大公殿下の飼猫ミモも苦労する
ミモはもう子猫ではなかった。
もうすぐ一歳の若猫だ。すっかり体も大きくなり、真っ白な体に濃い赤茶色の大きな縞のぶちの入った体はすらりと長い。
そう、ミモはあのトリニのうちのパンキンのようにふっくらした丸い体型の猫ではなく、ずっとほっそりした体型の猫になっていた。それでも、濡れたような、銀色と金茶色に輝く毛皮は美しい。
「にゃ」
ミモは一番可愛がってくれる二人の人間の寝ている布団の足元の方に寝ていたが、一つあくびをすると、布団の上の方へ向かって歩き出した。
ミモは賢い、というよりは周りの人間の考えがわかる猫で、大小の用は大公宮の彼のいる場所に設えられた砂場でしかしないし、食事も皿からこぼさないような猫だった。だから、飼い主の生活の様子もしっかりと理解していた。
その性格はあまり猫らしくはなかったのかもしれないけれど。
そろそろ、この二人は起きるはずなのだ。時間ではない。彼の判断の元はおそらくは人間二人の息遣いや心臓の音。だから、間違いはない。
ぐるぐるぐる。
ミモは二人の寝ている枕の上にのってみた。
いつも目ざとい方の、毛の赤いでかい方は目が覚めているようだが、かまってくれない。でもこれはいつものことだから、ミモはめげない。でかい方は他の場所では可愛がってくれるから。
ミモの灰色がかったレモン色の目が見ている光景は、なんだかまだ眠い光景だ。
この二人がこの大きな寝台に入ったのは、真夜中に近い時刻だった。その時も、ミモはそばにいたのだが、でかい方の翡翠色の目に睨まれたので一回は寝台から飛び降りた。
あのでかい方の赤い毛の人間はもう一人よりも、すっと自分に近い。
ミモは人間と猫である自分をはっきり分けて考えていたわけではない。でも、自分と近いか遠いかはわかる。
あの赤い毛のでかい方は、小さい方の一番大好きではなくてはおさまらないやつなのだ。だからしょうがない。あいつの方が先にここにいるやつだし、でかくて強いから、しょうがないのだ。でも、俺の方が小さい方にこまめに可愛がられている、ミモはそう思って一応は納得しているのだ。
ふぅー。
猫だってため息ぐらいつく。
あれこれ動く気配と、小さい方がたてる猫みたいな声。ミモはもう知っていた。これが終わるまでは寝台にのって、二人の間に入ったら怒られることを。
それが終わって、しばらくすると寝台の上が静かになる。そうしたら、ミモも二人のそばで眠れるのだ。
「みゅぅ」
見ていると、でかい方の腕の中にすっぽり収まっていた小さい方が、ゆっくりと目を開けた。
色は灰色。
ミモの目と色だけは近い。
「ミモ?」
「うにゃ」
こっちの人間との方が、話はうまく通じる。ミモは黒っぽい紫色の長くて多い髪の毛の中に頭を擦り付けた。匂いもこっちの方がいい。
「今日はお休みなんだよ、ミモ」
伸びてきた白くて細い手が、ミモの首の周りと耳の後ろを撫でてくれた。知っているよ、とミモはぐりぐりと頭をそれに擦り付ける。だから甘えてるんだよぅ。ぐるぐるぐる。
しばらく撫でてくれる手に恍惚となっていたミモであったが、現実は甘くなかった。
もう一人の方の、でかくて無骨な手が伸びてきて、ミモの襟首を掴む。
「今日はまだ起きる時間じゃない」
野太い声を聞いたときには、ミモは広大な寝台の後ろの端まで振り飛ばされていた。
大公軍団史上初の女性隊員募集に合格し、春から隊員候補生として訓練に明け暮れている四名。
彼女らの訓練は四月から広大な大公宮内と、帝都ハーマポスタール郊外にある大公の離宮でもって行われていた。あえて、訓練内容に男女の違いは設けられていない。
最初は男性候補生と同じではきついのではないか、と云う意見もあった。
だが、このことについては、新大公軍団顧問のマテオ・ソーサの意見が取り入れられた。曰く。
「最初の訓練の段階から区別しちゃってたら、他の男どもが甘くみますよ。それじゃあ一人前の隊員になった時になめられて仕事にならなくなる。一緒にやってる男どもが『あれじゃかわいそうだから止めて』って言い始めてから、次の手を考えればよろしい」
マテオ・ソーサについても、最初は新設の帝都防衛部隊の顧問としてどうか、と話が持ち上がったのだが、今回の女性隊員の件は彼の提案であったこともあり、最終的な大公カイエンからの辞令は「大公軍団最高顧問」という厳しいものになった。
こうして身分の定まったマテオ・ソーサ元・教授であったが、その後も呼び名は概ね「教授」か「ソーサ先生」のままだった。「最高顧問〜」と呼びかけられることは公式の場以外にはなかったようだ。
名称は厳しくなったものの、中身が変わるわけではない。
その日、それは大公のカイエンが皇帝の後宮で事件にあって帰ってきた数日後。
恐れ多くも大公殿下の後宮……だったはずの広大な建物の中の自分の居室……とはいうものの寝室一部屋ではなく、広々とした書斎や居間もある、優に市内の裕福な家庭の一軒家くらいの面積のあるところだ。
そこで目覚めた彼は、身支度を整えると後宮の外へつながる青銅の大扉に続く、渡り廊下を歩き始めた。隣の区画との間だけが渡り廊下になっていて、周りは狭い中庭のようになっていた。だが、元は後宮であるから、庭の向こうにはすぐに高い壁がそそり立っている。
早朝の、まだ街中でもやっと人々が起き始めた時刻である。
片手に粗末な木の杖をついている。余談ではあるが粗末に見えるこの杖、実際は樫の木で作られたちょっといいものなのだが、それがわかるのは同じように杖をついているここの大公殿下くらいのものだろう。握りも、もっとも力の入れやすいTの字型の注文品で、国立士官学校の教授ではあったが俸給の使い道と言ったら本代くらい、と云う彼が本代以外で珍しく奮発したものだった。
教授が、カイエンとヴァイロンがあの仕組まれた初夜の後、二人で訪れたアルウィンとアイーシャの「世間へは秘められた若き日の肖像画」の前に差し掛かった時だ。
「おはよう」
一番近くの部屋、これは男妾にされたヴァイロンが最初に入った部屋で、前は「青牙宮」と呼ばれていたこともあるところ、から不気味なほどに低い声が聞こえた。
「ああ、おはようさん」
野太い声を怪しむ様子もなく、教授が答えると、歩き続ける教授の後ろに大きな影が差した。
ガラだ。
そのまま二人は黙って青銅の扉まで歩く。教授がここへ引っ越してきてから、休みの日以外は毎朝のことだ。小柄な教授は、後ろに大男を従えて青銅の扉の前に立った。
これまた教授の来るのがわかっていたかのように扉が開き、向こうに当番の女騎士が頭を下げていた。
「おはよう、シェスタ。あれ? 君、故郷から息子さんが来ているんじゃなかったかね?」
シェスタは若い子持ちの女騎士で、子供は執事のアキノや軍団長のイリヤと共通する故郷の親元に預けて奉公しているのだが、先日から子供が上京してきて、この大公宮の中にある彼女の住処にいるのを、教授はちゃんと知っているらしい。
「おはようございます。大丈夫です。私はこれから交替ですから」
「そうかね」
「本日、大公殿下は休日であられまして、未だおやすみです。先生、今日の朝食は……」
「いいともいいとも。そっちが本当なんだから。お気遣いなく」
シェスタに最後まで言わせずに、教授はさっさと大公宮の奥殿を突っ切った奥の、厨房や使用人だまりのある方へと、どんどん自分から歩き始めた。
ここへ引っ越してきてから、時間が合えば教授は大公のカイエンと朝食を共にすることもあったが、ほとんどの日は裏へ回って他の使用人たちと一緒にとることが多かった。最初、カイエンは教授の部屋まで朝食を運ばせようと言ったのだが、教授は固辞したのだ。もともと、そこに潜んでいたガラが使用人たちに混じって食事をとっていたこともあった。
まだ早朝であるから、使用人だまりでは今がちょうど朝食の時間なのだ。
そこで女中頭のルーサ、侍従のモンタナなどと一緒に朝食をしたためると、教授は帝都防衛部隊の訓練の行われている大公宮の裏庭方面へ向かった。ガラは自分の用事があるらしく、彼とは大公宮の裏で別れた。
大公宮の裏は昔、修道院があったところで、その頃の遺構が残っている。例えばあの、アルウィンが少年のヴァイロンをたぶらかした噴水のある庭部分は、そのままだ。その部分は残したまま、広大な荒地のようになっていたところに新年早々から突貫工事で作られたのが、新設の帝都防衛部隊の訓練場である。
すでにそこでは朝食を済ませた、帝都防衛部隊訓練生たちが今日の訓練に入ろうとしていた。訓練生と言っても、こちらの訓練生はすべて、現役の大公軍団の隊員である。治安維持部隊から引き抜かれた精鋭たちだ。
「ソーサ先生!」
教授が入っていくと、朝の走り込みや柔軟体操を始めていた猛者たちが親しげに声をかけてきた。
教授の専門は「戦術学」で、実地の訓練の指導には大公軍団の「予備役」から選ばれた三人の「老兵」たちが当たっている。もちろん、訓練の内容については教授と隊長のヴァイロン、三人の「予備役の老兵」が相談し、作り上げてすでにみっちりと組んである。
教授の仕事は座学の方だが、こうして毎朝、訓練を見に来ているせいか、訓練生たちの受けはいい。それには睨みを利かせている、三人の「老兵」たちの態度も組みしているようだ。
そこにはミゲル、ラファエル、ガブリエル、の往年の地獄の三天使がしっかりと揃っている。
卒中をやって松葉杖のガブリエル老人も、春からは予備役として復帰していた。
三人そろってみると、現役隊員にもその「地獄の勇名」は健在で、じいさん相手でもダレる訓練生はいなかった。まあ、ダレたらその上には元・獣神将軍ヴァイロンが、その上にはあのなんだか知らないけど最恐の軍団長、イリヤが待っているということもあっただろう。
「先生、すっかり夏ですなあ。今日もいい天気で、気が引き締まりますなあ」
「そうだねえ。今日も暑いだろうから、水分補給と日射病に気をつけてね。そろそろ熱中症も気になるからね。なんだかだるいと思ったら、気をつけて。なんとかに説法だけど、こればっかりは体力自慢の猛者でも同じだからね」
教授がそう言うと、頼もしい老人たちはうんうんとうなずいてくれた。
「その通りです。こいつら本当に体力自慢の脳まで筋肉の野郎どもで、そういうところが弱いんですよ。とっとと先生に頭の方をじっくりほぐしてもらって、自分で自分の面倒をちゃんと見られる戦力になってもらわんと」
「うん。座学は午後からだからね。涼しい教室の中だからって寝たら許さないからねぇ〜。君たち?」
中年で小柄で貧相な体格の教授が、嫌味ったらしく選抜されてきた訓練生たちを見る。普通なら鼻で笑われそうだが、二十代から三十代初めの訓練生たちは真面目にシャキッと立って、敬礼した。
「はいっ!」
「あら。サンデュ君、今日も元気そうだねえ。君、前の試験の再試験の約束、今日だったねえ。今日こそは合格してもらうからねえ。いや」
南の国の血を引いているのだろう、猛者たちの中でも、人一倍色が黒く、背の高い男のそばにわざわざにじり寄る教授を、他の訓練生はやや引きつった微笑みをもって見送っている。
「……君が合格しないとねえ。私も帰るに帰れないのだよ。いいかね。今日は合格するまで帰さないからね。勉強してきたかね?」
サンデュは長身を縮めるようにして、教授を見た。そっと左右を見るが、とうに合格しているみんなは今度は生ぬるーく微笑んで彼を見守っているだけだ。
「え、あのう、それがそのう。あのう……」
教授は、こんな反応には慣れっこだ。
「あーそう。昨日も訓練終わったら遊びに行っちゃったと、そう言うことだねえ。わかっているんだよ、君みたいな学生のことはねえ。まあ、任せておきたまえよ。私は誰も落第させないよぅ。……落第させるのは簡単なの。でもね、それじゃあ君も私も困るだろう?」
「はい、こ、困ります」
サンデュとて訓練生に選ばれた以上、「落第しました」と元の署に戻されるのは嫌なのだ。それでも試験に合格できずに遊んでしまう困ったちゃんなのだ。
「アレクサンドロ君、君から順に、ナヴァリ大作戦の攻略の方策、時系列順に言っていってくれたまえ。なるべく簡潔にね。……サンデュ君、最後まで行ったら君が最初から全部復唱だ」
ヒィ〜。
すでに合格しているアレクサンドロ以下の訓練生たちが、運動しながら攻略の方策を初めから暗唱する中、三人の地獄の天使どもに会釈しながら、教授はそこを後にした。
教授が次に向かったのは、大公宮の表の方だった。
教授は杖をつきながら、ゆっくりとそこへ向かう。午前中の彼の仕事は大公軍団の候補生たちへの授業だ。
四人の女性候補生を含めた候補生たちは、今頃、裏庭の訓練生同様の朝の訓練中のはずだ。
教授が大公宮表の大公軍団の朝礼の行われる広場に到着した時、ちょうど朝礼が終わったところだった。
教授はもう知っているが、今日は大公のカイエンは休みなので、軍団長のイリヤが朝礼を行い、今まさに壇上から降りてきたところだった。
「あらー。おはようございまーす」
昨日もよく寝ていないのか、目の下に隈を張り付かせた軍団長イリヤはこんな朝だというのに、場末の男娼のように表面だけが陽気だ。
「変わりはないかね」
そう言う教授の顔は寝足りてニコニコだ。マテオ・ソーサという男はもともと丈夫なたちではないから、決して無理をしない。無理をしなくても時間内に仕事を終えられるように按配することにかけては筋金入りなのだ。そうでなくては人並みの仕事量はこなせない。
さっきのサンデュの再試験だって、勤務時間内に終わらせる。それは彼にとっての決定事項だ。
そんな教授の顔を見たイリヤはムカついたが、相手が相手だ。
「ありませんよぉ〜。朝礼が今、終わったところ、でぇーす」
なにこのカラ元気。
シーヴならそう言ったことだろうが、カイエンが休みの日は彼も休みだったので、今日ここにはいない。
「君、朝飯がまだなんじゃないのかね?」
教授が気がついてそう聞くと、イリヤは疲れた、それでも生まれついでの美形顔に最高難度の女殺し人殺し生殺しなんでもござれな、必殺の微笑を浮かべて教授を見た。完全に使う場面を誤っているので、ひたすら気持ち悪い。
「ええー、なんでわかるのよ。やっぱあんた凄いわあ。俺ねえ昨日も宿舎に帰れなくてさあ。ねえ、俺、ここで過労死する定めなのかなあ? ねえ、教授さん」
さすがの教授もこれには焦った。気持ち悪くもあったので、二歩ほど後ろへ下がったほどだ。
この様子は、いくらこの臍曲がり男でも演技ばかりではなさそうだった。
「君、この後の業務は?」
親切心で聞いてやる。
「えー。もちろん、まずはこのまま執務室に下がってー、待ってる部下に指示出しですよー」
それはそうだろう。
「私の候補生への授業にはまだ時間がある。一緒に行って、私でも読める書類には目を通してやろう。君はその合間に食事をして、軍団長としての判断だけしてくれたまえ」
「いやー。なんなのそのおっさんのバカ親切。気持ち悪ぃ〜。いやー」
「お願いします」
その時、半分演技のはずが錯乱気味になったイリヤの後ろから、双子の片割れ、ヘススが顔を出した。
「おや、君は大丈夫なのかね」
「私たちは二人なので……なんとか。……参りましょう」
その後、教授はイリヤの部屋で、彼が食事をする間じゅう、代わりに彼の業務を見てやった。時間が来たので、ヘススに後を頼んで行く先は候補生の授業の行われる教室である。
「きりーつ! 礼!」
百人あまりの候補生がすべて入れる大教室。
そこは春、秋、二回行われる大公軍団新隊員候補生のために設けられた、大公宮表にある大教室であった。
マテオ・ソーサ教授、と言うか本当は大公軍団最高顧問が入っていくと、当番の候補生が声を張り上げた。見れば、それは四人の女性候補生の一人、イザベル・マスキアランである。
教授はとっくに、選考の段階から気がついていたが、男性候補生と同じ訓練を受けるとなれば、一番苦労しそうなのがこのイザベルだった。
他の三人、螺旋帝国人の父親を持ち武術に優れたトリニと、獣人の血を引く身の軽いロシーオ、それに大公の女騎士の出身のブランカは体力的には一般の男性候補生に引けを取らない。どころか、訓練中の男など片手でひねれるのではないか。
だが、イザベルは違う。
彼女は従兄弟の“メモリア”、カマラと同じく「通常持ち得ない能力」をもって採用された人間だ。体力的には普通の女性と変わらないのである。
それでも、教授はあまり心配していなかった。
あのカマラもこの訓練を終えて任官した隊員であったからだ。異能というものは他の足りない能力を補って余りあるものなのだ。
実際に、イザベルは体力を必要とする訓練には苦労していたが、それでもなんとかついてきていた。本当に全く一人であったら、ついては来られないだろうが、困っていれば助けるものが出てくるのがこういう集団のいいところなのだ。いや、こういう集団のいいところは、それしかないと言ってもいい。
それに、こういう訓練はうまい具合に体力勝負の時間と、頭の能力勝負の時間に分かれているものなのだ。
教授の見るところ、イザベルはカマラと違って、周りの隊員や教師、教官たちとのやり取りには問題がない。座学での成績はほぼ満点と言ってよかった。それは、彼女のもっている特殊能力からすれば当然のことであったが。
イザベルはそれなりに元気そうに見えたので、教授はそのまま授業を進めた。
昼休み前まで続く授業である。
眠りの世界に誘われている候補生の前にこまめに移動して、教授は授業を行った。
これは、士官学校時代から同じである。
足が悪いから杖をついている教授だが、教室へは杖は持ち込まない。
だが、教壇に立ったままの授業を彼はしなかった。眠りの神様が見えるかのように、彼はそのそばについていくのだ。
一人も眠りの神様にもっていかれなければ、その授業は教授の勝利なのだ、と言わんばかりに。
「はい、じゃあ、今日はここまで」
そう言って、昼前に教授が授業の終わりを宣言した時。寝ていた学生は一人もいなかった。
そうして、午前中の仕事を終えた教授は、教卓の上で教科書やらなんやらを整理していた。
なんとはなしに見てみれば、男子候補生が出ていく中で、四人の女子候補生がもじもじしている。
「どうしたのかね?」
よく知っている、私塾の元学生のトリニもいるから、教授は声をかけてやった。
「ああ、先生」
この頃、果てしなく元気なトリニがうれしそうに顔を向けてきた。彼女には候補生の訓練が楽しくてしょうがないらしい。
「あのね。昨日、ここの四人で飲み会したんですけど」
飲み会したのか。
教授は目の隅でイザベルの元気そうな顔を確認して、なんとも言えない気持ちになった。ああ、若い娘どもだなあ。こっちが心配するより百倍も元気だわ、と。
「それでどうかしたのかね?」
教授は我慢強く聞いた。男子生徒ばかりの国立士官学校で教えていただけでは、この呼吸はつかめなかっただろう。教授の私塾には女生徒が何人もいた。それは幸いなことであった。
「先生、前に歴史の時間に教えてくださったじゃないですか。ハウヤ帝国の祖国は友邦、シイナドラドだって。ハウヤ帝国建国の皇帝は、シイナドラドの皇帝の弟だったって。でも、シイナドラドはこの百年近く、鎖国状態で今の皇帝陛下のお母様がお輿入れされたのを最後に国交も途絶えてるって」
教授は、体の奥から何か、熱くて恐ろしい何者かが立ち上がってくるような恐怖をこの時、感じたという。
「そうだが。……それがどうかしたかね?」
意識して落ち着いた声を出して、教授は聞いた。
「私やロシーオ、それにブランカは聞いたとしても忘れちゃってたんですけど、ほら、このイザベルは覚えてるでしょ? いろいろ。で、朝、昨日のこと話してたら、イザベルが変なこと言い出して。『ねー、シイナドラドなんて国、あったっけ?』って。それが私、気になったんです」
「イザベルが思い出したから、トリニが気になったってことだね」
「はい」
トリニは真面目な顔でうなずいた。
「イザベルはシイナドラドのことをあんまり知らなかったんだそうで、後からその言葉が頭に戻ってきたら気になって、私に聞いてみたんだって」
イザベルは黙ってうなずいている。トリニは続けた。
「あれ、ビスタ・エルモサの、ロシーオの実家のそばだったんですけど。結構大きい店でした。ロシーオ、なんて店だっけ?」
ロシーオが答える。
「名前ないんだよ。マリーナおばさんのププセリア。でも大きい店なんだよ、先生。普通の家、三軒分くらいもあるんだ。大部分は天井だけの半分外みたいな店だけどね」
ププセリアとは、このハーマポスタール下町名物の「ププサ」を出す店のことだ。ププサは、トウモロコシの粉で作った餅の中に豆を煮たフリホールや肉、チーズ、玉ねぎやトマトなどを入れて鉄板で焼いたもので、野菜の酢漬けと一緒に食べるものだ。
「そこで、食べたり飲んだりしてた時に、イザベルは店の中で遠くの方からそこだけ聞こえたんだって言うんです。もちろん、イザベルは聞こえたのは他の会話も全部覚えてるんだそうですけど、知らない言葉があったから印象が深かったんだそうです。あ、ええと、その言葉ってのは『シイナドラドの使者が入った』っていうものだったそうです」
教授は身を引き締めた。
「シイナドラドの使者が、どこに入ったっていうんだね?」
トリニはもちろん、答えを用意していたようだ。
「先生、それがね。『螺旋帝国の外交官のところに』って……言ってたみたいだって」
言っているうちに、怖くなってきたらしく、トリニの顔色は急激に悪くなった。
この春までカイエンの女騎士をしていたブランカも、強張った顔をして、黙って教授を見つめている。普通の顔なのはロシーオとイザベルだけだ。
なんでかなあ。
教授は頭が痛くなった。
なんでか知らないが、自分だか、大公殿下の周りはこうした話が早いのだ。
去年の事件だって、なんでか知らないが弟子のディエゴが事件に巻き込まれた。
今回も他の国の話なら、彼は笑い飛ばしたかもしれない。だが、話題になった国が特殊すぎた。
「……いいかね、君たち」
教授は、四人の顔をしっかりと順番に見た。
「今の話は、私がいいと言うまで、口外禁止だ。ご家族にでも兄弟にでも、話したら、本当にやばいよ」
そう言うと、それまで普通の顔で聞いていた、ロシーオとイザベルの顔も強張った。
「いいね。ロシーオくんもイザベルくんも、ちゃんとわかったね。訓練中に気にすることはないけれど、この話は私以外にしてはいけない。君たち四人の中でもだめだ。……わかるね。これより後、この話は禁句だ」
顔をこわばらせてがくがくうなずく四人の肩をぽんぽんと叩きながら、マテオ・ソーサは、「早く、殿下やイリヤたちに言わなくちゃ」と心はそっちに向かっていた。
だが、その前にしなければならないことがある。午後の授業、そして。
あの、帝都防衛部隊訓練生のサンデュの再試験だ。
だが、それまで待っちゃおれぬ。
「あー。ままならんなあ」
そう言いながら、教授は不自由な足に鞭打って、大公宮奥の大公カイエンの元へと向かわずにはいられなかった。
その頃。
もう昼になろうとする時間になって、やっと「起きる時間ですよ」認定を受けられた猫のミモはプンプンしていた。
なんなのよー。ひどいよー。なんで俺を可愛がらないんだよー。
ぐりぐりと小さいの方の人間、カイエンの胸の上にのって、頭を擦り付ける。
「うんうん、悪かったね」
そう言って、撫でてくれる彼女の手は指が長くて動きも繊細で気持ちがいい。
ミモはもっと撫でられていたかったのだが、邪魔が入った。
「カイエン様……」
静かに音を立てないように寝室の入り口の外に控えた、乳母のサグラチカが入り口に立てられた巨大な衝立越しに続けて言った言葉に、カイエンはぶん殴られたかのように目が覚めた。
もう、昼過ぎだろう。
そんな時間なのに、寝台の中で、かたわらのヴァイロンの腕が絡まったままの、生まれたままの姿の自分にいらいらするがどうしようもない。
「宰相様を通しまして、皇帝陛下より、緊急のお呼びでございます。……友邦、シイナドラドより、久方ぶりの使者がありましたとことです。まずは皇宮に、との思し召しでございます」
カイエンは嫌な予感に体が震えた。
友邦、シイナドラド。
それは友邦という名の禁忌の名前だ。
そういう知識は、いまだ十九の大公、カイエンの中にも、しっかりと、あった。
そして、飛び起きた彼女を追いかけるように衝立の向こうへやってきたのは。
「殿下。ちょっと気になる情報が」
そう言って、息急き切って午前の授業から駆けつけてきた、マテオ・ソーサの姿だった。
大公軍団のあれこれを織り込みつつも、新展開です。
よろしくです。