私を忘れないで (2018.0519 一部改稿)
彼女は言った
ともに苦難へ立ち向かった人々へ
共に歩んだ、星の女神たちへだけでなく
彼女の人生を通り過ぎた男たちへも
彼女は言った
彼女の人生の中で彼女から旅立って行った男へ
彼女は言った
彼女の人生の中で思いを残して倒れた男へ
彼女は言った
彼女の人生の仕上げをした男に
曰く
一緒に行こう
(Vamonos!)
決してお前を忘れない
(Nunca te olvidare)
永遠に
(Para siempre)
一緒に行こう
(Vamonos!)
私の歩みは、いつでも、お前たちとともに
(Siemore voy con mis compañeros. Es mi vida)
アル・アアシャー 「海の街の娘の叙事詩」より。
カイエンは、その後長いこと、その時、自分がした過激な行為の理由がわからず、人知れず苦悶した。
だが、すぐに、そんなことでくよくよしたところで、事実は変わらないことに気が付いて、考えるのをやめた。その心の動き方は、世の多くの人々も恐らくは同じで、それは本当に若い時には、それも、初心な少年少女だった時にはなかなか出来ない、ずうずうしい大人の取る方法だった。
そんなことからも、カイエンはこの頃、もうとっくに大人の女としての歩みを始めていたのではあった。
「私の心を弄ぶな」
「私は、お前に、確かな私を、真実の私を見せていたはずだ。……なのに、ことここに至って、私の心を掻き乱そうとするとはな。これはもう、許せない」
カイエンは、自分が、その二つの言葉を言ったまでは覚えていた。
イリヤが言った言葉、
(俺が殿下を、好きでも嫌いでもいいじゃん。そんなの殿下に関係ないもん。それは俺の勝手でしょ。好きでも嫌いでも、殿下に今まで迷惑かけてないし。これからだって、あんなことがなけりゃそのまま、お墓まで持って行ったはずのことだもん。でね、どっちかってえと、殿下には、俺を好きにならないで欲しいんだよねぇ!)
という言葉に、その後の茶化した言葉の羅列に、一瞬、頭が真っ白になるほどの怒りを感じたことも。
だが、それ以降に自分がしてのけたこと。
その意味を、彼女が自分でなんとか理解出来るまでには、しばらくの時間が必要だった。それは、後になればなるほどに不可解で、最初のうちは気でも狂ったかと自分の理性を疑い、しばらくの間煩悶した挙句に、最後の最後には開き直るしかなくなった種類のものであったのだ。
一方、イリヤは、彼が「そこから先には入らないで」と必死の思いで要請した、寝台の縁の一線をいとも簡単に乗り越えて、寝台の上へ膝立ちで上がって来たカイエンを、目を瞑ることさえ出来ず、鉄色の目をゆらゆらと揺らしながら戦慄して見ていた。
イリヤがいくら腹を抉られ、その傷がまだ治らぬままに寝ている怪我人だったとしても。
その時、大公軍団軍団長として文武両道を誇って来たイリヤが、腹を刺された後に傷を縫い合わされて寝ている怪我人だったとしても、女としても小柄な部類で、何の武道の心得もないカイエンを恐れる必要など、本来はなかったはずだ。
何をされたとて、腹から上、両腕は普通に動くのだ。襲いかかってくるカイエンの無力な体を抑えるのは簡単に出来たはずだった。
なのに。
イリヤはカイエンの顔から目をそらすことも出来ずに、そして、声さえも出せずに、たくさんの枕で半身を支えたの姿勢のまま、指一本、動かすことが出来なかった。
後になって、イリヤはこの時のことを何度か、嫌々ながらも反芻したが、この時、彼が身動きひとつ出来なくなったのには、主に、二つの要因があった。
ひとつ。
それは、にじり寄ってくるカイエンの顔が、彼女の実の父親である、あの怪物、アルウィンが良からぬことを企んでいる時に浮かべていたのと同じ種類の、悪い悪い微笑みを浮かべていたからだ。
後にイリヤはカイエンに向かって、この時のことをぼやいたものだが、その時のカイエンの顔にあった微笑みは多分、アルウィンが何人何十人もの人々を籠絡し、破滅させて来た、その時に「使っていた」最悪の顔と同じだったのだ。
もちろん、この時カイエンはイリヤを籠絡しようとか、破滅させようとか思っていたわけではない。
よくよく考えてみれば、ただ怒りに我を忘れた時のカイエンの表情が、よく似た父娘であったアルウィンの、良からぬことを企んでいる時の悪い微笑みと、偶然同じ顔の筋肉を使うものだった、ということだったのだ。
そして、ふたつ目。
それは、目が合ってしまったことだった。
実は、その時までイリヤは、カイエンの灰色の瞳と目を合わすのを本能的に避けていた。
すでに六年前、最初に彼女の姿を見た時に、イリヤはどうしようもなく定められた、運命の恋に落ちてしまっていたから。アルウィンとそっくりな顔の中で、唯一、違っていたもの。それが、カイエンの灰色の目の底知れぬ輝きだったから。そして、その輝きにこそ、イリヤは心奪われたのだから。
誰もが同意することだろうが、人間の瞳というのは覗き込めば、そのままではなかなかに逸らすことの難しい代物だ。それは、その人の望む望まないに関係なく。
六年間、イリヤが周到に、決して見つめ合わないように、長い時間、見つめることがないように気を付けていた、そのカイエンの灰色の目とイリヤの鉄色の両眼が、この時、初めてぴったりと合ってしまったのだ。
灰色の瞳などありふれている。
灰色の目というのは、幅の広い色をその言葉の意味に含んでいる。くすんだ青い目も、緑の目も、薄い茶色の目も、光の加減では灰色に見える。この大公宮の住人では、他にマテオ・ソーサが灰色の目を持っている。瞳の虹彩が灰色に塗りつぶされているという点では、虹彩全体が灰色一色に塗りつぶされている、マテオ・ソーサの目こそが真実、灰色の目、というべきものだっただろう。
その点、カイエンの目は趣を異にしていた。
彼女の灰色の目は、髪の色の紫を映した深みがあり、灰色以外のいくつもの色を内包したような、独自の輝きがあった。
それがカイエンという人間を見た時に、ことさらに印象的な部分であったことは、後の世まで、彼女の「目の光」、「目の輝き」についての印象が伝え残されたことからも間違いがない。彼女は、その印象的な「目の力」で数えきれない人々の目を奪い、心を傾けさせ、その信用を得、その人生の間ずっと、そうして彼女の使命を全うして行ったのだから。
その、カイエンという一人の女の人生を通じて、失われなかった灰色の目の輝き。それと、イリヤの時には輝き、時には暗く淀んでいた鉄色の目が、この時どうしようもなく絡み合い、繋がりあってしまったのだ。
「え、ちょっ」
イリヤはカイエンの、血管が青く透き通るような皮膚で覆われた、指の長い手が、自分の胸元にかかり、彼女の体重が自分の上にかかってくるのを感じて彼女を押し留めようとした。
だが、瞬きも忘れたような顔をしたカイエンの影が、彼の上へのし掛かってくるのを止めることはできなかった。
「うるさい」
カイエンはそう言うと、イリヤの仰向けに横たわった体の、それもナイフの刺さった傷のある腹の辺りを、膝で跨いだ。その動きは、カイエンのその時の心の動きと合致していたのか、いなかったのか。
イリヤの立場で見れば、その時のカイエンの動きは、性的な意味で女が男にのし掛かって来る様にそっくりだった。
カイエンの片一方の手は、イリヤの胸元に置かれたままで、もう一方の手が、彼女がやってきた方向とは反対の方向の、寝台の上に置かれる。
そうすると、いくつもの枕の上に身を投げ出しているイリヤの顔の上には、まさしくカイエンの顔があり、彼はカイエンに押し倒されているような格好となった。
「え、あの、ねえ……」
イリヤの唇は、何か言葉を発してはいるが、それはカイエンの耳に入らず、そしてまたイリヤもまた意識してその言葉を発していたわけではなかった。
カイエンの黒みがかった紫色の髪の房が、イリヤの顔の周りに垂れて来て、彼の視界を奪った。
「……イリヤ。お前、夢の中からずっと、生き返ってもずっと……うるさいんだよ」
ヒィ。
やばいよ、このヒトの目の色やばい。やっぱり殿下はあの怪物の娘なんだ。根っこに同じヤバいものを隠していたんだ。人でなしの娘は、やっぱり人でなしだったんだ。
イリヤがその本能で、そう思った時には、カイエンの長い黒みがかった紫色の髪の毛が、イリヤの顔の両端の敷布の上に着地していた。それはもちろん、イリヤの胸の上にのし掛かったカイエンが、イリヤの顔に向かって自分の顔をうつ向けたからだった。
次の瞬間には、イリヤは着ていた寝巻きの襟元を、カイエンの両手で捕まれ、首ごと引きずり挙げられていた。今や、彼ら二人の顔は、息がかかるほどの至近距離にあった。
その次にイリヤを襲って来たものと言えば。
それは、もはや痴話喧嘩というしかない、喜劇の様相を呈していた。
がつん。
イリヤは額に凄まじい衝撃を感じ、次いで目の奥で散る火花を見た。
がつん! がつん。
一発だけでもかなりの衝撃だったが、イリヤは二発目、三発目の衝撃にも耐えなくてはならなかった。
なにこれ、頭突きじゃん。
イリヤがそう思った時には、三発目がきれいに決まっていた。
イリヤは、頭の中の深いところで、「これは、間違いなくお互いにでっかいコブを作ることになるな」と思った。
「……子供の頃、こうやって意地悪なガキどもを、泣かせて追い払ってやったんだ」
カイエンの目はすわっていた。
「意地の悪い奴も、ちょっとだけ力のある奴も、懐に飛び込んで胸倉つかんで、死ぬほど頭をぶつけてやったら、もう、おとなしくなったもんだ。こうやって、あいつら全部を撃退した時は、楽しかったな」
なにそれ、いつの話ししてるの。
イリヤは、呆然としながらも、この時カイエンが言った言葉の意味に、しばらくして気が付いた。
カイエンが子供のころ。
彼女の遊び相手に選ばれて連れて来られた、貴族の子女はカイエンの足が不自由なこと、遊びの中でうまく動けないことを嘲笑い、陰口をきき、そして、最後はたった一人を除いてお役御免になったのだ、という事実に。
「え? 俺はなにも、意地悪しようとしてなんか……いや、そうでもなかった? ああ、殿下には意地悪にしか聞こえなかったかぁ」
イリヤは、自分が言った言葉について弁解しようとした。だが、カイエンには聞こえなかったようだ。
「お前も同じだ。意地の悪い言葉で、私の非を攻め立てる。私が出来ないことを皆であげつらって、私を責めたてる!」
カイエンは、つかんでいたイリヤの寝巻きの襟元を、ぐいぐいと自分の方へ引っ張った。
「ああ! その通りだよイリヤ! 夢の中で、皇帝陛下の心が私には分かっていないと、お前は私を責めたな! その通りだよ! ……私には恋だの愛だの、そんな感情は理解できやしないんだ!」
イリヤはそこまで聞いて、やっとカイエンの怒りの理由がわかった。
(ああ、殿下は困っちゃってるんだぁ。俺が、殿下のことが好きだった、なんていきなり告白しちゃったから……)
イリヤの方も、その点ではカイエンよりも九つも年上だとは思えない、子供めいた言い方をしてしまっていた。
(どっちかってえと、殿下には、俺を好きにならないで欲しいんだよねぇ!)
多分、あの最後の言葉が一番いけなかったんだろう。あの言葉が、もうイリヤと夢の中で話していた時から混乱していた、カイエンを心をどうしようもなくかき乱してしまったのだ。
(あー、これはごめんなさい。俺が不届きでした。思わせぶりな言い方ばかりして、殿下を困らせましたねぇ)
イリヤはそう言いたかったが、その頃には、イリヤは、非常時にカイエンが発動する異常な力で襟元を締め上げられていたので、言葉が出てこなかった。
「もう嫌だ! 好きだの嫌いだの、勝手な感情を私に押し付けて来るな! 私には、全然、分からないんだ! お前たちの気持ちが! お前たちが欲しがっているものが!」
お前たち。
それは、ヴァイロンであり、エルネストであり、そして今、イリヤでもあるのだろう。
ああ、カイエンには出来なかったのだ。普通の恋をすることも、そういう話をする女友達の一人さえもいないまま、彼女は大人になってしまった。そして彼女が愛だの恋だのを知る前に、本来はその先にあるはずの出来事が彼女を蹂躙していったのだ。
それは、他の貴族の娘たちにでもあったことだろう。だが、彼女たちのそういう事実すら、カイエンは聞かされないままに成長し、すべてを受け入れてこなければならなかったのだった。
イリヤの顔の上に、カイエンの流した涙が降り注いだ。
「私には絶対に理解できない、お前たちの気持ちを理解しろなんて要求するな! どうして、お前たちはそんな残酷なことが出来るんだ! ちょっと見れば分かるだろうに。私には決して出来ないことが!」
イリヤは、ここまでカイエンの言う言葉を聞いて、小さく納得するものは、あった。
(ああ。そんな、そんな俺たちには、些細なことが、カイエンには重荷だったのだ。心の傷を抉り塩を擦り込むようなことだったのだ)
ヴァイロンの、アルウィンの示唆や先帝サウルの命令によって得た、「彼の唯一」であるカイエンへの想い。
エルネストの、彼女を彼女の意思に逆らって独占しようとした、強引な想い。
そして今。
イリヤの、これまたアルウィンが仕組んだことから始まっていた、今までは隠し通されていた想い。
それは、カイエンにとっては、はたから見えるよりももっと重荷なのだと、イリヤはこの時、真実理解できた。
今までの、カイエンと男たちとの関係は、その始まりにおいて、彼女の人格全部を否定されるようなことだったのだと。
恐らくは、ヴァイロンとの時も、エルネストとの時も、カイエンは同じような怒りを心の中で燻らせていたのだ。だが、ヴァイロンとのことは先帝サウルの命令だった。カイエンだけではなく、ヴァイロンもまた「被害者」だったので、彼女の中の怒りは、燃え広がる場所も時間もないままに、誰にも気付かれずに静まるしかなかったのだろう。
そして、エルネストとの方は、少なくともシイナドラドではカイエンに反撃の機会も、方法もなかった。今、彼女がしているような、甘い方法が通じる余地など一欠片もなかっただろうから。
イリヤはそんなカイエンを、不憫とまでは思えなかった。
甘い方法。
カイエンは、自分でも分かっていない。
だが、彼女はこの時初めて、自分に気持ちを寄せてきた男に、牙を剥いたのだ。彼女の心の真実をさらけ出したのだ。それが、さっきの、子供の頃に悪ガキどもを撃退した方法なのだろう。
だが、それは自分も相手と同じ痛みを覚える方法だった。
自分の手を汚さない方法だって、あるはずなのに。
カイエンという女は、それほどに不器用な人間なのだ。
イリヤは、この時、心の底から歓喜した。
カイエンが、ヴァイロンやエルネストにはしなかった「甘ったれた方法」が、イリヤには通じると無意識に思っているらしいことに。
そのことに気が付いた時には、薄笑いが顔からこぼれ落ちてしまったほどだ。
イリヤは今、あのカイエンの一番であることを誇っていたヴァイロンよりも、可哀想な自業自得のエルネストよりも、決定的に、カイエンの中で大きな存在になれたのだから!
「なるほどね。殿下は、殿下と同じ痛みを俺に与えれば、俺は尻尾を巻いて逃げていく、と思うんだね? もう、殿下を惑わせるようなことはしない、って思うんだね?」
イリヤがそう言うと、カイエンはちょっと怯んだようにみえた。彼女としても、冷静になって考えれば、大公軍団軍団長のイリヤに出て行かれたら、本当は困るのだから。
「……うるさいよ」
だが自分の怯懦を打ち消すように、イリヤの襟首を掴んでぎりぎりと締め上げて、小さな猛獣は歯噛みしたそうな様子で、イリヤをまっすぐに睨みつけてきた。
喧嘩は目をそらしたほうが負け。カイエンは子供の時の喧嘩で覚えたそれを、忠実に実行しているらしかった。
(あははっ。殿下ったら、ここで駄目押しにもう一発、俺にお見舞いするつもりだねぇ!)
イリヤはもう、カイエンのすることの先が想像できた。彼女は気が付いていない。自分が、自分の一番弱いところを初めて、一人の男に全部さらけ出してしまったことに気が付いていないのだから。
だからもう、イリヤは何発、カイエンに頭突きを食らっても、尻尾を巻いて逃げ出すことはなかった。
「あはっ、うるさい俺様、サイコーじゃん!」
イリヤは今度こそ、カイエンが彼に与えるだろう痛みを受け止めなければならなかった。なんとも子供っぽいが、よく考えれば、夫婦喧嘩などはこれに類するものなのだろう。
カイエンは、イリヤを試しているのだ。彼が、彼女の痛みを理解し、自分が受けたのと同じような痛みを与えても、それでも付いて来てくれる存在なのかどうかを。そして、カイエンがそれをあえて試みるならば、と、自分の進むべき道を、イリヤはその時、遥かに見渡す気分だった。
その時、イリヤがその心の中で見渡した地平線は、一体どこまでを指し示していたのか。
その、「最遠の風景」は、なぜかその時、簡単にイリヤの目の奥に拓けた。それは、自分がカイエンの行く道の途中で、おそらくは彼女を残して、倒れることだった。
ああ。
俺はカイエンの死を見届ける男ではなかった。
それは、恐らくはあのヴァイロンが持たされた宿命なのだろう。
これもまた、「蟲の知らせ」なのだろうか。
あの、カイエンに朝食に呼び出されて、それまでのことを糾弾された時に見た、自分の首が飛ぶ幻影。カイエンが、暴漢に刺されて死ぬイリヤの夢を見たこと。あれらと同じものなのだろうか。
「……難しいことはいらないのにぃ。俺はね、そんなことはもう、最初っから見えているん……」
だよ、と続けるはずだった言葉は、突然の痛みと衝撃に、吹っ飛ばされた。
追い詰められた小さな猛獣は、文字通り牙をむいた。次なる攻撃は、頭突きではなかった。
カイエンの顔が見えなくなり、長い髪がイリヤの顔面を覆い尽くした。ついで、カイエンの上半身の重みが、胸から、まだ縫ったところの抜糸もしていない傷口の上にのし掛かってきた。
甘えた夫婦喧嘩でも、ここまでやる妻はそうそういないだろう。
イリヤは、乱暴にカイエンを押しのけることも出来ず、近付いてくる顎に、自分の首筋を明け渡した。
人間にも、まだ牙は残っている。上の歯列の左右に一つずつ。
カイエンはネコ科の動物のように、イリヤの首から肩のあたりに噛み付いてきた。猫のミモなら、猫の皮膚は長く伸びるし、体毛も分厚いから、そんなに痛がらないだろうが、イリヤはもちろん、人間だ。
噛まれた場所が場所だったこともあるが、さすがのイリヤもそんなところを噛まれるのは、初めてだった。噛みグセがある女などとは、付き合ったことはない。
がぶり。
かなり痛かった。
ガブッと来ただけでなく、前歯で皮膚をグリグリと挟まれた。もしかしなくとも、出血しているような気がする。
(でもまあ、噛み殺されることは、ないでしょー)
イリヤはそう思いながら、その瞬間、不意に聞こえてきた声に耳を澄ませた。
あっ!
(……! ……)
その言葉は、イリヤの乾ききった心に、優しく降り注ぐ雨のように哀しかった。
その言葉を、本当にこの両耳で聞く時、その時こそ、恐らくはイリヤの命が失われる時なのだろう。
(……俺が死んだ時、あんたが言ってくれる言葉が、今、聞こえちゃったよ)
カイエンの歯が、イリヤの皮膚にめり込んだ時、イリヤは確かに、聞いたと思った。
そして、哀しい未来を知ってしまった。
俺は、あんたの死ぬ前に、あんたの前で倒れる。
それは、知ってしまえばもう、生まれて来た時から自分に課せられた運命のように、イリヤの心に染み込んだ。
まあ、この女は、思っていたよりも遥かに厄介なシロモノだったが、もうしょうがない。イリヤは、もう捨て鉢な感じで、自分に襲いかかっている非力な猛獣の背中に手を回してしまった。
猛獣は、自分が獲物にがっちり捕まっているのに気が付かないのか、まだ正気にかえらない。
その時、イリヤの懐から、彼の銀時計が転がり出なかったら、その場の収拾がつかなくなっていたかもしれない。まさかとは思うが、怪我人には厳しい展開に突入していたかもしれなかった。
「あ」
イリヤが、そういえば夢の中のカイエンが、これとよく似た時計を持っていたな、と思い出した時だった。
やっと、非力な猛獣、今や逆に噛んでいる獲物にがっちり捕まっている……が、恐らくは日頃あまり固いものなど噛んだことのない顎が疲れてきたか、口の中に広がっているであろう血の匂いに気が付いたのかしたらしい。
イリヤの首っ玉の皮と肉が、やっと上下の歯で挟まれていた状態から解放された。
「え?」
多分、一心に噛み付いていた間に、涎が垂れたのだろう。それを無意識に左手で拭いながら顔を上げたカイエンは、その時になって、自分のしたことの意味に気が付いたらしい。まあ、正気に帰ってくれて、イリヤの方はほっとした。
カイエンは拭った手に、わずかに混じっていた血の色に驚いたらしい。
「……!」
そのまま、そんな彼女の様子を、ヤケクソ的刹那的な優しさで見上げている、イリヤの慈母のような微笑みに目をやり、次にぎっちりと歯型の残ったイリヤの首を見た途端、カイエンは飛び上がった。
そして、イリヤの腕を乱暴に引き剥がすと、脱兎のように逃げ出した。
さっきは自分の不自由な足を、散々嘆いていたが、逃げていくその動きは、文字通り逃げる兎のように素早かった。
「ねー、あのぅ、怒ってたのは殿下の方じゃないのぉ? ナシつけに殿下おん自らがここまでおいでになったんですよぉー」
形勢を完全に逆転したイリヤは、とぼけた声で引き止めようとしたが、その頃には、途中で何度もよろけながらも、カイエンは裏廊下へと続く扉のところまでたどり着いていた。
「……また、来る」
それでも、そう言い残していったのには、イリヤは笑うしかなかった。いつか、カイエンより先に死ぬことにはなりそうだが、それまでは、今までの三十年よりも面白く生きていけそうだった。
奥扉から、目を寝台の上へ戻した時、イリヤはまたも間抜けな声を上げてしまった。
「あれ、時計が増えたね」
枕に身をもたせかけたイリヤの、腹のあたりに、同じ大きさの銀時計がふたつ、転がっている。
ひとつはイリヤのものだから、もうひとつは、カイエンのものということになる。
イリヤは何となく、ふたつの時計を両手に取り上げたが、銀時計の竜頭の部分や、蓋の部分の浮き彫りを見ると、ちょっと眉を顰めた。
ふたつの時計は、ほとんど同じ大きさだった。竜頭の意匠も同じだ。
そして、蓋に施された精緻な浮き彫りも。
浮き彫りされていたのは、ふたつともに、小さな花を付けた野草の文様だった。イリヤは自分の時計の絵柄が、青紫の花をつける、「勿忘草」であることはもう、もちろん、知っていた。
「あれぇ。こっちのは確か……」
カイエンが落として行った時計の方の花。それは確か。
「紫苑かな、まさか……」
イリヤはそう呟くと、カイエンの紫苑の浮き彫りのある懐中時計の蓋を開いた。イリヤはそこに、彼が思っていた通りのものを見つけ、ため息をついた。
「あーあー。なにこれ、蟲ちゃんのお知らせだけじゃなく、こんなものまで用意されてたの? 蟲って、浮世のモノにまで手が出せるのぉ?」
イリヤがそこに見つけたのは、さっき、カイエンに噛まれた瞬間に、脳内で響いた言葉と、同じ言葉だったのだ。
「Nunca te olvidare(決してお前を忘れない)ですかあ……」
参ったね。
イリヤは心の中でそう呟くと、ぱちん、と懐中時計の蓋を閉めた。彼の時計の蓋の裏にも、まったく同じ場所に、同じ書体で短い文言が彫られていたのだ。
それは、「勿忘草」の花言葉だった。
Nomeolvides。
同じ頃。
ハーマポスタールに到着した、ひとつの隊商があった。パナメリゴ街道を帝都ハーマポスタールに入る場所には、大公軍団の帝都防衛部隊に守られた、検問所がある。
北のスキュラでの、アルタマキア皇女の拉致事件があってから、ハーマポスタールに入る要所の検問所での外国人の検問は厳しさを増している。
ザイオンからやってきた、その隊商の隊長が手形を出すと、係官の目つきがすっ、と厳しくなった。宰相のサヴォナローラから、ザイオンからの旅人に注意するよう、お達しが出ているのだ。
それは、あの踊り子王子トリスタンの件があってからだった。
係官は隊商全体を、検問所の敷地内へ入れると、人間だけを広い建物内の一室へ通し、さりげなく検問所の両側の、街道へ続く門を閉ざしてしまった。すぐに、帝都防衛部隊の黒い制服が、門の周りに展開した。
ザイオンから来る隊商や、旅行者は決して多くはない。特に、今のような冬の時期には少なかった。ハウヤ帝国は冬でも雪が降るようなことはそうそうないが、ザイオンの方は文字通り、十一月にもなれば、雪に閉ざされてしまうからだ。冬の旅は、燃料の費用が多くかかるし、食物を買うにも金がかかるため、隊商の移動は、春から夏、秋までが多かった。
隊商の隊長の顔つきが変わったが、彼も商売である。そして、これまでの検問所でも一度も厄介ごとは起きていない。ハウヤ帝国側の対応は大げさだが、彼はそれほど心配しているわけではなかった。
部屋の中から、一人づつ外へ呼ばれて手形の確認、そして手荷物改め。人間が改められている間に、外では隊商の引いてきた荷物が抜き出し調査をされている。
部屋の中には、椅子などがまばらになるだけで、全員が座ることはできなかった。だが、床には絨毯が敷かれており、暖炉には火も入れてあったので、人々は床に座って順番を待った。旅の間、野宿するときには椅子などないから、彼らも文句を言ったりはしなかった。
「ものものしいですねえ」
そう言いながら、隊商の隊長のそばへやってきたのは、中年の宝石商人だった。毛皮の裏打ちのついた皮の帽子を被っているが、そこから覗く髪の色は青みがかった金色で、顔色も白い。ガラスのような艶をもった、緑色の目が印象的な男だ。
そして、二人が時間潰しのどうでもいいような話を続けていた時だ。
部屋の扉を開け、黒い制服が数人、中へ入ってきたのは。
「あれえ、見ろよ、女の軍人だぜ」
実際には、帝都防衛部隊の女性隊員だったが、大公軍団の制服を見ると、ザイオン人たちは色めき立った。
「あれは? ハウヤ帝国では女性の軍人がいるのですか」
宝石商人が聞くと、隊長はゆっくりと首を振った。
「あれが、ハーマポスタールの大公軍団の女性隊員ってえやつだよ。そんなにたくさんいるわけじゃあないが」
部屋に入ってきたのは、金茶色の髪をした若い女で、何となく猫を思わせるしなやかな体つきだ。ザイオン人たちはもちろん、知らなかったが、それはロシーオ・アルバだった。大公宮へ猫のミモを連れてきた、あのロシーオである。
「あの女性、軽業でもやっているみたいな体つきですね」
宝石商人が呟くと、隊長は何か誤解したらしく、変な笑いを顔に浮かべた。
「違いない。いい女だ。あんな制服じゃなかったら、ぜひ、お近付きになりたいね」
宝石商人の方は、曖昧な表情で黙っている。
そんな、二人の様子を、ロシーオは横目で観察していた。一緒に部屋へ入った帝都防衛部隊のアレクサンドロがすぐに気がついて、ロシーオに話しかけているようなそぶりを始める。
ザイオンからの隊商が入った、と検問所から報告があったので、帝都防衛部隊のその日の当番が、この部屋に顔を見せたのだった。
ロシーオの猫のような金色の目は、しっかりと宝石商人の顔つき、体つきを脳に焼き付けた。
彼女は部屋を出るとすぐに、同僚のアレクサンドロに言った。
「あの、隊長と話していた中年男だけど……」
ロシーオがそう言いかけると、アレクサンドロがもう、先はわかった、というようにうなずく。
「例の踊り子王子様の似顔絵とよく似てる、ってんだろ?」
ロシーオはもう、廊下を外へ向かって歩き始めていた。彼女は、踊り子王子のトリスタンを追跡して、あのオリュンポス劇場まで行ったことがある。踊り子に扮装した姿ではあったが、トリスタンの姿形はしっかりと目に焼き付いていた。
「おっさんだけど、髪の色、目の色、体つき、何となく似通ったところがあるよ。とりあえず、ハーマポスタール市内まで追跡だね。隊商は多分、市内へ入る前に解散だろう。それから先は、あたしたちで追いかけなきゃ」
「じゃあ、大公宮のナシオとか、シモンに連絡しておいたほうがいいな」
「お願い」
ロシーオがそう言うと、アレクサンドロは先に伝令の隊員に伝えようと言うのだろう、廊下を早足に駆けていく。
「……ナシオやシモンが、オリュンポス劇場で聞いてきた、『シリル』って名前。それに、『お父さん』。踊り子王子のお父さんってのは、シリル・ダヴィッドとかいう子爵様だって言ってたっけ。まさかと思うけど、さっきのが……」
ロシーオは大公軍団の一隊員にすぎない。でも、末端の彼女にも、そこまでの情報が降りてきていた。それはもちろん、彼女がトリスタンを追跡した当人だったからであったが、彼女が帝都防衛部隊の訓練で受けた、マテオ・ソーサの授業でも、彼女はこう聞いていた。
「一人一人の隊員が、自分の意思でバラバラに動くようなことがあってはならない。だが、だからと言って、盲目的に上司の命令に従うだけでは、組織の人員すべての能力を発揮させることはできない。現場で疑問に思ったこと、気がついたことは、必ず同僚や上司の耳に入れるように。判断するのは平隊員ではないが、そういう気付きを黙殺するような組織であってはならない。君達も、いずれは判断が求められる立場となる。その時には君らは柔軟な判断の出来る上司とならねばならん……」
ロシーオは教授の言葉を反芻しながら、アレクサンドロが消えた方向へ、早足に歩いた。
「よっしゃ、やるぞー。ディアマンテス軍団長が生きててくれたから、大公軍団のやり方が変わることもないし! あたしたちみたいな下っ端も、しっかり地道なお仕事をしなくちゃね」
イリヤが聞いていたら、嘘泣きしたかもしれないような言葉を残し、ロシーオは帝都防衛部隊の詰所の方へ向かう。黒い制服のままでは目立つので、密かに追跡するには私服に着替える必要があったのだ。
これまた同じ頃。
ハーマポスタール市内、レパルト・ロス・エロエスの大きな両替商。
リベラ商会。
その敷地の中、古い、最近ではもう使われなくなっていた倉庫の中で、一つの集会が開かれていた。
グルポ・サビオス「賢者の群れ」と、彼ら自身は名乗っており、社会を憂える憂国団体だと、自分たちは称している。
メンバーは裕福な商人などが多かった。その中心人物が、この集会の会場を提供した、ディエゴ・リベラなのである。
時刻は夕飯どきも過ぎた、遅い時刻。
古い倉庫とはいえ、広さはかなりのもので、中は二階建てになっている。窓が少ないので昼間は薄暗いが、漆喰塗りの土壁のために夏は涼しく、冬は暖かい。
一月初めの夜ではあったが、奥に最近、設えられた暖炉のおかげで倉庫の中は、暖かく居心地が良かった。
床には木材が張られており、その上に大きなテーブルといくつもの椅子が運び込まれていた。そのテーブルの上には、なかなか豪勢な料理が並べられ、酒屋の息子が運び入れたワインや蒸留酒の樽から、陶器のカップに注がれる酒の匂いが充満している。
集まっている男たちは、二十人ほどもいるだろう。
「それにしても、けしからんなあ」
とっくに出来上がっている男の、甲高い声が聞こえる。
「何があ?」
合いの手を入れる男の顔も、赤ら顔になっている。そうして酔っ払っている姿を見れば、とても国を憂える集団とは思えない。
「スキュラのことで、軍隊を出してよお。もう半年になるだろうが」
「それがあ?」
「あれも税金だろぉ? けしからんじゃないか!」
「そうだそうだ。あれも俺たちの払わされてる血税でやってるんだぜ」
「たった一人の皇女様をお救いするために、サウリオアルマ全軍が出動だ。それで戦争でもして、スキュラごときすぐにぶっ潰して戻ってくるかと思いきや、この長丁場」
そういう発言の合間にも、酒が注がれ、料理が太った腹に収まっていく。
「海軍とやらを創設するってのもけしからんよなあ。どこの国と海で戦うってんだよ? ラ・ウニオン共和国かあ? それなら、バンデラス公爵家の私兵で十分だろー」
「元は海賊だかなんだか分からねえ、有象無象を雇い入れてな」
「傭兵ギルドはホクホクだな」
「ああ? あの刺されたっていう、大公軍団長、あれが傭兵ギルドの頭なんだろ? 大公軍団もなあ、帝都防衛部隊なんて、なんの仕事するのかわからんものを、大枚はたいて作りやがって」
「この帝都ハーマポスタールの防衛だって言ってるけどさ。どこの国がここまで攻め込んでくるって言うんだよ、ってんだよなあ」
そこで叫ばれていた不満は、数年前、カイエンがトリニの家で、ディエゴ・リベラに言われたことの延長線上にあるものだった。
その、ディエゴ・リベラは、上座に座ったきり、黙って酒を飲んでいる。
やがて、彼が酒の杯をテーブルに置くと、近くにいた何人かが、ディエゴにおもねるような口調で聞く。
「なあ、そうじゃないか? ディエゴ」
ここに集まった男たちは、皆、ディエゴと同じような年恰好だ。若い男ばかり。それも、服装などから見れば、裕福な商家の若主人か、若旦那か、というところだろう。
「そうだな」
ディエゴは、まっすぐにテーブルにひしめき合っている男たちの方を見た。そうすると、次第に場の雰囲気がディエゴの方へ集まっていく。二年前の彼とは、その体にまとう雰囲気が違っていた。こんなゆるゆるな金持ち商人たちの集まりでも、その中心人物として持ち上げられて入れば、それなりの求心力を持つようになるのだろう。
「スキュラのことも、もっともなことだが、皇宮前広場の、細工師ギルドの事件も、親衛隊のモンドラゴン子爵は首にもならずじまい。カスティージョの息子は首になったが、それだけだ。唯一、まともだったのは、カスティージョが将軍を降りたことだけだ。なのに、後継のコンドルアルマの将軍はいまだに決まらない」
ディエゴはここまで言うと、両手をテーブルについて立ち上がった。
「そして、女帝にはザイオンとの間で縁談が持ち上がっているらしい。女帝の結婚ともなれば、その掛かりも巨額になるだろう。ただでさえ、前の皇帝の葬儀、新帝の即位に、多くの税金が投げ込まれたと言うのに、だ」
税金、税金。
彼らの言葉、不満はみんな、最後は税金になるのだった。
それは、毎日、金勘定をして身を太らせてきた、彼ら裕福な商人にしかない感覚だろう。同じように庶民よりも裕福な貴族は、基本的に領地から上がってくる領民からの税金で領地運営をしている。同じ金持ちでも、貴族は取る側なのに対して、彼ら大商人は「徴収される」側なのだ。
「軍隊のことも、スキュラのことも、海軍のことも、帝都防衛部隊のことも、すべての費用は国庫から出ているのだ。そして、国庫を富ませているのは、俺たち商人だ。決して、あの税金優遇を受けている、貴族どもではない!」
ハウヤ帝国では、貴族たちも領地から上がった収益の一部を、国庫に上納していた。皇帝に領地を安堵してもらうのと引き換えに、有事の軍役と、上納を行なっていたのだ。それでも、収入に対する税率で言えば、貴族たちは商人たちより恵まれていた。
有事に軍隊を出し、兵糧を出せば、貴族であってもその負担は大きいが、このハーマポスタール近郊まで戦争が迫ってきたことは、この百年近くなかった。ベアトリアとの国境紛争は、遠い東での出来事だ。
だから、ディエゴたちには有事に国の防衛を担うことを前提とした、皇帝と貴族たちとの利害関係など実感には遠いものだった。
彼らに見えるのは、数字だけだ。
それが、税金の税率なのである。
「じゃあ、どうしたらいいのか。それを、俺たちはずっと考え続けてきた」
ディエゴは皆の顔を睨めつけた。見える顔は全部、酔っ払っていたが、そんなことは彼にはどうでもいいことだった。
「東の螺旋帝国では、軍隊を使わず、市民の集まる力の渦で暴虐な旧王朝を退け、民衆が担ぎ上げた男が新皇帝となった。彼らは、自分たちで皇帝を選んだのだ」
ディエゴの言葉は、言葉だけを聞けばまともに聞こえた。
だが、ここに彼の寺子屋での師であった、マテオ・ソーサがいたら、こんな上っ面の考え方を振りかざすことをきつくたしなめただろう。
だが、彼はここにはいなかった。
「俺たちも、選ぼうと思えば、選べるのだ! 我々の皇帝を。我々の手で担ぎ上げた者を頂点に掲げた国にできるのだ」
そして。
そのディエゴの言葉の後に続いたのは、そこにいる二十人ほどの男たちの歓声だった。
わあ、わあ、わあ。
どの顔にも、ディエゴの話を現実味を持って聞いている顔はない。彼らは「議論」を楽しんでいるだけなのだ。
「そうだ! その通りだぞ! ディエゴ・リベラ!」
「ディエゴ・リベラの弁舌に乾杯!」
「俺たちの作り上げる未来に乾杯だ!」
それを証明するように、男たちはてんでにディエゴの周りに集まり、手に手に酒の杯を振り上げ、何に対してなのか、もう彼らにもわからないものに向かって、乾杯するのだった。
2018年5月19日に、前半部分を改稿いたしました。




