星と死の扉
さあ
世界中から集めた毒を集めた
毒杯を掲げて乾杯しよう
心に巣食う淀んだ欲望を虚構の悪魔に捧げて
一人だけの地獄へ落ちていくんだ
羽と角で飾った闇夜の冠を戴き
荊の冠は後手に
「なんで神様は助けてくれないの」
淀んだアタマで宗教の裏表の秘密を暴いてやれ
あんたは会心の微笑でこっちを見ているね
いつも片手に毒杯
片手に良心
持ちにくい代物を左右の手で忙しく持ち替えてさ
人生は虚栄
だから装いを凝らして出かけよう
虚栄の鏡の前のあんたは
今日も明日もまだ笑っている
アル・アアシャー 「虚栄の鏡」
大神官の待つ祭壇の前に立つ、皇太子セレスティノとその妻となる公爵令嬢アウレリア。
それは、二人の結婚の儀式だった。
カイエンは壇上で、皇王バウティスタと並んで座って横からそれを眺めながら、初めて気がついていた。
(そうか。この二人は、本当に普通に結婚する二人なんだなあ)
ということに。
カイエン自身の結婚は、このままではあのエルネスト相手の政略結婚以下の「強制結婚」とでもいうべきものになるはずだ。と言うか、事実としてはもうそうなってしまっている。それに比べれば、何とも普通で幸福そうだ。
もちろん、皇太子セレスティノとアウレリアはまた従姉妹との結婚だから、血族結婚である。
だが、二人は一昨日の夜のあの奇妙な晩餐の時も、今も、本当に仲睦まじく見えた。いわゆる政略結婚ではないのか、知らない者同士のぎくしゃくした様子はない。
(幼馴染かなんかなのかな)
カイエンは他に考えることもないので、漠然と二人の様子を見守っていた。
顔はよく似ていて夫婦としては奇妙にも見えるが、二十代終わりに見えるセレスティノと、二十歳前後でカイエンと歳が近そうなアウレリアとは年回りもちょうどよく、お似合いに見えた。
「この結婚はセレスティノのごり押しでしてなあ」
カイエンの頭の中を見たわけでもないだろうが、その時ちょうどよく皇王バウティスタがカイエンに囁いてきた。
「……セレスティノの母の皇后と我はいとこ婚でしたから、今度もでは血が濃すぎると反対したんですがな。どうしても他の女じゃいやだというので……。まあ、セレスティノもアウレリアもあの通り健康ですので、大丈夫かと思いましてな」
カイエンとバウティスタの眼前で、その二人は結婚の誓いの言葉を紡いでいる。
それが済むと、二人は揃って大神官に誘われて祭壇のアストロナータ神像の前へ額ずいた。
これで、二人の婚姻が神前に認められたということなのだろう。
「我の子はセレスティノとエルネストの二人だけでして。皇女たちもおりましたのですが、皆、子供の頃に亡くなりましてな。ですが、今日からはアウレリアが我が娘となってくれます。そうそう、大公殿下にエルネストが婿入りすれば、殿下も我の義理の娘になるんですなあ。うれしいことです。本当に」
(けっ)
カイエンは心の中で吐き捨てた。
わざわざシイナドラドまで名指しで呼びつけられた上に、罠に嵌められ、フィエロアルマともアキノたちとも引き離されてここまで引っ張ってこられた。それも、道道、あのエルネストにまとわり付かれ、脅されながらだ。
それを考えれば口に出して罵ってやりたかったが、そうするにはカイエンは育ちがお上品過ぎた。
だが、友好的にお相手をしてやる必要はないと思ったので、カイエンは仏頂面を隠そうともせずに黙ってそこに座っていた。
やがて。
アストロナータ神の御前での誓いを済ませた、皇太子夫妻がカイエンと皇王バウティスタに礼をして、壇上から降りていく。
それを見送ったカイエンは、壇の下で立ち上がった貴族たちの中で一番上座に立っている男と、期せずして目が合ってしまった。
左右色違いの瞳。さすがに今日はめでたい席を意識したのか、服装はいつもの黒ではなくて明るい灰色だったが、その大柄な姿は大勢の貴族の中でもひと際目立っていた。
エルネスト・セサル。
今日も面白がっている子供のような無邪気さと、自分以外のすべてを下に見ている不敵な微笑みを浮かべた、不遜な顔から、カイエンは本心から嫌そうに目をそらした。
そんなカイエンの気持ちを知るはずもない、新郎新婦がエルネストの前を通り過ぎていく。
これから各方面への披露が行われるのだろう。
だが。
「大公殿下、ありがとうございます。皇太子たちはこれからバルコンから市民へ婚礼の挨拶をいたします。その後は貴族どもの前での披露宴となりますが、大公殿下にはご列席の必要はございません。殿下には今宵の星教皇即位式のご用意をしていただきます」
カイエンは横に立った皇王バウティスタが、すでに決定事項として告げるがままになるしかなかった。
すっと後ろから現れたエルネストの侍従、ヘルマンに腕を取られて、神殿の壇上のカーテンの陰にある扉からしずしずと退場するしか。
カイエンがこの場所に連れてこられた、本当の理由はこの婚礼などではなかったからである。
「ふう」
ため息とともに、カイエンが皇太子セレスティノの神前婚礼式から退場させられて、連れてこられたのは一昨日、このホヤ・デ・セレンに連れてこられてからずっと滞在させられている、エルネストの皇子宮だった。
朝もここで支度をされてから引っ張り出されたのだから、今日は二度も「お支度」をさせられるということだ。
時間は昼にかかったところで、皇王や皇太子たちは昼餐を兼ねた披露宴に出ているだろう頃合いだった。
カイエンには皇子宮に昼食の用意がしてあったが、さすがのカイエンもここ数日はまったく食欲というものを感じられなくなっていた。
ラ・ウニオンでひとりぼっちにされた後も、「食べられなくなったら終わり」と、努めて食べるようにしていたのだが、エルネストにまとわり付かれての連日の荒淫と精神的な圧迫は、彼女からなけなしの食欲も気力も奪い取ろうとしていたのだ。
体が弱くて体力がないわりには食事だけは偏食せずにちゃんと摂っていたのに、とアキノがここにいたら嘆いただろう。
「いらない」
カイエンは彼女らしくない、子供の我が儘のような気持ちのままに目の前の食事から目を背けた。
皇太子の結婚式で着せられていた、糊の効いた重い絹地の衣装は一番下の長衣を残して脱がされていたが、それでも窮屈で、カイエンはいらいらと襟元をくつろげる。
「お前もそばで見ていればわかるだろうに。……この私の立場で、今、腹が空く方がおかしいだろ。そう思わないのか?」
こいつに当たってもしょうがないとはわかっていても、カイエンはそばに控えているヘルマンに言わずにはいられなかった。よく考えてみれば、アキノたちにもこんな我が儘を言ったことはなかったのに。
「……ご心労はお察し申し上げます」
ヘルマンは立っていたところから動いて、カイエンの前にひざまずいた。
意外にも、ヘルマンの返答はまともだったので、カイエンは灰色の目をぱちくりさせた。
(もう行かなければ。来るのは、あのエルネスト皇子の侍従だ。あいつはあんたを敬っている方だから、大丈夫だ)
一昨日の昼、獣化したガラがやってきた時、最後に言った言葉が蘇った。
そういえば、このヘルマンという侍従は、エルネストに忠実なのは間違いないが、カイエンには常に毅然とした私心のない態度で接していた。若い男が若い女の身の回りの世話をしていたというのに、彼の態度からは一切の邪心が感じられなかったのだ。
だから、カイエンはだんだん執事のアキノに接する時のような感覚さえ覚えるようになって来ていた。
「申し訳もございません。私はただの侍従でございます。ですからエルネスト様をお諌めすることなど出来ないのです」
そして、顔を伏せたまま、ヘルマンは至極まともな言葉をつなげてきた。
「えっ?」
あまりに意外な返答に、カイエンは反撃したくても出来なくなった。
「私はエルネスト様の母君の里に連なる者ではございますが、この通り、皇王家のご一族の姿を持っておりません。ですから、今宵の殿下のご即位式には参列する資格がございません。ですが、即位式は夜じゅうかかるものだと聞いております」
「そうか」
気の抜けたような声で、相槌を打つことしか、カイエンには出来ない。
皇王家の一族の姿、とは恐らくカイエンやエルネストのような姿、という意味なのだろう。カイエンは先ほどの結婚式で見た、この国の貴族たちの二つに色分けされた姿を思い出した。中ほどから下に居並んでいた貴族たちは皆、このヘルマンに似た色合いの薄い色の髪や目の者たちばかりだったのだ。
「……ですから、体力をつけていただかなくては。お体のためにも、少しでも召し上がってくださいませ」
カイエンは、はっと気がついて、テーブルの上に並べられた昼食の皿を見た。
鶏肉のブイヨン、それに野菜をすりおろして作られたらしい、琥珀色の透明なスープ、ミルクで煮た粥、柔らかくほろほろに煮込まれた肉と野菜。それに柔らかい桃や葡萄、角切りにしたメロンなどをセリーで寄せた果物の入ったガラスの小鉢。
そこに用意された皿は、すべて消化のいい、弱った体に良さそうなものばかりだった。
思い出してみれば、旅の途中からカイエンの食事は、だんだんにこういったものに変わってきていたような気がする。
(気を遣ってくれていたのか)
どうやら、あの慧眼なガラはこんなことまで見ていたらしい。
「わかった」
食欲はちっとも湧いてはこなかったが、確かに今夜の即位式とやらの途中でぶっ倒れるのはまずそうだった。即位式をぶっ壊してやるにはぶっ倒れた方がいいのかもしれなかったが、ここの奴らの感覚ならば、儀式の主人公であるカイエンが気を失っていようがなんだろうが、儀式を中断しそうには思えなかったからだ。
それならば、しっかり目を開いて見聞きしていた方がマシそうだった。
カイエンは銀製の匙を取ると、スープから取り掛かることにした。
「……ありがとうございます」
ヘルマンは頭を下げたままの姿勢でそう言うと、すっと立ち上がる。カイエンが素直に従ったので、やや驚いたらしく、声の調子がやや違っていた。
「お食事がお済みになりましたら、少しお休みになっていただきます。私はその間に今宵の即位式のお衣装を用意させていただきます」
カイエンはそれにも鷹揚にうなずいた。
もう、どうにでもなれ、である。
そして、少しまどろんでから起こされれば、もう時は夕方だった。
「よくお似合いでございます」
ヘルマンの手によってカイエンが着せられた星教皇の正装。
それは普段彼女があまり着ない、真っ白な衣装だった。
純白と言うより、やや青みがかって見えるほどの冷たい白い色。それはやや厚い絹地の、昼間見た大神官が着ていた僧服に似た意匠の服だった。だが、それよりはぐっと華やかだ。
一番下の直線的な長衣は禁欲的な神職を表しているのか、襟元は高い立て襟で、白地に金と銀で翼と神代文字の絡み合う刺繍が施されている。その襟の合わさる首元からは正方形の青金で縁取られた、一握りもありそうな赤を秘めた濃厚な紫の紫水晶を中心とした宝石の連なった、胸元を広く覆う、重い胸飾り。
今度も、カイエンがずっと身につけていた、ヴァイロンの「鬼納め」である紫翡翠の耳飾りと指輪がそのまま残されたのは幸いだった。
紫という色は、どうやらここシイナドラドの皇王家では「神聖なる色」であるらしい。ヴァイロンの「鬼納めの石」は希少な紫翡翠であったことで、カイエンから奪われすに済んだのである。
胸飾りの下は隠しボタンで止められており、表にはまっすぐに絡み合う金銀の文様が裾までまっすぐに続いていた。
両肩からは裾まで届く長い、深い紫色に銀の神聖文字と幾何学模様の絡み合う刺繍を施した、神官のストラが垂れる。
そして、カイエンの紫がかった黒い髪は首の後ろで一つにまとめられ、これも宝石作りの髪留めで止められていた。
そして、頭には例のアストロナータ神官の象徴である、長い筒型の真っ白な帽子が載せられた。
白い帽子にはなんの飾りもないが、前にも後ろにも長々と裾を引くほどに長く、薄くて透ける、おそらくは螺旋帝国渡りの柔らかい絹地のベールが下がっていた。布地の合わせ目と裾の方に精巧で重厚な刺繍が施されているので、それが重りになって、ベールは服にまとわりつくこともなく長々とカイエンの動きについて動く。
「大仰なことだな」
衣装を着終わり、椅子に座らされたカイエンが、大ぶりな紫色の宝石の連なる胸飾りをなんとはなしに指先でいじりながら言うと、着替えを手伝っていたヘルマンの返答が珍しくも下の方から聞こえてきた。
「歴代の星教皇猊下のお召しになったものと同じ意匠のご正装でございます」
そう言うヘルマンは、長身を屈めてカイエンの足元にひざまずいている。
ヘルマンは最後にカイエンに靴を履かせようとしているのだ。
この日のカイエンの着替えもまた、男の、それもエルネストの侍従であるヘルマンが一人で行ったのである。これは皇太子セレスティノの婚礼の時もそうで、皇王もエルネストも、なるべくカイエンに接する人間を少なくしようとしていることが、はっきりとうかがわれた。
何しろ、カイエンの顔に施す化粧まで、このヘルマンがしたのだから、それは徹底していた。薄化粧とはいえ、カイエンは男に化粧されたのはこのシイナドラドでのことが初めてだった。
これも真っ白に細かい刺繍の施された、外歩きには向かなそうな華奢な絹地の靴をカイエンに履かせ終わると、ヘルマンはすっと立ち上がった。
「お支度は以上でございます」
そのヘルマンの声が合図だったのか、しばらくすると部屋の扉が外から開けられた。
入ってきたのは。
カイエンが一番、見たくない男だった。
だが、この部屋の本来の主は彼なのだから、カイエンは文句も言えなかった。
「お迎えに参りましたよ、星教皇猊下。……おや、これは馬子にも衣装ってやつだねえ」
口の減らない男だ。
カイエンは顔も見ずに無視した。
「おやおや。猊下は今宵もご機嫌が悪い」
馬鹿め。
カイエンは心の中で吐き捨てた。お前の前で機嫌良くしてたことがあったか、と言ってやりたかった。
この夜も、漆黒の重たい絹で出来た、長いシイナドラド皇王族の正装に身を包んだエルネストが左手を差し出してくる。彼の支度の手伝いはヘルマン以外の侍従がしたのだろう。
カイエンの左手には、ヘルマンが彼女の銀の握り手のついた黒檀の杖を持たせてきた。
その杖を突きながら勝手に歩こうとすると、右手を無理やり取られた。
「そんな重たい衣装で、転ばれでもしたら大変だからね。今夜は嫌でもずっと、俺の手にすがって歩きなさいよ」
そうして。
ヘルマンに見送られて、エルネストの皇子宮からまた馬車に乗せられ、また皇王宮の奥の大神殿に連れてこられた。
だが、星教皇の即位式とやらは、昼間、結婚式の行われた表の神殿で行われるのではないらしく、カイエンを乗せた馬車が着いた場所はそびえ立つ大神殿の尖塔の中でも、一等高くて巨大な塔の下だった。
「足元にお気をつけて」
馬車の扉を開けた神官が照らすランプの下、カイエンとエルネストは塔の下へと続く曲がりくねった大理石の階段へ案内された。
「こっちが実は、俺たち一族の本当の聖なる神殿なんだよ。地下にあるんだ。おっと、転ぶといけないからここからは運んで行こう」
カイエンは自分で歩く、と言いたかった。だが、延々と地下へ伸びる白大理石の階段、それも長い年月で中心部だけ摩耗したつるつるの表面を見ると一気に自信がなくなった。
「そうそう。たまには素直にね」
憎まれ口を聞き流し、エルネストに抱えられて降りていく。
ヴァイロンにも同じように何度も抱えられて歩いたことがあるが、カイエンの覚えた感覚はまったく逆だった。思えばヴァイロンという男も押しの強い男だが、彼のすることには底の方にカイエンに対する絶対的な愛着の強さがあった。カイエンはその過剰な愛情に辟易することもあったけれども、一方でその無私の心情を信頼し、安心できていたのだ。
だが、エルネストはまったく違う。
彼のカイエンに対する気持ちは、言わば飼っている珍獣を愛でるようなもので、そこには信頼も安心も入る余地はなかった。飼っている動物が珍獣だから注いでいるだけの一方的で勝手な気持ちなのだ。
カイエンも大公宮で猫のミモを飼っていたが、彼女はミモが嫌がることを無理強いしようとしたことはないし、ミモもカイエンの寝台で仰向けで寝るくらいには彼女を信頼しているようだった。
そこまでつらつらと考えて。
カイエンは何か引っかかるものを感じた。
そもそも、カイエンのどこがエルネストにとって「珍獣」なのだろうかということに。それは、カイエンはこのシイナドラド皇王家では「星教皇」とやらになれる唯一の存在らしいから、その面では珍獣だろう。
だが、それだけならば会ってすぐに性急に体を繋げようとするだろうか。第二皇子であるエルネストが、国境の街まで迎えに来てまで。
勝手極まる理由での結婚を意図しているとは言っても、肉体的な関係をそこまで急ぐ必要があるとは、カイエンには思えなかった。カイエンが未だ何も知らない生娘だったと言うならばわからないでもない。一度でも関係を結んでしまえば、もう逃げられないということもあるだろう。だが、そうではないのだ。
そこには何か、カイエンの知らない理由があるように思えた。
「何、考えてるの?」
黙って考えに沈んでいるカイエンを訝しんだのか、エルネストが思索を邪魔してきた。
「なんでもない」
カイエンがそう答えた時、二人はやっと階段の果てに着いていた。
目の前にはかなり広いホールがあり、その高い天井にはランプを連ねたシャンデリアが光り輝いていた。
「皆さま、すでにお待ちでございます」
そう、声をかけてきたのは、昼の皇太子の結婚式で見た大神官だった。特徴のない姿の中年男だが、その髪の色や目の色、顔の特徴は皇王家の一族特有のものだ。筒型の長い帽子をかぶった彼は、カイエンに向かって深々と頭を垂れた。
ホールの反対側には高い高い天井にまで届きそうな金属製の扉がそびえていた。
その表面を覆う彫刻は、アストロナータ神が、天地創造を行っている情景だ。アストロナータは「外世界」の神で、外世界を追放されてこの地に降り立ったことになっている。それは、複雑な意匠の衣服を纏ったアストロナータが、そそり立つ天の山を崩して海を埋め立て、大陸を作っている場面だった。
カイエンが、父であるアルウィンが始めた、桔梗館の集まりの残党が潜んでいたあの第二の桔梗館、アイリス館の中にあった扉の彫刻を見ていたら、これとそっくりだと気がついただろう。だが、彼女はそれを知らなかった。
「下ろせ」
カイエンが言うまでもなく、ぎりぎりと開く大扉の前で、カイエンは床へ降ろされた。
左右を大神官とエルネストに囲まれて、カイエンが中に入ると、そこは地下だとは信じられないほどに巨大かつ広大な空間になっていた。
だが、そこは神殿というよりは地下聖堂、つまりは死者の国への入り口だった。
正面には黒光りするくすんだ銀と黒檀で作られた、巨大な祭壇。その前に、皇王バウティスタ以下の一族たちが静かに控えて、カイエンを待っている。
今日は先日の晩餐と違って、主だった者たち以外の一族も来ているのだろう。子供の姿はなかったが、老若男女の数はかなりの大人数だった。
その皆が皆、カイエンの純白とは反対の、黒っぽい衣装をまとっている。
だが、そこまでの距離の、なんと遠いことか。
そして、黒大理石の床には一面に金色の象嵌で名前の彫りつけられた、大理石の墓標が並んでいた。
カイエンがちらっと見ただけでも、それらが歴代の皇王や皇后たちの墓であることは一目瞭然だった。
そして、左右の壁には何十、何百もの龕が作られ、そこには今、カイエンや大神官がかぶっているのと同じ、長い筒型の帽子をかぶった、ミイラ化した遺体が納められているのだった。それらは衣服の飾りや色からすると、高位の神官たちのものであるらしかった。
「なんだ、ここ?」
カイエンも、ハウヤ帝国の皇族として、皇帝家の地下墓地を訪れたことはある。十七人の歴代の皇帝の命日には、皇帝と皇后を祭主とした、荘厳な礼拝が行われるのが常だ。
だが、このシイナドラド皇国の地下聖堂は規模が違っていた。考えてみれば、皇帝サウルまでたった十八代のハウヤ帝国と、千年以上の歴史を誇るシイナドラド皇王家では、祀られた祖先の数が桁違いなのだ。
それはカイエンにも次第に理解できたが、だが、この地下聖堂の異様な圧迫感には恐怖せずにいられなかった。
それでも、大神官とエルネストは、カイエンをまっすぐに正面の数多の蝋燭に照らされた祭壇の方へと引っ張っていくのだ。
近づくにつれて、カイエンにも祭壇の様子が見えてきた。
大体の様子は、ハウヤ帝国のアストロナータ神殿でもお馴染みの様式だ。
正面の壁には巨大なアストロナータ神の彫像。それは、一昨日の夜の陰気な晩餐会の広間のものと、大きさは違えども同じようなものだった。
だが。
あれは?
あれは、何だ。
カイエンの目は、祭壇の上に麗々しく置かれた、ガラス製の巨大な棺のようなものに惹きつけられた。
その中に、横たわっている、一人の人物に。
それは、一人の、男とも女とも一見しただけでは判別できない、一体の亡骸のようなものだった。
それは、カイエンが今、着せられている衣装とほとんど同じ衣装をまとって、そこに眠っていた。真っ白な筒型の帽子の下からは黒っぽい紫色の髪が長々と伸びて、その胸元を覆っている。目は閉じられていたが、その土気色の顔は……。
それは、カイエンに生き写しに見えた。
その時、カイエンは何かが分かったような気がした。
エルネストが、あの皇王や皇太子が、このシイナドラド皇王家の人々が、この顔を知っていたならば、カイエンは彼らにとって特別な者に見えるのかもしれない。
似たような顔をした一族の中から、あえて紫色の髪の者を選び、彼らは星教皇に祭り上げてきたのだ。
何しろ彼らは、彼らの子孫の中に、この顔を探し続け、星教皇として祭り上げてきた一族の末裔なのだから。
カイエンはやっと、彼らがカイエンに向けてきたすべての感情が理解できたように思った。
「あれは何だ?」
カイエンが、それを見つめたまま尋ねると、大神官はもっともな質問だというようにうなずいた。
「あちらに安置いたしましておりますのは、我らが始祖アストロナータ大神の不朽体でございます」
アストロナータ神のなんだって?
それは、カイエンの知らない言葉だった。
「不朽体?」
カイエンが重ねて疑問を口にすると、大神官は厳かに頭を垂れた。
「さようでございます。あれこそが、我らが始祖。アストロナータ神の不朽体でございます。この世から旅立たれた後に遺されたお体でございます。神性強き存在のお体は、ああして朽ちることなく永遠に残るのでございます」
カイエンはもう一度、祭壇の上のそれを、見た。
永遠に朽ちない死体など、聞いたこともない。
「これは蝋で作った人形だろう。そうじゃなかったら、遺体に防腐処置をしたのちに、蝋で表面を覆ったか?」
カイエンは大公として、ハーマポスタールの地下墓地を何度か視察している。
そこで見た、防腐処理を施された遺体には、そういうものもあった。
だが、あれがアストロナータ本人の遺骸とすれば、あれは千年単位の時間、ああしてこの聖堂に置かれていることになるのだ。信じろという方が難しい。
カイエンの言葉を聞くと、大神官はゆるゆると首を振った。
「外国でお育ちの猊下の御不審はもっともでございますが、あれはそのようなものではございません」
そう言うと、大神官はそれ以上の質問をカイエンにさせず、彼が「不朽体」と呼ぶものの入った、ガラスの巨大な棺の前へ、カイエンの手をとって引っ張っていく。
「おい!」
夜の地下の大聖堂。
その数多の蝋燭で照らされた祭壇の前。
そこに安置された、大神官が不朽体と呼ぶガラスの中の、カイエンによく似た顔の遺体。
はっきり言って、カイエンには不気味すぎる光景だった。
「おお。大神官どの。それでは猊下が転んでしまいそうだ。……エルネスト、そなた支えて差し上げなさい」
言われるまでもなく、エルネストはカイエンの背中に手を回し、無理やりに祭壇の前に引っ張っていく。
手の空いた大神官は、エルネストに一礼して、さっさと祭壇の向こう側に立ち、経典らしき大きくて分厚い革表紙に銀の象嵌を施した書物を開く。
それから、大神官が唱えだした言葉を、カイエンはもう聞いていなかった。
これはやばい。
大変なことに巻き込まれたこと、もうそれから逃れられないことを、本能的にに理解して動転していた。
あの、ガラスの中の物体が、カイエンそっくりなのは、まさかカイエンがここに来てからでっち上げられたことではないだろう。それは、今までの皇王たちの態度が裏付けている。
カイエンは必死の面持ちで、前後左右に首を回したが、もうどうにもならなかった。ここには彼女の味方などいないのだ。
「……ここに、我らが始祖、アストロナータ神の正しき生まれ変わりであられる新星教皇猊下をお迎えし、我らを導く光として世界に君臨していただくことを宣するものであります」
長々とした大神官の言葉の中で、不安で唇を震わせながら、ガラスの棺の前に立たされていたカイエンに真実、聞こえたのは、大神官が厳かな声で発した、その最後の言葉だけだった。
「おお!」
大神官の宣言を聞くなり。
そこに連なった、皇王以下の一族が、ざらざらと一斉に大理石の床に伏した。
「新星教皇猊下!」
「この地をお護りください!」
そんなことを叫びながら、彼らはカイエンの着ている白い衣装の裾に這い寄ってくる。
長衣の裾や、紫色の神官のストラの長く引いた裾、帽子から下がったベール、そして履いている白い靴にまで、這い寄った人々が争うように接吻する。何十人もの男女が、立ちすくむカイエンの足回りで我勝ちにと接吻を争う、悪夢のような異様な光景が、カイエンの前で繰り広げられた。
薄暗い黒っぽい色の服を着た、同じような顔つきの男女が、地面を這い回っている。その様子は、黒っぽく滑る巨大な虫かなんかが、うぞうぞと動き回っているよう。
それは、歴代の一族の墓が並ぶ、地下聖堂の雰囲気と相まって例えようもなく非日常的な光景だった。
カイエンは自分を支えているエルネストの存在も忘れ、灰色の目をいっぱいに見開いて、彼ら一族の狂気としか思えない振る舞いを見ているしかなかった。
その、放心したカイエンを現実に引き戻したのは、聖堂の上の方から聞こえてきた、拍手の音だった。
パン。パンパンパンパンパン。パンパンパンパン。
その音は乾いていて、そして、冷静だった。
ここで這い回っている奴らの狂気をあざ笑うかのように。そもそも、この異常な儀式の何が拍手に値すると言うのだろう。
カイエンにはその拍手の主が、この異常な儀式を見ている自分自身へ向かって喜びと祝いの拍手をしているように思えた。
そして、カイエンは聖堂の後ろから聞こえてきた音の源を振り返り。
それを、見た。
それは。
黒っぽい、多分、黒か紺色のシイナドラド風の礼服を着たその姿が、くるりと体を翻したところだった。
だから、その人物の顔はほとんど見えなかった。
だが。
その顔色がひどく白っぽかったのが、カイエンの印象に残った。
「えっ」
この地下に隠された礼拝堂の天井は高く、上部には回廊がぐるっと巡らされてる。
その回廊を去っていく、その後ろ姿をカイエンは見とがめた。
「まさか……」
見覚えがある。
背格好、そしてその歩き方も。
以前は身近でよく見ていた人のようで。
カイエンは長い筒型の帽子から垂れたベールを手で払って、その姿をしかと見ようとした。
「待て! 顔を見せよ!」
だが、カイエンはベールを払いのけることも、回廊を回って礼拝堂の後ろの二階部分から出ていく後ろ姿を追うことも出来なかった。
「まだ、だめなんだよカイエン」
がっちりと杖を持っている方の手首を掴まれて、はっとして後ろを見る。
そこには今日も真っ黒ないでたちのエルネストがいた。
色違いの目が、心底、面白そうに輝いている。
「まだだめなんだ。あんたはまだ、あの人には会えない」
言いながら、カイエンの体を自分の胸元に引き寄せようとするのに、必死の力で逆らう。
「何言ってるんだ? 離せ!」
だが、万力のような腕は小揺るぎもしなかった。
「あんたの即位式にだけは立ち会いたいって言うから、隠れて見ていてもらっただけなんだよ、……だけど、いくらうれしいからって、拍手しなくてもいいのになあ」
「はあ?」
エルネストの言っていることは、意味がわからない。
カイエンはもう、この訳のわからない男に拘うのをやめ、回廊の方をもう一度、振り仰いだ。
「待て! そこの男、待てと言っているのだ!」
もう一度、もう二階後ろの扉を開けて、出て行こうとしている姿に向かって叫ぶ。
自分が星教皇になったというのなら、その命令には従って当然なのではないか。
それなのに、その人物は彼女の声を聞いていないかのように、歩みを止めずに去っていく。
「お前は誰だ?」
カイエンは、ガラのことを思い出した。
ああ、ガラたちはこの地下聖堂まで隠れ潜みながらついてきてくれているのだろうか。
それなら、見届けてきてほしい。
あの人物が、真実、誰なのかを!
「待て! 私に顔を見せろ!」
激しく問いただし、叫ぶカイエンの目に映ったのは、もう、その人物が扉の向こうへ消えていく、その影だけだった。
ふわー。
長かったわー。でも、やっとここまで来たわー。
という、感慨でいっぱいです。
最弱主人公のカイエンさんが、一気に主人公らしくなった……かもしれません。
第一話の地味な伏線も回収できました。
次回は、カイエンさん、帰国の途に着くまでです。