螺旋文字は語る
今回は、やや陰惨なシーンがございます。
殺人事件の現場です。詳細な描写はありませんが、お気をつけください。
R15の範囲内だと思います。
ハウヤ帝国宰相サヴォナローラの元へ、東の果て「螺旋帝国」に駐在している外交官からの書簡が届いたのは、ベアトリアの王女マグダレーナが、皇帝サウルの後宮に納められてからすぐのことであった。
実は、オドザヤ皇女が大公宮を訪れた、その前日の夜である。
すでに夜半に近い時間であったが、宰相府のサヴォナローラの執務室にはまだ明かりがついていた。
書簡はアンティグア文字と螺旋文字が混在するもので、非常に読みにくいように工夫されたものであった。
それでも、二つの文字ともに習熟しているものが読むにはそう難しいものではない。
サヴォナローラは宰相府の己の執務室の中で、螺旋帝国の目の粗い紙に書かれた文字を目で追っていった。
そばには弟のガラが控えている。
読み終えると、サヴォナローラはしばらく口をきかなかった。
その青すぎるほどに青い目は鏡のように光って、その裏にある脳内での思考が外へ漏れるのを遮断しているようだ。
「ガラ」
しばらくして彼は弟の方を見た。
執務室の机の前に座った彼から見ると、脇に立つ弟の巨躯をはるかに見上げるような形となる。
「螺旋帝国で易姓が起こった」
ガラは黙っている。
「易姓とは王朝がわかるということだ。我々西側の国々では螺旋文字の国であることから、古代の国名そのままに、『螺旋帝国』とひとくくりに呼んできたが、彼の国の内部や近郊諸国では王朝の名で呼ばれている国なのだ」
サヴォナローラは息をついた。
「前の王朝は『冬』といい、王朝の皇帝の姓は『玄』であった。もう三百年ほど前から続いていたので、そろそろ終わるのではないかと思っていたのだが、この度、易姓が起こり、国の名は『青』、皇帝は『馮 革偉』に変わったそうだ」
「王朝は三百年で変わるものなのか」
ガラは国の名や新皇帝の名前よりもそちらが気になったらしい。
サヴォナローラはそんな弟ににやりと笑いかけた。
「お前は本当に怖い子だね。そちらが気にかかるとは」
サヴォナローラは本当に嬉しそうに見えた。
「三百年と決まったものではないが、面白いことに彼の国の王朝はだいたい三百年前後で交替してきているのだよ。この数字はね、実はこの大陸の西側の国々にもなんとなく当てはまっているんだ」
ガラは黙って聞いている。
「これは大きな声では言えないことだが、このハウヤ帝国でもサウル皇帝陛下は十八代目の皇帝であらせられる。建国からも三百年を越えるか、と言ったところだ」
「そろそろ滅びるか」
ガラは恐ろしいことをすっぱりと言ってのけた。
サヴォナローラは弟のその質問には答えなかった。
その代わりにこう言った。
「ガラ。これからこの書簡を写すから、大公殿下のところへ持って行ってくれないか。お渡しするのは明日の夜まででいいよ。明日は朝から皇女殿下のご訪問でお忙しいだろうからね。それから、これは口頭でお伝えしてくれ」
サヴォナローラは弟の顔を見上げながら、ゆっくりとした声で言った。
「最近、巷を騒がせている連続殺人事件について、サヴォナローラは危惧しております、とね」
うなずくガラをそこへ待たせて、サヴォナローラは書簡を写し始めた。
これも、考えてみればおかしなことであった。
帝国の首都の防衛を任務とする大公は、外交には関係がない。
その大公にいち早く、螺旋帝国の情勢を知らせようと言うのである。
ペンを動かすサヴォナローラの顔は微笑んでいた。
この時代が変わるのが、面白くてたまらない、とでも言うように。
オドザヤ皇女をシーヴに任せて、ヴァイロンに抱えられたカイエンとイリヤが連続殺人事件の現場へ急行するべく、大公宮の馬車だまりまでやってきた時、そこには意外な人物が待ち構えていた。
ガラだ。
この大公宮の奥で生息する謎の生き物、としか言いようのない、無役の彼が、カイエン達を先回りするように待っていたのだ。
「おはよう」
誰にともなくそう挨拶したガラの不遜な言葉遣いを、とやかく注意する者はここにはいない。
「どうした?」
カイエンが聞くと、ガラはサヴォナローラからのあの書簡の写しが入っている封筒をぬっと突き出した。
「兄から持っていけと言われた」
みれば、封筒にはサヴォナローラの封蝋がある。
カイエンが受け取ると、ガラは続けた。
「伝言もある」
「言え」
封蝋をそっと剥がしながらカイエンが言うと、ガラは昨日兄の言った言葉をそのまま復唱した。
「最近、巷を騒がせている連続殺人事件について、サヴォナローラは危惧しております、だそうだ」
「ええ!?」
カイエンだけでなく、イリヤとヴァイロンも驚きの声を出した。大きな声ではないが、一瞬、動きが止まる。
イリヤの顔からとぼけた雰囲気がさっと消え失せ、厳しいものに変わる。
カイエンもまた、書簡を手探りで広げながらも、はっとするものがあった。
「宰相さんが興味を持っているとは、この事件、政治的な何かがありますかねえ」
イリヤは時間を無駄にしたくないのだろう、治安維持部隊の馬車に乗り込みながらカイエン達にだけ聞こえるぐらいの小声で言った。
その通りだ。
サヴォナローラは何か知っているが、確信はないのであろう。だから、この謎かけをガラに伝えさせたのだ。
カイエンもまた、ヴァイロンに助けられて、その後に続く。
最後にヴァイロンが乗り込むと、御者の横に、ガラまでもが乗り込んだ。
「お前も行くのか」
カイエンが窓から聞くと、ガラは動き始めた馬車の音にかき消されないように、やや大きい声で答えた。
「俺は鼻が効くから」
お前は犬か。
カイエンはそう思ったが、そういえばこいつは狼みたいな感じがするな、とも思った。
金色の獅子のような印象のヴァイロンとは同じく獣人の血を引くとはいえ感じが違う。
動き始めた馬車の中で、カイエンはサヴォナローラの書簡を広げた。
見るなり、カイエンの顔つきが変わった。
宰相からの手紙ではない。
サヴォナローラの綺麗な字で写されているのは、螺旋文字とアンティグア文字の混ざった文章だ。
最初の宛名と、最後の署名も写されているので、何の書簡の写しであるかすぐにカイエンには読み取れた。
外交文書の写しである。
イリヤとヴァイロンは黙ってカイエンの様子を見守っている。
「これは、このハウヤ帝国から派遣されている螺旋帝国駐在員からの書簡の写しだ」
読みながらカイエンがそう言うと、イリヤとヴァイロンは顔を見合わせた。
「……あのう、そんな重要文書の写しがあのガラ君経由で殿下のところに回ってきていいもんなんですか?」
カイエンの向かい側の席にかけたイリヤが聞くと、カイエンは一瞬だけ書簡から顔を上げた。灰色の目でギロリと睨む。
「良いわけねえだろ」
あ、地が出てます。殿下、イラついてますね。
イリヤはカイエンが読み終わるまで待つことにした。
「ふー」
読み終わると、カイエンは書簡を制服の前を開けて、内側のポケットに入れ、厳重にボタンまでかけた。
「螺旋帝国の新しい王朝の皇帝は、文人出身だそうだ。今回の易姓革命は軍事的に行われたのではないらしい」
「易姓革命って何ですか」
ヴァイロンの質問はもっともなことだったので、カイエンは簡単に説明した。
「彼の国では、皇帝は天命を受けて統治すると考えられている。まあ、これはこちらでも同じだろう。皇帝の徳が衰えると、天命も革まり、他の姓を持つ徳のあるものが新しく王朝を立てて、皇帝となるという考え方だ。今までの例だと、大抵は軍事的に強大となった周辺諸国が古い王朝を倒したり、軍事を掌握した将軍が謀反を起こして新しい皇帝になったのがほとんどだ。これも、こちら、大陸の西側と共通するな。だが、今度の新しい皇帝は周辺諸国の王でもなく、螺旋帝国の将軍でもないそうだ」
「詳細は書かれていないが、新皇帝、ヒョウ・カクイという人物は人民に推されて皇帝となったようだ」
「人民に推されて?」
カイエンはうなずいた。
「王でもなく、将軍でもない、一介の文人が、民に支持されて皇帝になったのだ」
前代未聞の事態であろう。
イリヤもヴァイロンも元帝国軍人であるから、このハウヤ帝国の歴史については学んでいる。士官学校を出ているヴァイロンは周辺諸国の歴史や歴史上の戦についても学んでいる。知りうる限り、権力を持たない一個人が王や皇帝に祭り上げられたという事実はない。
カイエンは、サヴォナローラがこの書簡をわざわざ彼女に伝えてきたことを考えた。
そして、サヴォナローラが「帝都防衛部隊」創設を皇帝に具申したらしきことも。
(螺旋帝国の新皇帝、ヒョウ・カクイという人物は人民に推されて皇帝となった)
人民はどこに住んでいる。
帝都に。国土の中に。
一般の市民、人民が一人の王でも将軍でもない人間を推して皇帝にする。
それを実現するまでにはどんな道のりが?
まだ若いカイエンにはそれ以上はわからなかった。
だが、これだけはわかる。
サヴォナローラにはわかっているのではないか。
だから、彼は。
「殿下。現場に到着致しました」
御者をしている治安維持部隊の隊員の声に、カイエンは我に返った。
馬車を降りると、そこにあの『メモリア』カマラと、この地区の署長が立っていた。
現場は、帝都ハーマポスタールの中の下町も下町。薄汚れた道には一応、石畳が敷かれてはいるが、それも名前のある本通りだけで、脇の道へ入ればただの泥道である。縄の引かれた殺人現場の横丁の入り口で、馬車は停まっていた。これ以上は馬車が入らないからだ。
「ご苦労」
縄の外は多くの野次馬でまだ、取り囲まれている。
署長に導かれてカイエン達が入っていくと、行き止まりの横丁のどん詰まりに、毛布が掛けられた遺体があった。
だが、よく見ると、毛布のかけ方がおかしい。
そこには二枚の毛布がかけられており、広範囲が覆われた状態だった。
カイエン達がそこまで歩いていくと、地区担当の署員が憂鬱そうな顔を上げ、ゆっくりと首を振った。
見るべきではない、と言いたいのだろう。
見るまでもなく、その場には血の匂いが色濃かった。
カイエンは身振りで、署員に合図した。
署員は仕方なさそうに、目をそらしながら毛布を持ち上げた。もちろん、野次馬側からは見えないように気を遣っている。
カイエンとイリヤ、ヴァイロンは、その場に凍りついた。
戦場を駆け回ってきたヴァイロンも、治安維持部隊暦の長いイリヤも初めて見る種類の悲惨な遺体だった。
そこには内臓の全てが摘出され、綺麗に並べられていた。
まるで、人体標本だ。
この事件はやはり尋常なものではなかった。
そこまで見たとき、カイエンの後ろで、カマラが身動きした。
「あの、あの……」
何か、言いたそうにもじもじしている。
カマラは一度見た場面を忘れない。そして、それを後で克明にスケッチすることができる。だが、その特殊能力と引き換えに文字を覚えることや、理路整然と話すことなどの能力に欠ける。
「どうした?」
イリヤがそっとカマラを脇に連れて行って、話を聞く。
イリヤは人から何か聞き出すのがうまい。
しばらく、ボソボソ話すカマラの言葉を聞いていたが、やがて、カイエンの方へ向き直った。
「どうも、朝一番にここへ来たときにはあったものが、今は消えているようです」
「こ、これ……」
カマラは手に持っていたスケッチ用具の中から、一枚のスケッチを取り出した。スケッチと言っても、それは細部まで克明に再現された凄まじいものだ。
見れば、カマラのスケッチ帳にはもう十枚近いスケッチがあった。カマラの描くスピードが目に見えぬほどに早い筆致なのは、カイエンも知っている。
「これ、朝一番に来たとき」
カマラが見せる絵には、現状と違う部分があった。
どん詰まりの日干しレンガの塀だ。
そこに、文字らしきものが描かれている。
(賎民は意味もなく責め立てられるべきではない)
そう、書かれた文字。
それは、螺旋文字だった。
カマラはもちろん、螺旋文字は読めないだろう。普通のアンティグア文字の読み書きにも不自由していると聞いている。
その彼がこの文字を捏造できるはずがない。
と、なれば、この文字は朝一番にはこの壁にあったのだ。
だが、今は。
もう壁には文字はなかった。
イリヤがすぐに動いた。彼は螺旋文字は読めないが、それが螺旋文字であることは認識できる。
「おい、署長! これはどういうことだ!?」
署長は、大公軍団長の剣幕に慌てふためき、その場で顔を青くしたり赤くしたりしている。
イリヤはそんな署長の襟首を掴んで引っ張り上げた。長身の彼と違って中肉中背の署長は足が宙に浮きそうだ。
「え、いや、あの、それは」
イリヤの鉄色の目が底なしの沼のように見つめている。
「き、消えてしまったのです。そこの塀は日干しレンガですので、一時間もしないうちに……」
どさ。
署長の体がその場に投げ出された。
イリヤは日干しレンガの塀の前まで、遺体をまたいで歩いていく。
レンガの色は赤茶色。
その表面に、わずかに跡が見えた。
血の跡だ。
日干しレンガに書かれた文字の血が乾いたために、一見したところでは見えなくなっているのだ。
「殿下」
イリヤの声に、カイエンが歩こうとすると、後ろからヴァイロンが腕をとって支えてくれた。
カイエンは遺体の周りを巡って塀に近寄った。
文字の書かれた高さは、カイエンの身長からすると、かなり上の方だ。
なるほど。
犯人は、かなり背の高い男だ。一人とは限らないが。
そして、螺旋文字の教養のある男だ。この文字は誰かの書いたものを写したようには見えない。カイエンの見るところ、文字の書き順もしっかりしている。
「イリヤ、この文字はちゃんとしている。書き順も正しい」
カイエンがそう言うと、イリヤはうなずいた。
「そうでしょうね。なるほど、宰相様は何かご存知のようですな」
カイエン達が話している間、ガラは遺体の周りをさまよっていた。
それこそ、犬のように。
カイエンが気がついて、
「何か、臭うか?」
と聞くと、ガラは顔を上げた。
「二種類の血の匂いがする」
そして、すごいことを言ってのけた。
「はあ?」
「ほとんどはこの遺体の血の匂いだが、他にもう一人の血が流れている」
「お前、マジで犬なの?」
イリヤが正直な感想を述べた。
ガラは動じない。
「信じる、信じないはあんた達の自由だ。俺は事実を言ってるだけだから」
カイエン達は顔を見合わせた。
その日はカイエンにとって、散々だった。
凄惨な殺人現場から戻ったのは、ぎりぎりでお昼前で、カイエンは食欲のないまま、オドザヤ皇女一行と昼餐をとった。
味なんかわからなかった。
シーヴから皇女の大公宮見学の報告を受けたが、それも右耳から左耳へ抜けた。
朝と同じように、人払いをした大公宮の大玄関で皇女達を見送れば、もう午後だ。
カイエンはマテオ・ソーサ教授に会うためにヴァイロンとともに出かけなければならなかった。
すでにしてへとへとの体に鞭打って、出かける。
再び馬車に乗り、帝国軍士官学校へと向かう。
士官学校は大公宮からはそう遠くはない。
広大な敷地には、教室のある教室棟から練習場、学生達の宿舎までが整然と並んでいる。
教授に指定された場所は、彼の研究室だ。
それは、紅葉の木立に囲まれた、瀟洒な校舎の中にあった。
学校の入り口からカイエン達を案内してきた、学校の小使の老人が、真っ黒に古びた扉の前で、カイエンに言った。
「こちらが、マテオ・ソーサ教授のお部屋でございます」
そう言って、彼はさっさと戻って行ってしまった。
帰りはご自由に、ということだろう。
カイエンは、左手の杖にぐっと力を入れ、右手で扉をノックした。
「お入りなさい」
陰々とした声が扉の中から聞こえた。
カイエンはヴァイロンの顔を見た。
「教授の声です」
ヴァイロンが囁いた。
言いながら、彼が前に立って扉を開ける。
そこは、書物に覆われていた。
書棚から溢れた本が床から窓枠までもを覆っている。
その中心にある真っ黒に古びた机と椅子。
その机の向こうに、彼は、いた。
一度見れば、忘れられない姿だ。
机の上に出ている腹から上の部分を見ただけで、彼が小柄なことがわかる。
肩幅は女のように狭く、机の上に投げ出された手は節が立ってはいるが、細くて小さい。
漆黒の肩にはかからないくらいの長さの髪を全てその秀でた額から後ろに撫でつけ、不健康な、カイエンにも似た土気色の顔はやせ細っている。
彫りの深い顔立ちの中、眉間には深い皺。落ちくぼんだ眼窩の奥にあるのは、陰鬱な灰色の瞳。
その灰色はカイエンのものよりも白っぽく、それだけ冷徹で冷たく見えた。
年齢は四十代だろう。だが、体が小柄なせいもあって、もっと若くも見えないことはない。
「御機嫌よう」
かすれた声はやや甲高い。
それが、帝国軍士官学校の「悪魔」、マテオ・ソーサ教授の肖像であった。