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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第三話 夏の夜の夢
65/220

夏の夜の夢

 暑い日だったわよ。

 あなたが私たちの家にやってきた日は。



 彼の養母のサグラチカは決して、「あなたが私たちの家の前に捨てられていた日は」とは言わなかった。

「そうだな。あの日は本当に暑い日だったな」

 相槌を打つ、養父のアキノもまた、その日は暑かった、という言い方でしか「その日」を表現しなかった。

 その日は、七月の二十八日。

 夜のうちに置いて行かれた彼を見つけた朝の日付け。

 その日が、今年もまたやってくる。



「なあ、ジェネロ」

 執事のアキノの後ろへついて、奥の玄関から大公宮の中へと案内されている途中の廊下。

 廊下は最初は色大理石の幾何学模様の石床だったが、奥に入るとその上に絨毯が敷かれている区画へ入った。同時に廊下の左右の壁の壁紙が変わったのに、彼らは何とはなしに気がついていた。それは、廊下に灯されたガラスのランプのシェードの色味が、硬質な白さから柔らかな色に変わったこともある。

 真夏だというのに、真っ黒な長袖の執事のお仕着せを隙なく着込んだ、痩せたアキノの背中のすぐ後ろを歩くのは、現フィエロアルマ将軍のジェネロ・コロンボである。

 こちらも平時の帝国軍の将軍の制服をしっかりと着込んでいる。深緑のその色合いは夏向けではないが、生地は夏向けのぱりっとした麻だった。将軍なので、肩章も襟章も厳しい。

 特に制服で来いと言われたわけではないが、大公宮へ呼ばれたのだから一応、着てきた。まあ、私服で来いと言われたらかえって困っただろう。貴族の社交場などとは無縁の彼らである。

「何だよ」

 将軍である自分にタメ口の副官を咎めることもなく、ジェネロは答えた。

 彼の後ろには二人の副官が、これまた深緑の制服で続いている。

 二人ともジェネロと同じくらいの長身で、体格もどっしりと鍛え上げられている。一人はまだ若く、一人は中年だ。

 若い方がチコ・サフラ。こちらは真っ黒な肩までの髪に縁取られた顔が、いかにも頭の良さそうな理知的で端正な顔で、青紫の瞳が珍しい。

 中年男の方は、イヴァン・バスケス。四角い顔の真ん中、額から唇の上まで縦に顔を真っ二つにした傷がものすごい。だが、薄い茶色の目は物珍しそうに輝いている。

 ジェネロに話しかけたのはイヴァンの方だった。

「大公殿下とはもう、先週、宰相さんとこで顔合わせしたよな。……で、今日のお招きは何なんだい?」



 そうそう。

 噂の女大公殿下とはもう先週、シイナドラド行きの随行というか、警護の件で宰相サヴォナローラの執務室で会っていた。

 ジェネロたちは個人的には、宰相サヴォナローラとも会うのも初めてだったので、興味津々で皇宮の宰相府へ上がって行ったのだった。

 皇帝の私的な秘書である、内閣大学士から宰相に抜擢されたアストロナータ神殿の神官。彼は褐色の神官服に神官帽の、背の高くて痩せた、いかにも頭の切れそうな油断ならない顔つきの男だった。今年三十三になるジェネロよりは若そうだったが、いかにも神官、という清潔な印象の中にも厳しい顔立ちと、何よりもその真っ青すぎる瞳が印象的だった。

 ちょっと見たことのないような純粋な青。

 その宰相の執務机の前の椅子に無造作に座っていたのが、女大公殿下だった。

 ふむ。

 ジェネロはその時の印象を思い出していた。


 去年の春の騒動の始まりに、皇帝によってフィエロアルマの将軍から落とされ、女大公の男妾にされたヴァイロン・レオン・フィエロ。

 それはジェネロが副官としてついていた男だ。そして、前の大公の後ろ盾があったとはいえ、若くして獣神将軍と呼ばれる地位まで上り詰めた男だった。

 その彼は、騒動の後に皇帝から復位を持ちかけられたのを断った。女大公の男妾という悲惨な身分のままでいることを自ら選んだのだ。

 その後、大公軍団に新設された帝都防衛部隊の隊長に任命されたが、帝国軍の一角を担う将軍位とそれは比べるべくもない。何しろ、大公軍団は大公の私設軍団でしかない。つまり、ヴァイロンは皇帝の直臣を捨てて、大公の手下の陪臣の地位に甘んじているということだ。

 そうまでして、あのヴァイロンがそばにいることを望んだ女。それが、目の前にいる!

 もちろん、ジェネロは興味津々だった。そりゃそうだ。一人の男の人生をここまで振り回す女が、どんな女か知りたいと思うのは当然だろう。まあ、男妾騒動は皇帝の方が仕掛けたことだから、女大公殿下のせいじゃないだろうが。それでもだ。

「ジェネロ・コロンボ将軍。それに副官のサフラ殿とバスケス殿だな。……私がハーマポスタール大公のカイエンだ。今回はどうかよろしく頼む」

 立ったまま挨拶したジェネロたちにそう答えて、女大公はわざわざ杖をとって席を立ち、手袋を取った手を差し出してきた。

 言葉遣いがなんだかぶっきらぼうで。でもそれが普段通りなのだろう。そういう自然さだった。

 それにしても、ちっせえな。

 第一印象はそれだった。

 椅子から杖をとって立ち上がった大公のカイエンは、ジェネロたちの胸までぐらいしか背丈のない、女としても小柄な部類に入る華奢な体だった。普段、でかい男ばかり見ているから、余計に小さく見えた。普通の貴族の女のようなふわふわした襟や袖、膨らんだスカートのドレス姿ではなかったせいもあるだろう。

 カイエンは細身で真っ黒の大公軍団の制服を隙なく着ている。だが、女の男装だから痛々しく見えるかと言えば、そうではなかった。

 不思議にそれが似合っている。

 あまり化粧気の見えない顔は病人みたいな土気色。珍しい紫がかった黒い髪も後ろで適当にまとめていて、今年十九と聞く年頃の姫君の色香など皆無だ。顔立ちは神殿の神の像のように整ってはいる。だが、まっすぐに伸びた意志の強さを感じさせる眉、その下のまっすぐに切れ上がった瞼の下の深い灰色の目の輝きがなかったら、何の印象も残らない顔だろう。

 そのそっけなさが、すんなりと真っ黒な制服を着こなしていた。

 体の弱々しさを、もう迷いのない灰色の目がきっぱりと打ち消している。

 ああ、これがあのヴァイロンを連れて行っちまった女か。

 ジェネロは瞬間的に、なんとなく納得してしまっていた。

 このお姫様は、迷いをあのヴァイロンとの関係を強要された時点でふっ切ったのだと。

 そして、ヴァイロンは。


(カイエン様は俺の唯一。他に代わりになる者はない)


 あの男にそうまで言わせる理由は、まだわからない。だが、これだけはわかる。これはとっくに、普通の貴族のお姫様でいるのを永遠にやめた女だ。

 自分で分かっているのかどうかは知らないが、横で見ている宰相も彼女をジェネロを見るのと同じ目で見ている。つまりはこの女大公は自分でも一人前の仕事をしようと思っているし、宰相も出来ると見ているということだ。

 自分に向かって伸ばされた、白さの目立つ指の長い細い手を、彼はそっと握った。もしかしたら不敬なのかもしれないが、わざわざ手袋を取って、手を差し出してきたのは向こうだ。

「はじめまして。ジェネロ・コロンボです。よろしかったらこれ以降はジェネロとお呼びください」

 そう言うと、カイエンは土気色の顔をいきなり笑み崩した。

 その瞬間。神殿の神の像みたいな顔が、一気にくしゃっと親しみやすい顔になった。

「そうか。ありがとう、……ジェネロ」

 あ。これか。

 ジェネロはこれまた即座にまた納得してしまった。

 これにきっとヴァイロンはやられたのだ。




「聞いているのかあ?」

 イヴァンの声で、ジェネロは我に返った。

「あー。聞いてるよ。まあ、いいじゃねえか。どーせ、もう察しはついてるだろう? 前は毎年、この時期にやってたじゃねえか」

 そう振り返らずに言うと、イヴァンとチコの変な声が聞こえた。

「えっ。まさか、本当にそれなのかよ」

「ええっ。そうなんですか」

 その時、先導していた執事のアキノが振り返った。老練な執事の顔に、それまでの背後でのやり取りを気にしたそぶりはない。

「将軍方、こちらでございます。今宵は無礼講でございます。どうか、お気楽にお願い申し上げます」

 そう言って、アキノが開いたのは、大公宮の奥の大公の家族のための食堂の扉であった。

 家族のいない現大公カイエンには、彼女の個人的な食堂であるところだ。

 そこは昨年、カイエンの誕生日がささやかに祝われた場所だった。

 だが、ジェネロたちはそれを知らない。

 重厚な木の扉の向こう。

 そこは、そこが大公宮だと知らなければ、小貴族か大きな商家の家の息子の誕生日の日の食卓に似ていた。

 集まった人数は、ジェネロたち三人を含めても二十人くらい。皆がちょっと華やかな晴れの日の服装だが、どうも中には使用人らしい風態のものも混ざっている。

 いや、よく見れば、使用人には見えない変な男たちも混ざっている。女騎士らしい剣を差した女も見える。

 真夏なので美しい中庭への窓は開け放たれていた。庭には篝火が焚かれている。鼻にちょっと香ったのは虫除けの香木を燃やす匂いだろう。

 部屋の中央の長い木の食卓には、様々な料理が盛り付けられ、一番上座に居心地悪そうに黒い制服姿の大きな男が座らされている。

「おおー。今宵最後のお客様の登場ですよぉ!」

 居心地悪そうな大男の横には、この大公宮の主人、カイエンが座っている。今日は夏らしい青っぽい涼しげで楽な衣装に身を包んでいるようだ。大声をあげたのは、そのそばに立っている鉄色の髪と瞳の甘ったるい顔の背の高い美男子だ。こちらは仕事の後らしく、黒い大公軍団の制服姿。

「帝国軍のー、ジェネロ・コロンボ将軍とぉ、副官のサフラさんとバスケスさんですぅ〜!」

 見れば、食卓の上の酒の瓶はまだ開けられていない。ジェネロは素面でこんな声をあげられる男を初めて見た。

「誰だ? あれ?」

 後ろの二人に聞くと、イヴァン・バスケスが嫌そうに答えてくる。

「あー。アレかあ。……あんた知らないかー。あれが元帝国軍人で今は大公軍団長で傭兵ギルド総長、大公軍団の恐怖の伊達男、イリヤボルト・ディアマンテスだよ」

 イリヤボルト・ディアマンテス。 

 名前だけはジェネロも知っていた。

 女癖が悪くて、なんだか当時の将軍某との間に問題を起こして強制的に退役させられた元、帝国軍人。それが切れすぎる切れ者で評判だった、前の大公軍団長兼傭兵ギルド総長に拾われて、若くしてその後釜に座ったという遣り手だ。

「なるほどなあ。そういや、イヴァン。あんた、若い頃は大公軍団にいた事もあったんだったっけな」

 イヴァンは若い頃、一時期大公軍団にいたが、その後、後ろ盾を得て士官学校に入学したという経歴の持ち主である。

 ジェネロはイリヤへ目を戻した。

 ちらっと見ただけでも、女でも男でも引っかかったらもう最後、と言えそうな猛烈に甘ったるい顔だ。だが、目が笑っていない。よく見るまでもなくジェネロのようなものが見れば、体格も身ごなしもその働きの鋭さを物語っている。

 なるほどに、恐怖の伊達男である。酔ってもいないのにあんな声で叫べるツラの皮一枚だけの面ヅラだけの軽薄極まりない剽軽さ。その裏で、あの顔を笑み崩して容疑者の尋問だの拷問だのをしているところを想像しただけで、恐ろしくも怖い。確かに帝国軍人には納まらない男だろう。


「すみません! あの人ちょっとアレで。こちらへどうぞ」

 三人でなんだか呆然と毒気を抜かれていると、イリヤやカイエンのそばにいた若造が慌ててそばに来て、ジェネロたちを食卓のそば、それも今宵の主人公のそばへ案内してくれた。

「おう。ありがとうな。……で、あんた誰?」

 ジェネロが聞くと、若造は丁寧な言葉で答えた。

「すみません。ご挨拶が遅れました。シーヴと申します。大公殿下の護衛を担当しております。この度のシイナドラド行きにも随行致しますので、どうかよろしく」

 シーヴはジェネロだけでなく、チコやイヴァンにも会釈した。イリヤと違って胡桃色の目まで、見てからに表裏なく明るく朗らか。浅黒い顔に明るい亜麻色の髪、ちょっと目立つ若者だ。

「おお。よろしくな」

 ジェネロが答えると、若者は嬉しそうに笑った。物柔らかだが体の動きからすると相当使いそうだ。

「殿下、ヴァイロン様、イリヤさん。将軍方がいらっしゃいました」

 引っ張って行かれたのは、結果的には大公のカイエンのすぐそばだった。

「おお。来てくれたか。今夜はたっぷり飲んで食べて、楽しんで行ってくれ」

 にこやかに迎えてくれたのはここの主人の大公殿下だ。ものすごく楽しそうな様子でくつろいでいるようだ。

 膝の上に細長い、茶色のぶちの猫が乗っかっていて、ジェネロたちの方をじっと見上げてきた。大勢の人間にも恐れた風はない。大公殿下は猫好きというわけだ。

「こ、これは大公殿下。今宵はお招きにあずかりまして……」

 それへ、曖昧に挨拶をしようとすれば、その真横で呆然と椅子に腰掛けている金色がかった赤い髪の大男が目に入ってくる。だがまだ言うべき言葉を決めかねる状態だ。

 ジェネロたちも、何の集まりかはさすがにしっかりと分かってはいるのだが、誰も正式には言ってくれないので態度を決めかねていた。   

「おい、大将。もしかしなくても今夜のこれはあんたのアレなのか?」

 ジェネロは座っているヴァイロンの翡翠色の目を覗き込んでみたが、なぜか反応が薄い。

 すると、横のあの大公軍団長が答えてくれた。

「そうですよぅー。もしかしなくても今夜のこれは、ここの大将の誕生日のお祝いですぅ〜」

 そう言いながら、イリヤは身振りでシーヴや女中頭のルーサ、侍従のモンタナに酒の瓶を開けるように指示した。客が揃ったということだろう。

「本当に、本当なの? いくらなんでも無礼講すぎなんじゃ……︎」

 ジェネロの後ろから、イヴァンの呆れたような声がした。

「えぇ〜? このところのウチ、というか大公軍団の大変さはおたくらもご存知でしょー? あんた方もこれから大変だし、これは大変始めの先回り慰労会でもあるのですよー」

 すかさず答えるイリヤの顔は、このところ消えることのなかった目の下の隈も消えて晴れやかだ。吹っ切れた爽快感さえ漂っている。さしもの一筋縄ではいかない大公軍団の恐怖の伊達男も、先年からの騒動では右や左へ引きずり回されたのであろうことがうかがえた。

「よくわからないけど、すげえな。ここ」

「ええ」

 イヴァンとチコがささやき合ううちにも、ルーサやモンタナが乾杯の用意に麦酒セルベサやら、ワインやらの瓶の栓を開け、グラスに注ぎ始めた。執事のアキノとカイエンの乳母のサグラチカの夫婦もそれを手伝う。


 それをジェネロたちがやっと納得のいった心持ちで見ていると、ジェネロの前に士官学校時代によく見知っていた小柄でひねこびた男が、後ろにヴァイロンと同じくらい大きい男を引き連れて、すっと出てきた。

「あっ! 悪魔メフィストフェリコがいる!」

 ジェネロの背後から、なんだかびびった小声で言ったのは、普段は落ち着いた性格のはずのチコだ。すぐにジェネロも気がついた。

「あっ! 先生!」

 三十過ぎのジェネロも、ヴァイロンと同年のチコも、この人には士官学校で世話になっている。

 チコのびびった声からすると、ヴァイロンに続く優秀な成績で卒業した彼にしても、当時の教授の恐ろしさが未だ頭から抜けないのであろう

 年齢四十絡みのイヴァンも、当時の戦術学教授の助手としてのこの人には世話になったことがあった。悪魔メフィストフェリコは士官学校での、この先生のあだ名である。

「ああ、君たち。よく来てくれたねえ」

 去年いっぱいで士官学校をやめて大公軍団の顧問に収まったが、マテオ・ソーサにとっては、ジェネロもチコもイヴァンも士官学校時代の教え子である。

「先生! ご無沙汰いたしております」

 そう言って、慌てて挨拶するジェネロたち三人へ、マテオ・ソーサは鷹揚にうなずいた。今日も彼はいつもの黒っぽい詰め襟に白いカラーをのぞかせた裾の長い服に身を包み、木の杖をついている。いつもは陰気な男が、なんだかこれも今日は楽しそうに笑み崩れている。伊達男も怖かったが、この悪魔メフィストフェリコの微笑みも相当に怖い。

「おお。懐かしいねえ。私も士官学校をよして、こちらでお世話になってから色々と面白く生きさせていただいているよ」

「先生、なんだか若返りましたねえ。白髪が減ったんじゃないですか? ……で、そちらはどなたですか」

 軽口も出てきたジェネロは、そろそろこの場の雰囲気にも慣れてきたが、教授の後ろに立っている濃い灰色の髪をした大男はいやでも目に入ってくるのでそう聞いてみた。悪魔メフィストフェリコが大きな灰色鬼を連れているようにしか見えない、恐ろしい絵面だ。

 教授はもっともだ、というようにちょっと後ろを見てから顎を引いた。

「ああ。彼か。彼は今、私の住んでいるところの隣人でね。名前はガラ君。……まあ、君たちは今日のこれで、もうここの『身内』認定だからいいだろう。実は彼は宰相殿の実の弟さんなんだよ」

 えっ、隣人?

 身内ってナニ?

 一瞬固まるジェネロたち三人の前で、ガラがうっそりと頭を下げた。

「ここと兄の間の……連絡係をしている。恐らくシイナドラドへも同行すると思う。よろしく頼む」

 よろしく頼む、って大公殿下と同じ挨拶でいいのか、お前。

 ジェネロは心の中で、ガラの傍若無人な言葉遣いに突っ込んだ。いやでも、あの宰相サヴォナローラの弟ならこれでいいのか?

「……おお」

 色々迷いつつ、そう答えながら見上げれば、確かにあの宰相と同じ、青すぎる真っ青な目が光っていた。人並み外れた長身だ。ジェネロたちよりもまだ頭一つ分くらいも高い。

「あんたは、あの。ヴァイロンの大将と同じかい?」

 同じように獣人の血を引いているのかい。

 そう聞けば、簡潔な返事が返ってきた。不躾な質問を気にしたそぶりはない。

「そうだ」

 見下ろしてくるのは、夏の深い海よりももっともっと恐ろしくも青い目だ。

「あ、そ」

 ジェネロがそう言った時、カイエンやヴァイロンたちのいる上座の方から、今宵の進行役らしいイリヤの声が聞こえた。

「はーい。乾杯の用意が出来ましたねえ! じゃあ、みなさん、お好きな飲み物のグラスをどうぞぉ!」

 二十人ほどの老若男女がてんでに好きな飲み物のグラスを取る。ここからは貴賎関係のなくやり方は同じだ。


乾杯サルー!」

 

 イリヤの音頭で、おーっとばかりにグラスを掲げ、その後に近くの人間とグラスをかちんと触れ合わせれば。

「ヴァイロンの大将、今日はたんじょーび、おめでとーございまーす!」

「おめでとうございまーす!」 

 おめでとう、オメデトウ。

 しばらくの間、ヴァイロンの周りは各自お祝いをしようとする人々に取り巻かれた。 

 その様子を、今日初めて「大公宮の人々」のノリにまみえたジェネロ以下三人は、惚けたように見ているしかなかった。 

 会食は無礼講らしく立食形式のようで、人々はヴァイロンに祝いの言葉をかけると、てんでに皿やカトラリーを手にして料理の方へ取り掛かり始める。

 ジェネロたちがウロウロしていると、さっきのシーヴという大公の護衛騎士がすかさずやってきて、てんこ盛りに料理を盛った皿を持たせてくれた。気がきく若者だ。その後ろからまったく同じ顔をした双子の男たちがやってきて、チコとイヴァンにも皿を持たせた。

「俺はマリオ」

「僕はヘスス」

 そう言って、同じ顔を並べ、無表情のまま挨拶してくれた。

「うわ、あれが噂の治安維持部隊の双面神ハノかあ。本当に無表情なんだな。怖っ」

 イヴァンの声を聞くまでもなく、ジェネロにもわかった。あのイリヤの下にさっきの双子とヴァイロンがついている今の大公軍団は、おそらく最強だろう。おまけに悪魔メフィストフェリコの先生もくっついているとあればなおさらだ。そういえば、悪魔メフィストフェリコの後ろには宰相の弟だという、灰色の鬼もいたっけ。

(ふーん) 

 とりあえず、空腹だったこともあり、ジェネロたち三人はてんでに料理に取り掛かった。集まった中に白い調理服に帽子のおっさんがいたが、きっとあれが大公殿下の料理人なのだろう。長くて大きい食卓の上に並べられた料理は色とりどりのハウヤ帝国各地の料理で、どれも凄まじく美味かった。中には市内の普通の店で出てくるような下町料理も混ざっているが、それはそれで正しく下町の味がした。



 料理と酒を一通り、味わった頃。ヴァイロンの周りから人が切れた頃合いを狙って、ジェネロは彼に近づいた。

「大将、今日はおめでとさん」

 やっと落ち着いたのか、翡翠色の瞳に人間味が戻ったヴァイロンが今度はちゃんと向き合って挨拶した。

「ありがとう、ジェネロ。さっきはぼうっとしていてすまなかった。イヴァンとチコも来てくれたんだな。……驚いただろう」

「うん」

 それは本当のことだったので、ジェネロたちは心の底からうなずいた。

「前はフィエロアルマの皆に祝ってもらってたな」

 そう言うと、ヴァイロンはワインの入ったグラスを持って立ち上がった。ちょっと横に座ったカイエンの方を見る。

「いいぞ。会うのは久しぶりだろう」

 にこにこと、もうワインで普段は不健康そうな頬を赤らめたカイエンが手を振るのを後ろに、四人で歩き始める。ヴァイロンが向かったのは開け放たれた中庭へ続く、テラスの方だった。

 中庭は花壇に囲まれており、白い石が綺麗に敷かれた噴水の周りには真っ赤なブーゲンビリアが枝を垂れている。庭にも篝火が灯され、幾つかのテーブルと椅子が用意されていた。大公宮も皇宮と同じく、ハーマポスタールの高台にあるので涼しい風が通り過ぎる。

「なあ、ここは居心地が良さそうだな」

 ジェネロがそう聞くと、ヴァイロンは男らしい顔に微笑みを昇らせた。

「ああ。みんないい人で、ここではみんなが裏表ない顔を出していられる」

 ジェネロたちは目を見張った。

「それってすげえな」

 そう言いながら思い出せば、あの色男のイリヤも、親切な大公の若い護衛騎士も、悪魔メフィストフェリコの元教授も、双子の隊長もまるで自分の家にいるような顔で話し、動いていたようだ。

「俺もここに出入りしてたら、ここの人たちを守りたいと思うようになるのかもしれねえな」

 ジェネロがそう言うと、ヴァイロンはちょっとびっくりした顔をした。

「今から言うことは、ただの思いつきだからよ。だからマジに受け取らないで欲しいんだが、今の大公さんが女の人で良かったのかもしれねえな。ここは」

 チコとイヴァンも変な顔をして、ジェネロを見ていた。

「あんたの大公殿下さ。あの人は強いよ。きっとある意味ではあんたや俺よりもな」

「ジェネロ?」

 ヴァイロンは怪訝そうな目でジェネロを見た。

「皇宮の宰相んとこで顔見せした時にも、思ったんだ。あの人、変に突っ張らかってねえだろ。弱い自分を平気でさらけ出してる。きっと、隠して強がってもだーれもついてこないってこと、もう分かってるんだ。開き直っちまってるんだな。だから、今度のシイナドラドのことでも、あのクセ者の宰相があの人に任せてるんだ」 

 ジェネロはぐいっとワインを呷った。

「それに、あの人はこの街に必要な人だ。よく分からねえが、きっとあの人こそが、この先何があろうとこの街を守ってくれる人だ。俺はなんでか知らねえが、それだけはもうわかった。……もしかしたらこの先、この街がこの国じゃなくなるような時代になってもな。この街を、俺の家族を守ってくれるのは大公殿下だ。そして、ここにいる奴らはそれを助けるに違いねえ。だから俺はあの人を守るよ」

「おい、ジェネロ」

 イヴァンが青い顔をしてジェネロを見た。気が違ったとでも思ったのだろう。

「イヴァン、チコ。おめえらはまだ分かんねえだろう。でも、きっと今度の旅が終わる頃には分かってる。俺はそう思うぜ」

 ジェネロが言い切ると、ヴァイロンが真面目な顔で口を開いた。

「それでいいのか」

「知らねえよ。だけど、俺の家族はこの街にいる。カミさんは根っからこの街の女だ。だから、このハーマポスタールで生まれて、ここで死ぬんだっていつも言ってやがる。この海の街を愛しているんだ。俺だって今更、ここを出て行くところなんてねえ」

 ジェネロはヴァイロンの顔をしっかりと見て、言い切った。

「あんたの『唯一』は俺が守る。だから、大将。俺の留守の間、俺の家族はあんたたちに任せたぜ」



 

 ジェネロたちが食堂へ戻っていった後も、ヴァイロンは中庭の噴水の縁に座って考え込んでいた。

 そうだった。

 ジェネロがカイエンについてシイナドラドへ行く間、彼の家族はこのハーマポスタールに残されるのだ。異国に向かった夫や父を想って。それを自分は思いやることもなかった。

 ヴァイロンは己の小ささを忸怩たる思いで咀嚼していた。

 そんな彼の前に、影が差した。

 食堂の明るい光を背にして立っていたのは、シーヴだった。ヴァイロンの空になったグラスを受け取り、新しいグラスを渡してくる。

「ちょっといいですか」

 光を背後にしているので、シーヴの表情は普通の人間にはよく見えなかっただろう。だが、ヴァイロンの目には見えた。真面目な顔だ。

「ああ」

 二十歳の若者の顔は厳しく、そして引き締まっていた。

「一つだけ、言っておきたかったんです」

 シーヴの胡桃色の、いつもは暖かい目が白っぽく光って見えた。それは硬い決意を感じさせた。

「ヴァイロン様、大公殿下に何かあったら生きてはいられないのは、俺も同じです」

 ヴァイロンはびっくりしてシーヴの顔を見た。

「あ、いやそのヴァイロン様と同じ理由じゃないです。でも俺はずっとカイエン様のそばにいて見ていて、殿下のことはなんだか妹とか……じゃなかったら畏れ多いですけれどもすごい親しい、幼馴染の友達みたいに思えてしまってて。俺はザラ様のつてでここへ来てますから、ブエブロ・デ・ロス・フィエロスの里のことも分かってますし。余計にそう思うんですよね」

 獣人と、カイエンの中に巣食う「蟲」の秘密を抱えた里。ブエブロ・デ・ロス・フィエロス。

 そうだ。

 シーヴはそれを知っている。そして、彼にはそれに加えてこの国を、この海の街を思う理由がある。

 シヴァ・ラ・カイザ。

 彼の本名の告げる祖先。ハウヤ帝国に滅ぼされた故国への想い。

「俺は俺の祖先のことは、実際、よくわからないんです。でも、この街は大切に思っています。そして、カイエン様はこの街の未来に必要な方なんです。あの方だけがきっと、この先この街を守ってくださる方なんです。それは殿下お一人だけのことじゃない。殿下に関係がある俺たち全てがそうなんです」

 ヴァイロンはジェネロと同じことを言う、シーヴの顔をただ見ているしかできなかった。

「でも、殿下がいなかったら、俺たちは一緒になれないんです。一緒にこの街を守れないんです。だから、殿下には無事にこの街へ帰ってきていただかなくてはいけないんです」

 殿下がいなかったら、俺たちは一緒になれないんです。

 ヴァイロンはその言葉をただひたすらに頭の中で反芻していた。




「お。邪魔したか」

 黙ってしまった二人。

 そこに出てきたのは、いつもの銀の握りの黒檀の杖をついたカイエンその人だったので、シーヴは慌てて言った。

「いいえ。俺の話はもう済みました」

 そう言うと、シーヴはさっさと挨拶して食堂の中へ消えていく。

「なんだ。今日はなんだかみんな、変だな」

 カイエンは胡乱な顔色で、シーヴの後ろ姿を目で追っていた。

「……大丈夫か」

 カイエンは噴水の縁に座り込んで動かない、ヴァイロンの顔を覗き込んだ。背中を丸めて座っているヴァイロンの目の高さは、立っているカイエンのやや下にある。

「まるで、夏の夜の夢のようです」

 顔を上げたヴァイロンはもう、普通の彼に戻っていた。

「そうか」

「これはきっと夏の夜の、一晩だけの夢でしょう」

 カイエンはびっくりした。

「そんなことはない。来年もその先も、ずっと同じだろう」

 いや。

 カイエンも分かってはいた。

 ずっと同じであるはずはない。

 年月が経っても、変わらないものなんてない。

 来年の誕生日が今日と同じようにやってくるなんて、誰にもわからないのだ。

「私は、シイナドラドで間違いなく無事に任務を果たして戻るからな」

 カイエンはまっすぐにヴァイロンの翡翠色の目を見て、はっきりと言った。これをちゃんと言っておきたかったのだ。

「まあ、向こうも取って食おうとして呼び出したわけでもあるまい。宰相の話では帝国軍の警護をつけることにも、向こうは難色を示さなかったそうだ。国境から先のシイナドラド国内への軍の立ち入りも認めたと聞いた」

 カイエンはそう言うと、ちょっともじもじと庭の花々の上へ目を彷徨わせた。

 そして、ヴァイロンの顔へ向き直った時に言ったことは、意外な事柄だった。

「何か贈り物をしなくてはと考えたのだが、ミモに勝るものは思いつかなかった」

 猫のミモ。

 それは去年のカイエンの誕生日の、ヴァイロンからの贈り物だ。

 カイエンはミモを文字通り猫可愛がりしていた。まるで彼女の子供のように、だ。

 黙っているヴァイロンへ、カイエンは早口で続けた。

「だから、そのう。私はちゃんと、お前のところに戻ってくるから、な」

 ヴァイロンは夢の中にいるような心地で、その言葉を聞いていた。

「シイナドラドで何があっても、これは変わらない。私はずっと、お前と一緒にいるから」

 カイエンは恥ずかしさのために目を彷徨わせ、最後に見たのは真夏の天上の星々だった。 

「でもお前はそういうのが好きだろう。な?」


 

 ヴァイロンに否やはなかった。

 彼は遠慮なく、彼の唯一存在の小さな体に太い両腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。

「はい。私には、それ以上の贈り物はありません」


 七月二十八日の夜。

 大公宮の大公の食堂の外の中庭。

 真っ白な噴水のそば。真っ赤なブーゲンビリアの枝の垂れ下がる場所で。

 ひっそりと抱き合う影は夏の夜の夢の中に溶け込んでいったのだった。






 そして。

 大公カイエンが帝国軍フィエロアルマに警護され、シイナドラドへ向けて出発したのは、暑い暑い夏の盛り、八月九日の朝のことだった。

 


  

 



 さて。

 次回からはカイエンさん初めての海外旅行です。

 私も気持ちを切り替えて頑張ります。

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