ガラの決心
シイナドラドの男どもは、みんな双面神
口当たりのいい褒め言葉と、見下した罵りと
春風のような微笑みと、剥がれ落ちる氷山の欠片のような憎しみの顔と
大らかな許容心と、厳しい排他的精神と
ああ
いくら挙げてもキリがない
彼らの中ではこの世とあの世が、背中合わせでつながっている
我々のように一つの流れの中ではつながっていない
だから
彼らはこの世の支配と神への信仰と
それさえ分かつことなく己の裏と表に貼り付けて
苦しむこともなく生きている
あいつらに合わせてはいけない
あいつらからは奪ってこなければならない
奪ったものを確実に守らなければならない
なぜ?
あいつらだっていつかは転ぶ
転ぶ時には裏も表も同じ
もろともに転ぶから
その時を見誤るな
その時にこそ立ち上がれ
あいつらから奪ってきたものを先頭に立て
風と海と陸と空とすべての神々に呼応して
この大地を守れ
周 暁敏 「理想郷を訪ねて」より「双面神を殺せ」
「おい、この爺さんの身体検査しろ。……いろいろ隠し持ってるぞ」
エルネストは警備兵の中でも目つきの鋭い何名かに命じて、まず、アキノの身体検査をさせた。
凶器になりえそうなものは大公家の執事のバッジまで外され、護身用に持っていたナイフの類もすべて抜き取られた。
それを確認してから、ようやっとエルネストはカイエンの左頬に当てたハンカチから手を離した。
「爺さん、ちょっとこれ押さえててくれ。……おい、ドン! 早く出ろよ。俺たちもすぐに行くから早く帰って準備しとけ」
エルネストはやっと警備兵から両手が自由になったアキノに、カイエンの左頬の傷口を押さえていたハンカチを任せると、きびきびと周りの連中に指示し始めた。
「大公殿下!」
その時、恐れ気もなく歩んできてカイエンの傷の手当てにかかったエルネストに吞まれ、まだ剣を手にしたまま立ちすくんでいたシーヴが正気に返ったように声をあげた。横に内閣大学士のパコ・ギジェンがわなわなと震えながらもかろうじて立っている。彼の馬車の御者と、彼の従者も真っ青な顔色だ。
「大丈夫だ」
カイエンもその時にはもう、落ち着いていた。
先ほど、エルネストの顔を見た時に感じた驚きは、もう引き潮のように彼女の中に戻っていた。その頃になってやっと、焼けるような痛みを頰に感じ始めたこともあった。傷口を押さえる手が、エルネストからアキノに変わったこともあっただろう。
カイエンはシーヴや女騎士のシェスタとナランハの方へ向かって、そっと手を挙げ、手のひらを向けて抑えるように促した。
多勢に無勢。
それにこちらは自分という「お荷物」を抱えている。この中でおのれ自身を守れないのは、自分とあのパコ・ギジェンだけだ。
カイエンは空いている血まみれの右手で、己の眉間を揉んだ。目がまわるのではないが、なんだか頭痛がしてきたようだ。
「カイエン様、ここは向こうの動きを見た方が」
同時に、耳元に、アキノの落ち着い声が聞こえてきた。
「わかった」
もうアキノにもカイエンにも、ガラが御者台から消えたことが認識されただけではなく、次の手を考えるための情報として消化されていた。これはシイナドラド側も同じだろうが、彼らはガラの正体を知らない。
「ほらほら、お兄さんたちはこっち。こんなことになっちゃって、頭に来ているだろうけど、この夏の侯爵さんと先にお城に行っててくださいよ」
リベルタの市庁舎の役人に何か指示して戻って来たエルネストが、ひらひらと手を振りながら、無造作にパコとシーヴ、それに女騎士の二人に近づいた。皇子らしからぬ親しげで下世話な物言いが、却ってその場を支配する力になっているようだ。
無造作な動きのままに、手を伸ばし、カイエンの指示によって力を失っているシーヴの手から剣をもぎ取った。その動きには無駄というものが全くない。それは。その動きの裏にある技量をうかがわせた。
彼はシェスタとナランハの剣も、同じように無造作に取り上げてしまった。すかざす、警備兵が彼らの腕を背中側にねじ上げる。
「あああ! どうか乱暴はおやめください!」
神官としての人生の中で、そんなことをされるのは生まれてはじめてなのだろう、パコの悲鳴がこの際、滑稽に聞こえた。
アストロナータ神はこの国では「国教」であるはずだが、奇妙なことに、兵士たちからはその神官であるパコへの敬意は微塵も感じられなかった。服装からしてアストロナータ神官であることは一目瞭然なのにである。
そして、警備兵たちは彼らに女中頭のルーサも含めて、夏の侯爵の方へと引っ立てようとした。
「お待ちください!」
そこでやっとルーサが正気に返った。彼女はカイエンの左頬から血がしぶいた瞬間にたまらず、叫び声をあげてしまった。それからずっと立ちすくんで動けなくなっていたのだ。
「私は殿下の女中頭でございます。大公殿下をお一人で殿方ばかりに委ねるわけにはまいりません」
ルーサの顔は、いつもの冷たく引き締まった無表情に戻っている。切れ長の美しい目が、まっすぐにエルネストの顔を見上げていた。
「ルーサ! ひかえよ!」
アキノが厳しい声で、彼女を制した。彼にはすべての指示を下しているエルネストの力も意図も、そして彼の異様さもまた、理解できていたからだ。
だが、ルーサはやめなかった。
彼女はすいとしなやかな体を伸ばすと、警備兵の腕を果敢にくぐり抜け、カイエンの右腕をしっかりと捉えようとした。
「いいえ、やめません。ここで引き下がってはサグラチカ様に合わせる顔がございません」
「ルーサさん……」
それはシーヴたちも同じだった。
「うるさいねえ」
その時、ふわっとルーサの方を向いて発せられたエルネストの声は、それまでの感じとはまったく違っていた。
重たく、そう言う言い方に慣れた人間の冷徹さは、先ほどまでの下世話なまでの闊達で庶民的なおしゃべりを打ち消すのに十分なものだった。それは、この男の二面性を感じさせて不気味だった。
「俺はさっき、ここの爺さん一人だけって言ったはずだよ」
そう言うと、彼は左右色の違う目を剣呑に細め、そっと自分の腰に差した剣の柄に手をかけた。同時にルーサやシーヴを取り押さえている警備兵達にも殺気が走る。
すっと、無造作にやや腰を落とした姿勢を見るまでもなく、エルネストの、見ただけで誰にもわかる鍛え上げられた体はそれなり以上の実力を周囲に知らしめるのにも十分だった。剣の作りも実用的で皇子様のお飾りの剣には見えない。
ルーサはアキノと同じプエブロ・デ・ロス・フィエロスの里の出で、姉は去年までカイエンの女騎士をしていたブランカだ。多少、腕にも覚えがあったのだが、このエルネストの様子を見せられてはもう次の声が出なかった。
「引っ立てろ」
彼の命令を聞くまでもなく、夏の侯爵、ドン=フィルマメント・デ・ロサリオは自ら馬に乗ると、部下に顎をしゃくってシーヴとパコ、その従者たちと女騎士二人にルーサの腕を後ろでに縛り上げた。
エルネストとは目を合わせたくないとでも言うように、夏の侯爵はシーヴたちを広場の隅から引いてきた大きめの馬車に押し込んだ。人数からしてまさに「押し込んだ」のだ。
そして、自らは馬にひと鞭くれるとあっという間に街道を西へ向かって走り去る。その方向に領主である彼の居城、ラ・ウニオン城と城下町があるのだろう。
「歩けるかい。……まったく。もう真っ暗じゃないか。手間をかけさせやがる。ねえ? あんたも迷惑だろう?」
その後ろ姿を見送ると、エルネストはまた闊達なおしゃべりに戻って、カイエンの顔を覗き込むようにしてきた。
「ふざけるな。盗人猛々しい!」
カイエンはうるさそうに手を振ると、アキノの方へ顔を背けた。だから、カイエンにはその後にエルネストの顔に浮かんだ不可思議な表情は見えなかった。
アキノが左側から頰の傷を押さえた形で、左手で杖を突いているカイエンを促して、エルネストは市庁舎へ歩き始めた。
「傷を消毒して少し休んだら、俺たちもラ・ウニオンへ移動するぜ。……おい、その大公殿下の馬車をよく調べとけ」
エルネストの声を最後に、彼らの姿はリベルタの市庁舎の中へ消えた。
カイエンたちがそう大きくもない、リベルタの田舎の市庁舎の入り口へ消えるのを、ガラは当の市庁舎の屋根の上に寝そべって眺めていた。
広場や屋根の上に潜んでいた、シイナドラドの影使いたちは始末してある。エステはすでにラ・ウニオンの城下町に入っているはずだ。そして、オエステは夏の侯爵達の一行を追って去っていた。
ガラが待っていたのは、おそらくは国境の向こうから、ジェネロやザラ子爵と打合せの上で戻ってくるはずの影使いである。
なるべくならば、カイエンがまだこのリベルタにいるうちに連絡を取っておきたかったのだ。
やがて。
ガラの鋭い感覚の輪の中に、一人の気配が入ってきた。
もちろん、気配を殺した人間だ。それでもすでに何人かのシイナドラド側の影使いに出会っているガラには区別がついた。
「どうなった」
囁くのではない。屋根が軋るような風のうなりのような、自然の音の中にまぎれるような声で、ガラは自分の横に位置した男へ問うた。
「フィエロアルマはネファール領内、シャルダの街へ撤退した。コロンボ将軍は工兵を使って、長城攻略用の装備を準備中だ」
ガラはうなずいた。予想通りの展開だ。彼は事前に工兵のことも知らされている。
「ザラ大将軍の目は確かだった。……兄の手のものには連絡したか」
「勿論だ。スールが先にシャルダの街へ入って工作している。ハーマポスタールまで十日ほどもあれば届くだろう。情勢が変わればすぐに次を出す」
ガラはまだ知らなかったが、そう答えたのはノルテである。
「ネファール国軍への出動要請は?」
「それは正式には、国許の命令がないと出来んが、ザラ子爵も、ゴルカのエンゴンガ伯爵もすでにある程度の裁量権を宰相様から与えられているはずだ」
ガラは眼下の広場の様子を眺めた。
カイエンの乗ってきた馬車の調べが終わったのだろう。大公家の紋章の付いた馬車の御者台にシイナドラド兵が乗り込み、ラ・ウニオンの城下町へ向かう街道へ向かっていくところだった。
カイエンたちはまだ、市庁舎から出てきていないが、このぶんでは彼らの護送には別の馬車が使われるようだ。
「お前はこれからどうする」
ガラ自身はカイエンたちになるべく近い位置につけて追いかけるつもりだった。カイエン個人へはザラ大将軍の影使いといえども接触は難しいと思われるからだ。アキノ一人はそばに残ったようだが、シーヴたちは遠ざけられてしまった。これで、彼らが首都ホヤ・デ・セレンまでのこれ以降の旅に同行させてもらえるのかはかなり怪しくなってきたと言えた。おそらく、彼らはラ・ウニオン城に止め置かれるのではないか。
ガラは最前、影使いの一人と御者を入れ替わった後、内側の城壁の上で会った影使いの言っていたことを思い出していた。
(この先の道筋には、軍人には見せられないものが多すぎる)
正式な軍人ではないにせよ、シーヴや女騎士もそれなりの教育と訓練を受けている。彼らの目にも触れさせたくないものがあるということだろう。
となれば、すでにその一端を見ている、ザラ大将軍の影使いたちは見つかり次第、抹殺されると見ていいだろう。
先行しているエステとオエステはまずは、囚われたシーヴたちへ接触を図ろうとするのだろうが……それとて可能かどうか。
「俺は国境付近に控える。しばらくはこちら側の情報を定期的にザラ子爵へ届けることになるだろう。スールは向こうで得られた情報を持って、最悪、ネファールの首都のゴルカのエンゴンガ伯爵の元へ走らねばならぬ。そして、こちらはこちらで、最悪、フィエロアルマのシイナドラド国内への侵攻を助けねばならんからな」
「そうか」
ノルテの言葉を聞いてしばらくの間、ガラは黙っていた。
顔を上げた時、その顔にはある決意の色があった。確固たる、命をかけた決意の色が。
「……すまないが、お前の本当の名前を教えてくれ」
そう言うと、ガラの真っ青な目が、ノルテのどこにでもありそうな茶色の目をまっすぐに見た。
ノルテの目がかっと見開かれ、ガラの目の真剣さにややひるんだ。
「俺は、人としての俺はこの通り体が大きすぎて目立ちすぎる。普通の旅人に身をやつすことも出来ない。街道を避けて進むにも限度があるしな。シイナドラドの影使いに太刀打ちできるかどうかも未知数だ。それゆえ……」
「待て!」
ほとんどの人の目には何の印象も残らないであろう、ザラ大将軍の影使い、ノルテの顔が明らかに焦り、歪んだ。彼にはガラのしようとしていることが分かったのだ。
「それはいかん。その方法は……私もプエブロ・デ・ロス・フィエロスの事情を知る、大将軍閣下の影使いの一人だ、フェロスの毒についても知らないことはない。だが、それをしたらもう、元の姿には……」
「戻れんかもしれん。俺自身で試したことはないからな。……それよりもまず、おのれを失って一匹の獣になるだけかもしれぬ」
ガラははっきりと顎を引いてうなずいた。今、彼は話している相手に己の真意が伝わっていることを確信していた。
「俺はフェロスの毒使いだ。父の死後、母方の里に引き取られてこれを教えられた。だが、自分を使ったことはない。俺には番の相手がいなかったからな。だが、実際にあんたも去年の劇場の事件の時に見た通り、ヴァイロンを白木の吹き矢で獣化させたことはある。解毒剤の作り方を知っているのも、今では俺だけだろう。ヴァイロンはすでに大公殿下を己の『番』として認識していたために、体はともかく人の心を保ったままでいることができた」
あの時。
ヴァイロンが開校記念劇場の裏で、白木の毒針を首に受けて獣化した時。当時のザラ将軍に命じられて彼の体を大公宮へ運んだ三人の影使いの中には、彼、ノルテもいた。だから、その場のすべてを将軍と共に、見聞きしている。
「そうだな。俺は確かにその場にいた。いなかったのはオエステだけだ。やつもあの後、話は聞いているがな」
ガラは、ノルテの答えに満足そうにうなずいた。その顔には、いつもの無表情な彼の顔には決して見られない、微笑みの欠片のようなものが浮かんでいた。
「俺はあの時、ヴァイロンがどうやって人の体に戻れたのかが謎だったが、大公殿下に会って、あの紫翡翠の耳飾りと指輪を見て、謎が解けた」
カイエンはこの旅に際しても、あの耳飾りと指輪をつけてきていた。
ガラは、ノルテの顔をじっと見つめた。
「あれは、『鬼納めの石』だな?」
ノルテは、いく呼吸かする間、黙っていた。
「あの時、私はそう聞いている。ヴァイロン殿が大公宮の執事の家の前に捨てられていた時、唯一、持っていたものだと」
やがて、ノルテは聞こえないぐらい低い声で答えた。
彼は見た。
あの時、ヴァイロンが獣の姿から急速に元に……もとの、獣人の血を引くと一見してわかるほどに巨大な体ながらも、人間の形を保っていた姿に戻っていく様を見たのだ。
「だが、あれはお前にも効くのか?」
ノルテはガラの話の先の先を読んでいる。
カイエンの身につけている石が、ガラにも効くのかと尋ねているのだ。
「わからん。だが、恐らくは効かんだろう」
「効かないか」
「ヴァイロンの石は、やつのために用意された石だ。仮に俺にも鬼納めの石があったとしても、俺は見たことがない。……父が持っていたならば、臨終の前に私を呼んだ時にくれたはずだ」
ガラがその時、思い出していたのは、死を前にして自分だけをそばに呼び寄せた時の父の顔だった。
(お前の生みの父はここでいなくなるが、お前はまた人生の父に巡り会うだろう。その人に会えば、お前にはすぐに分かるはずだ)
父は、そう言った。
(そのお前の第二の父になる方は、これから起こる動乱の時代を流れる大河の真ん中を泳いでいく方。その方は時代の変わり目に現れる、役割を担った偉大な方々の一人だから、お前は常にその側にあってそれを助けるように……そうすれば、お前はお前の性を超えて生きていけるだろうから)
だが、父はそう言うともう目を閉じてしまった。だから、自分には鬼納めの石はないのだろう。
だが。
あの話をした父の真意は。
父はなぜ、ガラのいつか出会うだろう番の話ではなく、第二の父の話をしたのか。
ガラはそこに、一縷の希望があるような気がしていた。
「お前の兄が持っているということは?」
ノルテの言った、ガラの兄とは、宰相のサヴォナローラのことである。それを聞くなり、ガラの真っ青な目が一瞬だけ、光った。
「ない、と言いたいが……。わからない。だが、今ここにないのは確かだ。だが、解毒剤はほら、こうして持っている」
ガラは、ノルテの手を取り、解毒剤の入った布袋を無理やりにその掌に握らせた。
「いいか。これから俺はフェロスの毒を服毒する。お前は見ていてくれ。そして、俺がもし、おのれを失った獣になったと判断したら、体が変化しきる前に俺を殺せ」
しばらくの間、二人の間に沈黙が落ちた。
そして、先に口を開いたのはノルテの方だった。彼は聞かなかったが、ガラにはおのれを失わないという自信があるのだということを察していた。
「いいだろう。だが、俺の本当の名前を教えるのはお前がおのれの意思を持ったまま、獣化に成功した時だ。ケダモノに教える名前はないからな」
それを聞くと、ガラは懐から銀製の平たい小箱を出した。
注意深く留め金を外してふたを開けると、そこには白木の毒針が何本も並んでいた。
「頼んだぞ」
そう言うと、ガラは無造作にその中の一本を取り、おのれの首に突き刺した。
そして、ガラは賭けに勝った。
「俺の本当の名を教えよう」
ノルテは、四つの足で地に立つ、巨大な灰色狼にしか見えなくなったガラの前で、すうっと息を吐いた。
恐ろしい瞬間だった。
獣化の途中とはいえ、おのれを失ったケダモノに殺される危険があったのだ。
「俺が父からもらった名前は、ナシオ、だ。この解毒剤を受け取ったからには俺は死ねぬ。俺は他の三人を犠牲にしても生き残らねばならん。だが、エミリオ様はおそらく許してくださるだろう。あの方もプエブロ・デ・ロス・フィエロスの血を引く方だから」
すると、ノルテ、いやナシオの前にうずくまった大きな黒っぽい灰色の獣が答えた。どう見ても獣そのままの牙の並んだ大きな口から、ややくぐもってはいるもののガラの声が聞こえてくるのは奇妙なながめだった。
「ナシオ。頼んだぞ」
そう言うと、ガラの姿は市庁舎の屋根の上から、後ろの森の中へと跳躍し、消えてしまった。
市庁舎の中へ連れ込まれたカイエンとアキノは、二人一緒にエルネストに案内された部屋に入れられた。
そこには白衣を着た田舎医者らしい老人が、今、呼びつけられて来ましたという体で待っていた。木のテーブルの上には消毒用の特別に強い蒸留酒の瓶や、清潔な白い布、それに医療用の深い金属のトレイなどがすでに準備されていた。
「ちょっと滲みるよ」
カイエンを椅子に座らせたエルネストは、自ら蒸留酒の瓶を手に取ると、深い金属のトレイの上に差し出すようにさせたカイエンの左頬の傷の上にじゃぶじゃぶと酒をぶっかけ始めた。贅沢なことだが、傷の消毒にはこれが一番だ。きれいな血のみが出てくるまで流水で洗い続けるのだ。
「痛い?」
先ほど、ルーサに見せた威嚇的な態度が嘘のように、エルネストの声は優しげだ。
相手の作る雰囲気に乗せられるのはむかついたが、カイエンも治療を受けなければいけないことは理解していた。
「なんともない。こういうのは子供の頃から慣れている」
「へえ。そうですか」
「そうだよ」
顔をうつむけているから、エルネストの顔は見えない。体を支えているアキノの手が、なだめるようにそっと動いた。あまり熱くなるなと言いたいのだろう。
「貧血じゃないって言ってたね。確かに、きれいな血だよなあ。これ」
それを知ってか知らずか、エルネストの話は取り止めがない。
「……血の色に、きれい汚いがあるのか?」
やっと傷口を洗い終わって、顔を上げさせられたカイエンの頰に、老人の医師の手で、薬草を塗りつけた柔らかい布が押し当てられた。
「……お顔でございますし、特に薄い繊細な皮膚でいらっしゃいますから、このまま縫わずに傷を抑えて落ち着かせた方がよろしいかと」
そう言う医師の言葉にうなずきながら、エルネストは答えた。
「もちろんだよ。あんたの血は特別なんだ。この俺と同じにね」
「お前と同じ?」
カイエンは疑問を口にしたが、もう、勝手気ままなエルネストはそっぽを向いてしまっていた。
「さあ! それじゃあさっさとラ・ウニオンの城へ移動しよう。一日も早く、ホヤ・デ・セレンへ行っちまった方がいいからね」
そして。
その後すぐに、カイエンとアキノは真っ黒な、窓を締め切った馬車に乗せられた。
そのまま、真っ暗な馬車に揺られてラ・ウニオンの城へ護送され、その奥庭で一度馬車を下ろされ、アキノと一緒に一室に押し込まれて、そこに用意されていた食事を摂るように命じられた。
部屋はそっけない漆喰の壁の部屋だったが、置かれたテーブルと椅子はそれなりに立派なもので、食事も港町らしい魚料理を中心とした暖かいものだったが、カイエンはほとんど食べる気もせず、ほとんどはそのまま下げられた。
だが、食後にこの城付きらしい医師の持ってきた薬は無理やり飲まされた。痛み止めと化膿止めであるというそれを飲まなければ、シーヴたちに危害を加える、と遠回しに脅されたのだ。
そのまま、朝まで隣接した部屋で休むように言われたが、もう、その場にはエルネストも夏の侯爵も顔を出さなかった。
「さ、少しでもお休みになって」
アキノは部屋に置かれた寝台を調べてくると、そこにカイエンを無理やり寝かせつけた。もちろん、何があってもいいよう、服は着たままだ。
「大丈夫です。まだ、すべてしてやられたわけではありません」
カイエンは四方を見回した。壁に耳あり、なのだろう。
「そうだな」
消えたガラのこともある。
「ザラ大将軍は様々な事態に対してご用意なさっておられました」
アキノもここでははっきり言いかねたが、彼はジェネロたちが逃れ出たであろうことを疑わなかった。
「殿下。お薬のお箱は取り上げられておりませんな」
アキノの持ち物はあらかた取り上げられてしまっていたが、カイエンが服の中に持っていた持ち物はほぼそのまま残されていた。
「うん」
「何があっても、我らは諦めませぬ。私もいつまでお側についていられるか分かりません。……お加減がお悪くなりましたらそのお薬箱からご服用ください。……殿下。カイエン様は、カイエン様でございます。他の何人でもありません。ただただ、御身のご安心だけを考えられますように」
アキノの言い方に、カイエンははっとした。
だが、何も尋ねず、鷹揚にうなずいた。
「わかった」
カイエンがアキノが予期していた通り、執事のアキノとも引き離され、たった一人で、シイナドラドの首都、ホヤ・デ・セレンへ向かう馬車に乗せられたのは、早くも次の日の朝のことだった。
馬車の窓は閉められ、外側から錠がかけられた。内側にも分厚いカーテンが下がっているので、馬車の中はほぼ真っ暗だった。
そんな馬車に一人乗せられて。
カイエンは多分生まれて初めて、知っている人の誰もいない場所へと、嫌も応もなく連行されていくのだった。
ガラさん、獣化しました。
戻れるのかどうかはノルテことナシオの頑張りにかかっております。
これでも伏線は少しづつ回収しているつもりなのですが、同時に謎も生まれているような……。