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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第三話 夏の夜の夢
83/220

運命の日 1

 今回の話には、大人の女性には辛い内容が含まれます。

 途中で話の進む方向はわかると思いますので、辛い方は読むのを中断されることをお勧め致します。

 物語のすじは次回の最初から再開されてもわかるように致します。




 君は決して倒れない

 君のその過酷な人生の間ずっと

 君は決して諦めない

 君のその平凡で、時に非凡なありきたりの人生の間ずっと

 君は決して奪われない

 君のその孤高の人生の間ずっと

 そして

 若いままで過ぎ去った時代に残った人たちを

 君は決して忘れない


 喪ったものがたくさんある

 苦労してその手につかんだものもたくさんある

 ずっと変わらずに共に連れてきたものもある

 それらがすべて君と共にあるから

 

 君は決して倒れない

 君は決して諦めない

 君は決して奪われない

 決して自分から捨てていくことはない


 いつまで

 いつまで


 それは、枯葉が集められ

 その年のすべての営みが集約される時までだ


 それは君が

 あの夢で何千回も訪れた

 あの君という名の輝かしい街へ

 帰っていく

 その瞬間までだ






    アル・アアシャー  「海の街の娘」より、「枯葉」








 その知らせがハウヤ帝国東の果てのクリストラ公爵領へ届いたのは、十一月の二十七日。

 ちょうど、十月の下旬に帰途に着いた、カイエンたちの一行がハウヤ帝国国境を越え、クリストラ公爵領クリスタレラへ入った時であった。

 これもまた、宰相サヴォナローラの敷き詰めた連絡網を伝って、わずか二日で首都ハーマポスタールから届いたものであった。 

 曰く。


「第三妾妃マグダレーナに皇子誕生。皇后アイーシャの出産は予定日を過ぎて遅れている」


 だが、クリスタレラの大城に入ったカイエンは、ネファール、ベアトリアと駆け抜けてきた旅の疲れで床についていた。

 シイナドラドを出国してすぐの急激な発熱は数日で収まったが、その後も微熱が続いた。その中で、行きの倍近い速度でもって、彼女の一行はハウヤ帝国へ、首都ハーマポスタールへと急いで来たのである。

 そのため、彼女がそれを知るのは翌日二十八日のこととなる。

 マグダレーナの子が皇子だったということ、そして皇后アイーシャの出産が遅れていること。

 これは、ハウヤ帝国にとっては異例の事態であった。

 皇后が生むのが皇子か皇女かによって、皇帝サウルの後継者を巡って、熾烈な争いが始まるであろう。

 すでに皇太女として立てられている、皇后腹のオドザヤがいる。弟であっても皇后が生むのが皇子であれば、後継者はオドザヤの弟になる可能性が高かった。

 だが、もしこれから皇后が生むのが皇女であったら。

 それはそれで、混乱への序曲となるであろう。

 



「どうなっているの? カイエンがあんなにやつれて! シイナドラドで何があったの!」

 クリストラ公爵の大城にカイエンが入るなり、その顔を見て叔母の公爵夫人ミルドラは思わず叫び声をあげた。それをそっと抑えたクリストラ公爵ヘクトルは、黙ってカイエンの執事のアキノに目で合図し、すぐにこの大城の侍医を呼んだ。

 侍医はすぐにカイエンの枕頭にやってきて、アキノや女中のルーサにカイエンの普段の体調と、シイナドラドを出てから今までの状態を簡単に聞き取った後、かなりの時間をかけて、一通りの診察を行った。

 それから、初老の医者はアキノに目配せして部屋を出る。

 侍医の後ろにアキノが続いた。

 控えの間に入ると、そこにはミルドラが一人、青い顔で待っていた。敏い彼女は雰囲気を察して、侍女たちを遠ざけたのだろう。

 それを見ると、侍医はミルドラに言った。

「公爵夫人。恐れ入りますが、中で大公殿下のお側に付いている女中に代わって、しばらく大公殿下を見ていていてくださいませんでしょうか」

 それを聞くと、ミルドラの顔が引き締まった。彼女には侍医の言わんとしたことがすぐに飲み込めたらしい。

「……わかりました。女中をこちらへよこせばよろしいのね」

 ミルドラがカイエンの病室へ入り、しばらくしてからカイエンの女中頭のルーサが出てくる。

 それから、控えの間で、侍医とアキノ、それにルーサがかなえになった。

 そして、侍医は静かな声で話し始めた。

「……大公殿下の生来のご病弱と、お体に蟲という寄生器官があるということは公爵様から伺っております。先ほど、今までのご病歴や普段のご体調などについては、あなた方から聞きましたね」

 だが、そう言った後、彼はしばらく次の言葉を発せず黙り込んだ。

 しばらくして、アキノとルーサが見守る中、彼は彫りの深い思慮深そうな顔をはっしとあげて、アキノとルーサをまっすぐに見た。そして、急にカイエンの病状とは関係ないことを口にした。 

「私はもう、三十年近くもクリストラ公爵様、そしてミルドラ様のお脈を取らせていただいております。……大公殿下のご病状について他に漏らすようなことは決してございませぬ。ご心配ならば、公爵様をお呼びくださいませ」

 アキノは黙って、首を振った。

「先生を疑うなど。クリストラ公爵様のことは大公殿下も私も心から信頼いたしております」

「そうですか。それはよかった」 

 侍医の、長い襟の詰まった白衣に、白い筒型の帽子をかぶった姿は、国立医薬院を卒業した正式な医師のみが着ることができる装いだ。

 侍医は居住まいをただして、話し始めた。

「私は医師です。そして、病人を診たからには診断を下さねばなりません。ですから、すべての可能性を考慮したい。これは、ご理解いただけますでしょうな?」

 侍医の言い方は慎重極まりないもので、アキノとルーサは、不安そうな面持ちで侍医を見直すしかない。

 侍医は、ふう、と一度息を吐いてから決心したように口を開いた。

「大公殿下はかなりおやつれのようですが、この頃、食欲がおありにならなかったり、吐き気を訴えられたりするようなことはありませんか」

 アキノとルーサは、はっとして顔を見合わせ、それから同時に侍医の顔を見た。侍医の問いは、彼らの全く考えていなかった事実への確認だと、一瞬にして悟ったからだ。

 ルーサが、侍医に震える声で答えた。

「食欲はあまりおありになりません。でも、でも……吐き気を訴えられたことなどは一度も……」

「それは……まさか……」

 ルーサの言葉を聞いてから、絞り出すような声で言ったアキノを、侍医はすっと手で制した。

「可能性を潰しているだけです。大公殿下はよくお咳が出ると伺いましたので、お胸を聴診器で調べましたが、変な音はしませんでした。お熱が続いているということで、喉やお鼻の中も見せていただきましたが、炎症はありません。痛みを感じられるところもないとの仰せでした。……ですから、お風邪などではないのです。かなりお疲れがたまっておられますので、内臓の中に炎症がおありになるのかも知れませんが、触診では消化器や呼吸器の腫れなどはないようです。そうなりますと、原因はご心労か……もしくは」

「まさか……」

 息を詰めるアキノへ、侍医は重ねて、言った。

「大公殿下は女性であられます。不敬かも知れませんが、医師として私はすべての可能性を考えに入れたいのです。可能性が絞れれば、それを確かめる術もありますので……」

「しかし」

 アキノは言おうとしたことが、とっさに言葉にならず、咳き込むようにしながら侍医に聞かずにはいられなかった。

「大公殿下にはお体に蟲がおられ、その、それがおみ足だけでなく内臓も圧迫しておられますため、そのようなことはありえないと殿下がお小さい頃からの大公宮付きの医師は申しておりましたのですが」

 それを聞くと、侍医はそっとため息をついた。

「……それは、そうでしょうな。先ほど触診いたしましたが、確かに、大公殿下の骨盤の中にある蟲の大きさからして、将来、お子様をもうけられるのは無理でありましょう。あれはお子様の発育を阻害する位置にまで広がっているようでございますから」 

 そこまで言ってから、侍医は表情を曇らせた。

「ですが、そう。ご懐妊だけなら、可能性はゼロではない」

 侍医は言いにくい言葉をとうとう口にした。どうやらこの初老の医師には診察をした結果、何がしかの確信があるらしかった。

 その後、三人は控えの間でしばし黙り込んだ。

 やがて、静寂をついて、侍医が今度はルーサの方を向いて、聞く。

「あなたは大公殿下の女中頭でしたな。……大公殿下に最後に月のものがこられたのはいつですか? それから、大公殿下は独身であられるし、だからあなたも言いにくいだろうが、『そういう可能性』がこの数ヶ月の間におありになったのかどうかを聞かねばならん」

 ルーサは侍医の老いた、だが真摯な顔をしばらくの間、茫然として見ていた。

 ずっとカイエンについて旅をしてきたルーサはすでに、漠然とした疑念を抱いていたのだ。

 だから、すでにカイエンに彼女がカイエンのそばを離れた間のことも含めて、さりげなく尋ねていた。

 カイエンもルーサも、心労が重なったからだろうと気に止めていなかったのだが。

「九月の中旬にかかる頃にあったきり……のようでございます」

 それは、リベルタでカイエンと別れる前のことだ。

 ルーサがやっとの事で答えると、侍医は難しい顔をした。今はもう、十一月の終わりである。

「……そうですか。このようなことは今までにもありましたか?」

「数週間ほどならば遅れることもあったかと存じますが、月単位ということはなかったと思います」

 ルーサが小さい声で答えるのを聞くと、ルーサの横でアキノが今にも息が止まりそうな様子でよろめいた。 

 その様子を見ながら、ルーサは思い出さずにはいられなかった。

 シイナドラド国境での約定書のやりとりが終わり、ネファール側へ引いてすぐに高熱を発したカイエンのこと。

 その時、彼女の着ていた大公軍団の制服を脱がせ、寝巻きに着替えさせた時のことを。

 カイエンの体には、無数のうっ血の跡があった。

 それは、薄くなって消え掛かったものから、新しいものまでが、白い皮膚の上に折り重なっていた。つまりそれは未婚のルーサにもわかる、明らかな情事の痕跡だった。細くなった腕には、強く掴まれてできたのであろう痣までも残っていたのだ。

 ルーサは大公宮でも毎日、カイエンの着替えを手伝ってきた。

 だから去年の春以降、ヴァイロンがカイエンとともに寝むようになってからの彼女の様子も見知っている。同じような跡が見られることはあったが、それはあれほどひどいものではなかった。

 だから、ルーサはヴァイロンに悪い感情など持ったことがない。彼はカイエンを大切に、大切にしていると、側から見ているだけでわかっていたから。

 ルーサは解放され、フィエロアルマに手当をされている時、遠目にシイナドラドの第二皇子を見ている。

 彼が言った言葉も聞いていた。

(……覚えてろよ。それでもあんたは俺のものだ。これはもう、決められたことなんだからな)

 あの皇子は、明らかにカイエンとの血のつながりを感じさせる顔かたちをしていた。その顔が言った、カイエンへの激しい執着の言葉。

 では。

 カイエンにあのひどい跡を刻んだのは、あの男なのだ。

 カイエンがアキノと引き離されて連れ去られたのは、九月の下旬だった。

 あれからずっと、カイエンがあの男に苛まれていたとしたら。

(なんてこと)

 ルーサはすでに二十歳をすぎている。姉の、元はカイエンの女騎士で今は治安維持部隊員のブランカは結婚して、すでに子供もいる。ルーサは姉のように結婚はしていなかったが、実は十代の頃、まだ大公宮へ上がる前には恋人がいた。

 その恋人にはもうすでに妻がいた。

 だから、彼女はそれと別れて大公宮へ奉公に上がったのだ。

 ルーサは震えが止まらなくなった。

 カイエンは、望まない相手との間の、決して生むことが出来ない子供を宿してしまったのかも知れないと理解したから。


「ふむ」

 侍医は、ルーサの様子から何事かを察したらしい。

「先ほども申しましたが、私はクリストラ公爵様の侍医でございます。余計なことを話して回る口は持っておりませぬ」

 アキノもルーサも今はもう、うなずくしかない。

「今は、お熱は少しおありになりますが、容態は安定しておられるようです。ですが、医師としてこの先急いで旅を続けられるのは……お勧め出来ません。そういう可能性があり、お熱が続いている以上、いつ、容態が急変なさるかわかりませんから」

 アキノもルーサもうなだれた。

 これはカイエンが本当に妊娠しているとしても、蟲がその成長を阻んでいる以上、いつ子が流れるかわからない、ということだ。

 侍医はあえて言わなかったが、シイナドラド国境で高熱を発し、今もまだ熱が続いているということは、すでにカイエンの腹の中で胎児が亡くなっていると言うことさえもあり得る状態だった。

 一方で、ハウヤ帝国の情勢は急転している。

 第三妾妃のマグダレーナが皇子を産んだ。

 だが、皇后のアイーシャの、カイエンの実母の出産はまだなのだ。

 カイエンはアイーシャの出産に絶対に間に合わせると言っていた。母を同じくする妹のオドザヤ皇太女と、そう約束したのだと。カイエンはしつこく言い続けていた。

(自分にその時、何ができるのかもわからない。だが、自分はそこにいなければならない)

 と。

 大公としてのカイエンは、一刻も早くハーマポスタールへ帰らねばならないのだ。

 侍医はそんなアキノとルーサの様子を黙って見ていた。

 侍医の痩せた真摯な顔に、覚悟の色が落ちてきた。

「……わかりました」

 はっとして、アキノは顔を上げた。

「クリストラ公爵様にお願いしましょう。馬車に揺られての旅など、本来なら絶対に医師として許せるものではございません。ですから、私が、ハーマポスタールまでお側についてまいります。大公宮の奥医師に引き継ぐまで。医師としては苦渋の選択ですが、私も今、この国を襲っている事態は少しながら聞き及んでおります。……大公殿下には是が非でもハーマポスタールへお帰りになられなくてはいけない時なのでございましょうから」

「ありがとうございます!」

 アキノの青い目から、自分でも意識しない熱い液体が頬を伝って落ちていった。

 自分の発した言葉と、おのれの心の中の状態が、これほどに乖離していたことは彼の長い人生でも一度もなかったことだった。

 嗚呼。

 私はおのれの若い主人を守れなかった。

 それは明確な事実として、アキノの体を鋭い槍で串刺しにでもされたように貫いた。

 この責めは、大公の執事として、一生をかけて負わなければならないだろう。




 

 侍医とルーサに別れたアキノは、真っ青な顔のまま、ガラを探していた。

 彼自身はカイエンのそばを離れることはできない。

 だが、カイエンの今の危うい状態を、一刻も早く大公宮へ知らせてしかるべき準備をさせなければならなかった。

 彼は妻の、カイエンの乳母であるサグラチカに手紙をしたためた。それでも安心できなかったので、大公宮に残るヴァイロンとマテオ・ソーサにも手紙を書いた。

 彼らに、無理やりにでも落ち着いた心持ちでカイエンを迎えて欲しかったのだ。それには今の事態を知らせるよりほかはない。

 そして、その重大な手紙を託せる人物の元へ向かったのだ。

 軍隊であるフィエロアルマも、かなりの無理をしてここまで来ている。 

 シイナドラドの国境では、予期せぬ軍事行動も行っている。速やかな撤退、それに続くこれまでの旅。

 ハーマポスタールまでは強行すれば十日あまりでの到着が可能だった。だが、それはここクリスタレラで周到な準備をして、初めて可能になることだ。

 カイエンの乗る馬車は強行軍でかなり傷んでいたし、それはフィエロアルマの荷駄を引く馬車とても同じだった。

 もうハウヤ帝国国内に入ったので、工兵などは後から追ってこさせることに決めていたが、それでもフィエロアルマの精鋭はカイエンにしたがって行かねばならない。

 アキノが、とっくに人間に戻ったガラの姿を見つけたのは、クリスタレラの大城の鍛冶場だった。

 丁度いいことに、そばにはザラ子爵の姿も、そしてジェネロ・コロンボの姿もあった。

 三人は疲弊した装備の補修に立ち会っていたらしい。

「あれ? アキノさん」

 ずっと体調の悪いカイエンのそばについているはずの執事の姿を見つけて、ジェネロは驚いた。横で、ザラ子爵とガラも怪訝そうな顔をした。

「どうしたんだい? 大公殿下に何か?」

 アキノの普通ではない顔色に、ジェネロはすぐに気がついたらしい。カイエンの体調がずっと悪いことは彼らももちろん知っていた。

 すぐにそばへやってきた三人の前で、アキノは深呼吸した。歳を重ねたと言っても、今度のような事態は初めてだった。

「ガラ……今すぐ、お前だけでハーマポスタールに向けて発ってくれないか」

 ガラは黙って聞いていたが、聞くなり、ジェネロの灰色がかった緑の目がきっとすがめられた。

「……なにかあったんだな?」

 だがそれは、大公の執事であるアキノが、今度のカイエンの護衛責任者であるとは言っても他人のジェネロにいきなり言うには、重要で微妙すぎる内容だった。

 アキノの厳しい、急に十歳も年老いたような顔を見て、ザラ子爵もガラも真面目な顔になった。

 アキノはちょっと迷ったが決断した。

「これからお話しすることは、今後、お二人があの世へいらっしゃるまで口外無用にしておいていただきます。ガラ、お前もだ。出来ればお前の兄にも伝えて欲しくはない」

 次にアキノが、周りを見回しながら、そう言ったので、ジェネロもザラ子爵もガラも顔を見合わせた。

 あの世まで持っていかねばならない秘密。

 アキノが言うなら、それはカイエンに関することなのだろう。

 それから、アキノが小声で話す言葉を聞いて……。

 ガラはその夜のうちに馬上の人となった。

「俺も行く」

 ジェネロはそう言ったが、ガラは首を振った。

「あんたはだめだ。……気持ちはわかるが」

 ガラが言うまでもなく、カイエンの一行の警備責任者でフィエロアルマの将軍であるジェネロが一行を離れるわけにはいかなかった。だから、ガラはただ一騎でハーマポスタールへ旅立つしかない。

「後は頼んだ」

「任せたまえ」

 そう請けあったのは、ザラ子爵だった。その横で、ジェネロがぼやいた。

「……ちくしょうめ。半殺しが全殺しになっちまった。子爵様あ。帰ったら俺の骨を拾ってくださいよ」

 ヴァイロンにカイエンを守ると約束して国を出たのに。結果はある意味、最悪のもっと先まで行ってしまった。

 ジェネロの気持ちはよくわかったので、ザラ子爵ヴィクトルも、悲しい顔でうなずくしかなかった。

「こちらも、すぐに出発する。……大公殿下も、ここは一刻も早いハーマポスタールへのご帰還を望んでおられるだろうからな」

 すでに馬上の人となったガラは黙って聞き、馬に鞭を当てた。 

 真っ暗な、ハーマポスタールへと続く街道へ、ガラの姿はあっという間に見えなくなった。

「なんなんだよ。こんなに一気に時代が動かなくってもなあ」

 ガラを見送って、ジェネロは首を振った。この目まぐるしい情勢の変化。軍人である彼はこういう時もあるのだとは経験で知ってはいるが、それでも戦場でのそれとは何かが違っているように感じられていた。

 一方、ザラ子爵ヴィクトルの顔は、数刻でやつれたように見えた。

「……エミリオ、すまない」

 カイエンと同じく、蟲を体に持って生まれた、アキノと同じプエブロ・デ・ロス・フィエロスの血を引く、彼の弟。

 今はハウヤ帝国の元帥府を支配する、大将軍エミリオ・ザラ。 

 その弟に託されたカイエンを、彼は守れなかったから。

「今は、許してくれ。私は甘かった。……あの方をあまりにも甘く見ていた。お前はちゃんと忠告してくれたのにな。私はもう迷うまい。私の忠誠はもはや揺るがぬ。わが故郷と同胞を必ず守ってくださる方に、この私の残りの人生を捧げよう」

 彼の言葉の終わりの方は、あまりにも小さなかすれ声だったので、ジェネロにはほとんど聞き取れなかった。

 ハーマポスタルへと続く街道の上には、満天の星空。

 ただ、それを見上げるザラ子爵ヴィクトルの目には、もう迷いはないようだった。




 十一月二十九日。

 カイエンは小康状態を取り戻し、クリスタレラをたって一路、ハーマポスタールへと向かった。


 前日、二十八日に、彼女はマグダレーナに皇子が誕生したことと、アイーシャの出産が遅れていること、そして、ガラが先にハーマポスタールへ向かったことを聞かされた。

 同時に、アキノはクリストラ公爵の侍医を伴い、カイエンに彼女の体が抱えているのかもしれない問題について告げた。

 アキノもルーサも、もう覚悟が出来ていた。

 カイエンに告げるか告げないかは、侍医とクリストラ公爵夫妻も交えて話し合い、決めたことだった。

 もういけないというその時になって急に知らせるよりは、カイエン自身ある程度覚悟ができていた方が、ちょっとした体調の変化も周囲に告げやすいだろうと言うことになったのだ。

 残酷な告知を、カイエンは黙って聞いた。

「そうか」

 出てきた言葉は、それだけだった。

 カイエンはもう、ほんの子供の頃からなんとはなしに知っていた。こういうことは周囲が隠そうとしても、本人にはいつか知れてしまうものだ。

 子供を持つことは叶わないということ。妊娠したとしても生むことは絶対にできないだろうということ。

 それが、今、現実となって突きつけられただけだ。

 なのに。

 それは、おのれの体の中で起こっていることとは思えなかった。

 どこか、遠いところで起きていることのようで。

 だが。

 カイエンは、アキノとルーサを下がらせて一人になってから、自分の腹をそっと撫でた。

 ここに、いるのか。

 死んでいるのか、まだ生きているのかわからないけれども、自分の子が。

 近い未来に失われることが、この腹のなかに発生したその瞬間から、「決められている」存在が。

 あの、エルネストの子供だということは、不思議にもそれほど気にならなかった。

 生まれてくれば別だろうが、決して生まれてこないとわかっていたからかもしれない。不可能だと子供の頃からずっと思っていたものが、ここに宿っている。死ぬまで、こんなことは決して起こらないと思い込んでいたものが、その原因はどうあれ、「奇妙な事象の行き違い」とでも言うべき運命のいたずらによって、カイエンに与えられたのだ。

 こればかりは、あのアルウィンも意図したことではないだろう。そうであったとしたら、まさにあの男は鬼畜だ。

(そう言えば、何で話すことになったのかは思い出したくもないが、エルネストにも、子供は出来っこないんだって話をした事があったっけ)

 カイエンは、思い出したくもないシイナドラドでの出来事を思い出していた。あの時は、こんな未来が近々に待っているなどとは思ってもいなかった。ただ、犯されて孕ったのに、そのことにたいした怒りを感じていない自分というものを、理解不能の大馬鹿だ、とは思った。

 その時。

 カイエンはただ、今、ここにある多分、もう二度とは得られない、恐らくは大切なものが、近い未来に奪われるという事実だけを理解し、そのことだけに強い喪失感を抱いていた。

 きっと、痛みや憎しみは、すべてが終わってからやってくるのだろう。

 それとも、このまま粛々と、ことは過ぎていってしまうのだろうか。


「ぜんぜん、わからないなぁ」


 それは、そう素直に、その時の気持ちを言葉にした時だった。

 急に、カイエンの見ていたものが、いきなり目から溢れてきたものによって曇り、見えなくなった。

 涙。

 それは、何に対して悲しんでいるのかもわからない涙だった。悲しみから流れたのかどうかも怪しかった。

 それを、一人でひたすら拭いながら、カイエンは悟っていた。

(終わってたんだ)

 無垢で無邪気だった時代が、少女だった時代が、とっくに終わっていたこと。

 もう、体に痛みを引き受けながら、自分で自分に責任を持って、必死で生きていくべき一人の大人の女としての時代に、とっくに自分が踏み込んでいたことを。

 これからは、体に傷を受けながら一人のただの女として、生きていかなければならないのだということを。やっと、自分の内にある真実を知らしめられたのだ。

 

(会いたい)

 その時、しょっぱい涙を飲み込みながら思った顔は、ヴァイロンの顔だった。

 彼は理解できるから。

 理不尽に奪われる痛みも、決しておのれの血をつなげる存在を生み出すことは叶わないという苦しみも。

 彼だけはきっと、同じように理解してくれるだろうから。

 ……そんなことで彼を求めるなんて、自分はなんて利己的なんだろう。

 そう思っても弱くなった心は欲していた。

 ハーマポスタールへ帰ることを。

 どうせ避けられない運命なのなら、あの、生まれた時から住んでいる懐かしい場所で、恐怖を迎え入れたいと。

 そして、恐ろしい運命に立ち向かう時に、彼にそばにいてほしいと切実に願っていた。  

  

 


 ハーマポスタル大公カイエンが、シイナドラドから彼女の領地、ハウヤ帝国首都、ハーマポスタルへ帰還したのは、奇しくも彼女の二十歳の誕生日、十二月九日の朝のことであった。

 行きに二週間かかったところを、カイエンを労わりながらも十一日で帰ってきたのだ。ハーマポスタールの市内は皇子誕生の祝賀に沸き立っていた。

「カイエン様……」

 市内のお祝いで湧き上がる空気とは裏腹に、静まり返った大公宮でカイエンを出迎えたのは、サグラチカとヴァイロンの二人だけだった。

 他の皆は、遠慮したのだろう。

 カイエンはアキノとルーサの手を借りて、馬車から降りた。

 その様子を見るなり、サグラチカが駆け寄ってきた。

「おかえり……なさいまし。まあ、まあ……」

 カイエンの痩せ方と頬の傷を交互に見やって、サグラチカは涙をこらえているようだった。

 そんなサグラチカもなんだか体が一回り小さくなったようだ。

「ただいま」

 サグラチカに体を預け、でかい男の方を見上げる。

 こちらは怒りを心配で押し殺しているような複雑怪奇な顔つきで黙り込んでいる。彼もまた、あまり寝ていないような乾いた、固い顔だ。

 ヴァイロンに会ったら、どんな顔をしたらいいのか。

 自分たちは元のようにいられるのか。彼はまだ自分のそばにいてくれるだろうか。

 彼が、カイエンの受けた真実を知ったら、そして今、彼女の体に起きていることを知ったら。

 道々悩んでいたカイエンだったが、実際に彼の憔悴した顔を見た途端に、すべての恐れと心配が溶けてなくなったようだった。

「ごめん。ごめんなさい。本当にごめんなさい……」

 なんで謝るのか、自分でもわからないまま、カイエンは顔をぐしゃぐしゃに歪めて、サグラチカとヴァイロンに疲れ果てた体のすべてを投げ出して、意識を手放した。

 

 

 十二月九日。


 それは本当ならば、カイエンの二十歳を祝う日になるはずであった。

 皇后アイーシャが皇女を出産したのは、同じ日の夜だった。

 そして。

 おのれの二人目の妹が生まれた日の夜。

 カイエンはその運命のままに、激しい腹痛に襲われることとなる。


 

  

 


 前書きにも書いておりますが、今回は辛い物語になりました。

 このことにつながる設定は、今までの物語の中にも幾つか伏線として書いてきておりますが、このカイエンという一人の女性の人生を描く物語の中で、必要と判断したものです。

 ご理解いただけましたら幸いです。

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