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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第三話 夏の夜の夢
77/220

月の宝石という名の都 1 (2016.0918 部分改稿)

 カイエンは夢を見ていた。

 それが夢であろうことは、理解していた。

 だが、夢から出ることができない。

 悪夢。

 カイエンはそういう夢を見ることが子供の頃からよくあり、ヴァイロンがいつもそばにいるようになってからも、何度もうなされては彼に起こされていた。

 去年、あの桔梗館を思い出した時の夢もそうだった。

 息が詰まりそうになって叫ぶこともあるし、半覚醒の中でもがいていることもある。

 その日も、そんな夢の終わりを迎えるのだろうな、と思いながら、カイエンは目の前に広がる風景を見ていた。


 それは、どろどろした沼。

 深緑と青黒い何かと、そして暗い灰色の渦が混ざり、内側で何かが蠢いているような。

 そんな沼の縁に、カイエンは一人で立っていた。

 河の音が聞こえるような気もするが、それはかなり遠くらしく、肌に纏わりつくような重い空気を動かすことさえできない風の向こうのようだ。

 不気味な沼には、どうしてだか真っ白な睡蓮がそこかしこに咲いている。

 花だけは抜けるように白い。だが、水に浮かんだ葉の色は沼と同じく濁っている。

「……カ、い……エン。……た、……すけ……。リ……が……か、よ……」

 その時、沼の水面がはっきりと、風もないのに蠢いた。

 不思議なことに、カイエンは自分を頭の上から見下ろしてみている。

 だが、カイエンはそれには驚くことはない。

 カイエンは黒っぽいガウンのようなものを長々と着て、沼のほとりの泥の中に、真っ白な足を突っ込んでいる。

 見ていると、真っ白な睡蓮の花々が、ぐるりぐるりと回るように捩れるように動き始めた。

 そして。


「た、……、け……て。こ、……に、は、……いた、く……な」


 声が聞こえた。

 白い睡蓮の花の奥から。

 その、途端。

 沼の中央に渦が黒々と巻きおこり、睡蓮たちを花も葉もすべて巻き込んで、沼の中へ引きずり込もうとした。

 白い睡蓮の花がわななき、震えながらカイエンに向かって叫び始める。

「助けてよ」

「助けて」

「私を助けて」

「助けて! カイエン!」

 今度ははっきりと意味がわかった。

 そして、カイエンはぞっとした。

 白い睡蓮の花たちが変わっていた。

 白い花弁の中にあるのは、小さな人の顔だ。

 それも、一人ではない。

 そして、それはいつか見たことがある顔ばかりだった。

「助けてよ、カイエン」

 その声は、どこかで聞いた声のようで。

「カルロス!」

 カイエンはまず、一番大きな花から出てきた顔におののいた。

 それは、アルウィンの隠し子。そしてカイエンの腹違いの弟だった。

 あの、歌劇場での事件。劇場の裏手で、桔梗館の連中の一員、モラレス男爵に十字弓クロスボウで殺された少年の顔だった。

 忘れるはずがない。

 はっきりとその顔を見たのは、あの歌劇場の事件が終わり、現場検証とともに訪れた死体置き場でだったが。

 一見したところでは誰もあまり、アルウィンにも自分にも似ていないと思っただろう顔。それでも目元や口元にはどこか似たところが感じられた。

 今、薄黒い沼の水面に浮かんだ、真っ白な顔。

 ああ。

 似ていたんだな。お前。

 カイエンは喉からこみ上げてくる何かを抑えるように、胸を叩いた。

 だが、浮かび上がってきたのはカルロスだけではなかった。

 一瞬、オドザヤに似た顔が浮かんできたが、それは悲しげに他の顔たちを見ると、カイエンの方を悲しい目で見て首を振り、そのまま沼の中へ戻って行ってしまった。

 カルロスもオドザヤも、カイエンには母や父が違うが、きょうだいに当たる。だが、オドザヤの顔はここには用がないようだった。

 次にふわりと水面から浮き、そのまま、のたりとした沼の水から立ち上がってきた顔がふたつ。

 それは、カイエンだった。

 いや、それは今のカイエンではない。

 子供の頃、それも幼児の頃の自分の顔なのではないか。

 カイエンは大公宮の後継者として、子供の頃からいく枚かの肖像画を描かれている。

 その中の一番古い肖像画の顔と、それはそっくりだった。

 それが、双子のように寄り添って、沼から立ち上がり、いつの間にか首から生えてきた、蝋のように不自然に白い半透明の体を引きずりながら、カイエンの方へ寄ってくる。

「助けて」

 そっくりな二人の幼児の一人がつぶやく。

「ここに、置いていかないで」

「ここは、いや」

「ここにいたくない」

「ここから連れ出して」

「ここから」

 ここから、ここから、ここから。

 つぶやく声には終わりがないかのようだ。

 カイエンは背中を駆け上がる恐怖に、かっと灰色の目を見開いた。

 彼らが誰で、どうして助けを求めてくるのか、ちっともわからない。

 ただただ、不気味で気持ちが悪かった。

「ここから助け……」

 その時、なおも言い募る一人の幼児を遮って、もう一人がカイエンに言った。

「大丈夫だよカイエン」

 えっ、とカイエンはそっちの幼児の顔を見た。

「この子はあたしが助けるから」

 力強い声。

「あたしなら、できるから」

 自信に溢れた声。 

「だから、カイエンは……」


 か……、く……ても……よ。


「ええ?」

 聞きとがめたカイエンだったが、答える言葉を聞くことはできなかった。

 急激に上方へ引っ張られる感覚。

 カイエンにはわかった。夢から覚めて現実へ戻るのだ。今日、夢から引っ張り出してくれたのもヴァイロンだろうか。

「殿下!、大公殿下!」

 男の声。

 だが、この声はヴァイロンじゃない。

 やっとのことでこじ開けた瞼。 

 そこに見えたのは、薄い黄色の髪と目の、大柄な男だった。

 誰だっけ?

 カイエンはびっしょりと汗をかいた体を感じながら、しばらく考えた。

 そして思い出した。

 それは、エルネストの侍従、ヘルマンの顔だった。






 時は、すでに九月の末日近く。

 カイエンはエルネストに連行されて、昨日の夕方、シイナドラドの首都、ホヤ・デ・セレンに入っていた。

 真っ黒な馬車は窓を閉じたままシイナドラド皇宮へ入ったので、カイエンは街の様子を見ることはできなかった。

 広大な皇宮の中も、馬車に乗せられたたまま、降り立ったところはどうやらエルネスト第二皇子の宮らしかった。それとて、多分そうじゃないかな、とエルネストの寛いだ態度で判断しただけだ。

 宮殿の入り口らしき馬車回りで馬車を降ろされ、大理石で出来た入り口から入ったが、そこからチラッと見えた皇宮の建物はいくつもの尖塔と鋭角的な意匠、怪物(ガルゴラ)の装飾的な彫刻で飾られた、重々しい灰色の石造りの宮殿だった。

 同じ石造りでも、明るく白っぽいハウヤ帝国の皇宮のような開放的な雰囲気ではない。

 宮殿の中も、モノトーンの幾何学模様の床、重々しいタピストリの張り巡らされた壁、高い天井に、上方でアーチ型に屋根を支えている柱までもが重々しい。カイエンは去年、螺旋帝国の皇子皇女に会うために赴いた、ハーマポスタールのアストロナータ神殿を思い出した。

 しかし、考えてみればこの首都ホヤ・デ・セレンの皇宮はアストロナータ教の総本山とでも言えるところだ。

 カイエンはハウヤ帝国からの国賓のはずなのだが、そんな扱いは何もなく、エルネストに引っ張られて彼の居室らしい区画へ連れて行かれる途中にも、エルネストの侍従のヘルマン以外の召使にさえ出会わなかった。意図的にカイエンを見る人間の数を少なくしようとしていたのだろう。

 ラ・ウニオンからの旅の間、エルネストは自分の言った言葉通り、日夜カイエンに付きまとっていたが、ここでもそれは変わらないらしかった。

 そもそも、旅の間ずっと、カイエンの身の回りの世話をしたのは、なんと男のヘルマンだった。

 エルネストの世話もカイエンの世話も一人でするのでは大変なようだが、彼は無表情のままきびきびと仕事を行って見せた。

 他に女中も侍女も現れす、さすがのカイエンも最初はかなり狼狽した。だが、なんのかんの言ってお姫様育ちのカイエンは、身の回りのことはすべて乳母のサグラチカと女中のルーサたちにお任せだったから、介添えなしで自分の身の回りのことをすべてするのは無理だった。

 さすがに風呂に入っている間は無理やり追い出したが、それでも着替えは彼が手伝うのだ。

 なんとか自分一人でやろうと努力したので、かなりの支度事を自分一人でできるようになったことだけは収穫だったが。髪をとかして、簡単に束ねることだけでもやったことがないカイエンには大変なことだった。

 もちろん、カイエンはエルネストに抗議した。

 が。

「女はおしゃべりだからね。俺の身の回りには女は使ってないんだ。大丈夫だよ。ヘルマンはあんたみたいなお姫様には興味がないから」

 と言う、常識とずれた答えが返ってきただけだった。

 

「明日の晩餐で父上や兄さん、他のみんなに紹介するからね。今夜はゆっくりお休み」

 そう言うと、エルネストはヘルマンにカイエンを預け、どこかへと去っていった。

 おそらくはカイエンの到着を皇帝たちへ報告に行ったのだろう。

 連れてこられたのはエルネストの居室らしい。それは、その区画に入ってすぐにわかった。

 旅の間ずっと、エルネストは黒っぽい服ばかり着ていた。それは部屋着やガウンに至るまでそうで、カイエンは彼が薄暗いモノクロの色味を好んでいるのだろうと想像していた。

 案内された居間や寝室も、同じ印象だった。家具は重厚な黒っぽい木製の木組みで、椅子やソファに張られた布の色も落ち着いている。

「こちらへ」

 ぼけっと部屋の中を見ていると、ヘルマンの声が頭の上の方から聞こえた。エルネストもたいがい、大柄な男だが、このヘルマンも大きい。

 案内された寝室で、ヘルマンに手伝われて着替えて眠った。


 そして、夢を見たのだった。

  

 

 同じ、朝。

「エルネスト様、あの方、見た目よりもかなりぎりぎりの状態でいらっしゃいますよ」

 ヘルマンはエルネストの居間へ朝食の載ったトレイを捧げてやってきた。

 彼はトレイをバルコニーに出されたテーブルに載せながら、エルネストの元気そうな顔へ向かって話しかけた。

 まだ朝食前のこととて、エルネストはまだ絹のガウンを羽織っただけの姿である。

 彼は昨夜はカイエンと床を共にしなかった。

 明け方近くまで皇宮の本殿で、兄の皇太子の婚礼についての最終的な打ち合わせに付き合っていたので、この自分の宮へ戻ってきてから居間のソファに服を着たまま、寝転がったのだ。

 それをヘルマンに起こされて、服だけは着替えたが、そのままそこで眠ってしまった。

 だから、朝といっても今はもう、どちらかといえば昼に近い時刻になっている。

「どっちが? 体? 頭?」

 まぜっ返すようなエルネストの言葉を、ヘルマンは無表情で受け取った。

「お体もかなりお疲れでしょうが、どちらかと言いますと、お心の方かと」

 しっかりと言葉を選びなおして答える声の方には、何がしかの感情が混じってはいるようだ。今朝のカイエンの様子を見た者としての感情だろう。

「ああ。また夢でうなされていたんだろ?」

 だが、エルネストの返答はそれをもう知っている者のものだった。

「ご存知だったのですか」

「ああ。旅の間に何度かあったからな」

 ヘルマンは紅茶のポットを取り上げ、香り高いお茶をカップに注ぐ。エルネストの趣味は徹底していて、カップの模様までもが銀色の帯の中に黒の幾何学模様が描かれたものだ。

「では、悪夢自体はこれまでにもあったのですね。……ですが、あのご様子は普通ではありませんでしょう」

「そうだな」 

 エルネストは美しい紅茶の色を眺めながら、窓の外に見える、ホヤ・デ・セレンの街を見た。真っ直ぐな南北と東西の通りで区切られた街は、黒い甍と白っぽい石畳の通りが続く、幾何学模様を描いている。

 皇太子の婚礼が迫っているにしては、街中は静かなものだった。不自然なほどに。 

「……それはしょうがない。あれは、あの人のかけた呪いだから。カイエンが自分でなんとかするしかないんだよなあ」

 エルネストの左右色違いの目が、ふと、遠くなった。

「でも、あの夢はアストロナータ神の特別な恩寵でもあるんだからね。あの夢を見るってことは、あの悪夢を連れてくるものが体の中にあるってことでさ。それは、今までの歴史の中でも、カイエンだけのものなんだよ」

「それは存じておりますが……」

 少しだけヘルマンは考えているようだったが、やがて、何か思い切ったのか、ややつけつけとした言い様でエルネストに言い始めた。

「……私はこのようなことをエルネスト様に言える身分ではございませんが、あえて言わせていただきます」

「なんだい?」

 エルネストの方は、なんだか面白そうに微笑んでいる。ヘルマンの言い出しそうなことは見当がついたのだろう。

「旅の間も言おうか言うまいかと悩んでおりましたが、今度のことでのエルネスト様の大公殿下へのお取り扱いは今後、問題になるのでは?」

 エルネストの顔は微笑んだままだ。

「親父や兄さん、それとも血族の奴らがごちゃごちゃ言うとでも? リベルタでのあれは皇王陛下直々のご命令だけど?」

 自分の父である皇王のことを、親父と呼んだり皇王陛下と言ったり。エルネストの言い様からすると彼と、彼の家族との関係も一筋縄ではいかないもののようだった。だが、ヘルマンの方はエルネストの腹心だから、今更、そんなことには頓着しなかった。

「だいたい、ご婚礼の前に大切な『エストレヤの君』に手を出して弄ぶなど……皇王陛下はそのようなご命令はなさっておられぬはず」

 エルネストはとうとう、声を出して笑い始めた。

「はっは! ご婚礼って、どっちの婚礼かな? 俺のか? それとも今度の兄さんのか?」

 ヘルマンも負けてはいない。彼は無表情で続きを言った。

「どちらもでございます」

「手を出しただの、弄んだだの、今時、古臭いことを言うね、お前も。弱っちいくせに身を挺して部下をかばっちゃったり、顔に傷がついたってのに平気な顔だったり、変な女だけど、聞かされてたよりも小さくて可愛らしかったから早く仲良くなりたくなったんだよ。それに、……なーんにも知らない生娘ならともかく、もうとっくにでっかい獣人の男妾のいる、それも、一応は一人前の大公殿下やってるお姫様だぜ。実際、抱いてみたら結構いい味だった。毎日抱きたくなるくらいにはな……。一人前の女って言うにはちょっとまだ身体は子供っぽいが」

 ヘルマンは聞きたくない言葉を聞いた、というように眉をしかめた。

「言うに事欠いて、なんてことをおっしゃるんです! それにそんなお言葉で、あなた様の『エストレヤの君』への冒涜を正当化出来るものではございませんよ。当代はあの方しかおられぬのですから、お身体をお大切になさっていただかなくてはならないのに!」

 ヘルマンはきっぱりと言ってのけた。その声音には明らかに非難の響きがあり、その背景には何か強い思想の裏打ちが感じられた。

「ちっ」

 エルネストもヘルマンの言い方から、彼の意見の「何がしかの正当性」は感じたらしい。

「……いいじゃねえか。どうせ、カイエン一人じゃ『完全』じゃないかも知れないんだ」

 ヘルマンの黄色い目がきらりと光ったように見えた。

「それでもでございます。お顔にお傷まで負わせたなど、皆様、驚かれるどころではすみませんよ。まったく!」

 だが、ヘルマンは強い調子でそう言うと、もうこの話は終わり、としたらしかった。

 それから彼は、黙々とエルネストの朝食の給仕に徹したからだ。 

「カイエンはまだ、寝てるのか?」

 途中でエルネストがなんでもないように聞くと、ヘルマンはうなずいた。

「一度、お起こしいたしましたが、まだお疲れのご様子でしたので、鎮静剤を差し上げました」

「ふうん」

 果物を口に放り込みながら、エルネストはちょっと考えていた。

「カイエンの今夜の晩餐の時の服と、兄さんの婚礼に出る時の衣装は用意できているな」

「はい。もちろんでございます」

「顔の傷の方はどうする?」

 ヘルマンはきらりと黄色い目を光らせた。

「……あれは、どうしようもございません。もう、お傷自体は薄い膜が張って塞がっておられますが、あの上からお化粧しても隠せるものではありませんし、変に触ってお傷が開いたら大変です。まだお薬を塗った布を貼っておかれた方がよろしいでしょう」

「ふん」

 エルネストは不満そうに鼻を鳴らした。

「ドン=フィルマメントの馬鹿が。あいつ、ラ・ウニオンに置いてきて正解だったぜ。兄さんの婚礼への参列も禁止してやったけど、それだけじゃ足りねえな」

 黒と灰色の色違いの目が、ぎらぎらした。

「しょうがない。まあいいさ。どうせ、皇家に何らかのつながりのある上位貴族の奴らしか、兄貴の結婚式には出られないんだ。ドンの馬鹿野郎への沙汰は父上に任せときゃいい。……婚礼の日の夜の式の方にもあいつは出られねえしな」

 黙ってうなずくヘルマンへ、エルネストは命じた。

「カイエンは午後になったら起こせ。それから俺たちの支度だ。いいな?」

「承りましてございます」

    

  

  


 低い声に起こされて、ぱかっと二度目に目覚めた時、カイエンは一人で広い寝台に寝ていた。

 朝、うなされているのをヘルマンに起こされた後、薬を飲まされて眠らされた。

 薬など飲みたくはなかったが、黙って控えているヘルマンの黄色い、大型の猫のような目は真剣で、何度も促されては逆らえなかったのだ。

「あれ?」

 まだ薬が残っているのか、カーテンの引かれた薄暗い部屋の中ではカイエンにはあまりものが見えなかった。

「こっちだ、大公殿下」

 今度ははっきりと声が聞こえ、カイエンははっとした。

 声に聞き覚えがあったからだ。そして、その声の主がここにいるはずは……なかった。

「ガラ!?」

 囁くように言った時には、もう完全に目が覚めていた。

「そうだ」

 声と同時に、どこか天井の方から、大きな影が降ってきた。

「!」

 さすがに目が薄暗闇に慣れてきたのか、カイエンにもその姿がはっきりと見えた。

 思わず、声が出そうになるのを、物理的に手のひらで自分の口を抑えることによって抑えた。

 大きな獣がいる。

 暗い灰色の、人よりもずっと大きな狼に似た獣がカイエンの寝ている寝台の横に四本足で立っていた。

 立った耳、鋭い牙の覗く口、輝くように美しい毛並み、そして危険な爪を持った、しなやかな獣がそこにいた。

 普通の狼ではありえない、ガラだと分かるのは、あの真っ青な青すぎる青の瞳だけがそのままだからだ。

 カイエンは獣化しかかったヴァイロンを見たことがある。あれが「完成」すればこのような姿になるのか、と心の中で納得する。では、ガラはフェロスの毒を自らに植え付けたのた。その決心にカイエンは驚くとともに、ありがたさになんとも言えない気持ちになった。

「ガラか」

「遅くなって悪かった」

 獣の口が、ややくぐもってはいるが人の言葉を喋るのは不思議な眺めだった。

「ずっと付いて来てくれていたのか?」

 やっと、そう聞くと、ガラは獣の姿で首をやや引っ込めてうなずいてみせた。  

「俺だけではない。他にザラ大将軍の影使いのエステとオエステが付いてきている。だが、彼らにはここの影使いどもの目を眩ませてもらっている」

「そうか」

 カイエンは安堵が身体中を駆け回るのを感じていた。

 ガラは去年から大公宮に住み着いてはいるが、彼とは個人的にはそんなに親しいわけではない。彼はどっちかというと大公宮の後宮のお隣さんの、マテオ・ソーサの方に懐いているように見えていた。

 それでも、国境のリベルタで罠にはまり、ラ・ウニオンからはアキノとも引き離されたカイエンである。

 大公宮の住民であるというだけでも、ガラが付いて来てくれていたことはうれしかった。

「ありがとう、ガラ」

 そう言葉に出した途端に、カイエンの目から涙が溢れて止まらなくなった。自分でもびっくりしたが、それだけ不安だったのだろうと自分で自分がおかしくなった。

 声を押し殺して嗚咽しながら、カイエンはきっぱりと言った。

「すまん。いいから続けてくれ。時間がもったいない」

 着せられていた寝巻きの袖で涙を拭き拭きしていると、ガラもうなずいた。

「旅の間は、あの第二皇子が始終あんたに張り付いているので、どうにも出てこられなかった。……こちらは俺はこのなりだし、三人だけだからな。……助けられずにすまなかった」

 ガラの言い方は奥歯に物が挟まったような言い方だったが、彼がカイエンがエルネストにされたことを知っていることは伝わってきた。

「うん、うん。でもそれは、しょうがないよ。ラ・ウニオンで捕まっているアキノたちのこともある。私だけが脱出できればいいというものではない。事はハウヤ帝国とシイナドラドの間の問題になってしまった。それに……どうしても我慢できないほどひどいことはされなかったよ。ぶたれたりもしてない」

 寝巻きの袖で、涙だか鼻水だかわからないものを必死に拭いながら、カイエンがそう言うと、ガラはちょっと押し黙った。

 我慢できないほどひどいことはされていない。ぶたれたりもしていない。

 それでも決まった恋人のいる若い女が、会ったばかりの敵方の男に何日間も、体を自由にされたのだ。カイエンは気丈に振舞っているが、平気なわけがないだろう。

 ガラが聞いているところでは、カイエンとヴァイロンの始まりも皇帝による「強制」であったが、二人は全然知らない仲ではなかった。それに、その後の二人の様子を見ていれば、皇帝が善意の取り持ちをしたようにさえ思えるほどだ。

 それに、ガラと同じく獣人の血を引くヴァイロンの側はカイエンを「己の唯一」である「つがい」と認識しているのだから。

 二人のつながりは強固なものであるはずだ。

「……俺はヴァイロンに大きな借りが出来た。この始末はハーマポスタールへ戻ったらつける。あの皇子もただではおかない」

 ガラは忸怩たる思いを、努めて押し殺した。

「えっ?」

 カイエンは聞きとがめたが、もうガラは実用的な話に入っていた。

「ザラ子爵とコロンボ将軍は、国境の向こうで布陣している。大将軍の入れ知恵で、工兵を大勢連れてきていたから、今頃は破壊鎚だのなんだの作り上げて国境でシイナドラド軍と睨み合っているはずだ」

 カイエンは再び驚かされた。

「ジェネロたちは脱出出来たのだな?」

「あんたが戻らなければ、ことが大きくなる。それはシイナドラド側もまだ、望んでいないだろう。こちらは、そこがつけ目だ」

「うん」

「睨み合いの事実は、もうこのホヤ・デ・セレンに伝わっているはずだ。だから、用が済めばあんたは帰してもらえるはずだ。そもそも、俺たちやフィエロアルマだのに、ここまでいろいろ見聞きしながら来られては困るから、あんたを一人にして引っ張ってきたのだからな」

 カイエンはちょっとすぐには答えられずに瞬きした。

「街道をみちみち、見られては困るものがあるということか?」

「そうだ。この国はおかしい。……鎖国しているだけでなく、国民の国内の移動も制限されているし、街道沿いには軍事的な施設があちこちに設けられている。まるで、内乱でも恐れているかのようにな」

 カイエンにはびっくりすることばかりだ。

「内乱?」

 灰色の獣は、ちょっと耳を動かした。

「そうだ。誰か、来るな。……いいか、この皇宮での聞き込みでも、連中は剣呑なことは考えてない。皇太子の婚礼というのも嘘じゃない。ちゃんとその準備もしている。……もっとも、首都なのに街中は静かで気味が悪いほどだが」

「私はどうしたらいい?」

 ガラは耳の方に集中しているようだった。

「……普通にやってればいい。文句があれば言えばいい。連中はあんたのことを、『エストレヤの君』とか呼んで、敬っているようだ」

「ええ?」

 敬っている?

 カイエンは首を傾げた。少なくとも、エルネストの態度からはそんなものは感じられたことがなかったからだ。

「あんたにまとわり付いている、あの変な皇子は別だが、他のここの連中はあんたには何としてもここまで来てもらう必要があったようだ」

 そこまで言うと、ガラの獣の耳が、激しく動いた。

「もう行かなければ。来るのは、あのエルネスト皇子の侍従だ。あいつはあんたを敬っている方だから、大丈夫だ」

「あっ」

 カイエンが次の言葉を探しているうちに、ガラの姿は部屋の奥の暗がりへ消えてしまった。

 代わりに、寝室の扉がノックされるのが聞こえた。

「大公殿下、お目覚めでございますか?」

 その声は、間違いなくあのエルネストの腹心の侍従らしい、ヘルマンの声だった。   





 遅くなりました。

 ガラちゃんはちゃんと、ついてきていました。

 次回はハウヤ帝国側へちょっと戻ります。


 2016年9月18日、部分的に書き足しました。

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