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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第三話 夏の夜の夢
76/220

ひとりぼっちの大公殿下(2016.0903 改稿)

 シイナドラドの陥穽にはまって捕らえられ、アキノ一人残してシーヴやルーサ、女騎士や内閣大学士のパコ・ギジェンとも引き離されたのち。

 翌日の朝、この国の首都へ連行される馬車に乗る前に、カイエンは唯一残されたアキノとも引き離された。

 カイエンが用意された窓の固く締められた、真っ黒の馬車に乗せられようとした時。

 カイエンに手をかして馬車に乗せた後に、自分も乗り込もうとしたアキノは、ラ・ウニオン城の兵士に妨げられ、引っ立てられて行ったのだ。

「カイエン様、昨日、申しましたことをお忘れなきよう!」

 アキノはあえて落ち着いた声で言おうとしていた。だがそれでも普段の彼なら出さないような必死の気持ちの混じった声音で言う声がまだ響いているうちに、カイエンの乗った馬車の扉が締められた。

「アキノ!」

 カイエンの声もまた、呆れるほどきっぱりと冷酷に、閉じられる馬車の扉の音で断ち切られた。

 締められた後には、錠前に鍵をかける音さえ聞こえたのだ。

 何てことだ。

 すぐに走り出した馬車の中で、カイエンは鳩尾が痛くなるような気持ちがしていた。

 これで、自分はひとりぼっち。

 身内のすべての人々から引き離されてしまったのだ、ということが凍るような恐怖となって彼女の上へ降りかかって来た。

 カイエンは生まれてこのかた、「ひとりぼっち」の状態をほとんど知らない。

 子供の頃から、いつもそばにはアキノやサグラチカ、それに父のアルウィンや家庭教師、侍従や女中の誰かが必ず、付き添っていた。

 子供の頃、一時期だけ彼女の周りに集められていた貴族の子女の「遊び相手」と一緒の時も、大公宮の誰かがその場には立ち会っていたのだ。それでも子供特有の残酷さで、心ない言葉をカイエンに浴びせる子供が幾人もいたのだったが。

 それでも大公宮の誰かしらがそばに存在していた。そして、残酷な子供たちではあっても、カイエンに対して直接的に肉体に危険を及ぼそうとする存在ではなかった。

 当時のカイエンは皇女であり、皇帝の末の妹であったのだから。臣下である子供たちは聞こえがしに悪口を吐くくらいが関の山だったのだ。

 家庭教師について、本格的に勉強を始める頃になり、十五で父のアルウィンがいなくなり。

 それからは若い大公殿下として、いつもそばには大公家の誰かが付き添っていた。昨年の騒動の間も、それは変わりなかった。

 それが。

 今は、もう誰もいない。

 カイエンは自分の四方全てに砂漠が広がっているような気持ちがしていた。

 寂しい。

 いや、本当を言えば怖いのだ。

 窓を締め切られ、扉には錠がかけられた真っ暗な馬車の中。

 そこは閉所恐怖症だったら発狂しそうな場所だった。

 自分の手もろくに見えない暗がりの中、カイエンはおのれの両肩を掴むようにして丸くなった。馬車が揺れてるのが、いっその事ありがたい。真っ暗な部屋に監禁されるよりは、自分が移動していると思える方がマシだとは。

 これからカイエンはシイナドラドの首都、ホヤ・デ・セレンまで護送か連行かされていくのであろうが、もうそばいるのは見も知らぬシイナドラドの人間たちだけなのだ。

 それも、わざわざリベルタまで現れた、あの第二皇子のエルネスト・セサルがずっと付き添っていくことになるのだろう。


(俺はあんたの未来の夫になる男だよ。ハーマポスタールの大公殿下。俺はエルネスト・セサル。とんだ大騒ぎになっちまったが、まあ、よろしく頼むぜ)


 正直なところ、カイエンは恐ろしかった。

 アキノの前でも不安は口にしなかったが、リベルタの広場で切られた頰から血を流して仁王立ちに立ったカイエンへ、投げかけられたあの言葉。

 あんたの未来の夫になる。

 あの男は、もう決まったこととしてそう言ってのけたのだ。

 言うまでもなくカイエンは右足が不自由で、しかも腕に覚えの一つもない貧弱な体の十九の娘にすぎない。

 それを、未来の夫と称する男が、厚かましい物言いと行動でもって平然とカイエン達を引き裂いた。その加害者。体の大きな、それも腕にも覚えが大いにありそうな傍若無人な男に付き添われて。もはや敵同然の国となった国の首都へ連れて行かれるのだ。

 貞操の危機。いや、事こうなっては、さらには命の危機さえも過剰な心配ではないのだろう。

 アキノさえも遠ざけられた今、それは普通に考えても大げさな考えではなさそうだった。

 カイエンには意味がわからなかったが、傷の手当ての時にエルネストに言われた言葉も気になる。

(もちろんだよ。あんたの血は特別なんだ。この俺と同じにね)

 馴れ馴れしい口調で言われた言葉。どこが同じか、エルネストは答えなかったが、カイエンの頭にあのとき浮かんだのは、前に皇帝サウルに呼び出されて聞かされた、ハウヤ帝国皇帝と、シイナドラドの皇女との婚姻の歴史だった。実に十八人中、十一人の皇帝がシイナドラドの皇女を皇后に迎えて維持してきた、皇帝家の顔のことだった。

(特別な血)

 その言葉は、あの話を強烈に想起させた。

 そもそも、ハウヤ帝国とシイナドラド皇国との縁組なら政略結婚に違いない。その相手の、しかも第二皇子がわざわざ国境の町まで出張ってくる必要はないのではないだろうか。それも、友好的に出迎えるならばともかく、シイナドラドは陥穽を持ってカイエンたちを迎えたのだ。


 ヴァイロン。


 そこまで考えて意識したのは、彼のことだった。

 赤みがかった黄金の髪、翡翠色の熱情的な瞳をした、しかし、飼いならされた野獣。

(あいつ、私がこんなことになっていると知ったら発狂するかもな)

 そう、考えた。

 考えたら、なぜだか笑いが腹の方から湧き上がってきた。

 あのクソ真面目がこの事態を知ったら、どんな顔をするか考えたらなんだか笑えてきてしまったのだ。

 どうしてだか未だにカイエンはちゃんと理解できていないが、ヴァイロンのカイエンに対しての執着心はかなりのものだ。それはカイエンにとってはいささか暑苦しいものではあったが。

 今、こうなってみれば彼が毎日、そばにいるのがこの一年以上の当たり前になっていた。

 この旅が始まって、毎日一人で寝むようになったらなんだか違和感を感じたほど、それはカイエンにとって普通のことになっていた。

「ああ。そうだ」

 結婚。それはまだしていない。

 でも、去年の春からのヴァイロンとの生活は、それに一番近いものだったのではないだろうか。

 そう思えば。

 自分はもはや人妻のようなものじゃないか。こうなったのが例えば妹のオドザヤだったらさぞや怯えただろうが、自分はもう最悪、何をされるのかは知っているだけマシなのだ。

 カイエンは去年の春からの騒動で、極めて現実的な考え方をするようになっていた。それは、体面だのなんだのを越えた真実を見ようとする訓練をしてきたようなものだった。すべてを引きむしられた自分一人で、力のない大公として事件に立ち向かう中でいろいろなものを手に入れて来たのだ。

 自分は引き離された恐ろしさよりも、囚われたアキノやシーヴたちの心配をするべきだ。

 別れ際のアキノの必死な顔と声、シーヴの怒り。

 彼らはカイエンのために本気で戦おうとしてくれているのだ。

 最悪、ヴァイロンは発狂するかもしれないが、それだって、無事に帰れたらの話だ。ここに彼はいない。

 そこまで考え抜いて。

 カイエンは走り続ける馬車の中でジタバタするのはやめ、ふて寝してしまうことにした。本当に眠り込んでしまったのは少しでもことを有利に運ぼうというよりは、例のヤケクソ的力のおかげであるようだった。

  

 


 首都、ホヤ・デ・セレンへの旅路は一週間ほどだと聞かされた。その最初の日の夕方にたどり着いたのは、ラ・ウニオンの城下町よりはあの、港町のリベルタに近い規模の町だった。カイエンにはもはや町の名もわからない場所だ。

 カイエンの乗せられた馬車の扉が開かれたのは、それでも地方の豪族の家かなんかではあるらしい石造りの二階建ての館の前だった。

 昼の間、カイエンはずっとほとんど真っ暗な馬車の中に押し込められていた。昼食も外から差し入れられたバスケットの中のサンドイッチとワインで済まさせられたのだ。

 馬車の扉の錠が外され、開けられると、もう空は星空で、思っていた通り馬車の外で待っていたのはあのエルネストの浅黒くて端正な、だがどこかとぼけた顔だった。

「お疲れさま」

 カイエンの脳天よりもかなり高いところにあるエルネストの口がそう言ったが、カイエンは無視した。こんな扱いをされているのだ、無視が適当な反応だろう。

 カイエンは差し伸べられていたエルネストの手も無視して、よいしょっと一人で馬車から降りた。ありがたいことに、愛用の杖は取り上げられていない。

「あらあら。怒ってるのかな? でも、元気そうだね。よく寝たのかな」

 頭の上からエルネストの声がしたが、それも華麗に無視してやった。

 見れば、馬車の周りには剣を携えた男たちがぐるりと取り囲んでいた。女一人にたいそうなことだ。

「まあいいや。おいで」

 ぞんざいな言い方で先に立つエルネストの後ろについて、館の中に入っていく。他にしようがないのだから、そうするしかしょうがない。

 カイエンは館の主人の挨拶でもあるのかと思ったが、館の入り口にいたのはエルネストのお付きらしい大柄な男一人だけだった。

 エルネストとその男に挟まれて入った部屋は、この館の客間らしい、落ち着いた内装の居間だった。  

 これから夕食が供されるのだろう。中には大きなテーブルとそれに合わせた優雅な椅子が用意されていたが、その上に置かれていたのはカイエンの傷の手当て用らしい、金属のトレイに置かれた薬の瓶や清潔な布だけだった。


「しかしこれ、ちょっと酷いねえ」

 テーブルを囲む椅子に座らされたカイエンの左頬の傷は、今やかなりの熱を持ち、傷の周りがやや腫れたように見えた。 

 傷の消毒と薬草の塗られた布の張替えをしながら、隣の椅子に座ったエルネストは大げさに嘆いて見せた。

 もう医師を呼ぶ気はなく、彼自身が手当てをするつもりらしい。

「これ、兄さんの婚礼の日までにどうにかなるかなあ?」

 そう言うと、エルネストは傍に控えた侍従らしき男の方を見た。

 侍従はヘルマンと名乗った。

 エルネストよりはやや年嵩に見える、これも大きな男だ。軍人上がりを感じさせる短い髪も目も、くすんだ薄い黄色。

 髪や目の色、服装も全体的に黒っぽいエルネストとは対照的な色合いだが、猛禽類のように厳しく鋭い無機質な目をした男で、エルネストの側近らしかった。 

「……なるはずがございません。どうしてこんなことに?」

 ヘルマンはこの館で控えていたのだろう。カイエンの傷の理由は知らないようだった。

「あー。ドンの馬鹿が、このクソ真面目で部下思いの大公殿下に刃物つきつけて、目の前でその部下をぶち殺そうとしたんだよ。それでこの可愛らしい大公殿下がぶち切れて。刃物なんか見えなくなっちゃって、ぐっさりだ。腹が立ったから、ドンはラ・ウニオンに置いてきたよ」

「なるほど」

 ヘルマンは一つ、うなずくと以降は黙ってエルネストが施す処置の手伝いをし、終わると夕食の手配をすると言って下がって行った。

 カイエンと二人だけになると、エルネストはカイエンとかなり似通ってはいるが、浅黒くて健康そうな顔をカイエンの方へ向けてきた。明るいランプの元、真横に座っているから、カイエンにも彼の姿がよく見えた。

「へえ。もうすっかり落ち着いちゃってるなあ。怖くないの?」

 左右で色の違う目が、まっすぐにカイエンを見て、無遠慮な手があろうことかカイエンの腰に回された。そのまま、片腕でエルネストの膝の上へ抱き上げられる。まるで大人と子供のようだ。

 こんなに若い男と接近するのはヴェイロン以外は初めてだ。エルネストの年齢はヴァイロンと同じか、少し上といったところだろう。ハウヤ帝国を出る前に聞いていた二十六、という年齢と一致している。父のアルウィンの香りとも、ヴァイロンのとも、アキノともシーヴやイリヤのとも違う、若い男の匂いがカイエンの鼻に届いてきた。

 同時に、いきなりカイエンの着ている大公軍団の制服の襟をくつろげて、後ろから首すじへ男の唇が押し当てられた。腰から腹に回された手も離れない。馴れ馴れしいを遠く通り過ぎた所業である。

「最悪の事態は想定している」

 それでも逆らわず、動じていない体を必死に装ってそう言うと、エルネストの笑い声が彼女の頭の上から降ってきた。

「そうなんだ。じゃあ、あの情報は本当だったんだねえ。ハウヤ帝国の獣神将軍が大公殿下の男妾になったって話。……本当だとすると、ちょっと残念かなあ」

 一人合点しているエルネストへ、カイエンは冷たい一瞥をくれてやった。

「じゃあ、こんな馬鹿げたお遊びはやめたらどうだ」

 カイエンは無駄とは知りながらも言ってみた。事こうなったからには後は少しでも自分の被害を少なくするための交渉をするしかない。別れ際にアキノが言っていた通りだ。

 なのに、カイエンの首元をエルネストの唇がなぞるように動くのは止まらなかった。

「まだよくわからないけど、あんたは必死で可愛いなあ。……あの人の言ってた通りだ。小さくて、気が強くて、クソ真面目で、そして可愛い。……大丈夫だよ。殴ったりいじめたりはしないからね。俺はそういう趣味はない。……それに関係ないよ、処女かどうかなんて。まあ、俺が初めてならその方が良かったけれど、そんなのは俺の都合で、とりあえず、あんたと俺との結婚には関係ない」

 ヴァイロンほどではないが、力強い腕がカイエンをぐいっとおのれの胸元へ引き寄せた。

(あの人?) 

 カイエンは聞きとがめたかったが、それは不可能だった。

 首の後ろで束ねた髪ごと、首根っこを掴まれて仰向かされる。

「夕食が済んだら、朝までせいぜい仲良くしよう。せっかく一緒の旅なんだ。さっさと仲良くなっちまった方が楽しいよ。こうやって抱いてみても、あんたの体は貧弱そうだけど、あっちの相性はやってみなけりゃわからないからな。……明日からは昼も一緒に馬車に乗ってあげる。ずっと、ずっと可愛がってあげるからね」

 言い終わった途端に、そのまま唇を塞いでくる。

 カイエンはため息をついたが、それはついたと同時に相手の唇に吸い込まれてしまった。

 昨日から頭が普通の状態ではないので、エルネストの言葉と行動への嫌悪感よりも、恐怖の感情よりも状況分析が先に立った。命あってのなんとかと言うやつだ。

 こんなことは知らないことじゃない。だからきっと我慢できる。我慢出来なければ、次の展開へ心がついていかれない。

 心の中で、強がる自分がおののく自分を押さえつけてなだめている。これはこれで必死の展開だ。

 それにしても。

 こいつも普通じゃない。

 そもそも、普通の男ってどいつなんだ? 自分は男運がそんなに悪いのか。

 そう、思った時、頭の中に浮かんだ顔が幾つかあった。それは、カイエンを少しだけ安心させた。うん、あいつらはこいつよりは、まともだ。

(カイエン様は、カイエン様でございます。他の何人でもありません。ただただ、御身のご安心だけを考えられますように)

 アキノの言った言葉が頭の中をぐるぐる回って、彼女を安心させていた。

 まだ、最悪の事態じゃない。

 自分の命もアキノたちの命も、まだこの世にある。

 だから、恐れてはいけない。

 恐怖でおのれを失ってはいけない。







 同じ頃。

 ラ・ウニオン城。

 アキノはシーヴや女騎士のシェスタやナランハ、それにパコ・ギジェンとその従者の入れられていた石牢にいた。

 石牢とは言っても、どうやっても登れない高さに窓が一箇所だけあり、中には寝台もあり、水や食物も提供されていは、いた。みんな一緒に入れられているという事は、彼らが舐められているのか、はたまた、何が連絡を取ろうとするのを狙っているのか……。

「アキノさん」

 外にいる看守、壁の気配を気遣いながらシーヴが小声で話し始めると、アキノは初めて顔を上げた。

 石牢には簡単な寝台が人数分と、粗末なテーブルが置かれていた。

「どうしよう」

 アキノはハッとして顔をあげた。それぐらい、シーヴの声の調子が普通ではなかったからだ。

「どうした?」

 そっと低い声で聞くと、シーヴはアキノの方へ這いよってきた。

「……殿下は俺なんかをかばって、怪我されて。それからアキノさんまで殿下から離されて。殿下は今、お一人でしょう? 殿下はご苦労なさっているから、お一人でも頑張ってらっしゃるでしょうけど、でも……」

 きっと。

 自分たちよりも、もっと嫌な目にあっていらっしゃる。

「殿下は俺のことを、『私の家族』って……」

 シーヴの胡桃色の目から、涙がしたたって落ちた。

 ネファールへ入る前に、ザラ子爵と話したことが思い出される。

(すまない。話を逸らしてしまった。次の質問だ。シーヴ、君にとっての大公殿下はなんだね? もしくは大公殿下にとっての君とは?)

 あの質問。

 それにカイエンは答えてくれたのだ。

(私の家族を傷つけることは許さない)

 と。


「どうしようもできませんよ」

 黙っているアキノの代わりに答えたのは、パコ・ギジェンの声だった。

「ここから殿下はホヤ・デ・セレンへ連行されてしまったんでしょう? 我々にはもう、できることなんてありゃあしませんよ!」

 わざとらしい大声でそう言うと、パコはシーヴに厳しい目を向けてきた。

(あんたたちだけでも、なんとか外に出ること考えなさいよ!)

 その目は、アキノやルーサ、女騎士のシェスタやナランハにもわかる意志に溢れていた。

 パコの視線は、石牢の窓を射るように見上げている。

 だが、この石牢はラ・ウニオン城の裏手の塔の半地下にある。だが、外ではもちろん城兵が要所を囲んでいるだろう。ここを出られても、カイエンを追っていくための手立ては簡単なことではない。首都ホヤ・デ・セレンへの道すら彼らにはわからないのだ。

「そうですな」

 アキノが、やっとそう言った時。

 不意に、鉄格子の窓から差し込む星明かりが消えた。

(!)

 石牢の中にいるアキノたちすべての視線が、真っ黒になった高窓に向けられる。

 そこには、巨大な獣の影があった。

「ヒッ!」

 パコが悲鳴を飲み込んだ。

 ゆらり、と揺れた獣の影が、高窓を窮屈そうにくぐって落ちてくる。

 言葉を失ったアキノやシーヴたちの前にいるのは、灰色の大きな獣。

 だが、その正体はすぐに理解できた。

 真っ青な目。

 こんな目の獣はいない。

「ガラか?」

 アキノがやっとの事で言った声は、ため息のようにかすかにかすれていた。

「そうだ」

 そして。

 灰色の獣が発した答えもまた。

「お前。フェロスを服毒したのか」

 その問いに、ガラは答えなかった。そんなことは見れば分かることだったから。彼は時間も無駄にする気はないようだった。

「俺はこの姿で大公殿下の後を追う。ザラ大将軍の影使いのエステとオエステが先に行っている。俺はノルテというやつに解毒剤を渡した。やつは国境沿いに残っている。あんたたちは動くな。国境の向こうでは子爵とコロンボ将軍が明日にでも布陣する。国許へももう情報は伝わっている。俺たちが戻るか、コロンボ将軍たちが動くかしたら、あんたたちも動け」

 アキノは聞き取れないほど小さい声で聞いた。

「この辺りにもシイナドラドの影使いがいるか?」

「いる」

 ガラの答えに迷いはなかった。

「だから、一人二人ならまだしも、あんたたちみんなでの脱出は危険だ。時期が揃えば、大将軍の影使いが使いに来るだろう。ハーマポスタールまで情報が伝われば、ネファール軍も動かせる」

 アキノはしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。ネファールの王弟廃嫡と、カリスマ皇女の女王擁立への動きにハウヤ帝国が味方したことは、この際、いい方向へ転んで行きそうだった。

「ガラ」

 アキノの青い目が、ガラのそれよりも鮮やかに青い目を見据えた。

「お前は安定しているか?」

 アキノは知っている。

 こうしてガラがおのれを失わずに獣化出来たということは。

 彼の大切な存在がこの世にすでにいるからだ。

 それでも、確かめずにはいられなかった。

 ガラの答えは短く、はっきりしていた。

「……完全に安定している」

「わかった」

 息を飲む、シーヴやパコ、ルーサたちの前で、アキノはそっと目をつぶった。

「恐れるな。お前はおのれを失っていない。だから、帰れば人に戻れる。……いや、戻れずとも生きていける。そうだろう?」

「その通りだ」

 灰色の獣は静かに答えた。

 たとえ。

 たとえ、解毒剤を持っている影使いのノルテこと、ナシオが死んでも。

 おのれを失わなければ、故郷へ戻れれば。

 なんとかなる。

 

「ガラ。カイエン様を頼む」


 アキノの声を聞くなり、ガラは入ってきた高窓へ飛び上がった。

「任せろ」

 そう言うと、もう次の瞬間にその姿は消えていた。

「アキノさん……」

 シーヴの声に、アキノは静かに答えた。

「いいか。ことが大きく動いたら、お前だけでもここから脱出しろ。私たちのことは構うな」

「カイエン様が害されることはおそらくあるまい。だが、ご無事にハーマポスタールへお戻りになっていただかねばならぬ。それだけを考えよ」

 シーヴには、もう答える言葉はなかった。 



 えー。カイエンさん、試練続出。非常時電源で頑張ってます。

 裏に回った部分は、いずれ裏で書くと思います。


 2016.0903、シーヴの台詞に付け足しをしました。

 結構重要な台詞を落としてしまっておりました。伏線引いといてほったらかすところでした。

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