殺しの前の極意
七月二十八日の夜。
大公宮奥殿。
大公カイエンの私的な食堂で、例年通りに行われたヴァイロンの誕生日の宴は、彼にごくごく親しいものたちだけが招待されていた。
今年、少し様相が違っていたのは、まず、集まった皆がそれぞれの所属の制服姿だったのと、大公軍団に鉄砲と短銃をもたらした、デメトラ号の三人がいたことだった。これは、昼間に鉄砲と短銃の「試し撃ち」をし、そのままそこに集められた面子が夜のささやかな宴に流れ込んだからである。
船に密航し、船員を一人、また一人、と殺しては海に放り込んでいた、あの漆黒の怪人を追っかけてきて、オドザヤの婚礼のパレードで警備中のトリニと出会ったアメリコと、船長のバルトロメ・グレコ、それにアメリコの先輩の海軍士官であるガストンの三人。
彼らは昼間の試射でも緊張していたが、この宴ではもっと緊張し、食堂の隅の隅でカチコチに固まっていた。
彼らの次にここには慣れていない、ルビーとリカルドが、「ご同類〜」とばかりにそばにいるのが可笑しい。ルビーと同じく女性隊員のトリニの方は、ザラ大将軍に取っ捕まって、何やら武道談義に引き摺り込まれている。
今宵の宴の主役である、帝都防衛部隊長ヴァイロンのこと……彼らもヴァイロンがカイエンの最初の男であること、というか先帝サウルの命令でフィエロアルマの将軍から大公の男妾に落っことされた事件は、もちろん噂で聞き知っている。あれはハウヤ帝国の外にまで広まった大事件だったのだ。
その他の顔ぶれも、にわか海軍から見れば、ハウヤ帝国の陸の守護神というべき、そうそうたる顔ぶれだったから、彼らが萎縮したのも無理はなかった。
そもそも、場所が大公カイエンの私的な食堂だ。
そこには、大きな長テーブルがいつものように置かれていたが、この日は立食形式だったから、テーブルを囲む椅子のほうは壁際に小卓と共に置かれていた。テーブルの上には、すでに冷製の前菜の大皿や取り皿、それに各種の酒の瓶とグラスが用意されている。
夏だから、中庭への大きな窓は解放されており、虫を防ぐために中庭へ続くポーチや、中庭の中にある小卓や椅子の方で焚かれた薬草の匂いが、かすかに匂ってくるのも季節感を感じさせた。
ここの主人であるカイエンは、養女のリリを膝のそばに抱き寄せて、庭に面して置かれた、いくつものソファの方に座っていた。三人掛けのソファは二つあり、その一つにザラ大将軍と並んで座っていたのだ。
ザラ将軍の向こうには、武道談義に取っ捕まったトリニが床の絨毯に直に膝をついて、将軍の質問に楽しそうな顔で答えている。その様子は、まるで祖父と孫が話しているようだ。
リリは体は二歳児でも頭の方はもう、思春期の少女に近い部分さえあったから、こんな大人だらけの宴でも戸惑った様子は全然ない。ザラ大将軍は深い事情こそ知らなかったが、リリがとても二歳児とは思えない表情と言葉で挨拶しても、驚きはしなかった。去年、イリヤがカイエンを庇って腹を刺されたおりの、まだ赤ん坊だったリリの活躍を聞かされていたからだろう。
向かいの三人掛けには、エルネストとマテオ・ソーサが座っていた。つまりは今日ここでの身分、肩書きの高いものがそこに座っていたことになる。
シーヴやヘルマン、それにガラはそれぞれの「主人」の後ろに控えており、双子の治安維持部隊隊長の弟のヘススも、後を複数いる副官たちに任せて表から奥へやって来ていた。治安維持部隊の双子は、自分たちが万一の事件事故でいなくなった場合を考え、去年あたりから何人かの「副官」を選抜して、自分たちの職務を手伝わせていた。実際に、先年、マリオはヘススに化けた百面相の仲間に殺されかけているから、当然の対応ではあった。
ヴァイロンは元同僚のジェネロやチコ、イヴァンたちと、今は夏だから火のない暖炉の側で話に花を咲かせている。オドザヤの結婚式の直後、ヴァイロンはジェネロとは会っているが、チコやイヴァンとは久しぶりなのだ。
ジェネロのフィエロアルマ以外のアルマはすべて、今、ハウヤ帝国の東、そして南北の三つの公爵家の領地に駐屯し、国境の向こうを公爵家の兵団と共に睨んでいる。西に大海を抱えるハーマポスタールを守る西のフィエロアルマだけが、帝都に残っていたのだった。
「やあ、来たな!」
人はほとんど揃っていたのだが、乾杯がまだだったのは、今、カイエンが声をかけた三人がまだだったからだった。この三人が、今宵の宴が例年とは違うことの二つめだった。
執事のアキノや、侍従長のモンタナたちは、料理の皿を並べ、乾杯の用意に取り掛かっていたので、食堂の扉を開けたのは、影使いのナシオだった。それは、そこから入場してくるのが、ついこの間までは彼と双子のように働いていた同輩、シモンと、その妻となるはずの人間だったからだろう。
もっとも、未だ影使いのままのナシオの姿は、そのまま扉の影からどこかへ消え去ってしまった。
「ロシーオ! おめでとう!」
ザラ大将軍と話していたトリニが、さっと立ち上がってそばに駆け寄っていく。
そこにいたのは、ザラ大将軍から派遣された大公宮の「影使い」を辞め、帝都防衛部隊隊員に所属を変え、そして一緒に入ってきた、同じく帝都防衛部隊隊員のロシーオ・アルバと結婚することになっている、シモンだった。
トリニが二人に駆け寄った時には、もう、カイエンの食堂にいた二十名ほどの皆が、万雷の拍手と、そしてイリヤかなんかの音頭でか、ひゅうひゅう、と冷やかすような口笛も二人に向けられていた。
シモンの方はあい変わらず、どこにでも居そうな顔立ちで、見てもすぐに忘れてしまうような、特徴のない顔立ちをしている。それが「影使い」東西南北四人に選ばれた理由なのだからしょうがない。だが、こうして一人の「人間」として、明るい場所で名前と照らし合わせて見れば、皆が「ああ、こんな顔だったっけか」ともう記憶できるように思えてくるから不思議だ。
彼ら二人が結婚を意識するまでになったのは、やはり、帝都防衛部隊と影使いが連携してことに当たる事案が多かったからだと聞いている。確かに、トリスタンが踊り子に化けてこのハーマポスタールに乗り込んで来た頃、彼らは一緒に捜査に当たる機会が多かった。何より、トリスタンを追ってやって来たシリルを見つけたのはロシーオ達だったのだから。
二人の正式な結婚式と、披露の宴は、婚姻の神殿の神官を呼び、ロシーオの実家のある、コロニア・ビスタ・エルモサの「マリーナおばさんのププセリア」で、近く行われることになっていたが、今宵はその前祝い、のようなものだった。
それは、結婚式にはロシーオと仲良しの大公軍団員や上司、近所の皆などが多く招待されていたが、身分がら、シモンの元主人のザラ大将軍や、大公のカイエンなどはそこに列席出来ないことから、今日この宴に招待することが思い付かれたのだった。
いつもは溌剌としているロシーオだったが、この夜は制服こそ着ていたが、顔を真っ赤ににしてうつむきがちだ。そのうつむいた先に、ロシーオと手をつないでいる最後の一人の顔を見つけると、カイエンの脇から、リリがちょこちょこと歩いていった。
リリの目指す先に、なんとも言えない顔でロシーオとシモンに挟まれて立っているのは、ここへ来るのは初めてのロシーオの息子、ティグレだった。
顔立ちは猫っぽいロシーオより、名前のように虎寄りで、子供なのにしっかりした顎をしている。
全体としては、あまりロシーオには似ていないが、目は金茶色で、虹彩の中心だけが緑色に光っている。まぶたが切れ上っていて、ほとんど猫の目のように見えるところは母親とそっくりだ。ロシーオもトリニほどではないが大柄な女だからか、ティグレも六歳ほどの年齢の割には体が大きい。
ティグレというのは「虎」という普通名詞で、普通ならそのまま男の子の名前になることなどほとんどない。彼の名前は、ヴァイロンと同じく獣人の血を引く母親のロシーオが彼を産み落とした時、まるで虎のような黄色と黒の縞の毛で全身が覆われていたからだという。
でも、もう六歳ほどになったティグレは、普通の子供と変わったところは見えなかった。一つ、違っているのは、黄色の髪の中に、ひと束だけ、真っ黒な毛が混じっていることだけだ。
その髪の毛の色の方はかなり目立ったので、ティグレ本人は、近所の子供たちに「虎っこ」「虎の子」などと言われ、困惑するような年頃になったところだった。
そこへ来ての母親の再婚、というか、ティグレの父とロシーオは結婚しなかったので、彼としては初めての「父親」が出来ることになり、彼なりに理解しつつも困惑していたところだった。
「こんばんはっ」
ティグレは、向こうからちょこちょこ歩いて来た、まだ赤ちゃんがやっと歩き始めたような小さな女の子が、達者な言葉で話しかけて来たので、びっくりしたようだ。
「あたし、リリ。リリエンスールっていうの。今はこの大公宮のお姫様、って言ったらあたしなんだよー。あんた、ティグレでしょ? カイエンから聞いてる。事情はややっこしいから話せないんだけどー、あたしはこの通り、体は小さいけど、もうちゃんと話せるから、今日は一緒に遊ぼ? 外の他の子達がやってる遊び、教えて欲しいんだ!」
ティグレも大公宮へ上がるにあたっては、よそ行きの服を着せられて来ていたが、彼の目の前のリリは、自分で選んだ夏向きのふわふわとして軽い絹地の子供向きにしては斬新な、紫と白の二色の布が重なり合ったドレスを着ていた。
その大人びた色合いの服も、達者な言葉を喋るリリが着ていると、しっくり見えるから不思議だ。
リリが強引にティグレを引っ張って、カイエンの方へ連れて行ってしまうと、その後ろ姿をロシーオも、シモンも呆然と見送っていたが、トリニとナシオに促され、彼らは食堂の中央に連れてこられた。
「揃ったな!」
カイエンがそう告げると、アキノとモンタナ、それに侍従やサグラチカ、女中頭のルーサなどが冷やされた各種の酒の瓶の口を開け、グラスに注ぎ始める。
それを洗練された動作で侍従たちが銀盆に載せ、二十人を越す人々の間を歩き始めた。
カイエンは赤ワインを、エルネストやイリヤなどは最初っから、黄金色のロン酒のグラスを取っていく。
ヴァイロン達もそれぞれに果実酒や蒸留酒を手に取った。
実は下戸のグレコ船長などは、あたふたしてしまったが、すかさずモンタナが、生姜をガス入り水に溶け込ませた飲み物や、新鮮な果実を絞った果汁などのグラスを持って急行したので、改めてこの大公宮の洗練と抜かりなさにぺこぺこと頭を下げてしまっていた。
もうその頃には、若いアメリコや士官のガストンは落ち着いて来ていたから、それぞれに珍しい高級蒸留酒のグラスを手にしていた。
「飲み物はいいか? では、ここの帝都防衛部隊隊長ヴァイロンの誕生日と、ロシーオとシモンの結婚を祝って、乾杯!」
カイエンが自分の持っている赤ワインのグラスを突き上げると、皆が陽気にそれに唱和する。
「シモンめ、影使いが表に出て来て、嫁さんもらうなんぞ、普通ならありえんのだぞぉー!」
カイエンの横で、元のシモンとナシオの主人である、ザラ大将軍が、この頃目立って皺だって来た目尻に涙のようなものを浮かべてそう叫ぶと、自分の蒸留酒のグラスを高く掲げ、すぐにカイエンのグラスに叩きつけるようにした。その様子は、
(お前のところへ人を送り込むと、みんなおかしな具合になってしまう。困ったものだ)
とでも言っているようだった。
ザラ大将軍のところからやって来たのは、シーヴと、ナシオとシモンの三人だけのはずだが。
カイエンはちょっとびっくりしたが、すぐにそばに来たヴァイロンと乾杯し、それからも彼女の周りには我も我もと乾杯をねだる人々が群がったので、しばらくは動くこともできなかった。
そうして、なんだか不思議な面子で開かれた、宴だったが、そこに至るまでにはあの、試し撃ちの時の覗き見事件の始末があった。
大公宮での鉄砲と短銃の「試し撃ち」の最中に、大公宮の裏庭を囲む古の修道院の大壁の上からのぞいていた男がいた。これは、軍団員の顔をほとんど覚えているという脅威の軍団長、イリヤによってクビになった治安維持部隊員と看破され、ちょうど試射の順に当たっていたヴァイロンによって肩口を撃ち抜かれて、地上へ落ちた。
落下場所は、帝都防衛部隊の壁登り訓練に使われていた場所だったため、下に分厚く砂が敷き詰めてあり、それによって男は命は助かったが、足と手首を挫いて動けなくなってしまった。
それでも男は後ろ暗いことをしていたには違いないから、這って逃げようとしたが、そこに駆けつけた治安維持部隊の女性隊員、トリニによっていとも簡単にお縄となってしまった。トリニたち街中を警らしている隊員たちは、常時、剣に警棒、それに縄を携帯しているのだ。
そいつと、もう一人の侍従に化けて入り込んでいて、この「狙い撃ち」騒ぎで思わず尻尾を出してしまった男も、イリヤの「試し撃ち」で倒され、ナシオによってふん縛られて、今は二人ともに大公宮表の地下牢に入れられ、係の隊員に拷問込みで色々聞き出されているはずだ。
一人は、イリヤによれば、
(あの顔、見覚えあるなー。ああ、そうだぁ。あれ、去年、街中のヤサグレ集団に情報流してたってえんで、治安維持部隊をクビになったやつだわ〜)
とのことだから、身元も今の行動範囲やら交友関係なんかも、明日の朝までにははっきりするだろう。
「ロシーオ、シモン、それにヴァイロン、今宵の主賓なんだから、一番先に料理を取ってくれ」
カイエンがそう言うと、ここは俺が、とばかりに偉そうに出て来たイリヤが、ロシーオとシモンを真ん中のテーブルへぐいぐい押していく。一方で、マリオとヘススの二人掛かりで引っ張られて来たヴァイロンもまた、大テーブルの前へやって来た。
「早くしろよー。お前らが食い始めないと、俺たちはずーっと『待て!』のまんまだぜえ!」
陽気な声をかけたのは、ジェネロだ。彼の副官二人は年齢が二十近く違うのだが、共にまだ独り者だったので、ヤケクソ気味に「そうだそうだー」などと叫んでいる。この、ヴァイロンと国立士官学校の同期のチコと、元は治安維持部隊にいたイヴァンの二人も、「試し撃ち」ではなかなかの腕を披露していたから、鉄砲は陸のフィエロアルマでも取り入れていく方向となるだろう。
それでも三人は、取り皿を取るのも遠慮しているようだった。それは当たり前で、ヴァイロンはともかく、シモンは今まで宴といえば隠れた警備要員だったのだし、ロシーオは大公宮の奥殿の宴に呼ばれるのなどは初めてだった。
そこで動いたのが、シーヴとトリニだ。
二人はシモンとロシーオの代わりに大きな取り皿を手にすると、すごい速さでテーブルの周囲を巡り、テーブルに乗せられた大皿の料理の中身を見ながら、明らかに料理を選んで皿にのせていく。
トリニの方は満遍なく、少量ずつを皿に乗せているようだったが、シーヴの方は明らかに料理を選んでいた。
「はい、どうぞ」
そして、二人が一緒にシモンとロシーオに皿とフォークを持たせると、皿の中身を見て、すぐにハッとした顔をしたのはシモンの方だった。
「シーヴさん……まさか……」
シーヴはにこにこしているだけで、何も答えずにカイエンの方へ戻って来てしまった。
「シーヴ、シモンは何か、食べられない食材でもあるのか?」
カイエンが「影使い」でも好き嫌いがあるのか、と驚きながら尋ねると、シーヴはなんでもないことのように言うのだった。
「ごくたまーに使用人食堂で見かけたんですけど、多分、食べられないわけじゃないとは思うんですけど、シモンさん、トマト味が苦手らしくて、メインがトマト煮込みとかの時は皿に取るけど、サラダや付け合わせとかの時は取らないんです。だから、苦手なのかなーっと思って」
カイエンはシーヴの浅黒い顔を見上げて、こいつ、まさか自分の周りの人間の食べ物の好き嫌いまで、すべて観察してるのか、と驚いていた。食べ物について、影使いのそれまで知り尽くしているのなら、他の嗜好や行動のパターンなども読み尽くしているのだろう。
カイエンの護衛としては、当たり前のことなのかも知れないが、こいつも古のラ・カイザ王国の直系だけあって普通じゃないな、とカイエンは認識を改めた。
「それにしても、夏場にトマトが苦手では、ちょっと辛いものがあるかもなあ」
トマトは瓜などとともに、夏の野菜の代表格なのだ。
カイエンが、視線を「もうすぐ新郎新婦」の方へ戻すと、シモンとロシーオが皿の上の物を口に入れるのを、他の二十人以上の目が注視していて、笑ってしまった。
アメリコたち海軍や、ルビーやリカルドなどは知らないだろうが、この大公宮の厨房を預かる料理長のハイメの、宮廷料理から下々の素朴な料理まで、なんでも最高の味に作り上げる腕の高さ、彼の作った料理の美味さを知っている面々は、もう、すぐにでもテーブルの上の前菜に突撃したくて、ウズウズしていたのだ。
意味がわからないながらも、二人が、そうっと最初の一口を口の中に納めた途端、他の皆がテーブルの取り皿へ向かって走ったのは言うまでもない。
カイエンとエルネストは身分上、自ら駆け出すわけにはいかなかったので、代わりにアキノとヘルマンが大きな男たちの群がる中へ静々と入っていく。彼ら二人が誰のために料理を取りに来たのかは、他の皆にも分かるので、そこだけは「アキノさん、ヘルマンさん、早くー」という目で飢えた犬たちが指をくわえてその後を狙って追っかけるのである。
テーブルの上の前菜は、この日のために予約して仕入れた、貽貝を始め、白味魚を使ったマリネや、さっと湯にくぐらせてトマトや赤玉ねぎ、香草などを刻んだソースで和えたもの、すぐに傷むので海流の具合で近海にやって来る夏の、それも海のそばでしか食べられない、大型の赤身魚の肉を辛子で味付けしたもの、それに、大エビや小エビを使ったレモンと甘くないトマトの香草和えのカクテルグラスなどが宝石のような色合いで並んでいる。
肉の冷製も、米の研ぎ汁で煮た豚肉を果物と組み合わせたり、鶏肉は螺旋帝国風の醬と香草タレと合わせたり、と、彩りだけでなく味も多彩だ。牛肉は厨房の大きな天火で蒸し焼きにし、赤ワインを煮詰めて肉汁と合わせ、胡椒や香辛料効かせたソースにつけて食べる趣向だった。他にも、季節の瓜や隼人瓜を鶏肉の出汁で茹でて、氷水で冷やし、ゼリー状の煮凝りと一緒に供したものなども涼しげで美味そうだった。
それらすべてが、涼しげなロマノグラス製の器や、縁の色が鮮やかな白い陶器の皿、螺旋帝国渡りの青磁の皿などに盛られ、無くなればすぐに次の皿が運ばれて来る。
今宵は大きな男たちが多かったので、ちょうど同じ頃、厨房ではハイメが、
「品切れは出すなよ! ちょうどよく前菜が消えたところで、メインの料理、運び始めるからなーっ!」
と、掛け声をかけ、厨房の料理人から小僧までもが、「おーっ」と唱和したところだった。
「……うわ、おいしー。あ、ティグレ! ティグレは? 美味しいから母さんとこへ……」
最初に白味魚の、白ワインから作られた酢でマリネしたものの上に、エビを殻ごと煮込んで丁寧に濾し、滑らかに擦ったオレンジ色のソースと、バジルの緑色のソースが夏らしく交差してかけられたのを口に入れたロシーオは、さすがにそこはお母さんで、美味しいものは息子にも早く食べさせなくちゃ、と思ったらしい。
きょろきょろと息子を探すロシーオの肘をつついたのは、もうすぐ「夫」のシモンで、二人が見た先……カイエンの座っている窓際のソファの上では、リリとティグレが侍従のモンタナが彼ら用に運んで来たワゴンの上の皿から、歓声を上げながら料理を頬張っているところだった。
「ええ! あのお嬢さん、リリエンスール様だろ? 前の皇帝陛下の末の皇女様の!? さっきはぼけーっとして見送っちゃったけど。うちの子! ありえないよ。どうしよ?」
さーっと青ざめてしまったロシーオの手を優しく上から抑えて、シモンがこう言わなかったら、ロシーオは料理の皿を取り落として、息子を捕まえに走ったかも知れない。
「ここでは大丈夫だ。軍団長も、帝都防衛部隊長も、治安維持部隊隊長のお二人も、皆、平民だ。ザラ大将軍も爵位はお持ちじゃないし、フィエロアルマの皆さんも、実力であそこまでのし上がった人たちばかりだよ」
そう言われてみれば、この宴では、皇女のリリ、大公のカイエン、シイナドラド皇子のエルネストの三人以外は、見事にみんなが平民だった。
「そ、そうなの……そうか……そうねぇ。……ええ!? でもそれとリリエンスール皇女殿下とうちの子が一緒にきゃあきゃあ言ってるのとは、別問題よぉ!」
ロシーオは皿をシモンに持たせて、やっぱり自分が、と出てこうとしたのだが、今度はどこからともなく現れた、シモンとよく似たナシオに優しく押し戻された。
「大丈夫。カイエン様は身分とか、細かいことはお気になさらないし、リリ様はちょうど話の合う、いいお友達がおられなかったので、今日、ティグレが来るのを楽しみにされていたのだ。あのように意気投合なさっているのだから、きっとこれからもティグレはリリ様にお呼ばれがあるだろう」
そう言えば、いくら子供でも、二歳と六歳とでは男女の違いもあるし、あんなにすぐに仲良しになるはずがないのである。子供の時の四歳の歳の差は歴然としたコミュニケーション能力の差となって現れるはずだった。年上のティグレがまだ半分赤ちゃんみたいなリリをあやしてやるくらいが、普通の光景だっただろう。
ロシーオはその時になってやっと、二歳の頃のティグレと、今のリリの違いに思いが至った。
「……皇女様ってのは、やっぱり下々とはおつむのお育ちが違うのかね? さっき、普通にお話しになってなかったかい?」
これには、今や所属は違ったものの、元は組になって働いていた、ナシオとシモンが、わざと、どうでもいいことのようにこう言うしかなかった。
「さあなあ。リリ様は大人に囲まれてお育ちになったから、大人ぶっておられるんだろう。それに、言葉がずいぶん早かったそうだから、きっとすごく賢いお子様なのだろうよ」
一方。
壁際で固まっていて出遅れた、海軍の三人とルビー、リカルドのところへは、アキノの指示で侍従が小卓をいくつか持ち込み、皿にきれいに料理を盛り付けて運び、その場で食べられるようにしてやっていた。
「ああ、シーヴ、それにトリニさんも。こっちへ来て、しばらく海軍の方々のお相手をお願いする。……グレコ船長、海軍の編成に関しては、海軍提督はこれまでの業績を鑑み、入れ札で決めるとも聞きますぞ。ここであちらの将軍閣下たちに知己を得ずしてどうするのです。しっかりなさらねば!」
執事のアキノは彼の立場としては僭越な物言いだったが、後半は小声でグレコ船長の耳元で吹きこむと、後は気を利かせてこっちへやって来たシーヴとトリニに任せてしまった。彼はカイエンの方の世話に早く戻りたかったのだ。
「リカルド、ちゃんと飲み食い出来てるかい?」
さっきはロシーオとシモンのため、今度は壁の花状態の彼らのために、ちょこまかと会場を動き回っているシーヴとトリニだった。その彼らも、手にはしっかりと食べ物の皿を持って移動しているところはさすがだった。
「うん。宰相の兄さんのところでも聞いてたけど、ここのメシは美味いなあ。これ、材料は落ちるけど、使用人食堂の賄いでも出て来るんだろ?」
確かに、修行僧そのものの生活をしている、サヴォナローラの周囲にいては、新鮮なチーズやハム、パンなどはあるだろうが、こういう手の込んだ料理の美味を口にする機会はほとんどないだろう。
リカルドはシーヴと並ぶと、顔立ちこそ違っているが、浅黒い肌の色と亜麻色の薄い髪の色、胡桃色の目の色までがそっくりで、明らかに同じ民族であることが誰にでもわかった。
「えーっ。あんたらは毎日、こんな美味いもん食ってるの? いいなあ、陸の人たちはあ。カビたビスケットに、飛び魚の茹でこぼしの味気なさなんか、知らないだろ。沖が長くなると、手っ取り早く網で取れる、小魚だけになるんだぜえ」
やっと気持ちが落ち着いて来たアメリコは、魚は同じ魚でも、手の込んだ調理のなされた料理を口にぱくぱくと放り込みながら、ぐいっと高級蒸留酒のグラスの中身も一緒に胃の腑へ流し込んでいる。
「えー、そうでもないよ。ここのシーヴさんは殿下の護衛だからそうかも知れないけど、私は街中の警らが仕事だもの。ここの使用人食堂で食べられる機会はそんなにないよ」
トリニは女性だが、最近、最後の伸び代で背が伸びたシーヴとほとんど同じくらい上背がある。仕事や訓練で体を動かしてもいるから、その食欲も男子並みだ。
「なあなあ、あんた方は親類かなんかかい? シーヴさんだっけ、あんたは大公殿下の護衛なんだろ。そっちの彼は武装神官様だな。服装でわかるわ。けど、よく似てらあなあ」
これも、この場に馴染んで来た、グレコ船長がそう言うと、シーヴとリカルドは口の中を食べ物でいっぱいにした栗鼠のような顔で、こくこくとうなずく。
「……ええっと、親類じゃないはずなんだけど、俺は孤児で拾われっ子だからわからないんです。先祖は同じ民族みたいですけど」
ぐいっと口の中のものを飲み込んだシーヴがそういえば、リカルドも同じようにした。
「あんまり、数は残ってないみたいだね。俺たちの民族。俺も子供の時にアストロナータ神殿に入れられちまったから、出自は分からないんだ。お互い、苗字もはっきりしなくってさ」
リカルドの方はその通りだっただろうが、シーヴの方は、本名のシヴァ・ラ・カイザを、一生名乗らないだろうと思いながらも隠していた。
「へー。そう言われてみれば、目の色髪の色は同じだけど、顔立ちは違うなあ。で、武装神官ってことは、リカルドさんの方は、宰相府の方の?」
二人よりも肌の色が濃いアメリコは、目立つ南の海のような青い目を、リカルドに向けた。その顔は、珈琲色だから分かりにくいが、かなり酒が効いてきて頰のあたりが赤らんでいる。
「うん。ああ、俺のことはリカルドでいいよ。歳も同じくらいだろ? ……そうそう、俺の、神殿での師父が同じの兄弟子が宰相サヴォナローラになっちゃってさ。俺は頭の方は兄さんとは比べ物にもならないから、武装神官になって兄さんの守りに立ったってわけさ」
そんなことを彼らが話している間に、食堂の真ん中のテーブルには、今宵のメイン料理が並べ始められていた。
「うわっ。やりー! 俺っちがハイメおじさんにリクエストした、ハイメおじさん特製の揚げ鷄が出てきたじゃーないですかぁ。待ってて、俺っちが三人分、お肉まとめて取ってきますぅ!」
いつの間にか、カイエンの座っている三人がけのソファの両脇はヴァイロンとイリヤの愛人二人になっていた。リリとティグレは彼らの足元の絨毯の上に座りこみ、何やら歌とともに指を使って遊ぶ遊びを、ティグレがリリに教えているらしい。
メインの料理は皆、熱々で、それも肉料理と魚料理が主だったから、イリヤは早速、熱々のところを分捕りに向かったらしい。
食に関しては、カイエンもヴァイロンも、人並みに欲はあるのだが、こういう席で真っ先に出て行く性格ではない。と言うか、身分は違いながらも、彼らはそういう育ち方をしてきたのだ。その点、イリヤは自由だった。その上に彼は大公軍団軍団長という地位も備えている。きっと彼の希望が叶えられた揚げ鷄の一番乗りはイリヤだろう。
カイエンがイリヤの背中を見送って、なんとなく向こう側を見れば。
テーブルを挟んで向こう側の同じソファには、エルネストとザラ大将軍、それに大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサが並んで座り、昼間の鉄砲と短銃の「試し撃ち」のことを話しているらしい。座るところがないので、仕方なくだろうが、ソファの後ろには現フィエロアルマ将軍のジェネロの姿もあった。
教授やザラ大将軍、それにジェネロは、エルネストやヘルマンが知っていて話そうとしない、もっと先の技術についてや、鉄砲を用いた用兵のあり方などを聞き出そうとしているに違いなかった。
「ほらぁ、大将軍閣下も、最高顧問のおっさんもぉ、これ食べなくちゃあ、今夜来た意味がないのよぉ。おっさんだから一つ二つ摘めばいいけどさー。ああ、皇子様のはヘルマン君がしっかりと取りに行ってますよー」
侍従二人をいつの間にか自分の「分捕り合戦」の駒にしたイリヤが、ザラ大将軍とマテオ・ソーサの前に、熱々の肉料理の皿を提供している。
五十過ぎと四十過ぎのおっさん二人が、肉の皿を受け取ると、イリヤは侍従を引き連れて、カイエンとヴァイロンの方へ戻って来た。
「殿下ちゃーん、はーい。お口開けてぇ。殿下ちゃんは揚げ鷄より煮込み肉や蒸し肉よねぇ。この牛肉の煮込みはハイメおじさんの気合いが入ってるわよ。……あの居酒屋アポロヒアの熟成牛肉よりも高級な牛肉に違いないの。熟成牛肉は火を入れないとダメだからね。こっちの塩胡椒だけの焼肉も馬鹿にならないわよー」
去年、オドザヤの妊娠と出産を隠すため、居酒屋アポロヒアで、カイエンはヴァイロンとイリヤを引き連れ、新聞記者三人を熟成牛肉のフルコースで「接待」し、いい感じに乱れた大公殿下の男関係を記事にさせた。その結果はカイエンに取っては忸怩たる結果となったが、あれでオドザヤの秘密出産は守れたようなものだ。
もう、あの時の恥ずかしくもやりきれない気持ちは、カイエンの中では消化されつつあったので、彼女はこのイリヤの言葉には反論せず、素直に口を開けて熟成肉の煮込みを食べさせてもらった。
ヴァイロンは人前だから黙って見ていたが、きっと心の中では、カイエンにそんな出来たばかりの恋人同士のようなマネをするイリヤを、三つに折りたたんで放り投げていただろう。
イリヤはそんなヴァイロンの気持ちなんかも計算済みだから、彼の前にも熟成牛肉の皿を油断なく突き付けていた。
「……美味しい? さっき、先につまみ食いしたんだけど、やっぱハイメおじさんは別格よねー。あ、リリちゃん、ティグレちゃん、これすぐ食べなさい。まだお腹いっぱいにしないで、ってさっき俺、言ったよね。ほーら、お口開けてぇ」
リリはイリヤとはもう、親子とも兄妹とも、なんとも言えない付き合いなので、素直にあーん、と口を開けた。子供にはちょうどいい具合に冷めた、肉汁滴る熟成牛肉の煮込みを口に放り込まれると、彼女は幸せそうに頬っぺたを抑えて首を振った。
「んー。おいしいぃい〜。お肉も美味しいけど、果物とか野菜とか、いろんな香辛料とかが優しく溶け合ってるぅ〜。イリヤ、リリ、これと茹でてバターであえたじゃがいもが一緒に食べたいぃ」
リリがそう言うのを聞いて、カイエンはちょっと心配になった。彼女はリリとヴァイロン、リリとエルネスト、リリとイリヤの付き合いには特に嘴を挟まないようにしていたが、リリのこの様子ではイリヤはカイエンだけではなく、リリの方もとろとろに溶かして飲み込みかねない。
「こら、リリ!」
カイエンはそう言いかけたが、その時には、今度はヴァイロンから、口の中にもう熱すぎない揚げ鷄の方を放り込まれていた。イリヤにしろ、ヴァイロンにしろ、カイエンが美味しいものに弱いことは知り尽くしているのだろう。
「はーい、ちゃんとお芋もここに持って来てありますよー。あー、ごめんねティグレちゃん。君にも大人のお肉の味を教えてあげましょー」
ちょっと離れたところにいた、母親のロシーオがびっくりした目で見ている中、イリヤはティグレ少年の口の中にも、とろっとろの熟成肉を放り込んだのだった。
そうして。
メインの肉料理と魚料理……魚の方も、蒸し魚、煮魚、焼き魚と、魚の種類別に最高の調理法で仕上げたものが供されていた……が一通り、皆の腹に入ると、そこにいた二十数名の男女は、腹も一杯なら、酔い加減もそれなり、という状態になっていた。
もう、夜更けの時間になっていたから、先に食後のデザートを供された、子供のリリやティグレはおねむの時間で、彼ら二人はサグラチカやルーサの手で奥の寝室へ運ばれて行った。
他の大人たちは、満足した腹をこなす時間に入り、まだ酒を求めるものは酒、もう要らない者は濃く淹れた紅茶や珈琲のカップをもらい、壁際の椅子に収まって、しばらくの間は歓談の時が過ぎた。
イリヤやザラ大将軍、ジェネロにイヴァン、それにグレコ船長ら、煙草派の人々は、暖炉の側に置かれたソファにくつろぎ、他の人々はカイエンやエルネストが座っている窓際のソファの方に集まっていた。
時刻はまだ真夜中には時間があったので、あちこちで真面目な話から、かなり砕けた話題まで、様々な話の種で人々は盛り上がっていた。
その頃になると、壁の花状態だった海軍の三人も、リカルドやロシーオも話の中に自然に入り込んでおり、日頃の仕事がまったく違う人々の集まりは、自然に彼らの仕事に共通する話題へと話が進んで行ったのは、当然と言えば当然のことだった。
今日の鉄砲と短銃の試射でも、やはり元からの身体的能力の差は歴然としていた。
長弓や十字弓の経験が豊富だった者たちは、やはり銃の取り扱いもすぐに身に付いた。
「わしが見ていたところでは、やはり、いの一番はヴァイロンだったのう。次は皆同じくらいだった。やはり、同じ飛び道具だな。長弓や十字弓の扱いに慣れているか否か、そこに違いが生じたように見えた。ジェネロもイヴァンも、チコも、ああ、それにイリヤボルトやマリオも、的へのあたり具合はちょっと違っておったが、あれは視力の差だろうて」
総評するようにザラ大将軍はそう言い、ふいっと視線をエルネストの方へ向けた。
「あれらの新技術を外に出した、シイナドラドの皇子殿下としては、今日の試射はどうでございましたかな? 鉄砲隊を使った用兵については、先ほど、少々うかがったが……」
エルネストは、一瞬だけ、彼の唯一の侍従、シイナドラドから連れて来た唯一の側近であるヘルマンと目を合わせた。
「……同じだよ。ただ、一つだけ見解が違うところがある。俺はほとんど初めて見たんだが……」
そこで、エルネストはたった一つの真っ黒な目を、意外な人物の上へ向けた。
「……そこの大柄な女。確か聞いた話じゃ、親父が螺旋帝国人の、それも将軍だったんだってな。お前、鉄砲を手にしたのは初めてじゃねえだろう? そうでもなきゃあ、あの重心の置き方は初めて銃器を扱うとは思えなかったぜ」
このエルネストの言葉には、カイエンもヴァイロンも、そしてイリヤも、思わず息を詰めた。
エルネストの視線の先にいたのは、もう間違いもない。元螺旋帝国将軍、赫 赳生の一人娘、トリニ・コンドルカンキに他ならなかった。
トリニは、エルネストの方を、ゆっくりと見て、それからカイエンの方を見た。
「……違います。私が鉄砲を持ったのは、今日が初めてです。ただ、父から、『火薬を使って飛ばす十字弓』のことは聞いていました」
カイエンはトリニの言葉の意味を知ると、思わず左手の杖に力を入れ、ソファから立ち上がっていた。
「トリニ! それは今、物凄く重要なことなんだ。……トリニのお父さんが鉄砲のことを知っていたとしたら。そうなら、今回、シイナドラドから大陸の西側だけに放出されたはずの、鉄砲や短銃のことを、もう何十年も前に螺旋帝国では知っていたことになる!」
トリニは落ち着いていた。
「いいえ。父が知っていたのは、螺旋帝国からシイナドラドへ密入国して、帰って来たという女流詩人に聞いた話でしたから、実物は父も見てはいません。ただ、話を聞いて、どんなものか、想像を逞しくしていただけです」
カイエンはすぐにその女詩人の名前を思い出すことができた。
周 暁敏。現在の螺旋帝国のハウヤ帝国外交官副官の、夏侯 天予の母親の名前だ。
「へえ、そうかい。それにしちゃあ、堂にいってたな。俺にゃあわからねえが、天賦の才能を持った武人てぇのは想像だけで、その新しい武器の重さや重心、中のカラクリの動く様まで予測できるのかね」
エルネストの言葉は、まだトリニの言葉を信じ切ったものではなかった。
そこへ、口を挟んだのは、カイエンでなくとも、そこにいた皆が驚いた人物だった。
「皇子殿下。お疑いはごもっともです。ここのトリニ・コンドルカンキ隊員の持つ体術、武術の粋は言葉では証明できないものなのです」
その場で、カイエンの真横にすっくと立ち上がったのは、なんと、ヴァイロンだった。
「お疑いはごもっとも。……ですが、そこのロシーオ隊員などは実際に見て、知っております。私もこの獣人の血を引く体の大きさと、元はフィエロアルマの将軍という肩書きで剛力と実力のほどで知られております。……これは帝都防衛部隊の隊員しか知らないことですが、私はこのトリニ・コンドルカンキ隊員と何度か試合ったことがございます」
「ええ!?」
カイエンはもちろん、ザラ大将軍も、イリヤも知らなかったらしく、この二人をよく知る皆が驚きの声をあげた。
「勝率は五分五分。ガラも前に言っていましたが、我々の方が膂力は優れているものの、体を動かす速度と、どこをどう打てば、どんな体格のものが倒れるのか、それをすべて体に叩き込まれている、このトリニには試合では勝てないのです」
「……試合では、ですよ」
ここで、油断なくトリニが口を挟んだので、余計に皆はびっくりした。
「今、ここで見せてもいいですが、それは所詮は『試合』でのことなんです。あの、皇帝陛下の婚礼のパレードの時、アメリコの船に密航して、人を殺しまくった怪人と対峙した時にも思い知りましたけど、もし、帝都防衛部隊隊長でも、ガラさんでも、本気で殺しにかかって来られたら、私の方が負けるんです。これは間違いありません」
これを聞くと、やっとエルネストの疑り深い目つきが変わった。
「なんだお前、まだ誰も殺したことがないのか」
トリニは、静かな顔でうなずいた。
「はい。それが幸運なのか、それがいつか私を一撃で殺すことになるのか、それはまだわかりませんけれど。……父は、それでも私に自分の持っていたすべてを教えてくれてから、死にました。最後に言い残した言葉を、私は忘れません」
カイエンがトリニに尋ねた声は、静まり返った食堂の中に響き渡った。
「トリニ、もし構わないなら、その、お父上の最期の言葉というのを教えてくれないか?」
すると、トリニは切れ長のまぶたが印象的な、薄い茶色の目を、まっすぐにカイエンへ向けた。
「……トリニよ、技は人を作り、技は人を殺す。これが世のならいだ。武術でも技術でもすべてが同じだ。研ぎ澄まされ、高度化した技は、必ずいつか、人の管理能力を超えてしまう。俺たち武人は最初に人を殺した時に。優れた技術は、それが応用され、自分たちの生き死にを左右するようになった時に、他の人々にその取り返しようもない恐怖を知らしめるのだ。……だからと言って、人間はそこで停滞し、引き返すべきではない。出来ることは出来るのだ。出来てしまったことはもう、取り返せないのだ。だが、人である限りは、己に謙虚であれ。そして、死ぬまで人であり続けよ。神になろうと夢見てはいかん」
カイエン達はもう、声も出なかった。
その、トリニの父、赫 赳生の残した言葉は、今まさに、彼らの上に落ちてきた天啓のように聞こえた。
「まだ、最後まではご納得いただけないようだ。……トリニ、中庭の真ん中へ出よう。俺はお前相手には殺しにはかかれない。だから、存分に立ち向かって来い」
ヴァイロンの言葉は、誰にも否と言わせない重みがあった。
カイエンと教授以外のほぼすべてが武人、腕に覚えのある人間ばかりだった。
足の悪いカイエンと教授にだけは椅子が運び出され、彼女たちはそこに座っていた。
他の皆は、ヴァイロンとトリニの二人を丸く取り囲んで、静かに佇んでいた。
素手での立会いだったが、ヴァイロンの間合いに当たる部分をもう一回り外に置いて、人々は注目していた。
この「試合」を。
中でも、前からトリニの力のほどを知りたがっていた、ザラ大将軍は、二十も若返ったような顔つきだった。エルネストをはじめ、ジェネロもその他の男どもも、大半はまだ納得しかねていたので、皆が二人の一挙一動をも見逃すまいと目を凝らしていた。
審判に立候補したのは、ガラだった。
彼は元から、トリニには最終的には敵わないだろう、と言っていた。
「始め」
ガラの声はあまりに普通で、唐突だったので、その意味がわかった時にはもう、ヴァイロンとトリニの周りには他を寄せ付けない気力の膜のようなものが張り巡らされており、もう、見ているもの達は呼吸もろくろく出来なくなりそうな緊張感に捕らわれていた。
カイエンも、その他の腕に覚えの皆も、トリニが最初に速度を生かしてヴァイロンの隙に入るだろうと思っていた。そして、力に勝るヴァイロンはトリニの腕を取りに行くだろうと。がっつり組んでしまえば、上背も膂力も、体重も上回るヴァイロンの方が勝つに決まっているのだ。
だが、二人は動かない。
しばらくして、双方が相手の気迫に引きずり寄せられるように、お互いの体の中心から相手の方へ不自然な格好で引き寄せられていくのを、皆は、見た。
帝都防衛部隊隊員のロシーオは、もう見たことがあったので知っていたが、これはこの二人の練習試合ではいつものことだった。
そして、もうちょっとで手や拳の先が触れ合う、という距離まで来た時、彼ら二人はいきなり自分の力でもって前方へ動き出し、ものすごい勢いで二つの体が激突した。
普通に考えれば、体重の軽いトリニの方が遠くへ吹っ飛ばされただろう。
だが、そうはならなかった。
ジェネロやイリヤ、それにザラ大将軍やシーヴ、エルネストやヘルマン、治安維持部隊隊長の双子などは、その瞬間に二人の体がぶち当たった位置と手足の置かれていた場所を、しっかりと目に焼き付けていた。
どすん。
重たいものが落ちる音がして、ぶつかった二人の片一方の体が地面に落ちた。
いや、倒れたのではない。
だが、それはありえない光景だった。
そこで見ていた皆が、その一瞬はそう思った。
かつてのハウヤ帝国の獣神将軍、フィエロアルマ将軍だったヴァイロンが、一撃で、それも大柄とはいえ女一人の体当たりで膝をつくなど。
トリニの方は、膝をついたヴァイロンのすぐ前に、彼とぶつかった時のままの格好で立っている。
「勝負あり」
ガラの声が静かにそこに響くと、トリニはふわっと両腕を下げ、開いていた足も閉じた。
一方、ヴァイロンも、何事もなかったかのように立ち上がっていた。
「なんだいあれ? どうなってるんだい?」
カイエンは自分自身がそう聞きたかったが、代わりに横にいたマテオ・ソーサがそう言ってくれたので、言葉を挟まずに済んだ。周りを見回すと、不思議そうな顔をしているのは、カイエンと教授、それにルビーとリカルドの四人だけらしかった。ロシーオも最初はそうだったのだろうが、彼女は帝都防衛部隊の訓練で見せられていたので、カラクリは分かっていたらしい。
「ひゅー。怖っわ! ちょっと、ヴァイロンさん、大公軍団軍団長の俺っちにも見せないで、そんな試合何度もやってたの? そんなの続けてたら、トリニが最初の一人、間違いでも殺ちゃったら、トリニ様最強になっちゃうじゃない!」
ヴァイロンは笑わなかった。
「……トリニは治安維持部隊に志願した。いずれはそういう日もやってくる。その後は、彼女が最強だ。別にそれで我々は困らないだろう。……だが、技術的には達人だけに、その瞬間が来た時に体さばきを間違うと、簡単に死んでしまう。周囲も巻き込んでな。それでは彼女も、周りの隊員達も浮かばれまい。だから、たまにこういう『試合』をやっている」
聞いているトリニは一言も話さなかった。
彼女は黙ったまま、大公宮の建物の方へ歩いていく。その後を、どうしようかこうしようか迷った挙句に追っかけて行ったのは、意外にも、海軍下士官のアメリコだった。
「……なんだかよく分からないが、今のは、もしトリニが今後、生死を分かつ相手と立ち会った時、相手の殺気に惑わされないための気組みの訓練とかかな?」
マテオ・ソーサがそう言うと、周りの武人どもの顎が一斉にがっくりと落ちた。自分だけが分かっていると思っていたのに、ひょろひょろの中年頭脳派先生に正解を答えられてしまったようだ。
「あらすごいわ、せんせー」
「さすがは最高顧問の先生、年の功かなあ。頭脳派でも行き着くところは同じかあ。まさに、ど真ん中だわ」
「文人でも、先生ほどに極めると、見えてくるものなんですなあ」
めげることを知らない、イリヤ、ジェネロ、ザラ大将軍がそう言ったから、教授の言ったことは正解なんだろう。
カイエンはすっきりとした。
だが、黙って歩いて行ってしまったトリニの気持ちを思えば、彼女の覚悟を思えば、「理解した、終わり!」では済まされない何かを感じていた。
「そうか、そうだな」
カイエンは、隣にいる教授にだけ聞こえる声で、こんなことを呟いていた。
「短銃の扱いに慣れて、短銃を携帯するようになったら、私でも簡単に人が殺せる。それは、今のトリニの苦しみや迷いなんか、一切飛び抜けて『出来てしまう』ことなんですね……」
短銃で撃って、感じるのは反動だけだ。相手の肉に切り込む刃の感触も、相手の骨を砕く拳の感触も、そこにはない。長弓や十字弓でも同じだろうが、あれらは非戦闘員が持ち歩くものではなかった。
マテオ・ソーサは答えなかったが、彼自身も恐らくは同じことを考えていたのだろう。
二人揃って、鉄砲や短銃の取り扱いに熱中していたが、その延長線上にはおそらく、やってしまった後に自分でも気付けないかもしれない、大きな陥穽が開いていたのだ。
「ふむ。でもそれは、これからは我々だけでなく、多くの一般の人々の上にも降りかかってくることなんでしょうな」
だが、幸いなことに、この教授の言葉が現実となっていくには、まだしばらくの月日が必要だった。
トリニさん最強、になるのか否か、それはこれからの話です。




