な目をエルネストに向けた。

奔馬ほんばとでも言ってくれよ」

 それへ、軽口で答えると、エルネストはもう用は済んだと思ったのだろう。

「確かに署名はしたぜ。じゃあ、もうこれで俺は用無しだな。シイナドラド大使公邸へ戻るよ」

 彼はさっさと背中を向け、入ってきた海神オセアニアの姿が大きく象嵌された扉の方へ歩いて行こうとした。

 その時だった。

  

「エルネスト、待て」


 カイエンはエルネストを呼び止めた。

 カイエンはミルドラの胸元から顔を上げ、エルネストの大きな背中をまっすぐに見た。

 背中を見るのには抵抗はなかった。

「聞きたいことがある」

 カイエンの声は低く、はっきりとしていてどすが効いていた。

「お前は事あるごとに言っていたな。『あの人』と。あの地下聖堂の二階にいたやつのことも、『あの人』と呼んでいた」

 エルネストは振り向かない。

 だが、その背中はわずかに揺れているようだ。

「……あの人、は今、どこにいる?」

 カイエンが絞り出すような声でそう聞くと、やっとエルネストはこちらへと体を動かした。

 だが、その動きはぎくしゃくとして、内心の動揺を隠すことはできていなかった。

 彼はカイエンたちの方へ向き直りはしたが、一つだけの真っ黒な目はカイエンの視線を避けるようにさまよっていた。

 もちろん、カイエンの方もエルネストの顔をまっすぐに見ることは出来なかった。それでも彼女は追求をやめなかった。

「あいつだよ! お前に私のことを吹き込んだやつのことだ! お前を桔梗館へ呼び出したやつのことだ!」

 彼女の言いたいことと、その声の激しさにエルネストもサヴォナローラも思わず、息を止めた。

「あの人?」

 やっとのことで答えたエルネストの声はあまりにも弱々しかった。

 それを聞いて、ザラ大将軍とヘクトルとミルドラの二人が、はっとしてカイエンを見た。彼らにもわかったのだ。

「しらばっくれるな! 何度も言っていただろうに! あの人、あの人って!」

 カイエンはいらいらとした様子で、前に乗り出し、結婚契約書の載っている机を激しく叩いた。

「あの人ってのは、あの地下聖堂の二階で拍手してやがったあいつだろ?」

「あいつは今、どこにいるのかって聞いているんだよ!」

 カイエンの追求の激しさに、エルネストのみならず、サヴォナローラもまた声を挟むことができなかった。

 彼もまた、やっと理解していたのだ。

 今日、カイエンがすでに自分の署名が済んでいるのにも関わらず、ここにやってきた理由を。

 カイエンはエルネストが認めるまで、追求をやめるつもりはなかった。

 そのための準備もしてきていたのだ。 

「調べさせたんだ。あいつが若い頃、下町で呼ばれていた名前をな」

 カイエンがそう言うと、ザラ大将軍エミリオも、ミルドラとヘクトルも弾かれたようにカイエンの方へ顔を向けた。

 彼らは知っていたから。

 アルウィンが若い頃、お忍びで下町のいかがわしい場所に出入りしていたことを。

 カイエンは、しばらくの間、黙っていた。

 その間に、エルネストが白状すればそれでいいと思っていた。

 だが、強情なエルネストは沈黙したままだ。

 カイエンは、すうっと息を吸い込むと、爆弾を投げつけた。 

「チェマリだ!」

 それを聞いた途端、エルネストははっきりとカイエンたちから体を背けてしまった。逃げるように一歩、進みさえしたのだ。

 カイエンは確信した。エルネストたちは今も、彼をその名で呼んでいるのだと。

 チェマリ。

 それは、ホセ・マリアと言う名前の男の愛称だ。

 そして、カイエンの父であるアルウィンが、若い頃にハーマポスタールの下町で名乗っていた仮の名前。

 紺色の髪の男前のチェマリ。

 ちょっと見ただけでも身分の高いお貴族の息子だとわかる華奢な身なりと容貌。だが、その遊び方は粋であけっぴろげで、下町の人々にあっという間に溶け込んだ。いつも微笑みを浮かべ、如才なく、金離れもよく。

 チェマリは下町の人気者になった。

 皮肉なことに、だからこそ二十年を経た今でも、彼を覚えている人々は多かったのだ。

「あいつの名前はチェマリ。……チェマリは今、どこで何をやっている?」 

 チェマリという名前を聞いた途端、サヴォナローラの端正で硬い顔にも一瞬、何かの感情が通り過ぎた。

 カイエンはサヴォナローラもまた、アルウィンの二つ名を聞いたことがあるのではないかと思っていたので、彼の顔を注意して見ていた。だからカイエンは心の中でうなずいた。

 間違いない。

 チェマリはアルウィンだ。

「エルネスト。ここから出て行く前に、私に話すんだ。お前を操り、私も操っていた、あの男のことを」

 カイエンの言葉は止まらない。

「あのクソ野郎のことを話すんだよ!」

 そう言いきった瞬間。

 カイエンはふつふつと滾ってきた怒りに、エルネスト以外の人間が見えなくなった。それでも、この場所を追求の場所に選んだところまでは冷静だったのだ。ここには、アルウィンの過去を知っている人々しかいないから。

「あのクソ野郎は、もう私の父親でもなんでもない。……だから話せ。今、私は怒りに我を忘れているからな。お前の顔も怖くないぞ」

 あんなに鏡を見ることを避けていたのに。

 カイエンは、心の底からの怒りに、とうとう、その恐れを突き破った。

「あいつは私の敵だ。これだけはもう、はっきりとわかった。お前があいつを庇うなら、お前も私の敵だ」

 左手に杖をつきながら。

 エルネストへ迫って行くカイエンを、もはや誰も止められなかった。

「今、ここでお前はこの結婚契約書に署名したな。……ここに書いてあるぞ。この条文はこのために書かせたんだ。『夫は妻に対して、一切の秘密を持たないこと』、とな!」

 カイエンはついに、彼女に顔を背けたエルネストの目の前に到達した。

「そして、お前はこうしてここに署名したぞ」

 もう、カイエンは目を背けなかった。

 目の前に立ちすくみ、真っ青な顔を背けるしか出来ないでいるエルネストの顔は、もう、彼女には全然似てはいなかったから!

「私の問いに答えるのだ! シイナドラド第二皇子、エルネスト・セサル・ガロピン・デ・ドラドテラ!」

 そう言うと。

 カイエンはぐいっと腕を伸ばし、まっすぐにエルネストの漆黒の瞳を見据え、背の高いエルネストの襟元を右手で乱暴に掴み上げた。

 カイエンは背丈の割に手の指が長く、手そのものも大きかったので、その手はエルネストの礼服の襟元をきつく締め上げることになった。

 そのまま、彼女は右手にあらん限りの力を込め、自分の体重もかけて、下へ、自分の眼前へと引き寄せた。彼女の体重もろともに。

「あっ」

 その力の強さに、ついにエルネストがその大柄な体のバランスを失って前によろけた。

 カイエンは自分でも意識しないままに、左手の杖から手を離し、エルネストの襟首に左手も添えて自分の方へ引き寄せた。

 エルネストの襟首に、カイエンの全体重がかかり、さすがのエルネストもよろけて大理石の床に膝をつく。

 立っている自分よりも下になった相手の首元を、なおも締め上げながら、カイエンは要求した。

「これが最後だぞ。……チェマリは今、どこにいて、何を企んでいる?」

 カイエンは囁くように、エルネストの耳に吹き込んだ。

「あ、あ……」

 エルネストはもう、観念していた。

 シイナドラドでカイエンをおのれの思うがままに弄んでいた時から、本当はわかっていたのかもしれない。

 あの人に唆されなくても。自分は自ら彼女に囚われるのだと。

 エルネストの首を締めあげる、カイエンの力は凄まじかった。細い体のどこからこんな力が出てくるのだろう。

 そして。

 エルネストは、心の奥底で歓喜していた。

 彼はもう、彼がこれ以上ないまでに傷つけたカイエンが、自分をこんな目で見るとは思ってもいなかったのだ。

 これはもちろん、夫婦の愛情などではない。

 今日ここで交わされたのは、シイナドラド皇子とハウヤ帝国帝都ハーマポスタール大公の婚姻の契約だ。

 なのに。

 エルネストはおのれの心の歓喜におののいた。

 こんな感情は知らない。あの人も教えてくれなかった。

 だから。

「わかった」

 エルネストは陥落した。おのれの妻となった女の前に膝を屈する事を決めたのだ。

「話す。あんたにはすべてを話す。俺はもう、あの人の手の内へは戻らない」

 

「そうか」


 カイエンはエルネストの言葉を聞くと、彼を締め上げていた両手を離した。

「……じゃあ、誓え。そしてこの結婚契約書に条文を書き加えろ」

 カイエンのその時の顔を、ヴァイロンが見たらこう言っただろう。

「あの人がカイエンの敵となった今、彼女の夫となった男があの人の意に従うことなど、もはや、できはしないのだ」

 と。


 エルネストは吐いた。

「あの人はおそらく今、螺旋帝国へ向かっている。このパナメリゴ大陸の西側は、皇帝サウルの命運が決まるまでは動かない。だから、未だ不安定な螺旋帝国に向かったはずだ」

 と。

 それを聞くなり、宰相サヴォナローラはこの場をザラ大将軍に託して、宰相府へと下がった。

 それを見送りながら、ザラ大将軍エミリオは、崩れ落ちたエルネストへ言った。

「シイナドラドの第二皇子殿下よ。……お前はもう、あの方の陣営には戻れぬなあ。あなた様の忠誠はここで今、わしらが見せてもらったわ。こうして、契約書への署名も済んでいる事だしな。これはもう、あのチェマリなんぞの亡霊の元には戻れんと言う事だぞ。……それはもう、わかっておろうなあ」

 エルネストはその面を伏せたままだった。

 だが、彼個人の中で、もうおのれの進む先は決まっていた。

「あの人にはしてやられたけどな。これが目が覚めたってことなら、俺ももう、否やはない」

 俺はそれでもシイナドラドの第二皇子だ。

 その誇りだけは、彼も忘れてはいなかった。

 今は、あの人の敷いた道の上を歩いて行こうとする気持ちはもう、きれいさっぱりなくなっていた。

 エルネストは、カイエンの側から立ち上がり、そっとカイエンの側を離れた。

「俺はもう、決してあんたを傷つけない」

 そう言うと、もうカイエンの顔を見ることもなく、エルネストは今度こそ入ってきた海神オセアニアの姿が大きく象嵌された扉の方へ歩いて行った。

 カイエンはその後ろ姿を、まっすぐに見守った。

 その後に続いた言葉は、エルネスト以外の者には聞こえなかった。

「……ありがとう」

 それは、ハウヤ帝国ハーマポスタール大公カイエンと言う人物をあまりにも端的に現したものであっただろう。

 



 主人公、立つ。

 あんまり前例のないことですが、この物語では、女主人公がその父親を乗り越えて一人前になろうとあがきます。

 でもまあ、父親サイドも甘くはありません。

 それはこれから。

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