女帝と女大公の恋愛変格活用
「……ね、いいでしょう? お姉様」
甘えるような顔に、妖艶な流し目、そして豊満な胸にカイエンの腕を絡め取って引き止めたオドザヤ。
彼女はそのまま、エルネストとリリを女官長のコンスタンサに預けてしまうと、後ろも振り返らずにカイエンを自分の部屋の方へ強引に引っ張っていく。カイエンは午前中に戻ればなんとかなるか、と腹を括った。
カイエンは内心で、
「従姉妹で姉の私にそんな色気満載な目つきをしなくっても……」
と思いながらも、従姉妹でも妹であっても、そこに見えるのは凄まじいばかりの美女、それもまさに花の盛りの年齢の美女だから、なんだかどきどきしてしまった。
カイエンにしてみれば、自分にはないオドザヤのまさに太陽のような輝く髪や、とろけるような琥珀色の目は、本来なら、姉妹として、女として、嫉妬の念にかられて当然の代物だった。
カイエンの顔はアストロナータ神そっくりに整ってはいるが、オドザヤのような華やかさも、輝かしさもない。髪の色は暗い色だし、目の色も陰鬱な曇り空のような灰色。その上に、顔色ときたらいつも死人のような青白さなのだ。
だが、カイエンは事実は事実として認識した上で、自分にオドザヤのような、皮一枚の外見とはいえ、まさに国を傾けんばかりの美貌が備わっていれば、などと羨望の思いを持ったことはなかった。
三年前のシイナドラドでの一件では、アルウィンとそっくりな顔であること、自分を彼が愛しているのは、それだけが理由なのであるということ。彼にそっくりな娘の自分は、彼の希望する未来に世界を連れていくための駒の一つにしか過ぎないことを知った。
そのためにエルネストはカイエンへの歪んだ執着心をアルウィンから直に植えつけられ、その結果があの悲惨な出来事となったのだ。
そして、そもそもアルウィンが佯死を装ってカイエンから離れて行ったのは、娘であるカイエンに対して持った邪な思いを断ち切るためであったことも知った。
サウルの死後、まだ結婚前のサウルとミルドラの兄妹を結びつけるよう、彼ら二人を操ったのが、祖母のシイナドラド皇女、ファナ皇后だったことを知った時には、この顔の持っている意味は、ただただ「このパネメリゴ大陸で一番古い国を支配してきた、シイナドラド血族の呪い」なのだと感じたほどだ。
その時には絶望とともに、強烈な拒絶感を抱き、しばらく鏡が見られなくなったこともあった。だが、それを乗り越えてみれば、自分の大公という身分としてはこの顔はまさに「ちょうどいい」ということにも気が付いていた。
国の代表である皇帝、それも女帝としては地味かもしれない。
だが、帝都を守るという「実務」に当たる大公としては、この禁欲的な、神像のように整い過ぎて、それゆえに人間味の足りない顔は、まさにぴったりだったのだ。
カイエンの顔とオドザヤの顔が反対だったら、カイエンがオドザヤの秘密を守るために身を張って流した「ご乱行」だの、「複数の男を手玉に取っている」などという醜聞は、事実そのままに民衆に受け取られ、大公軍団の信用にも関わっていたかも知れない。
あれは、カイエンの姿形、病人のような容貌、そして足が不自由なことなどが上手に作用して、人々の受け取った情報の「現実的な生々しさ」を絶妙な加減で引き算させてくれていたのだから。
「はあ。それではそう致しましょうか……」
カイエンはやっとの事でそれだけ言うことが出来た。その頃にはもう、オドザヤに引っ張られ、帰っていこうとするエルネストとリリとの間にはかなりの距離が出来てしまっていた。
カイエンたち二人の後ろを、皇帝の女官長のコンスタンサと、今やオドザヤの腹心であるイベット、それにブランカとルビーが顔を見合わせながらついて来る。
「さあ、私の一番くつろげるお居間へいらして! お茶会の食べ物が重たかったから、ちょっと腹ごなしに奥の中庭を見ていただきたいわ。このイベットはね、口が固くて気も効く上に、園芸が上手なんですの。ハチドリがたくさん、花々の蜜を吸いに来ますのよ!」
その無邪気な様子は、大国の皇帝とも、二十歳の若い女、それも密かに一子アベルを生んでいる「母」であるとも見えなかった。カイエンにはちょっとそのオドザヤのはしゃいだ様子が、故意なのかそうでないのか計りかねた。
「え、ちょ、ちょっと陛下!」
カイエンは別にエルネストのことは気にもしていなかったが、彼に抱かれて手を振りながらニコニコと大公宮へ帰って行こうとするリリの方は気になったから、そう声を出して、やっとの事でオドザヤをちょっとその場で引き止めた。
「リリ! ちょっと待て」
カイエンはあまり大声にならないように、でも、もう廊下の先を行くリリに声をかけた。
リリは呼び止められるとは思っていなかったようで、なんだかきょとんとした顔つきでエルネストの肩の上で振り向いた。エルネストの方は自分はお呼びではないことは知り尽くしているから、黙って半分だけこっちに体を向けた。
「なーに? ああ! そっかぁ。分かった! ……サグラチカとヴァイロンにはあたしからちゃんと言っとく。だからカイエンはゆっくりして来なよ。夏になってから、忙しすぎたもん」
「え? ちょっとリリ!」
カイエンがリリに言おうとしたことは、まさにその事だったので、打てば響くようなリリの返答は完璧だった。だが、カイエンはリリの返答がきれいに自分の言いたかったことと重なったために、余計に何かもう一言、加えたくなってしまった。
「そうだ! 明日の朝の朝礼には間に合わんかもしれん、と……」
これにも、リリは完璧な答えを投げて寄越したので、彼女を抱いているエルネストの方が笑いをこらえきれなくなってしまった。エルネストの笑いと共に、リリはこう言い残して先に大公宮へ帰って行ったのだった。
「あーあー、分かってるよぉ。アキノからイリヤに伝えさせればいいんでしょ? 大丈夫大丈夫。リリに任せといて!」
そして。
オドザヤの寝室に一番近い、彼女がもっともくつろげる場所、彼女の一番奥の居間へ通されたカイエンは、ちょっと目を見張った。
ここへは、アイーシャが死ぬ前に、オドザヤがアイーシャの心を死ぬまで支配していたのはアルウィンだった、とカイエンに話した時にも、婚礼衣装の仕上げの時にも、通されたことがある。
だが、その時よりもこの居間はどことなく華やいだ印象の部屋になっていた。壁紙も置かれた家具も変わらないようだが、活けられた花の華やかさ、ソファに掛けられた明るい色の布や、クッションの色などからの印象だろう。
「イベット、晩餐はいつもより遅い時間にして、って厨房へ伝えて。お茶会の軽食やお菓子が重たくて、まだしばらくはお食事は必要なさそうだから。……私はお姉様と二人きりで、しばらくあっちの中庭の方を散歩して来るから」
静かにうなずくイベットも、コンスタンサもそこへ残ったが、オドザヤの護衛として大公軍団から派遣されているブランカとルビーは、左手で杖を突き、右手をオドザヤに取られたカイエンがオドザヤと共に、そう広くはない皇帝の一番私的な空間の真ん中にある中庭へ出て行くのを見送った。しばらくしたら、声が聞こえない距離を取って、後ろを進んで行くつもりだった。
カイエンは今日、オドザヤが自分を引き止めた理由が分かるような、分からないような微妙な気持ちだった。
トリスタンとの結婚後、どう夫婦としてやっていくのかは、結婚式の前に婚礼衣装の仕上げに付き合うため、ノルマ・コントと共にここへ上がった時にも聞いている。
なのに。
なのに、こうして今日、カイエンを引き止めたところを見ると、オドザヤの気持ちにはあれから変化があったのに違いなかった。
(トリスタン王子とのことも、最初は、私が望んだことだったのに間違いはありません。それがザイオンの企みだったとしても。だた、あの方のとの間には、何も『繋がる心』がありませんでした。もう、手遅れかも知れませんが、私、トリスタン王子の気持ちも考えて、慮って行こうと思います)
あの時、カイエンが自分とヴァイロン、イリヤ、そしてエルネストとの関係について語った時、オドザヤは最後にこう答えた。
だが、あの時とはまたオドザヤとトリスタンを巡る状況は変わってしまっている。
本来は皇帝であるオドザヤを狙ったに違いない、婚礼のパレードでの襲撃事件で、右足の先を失うという大怪我を負ったのは、トリスタンだったのだ。オドザヤには心に負うものがあるのだろう。
だが、それとトリスタンと本当の夫婦になれるかどうかということとは、きっとまったく別のことなのだ。
「ねえ、お姉様、ご覧になって。ほら、極楽鳥花にハチドリが群がっておりますわ」
オドザヤがそう言う先を見てみれば、後宮や皇子皇女宮の庭と同じく、建物に囲まれている「中庭」はきれいに整備され、明らかに人工的に植え込まれ、育まれた植物たちで構成されていた。イベットが丹精しているという花々の鉢には、夏の強い色と香りの花々がまさに盛りと咲き誇っていた。
広さは、意外なことだったが、大公宮の奥殿のカイエンの住むあたりの中庭よりもかなり狭かった。
きっと、皇帝のオドザヤには他にも居間があり、そこの中庭はもっと広いのだろう。
そう広くもない中庭は、ハウヤ帝国では大公宮でも貴族の屋敷でも、そして民家の中庭でも同じように、真ん中に小さな噴水があった。皇宮のオドザヤの一番私的な庭のそれは、大公宮のカイエンの住む区画の取り囲む中庭と同じように、民家の石畳やレンガ、タイルなどの張り巡らさせたそれとは違い、最高級の大理石で覆われていた。
その大理石の色は青っぽく、それが遠い帝国の東側のクリストラ公爵領で産出するものであることを物語っている。
この中庭はちょっと変わっていて、大理石の噴水の向こう側半分は小さな四角い池に階段状になって繋がっている。そこには名残の睡蓮が、数は少なかったがまだ白い花を水面に出していた。
「ああ! もんそんな季節になったいたのですね。私の庭にもハチドリが来ているのでしょうが、今年ばかりは気が付くゆとりもありませんでした」
カイエンが率直にそう言うと、オドザヤはカイエンの右手を引いて、噴水の側の木陰へ誘って行く。
八月の日は長い。まだ、上を眺めれば真夏の高い青空が広がっていた。
「本当なら、お茶でも持って来させるところですけれど、今日はもう飲みすぎるほど頂きましたわね。それにしても、お姉様のご友人のこと、その方が最後にお姉様の前で弾かれた曲を、トリスタン王子が言い出して、シリル様たちが演奏してくれたことには驚きましたわ。……シリル様がいらっしゃると、なんだかいつも不思議な出来事が起こるみたいだわ」
このオドザヤの言葉には、カイエンまさに同感、という気持ちだった。
オドザヤは聞いていないのだろうが、カイエンはエルネストから、一緒にトリスタンの病室のそばまでは来たものの、カイエンは鉄砲のことがあったので先に帰った後、エルネストにシリルが話した、タミュリス神殿での不思議話についても聞いていた。
もっとも、いかにも「報告」といった様子で話していたエルネストは、このシリルの不思議な昔話も、その種は分かっているような顔色だった。おそらくはシイナドラドの皇王家の王族たちには説明のつく話なのだろう。カイエンはそう考え、あえてそれ以上は追求しなかった。それは、エルネストと長話をしたくないということもあったが、シイナドラド皇王家が隠している、皇王宮の奥深く、石碑の森ゆかりの「どこからこの世界へ来たのか分からない知識」については彼は口を割らない、と知っていたからからでもあった。
それにしても、オドザヤは大国ハウヤ帝国の皇帝であるのに、年長者でアベルを引き取ってくれたのだからとシリルのことは丁寧に呼ぶ。そんなことはあり得ないだろうが、公式の場で目通りでもしない限りはこの調子で扱うつもりなのだろう。
「そうですね。本当の芸術家というのは、ああいう人のことを言うのでしょうね。浮世離れしている、と言えば簡単だが、それだけじゃない……。ただ人のいい元踊り手、だけではザイオンのアルビオンの王宮で二十年以上も生き抜いては来られなかったでしょうから」
カイエンはそう言ったが、オドザヤは、カイエンを引き止めた理由である話題に、なかなか話を持って行こうとはしない。
それは、それだけ話しにくいのか、何かまだカイエンに言うか言うまいか迷ってでもいるのか。カイエンはここはオドザヤのしたいように話をさせていくことに決めた。
結局、オドザヤは中庭を巡っている間も主題に入ろうとはしなかった。二人で池の名残りの睡蓮を見て、オドザヤの婚礼衣装を思い出してしまい、お互いに黙り込んでしまった時も。
カイエンはあのパレードでの襲撃事件の後、皇宮で馬車から降り立った時のオドザヤの姿を思い出してしまった。オドザヤの婚礼のドレスは白い睡蓮を一面に縫い付けてモチーフにしたもので、それは事件の後、トリスタンの血で汚れてしまっていた。
周囲の誰も、それが見えないように、いや見ている暇などなく動いていたが、カイエンは心の中で一瞬だけ、ドレスの意匠を考えていた時に、ノルマ・コントが言っていた言葉を思い出していた。
(睡蓮の花言葉をご存知でしょうか。白い睡蓮には、ことに「清浄」「潔白」、という意味が強いので、婚礼のお衣装にはふさわしいとも言えますが……ひとつだけ、気になる言葉がございます。……隠しても仕方ありませんでしょうから申し上げます。それは、「滅亡」でございます)
それを聞いた時のカイエンとオドザヤといえば、
(ああ、そうなのか。それはまた暗示的な……)
と思ったに過ぎなかった。
カイエンの夢世界の沼に咲いていた白い睡蓮。そして、アベルを身ごもっていることを聞かされたオドザヤがオルキデア離宮で睡蓮の花に引かれるようにして湖水へ入って行って、シリルと出会ったこと。
睡蓮の花は彼女たちの周囲をぐるりと巡って、守っているのか、それとも閉じ込めてでもいるようだった。カイエンはエルネストから聞いていたが、シリルのタミュリス神殿での不思議話にも睡蓮は登場しているのだ。
カイエンもオドザヤも、この五年の間に起きた様々な事件や出来事を思い返すまでもなく、このハウヤ帝国がその名前を失う可能性についてはとうの昔に覚悟していた。
今まではペネメリゴ大陸の西にハウヤ帝国、東の果てに螺旋帝国があり、そして寒冷な地であるが故に人口は少ないが広大な領土を持つ、ザイオン女王国があって、大陸は一応の安定を見せていた。ハウヤ帝国とベアトリアの国境紛争のような小競り合いはあったものの、大きく国々の版図が書き換えられるような戦争はもう何世代かの時代に渡って、起きてこなかったのだ。
それを強引に変えようとして暗躍しているのが、螺旋帝国を背後に持つ、アルウィンの「桔梗星団派」だ。螺旋帝国の新王朝「青」の皇帝も同じ意図で動いているのかも知れない。いや、彼らの思い描く未来が一致しているからこそ、彼らは手を組んだに違いない。
先帝サウルはそういう未来を無意識のうちに感じ取っていた。だから、その死の前に帝都ハーマポスタール、つまりは帝国の西を支配するカイエンの大公軍団に帝都防衛部隊を創立させて彼女の兵力を増強させたのだし、上位貴族の専横を押さえ込んで領地を取り上げ、皇帝直轄領を増やしたり、市民たちの自由をある程度までは保証するような政策を立てていたのだ。
彼の父であるレアンドロ帝が行ったような、一方的な賎民たちの一掃劇などが、もう簡単には起こらないように。
だが。
サウルに大人の皇太子がいないまま、長女のオドザヤが皇位を継ぎ、死の間際に生まれた、たった一人の皇子フロレンティーノはオドザヤの「推定相続人」となった。フロレンティーノの誕生は、皮肉なことだが、サウルがオドザヤを跡目に決めながらも、一方で男児の誕生を諦めず、あえてベアトリアの未婚の王女ではなく、出戻りのマグダレーナを選んだからなのだ。
そこはサウルしか分からないことだが、彼もまさか自分の命数が、たった一人の息子の誕生のすぐ数ヶ月後に切れることになろうとは思わなかったのだろう。
そして、フロレンティーノの母親がもしベアトリア王女でなかったら、ハウヤ帝国の周辺の状況が緊迫してこなかったら、彼はオドザヤの「法定相続人」、つまりはゆくゆくは皇太子に立てられることに自然になっていたはずだった。
早すぎたサウルの死。そこからハウヤ帝国は桔梗星団派の暗躍もあって、土台の部分に軋みを生じつつある。
それと時を同じくして、スキュラの事件、南方のラ・ウニオン共和国の勢力が大きくなってきたこと、シイナドラドでの背後に螺旋帝国を擁したザイオン系の勢力の内乱。そしてその首都、ホヤ・デ・セレンの封鎖。ハウヤ帝国の周囲の国々も妖しく動き始めた。
スキュラにアルタマキア皇女が捕らえられた時、その鎮圧に三大公爵の一人、テオドロ・フランコ公爵とサウリオアルマを当てたこと。スキュラ平定後にそれをフランコ公爵領として与えたこと。そして、南方の雄バンデラス公爵にコンドルアルマを送ったのも、カイエンやオドザヤにして見れば、「もしも」ハウヤ帝国が分断されることになったら、という「その日」への布石だったのだ。
東のベアトリア国境には、彼女ら二人の伯父叔父にあたる、クリストラ公爵が万全の重きをもって控えている。
それでも、「その日」は来るのかもしれない。いや、今、その準備なしにはオドザヤの治世はあり得なかった。
ハウヤ帝国の滅亡。
それが起こることをさけられないとしても。
それは、ハウヤ帝国という巨大な版図を持つ国が、西の大公カイエンを入れた四人の「公」の領土として分裂するのはさけられないとしても、そこで平等な同盟を結び、共同戦線を組む形に持って行かねばならない。そこが彼女らの覚悟している最悪の状況だった。
言い方を変えれば、二人は「帝国の滅亡」自体はもう、覚悟の上だった。
池のすでに盛りを過ぎ、小さく弱々しい花を咲かせた睡蓮を見ながら、カイエンとオドザヤが考えたことは、もしかしなくとも同じことだった。
国の興亡。
それは彼女らの両肩にかかっていると言ってもいいのだ。
それに比べたら、今日、オドザヤがカイエンに相談したいことなど、彼女個人の「事情」でしかなかった。
でも、オドザヤがこの国の皇帝である以上、彼女の精神生活もまた、なおざりには出来ない。カイエンはそう思っていた。
池の睡蓮を見つめたまま、二人はお互いに物思いに沈んでしまっていた。やや離れた後ろの木陰に控えていた護衛のブランカとルビーがその様子を不審に思って身動きしたので、木の枝がわずかに音を立てるまで。
その音で、オドザヤの方が先に我に返った。
「あら、もう日が傾いて来ましたわ。お姉様、今夜は晩餐の後も、一緒に私の寝室でお酒でもいただきながらお話がしたいわ。ああ、私ったらお姉様のお疲れのことも考えなくて。……もう、中へ入りましょう」
そして。
晩餐が終わるまで、オドザヤはカイエンをこの皇宮に押し留めた理由であろう、「相談ごと」についてはおくびにも出さなかった。それは、給仕をするイベットや、部屋の扉の暗がりで護衛に当たっているブランカやルビーという、「彼女の側近中の側近」の女たちにも話を聞かれたくなかったのだろうか。
オドザヤがやっと「相談ごと」に入ったのは、オドザヤのたっての願いで、彼女の寝室で一緒に寝る、という今までにはなかった展開に事が進んだ後だった。
カイエンとオドザヤは姉妹として育ったわけではない。
そして、オドザヤの方も、カリスマとアルタマキアという二人の妹はいたが、腹違いだったため、一緒に過ごすことはほとんどないまま、今に至っているらしい。
だから、オドザヤにしてもカイエンにしても、ほとんど一人っ子として育ったので、「姉妹」と一緒に同じ部屋で眠る、などいい大人になった今まで考えたこともなかった。カイエンの方などはこの夜、オドザヤが言い出さなかったら、一生、そんな出来事は体験しないままだっただろう。
それをあえてそうしたところに、カイエンはオドザヤの話がかなりの「秘め事」らしいことを感じた。
イベットともう一人の侍女がカイエンとオドザヤの結い上げた髪をほどき、丁寧にブラッシングしたのち、二人は優雅な絹の寝巻きと、夏用の薄いレースのガウン、という姿になった。カイエンの着ているのは一度も洗濯の水など潜ったことのないであろう、おそらくはオドザヤの替えの新しい寝巻きとガウンに違いなかった。
そこは二人ともにお姫様育ちだったから想像もしていなかったが、こんな様子を「賢者の群れ」のディエゴ・リベラやラモンなどが見でもしたら「このお貴族どものけしからぬ贅沢のために、俺たちは高い税金を払っているのか!」と叫び始めたことだろう。ディエゴとてラモンとて、豪商の息子だから、本当の平民に比べればかなり贅沢な暮らしをしていたのではあったが。誰しも自分のしていることは客観的に見られないのは同じだった。
「イベット、そっちのテーブルにお酒の用意をしてちょうだい。今日はトリスタン王子とのお茶会があったし、明日の公務は昼過ぎから、ってサヴォナローラにも、もう言ってあるの」
オドザヤは黄金色のゆるく巻いた髪を、金色の滝のようにレースのガウンの背中に垂らしている。そんな彼女とカイエンに優雅に礼をしながらイベットが下がっていくと、オドザヤの寝室の中は、急にしん、とした。
カイエンはオドザヤの寝室の様子を、沈黙に対抗するためもあって、ぐるりと見回してみた。
部屋自体の広さは、大公宮のカイエンのそれと同じくらいだろう。
ここはオドザヤの父、先帝のサウルの部屋だったところだ。部屋の内装などはそのままのようで、サウルの質はいいものは望むが、派手さは求めない、という趣味のままに、くすんだクリーム色の壁を背に飴色の木組みに彫刻の施された大きな天蓋付きの寝台が部屋のど真ん中に置かれている。
鈍い玉虫色の、明け方の海面のような絨毯も、あの時、サウルの危篤の時にこの部屋へ通された時そのままだ。
カイエンにはもう最初に見た時から分かっていたが、その玉虫色の絨毯は細い絹糸だけを使って織られた最高級のもので、それもこの広さに敷くとなれば、織り子が何人がかりかで取り組んで、何年もかかった代物に違いない。
さすがに寝台はサウルが死んだ時のままではないようだったが、それでも過度な装飾などはなく、天蓋の柱の彫刻は流れるような意匠で掘り上げられた花々だった。天蓋から下がる帳の、玉虫色の絨毯に合わせて調色されたのであろう淡い桃色の色だけが、オドザヤの若さを示している。
「あまり、調度を変えてはいないのですね」
カイエンが沈黙を破るように声を出すと、オドザヤはちょっと意外な反応をした。
「うふふ。お母様みたいな薔薇色と金色に変わっているとお思いでした?」
そのオドザヤの声音には、明らかに皮肉な響きがあった。カイエンもアイーシャが後宮の皇后宮から、皇女宮へ移った後に見たが、確かにアイーシャの寝台はそんな風だった。
「いいえ。……陛下は意識して過剰な宝飾品を避けておられます。それは、あの婚礼衣装を見る前から気が付いておりました。故皇太后陛下のように宝石で着飾られるのは避けておいでだと」
カイエンがそう言うと、オドザヤはちょっと琥珀色の目を見張った。
「……そうですわ。さすがはお姉様だわ。とっくに気がつかれておられたのね」
オドザヤはそれ以上はその話題について続けることなく、カイエンを寝台の横に置かれた、いかにも座りごこちが良さそうなソファへ誘う。向きあって座った、その前のテーブルには、軽い食べ物と、年代物の高級な蒸留酒の瓶が置かれていた。ラベルの紙も古びた、彼女たちの年齢よりも古そうな代物だ。
「この頃は、こんな強いお酒を召し上がるのですか」
カイエンは濃い琥珀色の、優雅な曲線を描く葡萄の蒸留酒の瓶と、その高級なラベルの名前を見てそう言ったが、別に皮肉を言ったつもりはなかった。
大公宮ではカイエンの周りの男どもはこんな高い酒など好まなかったし、執事のアキノは「安酒ではございますが、ロン酒が一番、翌日に残るような悪酔いを致しません」と言っていたため、カイエンはワインでなければ、皇子のエルネストも、平民のイリヤも好んでいるロン酒にレモンなどを絞ったものを嗜んでいた。
だから、酒を嗜むこと自体をたしなめるつもりもなかった。
だた、カイエンは昨年、オドザヤの妊娠を隠すために新聞記者たちを居酒屋アポロヒアで接待し、自分とヴァイロン、そしてイリヤとの醜聞記事を書かせた時には、酒に呑まれてとんでもない醜態というか、今でも信じたくないような所業に及んだことがある。
あの事件以降は、決して「酒に呑まれる」ことのないよう、カイエンは心の奥底から自分を固く戒めていた。
「あら。……そうそう、お姉様や大公宮の皆様はロン酒をお好みになると聞こえておりますわ。確かに、あの砂糖黍の蒸留酒は甘ったるくなくてすっきりしているとかで、通の方は安酒などと馬鹿にせず、あれを嗜まれるそうですわね。でも、この皇宮ではさすがに無理でしたの。それに、……ワインじゃ話しにくい話ですのよ」
やっぱりそうか。
カイエンはここで明日の朝の二日酔いを覚悟した。それでも、酒に呑まれないようにだけはしなければならない。まあ、ここにはオドザヤしかいないから、去年のような異常な醜態を晒す心配はないだろう。新聞記者だっていないのだ。
「そうですか……。では、まずは乾杯といきましょうか」
カイエンは化粧を落として素顔になっても、光り輝くように眩しく光るかのようなオドザヤの顔の健康そのものの皮膚の照りを、美しさと一緒にその健康さで羨ましいと思いながら、自分が葡萄の高級蒸留酒の瓶を取り上げた。
もう、イベットによって封は切られていたので、カイエンがしたことといえば、二つのロマノグラスにとぷとぷと酒を半分ほどまで注いだだけだ。ロン酒ならレモンやライムで薄められるが、これはそうはいかない。
手のひらでグラスを温めながら、ちびちびと、舌を湿らせるようにして行くしかないだろう。
「そうですわね。じゃあ、これはお姉様とでなければ話せないから。……アベルが無事に育っているこしょうか……」
カイエンははっと胸を疲れる思いだった。オドザヤはアベルを出産してから一度も顔を見たこともない。それに比べれば、伯母に当たるカイエンの方が最近のアベルの姿を見知っていた。
「アベルはコロニア・ビスタ・エルモサの親切な人たちに育てられて、元気にしていますよ。……乾杯!」
カイエンは無理に最後の「乾杯」のところだけは大きな声を出した。かちんとグラスが合わされ、二人はほんの少しだけ、葡萄の高級蒸留酒を口に含んだ。
ロン酒の単純であまり香りの強くない飲み口とは、全然違う。深い蒸留の後に丁寧に熟成された香りは、それだけで酔えそうなほどに芳醇だった。
「……お話というのは、アベルのことですか」
カイエンがグラスの足を指に絡ませて、この酒を飲むときの作法通りに、グラスの底を手のひらで温めるようにして聞くと、オドザヤは曖昧ながらも肯定した。
「はい。あの、私はあの子を産んですぐの顔しか知りません。あの子、今はどんな? 髪の色は生まれた時から濃かったし、目の色はお父様やお姉様のような灰色だと聞きました。あの、今もそれは変わらないのですか」
カイエンはそっとうなずいた。もう、アベルが生まれて半年以上になる。この頃は顔立ちもはっきりしてきていた。
「ええ。髪の色はどうも先帝陛下に似て、漆黒のようですね。私やミルドラ伯母さまのように、紫色に近かったり、緑色っぽかったりしていなかったのは幸いでした。紫や緑の髪はあまり世間にはない色味ですからね。目の色も空色というよりはやはり灰色だと、シリルさんやアルフォンシーナからも聞いております」
オドザヤはそれを聞くと、酒のグラスを口元に持っていき、少しだけ口に含んだようだった。そのまま、しばらく黙っていたから、カイエンは時間稼ぎに、もう腹は満腹だったが、つまみとして短い串に刺して置かれた白くて柔らかいチーズを口に放り込んだ。
「……そうですの。あの子は私やフロレンティーノみたいに、母親そっくりじゃないんですのね。シイナドラド所縁の、あの海神宮の大回廊に居並ぶ、私以外の十八人の皇帝たちの肖像画と同じ系統の姿をしているのでしょう? ……なら、あの子、今からでも私の第一皇子として、ここへ、何とかして、この皇宮へ引き取れないものでしょうか」
オドザヤはさりげない風で、いきなり、今日カイエンを引き止めた話題に入ってきた。
来た。
アベルの名前がオドザヤの口から出た時、すぐにカイエンが想像したのは、オドザヤがこう言い出すことだった。カイエンもオドザヤの即位の後に、海神宮の大回廊に並ぶ、始祖であるシイナドラド皇子サルヴァドールから始まる、オドザヤを入れて十九人の歴代の皇帝たちの肖像画を見に行ったことがあった。
ほとんど同じ顔が十八人目まで居並んでいる。あの場所に入ると、なんだか異様な雰囲気に包まれるのだった。
そして、その十八人の兄弟のように似た皇帝たちの肖像画の最後にあるのが、黄金色の輝きに包まれた、オドザヤの肖像画だった。その様子は、誰が見てもなんとも不自然だった。オドザヤが男であってもそれは同じだっただろう。
そして、そこにあるのがオドザヤではなく、サウルの唯一の男子であるフロレンティーノ皇子であったとしても違和感は同じだっただろう。フロレンティーノもまた、母のマグダレーナそっくりの容貌で、歴代の皇帝のようなシイナドラド所縁の外見は持っていないのだ。
「陛下のお気持ちは分かります。私は産みの苦しみも知らないし、母親になったことはないが、リリを育ててはいる。アベルを手元に置いてお育てになりたいお気持ちが分からないわけではありません」
カイエンは注意深く、答えを探しながら言葉を紡ぎ出した。これはかなり繊細な心の、そして母子の情の問題だ。一言の印象で、オドザヤは危険な賭けの方へ舵を取ってしまいかねない。
オドザヤが自分一人でいられる唯一の空間へカイエンを呼び込み、そして酒を用意してから話し出したこと。それは、それだけ彼女にも自分のする話が無理なものだ、許されないものだと、心の底では納得しているからに相違ない。
この「相談」は、その上で溢れ出て止められない、オドザヤの心情がさせたものなのだ。
カイエンはあの娘、リリが支えてカイエンの夢の中でやっと立っていた娘、エルネストとの間に出来た娘には名前もつけていない。二ヶ月ほどカイエンの肚の中にいて、すぐに流れて行ってしまったから。その一部はリリの中にあるのかもしれない。だがもう、リリとその子は区別がつかぬほどに一緒に混ざり合ってしまっているのだろう。
シイナドラドから帰国してすぐ、流産した時には気絶するほどの痛みを感じた。そして、あの娘はこの世に生まれてくることはないままに消え去ってしまったのだ。
「……私の立場なら、出来たかもしれません。エルネストとの夫婦関係は破綻していると、もう早くに知れている。というか、それはこちらから世間に流した情報です。そして、ヴァイロンのことは先帝陛下の計らいですし、イリヤという二人目がいることも、去年の初めの私の暗殺未遂事件の後に、意図的に世間に漏らしています。もしも私に隠し子がいたとしても、その父親は公的には限定出来うるのです。つまり、他の男が名乗り出て来る心配はありません。まあ、はなから私の場合には子供など生まれてくることはありませんが……。でも、陛下の場合には……あの、言いにくいことですが、アベルの父親がしかとは分からない、という事情がございます。これも言いにくいことですがあえて言えば、アベルのことを明らかにすれば、アベルの父親として、トリスタン王子以外の名前が出てくる危険性があるのでございましょう? もちろん、その筆頭はモンドラゴン子爵だ。彼とのことを否定したとしても、あのオルキデア離宮で、その、陛下が……他の男性とも、その、あったとしたら、そいつらが声を上げてくる可能性がないとは言えません。きっと桔梗星団派が、ここぞとばかりに候補者を幾人も突き出して来ることでしょう」
カイエンは我ながら歯切れば悪い、とは思ったが、なんとか最後まで言い切った。その間に、二口ばかり、喉が灼けるような葡萄の高級蒸留酒を飲み込んだのは致し方ない。
「その、モンドラゴン子爵以外のお相手は、オルキデア離宮での集まりを通じて、こちら側に取り込もうとなさった上位貴族の中のどなたかでしょう? うっかりそいつに名乗り出られたら、大変なことになります。否定すれば、『では本当の父親は』となります。トリスタン王子だと強弁しようとも、産み月が判明し、同じ時期に陛下との関係があったことを言い立てられれば、ちょっと抑えようがありません。今は地方に逼塞させていますが、モリーナ侯爵や、カスティージョ伯爵やらへも、得たり、とばかりにその貴族どもを支持して帝都へ舞い戻る機会を与えかねません」
長いカイエンの話を、オドザヤは唇を噛み締めて、黙って聞いていた。
「そうなると、事は私の愛人問題などでは覆い隠せないような、大勢の貴族を巻き込んだ醜聞となります。いくら、アベルの姿が先帝陛下や私、ミルドラ伯母さまなどに似ているからといって、それで押し通せもしないでしょう。実際に、陛下が関係されたお相手が誰にせよ、アベルはその誰にも似ていない。母上である陛下にも、すぐに目につく髪や目の色では似ていない。ご成長になれば、陛下を通じて引き継がれた、先帝陛下の面差しにもっと似て来られるかも知れませんが、今はまだ無理でしょう。それに、これは余計なことですが黒髪に空色や灰色の目の人間はたくさんおります。陛下がご関係を結ばれた方の中にもいないとは言えますまい。そちらに似ているなどと言われれば、話はもうその方向へとどんどん転がっていってしまう……」
カイエンがここまで話しても、オドザヤはまだしばらく黙っていた。
そして。
彼女が長い沈黙の後に口にした言葉には、カイエンはグラスを手からとり落すほどに驚愕したのだ。そしてその直後には、まさか、オドザヤがそこまで考えて、いや、それでもなお母としての自分を抑えられず、そこまでしてもいいというところまで考えたことに、カイエンは打ちのめされた。
「……お姉様、それでは、アベルが、アベルが実は、エルネスト皇子殿下との間の子、ということにしたらどうでしょうか? 無理は承知です。でも、それを認めさせることが出来たら、アベルは私の第一皇子になれるのではないかと……。それも、トリスタン王子の子とするよりも、シイナドラドの血を引く皇子なら、出自的に次の皇帝として世間に認めさせやすいかもしれない。そんなことをちょっと、思いついてしまって……」
「は?」
最初にカイエンが言えたのは、そんな呆けたような声だけだった。
エルネストがアベルの父親。
カイエンは今の今まで、そんな方策は考えもしなかったので、グラスを最高級の絨毯の上に取り落とし、中身のほとんどが絹の寝巻きの膝にかかったのも気が付かなかったくらいだった。侍女の一人も同席していないから、慌てて拭き取りに来る者もいない。
確かに、それならばアベルの容貌も説得力を持つ、の、か?。
ハウヤ帝国皇帝家と、シイナドラド皇王家との血を引く皇子がいた、と今からでも公表すれば、アベルはオドザヤの皇太子になれるのだろうか。いや、オドザヤもエルネストもすでに他の人間と結婚している。不倫関係で生まれた子供では、皇帝の「嫡子」とは認められないだろう。
最初にカイエンが考えたのは、そんなことだった。意外に頭の方は冷静にこのオドザヤの突然の話を吟味したらしい。
「そ、それは、それはしかし、あまりにも不倫……と言うか、誰もそんな『事実』の裏付けは……いや、出来ても出来なくとも、確かにそう、強弁は出来ますね。私とエルネストはあんな質素な結婚契約式だけした仲ですから。エルネストは読売りに『享楽皇子』なんぞと書かれるほど、花街で遊んでもいる。確かに、他に父親を気取る貴族どもが名乗り出て来るのは防げるでしょう。だが、そんなことになればトリスタン王子の立つ瀬がない。それどころか、エルネストは私と離婚して、陛下はトリスタン王子と離婚して、エルネストが改めて陛下の皇配になるべきだ、という論調になるでしょう。貴族どもでも、市民たちの中でも。そう致しますと……結婚式を取り行ったばかりの皇配殿下、皇帝陛下を庇って大怪我をしたトリスタン皇配殿下を、陛下はむげに放り出す、ということになります」
まったく無理だ。
そんなことをしたら、オドザヤは婚前に従姉妹で姉妹の大公の夫と通じ、それを隠してトリスタンとの婚礼を挙げたことになる。それも、秘密裏に子まで成して。
まさしく、酔っ払ってでもいなければ切り出せない馬鹿げた話だ。
オドザヤはつい最近になって、このことを思いついたのだろうが、エルネストをアベルの父にするなら、最低限、トリスタンとの婚約はアベルを妊娠した時に解消しておかねばならなかった。だが、その時点ではアベルが誰に似て生まれて来るかなど、分かりはしなかったし、未婚の女皇帝が身ごもったなどと知れれば、この国の誰もがオドザヤの皇帝としての資質を問うたに違いない。
アベルがオドザヤに似ていたら、きっと彼女もこんな話をでっち上げてまで、アベルを自分の後継者に、とは思わなかったはずだ。カイエンは装飾品をあまり付けようとしないオドザヤの様子から気がついていたが、彼女は母のアイーシャ譲りの美貌を、疎ましく思っている感がある。
と言うか、オドザヤはカイエンのように、このハウヤ帝国皇帝家の顔を持って生まれてこなかった自分を肯定的には捉えていないのだ。いくら世界に名だたる美貌を誇っていてさえも。
カイエンの脳裏に、そこまで考えて、次にさっと浮かんだのは、最近あまり会っていない宰相のサヴォナローラの顔と、ザラ大将軍、それに伯母のミルドラの顔だった。彼らの顔は揃って苦虫を噛み殺した上に、そのまま飲み込んだような渋い、いや、怒りの顔つきだった。
それだけではない。ザイオンの外交官はそれこそ泡を吹いて倒れかねない。ザイオン側は激しくオドザヤの不倫と不実を非難して来ることだろう。
彼らから見れば、こんな突拍子も無いことを、それも今になって言い始めたオドザヤは許しがたい小娘だろう。まあ、それが分かっているから、オドザヤもカイエン一人に、それも自分の寝室での囁くような声の会話で言い出したのだろうが。
そんな「事実」を今、公表したとしたら、不倫した皇帝のオドザヤも、不倫された大公のカイエンも、エルネストも、面目も信頼も何もかもを失うことになるだろう。反対勢力は美味しい餌に群がり寄ってきて、カイエンたちの今までに築いてきた信頼のすべてを真っ黒に塗りつぶそうとするに違いない。
「……それはダメだ。あ、まさか、陛下はあの女の敵の鬼畜野郎に心を寄せられているのですか!?」
カイエンはいつも丁寧に話しているオドザヤへの配慮も忘れて、低い声で呻くように言うしかなかった。
万が一にでも、オドザヤがエルネストに心寄せるなどということがあってはならない。それなら、麻薬を使い、姑息な手段でオドザヤに近づいたトリスタンの方が、女の敵とはいえ、いきなりの直接行為に出なかっただけ、悪党は悪党でも、なんぼかましな悪党だと言えるくらいなのだから。
エルネストがこのハウヤ帝国に来てから大人しくしているのは、大公宮では周囲が彼を監視しているからだ。そして、彼自身、いずれはせねばならぬ重大な「使命」を父、皇王バウティスタに命じられて婿入りして来たからでもある。
あの仮面舞踏会の翌朝、オドザヤが儚い恋から目を覚ます役割を担ったのは、確かにエルネストだが、それとこれはまったく別な話だ。
「アベルのために、と言うお気持ちは分かります。だけど、それをやってしまうのには、まずはエルネストを説得せねばならない。本人が『否』と言ってしまったらそこで終わり。秘密裏に彼に聞くことは聞いてもいいですが、外に漏れれば、陛下の信用はやはり地に落ちてしまいます」
オドザヤも気合いを入れるように、蒸留酒を口に含んだ。彼女としても、母として何としてもアベルを取り戻したい気持ちが抑えられないのだろう。それは、カイエンにもちゃんと理解はできていた。
「……お姉様はエルネスト様を夫として扱ってはおられないのでしょう? エルネスト様ご本人から、去年、あの仮面舞踏会の翌朝に聞きました。あんな酷い仕打ちを女性に対してなさった方を、お姉様は庇われるの?」
庇う?
カイエンは聞くなり、思い切り、ぶるぶると首を振った。エルネストを庇ってやる気など毛頭ない。
「陛下。……私はあんなやつを庇ったりはしません。ですが、あいつの私への執着心は今だに崩れていないのです。まあ、どうしてもとおっしゃるのなら、聞いてはみますが、あれは多分決してうんとは言いませんよ」
「どうしてなのですの!?」
オドザヤも考えに考えて、やっとカイエンに提案したのだろう。彼女はアベルが誰との間の子であるにせよ、サウルやカイエン、ミルドラに繋がるシイナドラド所縁の容貌を持って生まれてきたからには、次の皇帝に据えたいのだ。それを諦めきれないのだ。もう、その頃にはこのハウヤ帝国が崩壊しているかもしれないと予想していてさえも。
「陛下にも、サヴォナローラにもご報告していますが、エルネストがシイナドラドを出て、私のところへ婿入りしたのには、シイナドラド皇王家が、ホヤ・デ・セレンの封鎖前にエルネストをこの国へ「脱出」させたことには、この先の未来への布陣があるのです。彼は、父王バウティスタから、密命を受けてこのハウヤ帝国に婿入りしてきているんです」
オドザヤは何かを思い出そうとする顔つきになった。自分の必死な願いとは別に、皇帝として考察を先に進めていく辺りは、若干二十歳の女帝とは思えない冷静さがあった。
「……確かに、前に、ちょっとお聞きしたことがありますわね」
カイエンはうなずいた。そこを思い出してもらわねば困る。
「それだけではありません。私がエルネストの兄の、シイナドラド皇太子セレスティノの婚礼に招かれ、シイナドラドまで行って、無理矢理に星教皇にされて戻ってきたのには、皇王バウティスタの遠謀があったのです」
カイエンが囁くようにそう言うと、オドザヤは美しい白い額の中央で眉根を寄せた。
「それは……?」
「近い未来、私は星教皇として、シイナドラド第二皇子のエルネストに、アストロナータ神殿の武装神官や、熱心なアストロナータ信教の信徒の兵士を付けて、螺旋帝国の侵攻に怯える東の小国を救うべく、出征を命じることになるでしょう。……少なくとも、そうシイナドラド側では三年前に私を呼び寄せて星教皇に即位させた時には、もう決めていた。だから、私はシイナドラドへおびき出され、無理無体に星教皇に即位させれながらもこの国へ返され、後からエルネストが『婿入り』してきたのですよ」
話が進むに連れて、オドザヤの表情が曇っていく。
「それでは……それでは、エルネスト皇子殿下は、その時まで変わらず、アストロナータ神教の星教皇である、お姉様の『夫』でなくてはならないということですの?」
カイエンはふーっと息を吐いた。オドザヤの理解力の速さと、冷静さに感謝する気持ちだった。
「その通りです。彼はまさしく星教皇の片腕、配偶者にしてその代理人として、東の小国に襲いかかる螺旋帝国の脅威を晴らす軍勢の長になる必要があるんです。もしもの話ですが、陛下の皇配となってしまっては、それが不可能となる。皇配は皇帝を支える存在ですからね。このことは、私以上にあいつの方が意識しているはずだ。だから、今の陛下のご提案は私ものめないし、エルネストも断固として拒否するでしょう。いや、するはずです」
オドザヤはちゃんとカイエンの言ったことを理解したようだった。
彼女はもう、言葉を挟むことも出来ず、自分の「これならば!」と思いついた、アベルを公式に皇子にするための方策が、泡のように消えたのを感じているのだろう。まあ、元からカイエン一人に「相談」と言ったところからして、自分でも実現可能だとは思わないが、話すだけは話しておきたい、くらいの気持ちだったのは間違いない。
真面目にそんなことをしたらどうなるか、を滔々と説明したカイエンの方が、「馬鹿正直」にもほどがあるのかもしれなかった。
しゅん、とグラスをテーブルに置き、顔を膝の上へ伏せてしまったオドザヤ。カイエンはそっと杖を支えにして立ち上がり、彼女の隣に腰掛けた。その時になって、寝巻きの膝が葡萄の高級蒸留酒の大きな染みで汚れていることに気が付いたが、そんなことは今、どうでもいいことだった。
「陛下、まさかエルネストのことを好ましいとお思いになられているのですか」
カイエンはまさか、今になってこんなことを言い出すからには、最近、皇宮への出入りが増えたエルネストに、オドザヤが何か惹かれる気持ちがあるのか、と思ったので一応、聞いてみた。
蓼食う虫も好き好きというから、あんな女の敵の放蕩者でも、もしかしたらということはある、と思ったのだ。
トリスタンとの婚礼が済んだと思ったら急に、一度は市井の民としての人生を送らせるしかないと決めて秘密に出産したアベルを皇子として認めさせたい、と言い出したのだ。そんなことをしたら皇帝が婚姻前に婚約者がいる身で他の男、それも大公の夫である外国人の皇子に手を出した、という、これこそ取り返しのつかないような醜聞を巻き起こすのだ、と分からなかったはずもない。
それには何か、きっかけがあるはずだった。
すると、案の定、オドザヤは曖昧に首を振った。
「わかりませんわ。今、確かに私の一番そばにいてくれるのは、ウリセスです。でも、あの仮面舞踏会の次の日の朝、大公宮の廊下で、トリスタン王子の奸計にはまって抜け出せないでいた私に、そのきっかけを与えてくださったのはあの方なのです」
はあー、とカイエンは額を抑えて大仰にため息をつくしかなかった。オドザヤはあの時のエルネストの言葉を、親切ゆえと勘違いしているのだろう。あそこまで言ってくれるのだから、自分に特別な感情を持っていると思ってもしようがなかった。だが、実際には全然違うのだ。
エルネストがあの時、オドザヤに自分とカイエンとの、どうにもならない関係を暴露したのは、結局は彼自身が決定的にもう定まってしまった事実を確認するためだったのだから。
やっぱりオドザヤはカイエンなどと比べれば、人の母になったと言えども情緒的にはいまだに幼いままなのだ。本当に恐ろしい男、というものを知らないとしか思えない。
カイエンは、ここははっきりと言うことにした。
「ウリセス・モンドラゴンは、まあ、最初はいけ好かない男だと思っておりましたが、正直者でまともな男ですよ。と言うか、陛下への想いに溺れて、妻の不安な気持ちにも気が付かずに一途に付き添うなど、私が言うのもなんですが、馬鹿正直で人間関係の計算が苦手で、くそ真面目な男なのでしょう。あの男の陛下への忠誠と愛情は本物ですよ。外見は冷やっとしてみえるが、中身は案外情熱的なところがあるのですよ。私も驚きましたけどね。あれで厳しいサウル先帝陛下の親衛隊長になれたのが不思議なくらいです。そこはまあ、きっと、仕事となれば、必要ならば何にでも忠実にあたれる男なのでしょうね」
オドザヤは、カイエンがモンドラゴンをそこまで細かく見ているとは思っていなかったらしく、目を見開いて驚いた顔をしたまま、何も言えない。
オドザヤにとっては、モンドラゴンの勤勉実直生真面目なところが物足りないのかも知れない。
だが、異様な執着心でまとい付いて来る、程度や方向性は違ってもどこか異常な男、それもあの怪物、アルウィンが念入りに育て、仕掛けた「彼女専用」に作り変えられた男しか知らないカイエンから見れば、モンドラゴンは「まともな普通の男」だった。
「……エルネストは違いますよ。あれはこの国へ来てからは猫をかぶっていますが、元々は残酷で自分勝手な男です。自分に必要なもの、自分が欲しいもの、持っていたいものにしか関心を持たないし、気持ちを向けることもないんです。真面目に大公の夫として行動させるのに、お付きの侍従や私は苦労してばかりです。例の『使命』に関しては別みたいですけどね。そういう点では世間への対応は違っていますが、うちの男ども……ヴァイロンもイリヤも同じです。ヴァイロンもイリヤも、世間的には好感を持たれているし、仕事にも責任感があって真面目です。でも、ヴァイロンの私への気持ちには、私を助けるためなら世界をもぶち壊しかねないものが秘められているし、イリヤは自分と私以外の他の人間の命なんか、本当はどうでもいいんです。そもそも、拷問大好きで生臭い事件が生き甲斐という男なのですからね。私の邪魔になると決めたら、それが誰でも、私にも無断でさっさと消去しちまって闇に葬りかねない。……危険で扱いにくい男ばかりです」
長々とカイエンが、それも抑揚のない声でここまで言うと、オドザヤはぶるっと身を震わせた。
ヴァイロンにしろ、イリヤにしろ、そこまでの男とは思っていなかったのに違いなかった。確かに、オドザヤの目に映っていた、大公軍団軍団長としてのイリヤや、帝都防衛部隊隊長としてのヴァイロンは、カイエンの下できびきびと無駄なく働く、極々真面目な男たちに見えていただろう。
「……そう言えば、エルネスト皇子は、去年、あの仮面舞踏会の翌朝も、最後にこんなことをおっしゃいましたっけ。自分は私のために喋ったのではない。突き詰めれば、あの方ご自身のため。……ご自分は最初っから、このぬるま湯みたいな場所に長居は出来ない、お姉様たちのお仲間にはなれないって、知っている、と」
(それに、お姉様は政治的なことを抜きにすれば、別にあの方を必要としていないけど、ご自分の方は違うって。お姉様に執着しているのは、最初っから愛なんて上品なものじゃないって。お姉様のすべてを喰らい尽くして、自分もお姉様の一番の餌として貪り喰われたいからだって言っていたわ。そんな妄想からもう逃げられない哀れな男だとも。愛なんか知らない。お姉様があの方を拒絶していても、目の端にでもお姉様の姿をとらえていたいんだとも言われていた。もう触れさせてもくれないと分かっていても、指の先だけでも触れていたいんだ、って)
後半はオドザヤの唇の中のつぶやきになってしまったが、聞いていたカイエンには大体のところは分かった。
確かに、自分とエルネストとはそうに違いなかった。
「陛下。トリスタン王子は、エルネストだのヴァイロン、イリヤだのに比べれば、悪いと言っても底の透けて見える悪党ですよ。踊り手という芸術家である部分、純粋な部分があるからでしょう。シリルさんが踊りを仕込んだのは、彼にとっては救いになったのでしょうね。でも、陛下だけでなく、国にいた頃にも邪魔な貴族の令嬢やなんかを母上のチューラ女王の命令で、色仕掛けでいいように弄んでいたようです。その女王の軛からも自由になれたのですからね。今日のお茶会でも素直に話をしていたじゃないですか。エルネストはトリスタン王子を、自分の悪党の子分みたいに思っているみたいですけれどもね。モンドラゴン子爵家の方は、うちで見張りをつけて、シンティア夫人が馬鹿なことをしないように監視しています。ですが、彼には陛下から注意して、シンティア夫人を利用しようとする人間と接触させず、家にも目配りをするようにさせたほうがいいでしょう」
「そうですわね。……ウリセスは一途なところがあるから、そういう所の気配りは出来ていないのでしょうね。注意させますわ。……アベルの方は……」
オドザヤはまだ諦めきれない、とでもいうのだろうか、しばらく続きを言えなかったが、グラスの中の酒を一気に喉に流し込むと、迷いは断ち切ることに決したようだった。
「アベルのことは、シリル様からうかがえますわ。もうそろそろ、ご自分のお家に戻りたいとおっしゃっていましたから。トリスタン王子のところへは、これからも裏から顔を出すようにする、と言われていましたから、その時にアベルのことは聞けます。お姉様、可能性があるかも、と思いったらいてもたってもいられなくて、馬鹿なことを『ご相談』してしまいましたわね。もう良くわかりました。ちっとも似ていなくても、アベルの父親がトリスタン王子である可能性だってあるのですもの。私、彼を愛そうとは努力は出来ませんけれど。今は、まだ」
ああやっぱり、とカイエンは思い、それが当然だな、とも思った。トリスタンは当初、確かに初心なオドザヤを麻薬を使って弄び、彼女の初めてを奪ったのだから。そんな男を急に受け入れられようはずもない。
「それでいいのでしょう。……それより、せっかく陛下のご寝室にまでご招待いただいたのです。陛下、どのような男性がお好みなのか、聞かせてください。まさか私が探してきて、陛下のこの寝室へ送り込む、なんてことは出来ないですし、モンドラゴンが邪魔するでしょうけれど」
カイエンはテーブルの上から新しいグラスを取り上げると、自分でさっさと酒を満たした。今夜は酒に呑まれない程度には飲もう、と思った。それはオドザヤも同じだろう。
「あら、お姉様こそ、教えていただきたいと私、ずっと思っていたのですわよ。あの、お姉様曰く『異常な執着』のお二方とのことをうかがいたいわ。だって、こんな話、今夜のような機会でもなければうかがえませんもの!」
そうして。
もう、さっきまでの話など無かったように、カイエンとオドザヤは生まれて初めて、姉妹として自分たちの恋愛模様を赤裸々に話し始めたのだった。
同じ頃。
皇宮の後宮のマグダレーナの部屋には、夜も遅いというのに、後宮の女官長が訪いを入れていた。
「夜遅くにすみませんね、ベルナディータ」
マグダレーナは栗色の髪をきれいに梳かして寝巻きの上のベアトリア風の豪奢なガウンの背中に垂らし、もう寝る準備を整えていた。そして、ゆったりとソファに半分寝転ぶように構えた様子は、尊大と言ってよかった。
側にはいつも控えている侍女の姿はない。マグダレーナただ一人だった。
そんなところへ呼び出されて来た、後宮の女官長、ベルナディータ・チャペーロは皇帝の女官長であるコンスタンサと同じくらいの年齢だろう。娘の時分からこの皇宮へ侍女奉公に出て、そのまま年老いてきた女だ。
もっとも、外見の方はずいぶん違っていて、糸杉のように細くて背が高く、姿勢のいいコンスタンサに対し、このベルナディータは背丈はあるが、ずいぶんとがっしりした固太り、とでもいうしかない体型だった。だが、その体つきは締まっており、顔つきも無表情で特徴はないが、長年この皇宮で高貴な人々に仕えて来た貫禄があった。
夜中だというのに、きっちりと地味なドレスに身を包み、その身ごなしには隙がない。
「いいえ。サウル様が崩御なさり、コンスタンサと職分を入れ替えられましてからは、そう忙しくもございませんので」
ソファの前で、深々と礼をしたままの姿勢で、そう答えた声音には、ほんのわずかだが不満のようなものが感じられた。「入れ替えられた」という部分がそうさせたのだろう。
「そう? それならいいのだけれど。ねえ、ベルナディータ、あなたもまだまだこの皇宮で尽力したいと思っているのでしょう? この後宮へ配置換えになってからというもの、なんだか塞ぎ込んでいる様子だから、ずっと気に留めていたのですよ」
マグダレーナの声音はねっとりとして、まるで自分の巣に獲物を呼び込む女郎蜘蛛のようだ。
「ありがたきことでございます。このような老いぼれを御心にかけていただき、このベルナディータ・チャペーロ、感動いたしました」
だが、それに対するベルナディータの返答は型にはまった固い物言いのままだった。
「そうね。正直にいうと、別につい先日まではあなたのことなんか、気にもかけていなかったのだけれど。でも、ちょっと他の女官から面白い話を聞いたものだから」
マグダレーナがこう言うと、そこはさすがに数十年をこの皇宮を泳ぎ渡って来た古強者らしく、ベルナディータは今夜ここに呼ばれたのが、この先帝サウルの第三妾妃の気まぐれではないことに気が付いたようだ。
「……何か、特別の御用でございましょうか」
口調も固くなり、ベルナディータは上目遣いにマグダレーナの方を見上げるようにした。
「いいえ。ただ、聞いた話が本当かどうか、確かめたかっただけ。……ねえ、あなたは十年以上も、ずっとサウル陛下の女官長だったんですってね。それが、サウル様のお最期が近付いて来た頃、急に遠ざけられたとか。宰相のサヴォナローラが側につくようになって、侍従も一人を除いてほとんどお側にはお寄せにならなくなった、違う?」
マグダレーナがこの言葉を言っている間も、「顔を上げなさい」との一言がないばかりに、腰を曲げたまま礼の体勢をとったまま置かれていたベルナディータの体が、わなわなと震え始めた。
もう若くはない体には、腰を曲げたままの体勢を保つのがきつくなって来たのか、とも見えた。
だが、ベルナディータがマグダレーナの問いに応えるべく、口を開いた途端、それは体の問題ではなく、彼女の心の同様であることがはっきりと分かった。
「……誠に、間違いなく、その通りでございます。サウル陛下におかれましては、そのまま、宰相と一人の侍従に身の回りのすべてをお任せになり、遂に、遂に息を引き取られるまで、目通りは許されませんでした。あのような秘密の通路があること、アイーシャ様を死出の旅へ連れていかれようとなさったこと。すべて、あの宰相めは知っていたのでございましょう。ですのに、ですのに……」
「ぽっと出の内閣大学士上がりの宰相だけが、サウル様の最期の希望を知らされ、その意に従って行動した。それなのに、長年、サウル陛下のお側にあったあなたには、何の沙汰もなかった、そうなのかしら?」
相手の神経を逆撫でするようなマグダレーナの言いように、ベルナディータはわなわなとなおも、おそらくは怒りに体を震わせたまま、黙っている。
「顔を上げなさい、ベルナディータ」
尊大な口調でやっとそう、マグダレーナが命じると、ベルナディータはようやく顔を上げたが、それを見たマグダレーナはちょっと驚いた顔をした。彼女がベルナディータを呼んだ理由からして、ベルナディータの顔には怒りの表情があるのだろうと予想していたのだ。
だが、そこに見えた中年、いやもう老年に差し掛かった女の顔には、滂沱の涙があった。
「……悔しゅうございます。このベルナディータ、二十年近くサウル陛下のお側にお仕えしておりました。陛下のために身も心も捧げて参ったのでございます! それなのに……ああ、サウル陛下は私を最後の最後に遠ざけられた! 理由もなく、ただただ、お側に控えることさえお禁じになられた」
さしものマグダレーナもこんな反応があるとは思っていなかった。だから、彼女は先ほどまでの尊大な態度はそのままに、黙って聞いている他なかった。
「そして、新帝オドザヤ陛下は、皇帝の女官長の地位さえ、私からお取り上げになり、あのコンスタンサと入れ替えられた。悔しゅうございます。コンスタンサが憎うございます!」
コンスタンサが憎い。
その言葉を聞いた途端、マグダレーナははっとして表情に喜色さえにじませた。
「そうなの。じゃあ、オドザヤ陛下のことは? コンスタンサと入れ替えられたのは、オドザヤ陛下のご意向でしょう? そっちはどう思うの」
ゆっくりと獲物の首を絞めるように、マグダレーナはベルナディータを追い込んでいく。
「ねえ、正直なところを聞かせて? 同じこの後宮に閉じ込められたも同然じゃないの、私たち。ね、私になら話せるでしょう?」
マグダレーナは確信していた。ちょっとした侍女たちのこぼれ話から、このベルナディータの境遇を聴き込んだが、この女は使えそうだ、と。
「あなた、もしかしてサウル陛下を……?」
その声はもう、猫撫で声としか言えないような、いや、もっと恐ろしいものを秘めた、怪しい声音だった。
マグダレーナさん、いい手駒を見つけたか?
というところで、次回は二週間後の予定です。




