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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第三話 夏の夜の夢
81/220

緊迫のリベルタ

 その日。

 皇太子セレスティノの婚礼の翌日の朝。

 それは、シイナドラドで二つの大事件が起きた、忙しい朝だった。


 まず、シイナドラド皇国首都ホヤ・デ・セレンからシイナドラド全国へ、新しい星教皇の即位が公式に発表された。

 前星教皇ミュステリオン六世の死去に伴い、新星教皇スセソール二世の即位が宣されたのである。

 星教皇は皇王家の皇子皇女から選ばれることは、国民にも知れ渡っていることだが、今まで歴代の星教皇の俗世での名前が発表されることはなかった。それゆえに「誰が現在の星教皇であるか」もまた秘密のうちである。

 星教皇が国民の前に祝福に出るときには、仮面で顔を隠して出御するのが常であった。だがそれも数代前の星教皇からはほとんど行われなくなっていた。

 そして、およそ百年前からの鎖国政策もあり、周辺諸国では星教皇の存在自体が疑問視されるようになっていた。

 そもそも、前の星教皇がすでに二十年以上前に死んでいることさえ秘密にされ、この日まで生存していることとされていたのである。

 だが。

 星教皇が実際に存在していることは、シイナドラド国内の上位貴族たち、それも皇王家と血の繋がりのある貴族たちの間では、その存在は歴然とした事実であった。

 そして。

 それは、新しい星教皇に即位「させられた」、スセソール二世こと、カイエンにとっても今や、否定できない事実になってしまっていた。

「……ここに、我らが始祖、アストロナータ神の正しき生まれ変わりであられる新星教皇猊下をお迎えし、我らを導く光として世界に君臨していただくことを宣するものであります」

 昨夜、地下聖堂で大神官がそう宣言した後、彼女の足元に這いよってきた、シイナドラド皇族の人々。

 そして、その様子すべてを二階席から「観覧」し、カイエンの即位を目の当たりにするや、拍手をもってそれを讃えた謎の男。

 その男を誰何したカイエンだったが、謎の男はそれを無視して立ち去ってしまった。

 その後。

 夜明け近くまでも行われたのは、地下墓所カタコンベの奥深くでの歴代の星教皇の「不朽体ふきゅうたい」への礼拝と、新星教皇であるカイエンの教皇名を決めるためのシイナドラド皇王と皇族の重鎮たちの会議だった。

 カイエンは二百体以上もありそうなそれらの遺体がガラスの棺の中で眠る、広大な墓所に連れて行かれた時には、気が遠くなった。

 そこは地下にあるとは思えないドーム型のだだっ広い空間だった。そして、地上にある皇王宮と同じように、伸び上がり、天井近くでアーチ型につながった、いくつもの灰色の柱で支えられていた。

 そこに無造作に並べられたガラスの棺。それらの中にはカイエンが着せられているのと同じ、白い衣装に紫の飾りやストラを身につけた星教皇たちが永遠の眠りについているのだった。

 歴代星教皇たちの遺骸のほとんどは、地下聖堂の祭壇に飾られたアストロナータ神の不朽体と言われたものとは違ってミイラ化していた。中には白骨化したものもあったが、保存状態の良いものには髪の毛が残されており、その色がみな紫がかった色であることが、ちょっと見渡しただけでも確認できる。

「あんたもいずれはここに眠るのかもねえ」

 始終カイエンの右手を取って案内したエルネストの呟きは、カイエンをぞっとさせるだけだった。

 そして、教皇名など前もって決めておけばいいのに、なぜか一族の重鎮たちはカイエンを前にしてああでもないこうでもないと議論し、そして最終的に決まったのが、スセソール二世という名前だった。

 もう大概疲れて眠かったカイエンはろくに聞いていなかったが、スセソールとは「良き継承者」という意味である。

 スセソール一世というのは七百年ほど前の星教皇だったそうで、その時代にも一度、星教皇になるべき条件を満たすものがいなくなり、西の端から東の端の螺旋帝国まで神官たちがシイナドラド皇王の子孫を探し回り、やっと見つけた者だったのだという。

 七百年前といえば、ハウヤ帝国の建国前で、今のハーマポスタールにはラ・カイザ王国があったであろう時代である。

 その後は、どうやってだかはカイエンなどにはわからないが、再び星教皇になれる皇子皇女が生まれるようになったそうで、カイエンの教皇名はそれにあやかったものであるらしかった。

 夜明け前に、やっとカイエンは眠りにつくことができたが、その眠りもすぐに破られることとなった。





「ハウヤ帝国のフィエロアルマとネファール国軍の連合軍が、拉致された大公の解放を要求。返答を待たずして数日して国境の向こうから攻撃を始めた」

 という一報が、この日の朝に首都ホヤ・デ・セレンに伝わってきたからである。

 皇太子セレスティノの婚礼の日にちはハウヤ帝国側でも承知のことであるから、ザラ子爵や、ジェネロたちフィエロアルマはそれに合わせて動き出したということだろう。

 カイエンはエルネストの皇子宮にいたので、知らされなかったが、皇王バウティスタへは刻々と状況が報告されていた。

「フィエロアルマの軍勢は国境から撤退した数日後には破壊鎚を用意し、弓箭隊を組織してネファール国境側に布陣しておりました。反応の速さからしてあらかじめ不測の事態に対する準備をしていたと思われます」

「ネファール国側の反応も早く、国境沿いの駐屯軍をすぐに動かしたそうでございます」

 次々にやってくる早馬の知らせに、皇王バウティスタは震え上がった。

「なんと! ネファール軍も一緒になって攻撃を始めたというのか? こちらに大公殿下、いや猊下がおられるというのに?」

 彼らの予想では、カイエンを人質に取られたフィエロアルマは国境でまず、シイナドラド側と交渉を始めると踏んでいた。それは、大公の「護衛」としてやってきた彼らがまさか工兵を連れてきているとは思っていなかったからである。

 甘いようだが、シイナドラド側はハウヤ帝国で先年、いきなり宰相に抜擢されたサヴォナローラという男の能力も知らなかった。アストロナータ神官であるということから、文官の長として、内政に秀でた者だと考えていたのだ。

 だから、ザラ大将軍の影使いが、サヴォナローラが万一の場合を想定して敷いた連絡網に乗せて、いち早くハーマポスタールに事態を知らせたこと。そして、その速さも計算していなかった。

 ハウヤ帝国の後押しで王弟が廃され、水面下では次期国王にハウヤ帝国の第二皇女カリスマが立つことが内々に決まっていたことも、この時期には今だ公表されてはいない。だから、シイナドラド側ではネファールはこの事態を静観すると見ていたのだ。

 こうして見ると、ハウヤ帝国側の準備の周到さと、対応の迅速さが目立つようだ。

 しかし、事態全体としてみれば最初に国境のリベルタでカイエンたちを拉致されたことが彼らの大いなる失態であるのだから、ハウヤ帝国側が優位に立ったとはまだ言えなかった。

「サパタ伯爵を呼べ」

 皇王に呼びつけられて、今度のカイエンの道中をハーマポスタールから案内してきたサパタ伯爵は、すぐさま皇王宮へ伺候してきた。

「そなた、ハウヤ帝国の副使のザラ子爵とやらとはベアトリアまでともに先行して旅したのであろう。すぐにリベルタへ向かい、埒を開けよ」

 鼠のような顔のサパタ伯爵は、よく見れば黒い髪に灰色の目をしていた。血は薄いだろうし、伯爵家の当主でしかないが、彼は皇王家の一族の末に連なる者なのだろう。

 サパタ伯爵が出発すると同時に、このことはカイエンにも知らされた。

「もうちょっと、ここにいてもらうつもりだったんだけれどもねえ。あんたの部下もなかなかやるね」

 夕方近くになって、カイエンを起こしたのはエルネストだった。

 その頃には、もうすでにサパタ伯爵は出発していた。

 リベルタまでは馬を乗りつぶして不眠不休で行けば三、四日ほどだという。その間に事態がどう動くかわからないが、フィエロアルマも周辺諸国に侵略と取られる事態は避けるべく努力しているだろう。そもそも、ジェネロ達が攻撃を「始めた」というのも、そばに外交畑の長いザラ子爵がいることを考えれば、真実かどうか怪しいものだった。 

 そこでカイエンはエルネストに、

「リベルタでの事件は双方の誤解の元に起こったことである。すべてはシイナドラド側の使者であるサパタ伯爵の交渉の失態によるもので、責はシイナドラド側にある。それゆえに、今回のフィエロアルマとネファール国軍の国境侵攻は不問とする。また、シイナドラド側はこの事態を収拾するべく来年初頭に第二皇子エルネストをハウヤ帝国側へ、大公カイエンの配偶者として婿入りさせる」

という約定書に署名するように言われたが、もちろん、断った。

 そこには大公のカイエンを拉致したことは一言も書かれていない。その部分はなかったこととして処理しようとしてるのだ。

「盗人猛々しい。平和的使節としてやってきた人間を拉致しておいて、こんな約定が通るか!」

 カイエンはそう言いながらも、怒りよりもこの事態の表面上の不可解さに頭を抱えた。

 事態の真相は、カイエンを星教皇にするために、何が何でもシイナドラドの首都ホヤ・デ・セレンまで来させなければならなかったこと。しかし、そのためには国内の不安定な情勢から、軍隊であるフィエロアルマの入国は阻止しなければならなかったこと。その二つだ。

 そのために行われた、シイナドラドの所業は、第三国から見れば不可解極まりないだろう。

 当事者であるハウヤ帝国と、国境を接する隣国のネファール「以外」の国にとっては、起こった出来事といえばリベルタで婚礼の参列のために訪れたハウヤ帝国大公の護衛であるフィエロアルマと、シイナドラドの国境警備隊が衝突したこと。そして、フィエロアルマが一時撤退したのちに攻撃に転じた、という事実のみである。カイエンの拉致という事実は他国からは見えなかったことなのだから。

 シイナドラドの星教皇の正体が対外的には秘密である以上、カイエンが無事に帰国してしまえば、後からハウヤ帝国側がカイエンが強制的に星教皇に即位させられたということを言い出しても、シイナドラド側が否定すればすべてはうやむやなのだ。

 そもそも、外国の大公を星教皇に据える、などという荒唐無稽な話を普通は信じはしない。

 ハウヤ帝国とシイナドラドが先祖を同じくする「友邦」であることも、ここでは障害となるだろう。

 ハウヤ帝国としては、カイエンの解放前にカイエン拉致のことを表ざたにすれば彼女の解放が怪しくなる。だから、シイナドラド側の出してくる約定に署名してカイエンを取り戻したのちに、シイナドラド側の非を問うことになる。

 開戦も辞さず、というのなら出来ないことではないが、皇帝サウルはそこまでしないだろうと読まれているのだ。そして、それは正しい。

 その上で、事態収拾のために人質を出す、と言っているのだから、周辺諸国はそれで納得しないハウヤ帝国側を非難するかもしれなかった。

「なんで? 署名すればすぐにリベルタへ連れて行って解放するのに」

 わざと能天気な顔で言うエルネストを、カイエンは心底嫌そうに見た。外交文書への署名など彼女の一存で、簡単に出来はしないことなど、わかっているだろうに。

「サパタはどうなる?」

 この条文からすると、すべての責任はサパタ伯爵が負わされることになっているのだ。

「あいつは最初から捨て石だよ。ハーマポスタールまで出迎えの使いに出された時からな。もちろん、そんなことは本人も承知だよ」 

 エルネストの答えは、なんでそんなことを気にするんだ、と言っていた。彼にとっては一族の末とはいえ、サパタ伯爵などトカゲの尻尾と同じなのだ。

「そっちがお望みなら、あいつの首を引き渡すよ。それならいいだろ」

 カイエンは、黙って彼女にとっては理解不能の、自分勝手で酷薄な生き物の言葉を聞いているしかなかった。



 カイエンは、翌日にはエルネストと一緒に馬車に乗せられ、リベルタへ向かうことになった。

 もちろん、約定書への署名などしていない。

 シイナドラド側の代表はエルネストというわけだ。

 カイエンの出発を確認して、動き出したものがいた。ガラと二人の影使い、エステとオエステである。

 獣の姿になっているガラは皇王宮でもいろいろ見聞きしており、エステとオエステはひたすらにガラの存在を知られないために動いていた。 

 彼らもまた、ホヤ・デ・セレンで見聞きした事実を持って生還しなければならなかった。

 だが、街道を行き来するシイナドラド人は皆、通行手形を持っており、自由に行き来している者はいない。だから、獣の姿をしているガラはともかく、残りの二人は隊商に紛れるか街道をはずれた山の中を行くしかなかった。

 それでも、毎晩途中の街で休みを取るカイエンの一行を彼らは途中で追い抜いた。

 シイナドラドに入ってから、彼らはシイナドラド側の影使い共に出会うたびに消していたが、それでも追われていないとは限らない。そもそも、でてくる影使いたちが弱すぎるのではないかと彼らは疑ってもいた。自分たちが見たと思っているものは、実は「見せられていた」のではないかと疑っていたのである。

 だが、それを確かめる手段はなかった。

 国境に近づけば、そこに待ち伏せされている可能性もある。

 それでも彼らは獣道さえない山の中を奔り、ついにリベルタから国境の長城ムラジャ・グランデの城門側と、リベルタの街へ続く道を隔てる二重になった国境の内壁に達した。

 エステとオエステよりも先にここまで到達していたガラは、内門から続く内壁の周囲を囲む森の中に潜んでいた。

 驚いたことに、国境の城門は跡形もなく壊され、すでにフィエロアルマの軍勢は内側の門の手前までを占拠していた。

(思い切ったな)

 ガラはそう思ったが、今彼がいる森からは門はまだ遠かった。

 獣に変わっている彼の気配は、影使いでもなかなかつかみ取れない。

 だが、ガラにはエステとオエステの気配はわかる。

 彼らがこの場所近くへ到達したことを、ガラが認識した時、すでに彼らは伏せていたシイナドラドの影使い達にぐるりと囲まれてしまっていた。

 やはり、待ち伏せていたらしい。獣化したガラの気配だけはまだ感知されていないようだった。

 ガラが二人に加勢しようとしたその時、彼はふわっと何か危険な匂いを感じ、一瞬躊躇した。

「出るな!」

 そのガラを、エステかオエステかの声が押しとどめた。

 そして、ガラの見ている目の前で、シイナドラドの影使いを巻き添えに、エステの姿が内門のリベルタ側へ消えた。

 ガラの姿はシイナドラドの影使いには見えていない。エステは命を張ってガラの存在を隠したのだ。

「頼んだぞ」

 叱咤するように声をあげたのは、オエステ。

 だが、その上へも残りの影使い達が殺到する。オエステはエステの後を追って、彼らとともに落ちていった。

 どん!

 続いて、起こったのは大きな爆音だった。

 エステとオエステは、シイナドラドの影使いが火薬を用意していることに気がついていたのだろう。ガラが嗅いだ匂いは火薬だったのだ。

 どん! どん!

 二人の姿が消えた向こうから再び、何度も爆発する音がした。

 そして、血なまぐさい匂いと共に吹き付けてきた爆風。

 さすがのガラも、二人があっという間に消えたことに恐怖した。だが、彼の体の方は勝手に動き、残った影使い達をその牙と爪で屠っていく。二人の死を無駄にすることは出来なかった。

「!」

 その時。

 最後に残った一人が、突進するガラの前に、火のつけられた火薬の包みを手にして立ち塞がった。

 だが、火薬が爆発することはなかった。

 内壁の下から飛び上がってきた影が、火薬を持った腕ごとそれを壁の向こう側へ切り飛ばしたからだ。次の瞬間にまた、爆風。

「お、お、おおおおお」

 手首から先を失ったシイナドラドの影使いの首から、真っ赤な血が空中に迸り、その場へくずおれる。 

「ノルテ! いやナシオ……」

 そして、ガラの前に立っていたのは……。

 ついさっき、爆音とともにいなくなった二人とそっくりの姿をした、一人の男の姿だった。

「エステとオエステは、殺られた」

 ガラが言うと、ノルテは黙ってうなずいた。見ていたのかもしれない。だが、獣化したガラの解毒剤を持っている彼は闘争に加わるのを避けたのだ。

「そうか」

 言いながら、ガラから預かった解毒剤を懐から取り出そうとするノルテを、ガラは首を振って止めた。

「まだだ」

「どうして……?」

「まだ、この姿でしなければならないことが、ある。……もしもの時も、この姿の方が恐らく回復が早い」

 ノルテは黙っている。

「ハウヤ帝国へ来るはずのやつに、本当の恐怖を植えつけてやりたいのだ。帝国で、大公宮で待っている俺たちへの恐怖をな。それには、この姿の方が、いい」

「まさか……」

 ノルテは何か言おうとしたが、もう、ガラは動き出していた。 

「行こう。一度、コロンボ将軍やザラ子爵と打ち合わせをしておきたい」

「わかった」

   





 馬車旅の強行軍で街道を走り、リベルタについたカイエンは、そのまま馬車で、国境の手前にある内側の門のところまで連れて行かれた。

 ラ・ウニオンからはアキノやパコ・ギジェンたちを連れた、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオが同行していた。

「先にそいつらを解放しちまえよ」

 エルネストはぞんざいな態度で、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオに命じていた。

 だから、カイエンがその場に連れてこられた時には、もうアキノたちはフィエロアルマ側に引き渡されていた。

 ここまでの一週間ばかりの旅の間、カイエンは大公殿下としても星教皇猊下としてもひどい格好のまま、強行軍で連れてこられている。

 今回の旅の間も、彼女の身の回りの世話はエルネストの侍従のヘルマンがしてきた。

 だが、この国の皇子であるエルネストはともかく、ただの人質というお荷物であるカイエンは長い寝巻きの上に豪華な絹物とはいえ、ガウン一枚を着せられたまま、ここまで運ばれてきたのだ。

 着替えや入浴はさせられたが、時間の惜しい旅の中で、いちいち荷物を昼夜で着替えさせる必要はない、とエルネストは考えたらしい。

 それでも、ラ・ウニオンの城に着き、ここまで引っ張ってこられる前には来る時着ていた、大公軍団の懐かしい制服を着せられた。

「奴ら、国境の長城ムラジャ・グランデの城門を叩きこわしやがった。だから、今はあの内側の壁の門を挟んで両軍にらみ合いだってよ」

 カイエンを馬車から引っ張り出しながら、エルネストが忌々しそうに言う。

「とりあえず、サパタ伯爵が出て、話し合いの準備をしたそうです。向こうもこれ以上の侵攻は出来ませんから、おとなしく殿下方のご到着を待っているとのことです」

 戻ってきた夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの報告を聞きながら。

 カイエンは内門を隔てて対峙している両陣営の、奇妙な構図の前へ引き出された。



「あっ」

  

 そこには、ザラ子爵ヴィクトルと、フィエロアルマ将軍ジェネロ・コロンボが長大なテーブルの向こうに仁王立ちに立っていた。そして、カイエンのいる側にはサパタ伯爵が一人、ぽつねんと立っている。

 サパタ伯爵はエルネストと夏の侯爵マルケス・デ・エスティオを見ると、さっと後ろに下がって控えた。

 おそらくは話し合いを行うという前提で、青空の下にその長くて大きいテーブルが、どこからか持ってこられて据えられたのだろう。

 両軍が国境の内側の門を境ににらみ合いになったため、急遽、用意された奇妙奇天烈な風景が、そこに、あった。

 代表として出てきている数人以外の軍勢は、共にかなり後方で整然と居並び、にらみ合っていた。

 ジェネロのすぐ後ろには副官の二人のうち、年かさのイヴァンが控えている。

 その後ろ、門の向こうのフィエロアルマの軍勢の中には、憔悴した顔つきと薄汚れた姿になったアキノたちが見えた。

 アキノとシーヴ、それに女騎士の二人はそれでも立ってはいるが、パコやルーサ、それに従者たちは地面に直に崩れ落ち、フィエロアルマの兵士たちに介抱されているようだった。

 ああ。

 カイエンは彼らの姿を目にした途端、腰から下の力がすべて抜け、その場に崩れ落ちそうになった。

 それを押しとどめたのは、もう一人の冷静な方の自分だ。

 エルネストたちが、この奇妙な風景の中で、何を画策しているのかはわからない。だが、こうなったら自分は向こうにいる彼らの側で戦わなくてはならない。

 それだけが、彼女に異常な力を注ぎ込んだ。

 カイエンは、テーブルの向こうの二人の、焦げ茶色と、灰色がかった緑の双眸を見、とっさに緑の目の方を選んだ。

 よく、目は口ほどにものを言い、とか言うが、それに賭けたのだ。

「殿下!」

「カイエン様!」

 二人の顔がカイエンの顔を見て、驚きの表情に塗り替えられるのが見えた途端、もうカイエンは走り出していた。

 いや、走れなどしないのだ。小さな子供の頃には走りだしては転んでいたものだが、さすがに十を過ぎる頃には、自分はまともに走ることなどできないことは重々、理解していた。

 だから、カイエンはここ何年、もう走ろうとしたことさえ、ほとんどない。

 だから。

 そこにいた誰しもが、彼女の右足はともかく、左足は弱々しいとはいえ短い距離を走る力は持っているということを忘れていたのだ。

 カイエンは左手の杖に右手も載せると、そこに両腕の目一杯の力を込め、左足と腕の力で右足を地面に引きずりながら不恰好に走り出した。

 それは実際のところ、ぴょこぴょこと不器用に動く、滑稽な姿でしかなかった。だが、誰も想像さえしていなかったために、そこに大きな隙ができたのだ。

「えっ」

 エルネストが気がついて、カイエンの肩をつかもうとした時にはもう彼女はそこにいなかった。

 さすがの彼も一瞬、茫然としてカイエンの背中を見送ってしまった。

「ちっ」

 こっちは先ほどのカイエンの必死の目つきから、その意を漠然とながらくみ取っていたジェネロが走り出す。

 中立線のようになっていた長大なテーブルをあっという間に飛び越えた時、カイエンのすぐ後ろにエルネストの手が迫っていた。そして、テーブルまでにはまだ十歩以上の距離があった。

 捕まる!

 ジェネロがそう思いながらも、なおも前進しようとした時、カイエンとエルネストの間に、灰色をした大きな影が降ってきた。

「あ」

 ジェネロが胸の中に飛び込んできた、小さな体を両腕でしっかりと抱きとめた時、彼ははっきりと見た。

「ガラ!」

 エルネストの前に立ちはだかったのは、巨大な灰色の獣。

 だが、ジェネロにはそれがガラであることは、すでにして明白だった。カイエンたちが来る前に、簡単な報告を受けていたからだ。

 いきなり内側の城壁の奥の森の向こうからでっかい獣が現れた時には、ジェネロたちも驚いたが、ガラの変身のことはノルテから聞いて知っていた。

「行け!」

 巨大な灰色の狼のような獣が人間の言葉を発し、エルネストたちとの間に立ち塞がった時には、ジェネロはカイエンを抱え、もうザラ子爵たちの立っている国境の向こう側へ戻っていた。

 ジェネロがカイエンを両腕に抱えたまま、ザラ子爵やイヴァン、それにアキノたちのそばへ戻る。

「カイエン様!」

 アキノとルーサ、それにシーヴが走り寄って来た。 

「ひどい。こんなにおやつれになって……」

 抱きついているジェネロの胸の横から、ザラ子爵ヴィクトルの声が聞こえ、カイエンの肩に彼の着ていたマントがかけられた。

「せいぜい三週間弱だぜ。どういう扱いを受けたらこんな……」

 ジェネロの声も苦い。

 えっ、とカイエンは周りを見回した。

 駈け出す前には、安心のあまり腰から力が抜けそうになったのに、いざ、味方の手に戻れたとなったら、かえって気持ちがしっかりしてきたようだ。

「私はそんなにひどい顔をしているのか?」

 確かに、今朝、久しぶりに着せられた、大公軍団の制服はだぼだぼだったけれど。

 そうだ。そういえば、左頬に傷があるんだっけ。

「違いますよ!」

 カイエンが自分の左の頬に手をやると、遅れてやつれてはいてもいまだ小太りの体で駆けつけたパコ・ギジェンが泣きそうな顔で叫ぶ。

「大公殿下、私どもが言っているのはお顔の傷のことじゃないですよ! 元から病人みたいなお顔色だったのに、こんなにお痩せになって。それに驚いてるんですっ!」

「えっ。そんなに私は痩せたのか?」

「痩せたよ。……小さな犬っころみたいに軽いもんな」

 そう言うと、ジェネロはカイエンを下ろし、アキノたちに手渡した。

「あのクソ野郎ども。俺は頭にきたぞ」

 そう言う、ジェネロの額に青筋が浮く。彼の怒りが周りの男たちにも伝染していくようだ。

「おお! あの卑怯者どもが!」

 普段はとぼけた顔を崩さないイヴァンがジェネロの後ろに従って、大股にテーブルの方へ出ていく。

「カイエン様、こちらへ」

 アキノとシーヴに両側から抱えられて、そこから後方のフィエロアルマとネファール国軍の並んでいる方へ連れて行かれようとして。そこで、カイエンは手を挙げた。

「いや、だめだ」

「カイエン様?」

「私はここでこれから両国の間で結ばれる約定に立ち会う」

「ええっ? ダメですよ、殿下。そんなお体で何をおっしゃるんです」

 アキノとシーヴ、それにルーサやパコまでもが止める中、カイエンはジェネロとザラ子爵のところへ戻ろうともがいた。

「おい、無理すんなよ殿下」

 振り返りもせずに言うジェネロへ、カイエンは言った。

「体はあちこち辛いが、そうも言ってはいられん。私が大公である以上、ここで行われることには責任を持たねばならない」

「馬鹿か、あんた。鏡持ってきて見せてやろうか。……泣きそうな顔してるんだぜ」

 鏡。

 それを聞くと、カイエンはちょっと身じろいだ。

「泣きそうか。……さっきは本当に泣くかと思ったが、こうして皆のそばに戻れたからにはそうしてもいられない。ひどい顔をしていてすまないが、私を最後までここで立ち会わせてくれ」

 ジェネロはため息とともに、自分の顔へ手をやった。

「……あーあ。もうすでに俺は戻ったら半殺し決定だって言うのになあ。確かにあんたは大公殿下だよな。ハウヤ帝国じゃ皇帝陛下の次に政治的に重要な要職に就いている人だわ。血が繋がっている分、あの宰相より上だもんな」

「ジェネロ?」

「はいはい。わかりました。考えてみりゃあ、女ってのは打たれ強いよな。一時の暴力には屈しても、生き残れば女の方が大概は強いや」

「おい。ジェネロ、まさか君……」

 押しとどめようとするザラ子爵を、ジェネロは遮った。

「子爵様。もうこの戦争は次の段階に入ってるようですぜ。……落とし所は決まってるって言っても、先のことも考えないと、でしょう?」   

 


 そう言って、ジェネロが中立線のテーブルの向こうを見やった時。

 そこでは、灰色の獣とシイナドラド人達とのにらみ合いが続いていた。

 エルネストはまだ笑いを浮かべていたが、その後ろで夏の侯爵マルケス・デ・エスティオは真っ青になっていた。自分と同じ真っ青な目をした巨大な野生の狼にしか見えない獣を、その目に映したきり、声も出ない様子だ。

「なんだお前? ……そうか、お前がハウヤ帝国にいるって言う獣人かあ」

 エルネストはカイエンが走り出し、自分の手から逃れ去ったと見ると、すぐに後を追って走り出そうとした、そこへ割り込んだのがガラだったのだ。

「なるほどねえ。まさか、お前がカイエンの男妾かい? ……違うか。それにしても、しゃべる獣を見ることになるとはね」

 良くも悪くも、エルネストは皇子だった。自分の能力に自信があり、実際に文武ともに皇子としては秀でていたことが、この大きな獣を前にしても、彼を決して後ろへ下がらせようとはしなかった。

「エルネスト皇子。……あなたには相応の痛みと恐怖を感じていただく」

「はあ?」

 エルネストとて、ガラの巨大な狼にしか見えない姿には恐れを抱いていたに違いない。

 だが、その恐れを外に見せるには、彼の性格は可愛げがなさすぎた。本当の痛みや恐怖を未だ知らなかったからでもある。だから。

 エルネストが腰の大剣を抜き放った時には、もうガラはエルネストの間合いの中に入っていた。

 その速度は人の出しうる速さではない。普段のガラでもエルネストに遅れを取るようなことはなかっただろうが、ガラは選んだのだ。

 より強い恐怖をエルネストに与える姿で対決する方を。

「殺しはしない」

 ガラの呟きは、確かにエルネストの耳に届いていた。

 そして。

 びっ!

 最初に血を吹き上げたのは、エルネストの左腕だった。

 顔の左側を狙ってきたガラの爪を防いだからだ。だが、防いだ時には爪が食い込んでおり、そのまま外側へ腕ごと払われてしまう。

 次に血飛沫が上がったのは、首元をやや外れた右の肩口だった。

 声もなく、ガラに右肩を噛まれたまま、泥の上へ押し倒されるエルネストの手から大剣が落ちて転がった。

「ひあぁぁぁっ! ああああああああああーっ!」

 その真後ろで、まだ攻撃を受けてもいない、ドン=フィルマメント、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの方が叫び、後ろへとたたらを踏んで情けなく地面へと崩れた。

 エルネストの右肩を十分に噛み、同時に押さえつけた前足の力でごきりと肩の関節を外したガラが、ふわっと彼の方へ飛ぶ。

「うわあああああああああああ!」

 自分と同じ、真っ青な目を持った獣に襲い掛かられた夏の侯爵マルケス・デ・エスティオは凄まじい叫び声をあげた。

「やめろぉ! お前は、お前は、……ではないか! それなのにこの俺に牙を剥くのかあ!」

 背中を向けて走り逃げろうとして転び、這って逃げ出す彼の背中にガラの爪がかかり、血飛沫が上がるのを、カイエンたちは黙って見守っていた。

 

 カイエンの拉致が、この事態を収拾する約定書に記載されないように。

 ガラのこの行動も、対外的にはなかったことになることを、そこにいたすべての人間が知っていたから。

   

 

 

 


 ちょっと説明多すぎです。

 それにちょっと急に話が進みすぎ。

 それは自覚しておりますが、これ以上引き伸ばしてもね、と思ったのです。


 次回は一気に帰国の途につきます。


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