魑魅魍魎たちの宴
未来を
誰に捧げようか
いつも未来のことを決めてしまうのは
過ぎ去っていった老人たちの声だ
未来を生きなきゃならない方には決定権も拒否権もない
若人は老人となり
肉体の破壊が思い出と教訓を削り取る
そんな老人たちの歌が未来を連れてくる
それは楽園の未来か
戦さ場の世界か
若人よ
目線を遠くに投げて
今を生きていることの責任を持て
壁の向こうで日が昇る
それを見上げて自分の影を踏みしめたなら
もう
忘れることはないだろう
未だ来ぬ人よ
あなたたちに捧げよう
今日の未来を
明日からの世界を
周 暁敏「革命夜話」より「未だ来ぬ人へ」
部屋の正面の壁に、アストロナータ神の巨大な彫像が、星々を背景にして刻まれた、だだっ広い、まるで神殿の礼拝堂のような大広間。
その中央に据えられた長大なテーブルの端に、エルネストと共に立ったまま、カイエンはただただ面食らっていた。
「どうしてくれる、この落とし前!」
と叫んだのに対する、居並んだ人々の拍子抜けするような反応を見て、カイエンはうんざりした。
話が通じない。
怒りが伝わらない。
カイエンには老若はあれども、同じような顔を並べているこの二十人ほどの男女が、この古いシイナドラド皇宮に巣食う魑魅魍魎のように見えた。
とりあえず、彼らが自分をほめそやし、敬っているようなことを言っていることはわかる。だが、彼らの言葉の中にはカイエンの知らない言葉があった。
星の君。
確かなのはただ一つ。エストレヤ、星、という意味の名はカイエンの三つ目の名前であることだ。
カイエン・グロリア・エストレヤ・デ・ハーマポスタール。
この名前は父のアルウィンがつけたものだ。
カイエンとしてはフルネームで呼ばれるたびに面映くなる、派手な名前である。
カイエン、とははるかな古代に海に沈んだという古の都カイエンヌから採られたものであり、グロリアとエストレヤはそれぞれ、女神グロリアと星神エストレヤから採られたものである。女神グロリアは「栄光の女神」であり、今も信仰を集めている。グロリア神殿は尼僧院としても有名で、神官はすべて女性である。星神エストレヤの方はすでに神殿も失われた、古代のハーマポスタール土着の神で、ハウヤ帝国第一代皇帝サルヴァドールが建国した頃にはアストロナータ神教の伝来と共に廃れてしまった神だ。
アルウィンがなぜ、その星の神の名前をカイエンにつけたのかはわからない。
が。
カイエンの名を意味でもって説明すれば、「ハーマポスタールの栄光と星、カイエン」ということになる。
ちなみに妹のオドザヤの名前もかなり派手で、オドザヤ・ソラーナ・グラシア・デ・ハウヤテラ、とは「ハウヤの大地の太陽と恩恵、オドザヤ」という意味である。オドザヤという名が古代の言葉で「星の歴史」という意味であることを考えると、この姉妹は「星」に縁があるのかもしれなかった。
「星の君、ってなんだ?」
他に聞ける者がいないので、カイエンは仕方なく、横にいるエルネストに聞いてみた。
エルネストはここへ入ってくる時、カイエンにつかまれというように、自分の左腕を差し出してきたのだが、カイエンが無視したため、カイエンは左手に杖をついてエルネストの左側に立っていた。
それにむっとしていたわけでもなかろうが、エルネストはカイエンの方を見もしなかった。突き放すように言う。
「ここはシイナドラドだぜ。アストロナータ教団の本拠地だ。そこに星の君ときたら、わからない方がおかしいだろ。自分で考えろ」
カイエンは、はっとした。
自分の頭が、たいして良くもない普段と同じにも回っていなかったことに驚いたからだ。やはり、非日常な日々の連続で頭がうまく動かなくなっているのだろう。
だが、カイエンは気がついた。そうだ。この部屋の正面にもあるじゃないか、でっかい彫像が。
アストロナータ神だ。この国で認められている、唯一の神。シイナドラド皇家の始祖神。
その神性を体現すると言われる、シイナドラド皇家。その一族から選ばれるという、アストロナータ神の化身。
星教皇。
しかし、それと自分を重ね合せることは出来ない。
「なんで私が!」
そう言いながら、考えたのは、まさかこいつらは自分を星教皇にするために、わざわざここまで引っ張ってきたのか、という信じがたい疑惑だった。
いや、ここでシイナドラドの皇王の一族の前に連れてこられ、彼らに「星の君」などと呼ばれている事実を考えれば、答えはそれしかないように思えた。
それにしても。
同じような顔を並べているここの皇王家の一族を眺めわたす。
こいつらの中には星教皇になれる者がいないとでもいうのだろうか。
「あんたしか、今までの星教皇たちと同じ条件にぴったり当てはまる、一族の末裔はいないんだってよ」
びっくり顔を隠そうともしないカイエンをちらっと見ると、エルネストはぐいっとカイエンの右腕をつかんで、巨大なテーブルの奥の方へ引っ張っていく。
「見てみろよ、こいつらを。顔は見たとおり、似たり寄ったりだ。目の色もだいたい薄いの濃いのはあっても灰色だろ」
カイエンはうなずいた。
なるほど、そのとおりだ。そんなことは、ここに入ってすぐに気がついている。
「じゃあ、髪の色はどうだ? あんたと同じ紫がかった色のやつが一人でもいるか? まあ、ここにいるのは主だった家の当主級だけだから、ここにいないやつも大勢いるけどな」
はあ?
カイエンは本当に心からびっくりした。
「髪の色?」
あまりに驚いたのでカイエンは立ち止まろうとしたが、エルネストはそれを許さない。つまずきそうになると、腰に手を回されて足が宙に浮いた。
「いねえんだよ。あんたと同じ紫がかった色の髪のやつが。一人もね。黒っぽいだけじゃだめなんだ。古のアストロナータ神の髪の色は紫色だったんだってよ」
犬か猫のように、エルネストのたくましい片腕で運ばれながら、カイエンは確認した。
広間の巨大なテーブルの上には、数え切れないほどのランプを連ねたシャンデリアがあったので、そこに集った人々の様子がはっきり見えた。
皇帝サウルのような漆黒、父のアルウィンのような紺色、伯母のミルドラのような深緑、そして焦げ茶色に濃い灰色。
確かにいない。カイエンと同じ髪の色の者は、そこに一人もいなかった。
だが、たったそれだけだ。
「なんで? だって、たかが髪の色だぞ!」
彼女にとっては当然の疑問を口にするカイエンを横抱きに抱えたエルネストは、先ほど彼女が怒鳴りつけた、皇太子セレスティノと、その妻となる予定の数日後には皇太子妃となるであろう女性の横を通り抜けた。
そして、正面のシイナドラド皇王バウティスタの横にたった一つだけ作られた席に、やや荒っぽくカイエンを座らせた。
「ほら。ここがあんたの席だよ。……シイナドラド皇王と席を並べられるのは、星教皇様、ただ一人だ。皇后はもう死んじまったからな」
そう言うと、エルネストはなぜかカイエンの後ろに立った。
なるほど、本来なら皇王の横にいるはずの皇后の姿がない。皇太子たちは皇王の左右に座っていた。
普通に考えれば、第二皇子であるエルネストの席は、皇太子のセレスティノとその婚約者、未来の皇太子妃の正面だろう。確かに、セレスティノと未来の皇太子妃の向かいの席は空いていた。
「エルネスト、よくやったな」
カイエンが座るのを見ると、しばらくして皇王バウティスタが初めて口を開いた。
ファナ皇后によく似た顔は、もう六十に近いだろうが健康そうで、声はゆったりとして優しかった。
「だが、道中で、なにやらいかがわしい所業を殿下に仕掛けたそうではないか。報告がきておるぞ。結婚前にそういうことを行うのは、どうかと思うがな。それに、ドン=フィルマメントが星の君のお顔にお傷をつけたそうじゃないか。……あれには婚礼への参列を禁止したが、明後日の夜の方は致し方ないか」
どうやら皇王バウティスタには、エルネストが旅の間にカイエンにしたことも、夏の侯爵の所業も、ちゃんと報告されているらしい。
だが、皇王のこのおっとりした言い方は何だ。カイエンのことでエルネストを咎めているようで、本当はどうでもいいような言い方ではないか。
(馬鹿にしている)
カイエンは怒りのあまり、ちょっと目がくらんだ。
そんなカイエンへ、皇王はにこやかな顔を向けてきた。はっきりと伯母のミルドラに似ているその顔は気味が悪かった。
「星教皇猊下、いやハウヤ帝国の大公殿下、ようこそシイナドラドへ……と言いたいところだが、我らの使った方法についてはさぞやお怒りのことでしょうな」
お怒り。
そりゃあ、お怒りですとも。
そもそも、星教皇の件も件なら、その結婚の件も件だ。
こちらの意向など無視しきったその所業。
カイエンは再び、声を荒げた。自分でもどうかとは思ったが、ここで相手の雰囲気に流されるのは嫌だった。
「お怒りの前に、意味がわからないな。そっちから呼びつけておいて、国境のリベルタで私の護衛であるフィエロアルマを遠ざけ、ラ・ウニオンで従者たちをも引き止めて、私だけ連れてきた意図をお聞きしたい!」
カイエンが言うと、皇王バウティスタはしんなりとした風情でうなずいた。
「それはそうでしょうな。しかし、これにはいろいろと事情がございましてな。それをお話しするために今宵の晩餐を用意したのですよ。……ちょっとややこしい話になりますので」
そう言うと、皇王は部屋の隅に控えた侍従に合図した。
「ここにおる皇太子セレスティノの婚礼は明後日です。今夜はその前祝い。大公殿下にはこのシイナドラドの宮廷料理を楽しんでくだされ」
「何が前祝いか!」
カイエンはここで引き下がってはいけないと食い下がったが、もう皇王は違う方向を見て話し始めていた。
「大公殿下の星教皇への即位式は、婚礼の夜の一族のみの祝いの席で、地方から来る者たちも集まった時に行う。皆、それで良いな?」
「はは」
その場に揃った老若男女二十人ほどが一斉に首肯する。その様子にもカイエンは苛立ちを感じた。
彼ら皇王一族はおっとりと貴族的だが、それでいて自分たちの意思の通りに粛々とことを進めて行ってしまうのだ。その静かだけれども他の干渉をものともしない姿は、ひどく人間味を欠いているようにカイエンには感じられた。
これに比べれば、人を人くさいとも思わないような伯父の皇帝サウルも、あの涼しい顔で謀を巡らす宰相のサヴォナローラも、人間らしく血が通っているように思えた。
「こら! 勝手に決めるんじゃない!」
カイエンが苛立ちを振り払うように立ち上がろうとすると、背後から大きな手が彼女の両肩を抑えて椅子に無理やり座らせた。
「威勢がいいのは結構だけどね。あんたはここではひとりぼっちなんだよ。……俺たちのするがまま。それを忘れてもらっちゃ困るなあ」
エルネストがカイエンの耳元で囁く。
彼が背後に立っていたことを思い出して、カイエンは舌打ちした。
そのカイエンの両肩にがっちりと手を置いたまま、エルネストは追い打ちをかけてきた。
「おとなしくしてないと、今夜はいつもより激しくしちゃうよ。兄さんの婚礼は明後日だから朝までやっても大丈夫だしね。それに、昨日は忙しくて可愛がってあげられなかったから、欲しくてしょうがないだろう」
カイエンの首元を、エルネストの唇がかすめていく。
カイエンは心底、ぞっとした。
勝手なことをほざくな、と面罵してやりたかったがどうしても、出来ない。
脅しではなく、本当にやる男だということは、ここまでの旅の間で思い知っているからだ。
黙ってしまったカイエンへ、エルネストは呟いた。
「じゃあ、俺は自分の席に着くよ。なあに、明後日の兄さんの婚礼とあんたの星教皇即位式が済んだら、俺の婿入りを条件にあんたは放免だ。俺もハウヤ帝国のフィエロアルマと一緒に婿入りする度胸はないからな。俺が婿入りするのは来年になるだろう。だから、帰りの道中では泣こうが嘆こうが好きにできるぜ」
カイエンは驚いた。
星教皇にさせた上で、彼らは自分をハウヤ帝国へ帰そうというのか。
意味がわからない。星教皇の即位など、したくはない。
「待て。それはどういうこと……」
さっさと皇太子たちの向かいにある自分の席へ向かうエルネストに問いかけたが、答えは素っ気なかった。
「続きは今から親父が話すさ。そこに座ってよく聞きな」
そして。
カイエンの前に置かれた料理の皿が、ほとんど手をつけられすに下げられていく中、皇王バウティスタの話をカイエンは一方的に聞かされていた。
「……他国のアストロナータ神殿には厳重に秘密にしておりますが、ここシイナドラドの皇王家には、始祖神であるアストロナータ神のお姿の詳細が伝わっておるのです」
カイエンの前に置かれたグラスが取り替えられ、新しいグラスに真っ赤なワインが注がれる。
「そのお姿に、その時々の一族の中で一等近いものが、歴代の星教皇に就任してきました」
どんなお姿かとカイエンは聞こうとしたが、それはおっ被せるように話す皇王の声に遮られた。
「先代の星教皇までは、紫の髪に灰色の目を持つ一族の皇子皇女がおりましたので、問題ありませんでした」
皇王バウティスタは、ちょっとだけ言葉を切った。
「ですが、先代が身罷った後がいけませんでした。紫の髪を持つものは一人もいなくなり、仕方なく、そこの第二皇子のエルネストを星教皇候補としておりました。ですが、これを星教皇として即位させるのには、反対の声もあった」
えっ、とカイエンはエルネストの方を見た。
エルネストはぐいぐいとワインを開けながら、前菜の皿を空にしていたが、そこで顔をこちらへ向けてきた。
「紫の髪のやつがいなくなったら、後は目玉の色のほうだよな。……俺はそっちで当てはまったのさ」
エルネストの目の色。
それは左右が黒と灰色の色違いだ。エルネストの右目は灰色だが、左目は黒い。
「あっ」
では。
「そうそう。アストロナータ神は左右の目の色が違ってたと言われてるんだ。灰色と黒でね。でも、今までの星教皇でさすがにそれも当てはまっていたのはいなかった」
カイエンは思わず、自分の背後に立っている巨大なアストロナータ神の彫像を見上げた。
そして、見た。
彫像の左右の目に、違う色の宝石がはめ込まれているのを。
「紫の髪に、虹彩異色までも再現して生まれてきたものは、このシイナドラド皇国の長い歴史の中でも、さすがにいなかったのです」
「紫の髪の最後の一人だった、先代の星教皇がいなくなってすぐに生まれたのが、俺ってわけさ。残念なことに髪の方はこの通り、真っ黒だったけどな」
エルネストはちょっと得意そうに言った。
そうなると、彼らは口を濁しているが、先代の星教皇が死んだのは二十年以上も昔のことなのだろう。
「俺は子供だったからよく知らなかったが、まだ一族の大半が歴代の星教皇と同じ、紫の髪に灰色の目の子供の誕生を諦めきれずにいたんだってさ。そうして数年経って、ハウヤ帝国から聞こえてきたのがあんたの誕生だ」
エルネストが言うと、彼の横に並んだ一族の長老らしい老人が涙ぐんだ目で話し始める。
「あの時は本当にアストロナータ神の与えたもうた試練と思いましたな。そこへ十九年前、もうすぐ二十年になりますか、ハウヤ帝国の皇帝家に紫の髪と灰色の目を持った御子がお生まれになったと聞きました時には……」
「神は我らをお見捨てにならないと、真に信ずることができました」
相槌を打つのは別の老人。
「お体の中に『蟲』とかいうものが生来お有りになるため、歩行に支障があるということを聞いた時には、どうかとも思いましたが」
「他に条件を満たすお方が生まれぬ以上、このお方が最上のお方と判断致しました」
カイエンは密かに震えた。
蟲。
その存在をこのごろは忘れていることが多かったのだが、このシイナドラドへ来てそれを思い出させられるとは。
「我らは胸をなでおろしましたが、しかし、あなたがお生まれになったのは友邦とは言え、異国の地。その時はまだ我が姉、ファナ皇后が生きておりましたから、情報がこちらへ伝わって参りましたが、姉はその後しばらくして亡くなり……」
皇王はさすがにしんみりとした声になった。
なるほど、ファナ皇后はカイエンの誕生後、すぐに亡くなっているのだ。
「御子は先の大公アルウィン様の娘御の大公女と聞いていたのに、次に来た情報では皇帝の末の妹の皇女となっており、御養育は大公のアルウィン様が、と話が違っていたのにも驚かされましたよ」
「皇女じゃ、さらって来るってわけにも行かなくなったからね」
エルネストが笑いを含んだ声でまぜっかえした。
「そのうちに、ハウヤ帝国じゃ国境沿いのあちこちで紛争をおっぱじめたから、手が出せないまま、星教皇は不在のままだったってわけさ」
「あなた様にこちらへおいでいただく方法を、ずっと考えておりました。大公殿下になられたと聞いた時、ここの皇太子の婚礼ならば、先例もあることですし、間違いなく来ていただけるだろうと言うことで、この度はおいでいただいたというわけです」
カイエンは、呆然として座っていた。
聞かされた話は理解できるが、それと今回、自分たちが受けた扱いがどう繋がるのか、納得できなかった。
どうしてカイエンを、リベルタで陥穽を仕掛けてまでフィエロアルマと引き離したのか。
内閣大学士のパコ・ギジェン、それに執事のアキノたちさえも彼女から引き離し、この首都ホヤ・デ・セレンの地を踏ませなかったのはなぜか。
ガラからこの国は今、鎖国の上に内戦中でもあるような、尋常でない状態にあるとは聞いたが、そんな状態で星教皇にこだわっているこの皇王一族はどこか常軌を逸した、異様な人々にしか見えなかった。
エルネストは先ほど、
(なあに、明後日の兄さんの婚礼とあんたの星教皇就任式が済んだら、俺の婿入りを条件に、あんたは放免だ)
とか言っていたが、そんなことがあり得るのだろうか。
そんなカイエンの横で、なかなかの健啖家ぶりを示して、皇王は皿の上の料理を平らげていく。
「しかし、実は我が国は今、危うい均衡の上に成り立っておりましてな。星の君にはここにおられぬ方がよろしいのです」
カイエンははっとした。
ちょうど彼女が考えていたことの回答を、皇王が口にしたからだ。
「危うい均衡?」
カイエンが聞き咎めると、皇王はナイフとフォークを手にしたまま、ふらふらと首を振った。
「細かいことは今はまだ言えません。大事な星の君とはいえ、大公殿下はハウヤ帝国の方ですからな。ですから、ハウヤ帝国の軍人がたや大公殿下の従者の方々にもこのホヤ・デ・セレンへ来るのは遠慮してもらいました。……とにかく、大公殿下には星教皇として即位していただき、この国がおさまるまでは国にお帰りいただくのが最善なのです。それと、いざという時のために大公殿下の次に星教皇の条件を持っているエルネストもまた、国外へ置いておきたいのです」
なるほど。
「それで、私が星教皇とやらになっても国へ戻してくださるというわけですか」
カイエンが確認すると、皇王はふふふ、と含み笑いをした。
「そうそう。そうですな。それと、このエルネストもまた、星教皇になることは可能です。……これは皇太子とは腹違いで、皇后腹ではないので育ちが悪くてこんなですがな。ですから……」
「そのためにハウヤ帝国への婿入りを打診したと?」
カイエンが先回りして言うと、皇王は得たり、とでも言う様子でうなずいた。
「その通りです。それも、大公殿下がまことの星の君となれば、その配偶者として預けるのが一番と、一族の意見が一致いたしました」
「勝手なことを」
カイエンが歯噛みしたい気持ちで声を絞り出すと、それまで黙ってにこにことした顔で聞いていた皇太子のセレスティノが言った。
「なかなか、お似合いだと思いますよ。この通り、エルネストは皇子らしからぬ野蛮な言動の男ですが、先ほどから聞いておりますと、大公殿下もお口では負けていないご様子だ」
セレスティノの横に座る、その婚約者もよく似た顔に花のような微笑みを浮かべた。
「本当ですわね。いつもお力を持て余しておられるエルネスト様にはお似合いの方だと思いますわ」
カイエンには、もう反撃する気力も出てこなかった。
翌々日。それは九月の末日に当たっており、やや内陸にあって標高のある、ホヤ・デ・セレンでは既に秋の風が感じられる日であった。
そして、晴天の空の下、シイナドラド皇太子セレスティノと、その妻となる、又従姉妹に当たる公爵令嬢アウレリアの婚礼が始まった。
カイエンは知らなかったが、その日まで人の行き来も少なく静まり返っていた首都、ホヤ・デ・セレン市内はまるで違う街になったかのように祝いの歓声に包まれた。
手に手に花を持った乙女たちが、そろいのドレスに身を包んで芳しい花々を大通りに撒き、シイナドラド国旗を手にして口々に祝いの言葉を叫ぶ市民たちが皇宮へ続く沿道を埋め尽くす中、アウレリアの馬車が実家の公爵邸を出る。
その様子は、完全な予定調和の中にあり、まるで舞台の上で行われる演劇のように見えた。
だが、その不自然さを指摘するようなものはこの街にはいない。
ハウヤ帝国のハーマポスタールには、カイエンがよく知るマテオ・ソーサの弟子の一人、ホアン・ウゴ・アルヴァラードの「黎明新聞」をはじめ、幾つかの読売りが存在する。それらは市民たちに政治から場末で起きた暴力事件まで、雑多な情報を提供している。
だが、よほどのことがない限り、発行を制限されたり、検閲を受けたりすることはない。
皇帝サウルの治世が表向き、うまくいっていることもあって、皇宮や元老院、上位貴族の批判などを書くところは少なく、書くとしても個人が特定できないように「上手く書く」からだ。
以前、カイエンを糾弾したディエゴ・リベラのように政治に不信感を持つものもいるが、彼らの怒りが団結して民衆が立ち上がるような危険な雰囲気もない。つまりはまだ現状に満足している市民の方が、現状に不満を抱く市民よりもずっと多いのだ。
街には朝から活気があり、夜遅くまで賑わう下町の治安もそれほど悪くはない。これには大公軍団の力が大いに発揮されている。
それと比べると、ここ、ホヤ・デ・セレンの市内の様子は異常だった。
この街には、読売りなどない。
以前はもちろんあったのだが、百年ほど前に鎖国が始まって少しした頃からなくなった。
そもそも、鎖国に至った理由がよくないのだ。
だが、今、それを覚えているものはいない。百年とはそういう時間の長さなのだ。
だから、市民は今の状態を異常とも思えなくなっていた。
そんな街の真ん中を通る大通りを、皇太子妃となるアウレリアの馬車が進んでいく。
その先にはもちろん、シイナドラド皇宮がそびえ立っている。
カイエンは皇王宮の奥に高い尖塔を幾重にも連ねて建っている、大神殿の中にいた。
荷物も全て奪われてしまった彼女は、ハーマポスタールから持ってきた、ノルマ・コントが苦心惨憺して作った大礼服を着ることはできなかった。
思えば、ベアトリアのあのたった八人の歓迎の宴で、大礼服を着てしまったのがいけなかったのかもしれない。
カイエンは下に控える貴族たちには、「ハウヤ帝国大公殿下カイエン様!」と紹介されたが、着ているのはシイナドラド側がこの日のために用意していたシイナドラド風の礼服だった。
それは、一昨日の夜、一族の魑魅魍魎たちの前で着せられていたものと似ていたが、星教皇が誰であるかは貴族たちへも知らされないので、今日は筒型の長い帽子は被せられていなかった。
今夜の星教皇の即位式、とやらではまた違った衣装を着せられるのだろう。着なれぬ衣装でハウヤ帝国のドレスよりも生地が厚くて固いものなので、動きにくく歩きにくく、カイエンは辟易していた。
そんなことを考え考え、カイエンは大神殿の壇上で、皇王バウティスタの横に、皇后の代わりのように座らされていた。壇上の下段から見て左側に座らされたので、左頬の傷は誰にも見えない。
壇上にいるのは、座って花嫁を待つ皇王とカイエン。
それに人々の前には顔を見せない星教皇の代わりに公の場所で祭詞を行う、アストロナータ教団の大神官と今日の主役の皇太子セレスティノが、こちらは立ったまま、厳かに待っていた。
第二皇子のエルネスト以下は、その他の貴族たちとともに、下段の右左に別れて座って待っている。花嫁が通る真ん中だけ、椅子が置かれずに開けてあるのだ。
カイエンは上から眺めてすぐに気がついたが、シイナドラド皇王家の一族である者たちは貴族たちの中にいてもすぐに判別できた。
ハウヤ帝国では人々の髪の色、目の色は上位貴族から下町の場末の人々まで、雑多である。髪の色や目の色、肌の色などではっきりと身分を分けることはできない。
だが、ここシイナドラドでは違っていた。
あのエルネストの侍従のヘルマンは、くすんだ薄い黄色の髪と目の色だったが、大神殿の中ほどから先の、一般の貴族たちは皆、彼のような薄い髪の色や目の色の者が多かった。
上座の方に並んでいる、黒っぽい髪の者は、ほとんどがシイナドラド皇王家の一族に連なる者だのだろう。
淀んだ血族。
カイエンは去年まで、自分の顔について考えたことはあまりなかった。
だが、ここへ来る前、皇帝サウルと宰相のサヴォナローラとともに、皇帝一家に伝わるシイナドラドゆかりの顔について話してから、皇帝や叔母、父や自分の顔を何か、淀んだ不自然な歴史の証拠のように感じてきた。
それが、ここへ連れてこられてはっきりとわかった。
淀んだ歴史の証人たち。
自分も含めたこの一族の者たちは、明らかに不健康で不自然な存在だった。古い血を後生大事につなげてきた、その末裔なのだ。
そういう者たちが支配するこの国。
皇王が言っていたことが本当なら、ガラが街道の道々で見てきたものがそのための物なら。
(実は我が国は今、危うい均衡の上に成り立っておりましてな)
(この国はおかしい。……鎖国しているだけでなく、国民の国内の移動も制限されているし、街道沿いには軍事的な施設があちこちに設けられている。まるで、内乱でも恐れているかのようにな)
この国は、近いうちに混乱の歴史を迎えるのではないか。
そして、淀んだ古い血の血族の支配はどうなるのか。
大神殿の入り口に、花嫁アウレリアとその父親の公爵の姿が見えた時。
カイエンは大神殿に鳴り響いた鐘の音を、何か、歴史の転換を告げる音のように聞いたのだった。
ようやっと、魑魅魍魎たちの登場です。
そして、やっと皇太子さんの婚礼。
次回はカイエンさんが怪しい儀式で……します。




