夢魔の誘惑
夜にたたずむ夢魔の影が女を脅かす
暗闇から滲み出るのは、いま一人の醜い女
カーテンの隙間から差し込む
蒼い月の朧なかたち
醜い女はコソ泥のように夜を縫って進む
女はその同じ血筋をたどる者
それは夢魔の血族
どす黒く淀んだ、眠れない不能の夜の遣い
ちかりと光る小狡い目
耳まで裂けた醜い女の口が言う
お前も狂っちまうんだよ
夢魔にとり憑かれて
ばりばりと頭から喰われてしまうんだ
狂え狂え狂え叫べ叫べ叫べ
醜い女は延々と女を呪う
聞かされる女の心は遂にぐちゃぐちゃに絡まって
もうその体がどこへ向かうかも決められない
懸命な声は、その頭が食い尽くされても届かない
それは夢魔の血、赤黒く腐った
でもそれは女を夜へ解き放つ
温くて心地よい血の匂いのする世界を連れてくる
アル・アアシャー 「女帝の黒い夜」より「夢魔の誘惑」
一月も中旬に入った頃。
マヌエル・カスティージョの辞任以来、空席となっていたコンドルアルマの新将軍として、副官であった、アマディオ・ビダルが任命された。
元帥府での、皇帝オドザヤ 、大公カイエン、宰相サヴォナローラの立ち会った任命式で、アマディオ・ビダルは皇帝のオドザヤ から直々に、将軍位を与えられた。
去年、カスティージョが自分の不明を理由に将軍を辞してより、実質的にコンドルアルマをみてきたのは、長年、カスティージョの副官であったアマディオ・ビダルであった。だから、彼としては実際にすでに行っていたことに、身分が追いついてきただけで、それほどの感慨を覚えることもなかった。
普通の軍人なら、軍人として至高の存在である「将軍」の地位を得たことに、このハウヤ帝国を直接に守る、四人の軍神の一人となったことに、誇らしさを覚えただろう。
だが生憎、アマディオ・ビダルはそういう感情とは無縁だった。
辞令を受け、元帥府から郊外にあるコンドルアルマの駐屯地ではなく、ハーマポスタール市内の自宅へと帰って行く彼の顔もまた、いつもとなんら変わることはなかった。
彼は、元はビダル男爵家の次男であった。
だが、実家は父親の不行跡で爵位を取り上げられ、小さな領地も皇帝直轄領に飲み込まれ、領地の館も失った。彼の兄は元からだらしない男であったが、爵位を失ったことで身も心も持ち崩し、酒浸りの毎日の中で若死にしてしまった。
ちょうどその頃、アマディオは国立士官学校へ入ったばかりであった。本当なら、実家の男爵家という後ろ盾を失った彼は、士官学校に残れなくなるところだった。だが、兄の死後、ビダル家に最後に残った財産である、ハーマポスタール市内の館を相続した彼は、それを売り払って兄の借金を清算し、わずかに残った分で、なんとか士官学校に残ることが出来た。
その時に、必要のなくなった使用人たちも全員、解雇した。士官学校には寮というものがあり、卒業後に入隊したコンドルアルマもまた、同じだったからである。
そして、年齢とともにそれなりに昇進していったアマディオであったが、駐屯地の外に居住を許される年齢となると、ハーマポスタール市内に小さな家を借りた。その頃には、彼の変わった表情の変わり方や、言動その他によって、今に至るまで変わらぬ彼のあだ名、「からくり人形」はかなり有名なものとなっていた。彼個人は、至って普通にしていただけだったのだが。
その時、どこからともなく戻ってきたのが、解雇した館の執事だった男である。アマディオが貸家といえども一軒の家の主人となったことを、どこからか聞きつけて来たらしい。
「フィデル、か。お前に、払う、金は。……ない」
誰の前でも、それこそ帝国南部への派遣中も、そこでの小競り合いの戦闘中も、アマディオ・ビダルのこういう話し方は変わらない。一句一句、考えながら話すようなその話し方もまた、彼のあだ名にもっともらしい理由を与えるものだった。
「承知致しております。俸給は、旦那様のお留守に、自分で稼ぎ出してまいります」
その時、そう言って狭い貸家に居ついてしまった執事が、アマディオが馬車で自宅へ戻ると同時に、小さな貸家の玄関扉を開いて迎えた。
「おかえりなさいませ。旦那様」
冬だから、アマディオは帝国軍の深緑の制服の上に、黒っぽいマントを羽織っている。それを受け取りながら、もう五十は越えているだろう老執事は、古い、丈夫そうなだけが取り柄の黒い木で作られた扉を、カタンと閉じた。執事の彼が気を配っているので、扉の建て付けが悪いなどということとは無縁だ。
「コンドルアルマ将軍への就任、おめでとうございます」
あまり広くもなく、家具も古くて簡素な一階の居間へ、アマディオを誘いながら、執事は慇懃に祝いの言葉を口にする。それへ軽くうなずいて、アマディオは、居間の何度も布を張り替えて使われてきたと思しきソファに腰掛けた。
「……今日の元帥府、には。ザラ大将軍と、宰相、だけで、なく。皇帝陛下、と……大公、殿下も御臨席、だった」
そして、脇で茶の支度を始めた老執事に向かうともなく、アマディオ・ビダルが話し始めたのは、どうやら、任命式でのことらしい。
執事の方を見ず、まっすぐに正面の暖炉の方を見上げた、アマディオの顔は、とても三十を過ぎたようには見えない。
つるり、とした顔にはぱっと見ただけでは、皺はおろか、髭を剃った跡さえ見えない。弓なりの形を描いた眉の形は生まれたままの形なのだろうが、それは優雅というよりも、どこか作り物めいている。その下の目の色は、墨を塗りこめたように黒い。その目も、顔の中に不器用なナイフさばきで切り込みを入れ、彫り込まれたように無機質で、どこか硬い線を描いている。額の正確に真ん中から斜めに落ちる、鼻梁の形も直線的だ。
なるほど、その話し方といい、この顔といい、彼は血の通った人間というよりも、奇術小屋のからくり人形に近かった。
「……大公、殿下。初めてお近くで拝見した、が。なる、ほど。アストロ、ナータ神殿の……。神像か、と納得した」
「去年の、皇帝陛下のご即位の折、読売りで拝見いたしました。年頃の女性でおられるのに、落ち着いて、誠実なお姿でした」
執事が言葉を挟んでも、アマディオは気にしたそぶりもない。
「だ、が。神像に、して、は。表情豊か、な。面白そう、なお方に見え、た。肝、の太、そうな」
「左様でございますか」
執事は、熱い紅茶の入ったカップを、彼の主人の前のテーブルに置いた。
「だ、が」
アマディオは急に動き出した人形のように、いきなり右腕を前に出すと、カップをその下の皿ごと持ち上げ、自分の膝元へ引き寄せた。
「あれは……こう、皇帝陛、下は、どうもな。あれで、は。近いうち、に狂いだそう、よ」
膝の上へ置いた皿から、カップを口元へ持っていく手元には危なげがない。
「魔物。何か、女、の魔物。が、お側近く? に近寄って、いる。お顔に迷い、と。そして、白いお額、に夢魔の、付けたお印、が見えた」
その言葉の内容は、かなり異様なものであったが、執事は驚いた風も見せなかった。
「左様でございますか」
執事の主人の方も、執事の熱のない受け答えに不満を持ったような様子はまったくない。
「今は無垢。無垢な、ものを夢魔は、見逃さ、ない。お姉君、大公、殿下は、懸命に努力、をなさるだろ……う。だが。陛下、は。一度は、闇に。落ちら、れるだろ……う、な」
「左様でございますか」
「うん」
ずるり、と茶を口に含んだ時の音だけが、アマディオ・ビダルの言動の中で一番、人間らしかった。
「仕方が、ない。きれいな……だけ、のお人形。そんな、つまらない、女。そんなもの、に」
「そんな者に?」
執事は、もう部屋から出て行こうとしていた。
燃え盛る、暖炉の上で、二つの小さな肖像画が二人を見ていた。その二人以外の家族や先祖の肖像画は、男爵家が没落した時に、館もろともに売り払われたのだ。
「……私はそんな者に使われたくはない」
そこに、何も知らない人間が紛れ込んでいたら、この言葉が、それまでの口調とはまったく違っていたことに驚いただろう。
「皇帝陛下あなたがこの街のいま一人の主として戻ってこられるまでにどれくらいの血が流されるのでしょうなあ」
アマディオは、それまでの話し方とは違って、何も考えずに言葉を口から流し出しているように、抑揚も何もない口調で一気に話し始めた。
そして。
彼が最後に執事の閉めた扉に向かって言った言葉を聞いたら、カイエンはどうしただろうか。
「領地は父のせいで取り上げられてしまいましたしもう私にはこの街しか戻る場所はないですからこの街を守ってくださる方にしかこの力を貸すことはないのです大公殿下」
「この街の攻防戦には是非私をコンドルアルマを使っていただきたい遠い南方になど送りださずにこの街の攻防戦に混ぜていただきたいものですなあ難しいかもしれませんけれども」
その言葉が終わると、もう、ぱちぱちと爆ぜる薪の音しか、その部屋には聞こえなくなった。
同じ頃。
皇宮内の元帥府での、アマディオ・ビダルの任命式を終え、着替えのために皇宮の自分の部屋へ戻ったオドザヤは疲れ果てていた。
時刻は午後の真ん中ぐらいで、オドザヤにはまだ職務がいくつも残っていた。だから、いつもなら皇宮で会えば、お茶の一杯でも共にする、姉の大公のカイエンとも別れて戻ったのだ。
皇帝として即位して半年。その間の職務は、若い彼女にとっても激務で、カイエンのように決まった日にちで休むことも出来ていなかった。
それは彼女の一番側で仕事をしている、宰相のサヴォナローラも同じだったのだが、神殿での修行に鍛えられた彼は、自分を律することに慣れていた。だから、若くて経験の浅いオドザヤが同じようには毎日を乗り越えては行かれないことに、あまり気が付いていなかったのだ。
オドザヤの護衛をしている、ルビーやブランカ、それに元は後宮の女騎士であるリタ・カニャスなどは、さすがにそれに気が付き始めていた。だが、彼女たちはそのことをまだ、女官長のコンスタンサ・アンヘレスにも、大公のカイエンにも報告するほどのことではないと思っていた。ただでさえ多忙な彼女たちをわずらわすほどではない、と消極的に処理してしまっていたのだ。
それには、オドザヤが彼女たちの前では、務めて平気なふりをしていたこともあっただろう。そして、もう一つの理由も……。
その、護衛のルビーやブランカなどを、居間に残し、オドザヤは最も近くで身の回りの世話をさせている、皇女時代からの侍女のカルメラと、他に侍女一人だけを連れて、寝室に隣接した化粧室に下がっていた。
オドザヤの身の回りの世話は、皇女時代からカルメラ以下の若い侍女たちが行っており、その習慣は、皇帝として即位したのちも変わっていなかったのだ。
「イベット、陛下にお薬をお持ちして」
オドザヤの公式の場所用の固い意匠のドレスを、背中からボタンを外して脱がせながら、カルメラはもう一人のお付きの侍女を奥へ向かわせた。
「まだ、陽も高い時間よ。お薬は、いいわ」
オドザヤはそう言って、イベットを止めようとしたが、カルメラは首を振った。
「いいえ。イベット、行って」
そしてイベットはじきに、銀盆に真っ赤な液体を満たした、ロマノグラスの大ぶりな杯をのせて戻ってきた。
その時には、オドザヤは固い布地のドレスを脱ぎ、下着姿で化粧室の鏡の前の椅子に腰掛け、カルメラに化粧を直してもらっていた。
「ああ。陛下、お薬が参りましたわ」
イベットがそばに来ると、カルメラは銀盆から透明に近いロマノグラスを取り上げた。その中の液体は赤ワインよりも赤みが強く、そしてワインよりもとろりとした液体だった。
「これは赤紫蘇のエキスを滋養豊かな薬酒に溶いたもの。お疲れを取りますし、美容にも絶大な効果がございます。さ、お飲みになって」
「ええ。でも……」
オドザヤはまだ昼の太陽が照らしている、ガラス窓の外を見ながら躊躇する様子だったが、カルメラはにこやかに微笑みながらも、しんねりとした様子で言う。
「陛下が暗いお顔や、お疲れのご様子をお見せになりましては、宰相も大公殿下もご心配でございましょう。ささ、時間が移ろいますわ」
そこまで言われては、生真面目なオドザヤはもう逆らえなかった。それでも、アイーシャが酒で身も心も持ち崩して行ったことを見続けていたオドザヤには、薬酒といえども抵抗があった。
「そう? でも、お酒でしょう。そんなものを陽の高いうちからいただくのは……」
なおも、小さい声をもらすオドザヤへ、カルメラはお付きの侍女とは思えぬ、言葉の強さで迫った。
「陛下のお身体のためですわ。いつも、このお薬をお飲みになった後は、お元気におなりです! この薬の効果は陛下もおわかりのはずです。ささ、もうお時間がきますわ。お早く!」
カルメラはオドザヤのような美人ではないが、かわいらしい顔つきの娘だ。その顔が、やや苛立たしく変わるのを見て、オドザヤは怯えたような目になった。母のアイーシャの機嫌の移り変わりに振り回されてきた彼女は、召使といえども、他の人間がいらいらした様子を見せるのに弱かった。
「わかりました。……いただくわ」
オドザヤはカルメラの手からグラスを受け取ると、赤い液体を見ないようにして、ぐいっと一息に飲んだ。
「ああ……」
舌に感じたのは、とろりとした感触と、薬臭さのある甘さ。そして、喉を通った時に感じたのは、確かに紫蘇の香りだった。
しばらくして。
「ああ、お顔に赤みが戻ってこられましたわ」
側で、カルメラの声を聞くまでもなく。
鏡の中のオドザヤの真っ白な頰には、すぐに赤みがさしてきた。
「そうかしら」
言いながらも、オドザヤもまた、鏡の中の薔薇色に変わった顔色には満足していた。
「それじゃあ、着替えをしましょう。……税金係の官吏たちとの会議だったわね。でも、あんまり地味でも気が滅入るわ。薄い青地に氷の結晶の文様のドレスがあったでしょう? あれにしましょう、持ってきてちょうだい」
そして。
着替えと化粧直しの終わったオドザヤは、大公軍団から派遣されている、ルビーとブランカの二人の女性隊員の護衛を従えて、皇帝の居住区を出て行った。
その後ろ姿を、廊下の端でオドザヤたちが見えなくなるまで見送ってから。
侍女のカルメラは、イベットに向かってさっきとは全然違う、強い口調で言い放った。
「じゃあ、私、伯母様のところへ行って来るわ。お前は陛下のお戻りまでに、お衣裳部屋と化粧の間の片付けをしておいて。すぐに戻るから。……手を抜くんじゃないわよ」
「承知しました」
イベットは自分と同年代のカルメラの言葉に、逆らう様子も見せず、不満そうな表情さえしなかった。それどころか、イベットはカルメラを恐れているようで、彼女の顔をろくに見ようとさえせず、丁寧に礼をしながら去っていく。
それを見送ったカルメラは、一人、広い廊下をオドザヤが摂政皇太女の時に住んでいた宮の方へ向かう。そこには今、リリエンスールの出産後に狂乱し、自分を失くしてしまった皇太后のアイーシャが、病み衰えた体を横たえているはずだ。
カルメラが宮の入り口に立つと、すぐにアイーシャ付きの侍女の一人が顔を出し、慣れた様子で中に招き入れた。ほとんど意識もない、病み衰えたアイーシャを主人とする宮の中は、陰気に静まり返っている。
カルメラが侍女に案内されて入って行ったのは、アイーシャの寝室のすぐそばの侍女の控え部屋だった。
「伯母様、ごきげんよう」
そこには、何か縫い物をしているらしい、一人の中年の女の姿があった。カルメラの挨拶に顔を上げたのは、彼女の言葉からすれば、彼女の伯母に当たるのだろう。
「おや。まさか、もう薬が切れたかい」
ああ、カルメラの挨拶に答えたのは。
それは、あの、アイーシャの従姉妹。ずっとアイーシャの一番近くに侍り、そして、大公妃時代に、蟲付きで病弱なカイエンを産んで不幸のどん底にあったアイーシャに気晴らしの酒を勧め、遂には酒漬けにしてしまった、あの、ジョランダ・オスナだった。
「皇帝陛下は、皇太后様よりも我慢がきかないね。忙しいだけで、お心を惑わすものなんか、なーんにもないのにねえ」
縫い物を、椅子の脇のテーブルに置いたジョランダは、入ってきたカルメラ……彼女はジョランダの妹の子だったのだが、彼女の引きで庶民ながらも皇宮へ上り、そして巧妙に出自を隠して、オドザヤに取り入り、その腹心の侍女に選ばれていたのだった。その過程で、カルメラはとある準男爵家の養女になっていた。
「伯母様ったら。陛下は本当にご多忙ですのよ。まともにお休みの日さえございませんの。あの大公殿下は、週に一日、必ずお休みの日をお持ちになって、ほほほ、いやらしい男妾どもと昼間から閨事に勤しんでおられると言いますのに」
かわいらしい桃色の唇から、にわかには信じられないような言葉を紡ぎ出す姪を、ジョランダは面白そうに見た。
「まあ、お座りよ。……読売りに出たんだろ? また大公殿下には新しいのが出来たんだって?」
「ああ。大公軍団の軍団長が殿下をかばって瀕死の重傷、とかいうあれですの? あの事は、陛下もまだ直接にはお聞きになっておられないようですわ」
カルメラの返事を聞くと、ジョランダは、醜い、捻れたような顔に、微笑みを浮かべた。そうすると、微笑みといえども醜悪に見えてしまう、骨格のひん曲がった魔女のような顔に見えた。これは、彼女自身も自覚していたので、身内以外には見せない顔だった。
「ふん。大公殿下はアイーシャ様を狂わせた元凶。蟲の化け物だよ。どうせ、体に蟲がいるんじゃ、いくら頑張ったって子供は産めないんだ。でもそりゃあ逆に、いくら遊んでも間違いは起きないってことでもあるんだからね。あの方はお気楽なもんさ」
ジョランダは、シイナドラドから戻ってすぐのカイエンのあの事を知っているのか、知らないのか。その言葉にはひたすらにカイエンへの悪意と、侮りのようなものだけに染まっていた。
「あら、伯母様。ねえ、私、それほど時間はないんですのよ。……お薬、まだお持ちですの?」
カルメラの方は、この話題はアイーシャの宮の中とはいえ、長く続けるのは危険だと思ったようだ。自分の事は棚に上げて、彼女は伯母の元を訪れた本題に戻った。
ジョランダの方は、姪相手に乱暴な言葉遣いだが、カルメラの方はお上品に取り繕うのをやめる気はないようだ。
「なんだい。やっぱり薬が切れそうなのかい。皇帝陛下は、アイーシャ様と違って、普通の酒の方の誘惑には頑なでおられるからね。その分、薬の方がよく効くんだろう。……いいよ。こっちはもうそんなに要りやしない。あるだけ持っておいき」
カルメラはそう聞くと、ほっとしたような顔つきになった。
「ああよかった。なーんにも知らない、無邪気な陛下はともかく、護衛の女どもや宰相は、さすがに薬が切れたら気が付くかもしれないですもの」
「それは、そうだね。気をお付け」
ジョランダはそう言うと、ふと真面目な顔になった。
「薬の入手の方は、私に任せておおき。ところで、あのザイオンの王子様の方はどうなったね? 陛下は気もそぞろなんじゃないのかい」
ジョランダがこう聞くと、カルメラもかわいらしい顔をきゅっと引き締めた。
「そうそう、それでしたわ。あの方、新年からこっち、あちこちの貴族様のおうちに招かれたりなさってて、これから派手にハーマポスタールの社交界へ出て行こうとなさっているみたいですわね。ええ、侍女たちの実家から色々、情報が入りますのよ。それを、わざと陛下にお聞かせするようにしているんですけど、これに関しては、陛下も恋は盲目、って言っても用心深くてらして。女官長や護衛の女どもにご自分が無軌道な振る舞いをしそうになったら、注意してくれるように、って、わざわざ!」
「そうかい。そこらはアイーシャ様より面倒だね。あのサウル様の方の血なのかねえ。困ったもんだ。お前も、もっと侍女どもを味方に引き入れな。あの堅物の女官長はどうにもならんが、その、護衛の女たちってのはどうにかならないのかい?」
これには、カルメラも難しい顔になった。
「あの人たちは、大公軍団から派遣されてきた人たちですもの。ルビー・ピカッソは元神官だから、さばけて見えても根っこはくそ真面目だし、ブランカ・ボリバルは、元は大公宮の女騎士で、故郷に子供を残して来てる母親ですもの。リタ・カニャスも長年、後宮の女騎士をして来た人だから、そっち方面には甘くないわ」
「リタ・カニャスか。なにか、弱みを探してみようかね。お前だけじゃ、陛下のそばに色々引き入れるとなると力不足だからね」
ジョランダは、考え込む顔になった。
それをしおに、カルメラは自分の仕事に戻ることにしたらしい。立ち上がろうと、椅子の腕木を掴みながら、カルメラはジョランダに笑いかけた。
「若い私じゃ、そこらはどうにもならないわ。それじゃ、もう私は戻らなきゃ。それにしても伯母様、そこまでして陛下の素行を悪くさせたいなんて、よっぽど陛下に恨みでもあるの?」
若いカルメラは軽い気持ちで言ったのだろうが、この言葉はジョランダに爆弾でも投げつけたような効果があった。
「恨み?」
ジョランダは、すうっと、それまで醜い顔に浮かべていた笑いを引っ込めた。代わりにその顔に皮膚の下から湧き出て来たのは、どす黒い、淀んで鬱積した何かだった。
「……陛下はね、ここへアイーシャ様を移されてすぐに、ここへ来て、私にこうおっしゃったんだよ」
今ここに、オドザヤがいたら、あの時自分が言った言葉を後悔しただろうか。だがそれは、彼女としては自己防衛のために、仕方なく言った言葉だったのだ。それが、こんな歪んだ行動の引き金になろうとは、オドザヤは思ってもみなかっただろう。
「『私は、私のしなければならないことをしているだけよ。あなたにも、あなたの中にいるお母様にも、惑わされはしない!』ってね」
歪んだ唇から、真っ黒は瘴気のように流れ出てくる言葉には、さすがにカルメラも眉をしかめた。
「こうもお言いだったよ。『私に、さっきのような言葉を言いたいのなら、お母様を、お健やかなお姿に戻してからにしてちょうだい』ってね。この、アイーシャ様に人生のすべてをかけて奉仕して来た、このあたしにだよ! 今も、アイーシャ様のお下の世話までみんな一人でやっている、このあたしにだよっ!」
ひん剥かれた目の白目には、真っ赤な血管がいく筋も絡み、その様子はアイーシャではなく、彼女の方が狂女になったかのようだった。
「アイーシャ様は下町のお育ちだから、情けというものをお持ちだった。だけど、あの陛下は正反対だ。高慢ちきに育って、あんな美しさをくださったお母様への感謝の気持ちもない。アイーシャ様の出来の悪いまがい物のくせに、皇帝陛下だなんて、聞いて呆れるよ!」
この言葉の強さと邪悪さ、それにむき出しの悪意の醜さに、カルメラは辟易したように席を立った。
「もうよくわかったわ、伯母様。いいわ、私もちゃんと手伝うから! それより伯母様、例の伯爵家との縁談、忘れずにお願い致しますわ。ええ、ええ。伯爵夫人になれたら、伯母様の老後のお世話は私がなんとかしますから、ね?」
最後に、伯母の機嫌を取るように、だがそれと一緒に、自分が伯母に従う交換条件をしっかりと確認して。カルメラは静かに部屋を出て行った。例の「薬」とやらは後から受け取りに来るのか、裏から下働きの者が持って来るかするのだろう。
カルメラが出て行った後、ジョランダはしばらく、恐ろしい顔つきのまま動かなかった。彼女が動いたのは、扉の外から、他の侍女の遠慮がちな声が聞こえてからだった。
「……あのう、ジョランダさん? 皇太后陛下のお薬が切れて来たみたいなんだけど……。私じゃお飲ませ出来ないから、お願いできるかしら」
ジョランダのくぼんだ眼窩の中の小さい目が、ぎらりと光った。
「ああ。すぐに行きますよ。まったく、私がいなきゃ、もうとっくにアイーシャ様は墓の中だよ」
言葉の最後の方は、用心深く細められ、誰にも聞かれないまま、空気の中に溶けていく。
今日の、カルメラとの危ないやりとり。こんなことも、ジョランダがアイーシャに仕えるようになってからの人生では、当たり前の光景だった。
「若い娘どもは、不道徳で身勝手で……。歳は取るもんじゃないね」
そうして。
ぽきぽきと肩を鳴らしながら、ジョランダの捻れたような姿は、アイーシャの寝室の方へ消えて行ったのだった。
カイエンは、アマディオ・ビダルの将軍任命式から大公宮へ戻ると、一旦、表の彼女の執務室に入った。
彼女が床を払って通常の生活に戻ったのは、イリヤの病室でヴァイロンとイリヤと三竦みの状態になった夜が明けた、その翌日のことだった。だから、彼女はまだ懐中時計をイリヤの部屋まで取りに行くことが出来でいなかった。
仕方ないので、カイエンは以前使っていた、アルウィンに買い与えられた時計を鎖で腰のベルトから下げていた。だが、あの銀時計を見慣れてしまった目には、その時計は装飾過剰で派手なだけの趣味の悪いものに見えてしょうがなかった。
その時も、その金と宝石で飾られた時計で時間を確かめたのち、カイエンは溜まっていた書類の署名をし、そして、上がって来ていた例の奇術団コンチャイテラの掛小屋の火災事件や、治安維持部隊長のマリオへの襲撃事件など、最近の大事件の報告書に目を通していった。
そして、ふと顔を上げると、もう、窓の外はあっという間に夕暮れの時間だった。
冬の夕暮れは早い時間だから、彼女はまだ仕事を続ける時間つもりだった。部屋の中で書類仕事をする分には、ランプを点ければ事足りるからだ。
だが、外での勤務をしている者たちは、暗くなればランプが必要となり、そうなれば仕事の能率が落ちるから、冬場は早めに仕事を終えることが多かった。この時代のランプはそれほど明るいわけでもない。皇宮や貴族の邸宅のパーティのように、昼間のような明るさにするには、とんでもない数が必要だった。
カイエンの行動にはいつもくっついてくる、それが仕事の護衛騎士のシーヴはカイエンの執務机の上のランプに火を入れようとしていた。その胡桃色の目が、ふと、窓の外へ向けられると、すぐに意外そうな声がその喉から飛び出て来た。
「あれえ。昼間はあんなにいい天気だったのに、降って来たみたいですよ」
カイエンは、書類から顔を上げた。
「ああ。真冬の雨は嫌だな。寒々する。まあ、昼間のアマディオ・ビダルの任命式の間は晴れていてよかった」
カイエンがそう言うと、ランプを点け終わり、窓のカーテンを閉めるために歩き出そうとしていたシーヴがふわっと振り返った。
「あ! 殿下、ご覧になったんですね。ビダル新将軍、変わってたでしょう?」
シーヴはもう、どこかでアマディオ・ビダルを見たことがあったらしい。カイエンは書類にペンでメモを書き入れていた手を止めた。
「ああ。『からくり人形』とはよく言い得たものだな。あのなんだか温度のないみたいなつるんとした顔といい、あの、カタカタした動き方と言い、喋り方の具合といい、目を擦りたくなるほどだったな」
カイエンは昼間のことを思い出しながら、首をひねった。
「まあ、就任のお礼の言葉では、カスティージョの息のかかった兵士が多数、残ったままのコンドルアルマをまとめることには自信がありそうだった。いや、自信があると言うか、そんなの自分とは関係ない、って感じだった」
真っ黒な目はオドザヤやカイエンの方を見てはいたが、ちゃんと見えているのかと疑いたくなるほどに無機質で冷たかった。いや、冷たいと言うよりも、感情の起伏をまったく感じさせなかったのだ。
それから、カイエンはもうしばらく書類仕事を片付けてから、大公宮の奥へ下がった。
シーヴを帰らせてから時計を見ると、雨だから気持ちが急いていたのか、時刻は晩餐にはまだ早い時刻だった。
カイエンは女中頭のルーサに命じて、居間にお茶を持って来させたが、ふと、気が付いた。
今の時刻は、ちょうどリリの夕飯が終わり、カイエンの晩餐にはまだ間のある、空白の時間帯だと言うことに。
それはカイエンにとっては、イリヤのところへ行って、懐中時計を取り返してくるには、またとない機会に思えた。
カイエンはゆっくりと杖を突いて立ち上がると、そっと寝室の方へ周り、そして裏の扉から裏廊下へ出た。まだ、大公軍団の制服を着たままだから、表廊下を通ることも考えたが、表よりは裏からの方がずっとあの部屋は近いのだ。
それでも、そろりそろりと歩いて、イリヤの病室の扉をほとほととノックすると、すぐにイリヤの間延びした返事が聞こえて来た。向こうも、そろそろカイエンが現れると思っていたのかもしれない。
「あいにくの雨ですねぇ」
驚いたことに、イリヤはもう寝台を離れて、窓辺に置かれたソファの方に座っていた。寝台の横の小卓と、ソファの前のテーブルの上のランプに火が入れられて、部屋の中を朧に照らしている。
「もう、起きていたのか。医師は許可しているんだろうな?」
カイエンがそっちへ向かって歩きながら訊くと、イリヤは寝ている間に日焼けしていたのが薄れて白くなり、なんだか破壊力を上げたような顔に、苦笑いを浮かべた。
「あらぁ。だって腹の中身の方は蟲さんが治してくれたから、傷は表面の肉と皮だけですからねー。少しずつ歩かないと、あっという間に筋力が落ちるって、あのお医者さん、脅すんだもん」
「そうなのか」
カイエンは出来ればイリヤの、テーブルを挟んで向かい側に座りたかったのだが、そっち側にはソファはなかったので、椅子でも引っ張って来るか、と周りを見回していたところだった。
「やーね。あんな告白したからって、すぐに取って食ったりしないよぉ。こっち来て座りなよ。大丈夫、これ三人がけだもん。ちゃんと間に隙間がありますよー」
イリヤにそこまで言われては、カイエンはイリヤの座ったソファの端に座るしかなかった。どっちにしろ、杖を突いている彼女には椅子を運ぶことさえ難しいのだ。彼女が座る前に、イリヤはもう一方の端の方へ移動してくれたので、気も楽だった。そうして動いている様子を見ても、イリヤはもうそれほど、腹の傷が痛まないようには見えた。
「今日は……ああ、アマディオ・ビダルがコンドルアルマの将軍になったのねぇ。まあ、順当だし、無難な人事ですよ、あれは」
カイエンは意外に思った。シーヴだけでなく、イリヤもビダルを知っているのだろうか。
「そうか、無難なのか。それならよかった。それにしても、イリヤもあの男を知っているのか」
カイエンが訊くと、イリヤは鉄色の目を意味ありげに細めた。
「話したことは一度だけね。でも、それでも分かるのよ。あれ、あだ名のからくり人形と同じなのよね。……人形は嘘なんかつかないっての」
カイエンはイリヤの言いたいことは半分ほどしか分からなかったが、それ以上聞くのはよした。彼女にはそれほど長い時間はなかったから。晩餐の時間までには部屋に戻っていたかったのだ。
「ザラ大将軍も、同じようなことを言っていたな。まあ、それはいい」
カイエンがそこで言葉を切ると、イリヤにはもうカイエンの用事が分かったらしい。
「あーあ。そうでしたそうでした。殿下のお時計は、こうして、ここに預かっていますよぉ」
そう言うと、イリヤは着ていた毛織物のガウンのポケットから、魔法のように、真っ白なハンカチに包んだ物を取り出した。思わず、受け取ろうと右手を差し伸べたカイエンの手の平の上に、イリヤはそっとそれを置こうとしているように見えた。
だが。
カイエンが伸ばした手を掴んだのは、イリヤのもう一方の手だった。
えっ、とカイエンは手を引っ込めようとしたが、もう遅かった。彼女の指の細い、体の大きさの割には大きな手は、イリヤのそんな彼女の手よりももっと大きな片手にぐいっと掴まれ、ソファの反対側へ引き寄せられていた。
「あらあら、だめですよぉ。そんなに簡単に下心のある男を信用しちゃあ。シイナドラドでのことが、ちっとも薬になっていませんねぇ」
言いながら。イリヤは時計の包まれたハンカチを、テーブルの上に静かに置いた。
「ずっと、こうしたかったんだよねぇ」
そして、そう言いながら、イリヤはカイエンを両腕の中に閉じ込めた。
その時、イリヤがカイエンを見ていた表情は、喉を撫でられている猫がするような、恍惚とした微笑みに覆われていた。
カイエンは、いつもはすべてを馬鹿にして、世界を斜めに見ているような、イリヤの鉄色の目の底に、朱色の炎が揺らぐのを見た。
その色の危険さにおののいた時には、もう、唇が塞がれていた。
それから起こったことは、その時イリヤがしたかったことすべてが終わるまで、されるがままになっていたカイエンには、荒れ狂う濁流にのまれていたようなものだった。
気が付いた時には、ソファの上に寝転がり、大公軍団の制服の胸元のボタンを、上着の下の絹の白いシャツまで開けられた状態だった。部屋の暖炉には薪が燃えていたが、覆うものがなくなった胸元に冷たい冬の空気を感じて驚く。
そして、上にのし掛かったイリヤの、餌を与えられて満足した猫のような表情にぎくりとした。
「殿下ねえ、そんなに隙だらけじゃあ、じきに、あのがっついた皇子様にも、もう一度食べられちゃうよ。まー、皇子様の前じゃ、緊張してるだろうから大丈夫だろうけどぉ」
矛盾したことを言うイリヤの顔は、本当にうれしそうだ。本当に猫だったら、喉をごろごろいわせていたに違いない。
「え?」
カイエンは、はっとして無意識に胸元を搔き合せたが、その時にはもう、自分が何をされたのか理解できていた。
「な、なんで。……と、時計は?」
カイエンは急いで押し倒されていたソファから起き上がりながら、いまさらにおのれの体に加えられたあれこれを反芻した。そして、その破廉恥さに、普段は病人のような土気色の顔を真っ赤に染めた。
「……油断も隙もないな。なんて男だ。もういい! 早く時計を出せ!」
涙目で叫ぶように言ったカイエンへ、イリヤは余裕しゃくしゃくの表情を向けた。今、したかったことをとりあえずやりきった彼の表情は、満ち足りているようにさえ見えた。
「はいはい。お時計ね。ここにありますよぉ」
カイエンは、今度こそ彼女の出した手の平の上に置かれた包みをさっと広げた。そこには、彼女の紫苑の花の刻まれた銀時計が、確かにあった。
「ねえ、それさあ、殿下気が付いてるぅ? 夢の中で見えたと思うんだけど、俺の時計と……」
カイエンはもう、イリヤの言葉を待ってなどいなかった。
「それだ! だから気になってたんだ。お前の時計を見せろ。あれを、いつ、どこで手に入れた? それをさっさと全部吐きやがれ、この悪党!」
とりあえず、返してもらった時計をポケットに入れ、忙しく、はだけられたシャツの胸元のボタンをはめていくカイエンを眺めながら、イリヤはにやにやとした顔のままだ。それでも、カイエンの時計を取り出したのとは反対の、もう一方のガウンのポケットから自分の時計を取り出しては、見せた。
「はいはい。これね。これが俺の時計。蓋の模様は勿忘草ですねぇ。俺も並べて調べてみたけど、確かにこの二つは、対になっていたみたいねえ。大きさも意匠もそっくりだから。……これをどこで買ったかと言うとぉ、あのね、殿下がよく通俗小説を大人買いに行く、あの書店のそばなのよ。もう、何年になるかなあ。骨董屋でね、店の名前は……」
「蝸牛堂、だろう?」
カイエンが話の先へ回ってそう言うと、イリヤは目を丸くした。
「あら、ご名答。それじゃあ、殿下がその時計を買ったのもあの店なのね」
カイエンはうなずいた。まだ、上着のボタンは開いたままだが、これは後でもいい。普段は自分で服の脱ぎ着などしないカイエンには、ボタンをかけるのも一苦労なのだった。
「そうだよ。でも、それじゃ、おかしいんだ。あの店の主人は、この時計の片割れはない、って言ったんだ」
カイエンは頭の中で、あの時の店主の言葉を思い出していた。
(この時計は、二つで対になっていたそうなのですが、片割れはこれとは違って、売りに出されなかったようでしてね。これは私の想像ですが、もう一つの時計には、恐らく勿忘草の彫刻があって、蓋の裏には「私を忘れないで“Nomeolvides”」という言葉があったのではないかと思うのです)
「あー。それ、俺ん時も同じでしたよー」
イリヤの言葉に、カイエンははっとした。
「同じ? では、お前もあの店主に同じことを言われて、そして、それを買ったのか」
カイエンがそう訊くと、イリヤは神妙そうな顔を作ってうなずいた。
「そうですー。俺はもう一つは紫苑の時計で、蓋の裏には『お前を決して忘れない“Nunca te olvidare”』ってえ文言が彫り込んであるだろうって、聞いたんですぅ。でぇ、まさしく殿下の時計にはその文言がありましたねえー」
カイエンはもう、イリヤの言葉をまともに聞いてはいなかった。
あの骨董品店、「蝸牛堂」の店主は、カイエンにもイリヤにも、「この時計の片割れは売りに出されず行方不明」と言ったことになるのだ。
「分かった。明日にでも、蝸牛堂へ行って、確かめてくる」
カイエンはそう言うと、ソファの下に落ちていた杖を引っ張り上げて立ち上がっていた。こうなったからには、長居は無用だ。
出来るだけの速さで、裏扉へ向かうカイエンの背中に、イリヤの憎らしい言葉がぶつかってきた。
「あ、ねえねえ。殿下をかばって瀕死の重傷の、かわいそうなイリヤちゃんを、また近いうちに見舞いに来てくださいよぅ。ちょっとずつ、仲良くしてほしーなー。今日はホントに寸止めで、ムラムラが残っちゃってるしぃ。ねえ」
カイエンはもはや、イリヤの世迷い言など聞いてはいなかった。いや、聞かないように努力していた。
「気が向いたらな!」
自分でもどうでもいい感じで答えながら、裏扉を閉めて。
カイエンはイリヤの部屋を出た。
裏廊下で制服の上着のボタンを忙しくはめながら、カイエンが思ったのは、これはきっと帰ってきたヴァイロンにばれる。その時どうするか、ということだけだった。
翌日は雨も上がったので、空き時間をみてカイエンは、あの行きつけの通俗小説の専門店へ向かった。
第一には、あの元日の事件以来、意識が戻ってからも部屋で休んでいたので、買ったは買ったが読む時間のないままに積まれていた、通俗小説の山も読み切ってしまっていたからだ。
そして、昨日、イリヤに聞いた銀時計にまつわる奇妙な話を確かめるため、書店のすぐそばにあったはずの、あの骨董品店へ行ってみようと思ったのだ。
だが、そこでカイエンはひどく驚くこととなる。
三年近く前、その店のすぐそばにあった、銀の懐中時計を買った骨董品店。
それが、いくら周りの通りを巡っても、見当たらなかったからである。自分で自分に呆れたが、三年も経たぬ前のことなのに、カイエンはもうあの店の場所をちゃんと覚えていなかったのだ。
あの骨董品店の前の道の石畳の具合や、店構えなどはちゃんと覚えている。なので、近くまで行けば、すぐに見当がつくと思っていた。なのに、行き方が思い出せないのだ。
そして、周りの店々に、店の名前「蝸牛堂」を出して尋ねてみて、さらに驚くこととなった。
行きつけの通俗小説の店の主人以下、どの店の者も、「蝸牛堂」のことを知らなかったからだ。
「そんな名前の店、見たことも聞いたこともありませんねえ。ええ、この界隈では。骨董品店なら、近くの裏の通りや金座にいらっしゃれば、ございますけれども。でも、『蝸牛堂』という店名の骨董品屋は存じません」
新刊の通俗小説を店先に山のように並べ、店の奥の書棚には既刊をずらりと取り揃えた店の主人は、本の生き字引で、通俗小説以外の本も、どこそこの店に行けばある、と教えてくれるほどだ。まさか、近所の店の存在を、名前ごと忘れるとは思えなかった。
「今ではない、数年前のことだ」
カイエンはそう言って粘ったが、店の主人たちの返答は変わらなかった。
「蝸牛堂」は姿を消した。
いや、店主たちの言を信じるのなら、そんな店はこの近くには「あったことさえない」のだ。
カイエンは、困惑した。
「殿下もイリヤさんも、時計を買ったお店の名前まで、しっかり覚えていて、店構えの感じなんかも同じだったんでしょう? おかしいなあ」
いつものように、護衛として付いて来ていたシーヴがそう言うまでもなく。
蝸牛堂はその存在さえも、曖昧になってしまったのだった。
今回で、第六話「失楽の王」の方向性も見えて来たかと思います。
カイエンさんたちも、複雑な関係に突き進んで行っております。




