ザラ子爵家の一族
「……殺す」
その言葉は、ナシオにとっては行動に移る前に、「一応は知った仲だから」攻撃を受ける準備の時間をやった、というだけだった。
それは一切、セレステの言い分など聞かぬ、お前はカイエンへの失礼な言動だけで死に値する、という闇を歩く影使いにしても極端すぎる、それも個人判断の決定事項の伝達だった。
本来ならば、影使いが「主人の命令でもない」行為を独自の判断で決行するなど、余程のことでなければあってはならないことだ。
その「主人」であるはずのカイエンは、自分だけが追いついていない影使い同士の早回しの時間感覚の中で、自分の喉に突きつけられていたセレステの刃物がすっと離れたのだけは分かった。
ちらりと見えたセレステの完璧に化粧された顔が、やや引きつって見えたのは見間違いではあるまい。明らかに彼女はナシオがこの場に飛び込んでくるとも、そして、カイエンへの暴言一つでいきなり仕掛けてくるとも思っていなかったのだ。
彼女はカイエンに突きつけていた短剣以外にも、武器はドレスに隠し持っていたはずだ。だが、それを取り出すいとまさえないと判断したのだろう。
そして、言わばカイエンを「人質」にとった形だったはずのセレステが、「人質」に突きつけていた刃物を向けた先は。
それは勿論、もうとっくに彼女の間合いに飛び込んでいたナシオだった。
そのままの勢いで突進すれば、先ほどの「殺す」という言葉通りに、セレステは胸を刺されていたかもしれない。
だが、ナシオがまずしたのは、カイエンの安全の確保の方だった。
とん、と肩のあたりを押されたな、とカイエンが思った時には、彼女は座っていたソファの片一方へ、倒れるように押しやられていた。ナシオがセレステに襲いかかると同時に、カイエンをセレステの背後へ突き飛ばしたのだ。
「おい やめ……」
やめろ、とカイエンは言いたかったのだが、柔らかいソファの肘掛とは言え、背中を打ち付けたので残りの言葉が、咄嗟には喉から出てこなかった。代わりに出てきたのは「ごふっ」という咳がひとつ。
六月からずっと、週に一日ほどの休みでやってきていた。だからか、ここ数日、もう最近は出なくなっていた咳が少し出るようになってきて、薬を服用し始めたところだった。
その間に、もうナシオとセレステはがっきりと短剣をかち合わせながら、カイエンの座るソファから離れて行こうとしていた。
「生意気な!」
ザラ子爵家の東西南北と中央の五人組では、女ながらセレステが一番の手練れであり、上に立つ存在だったのだろう。
だが、今の彼女は貴族の侍女のようなドレス姿だ。その裾は長く、先ほどカイエンに一瞬で迫り来た時のように遠心力をつけて捌かねば、足にまとい付くばかりだ。
「……カイエン様! 何か?」
執事のアキノは部屋の扉の外に控えていたが、扉を開けて中の様子を見るなり、黒い執事の正装の上着の裾をひるがえし、まっすぐにカイエンの方へ、それもナシオとセレステのいる場所を避けて早足に歩いて来ようとする。
その後ろからは、シーヴの姿も見えた。彼はカイエンが大公宮の表へ出る時や、外出の時は必ず付き従う。だが、大公宮の奥にカイエンがいる時だけは他に見守る目もあるので、この日は席を外していたのだ。
シーヴのいつもは優しげな顔が、ソファの片側に押しやられた形のカイエンと、ナシオとセレステの争いを見るなり、厳しいものに変わった。彼はアキノが窓際を回ってカイエンの方へ行くのを見ると、自分はまっすぐに戦うナシオとセレステの方へ早足に向かう。走って行かなかったのは、自分の方へ彼らの注意を向けられるのを避けたのだろう。
シーヴがセレステの後ろへ回り込んで行ったのは、状況からして彼ら二人がここで争う理由は、だいたい二つだと読み取ったからだ。
一つは仲間割れ。だが、これは確率が低い。
となれば、残りはセレステがカイエンに危害を加えようとし、隠れて見張っていたナシオが飛び出してきた、という状況しかない。
その間にも、一合、二合、とナシオとセレステの短剣が空中で火花を上げている。
セレステは見事だった。
彼女はカイエンを諦めると同時に、最初の一撃は受けざるを得ないと覚悟したのだろう。そして、押し合いながらもまとわり付くドレスをなんとかせねば、身軽な服装のナシオの動きには対応出来ないことも。
「ちっ!」
舌打ちの音と一緒に、元からそのように作られていたらしい、セレステのドレスの長い裾が腰の部分で切り離され、そのまま生き物のように空を飛び、大きな布が広がったままナシオの顔面へ迫った。
スカートの下にはカイエンが制服の下に履いているような細身のズボンを履いていた。これで今や、彼女はナシオと五分の動きが出来るという訳だ。その上に、今、ナシオは投げつけられた大きな布で一時的とはいえ、前が見えない。
だが、最初に仕掛けたナシオにとっては、長年の付き合いもあってか、この見事なセレステの動きも予想の範囲内だったようだ。
無言のまま、彼はセレステの投げてよこしたドレスの大きな布地を、切り裂こうとも避けようともせず、正面から受けたまま、セレステに殺到したのだ。
勿論、ナシオは視界を奪われている。彼はドレスを「処理」する時間を惜しみ、自分の突進の速さに掛けたのだろう。ナシオがそんな手に出るほどに、セレステは「強い」のだ。
ドレスの布地から飛び出して来たようにしか見えないナシオの短剣の刃が、セレステの胸元の寸前にまで迫った時だった。
たぁん!
この大公宮では、最近、裏庭の練習場では聞き慣れたものになりつつあった音。
鉄砲の発射音が響き渡ったのは。
その時、心臓の前ぎりぎりに迫った短剣をよそに、ナシオの首筋を狙って短剣を繰り出していたセレステは、自分の投げたドレスの布地に、今度は自分が覆われようとしていた。
「やめろッ! 馬鹿らしい!」
ここまで事態が進むまでは、せいぜい十秒くらいの間だったが、カイエンは最初っから、これしかないだろうと、ソファの片側の腕木の方へ突き飛ばされたからずっと「その作業」に従事していた。それが、この短銃の発射音となって響き渡ったのだ。
最近の習慣で、もう弾は込めた状態で制服の下に隠していたから、後はこればかりは湿気ては使い物にならない火薬を入れ、火薬皿に火薬が載るように按配するだけだったのだが。
もうこの音には慣れているナシオはともかく、ザラ子爵家から来たばかりのセレステにとっては、この至近距離からの「発射音」は、その意思とは関係なく、鍛え抜かれ、訓練された体であっても動きを止めてしまうだけの力があった。
「……カイエン様、天井に穴が開きましたぞ」
冷静にそう言ったのは執事のアキノで、その時にはもう彼はカイエンを二匹の「猛獣」の戦いの舞から庇うように彼女の上に覆いかぶさっていた。漆喰の天井からぱらぱらと落ちてくる粉を、彼は鬱陶しそうに手で払う。
シーヴの方は、セレステの動きが止まった一瞬に、彼女の手から短剣を叩き落とし、自分のドレスの布地に視界を奪われた格好のセレステの両腕を掴んで、後ろへ捻じ上げてしまっていた。
なんと、その前にセレステもまた、ナシオの首筋に短剣をぴたりと押し当て、血のすじを彼の首元に付けていた。このままことが進行していたら、彼らは相打ちになっていたかもしれなかった。
廊下の方から、短銃の発射音を聞いた女中や侍従たちが騒ぐ声がし、人の気配が部屋の扉の向こうに集まって来る。これでは、アキノが出て行って、直接に心配する彼らを納めねばならない事態になってしまった。カイエンもそれは無論、分かっていた。
「……仕方がないだろう。さすがは影使いだ。動きが速すぎて全然、追えないのだからしょうがない。それより、私も随分と素早く撃てるようになったと思わないか?」
銃口から煙を吐く短銃を手に、褒めてくれとでも言わんばかりにアキノに話しかけるカイエン。その顔色はいつもの通りの病人みたいな土気色だが、表情の方は、手柄を立てた初陣の少年のように輝いていた。
この様子には、怒りに燃えていたセレステも、それに同じような怒りで応じたナシオも毒気を抜かれてしまったようだ。
セレステの胸元、もうドレスの絹地に短剣の先がほんの少し刺さっている状態から、ナシオは剣を引いた。首元を赤いチョーカーのように巡る血の痕を気にしたそぶりはない。
だが、セレステの尖った目つきはカイエンに突き刺さったままだ。
「ナシオ、いいんだ。私はセレステが言った言葉の意味をちゃんと知っているぞ。アバズレ……確かに世間一般の既婚女性の常識から言えば、私はアバズレと言われても一言の弁解もできないなあ。あはは、だって正式の夫とは不仲だし、他に噂の愛人が二人もいるんだしなあ。アバズレ、尻軽。読売りじゃさすがにそこまで書かないけど、言葉の意味に間違いはないや」
あはは、と。
カイエンが、さっきのセレステの暴言にも怒った様子もなく、あっけらかんとした顔つきと声でそう言い切ると、頭を抱えるナシオだけでなく、出会い頭に喧嘩を売った形のセレステまでもが鼻白んだ。
「セレステ、だったな。……その、こちらのカイエン様は最新のものまで出版された通俗小説をほとんど全部、読んでおられる。だから、下々の下品な言葉にも通じておられる。お言葉遣いも、色々と事情があって、今のような具合なのだ。……ナシオもいまさらであろう。これくらいのことで熱くなるでない」
アキノが鷹のように厳しい、深い眼窩の奥の青い目で、二人を睨めつけると、もう二人とも先ほどまでの勢いは失せたらしく、ナシオもセレステも、体の力を抜いた。シーヴはなおもセレステの両腕を後ろに回して捻じ上げたまま、離さない。
「……セレステさん、覚えていますか。俺、十年くらい前までしばらく、ザラ子爵家でお世話になっていたシーヴです。まさか、ザラ家の者が、こんなことをするなんて! 俺は悲しいですよ。いや、悔しい!」
シーヴはそう言ったが、その声は聞いたことがないほどに冷たい響きを持っていた。
シーヴがそんな言い方をするのは、カイエンもアキノもほとんど初めて見たので、二人ははっとした。そして、そう言えばシーヴもまた、ザラ子爵家からこの大公宮へ送り込まれて来たということを思い出した。
シーヴにそう言われてみると、セレステはぼんやりと思い出したらしい。
「ああ、あのヴィクトル様がかわいがって、色々教え込んでいたガキがいたね。あんた、見た目が目立つから覚えているよ。あれ以降、ヴィクトル様があそこまで仕込んだガキもいなかったしね。……まあ、もともと、ザラ子爵家は『そういう家柄』だけどさ。……孤児の、昔の被差別民族出身のガキが、立派になったもんじゃないか」
そういう家柄?
カイエンはそこに引っ掛かりを感じたが、とりあえずは今起きた「事件」の方を片付けることにした。
カイエンは、まず、さっき威嚇射撃したばかりの短銃を、テーブルの上に置いた。次弾を装填していない今、これは短剣よりも安全な代物である。いや、銃把でぶん殴れば、鈍器としては使えるかもしれない。
それから、彼女はセレステとナシオへ向けて、ここはこの大公宮の主人らしく、「なんてことをしでかすのだ!」という目で睨みつけるのは忘れなかった。
カイエンが二人のどちらかに狙いをつけて短銃をぶっ放していたら。至近距離のことである、どちらかは死んでいたかもしれない。影使い二人もはっとそれに気が付いたらしく、急にしおしおと大人しくなった。
「セレステ、は、そこに座れ。シーヴ、もう腕を放してやれ。え? ああ、わかった。それならセレステの真後ろに構えていろ。……ナシオは……一体どこから現れたんだ? まあいいや、セレステの隣が嫌なら、こっちへ来て座れ。え? こっちも嫌なのか。じゃあ、アキノと一緒に私の後ろに立っていろ」
カイエンが、夏でも黒い、それでも涼しい麻と絹の織物で作られた、大公軍団の制服の襟元を緩めながらそう言うと、セレステはすとん、と気が抜けたようにカイエンの座ったソファのテーブルを挟んだ向こう側に掛けた。カイエンが表情を読んだように、シーヴは彼にも似合わず、殺気を漂わせた様子でセレステから目を離そうとはしない。
ぐったりと座り込んだセレステの顔には、「もうどうとでもしろ」という気持ちがはっきりと現れていた。それはそうだろう、このハウヤ帝国の臣下の第一である大公の護衛を仰せつかってやって来て、すぐに新しい主人となるはずのカイエンに暴言を吐いた上に、襲いかかったのだ。ここでこのまま殺されても文句は言えなかった。
ナシオの方は、なんだかカイエンの目を避けるように、そそくさとアキノの方へ向かう。
「セレステはその、ザラ大将軍の命令だからここへ来ただけだ、自分は納得できていない、と言うわけだな? だけど、納得していないことはザラ大将軍に伝えられず、言われたままここへ来た、と言うわけか」
カイエンももうその辺りまでは話が見えていた。彼女ももう二十二で、夫の他に愛人二人がいる「アバズレ大公」だ。女の心の機微も、少しは想像できるようになってはいた。
「お茶をお持ち致します。……おぬしたちの為ではないぞ」
アキノはカイエンの護衛として、ザラ子爵家から派遣され、雇うことにしたセレステが挨拶しに来ただけなので、茶など出す気は無かった。だが、こんなことになってしまっては仕方がない。それでもナシオとセレステを睨むようにして言い足したのは、「大公の執事としての私の我慢にも限界はあるのだぞ」と、言外に示したのだろう。
アキノが出て行くと、部屋の外の廊下の人の気配がすっと引いて行った。
そしてまた、アキノが茶の支度の出来た盆を持って現れるまで、セレステは影使いにも似合わず、きれいに化粧した額にしわを寄せて、不満そうな様子を隠そうともせずに黙っていた。彼女としては、茶などどうでもよく、もうこうなったらカイエンにさっさと裁きを下して欲しかったのだろう。
カイエンの後ろに棒立ちに立っているナシオの方も、言い訳も出来ずに黙りこくっている。
カイエンは別に怒っているわけでもなかったが、セレステにはきちんとザラ子爵家とは折り目を付けてから、この大公宮に、それも自分の護衛について欲しかった。出会い頭に喧嘩を売ってくるようでは先が思いやられる。
ナシオがそんなセレステに対して、「抑える」段階をすっ飛ばして、「殺す」と言い切ったのも意外だった。普段の彼ならば、こんな極端な行動に出ることはない。
今日のナシオは、感情に押し流されるがまま、過剰とも言える反応を示したとしか思えなかった。この大公宮の影使いでありながら、自分からことを表沙汰にし、大きくしたようなものなのだ。うかつといえばうかつ。失態といえば失態に違いない。
まあ、それには、なんとなくカイエンも心に引っかかるもの、いや、かすかな違和感のようなものがあった。
それは確かカイエンがヴァイロンの誕生日兼、シモンとロシーオの結婚祝いの席で、彼とシモンの区別がつく、目の色が違うのだ、と皆に話した辺りから始まった違和感だ。今日のことはそれに関係があるのではないか、というところまではなんとなくカイエンにも想像がついていた。
だが、今はそれよりもセレステがザラ大将軍との間で、何か納得できないものを抱いたままでここへ来ている方が大きな問題だった。
アキノが銀盆から、まずはカイエンの前に夏らしい、藍一色の大胆な筆致で花房の描かれた上に、金色の縁取りのカップを置き、そこへかなり香りの強い、おそらくは螺旋帝国渡りの茶を注ぎいれた。カイエンには、香りだけでもうすぐにこの茶の正体がわかった。
貴族は皆、茶にはうるさいが、この烟茶と呼ばれるものはその癖の強い香りゆえに苦手とする者も多い。
螺旋帝国渡りのなんとかいう、臭い腹下し用の薬と匂いが似ている、と言う者さえいるのだ。庶民ならなおさらだろう。そんな茶葉を選んで来たのは、アキノの、ナシオやセレステへの「目を覚ませ!」というメッセージなのだ。
セレステの前には、白地に藍色一色の荒い筆致でひと刷毛塗って染められただけの、それだけに斬新な意匠のカップが置かれた。それにも同じ茶が入れられ、最後にアキノは同じ藍色のカップ二つにも同じ茶を注ぎ込んだ。自分もここから出ては行かないぞ、という彼の意志が、そこにははっきりと表されていた。
アキノとナシオ、それにセレステの後ろで睨みつけるようにして立っているシーヴは立ったままだ。
ナシオは今まで、ろくに話をしたことさえもない、この大公宮すべてを取り仕切る、老練の執事の厳しい目で睨まれながら皿にのったカップを無理矢理に持たされると、さっきカイエンに睨まれた時以上に恐縮してそれを押し頂いた。だが、烟茶は高価で、使用人食堂などで出て来ることはないから、その慣れないきつい香りに、彼はちょっとむせたような音を立てた。
セレステの方も、それは同じようだったが、彼女は潔くぐいっと、これから彼女の主人となるはずのカイエンよりも先に茶を口にすると、堰が切れたように話し出した。
「……暇を出す、もう今後は死ぬまで大公宮で役目を果たせ、もう決して自分のそばには戻って来るなと! あの方は、私に、そう、そうおっしゃったのです!」
その声は、仮にも影使いとは思えぬ、ただ一人の女としての叫びに間違いなかった。完全に開き直ったのだろう。それにしても、影使いにしてはこのセレステという女、感情的過ぎないか。
アキノとナシオは、そっと顔を見合わせていたが、カイエンの方は納得する思いだった。
「えっ、それは、ザラ大将軍が本当にそう言ったのか!?」
思わず、あまりにもまっすぐに質問してしまってから、カイエンは頭の中でエミリオ・ザラの厳しいながらも、日頃は気さくで戯けたところもある顔に向けて短銃の引き金を引いてやりたい気持ちになった。
確かに、今、このハウヤ帝国はかなり危ない均衡の上で綱渡りをしているような状況だ。だが、長年の情婦との別れともなれば、もう少し気の利いた言いようがあるのではないか。
話に聞く限りでは、ザラ大将軍の女関係はこのセレステ以外は、近衛の付き合いで訪れた色街での玄人との関係くらいしか出てこないらしいと言うのに。
「いや、それはまた……はっきりとぶった切って……いや、その、情のないと言うか、その、あの、思い切りがいいと言うか……。多分、それはそのう、ザラ大将軍の方からすれば……あの、大いに未練が……あったの、かな? 多分、その反動で言い方がぶっきら棒になった、の、じゃない、か?」
カイエンはまあ、これが正答だろうと思いつつも、男女の話だけに言いにくくて困った。
ああ。こんな時こそ、イリヤみたいなのが同席していたらよかったのに。彼なら、「あらー、大変ねぇ」と口先だけで話を受け、そのまま自分の得意な方向へ話を強引に引っ張っていって、うやむやにしてくれるだろう。
ヴァイロンでもいい。彼のクソ真面目さなら、セレステに大いに同情してくれるだろう。それも、彼女が「もういいです。勘弁してください」と言うまで。
だが、今ここにいるのは、謹厳実直、これくらいのことでは職務から一歩も外には出ない執事のアキノと、最近、カイエンが絡むと言動がおかしくなるナシオ。それに同じザラ子爵家からやって来て、セレステのカイエンへの「蛮行」に、素直に怒り心頭らしいシーヴだけだ。
カイエンはむう、と荒々しく鼻息を吐いた。臣下の第一である大公、それも淑女としてはあり得ない仕草だが、ここでそれを気にする者はいない。
はっきり言えることは、エミリオ・ザラはもうそれくらい、おのれのこの世の未練を捨て去り、自分一人だけになって心を研ぎ澄まそうとするまでに、「腹をくくっている」と言うことだ。
もう、自分の墓までの道筋を立て終わり、この、自分よりもかなり若い情婦か愛人かに「お前はこの時代を乗り越え、生き残って、次を当たれ」と言いたかったのだろう。
カイエンにはセレステの言葉で、そこまで想像出来た。
いや、もちろんまだ二十二の彼女にはもう五十を超えた男の、長く連れ添ったと言うか、そばに置いていた女に対する気持ちなんぞ、想像でしか理解出来なかった。それでも当事者のセレステ以上に理解できたのは、「所詮は他人事」だからかもしれない。
だが、ザラ大将軍閣下は、この数年前からアルウィンや螺旋帝国の新皇帝が始めた、新しい時代の流れの最後までを「生き抜ける」または、「生き抜こう」とは思っていないのだ、ということだけははっきり分かった。
それは五十を過ぎた自分の年齢を考えたからかもしれないし、そんな時代は「見たくもない」と思っているのかもしれなかった。
さて、これをどうこの女に伝えるか。いや、この女だって頭ではわかっているに相違ないのだ。それでも、素直に「ああ、そうですか。では永遠にさようなら」とはいかないのが、情という厄介な代物に絡みとられた、素直な人間の姿というものだ。
カイエンは、影使いにしては情に深いのか、エミリオ・ザラにとことん惚れ込んでいるらしいこの女、セレステにこれをどう言ったものか、と首をひねった。
だが。
カイエンはその説明しにくいことを説明せずとも済んだ。別の声が彼女よりも上手く、的確に簡潔に言葉にしてくれたからだ。
「……大将軍閣下には、そこまでお考えでしたか。なるほど、確かに、もはや老い先短かき我らの年齢ともなれば、次の時代のために進んで時代の人柱になるような覚悟が必要ですな。それも大将軍閣下ともなれば、国を背負うお立場。ご立派な心がけです。閣下のお母上と私は同郷になりますが、その縁で長らく親しくお言葉をかけていただいております。ですから、閣下のお気持ちは推し量れます。……かわいそうですが、それには、セレステ、若いお前は連れて行かれない、と言うことですよ。お前だとて、大将軍閣下のご真意はわかっているのでしょう? まあ、その、別れに際してお選びになったお言葉の是非は別として」
はっとしてカイエンが振り返るまでもなく、主人の前だと言うのに、常にもなく爺むさい仕草で、ずずーっとわざと下品にやや音を立てて、癖のある茶を飲み下したアキノは、カイエンでもちょっと見たこともないような、静かで、そしてどこか物悲しい、そして、達観した顔つきだった。
確かに、このアキノとエミリオ・ザラの母親とは、同じ故郷の出身だ。身分は違うが、付き合いは長いのだろう。
「え?」
セレステとても、頭ではわかっていたことだ。
だが、まさか、と思う部分が反発となって今日、この大公宮の主人カイエンに向かって爆発したのだった。それは、カイエンが年下のひ弱そうな女で、なのにいかにも「皇帝一族」という、この国の支配者の顔を持っていたからだ。この弱そうなお姫様なら、ちょっと怖がらせれば、自分を身近に使うことを恐れ、ザラ子爵家に「追い返して」くれるかもしれない、とふと思ったにすぎない。
カイエンの噂は多方から聞いてはいたが、それでもセレステには貴族のやっと二十歳をいくつかすぎたくらいのお姫様など、と同じ女だけに軽く見る気持ちがあった。
「まさか、近衛の大将軍であられる旦那様が……?」
カイエンも心中ではっとしていた。
帝国の四方を守る、四つのアルマの将軍ならともかく、このハウヤ帝国の皇帝直属部隊の中でも、ことにこの帝都、そして皇宮の守りを担う、近衛の将軍が死を覚悟している、などということは、尋常なことではないのだ。
それは、この帝都ハーマポスタールが戦場となる、ということと同義だから。
オドザヤの婚礼のパレードでの事件などとは違うのだ。あれは、このハーマポスタールに、皇帝に弓を引く「軍勢」が押し寄せたわけではない。他国の軍隊が攻め入ったわけでも、内乱が起きたわけでもないのだ。
これは、そのまま反転すれば、近衛の将軍であるエミリオ・ザラが直接、戦場に出る、という場面は他国が帝都まで侵攻して来るか、内乱でも起きなければ、まずあり得ない、という意味となる。
今まで、大将軍エミリオ・ザラの「個人的な警護」にあたっていたセレステには、非常事態宣言の異常性は理解出来ても、前の大公だったアルウィンが大罪人として皇統譜から名前を消され、反逆者とされたという「事実」の先にある未来は見えてなどいないだろう。これはほとんどの一般市民とて同じだ。
これは、そのアルウィンの桔梗星団派が螺旋帝国と組して、このパナメリゴ大陸を戦禍の渦に巻き込もうとしている、という、もう公表された事実も、カイエン達この国の中枢にいる者たちとその側近以外には、まるで現実性を欠いたものに見えているということだ。
「……私たちも、近衛がこの帝都と皇帝陛下を守るために『出陣』するような事態は決して呼び寄せてはいけないと思っている。だが、敵は狡猾で、背後にある螺旋帝国は大国だ。そんなことはないと思うが、皇配殿下の祖国ザイオンが螺旋帝国に付くか、武力で敗北して征服されるようなことにでもなれば、そういうこともあり得るだろう」
そう話すカイエンの頭にある帝国の地図は、もう、今のハウヤ帝国の版図ではなかった。
三方を敵に囲まれ、大公のカイエンを入れて四人の公爵領に四つのアルマが取り込まれ、四つに分断して自領を守る、連合国家のような形となった後の地図だ。
そうなった時、皇帝のオドザヤを連合国家の盟主として仰ぐのか、それとももはやハウヤ帝国は名前さえも失っているのか。そこまでは、カイエンやサヴォナローラの招集した、「最高諮問委員会」の会合でも話し合われてはいない。まあ、今、話したとて結論など出ないだろう。
話し合われているのは、この頃ではもっぱら、「桔梗星団派の工作で貴族階級や帝都の市民が操られ、彼らが決起するような事態を起こさないこと。その延長線上にある内乱状態に陥らされるのを回避する」ための術についてだった。
「そのような事態となる頃には、皇帝陛下の御即位に反対した貴族どもが意志を共にする者共を取り込み、ベアトリアなどの外国勢力の後押しを受け、一大兵力をもって、このハーマポスタールに迫っているかもしれぬ。まだ、憶測にしか過ぎないが、そうなればまずはフィエロアルマが先陣を切るだろう。そこまで事態が進行した時、私は、ここのアキノが言うとおり、ザラ大将軍は近衛としてだけでなく、このハウヤ帝国の元帥大将軍として、あえて軍の先頭に立たれるのでは、と思う」
カイエンは実はそこにいる、彼女以外の人間にはまだ知らせる段階にない、今の今、「最高諮問委員会」で話し合われている内容をあえて口にしてまで、たかが「影使い」のセレステに話した。その「異様さ」はセレステにしっかりと伝わったようだ。彼女だけでなく、シーヴやナシオもひゅっと息を吸い込んだきり、恐怖に取り憑かれたように動けない。
「まさか……まさか……そんなことが」
カイエンは冷酷なまでにきっぱりと、セレステの言葉を否定した。
「あり得ないというのか? いいや、もう、今からでも対策を誤れば、大いにあり得る事態なのだぞ」
この女には、理解してもらわねばならない。理解した上で働いてもらわねばならない。それが、エミリオ・ザラの覚悟なのだから。
「たとえそうならなくとも、こういう脚本も考えられる。……一昨年、先帝陛下の崩御の後から、この帝都に起きた数々の事件を覚えているだろう。あれらは、六月の皇帝陛下の婚礼のパレードで起きた事件と繋がっている。だから、先帝陛下は我が大公軍団に帝都防衛部隊を創立させられた。我らも力の限りをもってこの帝都の安寧を維持するよう務める。だが、外から襲ってくる反乱軍に対して、帝都内部から呼応する者が、この帝都の『鍵』を開くようなことになれば、我が大公軍団は市民と市内の安全を第一に動く。獅子身中の虫はその時までは全容を見せようとはするまい。だが、その時が来れば、我らの手で一網打尽にできる。だから、近衛が帝都の郊外で陣を張り、外部勢力の矢面に立つことになるだろう。……その時、フィエロアルマが他の外敵と向かい合っていたとすれば、だが」
そういう可能性だっていくつも考えられた。反乱軍が一方向からくるとは限らない。
東のクリストラ公爵とドラゴアルマは恐らく、東から来る勢力に対峙していて、反乱軍の後ろを叩けないかもしれない。北のフランコ公爵はザイオンと向かい合っている可能性が高い。
南ではバンデラス公爵と海軍が、ラ・ウニオン共和国と戦っているか、それとも彼らと連合して、シイナドラドを越えて入り込んでくる螺旋帝国の走狗と押し合いをしているはずだ。
その頃には、星教皇であるカイエン、「スセソール二世」の命のもと、エルネストはシイナドラドの東にある、螺旋帝国の蹂躙するところとなってるだろう小国群を救済するため、各国のアストロナータ教団の武装神官、敬虔なアストロナータ信徒の兵士たちを率いて出征しているだろう。
シイナドラドとしては、皇王宮奥にある、「石碑の森」の秘密を馮 革偉の新生螺旋帝国に渡すわけにはいかず、それには螺旋帝国の力を削がねばならなかった。そのためには間にある東の小国たちを併合させるわけにはいかないのだ。
つまりは。
そうなった頃には、このパナメリゴ大陸の中で、一応は「平穏」なのは螺旋帝国の版図ただ一つ、ということになるのではないか。
「セレステ、気が付いたか? 今なら、今ならば我々はこんな悲惨な未来を呼び込まずとも済む手立てがあるのだが、それは非常に難しいことなのだ」
カイエンは優しげと言ってもいい声音で、自分よりもかなり年上のはずのセレステの耳に言葉を吹き込んだ。だが、セレステは答えられない。
「……それは、このハウヤ帝国が螺旋帝国よりも先に兵を出し、他国を平らげて進撃し、彼の国へ迫り寄る道を選んだ場合だよ。つまり、このハウヤ帝国が自ら、この数百年行って来なかった『大規模な侵略』を東西南北の隣国へ向けて『同時に』おっぱじめれば、ということだ。特に必要もないのに、な」
今のハウヤ帝国の広大な版図が築かれるまでには、サルヴァドール大帝の建国の時代以降、二百余年の間に、周辺の多くの小国が飲み込まれている。歴史的に見れば、ハウヤ帝国は侵略で国土を広げてきた国なのだ。
今なら、四つのアルマは健在。兵力だけならば、ザイオンも含め、ハウヤ帝国の周囲に勝ち目のある国などない。だが、この場合、周囲の国すべてに同時に侵攻する必要がある。そうしなければ、空いている方角の国々は恐れて連合し、向こうから侵攻してくるだろうから。
それに。
この案は実際には、今のハウヤ帝国には実現しようがなかった。
戦争をふっかけるには口実がいる。その口実も、今のこの文化爛熟した時代、皆が納得するような確実なのを「でっち上げる」には、まずは国内にそういう機運を起こさなければならない。それがなかなかに難しいのだった。
国内経済が貧しく、生産力に乏しいため、周辺国へ打って出ることによって国が豊かになる、というのが一番良いのだが、それは今のハウヤ帝国にはまったく当てはまらない。他国への侵略によって、他国の為政者に虐げられて苦しむ国民を救う、という、あざといが過去に例のある方法も、今ではわざとらしいだけだ。ちょうどよく乗っ取れそうな、傾いた王家をいただく国、有力者が争い荒れている国も周辺にはない。
つまりは、以前、ザラ大将軍自らが言っていたことだが、「どの国が戦乱の時代の火蓋を切る」か、なのだ。
他の国が仕掛けてくれさえすれば、後の名目は「国防」の一言で済む。それはこのパナメリゴ大陸の国々、
皆がわかっていることなのだ。
その簡単でいて難しい始めの一歩を他の国にさせたいがため、あの、実際には野心むき出しの螺旋帝国でさえも、シイナドラドへの介入には、ザイオン系の民族に肩入れする形を取ったのだ。
「戦乱の時代をこのハウヤ帝国がおっぱじめるなら、それが将来的には最大の防御となる。それは分かっているのだが、他国同様、我々もこの手に出るには『文化的』になりすぎた。貴族たちを見ても、今、外征を始めるぞ、と言ってもついてくる領主はほとんどいまい。ベアトリアとの国境紛争、南でのラ・ウニオン共和国とバンデラス公爵家との「小競り合い」、先年のスキュラとの攻防以外では、『本当の戦争』を体験した者など、この国にはいないのだ。だから、四つのアルマと三人の公爵は戦えるが、他の領主たち、貴族たちもその兵士たちも、そのほとんどが本気で戦鎧をまとったことも、大剣や槍で直に人を殺したこともないだろう」
(まあ、だから、速成の兵隊でも人が殺せる、鉄砲だの短銃だのが、シイナドラドから放出されて出てきたわけなのだろうけどな)
ここまで言ってしまってから、カイエンはもう、蒼白な顔で黙ってしまったセレステに、ここまで話す必要はなかった、と気が付いたので、黙った。
「……ザラ大将軍の元を離れるのは、不本意だったようだな? などと、出会い頭に軽い言い方をしたのは確かにまずかった。お前を馬鹿にした言葉に聞こえただろう。それは謝る。その上でセレステ、もう、ザラ大将軍のお気持ちも、御覚悟も、このハウヤ帝国の状況も飲み込めただろう? ザラ大将軍も簡単には死ぬおつもりなどないだろう。それは私も同じだ。だが、私は自分で自分を守ることも出来ぬ弱い人間なのだ。だが、それでも大公である限り、そう簡単に殺されるわけにはいかん」
カイエンはもう冷め始めた、烟茶のカップに口をつけた。なるほど、アキノの気遣いは毎度のことながら、素晴らしいと思った。このキツい香りは皆の頭を香りの衝撃でぶん殴るような効果があっただろう。
「……アキノはこの茶が好きだったな。シーヴは別に全部飲まなくてもいいぞ。だが、ナシオ、それにセレステ、お前たち二人は、二杯目まで飲め。……いいな」
「そうおっしゃると思いまして、こちらのポットにはもう一杯分、淹れてきております」
アキノは澄ました顔で答えると、ナシオとセレステがヤケクソ気味に烟茶を飲み干すのも待たず、どくどくと二杯目を彼らのカップに注ぎ入れた。
翌日から、カイエンの警護にはいつものシーヴと、もう一名、侍女の格好をした、女としては背の高い婦人が付くようになった。
同時に、大公宮の奥の警備には、フィエロアルマで「暇を持て余していた」、エステファノ・ピオスが入ってきた。彼は、威勢のいい声でカイエンやらヴァイロン、イリヤ、それにアキノやサグラチカ、ルーサたち女中、モンタナたち侍従、そして後宮の住人である、エルネスト主従と教授、それにガラなどに挨拶して仕事を始めた。
所属はフィエロアルマのまま、大公宮へは「派遣」されてきた格好だ。
軍人にしては小柄な男で、年齢は三十になるやならず。顔色は浅黒く、だが目鼻立ちはくっきりとしており、太い眉毛の下の透明な水色の目は「遠眼鏡」とあだ名されるほどに遠くまで見えるのだそうだ。その上に耳が猿のように大きく、聞こえ具合も「ヴァイロン並み」と言われていたので、ベアトリア戦役では斥候役で活躍した。
その上に、読売りの新聞社が抱えている「軽業小僧」と呼ばれる伝令役の小僧のように身が軽かったから、カイエンもイリヤも、そしてヴァイロンも、「いずれは帝都防衛部隊に配置換えしてくれないか」と思っていた。
「君はフィエロアルマじゃ、平から成り上がってもう士官並みなんだそうじゃないか。そんな君にだから聞くんだが、君、自分に足りないことは何だと思っているんだい?」
ガラと一緒に仕事を始めたエステファノにそんな、不思議な謎かけをしたのは、もちろん、マテオ・ソーサだ。教授の人となりをまだ飲み込んでいないエステファノは、助けを求めるように先輩のガラを見るしかない。
「……思ったままに言えばいい」
ガラがそう言うと、エステファノはあっけらかんとこう言ってのけたので、教授さえも笑うしかなかった。
「はあ。そりゃあもう、言い切れんほどありまさあ。フィエロアルマじゃ、上があれでしょう? 前はヴァイロン将軍だし、今はコロンボ将軍です。あんな人たちの下で活躍するためとなりゃあ、望めばいくらでも足りないところが出て来まさあ」
彼の返事がそこまでだったら、教授もすぐに「そうかね、それじゃあ、頑張ってくれたまえ」とでも言って、この話を切り上げただろう。彼とても、エステファノに声をかけてそんなことを聞いたのは、その場の雰囲気と偶然でしかなかったからだ。
だが、エステファノの言葉はまだ先があった。
「でもねえ、自分に足りない、とそっちへ視点を変えれば、まずは体に頼らねえ『技術』ですよお。俺の得意技はぜえんぶ、身体能力でしょう? こんなもの、年を取ればなくなっちまうもんでさあ。若えので俺よりすげえのが後から出てきたら終わりだしね。ですから、俺は爺さんになっても若造に負けねえ技術や知識が欲しいですねえ。地位だけ偉くなっても、それなら馬鹿にされることも無いでしょう。これでも、物覚えは悪くないと思うんで。斥候役てえのも、記憶力が勝負のとこ、ありましたからね」
これを聞くと、マテオ・ソーサはもう行きかけていた足を、杖を軸にして器用にくるりと回して、エステファノの方へ向き合った。ガラは、一つうなずくと、もう自分の仕事の方へ行ってしまう。
「……そうかね。じゃあ、君の仕事の予定表に、『訓練』の時間を設けてもらおう。まずは鉄砲に習熟してもらう。同時に私の渡す本を順番に読んでもらおう。君、字は読めるんだろうね」
「はあ、普通には。……遠目なんで、小さい字だと読みにくいんですけど、なんとかなりまさ」
マテオ・ソーサは早口に続きを言うと、もう自分の仕事に行ってしまった。その日はちょうど、春採用の隊員たちの訓練が終わる、最終試験の日だったのだ。
「じゃあ、読んだ中で、興味のあった本を教えてくれ。つまらなくて先が進まない本は読まなくていい。あっという間に読み終わった本があったら、すぐに教えてくれたまえ!」
その言葉が終わった時には、もう、エステファノ・ピオスに見えたのは、せかせかと不自由な足で杖を突き突き、隊員候補生の訓練場へ向かう教授の小さな黒い背中だった。
「……じゃあ、私は失礼するよ。本は後で届けさせるから。……実技はギリギリだろうけどねえ。あの娘、筆記は一等じゃないかと思うんだよ。早く試験の結果が見たくってね!」
教授の言った、「あの娘」こそ、その日の春募集の隊員候補生の最終試験の筆記で首席を取った、マリソル・ロメロ・ジョルトだった。
意志の強い目を隠す瓶底眼鏡に青白い顔、貧相な体。それに、十人並みではあるが、きっぱりとした性格が現れた顔かたち。イリヤが「教授みたい」と言った女性候補生は、実技の方はぎりぎりだったものの、他を圧倒する頭脳で、筆記試験で初の満点をもぎ取って見せたのだ。
「そうか。そこまでの出来だったか。じゃあ、すぐにでも、陛下の護衛に回ってもらおう。皇宮のしきたりやなんかは、あのルビーでも問題なく勤めているんだから、大丈夫だろうしな。本人がどうしても嫌、と言わない限りは、そういう人事でいこう」
カイエンは最終試験の結果を聞くと、そう決めてしまったが、マリソルはこの人事を聞いても、
「ああ、そうですか。わかりました」
と、いとも簡単に引き受けてしまったので、彼女には大公軍団治安維持部隊の制服と一緒に、皇宮へ派遣する、との辞令が渡されることになる。
「ああ、我が家のことでしたか。セレステがそのように……。確かに、我がザラ子爵家は、もう百年以上前から、どう言うきっかけからかは伝わっておりませんが、そういうお役目の者たちを排出してきた家ですねえ。影使い養成もそうでございますが、カイエン様の元に出したシーヴのような見所のある子供の養育もしております。ですので、我が家は上から下まで賑やかなものでございますよ」
宰相サヴォナローラの「最高諮問機関」の会合は、基本的には十日に一度ほど、宰相府で開かれていた。
皇帝の諮問機関としては、上位貴族の「元老院」がもうすでにあったが、サヴォナローラの宰相府に新設されたものは、このハーマポスタール各界の代表を集め、困難が予想される今後の国政について、道筋を探っていくためのものだ。
その場所で、カイエンがセレステの一件で耳に残った、「ザラ家はそういう家柄」という言葉の真意を尋ねると、諮問委員の一人、ザラ子爵ヴィクトルはなんでもないことのように答えてくれた。彼が子爵でありながら、この諮問機関に名を連ねているのは、発起人の一人であるザラ元帥大将軍の実兄であることもあるが、実は、この「ザラ一族は皇帝家の裏を守る人材を排出してきた」家柄である、との事実もあったのである。
「ま、殿下はご存知の通り、シーヴは出元が出元ですので、私も力を入れて育てました。あれは、早くに親に死なれ、貧民窟で苦労した割には、気性もまっすぐで、狡さなども……まあ、子供が生き抜くためには悪いこともしたと言っておりましたが、それとこれから自分が受け取る教育をきっぱりと割り切ることの出来る子でした。ですから、弟の助言もあり、殿下の護衛に出しましたのです」
「シーヴ君の出元とは? まあ、私もなんとはなしに想像はしているが、そんなことをここで言っても大丈夫なのですか」
カイエンの問いににこやかに、なんの問題もないという様子で答えるザラ子爵へ、他の諮問委員たちの頭の疑問符を代表するように、マテオ・ソーサがそう聞くと、ザラ子爵ヴィクトルは、いとも簡単に答えてしまった。
「ああ、そのことなら。ラ・カイザ王国の末裔、それに間違いはございません。そこの宰相閣下の弟弟子のリカルド殿と同じく、元はこのハーマポスタールを故郷とする民族の特徴を、三百年の時が過ぎた今でも伝えているのですから。護衛としても完璧ですし、余計なことは耳にしても聞かず、聞かれても答えられないように訓練されているはずですよ、私のところでも、大公宮でも、宰相殿のところでもです」
宰相府の、サヴォナローラの執務室のすぐそばの、細長い会議室。
そこには、会議の参加者以外に、サヴォナローラの護衛の武装神官リカルドや、カイエンの護衛のシーヴとセレステも、壁際に控えていた。日によってはこれにサヴォナローラの弟のガラが加わることもあった。
他の評議員は、子爵という身分ながら、ザラ子爵がここにいることと一緒に、この三名が護衛とは言え、この最高諮問機関の会議の席にいることには、密かに疑問を持っていたようだが、今のザラ子爵の説明で、なんとはなしに納得する部分もあったようだ。
貴族からは、大公カイエン、それに今はそれぞれの領地を守っていて留守だが、他の三大公爵もこの集まりに本来ならば出席しているはずだ。それにザラ子爵ヴィクトルが、貴族の中では子爵という低い身分ながら顔を見せているのは、先ほど話していたように長年、帝国の暗部を支えてきた、「そういう家柄」だからである。
他の諮問機関委員は、宰相のサヴォナローラに、元帥のザラ大将軍。
学術界からは、マテオ・ソーサを筆頭に、彼の国立大学院での同級生で、現役大学院教授のマルコス・イスキエルド他、国立大学校、国立士官学校の学者が総勢四名。
それに、国立医学院から、これはお飾りの名誉職の学長ではなく、薬学が専門のニコラス・ベラスコが選ばれていた。彼はアイーシャの死因を確定させた医師でもある。
宗教界からは、アストロナータ神殿の大神官、ロドリゴ・エデン、アストロナータ神殿と同格でこのハウヤ帝国皇帝家の守り神とされている、海神オセアノ神殿の大神官、マリアーノ・ボテロ。
そして、ハーマポスタールの市民たちの代表としては、もう十年来、名誉職で実権はないハーマポスタール市長をやっている前の職業ギルド総長、パスクアル・デル・レイ。各職業ギルドを代表して、現在のハーマポスタールギルド連合総長、イサーク・カレーラス。
官吏を代表して、内閣大学士のフランシスコ・ギジェン、カイエン達から見れば通称パコ、の面々が細長い、そして黒光りする木の長テーブルを囲んで座していた。
公爵三人を抜き、現在のところ、総勢、十四名。
全員が、ここで話されたことは家族にも一切、語ってはならぬとの誓約書にサインしていた。まあ、大公のカイエンの場合には大公軍団の出動いかんによっては、ここでの話を元に動く場合に限り、部下への伝達を一部、認められていた。それは、軍隊のザラ大将軍も、官吏を束ねるパコ・ギジェンも同じだ。
パコはアストロナータ神官だが、サヴォナローラが先帝サウルの宰相に抜擢されて、彼が内閣大学士に繰り上がってからは、宰相府から出る細かい指示を官吏組織の各部署に伝える役割を担っていた。
最初のうち、官吏達は神官に命令されるのに抵抗したそうだが、今ではそれなりの信頼関係も築き、クソ真面目だったパコもだいぶ「柔らかく」なったらしい。裕福な市民からの賄賂を懐にしまい、ほくほくと職務上の権限を利用する官吏はこの世が終わるまで滅びることはないだろうが、あまりに悪質な者、桔梗星団派を背景にしていそうな者以外には目をつぶってやる程には。
カイエンもサヴォナローラも、そしてザラ大将軍も、これ以上はこの諮問機関の人員を増員する気持ちは今のところなかった。この場に皇帝のオドザヤを臨席させなかったのも、いざという時に皇帝を巻き込まないための用心だったのだ。
今、この場にいる人々に、大神官二人を入れたのは、アストロナータ神殿のロドリゴ・エデンに関しては、カイエンが不本意ながらも星教皇の地位にあったからだ。そして、海神オセアノ神殿のマリアーノ・ボテロがいるのは、皇帝家の行事すべてに臨席し、神々との間の仲立ちをするもう一つの神殿を締め出すわけにはいかなかったからである。
後々、この機関のことが表沙汰になった場合、問題になるのはその人員の選定法だろう。選ばれなかった実力者が口を挟んでくれば、ことは大ごとになる。特にうるさいと思われるのは、貴族達だ。
それに対する対策は、貴族の重鎮、三人の公爵たちも名前を連ねていることだった。彼らも、このハーマポスタールに戻れば、ここの一員として席が与えられる。彼らが参加していれば、他の貴族達は、表立っては声を出せなくなるだろう。
もう一つは、市民の代表であるハーマポスタール市長と、ギルド連合総長だが、こっちは彼ら自らが、
「副ギルド長だの、副市長だのも呼んでも良いが、そうなるともうキリがないですよ。こう見えてもあたしはもう、十年、このお役目をやっているし、その前はこちらの市長さんがやっていたんです。実際、各職業ギルドの長になりたがる奴は多いが、全部ひっくるめた連合総長となると、なり手がいないんですよ。本業にも影響しますしね。ま、あたし達二人で市民代表、ってことで下には文句は言わせません。それっくらいの苦労は、この十年でしてきてますから。名誉職だって皆は言いますけど、人間関係ぜえんぶ、頭に入れてないと、いざこざが起きた時に呼ばれても対処できませんからね。あたし達に逆らえるやつは少ないですよ」
と、五十がらみのギルド連合総長も、もう七十に手が届きそうな市長も、胸を叩いて請け合ってくれた。
つまり、「ここに集められた者たちは、身分は違えど、ここに呼ばれるだけの実績がある、ハーマポスタールの有力者である」ということだ。
それは、この「最高諮問機関」の一員に選ばれたかどうか、で後々に各層に禍根を残さないための用心だった。実際のところ、カイエンたちは少しでも役に立つならすべての知識者層の先生方、そしてギルド長達に声をかけたいくらいだったのだ。
だが、誰を選ぶにせよ、選ばないにせよ、そこには完全なる「公平さ」などない。その上に、人数が増えれば増えるほど、ここでの話題は漏れやすくなる。
まさか、元老院大議会で決めるわけにもいかなかった。そんなことをすれば、「諮問」に値しない知識しか持たぬ上位貴族たちだけで国の行く末が決まってしまうことになるからである。
カイエンもサヴォナローラも、皇帝のオドザヤも、その点でこの人選に「すべての国民が納得する公平性」などないことは承知の上だった。そもそも、宰相にサヴォナローラが選ばれたこととて、先帝サウルの一存で決まったことなのだ。
「さて、ではみなさんお揃いだ。そろそろ、定例会を始めることと致しましょうか」
席順としては、カイエンとザラ元帥大将軍の次に座ったサヴォナローラがそう、開会を宣言し、この日の話し合いは幕を開けたのであった。
大変遅くなりました。
申し訳ございません。次回は正月のうちになんとかしたいと思っております。
仕事は忙しいのですが、月一だと小説世界に入れず、前の展開も頭から逃げてしまうので、なんとか隔週更新に戻したいところです。




