いまは亡き少女のためのパヴァナ
「はしり去るなにをか得んと人の世にぶちのめされる朝に戻れば」
神官サヴォナローラがマリアルナ・リオハの墓碑に捧げた言葉
その時。
皇宮の屋上で開かれた、オドザヤがトリスタンの回復を待って行った、小さなお茶会。そこでトリスタンに請われ、意外な面々の手で奏で始められた、打楽器に後押しされたラウードと、ケーナ、それにチャランゴの物憂げな音律。
それを聞いた時、カイエンは自分の心が、今いる場所からすっと抜けていくような感じにとらわれていた。
その曲をもう、十年あまりも前にも聞いた事があったからか。
そして、それをあの時、オルガンで弾いてくれた人は、もうこの世にはいなかったからか。
その人の名前を、ついこの間、偶然に思い出させられる出来事があったからだったのか。
ラウードの音色は、カイエンを十年前の大公宮、カイエンがまだ公女宮と呼ばれていた奥殿の部屋に住んでいた時へと、くるくると巻紙を開くように、彼女を連れて行ってしまったのだった。
八月。
カイエンは皇宮で久方ぶりに開かれた、皇帝オドザヤの小さな集まりに出ていた。
それは、皇配トリスタンの容体も安定し、すでにトリスタンの失われた右足の足首から先に装着する義足を作るべく、カイエンの紹介で甲冑師で装具師のトスカ・ガルニカが、トリスタンの元へ挨拶に赴いてからしばらくしてのことだった。
集まりは午後のお茶会、とでも言ったもので、招待されている者も皇宮と大公宮の、オドザヤやトリスタンに近しい者たちだけだった。
集まりの趣旨は、単純に大怪我から回復し、トスカ・ガルニカの工夫した車椅子に座っての移動が出来るようになった、トリスタンの気晴らし、とでもいうものだった。
カイエンやオドザヤが聞いた、外科医とトスカの見立てでは、トリスタンは一刻も早く、松葉杖を使っての「歩行訓練」を始めないと、問題のない左足の筋力までもが萎えてしまう、ということだった。
人間は一ヶ月も寝たきりで過ごすと、健全な足でも立つことが出来なくなるのだそうだ。
ずっと寝たきりだったアイーシャが薬の作用とは言え、死の前にほんの少しの距離とは言え、歩いたらしいことを知っているカイエンやオドザヤは、この話を聞くと、薬物の恐ろしさにゾッとしたものだ。
トリスタンの場合にはすでに今も、寝台に寝たままではあったが、左足の筋力を維持するための訓練が日々、始められていた。これはこういう種類の怪我人を多く見てきた、トスカの指導によるものが大きく、大公軍団の外科医も熱心にやり方をメモを取っていた。
彼曰く、「怪我している方の足に負担をかけず、健常な方の足の筋力を維持するのは意外に難しいのだ」と言う。大公軍団の怪我人達は元々が体丈夫自慢な男が多いので、今までは当人達が転んだり倒れたりしながらもなんとかしていたのだそうだ。だから、医師としてはそこまでの面倒を見たことがないと。
ここで話を元に戻すと、この茶会は、皇帝ではあるがまた、新妻でもあるオドザヤが、自分の代わりに大怪我を負ったトリスタンを慰労するためのものだった。本来ならば、夫婦二人の間で解決できるはずのことだが、この二人の場合には深く複雑な過去の事情がある。
オドザヤは、二人だけでは話も弾まず、この国で一番高貴な夫婦だというのに、このままでは自分たちは歩み寄ることも出来ないだろうと思ったのだ。皇帝夫婦がこんな状態では、現在、かなり難しい状況を呈している、政治の方へも影響が出かねなかった。個人的にも、公式にも。
だから、オドザヤが姉で従姉妹のカイエンをも巻き込んだのは、まずはエルネストとは仮面夫婦のカイエン同様、トリスタンと二人では気まずいこと。それに、そこにトリスタンの兄、情勢が収まるまではザイオンへ返せない、皇宮での滞在も長くなった、リュシオン王子も呼ばないわけにはいかなかったことが大きいのだろう。
オドザヤとトリスタンは、去年の二月のザイオン外交官官邸での仮面舞踏会の夜、一度だけだが結ばれたことがある。だが、その時オドザヤは桔梗星団派の影響下にあったトリスタン、そしてその手足となって動いていた侍女のカルメラによって麻薬中毒の状態にされていた。
大公宮のカイエンとリリの誕生会で見たトリスタンの踊りを見た瞬間、彼に一目惚れしたオドザヤは、その気持ちを麻薬とカルメラの巧みな誘導によって固定され、この国の皇帝たる身でありながら、自らが何をしているのかも分からぬまま、トリスタンの毒牙にかかってしまったのだった。
だが、正にその直後、彼女はすぐにザイオン公邸からカイエンらによって救い出された。
そして、いくつかの幸運というか運命に導かれるように、オドザヤはその翌日には未だ麻薬中毒のままではあったものの、正気を取り戻した。と言うよりも、「新しいオドザヤ」がそこに生まれたのかもしれない。
そこには、母のアイーシャがサウルの元に走ったのちも、アルウィンに気持ちを残したままであったこと、その「女ゆえの浅ましさ」、「初恋の無残な最期」、そしてそんなアイーシャを愛し続けていた、父サウルの哀しさを知ったことが大きかった。
(……哀れな、みっともなくて醜い女。外見だけ飾り立てて、自分自身の中身を磨こうとはしなかった馬鹿な女の気持ちに気が付いたからよ。それでもそんな女が好きでたまらなかった男の必死な気持ちが分かったからよ)
オドザヤはオルキデア離宮へ呼び寄せたトリスタンに、高飛車といって良い態度でそう言ってのけたが、今になってみれば、オドザヤは自分はアイーシャ同様の「哀しく哀れな女」かもしれない、と思わないでもなかった。彼女の「初恋」は無残に砕け散った。それは、結果だけ見れば恋の「虚像」でしかなかったのだから。
いや、あのアベルがトリスタンとの子であったなら、アイーシャにおけるカイエンのように、「恋の屍」は残ったのかも知れない。だが、事実としてアイーシャは一生涯、カイエンを愛さなかったし、オドザヤが昨年、秘密裏に産み落としたアベルの父親が特定出来るわけでもない。
オドザヤはアベルに会いたい、そばに置きたいとは思っていた。
だが、生まれてすぐに引き離された息子との距離は、生まれてしばらく大公宮で育てられていたこともあって、アベルの伯母に当たるカイエン、叔母のリリよりも遠いものだった。
初恋の夢から覚めたオドザヤは、その直後からウリセス・モンドラゴンを始めとする不特定多数の貴族の男達と、閨を共にした時期があったのだ。今になって思えば、初恋の崩壊した後の過剰反応のようなものだったのだろうが、その代償は大きかった。
オドザヤは初めての子であるアベルと引き離され、アベルはオドザヤの第一皇子でありながら、市井でシリルとアルフォンシーナによって、平民として育てられることになったのだから。
というわけで、オドザヤとトリスタンはもうすでに「他人」ではなかったわけだが、一度冷めた想いを取り戻すことは難しかった。トリスタンの側は最初から、オドザヤになんら恋心など抱いてはいなかったのだからなおさらだ。
そんな二人が夫婦になるかならざるか、という婚礼の日に、皇配になったばかりのトリスタンはパレードでの襲撃によって大怪我を負った。
オドザヤとしてはなんとも複雑な思いを抱えていた。本来なら大怪我を負っていたのは皇帝の自分だったはずだ。その気持ちはどうしても拭い去ることは出来なかった。
だが、自分の代わりに怪我をしたからと言って、一度は自分を騙して純潔を奪ったトリスタンが、再び愛おしく見えてくるわけもない。
だが、このまま、カイエンとエルネストのように仮面夫婦を貫き、婚前にあのオルキデア離宮に呼びつけたトリスタンにオドザヤが言った通りに、
(もう決めたから言うわ。……あなたはいずれ、わたくしの配偶者になるの。それで、わたくしの産んだ子供の父親はすべてあなたってことになるわ。いいわね?)
ということにするのか、と言われれば、そこにもまだ迷いはあったのだ。
だから、大公宮からはカイエンと『一応夫』のエルネストも招待されていた。こっちの方は、はまさしく「仮面夫婦」であったし、そのことはオドザヤもトリスタンも知っていたから、間に挟まってくれれば、少しは話しやすいかとオドザヤは考えたのだ。それは狡い考えだったが、オドザヤはカイエンなら許してくれるだろうと思っていた。
リリも来たがり、これは許された。リリの中身が複雑怪奇な代物であることは、オドザヤにもまだよくわかってはいなかったのだが、それでもリリが「普通の二歳児」ではないことだけは理解していた。
そうなると未だ後宮で不満に燻っているのだろう、先帝サウルの第三妾妃のマグダレーナには、この集まり自体、聞かせられないことになった。
リリが出るのだからと、先帝サウルの唯一の男子、オドザヤの「推定相続人」のフロレンティーノ皇子を参加させれば、当然、母親のマグダレーナがおまけについてくる。それはオドザヤも、カイエンも、そして肝心のトリスタンも望まぬことだった。
夏の一番、暑い時期のことだったが、場所は小高い丘の上にある皇宮の中でも、一番、上空にある場所が選ばれた。この案を出したのは、意外にも一人のかなり年のいった侍従だった。
その侍従は平の侍従のまま、数十年をこの皇宮で過ごしたそうで、つまり世渡りに長けてはおらず、上にへつらうこともせず、今まで来たことになる。
その、もうそろそろお暇を頂戴する年頃になった侍従は、この日のことがある前から、皇帝の女官長であるコンスタンサ・アンヘレスに選ばれて、皇配トリスタンの側仕えに選ばれていた。もちろん、その前には彼の実家や背後関係について、彼女は厳しく調査をしている。
上にへつらわず、実直に長年努めてきたこと、それと、実は先帝サウルが晩年の療養中に自ら選んで、病に衰えた体を直接に世話させた、当時の皇帝の女官長以外では、たった一人の侍従だったからでもあった。
当時のサウルの女官長は、今、住む人の少なくなった後宮の方へ回って働き続けている。コンスタンサよりも年長の彼女は、多くの皇宮、皇帝家の秘密を知るゆえに、生きている間はこの皇宮を出られぬさだめにあった。
コンスタンサはサウルがその最期に、すでにリリを産んだのちに狂気をきたしていた、皇后のアイーシャを死出の旅の道連れにしようとしたことを思い出すと、そこには宰相のサヴォナローラだけではなく、最後の日々の世話に当たっていた侍従の協力もあっただろう、と推測したのだ。
それを本人が意識していようといまいと、サウルの最後を見届けた侍従となれば、先の女官長同様、平のままの侍従といえども、この皇宮に骨を埋めさせるしかなさそうだった。
それを抜きにしても、死病のサウルを長く世話していたとあれば、今度は怪我人ではあるが、トリスタンへの気配りも違ってくるだろうと思ったのだ。
そして、その駄目押しとなったのが、今度の集まりの場所が決まった時のことだったのだ。
モデストというその老侍従は、七月の終わり頃、オドザヤが自分の居間で、コンスタンサやイベット、それに護衛のブランカとルビー、一応は親衛隊長であることからそこに呼ばれたモンドラゴンなどを相手に、
「なるべく涼しく過ごしやすく、そして、ひと月以上も一室に籠りきりのトリスタンの気が晴れるような場所はないか」
と、ああでもないこうでもないと話していた時、偶然に茶菓を運んで来たのだった。
普段なら他の侍従が持ってきたのだろうが、トリスタンの病室もオドザヤの皇帝宮の中にある。
どういう具合だか、この時は手が空いていたモデストが茶菓を持って静々と入ってきたのだ。この頃はトリスタンのそばに父のシリルが残っていたので、モデストの手が空くこともあったのだろう。
そして、誰にも見向きもされぬ中、静かに紅茶をカップに注ぎ入れていた、モデストが呟くように言った言葉が耳に入ると、女たちは一様にびっくりした。
「……私などが口を挟みますのは、僭越なことではございますが、屋上庭園はいかがでしょう。普通は建物の上は暑いものですが、この皇宮の中でも、皇帝宮の上は、防水された天井の上に、素焼きのタイルが敷かれております。ですから、水を撒けば涼しく過ごせるのです。そこに、数代前の皇帝陛下の御代に、皇帝陛下が宵涼みのために設けられた、洒落た瓦屋根のある展望台がございます。そこからぐるりと見下ろす、ハーマポスタールの街並みは、遮るものもございませんから、それはそれは壮大で美しい眺めでございます。先代のサウル陛下はほとんどお使いにならなかったので、植物の植えられた鉢なども片付けられ、荒れておりますが、今回の集まりにいらっしゃる方々ならば、皇帝宮の中にある階段をご利用いただいても構わないのではないでしょうか」
オドザヤもコンスタンサも、そんな場所は知らなかったので顔を見合わせた。イベットやブランカ、それにルビーなどは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするしかない。サウルの時代からの親衛隊長のモンドラゴンも、その存在は知らなかったようだ。
「え、庭園? 屋上にそんなものがあったの? それに、そんな階段、どこにあったかしら。さすがに、私の部屋のそばからリュシオン王子殿下を出入りさせるのは……」
オドザヤがそう言うと、コンスタンサもうなずいた。
モデストは慌てなかった。
「恐れ入ります。階段は表よりこの皇帝宮へ入ってすぐの踊り場の奥にございます。普通の鍵では開きません。もう一つ、陛下の御寝所の側からも秘密の階段がございますが、そちらは非常時に外へ出るためのもので、こちらは陛下もご存知と思います。こちらは屋上庭園の向こうの別の壁に囲まれた通路に出ます」
「そなた、どうしてそのようなことを知っておるのか? 先ほども最近、屋上へ出たような言いようだったな」
コンスタンサは役割上、そっちの方が気になったようだ。
「お疑いはごもっともでございます」
モデストはいつも薄目で周りを見ているような、重たげなまぶたの下から、柔らかい目で女官長を仰ぎ見た。長身のコンスタンサは彼よりも背が高かったのである。
「女官長様はご存知のように、私は先帝サウル陛下の御晩年にお世話をさせていただいておりました。まだ、お一人でお歩きになれた頃、サウル陛下は幾度か、気晴らしにと屋上庭園へ上がっていかれたことがあるのです。その時はいつも私が一人で、お供致しました」
オドザヤもコンスタンサも目を見張った。
それでは、このモデストは、平の侍従でありながら、晩年のサウルがそこまで信用していた侍従ということになる。
「わかりました。……そなた、長年、ただの侍従のまま、お父様の一番お近くに居てくれたという訳ですね。侍従長よりもサウル陛下はそなたを信用、信頼していらしたのでしょう。モデスト、お前、今、信用して屋上庭園へあげてもいいと思える侍従は幾人いますか」
オドザヤがそう問うと、モデストは即座に答えた。
「申し訳ございません。あそこへ、サウル陛下とともに上がった侍従は、私一人でございます」
モデストの答えを聞くと、オドザヤはすぐに決断した。
「そう。それじゃあ、申し訳ないけれど、イベット、あなたとコンスタンサ、それにブランカとルビー、モデストの五人で用意をしてもらうことになるわね。それと……申し訳ないけれど、シリル様と大公軍団から差し向けられた外科医の先生にもお力を借りましょう。トリスタン様の治療では、大公軍団の軍団長の怪我の時も手当を担当なさったという、あの先生がやはり一番頼りになったわ。きっとこれからもお世話になることでしょうから。それに、せっかく、お父様やモデストが守ってきた秘密の場所ですもの。存在を知る者は少ないに越したことはないわ。こういう集まりはこれからもあるかもしれないから、この場所はそれ用に取っておきましょう」
オドザヤは屋上庭園ともなると、彼女の「家族」以外では「背後関係の把握できている、腹心の使用人」以外には知らせないほうがいいと判断した。コンスタンサは「大公軍団の外科医」とオドザヤが言った時に、訝しげな顔をしたが、オドザヤは自分がアベルを産んだ時の産婆のドミニカ・ホランと、この外科医が、大公宮の執事のアキノなどと故郷を同じくすることを聞いていたから、特に信頼を寄せていたのだった。
最後に、オドザヤは部屋の隅の方でそれまで無言のまま、座っていた現在の自分の愛人兼警備隊長のウリセス・モンドラゴン子爵の方を見た。トリスタンとの交流目的の茶会に、この男を同席させるわけにはいかない。しかし、全然蚊帳の外、というのもなんとなく不安だった。
オドザヤはモンドラゴンを愛しているのか、とは何度も自分自身に問うていた。だが、どうしても答えは見出せないままだった。彼女は、アベルの妊娠が分かってからの彼の献身を疑ってはいなかったし、彼はそのアベルの父親の可能性だってあるのだ。
最初は皇帝としての自分の「一番近くに元からいる第一の駒」を自由にあやつる為、計算ずくで身を任せたのだったが、男女の仲というものは、続けばそこにお互いになにがしかの情愛のようなものは形成されていくものだ。
「ウリセス、あなたは親衛隊長の仕事の方が大切だから、いいわ。……でも、当日は警備に付いていてもらおうかしら」
モンドラゴンも、自分の社会的には危険な立場や、職務についてはもう、達観していたから、ただ一言、
「承りました」
と、答えてあとは壁際の彫像のように直立不動で立っているだけだった。
「大変だろうけれど、やってみてくれる?」
オドザヤが皆を見回してそう言うと、コンスタンサはモデスト共々、深々と首を垂れ、うなずいたのであった。
そうして、この小さな集まりは、皇宮の屋上で開かれることになったのだった。
カイエンやオドザヤ、それにコンスタンサ達使用人をのぞいた客の人数はほんの数名。それでも、準備に当たる事が出来る人数が少なかったので、会合の準備はそれなりに大変だった。それは主に、最近使われていなかったが故の荒れた様子をなんとか見るに耐える状態に見せることに重点が置かれた。
ルビーとブランカ、それにイベットはモデスト共々、必要な物品を屋上に上げるだけでも、結構な労働となった。だが、一回、荒れた部分を修復し、椅子やらテーブルやらを用意してしまえば、二度目からは楽になるので、苦労のしがいはあった。
彼女達も、最初に屋上に上がって、そこからの眺望を見晴るかした時には、思わず、「わあっ」と声をあげてしまったくらい、素晴らしかったのだ。
客たちは、恐れ多くも皇帝宮の入り口近くの隠し階段から上へ案内されることになっていた。
もっとも、隠し階段とは言っても、踊り場の壁一面が青銅製の重い扉になっており、横に引き戸のように開くようになっていたので、客たちはせせこましい思いはせずに済んだ。トリスタンの車椅子でさえも、男二人で抱え上げれば、上へ上げられるだけの幅のある階段だった。
オドザヤが驚いたのは、ここの青銅の扉を開ける鍵が、カイエンと二人で分けて持つ、あの「星と太陽の指輪」だったことだった。
皇帝の寝所から出る事が出来る場所へ繋がった、もしもの場合に逃げ延びる隠し通路の一つになっていたからだろうが、そのためにカイエンは集まりの前の日の午後、皇宮へ上がらなければならなかった。
そして、当日。
男手が圧倒的に足りないので、エルネストは皇子の身分であるのにも関わらず、カイエンに、
「お前、今、帝都防衛部隊と、フィエロアルマでの訓練中で、筋力をあげている最中のはずだったよな?」
と、半強制的に命じられて、大公軍団の外科医、それにトリスタンの父のシリルと一緒になり、まだ歩けないトリスタンを屋上まで運び上げさせられた。実際はエルネスト一人でも、怪我を負って体重の減ったトリスタンは運べたかも知れないが、足の状態を考えて、外科医は三人がかりでゆっくりと運ぶことにしたのだ。
まさか、まだオドザヤとの関係が続いているらしいモンドラゴンに、トリスタンを運ばせるわけにもいかなかったということもある。こんなところでいらぬ火種を起こすのは、今日の茶会の主旨からして、得策ではないだろう。モンドラゴンは警備はするが、客の目につく場所には出ないことになっていた。
「へええ! こいつは洒落たもんじゃねえか。なあ、ザイオンの王子さんご兄弟よ。あんたの国でも、こんな眺望は見た事がないんじゃねえか?」
トリスタンを屋上に上げてしまい、車椅子に座らせると、へそ曲がりのエルネストでもそこからの展望には思わず、こんな声が出てしまった。
これに、運ばれていったトリスタンにくっついて来た兄王子のリュシオン王子は、かなり積極的に賛意を示した。
「ほうほう! これは素晴らしい! アルビオンの王宮も街中よりは高い場所に建てられておりますが、このような眺望は得られませんですよ。まあ、このハーマポスタールという街の広いこと! 屋根の色やら壁の色が、コロニアごとに違っているのも、美しいですな。冬が長くて灰色のアルビオンとは大違いだ。……それにこの夏の西の大海の青さたるや! 北のザイオンにおったら一生目にできなかったでしょうねえ。大海の水平線がぐるりとこんなに長く続く様など、螺旋帝国か、はたまた南のネグリア大陸か、それにこの国でなくては見られぬ絶景でございましょう!」
リュシオン王子も、もういい加減、弟の見舞いしかすることのない日々に飽き飽きしていたので、トリスタンに似てはいるが、やや締まりのない顔に、素直に興奮した表情を浮かべている。その顔はあどけないと言ってもいいほどで、エルネストや弟のトリスタンとは違って、意地悪さも、曲者っぽさも微塵もない。
そして、その服装は……あのトリスタンの病室への専門控え室や、彼が今滞在している客殿の部屋と同じく、可愛らしい少女が選ぶような色目の布地や、可愛らしいサテンやレースのリボンを使った代物なのだった。服の意匠だけは男物のそれなだけにかえって奇妙に見えるが、これでドレスだったらもう、「異装趣味」というよりは「女装」になってしまっていただろう。
この頃になると、オドザヤもコンスタンサも、そして、皇宮の奥に仕える使用人たちも、誰もリュシオンのこの「奇抜極まる格好」に驚かなくなっていた。慣れとは恐ろしいものである。この日、初めて見た、カイエンとエルネストが一番驚愕したのは間違いない。
前の日にカイエンとオドザヤの二人が首から外して、本当に久しぶりに「一つの指輪」となった「星と太陽の指輪」。それを持って開かれた屋上庭園は、風雨に晒されてはいたが、床の素焼きのタイルが意外と損なわれていなかったので、会合に使われる屋根のある部分だけをとりあえずきれいに掃除し、他の部分は生えていた雑草を取り払えば、それなりに見栄えがするようにはなっていた。
素焼きのタイルは脆そうで、歩くのには皆、気を使った。だが、そのせいでゆっくり歩くことになるので、それが、そこから見える展望を楽しむ余裕ともなる。
ちょっとしたあずまやのようになった、屋根のある場所が、階段を登ってしばらくタイル張りの上を歩く先に見える。そこには元から大理石造りの大きなテーブルが用意されていたので、コンスタンサ以下の「労働力」たちは軽い籐椅子を運び上げるだけで済んでいた。
そうして。
オドザヤにカイエン、エルネストとリリ、トリスタンとリュシオンの兄弟に、トリスタンの父親のシリル、という「主客」は大理石のテーブルに向かって腰掛けていく。
オドザヤは長いテーブルの片側の真ん中に座り、左右にカイエンとトリスタンが座った。
その向かい側に、エルネストとリリ、それにリュシオン王子が座る。シリルはトリスタンの横に彼を支えるようにして座った。本当ならカイエンはオドザヤと向き合って座るべきだったが、オドザヤが不安そうな顔で袖を引くので、彼女の隣に座ることになったのだった。まあ、これはエルネストの隣よりはカイエンにも有難かった。
同時に、コンスタンサやルビー、ブランカやイベットは、ここに集った高貴なる人々の邪魔にならぬよう、大理石のテーブルを囲むように積み上げられた低い壁の向こうへ下がっていった。
オドザヤは夏の午後の茶会にふさわしい、軽やかな空色に白に近いレモン色の切り返しの、細身でやや胸元の開いた袖なしのドレス。そして、カイエンも今日はさすがに黒い制服ではなく、銀色がかった藤色に、オドザヤと合わせたようなクリーム色と金糸で刺繍の施された、背中の開いた、洒落たドレスを身にまとっている。
二人とも、黄金色と紫色と、色は違っても量の多いたっぷりした髪を上品に大きな細かく彫刻された銀の櫛で巻き上げて結っていた。
カイエンは装飾品といえば、いつものヴァイロンの紫翡翠の耳飾りと指輪だけだったし、オドザヤも小さな宝石しか身につけてはいなかったから、二人の様子はこの国の一位、二位の身分を持つ女性たちとしてはおとなしやかに見えた。
男性陣も、トリスタンはやや彩度の低い濃緑の上着に白いレースの襟を覗かせていたし、エルネストもいつもの無彩色のなりながらも、夏らしい軽やかな色合いの紗のシイナドラド風の上着だったから、リュシオン王子のヒラヒラでかわいらしい服も、そう浮きまくってはいなかったのは幸いだった。
そうすると、もう集まった人々の目の前には、テーブルの上にある、遅い昼餐というか、午後のゆったりしたお茶会によく出てくるような食べ物が広がっている。
食べやすいように小さく切られたサンドイッチや、小さく薄めに焼かれたパンケーキ。これは用意されたバターや蜂蜜、ジャムなどを付けて食べるのだ。あまり甘くないので、ゆで卵を刻んで玉ねぎと和え、酸っぱいクリームで混ぜたものや、ハム、カリカリに焼いて油を抜いたベーコン、薬味の入った油漬けの塩辛い小魚、野菜などを挟むようにして食べても美味しいですよ、とコンスタンサが説明する。
その他にも、小さな串に刺さった、一口大の魚介や肉料理、それにあまり甘くない夏の豊かな果物で彩り豊かに飾られたケーキなど、色とりどりの食物の大皿が並んでいるのが見える。夏なので、冷たく冷やした果物のゼリー寄せなどもあった。
飲み物の方は、テーブルの脇に置かれたワゴンの上に果汁から茶、そして酒に至るまでが豪勢に用意されていた。
「きゃあ!」
エルネストが膝に載せているリリが大喜びするだけでなく、こうしたかわいらしいもの好きなリュシオン王子もまた、笑みくずれるような顔になる。
この時、さらに料理の皿を運び入れて来たのは、侍従のモデストだったが、その顔を見た、カイエンはちょっと驚いた。
モデストはかなり顔色が浅黒い。だが、その髪の色は白髪混じりの亜麻色で、目の色はどうも胡桃色らしかったからだ。
これを知っている人間は極めて少ないが、モデストのこの外見的な特徴は、カイエンの護衛騎士のシーヴや、宰相サヴォナローラの護衛である、武装神官のリカルドに酷似していた。
(お前も、ラ・カイザ王国の末裔なのか?)
カイエンはもうちょっとでそう聞こうと思ったが、あえて抑えた。聞いてもどうということのないことだとすぐに思いついたからだ。ただ、帰る時にシーヴに教えてやろう、とだけは思った。カイエンの護衛のシーヴと、エルネストの侍従のヘルマンは、皇宮の表の従者の待合室で待っているはずだ。
オドザヤは客が揃うと、穏やかに今日はこのハーマポスタールで一番高い場所からの眺望を楽しんでほしいこと、そして、飲み物も食べ物も存分に楽しんでくれるようにと宣言した。
お客の方はそれぞれに、今日、ここへ呼ばれて来た理由は悟っていたから、それぞれに心中は複雑だったかもしれないが、とりえず目の前に用意された、眺望の素晴らしさを愛でながらの飲み食いに徹することには同意したようだった。
そして、この日の余興として、準備の間に話の出来上がっていた、シリルと、そして意外な面々が楽器を手にカイエン達の前へ出て来たのは、お客達が胃の腑をそれなりに満たした後だった。
「わー! シリルおじちゃま、その楽器はなあに?」
最初に声をあげたのはリリだった。自分の知った顔が、自分の知らない物を手に、颯爽と出て来たので、猫をかぶるのも忘れてしまったらしい。
それまでリリは用心深く、二歳児のふりをしていたので、リュシオン王子などはかなりこの時のリリの話ぶりには驚いた顔をした。
シリルの方は、アベルの誕生の後、しばらく大公宮へ出入りしていたから、リリのこまっしゃくれた言葉にも驚きはしなかった。普通の二歳児とは様子が違うことにも、彼はあまり頓着もしなかったのだ。
そういえば、トリスタンの兄のリュシオン王子にしてみれば、シリルは、母であるチューラ女王の「愛人」であるシリル・ダヴィッド子爵であるはずだ。だが、そのあたりの事情は、シリルが出奔する方がリュシオンが国を出るよりもはるかに早かったこともあり、リュシオン王子にも承知の上のことになっているらしかった。毎日のように、弟のトリスタンの見舞いをしていれば、自然に看護しているシリルの姿も見ていたのだろう。
「本日は、専門の楽団をこの場所へ呼ぶわけにも参りませんので、陛下もお困りのところ、素人ではございますが、楽器の出来る者が数人、おりましたことが準備の中で判明いたしました。とんだ田舎楽団ではございますが、ないよりもまし、まさに余興としてお耳汚しをさせていただきます。音が空から聞こえるので、皇宮の下の方では変に思うかもしれません。ですが大丈夫です、練習のために我々皆、ここ数日以上、皇宮のあちこちから雑多な時間に音を出しておりますので、今日もそれだろうと思われるでしょう」
そう、挨拶したのはシリルだった。さすがは元、舞踏団にいたこともあり、今も踊り手として稼いであるだけあって、シリルの口上は見事なものだ。大人しくて、いるのかいないのかもわからない、ザイオン女王の愛人、シリル・ダヴィッド子爵しか知らないリュシオン王子は、この流れるような口舌をぽかんと口を開けて聞いている。
練習のために、ここのところ皇宮のあちこちで……というのは、皆が集まれる場所と時間がばらばらだったからなのだろう。
「私のこの楽器は、皆様もご存知のラウードでございます。宮廷の楽団でも奏者がおりますので、皆様ご存知でしょう。私の腕は素人に毛が生えたほどのものですが、なんとか弾いてみようと思います。そして、……こちらの三人の楽器は、ザイオンにもございますが、宮廷よりも下々の祭りなどで使われるものでございます」
シリルがそう言うと、カイエン達の前に出てきたのは、まさに意外な面々だった。
「外科医殿のこれは、チャランゴと申しまして、ラウードよりもかなり小さい弦楽器ですが、音は素晴らしいものです。このハウヤ帝国の南方ではアルマジロの甲羅を使うこともあるとか、次は……」
なるほど、外科医の大きいが繊細な作業むきな手に抱えられている楽器は、弦を手で弾く楽器だが、小ぶりの瓜くらいの大きさしかない。
外科医の後から進み出てきたのは、何と、ルビーだった。
「そして、こちらのルビー殿は元は神官でいらっしゃいますから、祈りの時に使う打楽器でございます。これも神殿では大小使うそうですが、拍子を取るにはなくてはならぬものでございます」
最後に、ルビーの後ろから出てきたのは、侍従のモデストだったから、これにはオドザヤもコンスタンサもびっくりした顔をしている。彼女達もこのにわか素人楽団の面子については聞いていなかったのだろう。
「最後に、モデスト殿のはケーナ、という葦の縦笛でございます。素朴な楽器ですが音は大きく、このラウード同様に主旋律を奏でることが出来ます」
そこまでシリルが口上を述べ挙げる終わり頃には、もうルビーはいつもの仏頂面で小さな太鼓でリズムを取り始めており、その意外に艶のある音に皆がおや、と思った時には、もう演奏が始まっていた。
曲は、シリルが主になって演奏したのはザイオンのもので、大公軍団の外科医が主になったものが、このハウヤ帝国の田舎民謡だったらしい。
田舎民謡といっても、このハーマポスタールの街中で辻立ちの楽士が弾いているような有名なものばかりだから、街中へ出ることも多いカイエンは耳にしたことがあった。コンスタンサやイベットなども、引き込まれて調子を取ったり歌があるものはさわりの部分で小声で歌ったりしていた。
実は、一番知っている曲が少なかったのは、皇帝のオドザヤだった。宮廷生まれ、宮廷育ちの彼女には、音楽といえば子供の頃、素養として習わされたオルガンで弾いていた宮廷音楽だったのだ。それでも彼女は初めて聞く、ザイオンやハウヤ帝国の庶民の音に、微笑みを浮かべて聞き入っていた。
外国人だが、夜の享楽皇子として読売りを賑わせているエルネストなども、夜の遊里で聞いた曲があったようで、そこでは足で拍子を取ったりしていた。
トリスタンとリュシオンの王子二人は、ザイオンの懐かしい曲の時はなんとなくうれしそうだったし、トリスタンは動く方の足で踊りのステップをたどったりもしていた。もう、右の足首から先がないことには慣れたように見えた。
トスカ・ガルニカが厳密に寸法を測って作った、義足の「試作品」をそろそろ持ってくることになっていた。まだ、義足を装着して歩く練習をするには時間がかかるが、左足だけで松葉杖を使って動けるようになれば、右足に体重をかけないように注意しながら長さやら何やらの調節に入れるのだそうだった。
驚いたことに、本来踊り手のシリルは、
「いや、弾けるとは言っても、素人に毛が生えたようなものでなんとか弾いてみる」
と言っていた割には、ラウードを弾く手さばきも見事だったし、音も素人のカイエンたちには美しく響いた。
侍従のモデストがハウヤ帝国の田舎ではもっとも普通の縦笛、葦笛、大公軍団の外科医がラウードよりも小さい弦楽器のチャランゴが出来たことだけでも驚きだったが、彼らも真剣な顔でどうやら音を外さずにやりおおせたようだった。
彼らも、この集まりでは楽師なども呼べないだろうと、自ら考えて自分の楽器を持ち込んだというから気が利く。それにしても、これだけ音を合わせるには、時間もかかっただろう。どこでやっていたのかは知らないが、自分でも練習を重ねただろうから、この茶会の準備もあったモデストなどは寝る時間もなかったのではないか。
一通り、彼らの演奏が終わると、カイエン達は立てるものは立ち上がって、大いに彼らの労をねぎらい、素晴らしかったとの賛辞も忘れなかった。
そこで、演奏の間は聞き入っていたので喉が渇いた人々は、てんでに好きな飲み物を喉に流し込み、にわか演奏者達も、オドザヤの指示でイベットが捧げ持ってきた飲み物を受け取って、ほっと一息ついているようだった。
それまでは、食事中もずっとオドザヤの方は見もしなかったトリスタンが、急に隣のオドザヤと、その向こうのカイエンの方へ声を掛けてきたのは、そんな、ほっと場が静かになった時のことだった。
「ねえ、このハウヤ帝国でも、パーティーではパヴァナを踊るのかな?」
あまりに唐突な質問だったので、えっ、とカイエンもオドザヤもとっさに返事に詰まった。
実のところ、彼女達は「パヴァナ」という群舞の一種の知識はあったが、自分がしたことはおろか、見たことさえなかったからだ。
カイエンはもちろん、踊りなど踊ったことなどないし、このハウヤ帝国の宮廷ではパヴァナなどという、人々が行列になって踊る大仰なシロモノは、貴族たちの家々の宴会のことは知らないが、カイエンの祖父のレアンドロ帝の時代を最後に、この皇宮では踊られたこともなさそうだった。
何よりも、もう、義足が出来上がって普通に歩けるようになったとしても、前のようには踊れるはずもないトリスタンだ。そんな彼がそんな話を始めたのだから、カイエンもオドザヤも返事に困ったのは致し方なかった。
トリスタンの方も、なんともいえない表情のカイエンとオドザヤを見て、自分の言葉の足りなかったことに気がついたらしい。
「ああ! 僕が言ってるのは、パヴァナの曲目の方さ。『いまは亡き少女のための孔雀舞』って曲、お父さんたちに演奏してもらえないかと思ってさ。あの、ちょっともの寂しい音を、宮廷の小洒落た楽器じゃなくて、そこの楽器でやってもらったのを聞いてみたいんだ」
いまは亡き少女のための孔雀舞。
カイエンもオドザヤも、そしてエルネストも、その題名に聞き覚えはあるように思ったが、曲の内容も音も思い出せなかった。それは、三人が三人とも、音楽にはそれほどの造詣を持っていなかったという証左だった。
リュシオン王子の方は、ふん、ふん、とと鼻歌と一緒に音を追うように顎を動かしているから、思い出しはしたようだ。
「またどうして、そんな曲目を思い出したんだい? 前に騙した女と一緒に踊りでもしたんだろ」
もう、トリスタンは自分の子分、くらいに思っているらしいエルネストが際どい言葉でまぜっ返す。トリスタンの方も、エルネストの毒舌には前回の見舞いで散々にやられているから、苦笑いで返した。
「まあ、そんなところかな。さっき、ハウヤ帝国の曲の中に、ちょっと感じの似たのがあったんだ。それで思い出したのさ。庶民の流行曲なら、元は同じかもしれないだろ?」
「王子殿下、似てたというのは、どの曲ですか」
もう一ヶ月以上も治療に当たっているから、トリスタンとも気安くなっているのか、チャランゴを爪弾いていた、大公軍団の外科医が聞くと、トリスタンは曲のさわりのところを鼻歌でやってみせた。外科医は、ああ、と言うようにチャランゴで弾いてみせる。その音は大体、合っているようだった。
「これなら、『亡き恋人達の踊り』っていう曲です。題名も似ているし、元はザイオンのものだったのが流れてきたんですかね」
外科医がそう言うと、ルビーとモデストも、「ああ」という顔になった。初めての曲は無理だと思っていたのが、ちょっと安心したらしい。
「私は弾けるけど、こちらのお二方はどうかな? ルビーさん、拍子は確かに同じなんだけど、ちょっとゆっくりめで。他の方は、一回弾いてみますから、音を追っていただけますか? 繰り返しのところだけでも楽器が合わさると感じが全然、違いますから」
外科医とモデストは顔を見合わせたが、ここまできて「出来ない」とも言いかねたのか、それとも実は自信があったのか、うなずいてみせた。
さすがに一回聞いただけでは、外科医もモデストも旋律を取ることは出来なかったが、モデストの方が耳が良かったらしく、彼はしばらく変な音を立てていたが、少しすると繰り返しの主旋律の部分はなんとか、指の動かし方が分かったようだ。それを聞いているうちに外科医の方も弦の抑え具合が分かったらしい。
そして。
うん、うん、と自分以外の三人の音を確かめていたシリルだったが、だいたい合ったと思ったのか、いきなり音を上げて曲に入っていく。
一度目はなんだか危なっかしかったが、二度目になるとかなり音はきれいに合わさってきた。
その時。
カイエンは、「あっ」と思っていた。
聞いたことがある。
それは、大公宮のカイエンの子供部屋。思い出した記憶の風景の中のカイエンは、十か、十一くらいか。十二になる前であったことは間違いない。だって、十二になった頃には、もう彼女は大公宮へは来なくなっていたから。
あの、マリアルナが最後に大公宮へ来て、暇乞いをした日にカイエンの部屋のオルガンで弾いてくれた曲。
それが、この曲だった。
いまは亡き少女のための孔雀舞。
マリアルナ・リオハ伯爵令嬢は十一で、格上の侯爵家との婚約がまとまり、淑女教育……という名の花嫁教育に入るために、カイエンの遊び友達としての役割を返上することになったのだった。
マリアルナが、なぜこの曲を別れの日に選んで弾いたのかは、カイエンには分からなかった。だが、十七で亡くなったマリアルナのその後を思えば、それは、マリアルナが自らの将来を予知していたかのようではないか。
(静かにたゆたう湖の湖面をさらっていく、風のように……変化のない毎日のなかで、ふと振り返った先に見えた、森林の梢の緑のように。流れて去っていく時代を追っていく涙のように……)
平板とも言える曲調の中で繰り返される、川面の一瞬の輝きのような音が印象的だ。
曲の最後は、静かに、約束された、永遠の安寧へと流れ込んで吸い込まれていくようだ。だが、そこには諦めがある。間違いなく、安寧を感じながらも、やり残したことを振り返るような、哀しい諦めが。
カイエンはもう五つほどの時から、貴族の男子かそれ以上の教養を身につけるべく、家庭教師がついていた。貴族の女子はオルガンなどが弾けることが素養でもあったから、その頃からオルガンの教師にも付いていたのだが、カイエンは音楽が苦手で、ついにオルガンの演奏は人に聞かせられるようなレベルには仕上がらなかった。
そんな勉学中心の毎日ではあったが、彼女の遊び友達として集められていた、貴族の子女達がいた。
その中で、最後までカイエンの足のことで彼女に嫌な思いをさせることもなく、いじめのような陰湿な嫌がらせをすることもなかった少女がいた。
マリアルナ。
彼女はカイエンがついにブチ切れて、いじめっ子たちの襟首を掴み、頭突きや平手でボコボコにやっつけ、特に意地の悪かった子供などは杖を横にして膝を後ろからぶっ叩き、庭の池に突き落としまでして、追い出してしまった後に、たった一人だけ、夢のように残った少女だった。
彼女自身は他の子供達とも普通に遊んでいたにも関わらず、だ。
彼女はカイエンが加われないような、走って、動きが早い方が有利な遊びばかりしたがる子供達の中で、ただ一人、カイエンと二人で出来る、それも体を動かさない遊びに誘い、一緒に遊んでくれた子供だったのだ。
十七で、彼女の臨終の床に請われて行ったカイエンは、リオハ伯爵夫妻から、「娘は女ながらも、いつか国立医薬院への入学が許されるのを信じ、医者になるのを夢見ていた」と聞いた。婚約者も決まり、淑女教育を受けながらも、そんなことを両親に漏らしていたマリアルナ。
それはたとえ国立医薬院に女子の入学が許されたとしても、貴族の娘であり、婚約者もいる彼女には夢でしかないことであったのに。リオハ伯爵夫妻は、きっと娘の気持ちを「夢は夢」と知りながらも、咎めずに聞いてやれる人たちだったのだろう。
奉仕活動にも積極的に参加し、そこで当時はまだ先帝サウルの内閣大学士だったサヴォナローラと出会ったとも聞いている。
(マリアルナ様はアストロナータ神殿に帰依なさり、短い時間ではありましたが、奉仕活動を熱心になさっておられました。素晴らしいお方でした。大きな希望を持っておられました。最初はよくある貴族のお嬢様の気まぐれと思いましたが、あの方は違いました。あの方は、真摯に社会の歪みを見ておられました。そして、それを少しでも良くするために、ご自分ができることは何かと、常に考えておられました)
最初にサヴォナローラと会った時、彼が言っていたマリアルナの姿。それは、あの時の十八のカイエンには、残念ながらすべては実感出来なかった。だが、二十二になった今なら分かる。この、ハウヤ帝国が、パナメリゴ大陸が、大きく変わっていこうとしている時代になってみれば。
そして、まだ十やそこらの彼女が、一人だけカイエンの「痛み」を理解しようとしてくれたのは、そんなことを、もしかしたらもう子供の頃から考えていたからなのかも知れなかった。もしかしたらマリアルナは、カイエンなどとは次元の違う目で、子供の頃から世界を眺め渡していたのかもしれない。
あの最後の日、彼女はこの曲を弾き終えた後、なんと言ったのだったか。
カイエンは思い出そうとしたが、思い出せなかった。
なぜ、覚えていないのだろう?
ああ、それはまさかあれが、意識のある、元気な彼女との最後の別れになるとは思いもしなかったからに違いなかった。マリアルナがあの曲を選んだのには、何か、彼女なりの理由があったはずなのに。
「カイエンっ!」
「大公殿下ッ!?」
「お姉様! どうなさったの!?」
「おい! しっかりしろ」
隣のオドザヤに手を握られ、後ろからはコンスタンサに声をかけられて、カイエンははっとして顔を上げた。
それまで、カイエンは白日夢の中にいるように、ゆらゆらと体を左右に揺らしながら曲を聞いていたのだが、正面に座っていたエルネストとリリは、途中から訝しげにカイエンの方を注視していたのだ。
そして、曲が終わると共に、見開かれたままのカイエンの灰色の目から、滂沱の涙が溢れてくるのを見ると、他の人々も思わず声をあげてしまったのだった。
「え……?」
カイエン自身も、周りがざわつくのを感知して初めて、自分が泣いているのだということに気が付いた。
「お聞きになったことがあったのですね?」
素人楽団の中から、シリルがラウードを置いて歩み寄ってきていた。
カイエンはうなずいた。隣からオドザヤがきれいなレースのハンカチを渡してきたので、申し訳ないとは思ったが、それで涙を拭わせてもらう。
「ええ。それが、もう五年も前に亡くなった友人が、最後に会った時にオルガンで弾いてくれた曲だったもので……」
カイエンは正直にそう説明して、また涙が出そうになった。
覚えていた。
言葉は忘れてしまったが、あの時のマリアルナの表情の方は。
あれは、今になって思えば、哀しさの混じった笑顔だった。まだ十一だったのだ。彼女とても婚約は現実的なものではなかっただろう。だが、もうあの頃から彼女が医師になりたいと思っていたのなら、彼女はカイエンとは違い、現実と自分のしたいこととの間にある、深くて広い、決して埋められぬ溝を見ていたのだろう。
「……大公殿下は、まさに『いまは亡き少女』を思い出されたのですね。確かに、この曲は優しい曲です。音だけ追っていれば。風の吹き抜ける森の木の梢や、湖の水面のゆらぎのような、安らぎを感じますね。でも、曲が進むに従って、見えてくるのは……」
カイエンはシリルの言葉を遮った。
「……諦め、だ。……そうだろう?」
シリルと、そしてその場にいたものの中では、トリスタンが同じ人工的な色ガラスのような緑色の目に驚きの色を浮かべた。
「……はい。そうです。ああ、まさしく大公殿下には見えていらしたのですね。私と同じものが。私は見えるというよりは、体が勝手に踊りを求めて感じるんですが。大公殿下は絵画に造詣が深いと、皇帝陛下からうかがいました。感じる場所は違っても、言葉にすれば同じなのですね。でも、この曲にある諦めは、もう亡くなった少女のものです。我々、まだ浮世に残っている者の諦めではありません」
シリルはそう言ってくれたが、トリスタンの方は、辛辣だった。
「ふん。僕は別に自分に『諦めるな』なんて言うつもりで、この曲を選んだわけじゃないよ。偶然だ。……僕に諦められちゃ、困るのはあんた達の方だろ?」
トリスタンはそう言うと、カイエンとオドザヤの方をジロリと睨みつけ、やけのように自分の取り皿の上の果物のタルトにフォークを刺し込み、口の中へ放り込んだ。
「お父さんも、リュシオン兄さんも! 僕が皇配殿下としてちゃんとしてないと、困るんでしょ。この国はタダ飯は食わしてくれないよ。ここの二人の女どもが立派な一人前の男どもを顎で使いやがる国なんだ。役に立たなくなったら、猛獣の前にほっぽり出されて生贄の羊にされちまうよ」
トリスタンの言う、「猛獣」とは、桔梗星団派、そしてその後ろにいる螺旋帝国のことだっただろう。
シリルはともかく、リュシオン王子の方はトリスタンの言うことが半分以上理解できなかったようで、しばらく黙って周りをうかがっていた。だが、ザイオンへ帰って、婿入り先の貴族の屋敷へ戻るよりは、ここにいてふらふらさせてもらっている方が自分には都合が良さそうだ、という単純な発想では納得したらしい。
「わかったよ、トリスタン。私もすぐにはザイオンへ帰れやしないからねえ。まあ、あっちには世継ぎの姉上も、ジュスラン兄上もいるんだから、私なんか居てもいなくても、だしね。婿入り先でも妻がうるさくて嫌気がさしてたんだ。……お前はうまくやっているって、母上に手紙を書くよ。お前が言っているのはそう言うことだろう?」
トリスタンはうまくやっている。
今度の婚礼のパレードでトリスタンが大怪我をしたことは、もうすでにザイオンの外交官を通じてザイオンのチューラ女王の元へ伝えられていた。だが、トリスタンがオドザヤの「取り込み」に失敗し、意のままに動かす駒にすることに失敗したことは、自分の保身を考えた外交官が報告しなかったために、未だにザイオンへは伝わっていないはずなのだ。
「お願い致しますわ、リュシオン王子殿下」
オドザヤが間髪入れずにそう言うのを、カイエンは頼もしい想いだけでない、複雑な思いで聞いていた。
「お姉様、今夜はこちらにお泊りになりません? ねえ、そうしてくださいませ」
カイエンは、屋上での茶会がおひらきになった時、オドザヤが腕を取ってきながら、そんなことを言ったので、ちょっとびっくりした。
「……いいですが。それでは、エルネストとリリは先に帰せと言うことですね?」
カイエンがそう聞くと、オドザヤは静かにうなずいた。
「お姉様の護衛の騎士の方にも、お部屋を準備させますわ。馬車は明日、こちらから用意させます。ね、いいでしょう? お姉様」
そう、自分よりも背の低いカイエンを、わざわざ腰をかがめて見上げるようにするオドザヤの目つき、顔つきは、まさに魔性の美しさだ。
カイエンは自分には、逆立ちしても真似できない、この妹で従姉妹の様子になんだかどぎまぎしながらも、承知せざるを得ない。何しろ、相手はこの国の皇帝で、自分は臣下の第一たる大公なのだから。
「はあ。何か、ご相談ごとですか」
カイエンは何気なく聞いたのだが、返事がわりに見せたオドザヤの表情は、一変していた。
「はい! このことだけは、お姉様以外には相談の持っていく先がございませんのよ!」
断言するオドザヤの顔を見て、カイエンが思ったのは、ただただ、「やっかいな相談でなければいいが。きっと厄介ごとだろうな」という、「未だ生きているものとしての世知辛い諦め」だけだった。
ちょっと今回は内輪な話の回。次回も前半はそうなります。
皇宮の屋上、必要なしには出しません。でも、この時代設定で360度展望台は、珍しいと思います。
 




