奔馬と伊達男の密談
エルネストはしばらくの間、イリヤの、いつの間にか真面目な表情に変わっている、その顔を見つめていた。
エルネストの座っている椅子の脇で、侍従のヘルマンが二人の様子を達観したような様子で見守っていた。彼はもう、これからエルネストが話すことが分かっている、とでも言うように。
「何をカイエンにもたらすために生まれて来たの、と来たか」
そう言うと、エルネストは着ている服の胸元あたりを、片一方の手で服の外からつかむような仕草をした。それは、そこに何か……例えば、今、カイエンがいつも首から下げている、あの「星と太陽の指輪」のようなものが、そこにあるように見えた。
エルネストの装いは今日も、黒っぽいなりだ。シイナドラド風の裾の長い上着はガウンのようだが、布地は張りのある透かし模様の入った絹地で、肩からまっすぐ直線的なシルエットを描いている。
その長衣の胸元はこれまたシイナドラド風で、裾までずっと前開きの左右の身頃を留めた時の重なりが大きい。だから襟元はVの字に開いており、そこから下に着ている銀鼠色のシャツの襟が見えていた。
「……俺がこのハウヤ帝国へ婿入りして来たのには、もちろん、シイナドラドの皇子としての理由がある。星教皇であるカイエンを見張りに来たわけでも、人質として来たわけでもねえんだ。こんなことは、そっちでも承知だろうがな。そして、その役割を終えた後には……俺の次の使命をなすために、この国を出て行くことになるだろう」
(この国を出て行くことになるだろう)
エルネストの言葉が耳から入って、頭に定着すると、イリヤは不思議そうな顔をした。
先ほどは、エルネストの発言から推し量って、牽制の意味もあって、エルネストが自分の使命とやらに突入して行くことになったら、ここを出て行くんだろう、と言ったのだが、ここまで真正面から肯定されるとは思わなかったのだ。
あれだけカイエンに執着していたこの男が、用が済んだらこのハーマポスタールを離れて出て行く気で、最初から婿入りして来たのだというのだ。それはなんとも胡散臭い話だった。
「あら。その言い方じゃ、そんなに遠い未来じゃなさそうね」
イリヤはまだ、エルネストがこれから何を話そうとしているのかも分からなかったから、突然の「いつか出て行く」宣言も、話半分に聞いておくことにした。
そして、エルネストの方は、なんだか息苦しいとでも言うように、顎の下まである高い襟の一番上のボタンを外しながら、ゆっくりと視線をイリヤの顔から外していった。
「これはまだ、カイエンにも言ってねえ。シイナドラドでも……皇都ホヤ・デ・セレンの、皇王の血族に連なるほんの一握りのシイナドラド人以外の誰も知らないことだ」
この言い方はなんとも奇妙な言い方だった。一応は妻であるカイエンにさえ言っていないことを、妻の部下には話すというのだ。
「えぇー。そんな凄そうなこと、ここで最初に俺に話ちまうのぉ。それで後で、秘密を聞かれたからぶっ殺します、とか言わないでよねぇ」
イリヤはもちろん、エルネストが常にない真面目な様子で話そうとしていることは、もう、理解していた。
それでも茶化したのは、相手が真面目に話そうとしているからと言って、こっちも真面目に聞いてやるのは面白くない、というイリヤの厄介な性格が出ただけだ。
「さっきも言ったけど。俺はまだ死ねないんだよねぇ。って、ついこの間、死にかかったけど。あれも殿下とリリちゃんへの『夢のお告げ』とやらのおかげで、ぎりぎり回避できたしね。話す前に、どうして俺に話すのか、そっちを教えてくれない? その様子だとあんた、今日は殿下と俺のことで嫉妬にかられて飛び込んで来たんじゃないみたいだしね。目的は最初っからこの話なんじゃないの」
イリヤがこう言うと、エルネストは片方だけの昏い目を、イリヤの執務机の後ろの壁に掛けられている、帝都ハーマポスタールと、ハウヤ帝国の地図の方へ向けた。
「……ははあ、さすがにお頭のよろしいことで。じゃあ、お前も気が付いているだろう。あの人がカイエンのために選んだ、俺たち三人に共通していることにだ」
エルネストは座っている椅子の腕木に、片方の肘をのせると、その手に片一方の頬を預けた。
「俺は女大公の夫だってだけで、もちろんこの国でのお役目なんか仰せつかっちゃいない。カイエンは皇帝の臣下だが、俺は皇帝の臣下ってわけじゃねえんだ。そして、お前とヴァイロンも皇帝の臣下じゃなくてカイエンの臣下だ。この国の臣下、皇帝の直臣じゃねえんだなぁ。お前なら気が付いてるだろう。あの人は、一度はあのヴァイロンを帝国軍の将軍にまで押し上げた。あれはやつに箔を付けたかったのかね。それとも、三年前のあの突拍子もない事件でやつを試そうとしていたのか。まあ、ロクな理由じゃないだろうが、結果的にやつは先帝が創立を命じた、帝都防衛部隊の頭に座ることになった。皇帝の直臣じゃなくなったんだよな」
イリヤは、なんだかゴロゴロと機嫌のいいときの猫のような顔つきで聞いていたが、ここまで聞くと、偉そうに机の上にのっけていた足を引っ込めた。
「へえーへえー、それでぇ」
執務机を挟んでエルネストと座ったまま、イリヤは今度は両ひじを机の上につき、興味津々、と言った様子で机の向こうのエルネストの方へのりだした。面白い話なら積極的に聞きましょう、という現金な態度だったが、エルネストは気にした風にも見えなかった。もういい加減、慣れてきたのだろう。
「帝都防衛部隊を作らせた、先帝の先見の明には驚かされたぜ。もっとも、そんなもんが必要になってくる未来を作ろうとしてるのは実の弟なんだから、肉親ゆえの直感かもしれねえがな。あの悪者兄弟は、カイエンがヴァイロンのやつをただの男妾として置いておかず、新設の帝都防衛部隊の隊長にするかどうかまで読んでいたのかどうか……お前はどう思ってる?」
「ええー、俺の意見ですかぁ」
イリヤは興味津々といった顔つきで、やつれた上に未だ貧血気味で青白かった顔まで紅潮して来そうな様子だ。
「そうねえ。確かに、あの怪物は俺やヴァイロンをハウヤ帝国じゃなくて、ハーマポスタール大公殿下個人の手下として配置したかったんでしょうねぇ。それも、俺やヴァイロンの仕事への評価はあんまり関係なくね。グスマンはその辺りは正当に評価してただろうけど。なにせ、俺を仕込んだのはあのおっさんだから」
「でも、怪物の方は、俺たちなんざ、殿下の閨の寝台の警備員、くらいにしか思ってないかもねぇ」
自虐的発言をすると、イリヤは椅子から立ち上がり、部屋の暖炉の近くにある小さな戸棚の方へ歩いていく。戸棚から出して来たのは、三つの陶器のカップと一本の蒸留酒の酒瓶だった。ロンは安酒の代名詞のような酒だが、イリヤの取り出したのは黄金色の高い方。それも、青ラベルのロンとしては一番いい銘柄のものだった。
「おいおい、腹の刺し傷がまだ治ってねえんだろう」
そう揶揄するエルネストと、困惑した顔の侍従のヘルマンにまで無理やりカップを持たせると、イリヤはそれにごぼごぼと雑に酒を注ぎいれた。それは、ちょっとくらいこぼれても別に構わない、という乱雑な手つきで。
執務机の向こうへ戻ると、自分のカップへもどくどくと強い酒を注ぐ。
「あっはあ。だってこれからする話、素面でやってられるよーな話じゃないでしょ」
その言葉が終わらないうちに、イリヤはぐびり、と旨そうに酒を飲み込んだ。
「この腹の傷口には、じゃぶじゃぶ強い酒がぶっかけられたはずだもん。もう塞がったんだからいいでしょ。皇子様と違ってね、俺は年末からこっち、一滴も飲む暇もなかったのよ」
仕事の場所である執務室に、酒の瓶を用意しておきながら、飲む暇がなかったと言うのである。
「それはそれは、ご愁傷さまだったな」
こっちも一口、口に含んだエルネストはカップを持ったまま、脇で固まっている侍従のヘルマンへ向けて顎をしゃくって見せた。
「ヘルマン、お前もいただけよ。今や女大公殿下の懐刀にして、目下、最大のご関心を向けられてるお方の酒だぞ」
ヘルマンはどうしたものか、というように、エルネストとイリヤの顔を交互に見ていたが、もうしょうがない、と思ったのか、素直に酒を一口だけ口に含んだ。
その様子を見ながら、イリヤは考え考え話し始める。
「俺の考えだったよねえ。そうね、俺が思うに、あの怪物はこのハウヤ帝国って国には、なーんの思い入れもないんだよぉ。でも、このハーマポスタールという街には、なんか気持ちを残してるんだろうと思うねぇ」
このイリヤの言葉は、エルネストには意外だったらしい。彼は口元へ持って行こうとしていた陶器のカップを持った手を止めた。
「国はどうでもいいが、この街には、って言うのか」
「そうそう。ああ、でもこの街の住民にはなーんにも思い入れは無さそうね。あの怪物にとっては、大切なのはこの街がこの先も『在り続けること』、なのかなぁ。だから、殿下に俺たちをくっつけて、最後は国じゃなくてこの街を守らせようとしてるんじゃないかなぁ、って俺は思ってるわけよ」
無人の廃墟でもいいのかどうかはわからないけど、と続けながら、イリヤはふと思い出したと言う風に言葉をつないだ。
「俺の部下に、ラ・カイザ王国の末裔がいるんだけどさあ。ああ、あんた、そいつをシイナドラドで殺しそうになったんだって? それに聞いたことがあるんだけど、この街の名前、ハーマポスタールってのは、ラ・カイザ王国のあった、何百年も前から変わってないんだって。このハウヤ帝国建国の祖のサルヴァドール大帝も、ラ・カイザ王国の征服後も、この街の名前だけは変えられなかったんだってさ」
このことは初めて聞くことだったのか、エルネストは黙って聞いていた。
「ハーマポスタール、ってのは『二度とはない街』って意味なんだって。だから、あの怪物も、この街だけはハウヤ帝国が無くなっても存続させたかったのかもねー。殿下の周りに俺たちを『殿下の臣下として』配したのは、この辺りが理由なんじゃないの? あいつが俺たちにさせたいことは、ハーマポスタール大公と、その領地であるこの街を……」
「帝国をぶっ潰した後にも残すこと、か?」
最後の部分を引き取ったエルネストは、意地が悪いとしか形容のしようのない顔で、とんでもないことをさらっと言ってのけた。
「まったく、歪みまくってる。国を滅ぼしても、その中のたった一つの街だけは、後の時代に残そうって言うのかよ」
エルネストの言葉を聞きながら、イリヤは早くも一杯あけてしまった。
「まあ、俺は大公軍団の頭なんで、国のことまでは存じません。殿下は違うだろうけど、あの皇帝の妹ちゃんがどうなろうと、俺のお仕事はこの街と殿下を守ることです。殿下は死んでもこの街から出ていかないだろうしね。だから、さっき皇子様にも言ったでしょ」
言われるまでもなく、エルネストは覚えていた。
(皇子様にも使命があるってことねぇ。で、それに突入するとなれば、この国やら殿下やらには、さよならしなきゃならないってことでしょ。……俺としては願ったり叶ったりだけど、でも、今すぐに行くのはやめてよね)
(俺が死ぬまでとは言わないわ。でも、この国がどうなるか先が見えるまでは、ここにいてもらうよぉ。あんたの使命を始めるのは、それまで待ってもらいたいねぇ)
あの二つの言葉は、この国がどうなるか先が見えた時とは、「帝国が割れる、その時が来るまでは」ということだったのだろう。
もちろん、カイエンは大公としてこのハウヤ帝国を守ろうとするのだろう。それはカイエンを唯一とするヴァイロンも同じに違いない。だが、イリヤとエルネストの二人は違っていた。カイエンたちとは違うという一点で彼ら二人には共通項があったのだ。
つまり、ハウヤ帝国の興亡など、彼ら二人にはどうでもいいことだ、という一点で。
だが二人とも、さすがにそれを言ったら、くそ真面目に大公としての職務を全うしようとしているカイエンがどう思うか、ということは理解していた。
「なるほどね。……俺が、この国よりも仕事と殿下を優先する人間だから、国同士のことなんかには、これっぽちの興味もないから、そこは皇子様と共通しているから、だから皇子様の秘密の話を聞かせてくれるってわけね。殿下は大公として正義を全うしようとするんだろうし、ヴァイロンは殿下一人だけが唯一だものねぇ。それでいて、倫理的なとこは真っ直ぐだから、今、この段階で、皇子様の危ない話を聞かせるわけにはいかない、そういうことね」
イリヤはエルネストが、自分を選んで今、話そうとしていることには納得したらしい。だが、彼はその上で、エルネストへの追求の言葉を続けた。
「あんた、その時が来たら、黙って出て行くつもりでしょ。だから俺に話しとけば、その時、俺が殿下に説明するとでも思ってるのぉ。それってちょっと調子よくない?」
イリヤがそう言うと、エルネストは皮肉そうな微笑みを浮かべて言ったものだ。
「俺は婿入りしてから、ご寵愛どころかろくに手も握らせてもらってない婿君だぜ。それにひきかえ、お前はこれから死ぬまでずっと、お楽しみな毎日だ。それくらいの手間は惜しむんじゃねえよ」
これには、さしものイリヤもしぶしぶながら皇子様のご要望に応えます、と言わざるを得なかった。
そして。
改めてエルネストが語り出したのは、イリヤには……いや、ハウヤ帝国の誰であっても、予想すら出来ないような話だった。
「シイナドラドの首都、ホヤ・デ・セレンは遠くない未来に『封鎖』される。螺旋帝国から資金をもらっている反政府軍が、皇都に入る前にな。都の中心部、皇宮を中心としたセントロの周りの城壁は特に念入りに、猫の子一匹入れないほどの守りで閉ざされる。大砲で撃って来ても防げる仕組みが、もう街の中に組み込まれているんだ。……おっと、どうしてそんなことをするのか、とか、どうやって『封鎖』するのかは、さすがにまだここじゃ話せねえ。このことは、あの人にも教えてない。だから、ホヤ・デ・セレンに興味津々の、あの螺旋帝国の皇帝も知らないはずだ」
イリヤはさすがに顔色を変えた。
「何それ。シイナドラドの国の周りにあるっていう長城とは違うの? あーあ、そんなの用意してたから、あの時、フィエロアルマは国内に入れるわけにゃいかなかったってわけか! 殿下はホヤ・デ・セレンの街も見てない、って言ってたもん」
「その通りだ。もっとも、ホヤ・デ・セレンの封鎖の方法については、皇都の市民にも知られちゃまずいことだから、カイエンに見られてもわからなかっただろうが。まあ、用心には用心をしたってことだな」
囚われのカイエンを追跡したガラや、ザラ大将軍の影使いだったエステとオエステは、ホヤ・デ・セレンまでの街道沿いで砦などの内戦へ向けた準備の様子も見ているし、ホヤ・デ・セレンの異様に静かな様子も見ている。
(そうだ。この国はおかしい。……鎖国しているだけでなく、国民の国内の移動も制限されているし、街道沿いには軍事的な施設があちこちに設けられている。まるで、内乱でも恐れているかのようにな)
ホヤ・デ・セレンの皇宮に虜囚として囚われていたカイエンに、獣化した姿で顔を見せたガラは、こう言っていたのだ。そして、帰国後、エステとオエステが死んだのち、生き残ってハウヤ帝国へ戻ったガラは、同じことを当時の皇帝サウルや、宰相のサヴォナローラに報告している。
イリヤもこのことはカイエンから聞かされて知っていた。
「はー。ややっこしいねえ。で、その封鎖の理由が、反政府軍の後ろにいる螺旋帝国の先兵をホヤ・デ・セレンに入れないため、ってことなんでしょ。で、螺旋帝国の皇帝がそこまでして、ホヤ・デ・セレンにある何を狙ってるのか、とかはもちろん、いま、話す気はないんでしょ?」
イリヤが面倒臭そうにそう聞くと、エルネストはさも面白そうに、あはは、と笑い声をあげた。
「ないよ、当たり前だろ。こればっかりは、お前のお得意の拷問にかけられても話せるこっちゃない。と言うか、俺が拷問に屈して話しても、多分、この国の人間じゃ誰にも理解できないだろうしな」
エルネストはここまで言うと、ちょっと寂しそうに付け足した。
「そもそも、もう、俺だってホヤ・デ・セレンには入れねえんだからな。俺は多分、一生、おやじだの兄貴だのには会えねえ。まあ、そんなに仲のいい親子兄弟でもないから、外国に一人ぼっちで残ることになる、この役を引き受けたんだけどな。あー、こいつはあの外交官のニコラス・ガルダメスも同じだ。あいつはほら、あっちの趣味だから家族もいねえしな」
「え、そうなの?」
確かに、シイナドラド大使のガルダメス伯爵は、女に興味のない男で、シイナドラド大使公邸はそっち方面では有名なサロンと化している。家族がいないというのも本当だろう。
その時、エルネストの脇で、侍従のヘルマンがわずかに身じろぎした。彼の家族や知り合いは、ホヤ・デ・セレンにいるのかもしれない。エルネストに付いているからには、彼もまた、もう家族には会えないのかもしれなかった。
「ホヤ・デ・セレンが封鎖されれば、俺はただ一人、外の世界に残ったシイナドラド皇王の血族になる。星教皇にすえたカイエンをこの国へ戻したのも、似たような理由だ」
イリヤは黙っていた。ホヤ・デ・セレンが封鎖されれば、アストロナータ信教の総本山としての役割も失われるのだろう。
そして、次にエルネストの言った言葉には、さすがのイリヤもびっくりした。
「俺がこの国へ来たのは、シイナドラドで反政府軍が勝利し、ホヤ・デ・セレンが封鎖された時、このハウヤ帝国に援軍を出させないためなんだ」
「ええ? それって普通は反対じゃないの」
カイエンの件があってから、ハウヤ帝国側のシイナドラドへの心証は最悪だが、ハウヤ帝国を建国したのはシイナドラドの皇子だったサルヴァドールである。だから、つい先年まではハウヤ帝国とシイナドラドは「友邦」であったのだ。
シイナドラド皇王の住む、ホヤ・デ・セレン皇宮へ螺旋帝国から資金を受けた反乱軍が迫っているとなれば、ハウヤ帝国が援軍を出すのは当然のことだった。皇帝とその周囲のほんの一握りの人間しか、シイナドラドでカイエンの身に起きた出来事など知らなかったのだから、あくまでもシイナドラド はハウヤ帝国の友邦なのだ。
ハウヤ帝国の国民は、カイエンがシイナドラドで受けた扱いを知らないのだ。援軍を出さないとなれば、貴族や学者、知識層を中心に、変に思う者たちが大勢出てくるだろう。
エルネストはぐいっとカップの中の蒸留酒を一気に煽ると、ヘルマンに向かってカップを差し出した。
ヘルマンは遠慮がちに酒瓶の持ち主であるイリヤの顔をうかがって来たので、イリヤは鷹揚にうなずいてやった。
「もちろんそうさ。あの人もこの点では、シイナドラド皇王に騙されている。あの人は逆に、俺に援軍を出させるために、俺をこの国へ婿入りさせたんだからな」
ヘルマンは自分はカップを持ったまま、最初の一口しか飲んではいなかった。彼は自分のカップをそっとイリヤの執務机の隅に置くと、まず最初にイリヤの手の中のカップに酒を注ぎいれた。エルネストが不満そうに鼻をならすと、ヘルマンは落ち着いた声でこう答えたから、イリヤの方が変な顔になった。
「エルネスト様、今日こちらへお話にいらっしゃったのは、賢明なことです。ですが、本来ならばこちら様から、エルネスト様のためにお酒など出していただける道理がございません。せめてご自分は後になさいませ」
「あーそうか。はいはい、お前の言う道理はいつも正しいよな。……どこまで話したか、ああ、援軍の話だったな。ホヤ・デ・セレン封鎖の知らせは、パナメリゴ街道を走って来るだろう。周辺の国々が察知したら、このハウヤ帝国でも隠しちゃおけない。シイナドラドは鎖国しているが、ことは友邦での政変だ。普通なら援軍を出すのは当然のことだ」
エルネストはイリヤの背後のハウヤ帝国と、その周辺国の一部が描かれた地図を見やった。
「だけど、まだ、北のスキュラでのことが解決していない。解決していたとしても、サウリオアルマはしばらく北の睨みに必要だろう。南ではラ・ウニオン共和国の勢いが増している。だから、北も南も安泰で、ベアトリア戦線にフィエロアルマとドラゴアルマを出していた時とは違うんだろ? だから、このハーマポスタールのある帝国の版図の西部から中部を守るのに、フィエロアルマが必要になる。出すんならドラゴアルマと言うことになるが、それにしたってベアトリア国内を通らにゃ、シイナドラドへは行けねえんだ。それに、今、ザイオンが皇帝への縁談だのなんだの、仕掛けてきてるだろ。スキュラの黒幕もザイオンだってえんだから」
「そうね。じゃあ、あんたはシイナドラドでのことが表に出て来たら、ベアトリアとザイオンが軍隊出して、仕掛けて来るって言うわけ? 今、このハーマポスタールには、ベアトリアの第一王女と、ザイオンの第三王子がいるんですけど」
(何かあれば、いい人質になるはずのね)
イリヤは言葉に出さなかったが、その考えはエルネストにも分かっただろう。
イリヤが背後の地図を見ながらそう言うと、エルネストはすっと立ち上がって、地図の前まで歩いて来た。
「この地図には、ザイオンの一部と、隣のベアトリア、それにネファールとシイナドラドの国境までがなんとか出ているな。ベアトリアも、ザイオンも、まだこのハウヤ帝国の中にまで侵攻して来る必要はないだろ。四大アルマが健在のハウヤ帝国と、まともに戦ったら勝ち目はねえからな。でも、シイナドラドがほぼ反政府軍に制圧されたら、ザイオンはシイナドラドとの国境まで出て来る口実が出来るし、ベアトリアもネファール国境へ軍を様子見に出すくらいはするだろう。困るのはネファールで、もしこうなったら、ネファールは東西両側に軍を出さにゃならなくなるかもな。だが、ここまでなら、ハウヤ帝国がハーマポスタールにいる人質をどうこうなんて話にはしにくい。ハウヤ帝国がドラゴアルマを出しても、ベアトリアとネファールを通過して、シイナドラドへ進軍するのが難しくなるだけだ」
エルネストは地図上の該当地点を、丁寧に指先で追っていった。
ザイオンは北の大国で、ハウヤ帝国とはオリュンポス山脈を挟んでおり、ベアトリア、ネファール、シイナドラドとはわずかではあるが、直接、国境線を挟んで陸続きなのである。
一方、ハウヤ帝国が援軍を出すとは言っても、シイナドラドとの間にはベアトリアとネファールの二国が挟まれている。ネファールには、オドザヤの妹のカリスマが王太女として立っているから問題ないかもしれないが、一昨年、カイエンがシイナドラドへ向かった時も、ベアトリアの対応は冷たかった。だから、本格的な装備を持った一万人規模の軍隊が通過するのを、簡単に許可するとは思えなかった。
「その辺りはぁ、さすがに宰相さんも、あのザラ大将軍も分かってて動いてると思うけど」
イリヤはこういう戦略が分からないような頭ではなかったが、彼としては先ほどエルネストにも言ったように、ハウヤ帝国の存亡にはてんで興味がなかった。だから、彼の返事は素っ気なく聞こえた。
「それよりさあ、さっきからあんた、とうとうと説明してるけど、それ、まさかあんたが国を出る段階で分かってた、って言うんじゃないでしょうね」
エルネストの方も、このイリヤの質問は予想していたらしい。
「はっはあ。それだよな。だが、これははっきり言っちまうけど、シイナドラドはそれどころじゃなかった。なにせ内乱だ。螺旋帝国が反政府軍に資金援助し始めてから、西のネファール側はともかく、東側じゃシイナドラド国軍の方が押され気味だったのさ。ザイオンが侵攻して来たら本当に厄介なことになってただろう。だが、ザイオンも『最初の火蓋を切る』勇気はなかったんだな」
この話は、もうとっくにサヴォナローラやザラ大将軍、カイエンやオドザヤたちの話の中で出て来ていたことだった。
(だがのう、今すぐにはこんな策は実行できん。少なくとも、我が国から始めるわけにはいかん。……百年前ならこんな策も可能だった。百年後も、可能かも知れん。だが、今は……今この時には、まだ巧くない)
あの時、ザラ大将軍が言った言葉は、どの国の君主も考えていたことだったのだ。
螺旋帝国の易姓革命以降、時代はパナメリゴ大陸全体を覆う、戦乱の時代へと向かいつつある。
だが、国々を巻き込んだ混乱と侵略の時代の火蓋を切ることだけは、どの国もためらっていたのだ。
イリヤはここまで聞いて、はっとした。国際情勢になど興味もなかった彼ではあったが、先が読めないほどそっちに疎いわけでもなかった。
「あーあー、そうかぁ」
「あの怪物は、あんたにシイナドラドへの援軍を願い出させて、このハウヤ帝国に、騒乱の火蓋を切らせようとしてたのかぁ。北のスキュラのことも、ハウヤ帝国がとっくに侵攻してておかしくなかったんだもんね。それを先々のこと考えて周辺諸国に、無法なのはスキュラです、こっちは被害者です、皆さんご理解ください。こうして交渉を続けております、って穏便にやってるんだもん」
イリヤがそう言うと、エルネストもうなずいた。
「だろうな。だから、俺はおやじに逆のことを言われてやって来た、ってわけさ。こっちはさっき言ったがお前にも、カイエンにも話せねえが、おやじ達はホヤ・デ・セレンが封鎖されれば、逆にしばらくは安泰なんだ」
イリヤには、エルナストが知っている、ホヤ・デ・セレンを完全に封鎖する方法などは、いくら想像しようとしても頭に浮かんでは来なかった。こればかりは、帝国士官学校の教官たちに聞いても、あのマテオ・ソーサに聞いても分からなかっただろう。それまでの歴史では、一度も行われたことのないことだったから。
「あーそう。よく分かったですよ、皇子様。でもねえ、それ、最近のこのハーマポスタールの状況からすると、危ないもんだよぉ」
だが、ここまで聞いたイリヤは、自分で自分のカップに酒を注ぎ入れながら、ちっとも酔った様子は見せず、冷静な声で反論して来た。
「俺が援軍を断っても、この国じゃ援軍を出してやろうと言うってのか」
エルネストがそう聞くと、イリヤはふんふん、と軽くうなずいた。
「皇帝陛下やー、宰相や殿下なんかがぁ、『そうですかじゃあ、友邦ではありますが、うちは北のスキュラと揉め事中ですし、南方の情勢も緊迫度を増しております。ですから、今回は援軍は出しません。そのほうがこっちも好都合なんで』って言ったとしても、シイナドラドでのことが、街中に伝わっちゃったら、余計なこと言い始める奴らが出てくるね。皇子を婿入りまでさせてる友邦を見捨てるのか、って騒ぎ出すよ。これはもう、間違いないよぉ」
「あっ」
イリヤがそう言うと、エルネストではなく、ヘルマンの方がはっとしたような顔をした。
「あらぁ、侍従さんにはもう分かったみたいね」
イリヤはそう言うと、書類でごちゃごちゃの机の上から、いくつかの書類を押しのけて、分厚い紙の束をひっ掴み、エルネストの方へ向かって差し出した。
「他の国じゃ、まだまだみたいだけど、この国、特にこのハーマポスタールじゃ、こいつの発言力と影響力が半端ないのよ。こいつを通して、市民に訴えかけられたら、あんたがいくら要らない、って言っても、シイナドラドへ援軍を出さざるを得ない状況にだって、なりかねないんだよー」
イリヤがエルネストに見せたもの。
それは、「黎明新聞」と、「自由新聞」の二つの読売りだった。
「前のこの大公宮の後宮事情とか、カスティージョの件ではこっちがこいつを利用させてもらったよね。でも、先にこいつを利用して醜聞を市内に知れ渡らせたりしたのは、桔梗星団派だよ。俺が刺された件と息を合わせちゃったみたいに、奇術団コンチャイテラは一夜にしてこの街の裏に潜んじまった。桔梗星団派とつるんでるんだろうねぇ。怪物のおっさん達があんたにさせようとしてた目論見は外れても、あっちはそうなったら、これを使って来るよ。やっぱ、怪物は怪物だわ。用意周到で驚いちゃうね」
その時には、もうエルネストの顔は真っ青になっていた。このハーマポスタールに来てからまだ一年にならぬ彼には、市内の市民達の生活に、読売りが深く密着していることが実感できていなかったのだ。
地図の前で固まってしまっているエルネストを尻目に、イリヤはもう立ち上がっていた。
「悪いけど、今のこの話は今すぐ、殿下のとこに上げます。ガラちゃんにも話して、兄貴の宰相の方へも大至急だわ。まーでも、今日、よく俺んとこへ話しに来てくれたわ。感謝感謝。嫉妬心も役に立つことがあるんだねぇ。こうなると、俺が刺されたのも、巡り巡って最終的には、いい方へ転ぶきっかけになったのかも……。それよりやっべ、俺、結構飲んじゃってるわ。酒臭くない? あーでももう、そんなこと気にしてらんない〜」
そう大声で言うと、もうイリヤは執務室の扉の方へ足早に動いていた。
「あーそうだ。もーしょうがないでしょ。ホヤ・デ・セレンの封鎖の件も、もちろんもう、バラすよ。まー、皇子様の言うとおり、こっちは俺たちじゃどうにもならないけどね。殿下や宰相なんかから、きっとあんた、根掘り葉掘りやられるよぉ。俺が拷問するまでもなかったのかもねー。あっ! 最終的には出て行くって方の話は聞けなかったけど、そっちもバラすからね。後で覚悟しといた方がいいよぉー」
最後の方は、扉の向こうから聞こえて来たようだった。
どたどたと部屋を出て行くイリヤの背中を見送って、黙ったままのエルネストへ、ヘルマンはそっと声をかけた。
「お国でのこと、特にホヤ・デ・セレン封鎖の話は、ご説明してもなかなかご理解いただけないと思いますが、援軍派兵は何としても止めなくてはなりません。こちらのお国にとりましては、いい事など一つもないのですから……」
「そうだな」
エルネストの声は、もう落ち着いていた。
「やはり俺はまだ、世間知らずで頭もゆるゆるの、大馬鹿者のまんまだったな。だが、今日ここへ来て、あの伊達男に嫌味半分で話そうと思いたったのは正解だったんだろう」
(ここを出て行く方の話も、もう、隠しちゃいられなくなっちまったな)
エルネストは喉の奥に苦い味がして、鼻の奥が、水でも入って来たようにぎゅっとなるのを感じていた。それはもちろん、涙が出てくる前のような、あの感じだった。
エルネストがイリヤに話したことは、その日のうちに皇宮のオドザヤや、サヴォナローラ、そしてザラ大将軍などのところまで届いた。
カイエンも去年の秋、死者の日の前、エルネストが、シイナドラド大使公邸へ「いよいよシイナドラドの情勢が危ない」と言って一人、侍従のヘルマンも連れずに行ったことは聞いていた。
だがあの後すぐに、皇宮前広場で細工師ギルドと親衛隊の、あの事件が起きたこともあり、エルネストにシイナドラドのその後の情勢を聞いていなかったのだ。
彼女自身はエルネストとあまり話をしたいとは思わなかったし、それを避けてもいた。そして、大公宮の皆も、恐らくは皇宮のサヴォナローラなども、皆、エルネストについては厄介者という扱いだった。だから、聞くべきことを先延ばしにし、それが今になって表に出て来たのだ。
そのことが、カイエンにはなんだか後ろめたことのように思えて仕方がなかった。
もはや、事態への対処が後手後手なのは嘆く気にもならない。出来るところからやっていかなければ、ハウヤ帝国はただ、狩り取られ、取り尽くされるのを待っているだけの広大な狩場になってしまう。
今回、エルネストがイリヤのところへ、嫉妬と向っ腹半分ででも押しかけて行ってくれなかったら、このことが明らかになるのはもっとずっと後になっていただろう。だから、今回はまだマシな展開なのだ。カイエンはそう思うことにした。
カイエンはイリヤのことがあってからずっと、皇宮へ上がる機会がないままだった。そこへこの話であるから、彼女も押っ取り刀で皇宮へ駆けつけた。エルネストも引っ張って行きたかったが、敵もさるもので、彼は一足先にシイナドラド大使公邸のガルダメス伯爵に会いに出てしまっていたのだ。明らかに時間稼ぎである。
「まさかこのまま、出て行く気じゃあるまいな」
イリヤはちゃんと、ホヤ・デ・セレン封鎖の話、そして援軍派遣の話と一緒に、もう一つ、エルネストが語らなかった方のこともカイエンに注進していた。
出て行ってくれても、カイエンはちっとも構わなかったが、そうなればそれこそ今度は「大公、婿に逃げられる」とか、「シイナドラド皇子、謎の失踪」とかいう記事になって、読売りの紙面を飾りそうだった。それはそれで大問題だろう。
皇宮のオドザヤのところへ行くと、久しぶりに会ったオドザヤは、なんだか暗い顔で、しかもカイエンの視線を避けるように見えた。目ざといカイエンはそのことにすぐに気が付いたが、宰相のサヴォナローラやザラ大将軍がやってくれば、もうそれどころではなかった。
そこで決まったのは、イリヤからのまた聞きでは心もとない、対処は迅速にせねばならないが、翌日にでもエルネストと、ついでにシイナドラド大使のニコラス・ガルダメス伯爵も呼び出そう、ということだった。
この日はもう、これ以上は話の進めようもなかった。
サヴォナローラが、カイエンがシイナドラドへ赴いた時、パナメリゴ街道沿いに敷いた、アストロナータ神殿の武装神官を中心とした連絡網を使って探りをいれること。それにザイオンやベアトリアに派遣している、ハウヤ帝国の外交官に連絡を取ること。その二つがとりあえず決まっただけだった。
監獄島の事件についても、大公軍団軍団長で傭兵ギルド総長のイリヤが一応、ハーマポスタールの裏社会の元締めたちに声かけをしてはいた。
それ以外にも、宰相府から官吏たちに命じて出来ることはもう、サヴォナローラの方で進められていたが、街中の自警団の件など、早急に始めなければならないことが山積していた。
そんな話を、オドザヤの執務室でしているうちに、カイエンはオドザヤの様子がちょっとおかしい、と思ったのに確かめることが出来ないまま、部屋を出て行くことになってしまった。
カイエンも、気にはなっていたので、何度かオドザヤの方を見て、声をかけようとしたのだ。だが、オドザヤは目に見えない壁でカイエンとの間を隔ててでもいるようで、話しかける機会はついに無いままだった。
もう晩餐の時刻になって、カイエンが皇宮から大公宮へ戻ると、執事のアキノが難しい顔で待っていた。
「どうした? 何かあったのか。……エルネストは帰って来たか」
カイエンは聞いたが、アキノは先に後半部分の答えを言った。
「皇子殿下は、まだお戻りになりません。影使いのシモンの話では、間違いなくシイナドラド大使公邸に入ったきり、出てこないとのことです」
カイエンは暖かく暖炉で暖められた居間に入ると、アキノに外套を脱がせてもらい、とりあえずソファにへたり込んだ。体も疲れていたが、頭の方が事態に追いつかなくて、焦る気持ちが疲れを倍増させているようだった。
カイエンが、目と目の間を指で揉むようにしていると、カイエンの外套を片付けに行ったアキノが、静かに銀盆の上に何かを載せて戻って来た。
「なんだ? これは」
カイエンは力なく、銀盆の上から、青く見えるほどに真っ白で、紙質は最上等の封筒を取り上げたが、表の彼女の名前を見たのち、裏の封蝋と署名を見るなり、灰色の目をかっと見開いた。
そこには、流麗で、踊るようにしなやかな青黒いインクの動きで、一つの名前が書かれていた。
その名前を二度見して、間違いないことを確認してから、アキノが差し出すペーパーナイフを差し込んで、封蝋を切った。
「……ハーマポスタールへ参ったご挨拶とお披露目を兼ね……」
カイエンは初めのところは声を出して読んだが、すぐにその声は唇の中から外に出てこなくなってしまった。
「……仮面舞踏会を開催致したく、ご案内させていただきます」
カイエンの座ったソファの脇で、直立不動で見ていたアキノはもちろん、もう、その招待状の送り主の名を見ていた。
それは、ザイオン第三皇子、トリスタンの名前だった。
エルネストとイリヤの会話は長ーいんですが、中身は結構濃いと思います。
次回は仮面舞踏会へ向かって、揺れる皇宮と大公宮です。




