仮面の解剖学
その部屋は異様だった。
だが、その異様さはただ一つ、四方の壁一面を埋め尽くした、「あるものたち」があったからで、部屋のつくりそのものはいたって平凡で、質素というよりもみすぼらしいとさえ言えるものだった。
周りの壁も、天井も、床も、すべてが木造で、それもニスの塗られたようなものではなく、古い、何度も使われたと思しき灰色の無垢の木である。壁に使われている木材などは、染みだらけの薄い板のようで、板の向こうから他の部屋にいる人々の動く物音が聞こえてくるほどだった。
広さは結構あったが、天井も高くはない。奇妙なのは、窓がないことだろうか。
そして、部屋にあるのは、大きな鏡のついた鏡台と椅子、それに粗末なテーブルだけなのだった。
テーブルの上には大きなランプが置かれていたから、部屋の中の様子は何とか見て取ることができた。窓がないのだから、灯りがなくては真っ暗な部屋なのだ。
大きな鏡台の前に、小柄な男が一人だけ、座っていた。
コンコン。
その時、一つしかない扉が叩かれる音がして、すぐに返事を待たずに扉が開いた。
「……百面相、もう、時間だ」
扉の向こうから首を出したのは、大柄で太り肉の、南方大陸人のような黒い顔の男だった。
ああ。
だが、そこにカイエンや大公宮の彼女に近しい面々がいたら、すぐに気が付いただろう。その男の顔は、肌の色が黒いのではなかった。黒く見えたのは、びっしりと、隙間もなく色とりどりの染料で刻み込まれた、刺青に覆われていたからだったのだと。
鏡の前の小柄な男は、くるりと扉の方を振り返った。もちろん、扉の向こうにいたのは、奇術団コンチャイテラの刺青男に他ならなかった。
それでは、この部屋は奇術団コンチャイテラの芝居小屋の中なのだろう。壁や床の木が古い使い古された木材なのは、ここが見世物小屋の興行が終わったら、取り壊される仮小屋だからなのだった。
「わかった。今日の顔を作ったら、すぐに行く」
そう答えた男の顔には、見事なまでに「何もなかった」。
痩せて、頰のこけた男の顔の、目の大きさも、鼻も口も、すべてが中庸で特徴がない。その上に、男には眉毛がまったく無かった。頭髪も無く、つるりとした頭が、頭蓋骨の形そのままに剥き出されている。
「早くしろよ。……それより、ここのものは、本当に全部置いて行くのか?」
刺青男は、そう言って、首だけを部屋の中へ入れ、部屋の壁をぐるりと見渡すようにした。
彼の顔は、刺青で真っ黒だったから、その表情は見て取れなかったが、声の響きは聞き取れた。その声には、明らかに怯えたような響きがあった。
「ああ。もう、これらの顔は必要ではない」
部屋の中の男は、そう答えると、鏡台に向き直った。鏡台の上には、所狭しと化粧道具が並んでいる。
「ここにある顔は、もうすべて『手に入れた』。もう、そらで作ることが出来るのだからな」
そして。
小柄な男は、鏡の前に座ったまま、部屋の中を自分もぐるりと見渡した。
「どうしても作れなかった顔も、今日これから手に入れる。至近距離から眺めれば、あの顔を形成する秘密もつかめるだろう」
男の目線をぐるりとたどれば。
そこに見えたのは、その部屋の壁を覆い尽くすもの。
床から天井の近くまで、奇術団の団員の楽屋、化粧部屋としては異様に広い部屋の壁を覆い尽くすもの。
仮面。
壁は、老若男女、子供以外の様々な年齢性別の人々の顔で埋め尽くされていた。
そのすべてが、生きた人間の顔を剥ぎ取ってきたもののように、生々しい。
いきなり、この部屋へ連れてこられた人がいたとしたら、悲鳴をあげてその場で倒れるか、逃げ出すかするだろう。
それほどに、その、何百という数に達しているであろう顔は、迫真的だった。真に迫っていた。
「このハーマポスタールの名士達の顔。ある程度近くで見ることのできた顔は、すべて手に入れた。命ぜられた中で、手に入らなかったのは、あの二つの顔だけだ」
男、百面相は、そう言うと、特徴のない、年齢も定かではない顔に、微笑みを浮かべた。彼の顔のつくりは、微笑みを浮かべてさえもなんの特徴も無かった。
「特に、大公軍団軍団長、イリヤボルト・ディアマンテス。あの秀麗な顔。街中の事件現場で野次馬に紛れて、何度も見た。だが、あの顔の骨格と、表面的な造形は読み取れたが、いまだに『再現』が出来ない。この俺でさえも手こずらせるとはな。だが、それも今日中には手に入る」
そこまで言うと、百面相は鏡台を覗き込み、色とりどりの練り白粉の中から、いくつかを手にとっていた。
「俺があの治安維持部隊員に化けて、外に出たら、あんた達も一人づつ、張り付いているやつらの目をくらませて外に出ろ。明日の朝には、ここはもう捨て去るのだろう?」
扉の向こうから、一歩もこの仮面の部屋へは入ろうとしなかった、刺青男が答えた。
「ああ。元から、あんたが『顔を集める』ための時間稼ぎの興行だからな。他のことはおまけだ。奇術団コンチャイテラは、今日いっぱいでお開きだ」
それは、一月一日の午後のことだった。
大公軍団軍団長のイリヤが、隊員に化けていた男に刺されたのは、この同じ日の夕方であった。
一月二日。
大公宮では、リリは目覚めたものの、カイエンとイリヤの二人はいまだ覚醒しないまま眠り続けていた頃。
大公宮へ報告と、イリヤの容態を聞きに上がって来た、治安維持部隊隊長の双子のうちの弟のヘスス。彼は、エルネストから奇術団コンチャイテラの変装名人、「百面相」のことを示唆されると、すぐにコンチャイテラの興行の行われている小屋へと向かった。
芝居小屋とは言っても、もう半年近くもハーマポスタールで興行を続けているコンチャイテラである。木造の掛小屋も、商業地区の一部に近い運河沿いの三階建ての建物ほどもある、なかなかに立派なものになっていた。
だが。
現場に到着したヘススの見たものは。
「なんということだ……」
ザイオンから来たという、奇術団「コンチャイテラ」の芝居小屋へ到着した、大公軍団治安維持部隊隊長の一人、双子の弟の方のヘススは、連れて来た隊員たちとともに、呆然とした顔で芝居小屋を見上げていた。
燃えている。
コンチャイテラの芝居小屋は、真っ赤な炎を吹き上げて、燃え上がっていた。
コンチャイテラには、もうずっと治安維持部隊の隊員が張り付いていたから、火災は初期のうちに発見されていた。だが、日にちが正月元日の次の日である。
張り込んでいた隊員の数も、常日頃よりも少なく、煙と木が燃える匂いに気が付いた彼らが、消火活動に入るまでにはかなりの時間が経ってしまっていた。
場所が商業地区の中とはいえ、運河沿いであったことは幸いだった。
運河のそばには曳舟道があるから、周りの商家の建物との間には、道一本以上の距離があるのだ。
芝居小屋から上がった炎は、まだ周りの建物へは引火していなかった。すでに、近所の治安維持部隊の署員や、商業ギルドの自治団などが、近くの建物に登り、水をかけ始めていた。飛び火による引火を防ぐためである。
「やられた! おい、すぐに容疑者を取り調べている、マリオのところへ走れ! 容疑者の見張りを強化するように伝えるんだ!」
軍団長のイリヤが刺された、そのすぐ翌日のことである。
ヘススは、隊員達に事態への対処を命じながら、兄のマリオのことを案じずには居られなかった。
マリオも油断などはしていないだろう。
だが、イリヤが刺された昨日の今日のことである。
「ハーマポスタールから出る街道すべてに、検問をかけろ。コンチャイテラの連中を街の外に出すな!」
いつもは無表情な、大公軍団の双面神の顔色が変わっていた。
一月二日現在。
現実では、カイエンとイリヤは仲良く、でもないが、大公宮のリリの部屋の隣の部屋で、並んで静かに寝かされていたのだが。
夢の中に閉じ込められている、カイエンとイリヤの方は、険悪な雰囲気に突入していた。
「殿下の分かってる、は頭で分かってるだけなんだねぇ。そんなんじゃ、妹ちゃんだけでなく、ヴァイロンも皇子様も、ほんとにお気の毒、って言うしかないねぇ!」
カイエンはイリヤにすごい勢いで腕を掴まれて、引き摺り寄せられた手を反射的に振りほどこうとしたが、夢の中であっても強い男の腕は振りほどけなかった。
夢の中だとはわかってはいても、掴まれた腕は痛むし、近々と見たイリヤの鉄色の目の色は固く、今まで見たことのない厳しさをたたえていて、カイエンを脅かした。
「手を離せ!」
気が強いカイエンは反射的に、恐れるよりも、イリヤの手を激しく揺さぶって振りほどこうともがいたが、非現実の夢の中であっても、肉体的な力関係はそのままなのか、手を振りほどくことは出来なかった。
「何を、わかったような口ぶりで! ヴァイロンだのエルネストだのことで、何がお前にわかるって言うんだ! その上に、皇帝陛下の何がわかる?」
男の圧倒的な力の強さは怖いことは怖かったが、カイエンには怒りの方がまさっていた。
カイエンは、手を振りほどけなかったので、もう一方の手で、イリヤの肩のあたりをかなり強い力でぶっ叩いた。もちろん、イリヤの方は痛いという顔さえしなかった。
「余計な口を出すな! 私はきれいごとで片付けようなどとしていない! 何がお気の毒だ。ヴァイロンはともかく、エルネストのどこがお気の毒なんだよ!?」
カイエンとしても、三年前にフィエロアルマの将軍から、女大公の男妾にされ、そのまま将軍位に戻るのを固辞したために、今は大公軍団の帝都防衛部隊長になっているヴァイロンのことでは、「申し訳ない」と言う気持ちは持っていた。
それ以降の、彼の自分への献身ぶりはありがたいと思っていたし、彼の自分への過剰な愛情表現も、戸惑いはしたが受け入れていた。
だが。
エルネストととのことはまったく別だ。
シイナドラドでエルネストが、自分にしたことはいまだに赦してなどいない。
だが、ハウヤ帝国へやって来たエルネストは、片目を捨てていた。今、思えば、彼が灰色の方の目を捨てたのは、夢の中で彼が見たという、あの生まれてくることの出来なかった、カイエンとエルネストの娘に関わることなのだろう。
そして、カイエンの夢の中で、琥珀色の右目を捨て、生まれてくることのできなかった子供の灰色の目を受け継いで生まれて来た、リリ。
それがわかったから、カイエンはハウヤ帝国に来てからのエルネスト、あの結婚契約書に署名してからのエルネストについてはもう、どうにも避けようがない、仕方のない、逃れられぬ関係となった者、として認識していた。
結婚したことは事実だ。その事実を否定することは出来ない、と理解していたのだ。
だから、公式の場ではエルネストを夫として認め、共にあることも認めた。
カイエンの側には、エルネストを求める気持ちはなかった。だが、カイエンも、エルネストが自分への執着心を捨てていないことは分かっていた。
そして、エルネストの執着心が、あのアルウィンの仕掛けたものであることもまた、知っていた。
アルウィンが仕掛けたものである、という点では、ヴァイロンのそれもまた同じだった。
同じだが、カイエンはヴァイロンのそれはもう、変更できないものであることを知っていた。それは、獣人の血を引くヴァイロンにとって、もはや自分は「彼の唯一」の番いの伴侶と定められ、変更の利かない存在になっていると聞かされたからだった。それに、人とは違う獣人の血の混じった彼にはこの先、誰との間にも子供を得る可能性はなかった。
そういう点では、体内に寄生した「蟲」のために、決して子供を得ることが出来ないカイエンと、ヴァイロンとの組み合わせは、理想的な関係だったのだ。
だが、エルネストは違う。
カイエンは、アルフォンシーナの件が起きる前から、エルネストの方は、今とは違う道を歩いていけるのかもしれない、と思っていた。彼は、カイエンという呪縛を捨て去れば、普通の男としての人生が選択できるのだ。
だから、彼がアルフォンシーナを愛しているのなら、それを助けてやりたいと思ったのだった。
その気持ちは、カイエン自身が「普通の人間としての人生」を選ぶことが出来ない、という暗澹たる事実の上に生まれたものだった。
憎い男ではあるが、エルネストはまだやり直せるのだ。彼は普通の人間なのだから。
そこまで瞬時に考え直して、やっとカイエンはイリヤの言っている、エルネストの方のことも、しぶしぶではあったが理解はできた。
「まあ、確かに……エルネストも、少々は、お気の毒かもな」
ややあって、カイエンがそう言うと、イリヤの掴んでいた指の力が、ちょっとだけ緩んだ。
「へー。殿下は自分を強姦した相手の方の気持ちも、献身的なヴァイロンさんのことも、よく分かっているんだぁ」
掴んでいる手の力は緩んだが、イリヤの舌鋒は緩まなかった。
カイエンが、そのあまりにあまりな言葉に、身震いしながらイリヤの方を睨み付けると、イリヤの鉄色の目がそれを真っ向から迎え撃った。その目は、「手加減しないよ」という彼の気持ちを端的に表していた。
そして、続くイリヤの言葉は、カイエンにとっては耳を塞ぎ、叫び出したくなるような、残酷な言葉の羅列だった。
「俺さあ、あの皇子様には、面と向かって言ってやったんだよ。この強姦魔、ってさ。そうでしょ? あいつは人質を盾にして殿下に襲いかかって、殿下の体を自由にして、ガキまで孕ませたんだよ。そんな悪党なのに、こっちに来てからの様子を見れば、態度が図々しくて傲慢なのは確かだけど、行動の方は、なんだか遠慮気味でいじらしいよねぇ。殿下が怖がらないように、自分を抑えまくってさあ。だけど、いじらしい、ってんなら、ヴァイロンの大将はもっといじらしいよねぇ」
カイエンは、瞬時には対応できなかった。
いじらしい。
イリヤがそう言う、その言葉の表面的な部分はともかく、根っこの部分の意味がわからなかったからだ。
「ねえ。ヴァイロンの大将も、あの皇子様もぉ、今、一番好きなのは、殿下なんだよ。特に、ヴァイロンの大将の方は、今後も一生変わりなくさ。普通の人間とは違うんでしょ? 自分じゃ、一回決まった番いを変更できない生き物なんだって、聞いてるよ。皇子様の方だけど、殿下は今の皇子様の事は、もう大丈夫だと思ってるの? あれ、大人しくしてるのは、まだ諦めてないからだよ。まだ、スキがあったらやれると思ってるの。殿下が許してくれれば、そこに付け込もうと思ってるんだよ。これはね、殿下の気持ちがヴァイロン一人に確実に向いているようには、はたからは全然見えないからなんだよ。……最初に言ったけど、それが男の本音ってか、男の側の好きの裏側てぇもんなんだよ」
ここで、イリヤは一回口を閉じ、この先を言ったものかどうか、考えているようだった。
「三年前の、あの将軍やめさせられた事件の後のヴァイロンだって、開き直っちゃってから、本能で動いてたものね。殿下が倒れそうになってるのに、ほとんど抑えきれてなくってさ。あれ、殿下の気持ちがはっきり分からなかったから、ってのもあったんだと思うよ。殿下が他の男を同じような目で見ないように、殿下の体に教え込もうとしてたみたいだったわ」
カイエンにとっては、イリヤの言ったようなヴァイロンの気持ちの動きは、漠然と曖昧に感じていただけのものだった。それをこうして言葉にして説明されると、なんとも生臭い話で、カイエンは辟易する思いになった。
だが、イリヤの方には、女のカイエンのそういう気持ちは分からないのだろう。
「なのにぃ、殿下の方はどうなのかっていうことなのよ。あんたは誰かを本当に愛してるの? 恋したことがあるの? ヴァイロンと皇子様の気持ちに、答える気持ちをちゃんと持っているの」
あんたは誰かを本当に愛しているの。
答える気持ちをちゃんと持っているの。
その言葉を聞いた途端。
カイエンのなかで、すべてが停止した。
愛。
なんだよそれは。
カイエンがまず、考えたのは、その言葉の意義だった。
愛の意義。
恋したことがあるの?
恋の意義。
ああ、恋は知らなかった。それは、ここのところのオドザヤと踊り子王子の件で自覚していた。
そもそも、愛だの恋だのを知るのに、その意義を知識として考えようとしている時点で、カイエンこそが気の毒な人間だった。普通は、そんなことは意味など知る前に心で知るはずのことだったのだから。
カイエンは、恋を知らないことは、もう、知らされていた。伯母のミルドラから、オドザヤの話す言葉から。
「恋?……彼らに答える気持ち……」
カイエンがそう呟くと、やっとカイエンの腕を掴んでいたイリヤの力が緩んだ。カイエンの腕は、二人の間にすとんと落ちた。
「あーあーあー。やっぱりそうだったんだぁ。そこんとこから、分かってなかったんんだねぇ。……あのねえ」
イリヤは、カイエンの、だいぶぼうっとした、今や焦点の合っていない灰色の目を覗き込むようにした。
「ヴァイロンも、あの皇子様もぉ、あの怪物……あんたの父親に周到な魔法をかけられた、気の毒な連中なんだよ。殿下を欲しがるように、殿下のものになるように、そう心に刷り込まれちゃったんだから。……だけど、殿下には最近までそれがわからなかったんでしょ! まぁ、これは殿下がまだ子供の頃から、殿下の関知しないところで勝手に始まってた話だからねぇ。これはまあ、殿下のせいじゃないわ」
カイエンはもはや、夜光虫の海の上で、視線をさ迷わせているしかなかった。他に視線を動かすと、イリヤと目が合いそうで恐ろしかった。
「あのね。実を言えば、そこんとこでは俺も似たようなものなのよ。まー、俺の場合には、『いい子にしていれば、殿下をあげる』みたいな魔法じゃなかったけどね。でも、同じようなコト、あの怪物はグスマンと話してたよ。俺はそれであいつらの手先である、『盾』の頭にされちまったんだけどね」
この話は、カイエンには初めて聞くことだったので、彼女はびくりと肩を震わせた。
「盾」。
その言葉の意味から、今回、イリヤがまさにカイエンの盾になって、死にかけたことに思いが至ったからだ。
ああ、では、イリヤも「そう」だったのだ。
ここで、カイエンは心に引っかかるものを感じたが、それはまだはっきりとした言葉にはならなかった。
イリヤの方は、カイエンが黙っているので、彼の言いたい話をどんどんと進めて行ってしまう。
「話を戻すよ。ヴァイロンや皇子様の、殿下を求める気持ちってのに、殿下は応える気持ちをちゃんと持ってないと俺は思うわけ。ヴァイロンの方はさぁ、熱烈に求められて気持ちいいから、弱っている時、困った時にそばにいてくれるから、ありがたい存在だ、って思っているのを、愛と勘違いしているだけなんじゃないの?」
イリヤの言い方は、なんとも酷い言い方だった。喧嘩を売っているにしても、酷すぎだった。
まさか。馬鹿なことを言うな。愛を勘違いしたりなんぞしていない。
だから、カイエンはそう、否定したかった。
だが、イリヤの言い方があまりにも断定的だったので、そして、確かに自分の中に、イリヤの言ったような部分があることを否定出来なかったので、黙っているしかなかった。
「さっき、俺が、俺の体がヴァイロンの大将やら、変態皇子殿下やらに締め上げられているかもって、殿下が俺を助けようとして、気を失っちゃったってバレちゃってたらって、言ったのはさ。殿下が俺を死なせまいとして危ない場所にわざわざ駆けつけて行って、そこで俺を助けるために、自分の蟲の力を全部出して、意識を無くしちゃった。それを知ったら、あいつら二人はどう思うか、って事なのよ。わかりますぅ?」
カイエンは、もうここまで説明されれば、ヴァイロンやエルネストが、今度のことについてどう思うかについては理解ができたから、一応は素直にうなずいた。
だが、こうして言われてみれば、カイエン自身も不思議なことがあった。
いや、イリヤの死ぬ夢を見て、それをリリも見たことに確信を得、あの新開港記念劇場の裏へ馬車を飛ばしたことではない。人が、それも身近な人間が死ぬ、殺されると分かったら、誰だって同じことをするだろう。
カイエンが不思議だったのは、なぜ、自分がイリヤが殺される夢を、予知夢を見たのかということだ。
「蟲」が関係していることだけは確かなのだろう。その後、一回死んだイリヤの、体内の蟲を目覚めさせ、命をつなぐまでの時間稼ぎのために、カイエンの中の蟲がすべての力を出した。これは、歩行に支障をきたすほどの大きさの蟲を持つ、カイエンにしか出来ないことなのだという。
「リリちゃんは、殿下とリリちゃんが、俺の死ぬ予知夢を見た理由は教えてくれなかったんだよね。『今のこの状況を話すよりも、もっと複雑なんだ。だから、無事に三人揃って目が覚めてからでもいい?』って言って、教えてくれなかったんですよぉ」
「そうか。では、リリには分かっているのだな」
帰ったら聞いてみよう、カイエンはそう言おうとして、はっとした。
現実ではまだ一歳の赤ん坊であるリリには、教えてくれようがないということに気が付いたのだ。予知夢のことでは、まだ口の回らないのを無理やり動かすようにして、カイエンたちに伝えてくれたが、あれは非常の場合だったからだろう。
では、現実へ戻っても、予知夢のからくりをリリに聞くことは出来ないのだ。
「まーでも、リリちゃんも迂闊ですよねぇ〜。帰ったら、あの子まだ赤ちゃんじゃん。どうやって説明するつもりだったんだろ?」
イリヤも同じことを考えたようだ。
「あーあー、じゃあ、殿下の夢の話は、しばらくはおあずけですねぇ。……それにしても、俺は俺が不思議。なんだって、あそこで殿下の前に出ちゃったのかねぇ」
イリヤが何気ない様子で、そう言った途端、カイエンの頭の中で、やっとさっきから心に引っかかっていたことが言葉になった。
「イリヤ」
ここで彼女は、それまで押しまくられていた体勢から、一気に攻勢に転じた。
カイエンの声音を聞いて、イリヤの方も、はっとしたようだ。
「では、私もイリヤに聞きたいことがある。お前はどうして、私をかばった? 刺されることは分かっていただろうに。大公軍団の長だからと言うのか。だから、大公軍団の一番上である、私をかばったと? それはちょっとおかしいんじゃないか。……今、私が死ねば、大公はリリになる。他の皇帝陛下の妹弟達は今、ハーマポスタール大公にはなれないからだ」
オドザヤの二人の腹違いの妹、カリスマとアルタマキアは、今、ハウヤ帝国にはいない。そして、弟のフロレンティーノは今のところ、オドザヤの「推定相続人」である。次の皇帝になる可能性がある以上、大公の地位につくことは出来ない。
「リリはまだ赤ん坊だが、私が大公でもリリが大公でも、お前の仕事に変わりはあるまい。お前も私もよく知っているように、私はずっと、役立たずの大公だった。今も、私の仕事は私にしか出来ないと言うものではないのだろう。では、私がシイナドラドの星教皇だからか? シイナドラドの皇子のエルネストならともかく、お前がアストロナータ神教の熱烈な信者だなんて聞いたことがないぞ」
カイエンは長い言葉を、よどみなく喋り続ける。
おしゃべりなイリヤも、口を挟んでくることはなかった。その顔には、「しまった」とでも形容するしかない表情が浮かんでいる。
「そして、どうして今、私にこんな話をした? お前には関係のない、ヴァイロンやエルネストの気持ちを、どうして彼らの代わりに代弁した? お前はそんなお人好しじゃないだろう。そんな親切な男でもないはずだ。ではなぜ、今、ここでご親切に私に教えてくれようとしたんだ」
実のところ、カイエンの頭にあったのは、あの、腹を刺されたイリヤが、目を瞑る前にカイエンに向かって囁いた、あの言葉の方なのかもしれなかった。
(で、でも……いいか。最後に殿下……が、ちゃんと、元気に……生きて……る、とこ、見られて)
その次に、イリヤは「俺の仕事はもう終わった」と言ったのだ。
カイエンは、ここで初めてイリヤの顔をまっすぐに見ることが出来た。
誤魔化されないぞ。カイエンの灰色の目はぎらぎらと夜光虫の海と、空一面の星々の光を受けて輝き、それまでの押される一方の状態から、反撃に転じようとしていた。
今度は、イリヤの方が黙り込む番だった。
カイエンは容赦しなかった。
「どうなんだ、イリヤ。あれだけ私を非難しておいて、自分はだんまりか。そんなことは許さないぞ」
さっきまでの勢いが嘘のように、イリヤの顔から余裕がなくなっていた。青褪めて見えたのは、星々の光の生ではあるまい。
その時だった。
いきなり、イリヤの夢世界の空と海が割れた。
夜光虫と発光くらげの光がたゆたう海が、カイエンとイリヤの真ん前で二つに分かれ、そのまま水平線上の緑色の太陽をも巻き込んだ。
同時に、降ってきそうなほどに星々が煌めく空もまた、天頂から緑色の太陽へ向けて、まっすぐに裂けた。
「あっ!」
カイエンもイリヤも、見た。
果物の皮でも剥くように、左右に分かれた世界の裂け目。
その向こうに、見覚えのある顔が並んでいるのを。
ヴァイロン、エルネスト、教授にガラ、アキノとサグラチカ、シーヴの顔も見えた。
その中の誰のものだかは分からない。
世界の裂け目から、遠慮のない指が中に差し込まれ、世界をばりばりと壊していく。
緑色の太陽がぐしゃり、と潰れると、すごい光の渦がカイエンとイリヤの上へ降り注ぎ、彼ら二人の体が、外の世界へと引っ張られた。
光で世界は真っ白となり、カイエンにもイリヤにも、何も見えなくなった。
一月二日。事件の翌日。
新開港記念劇場の裏手で身柄を抑えられた、偽隊員。
彼は、現場近くの治安維持部隊の署へ連行され、そこで尋問を受けていた。
ミゲル某の制服を奪い、その命さえも奪ったのだろう、その男。巧みな変装で、ミゲルに化けていた男は、治安維持部隊隊長の一人、双子の兄の方のマリオの前に、粗末なテーブルを挟んで、手枷、足枷をはめられた状態で座らされていた。
すでに、拷問にかけられていたから、その体はすでにぼろぼろに見えた。
ヘススが大公宮へ向かった時までは、この男は拷問に屈せず、黙秘を続けていたのだが、日付が一日から二日に変わってしばらくしてから、いきなりしゃべり始めたのだ。その様子は、まるで最初から決まっていた手順通りに、時間が来たから態度を変えた、とでもいうようだった。
地下にある取調室では、マリオの他に書記の男がペンを走らせており、他にも見張りの隊員が壁際に立っていた。
男は、自分の身元については、頑として口を割ろうとはしなかった。
男は年齢のわからない平凡な目鼻立ちで、眉毛も頭髪もなかった。含み綿で膨らませていた頰は、今、げっそりと削れたように見えた。
身元については黙秘を続けたが、どうして犯行に及んだのか、とのマリオの質問には男は答えらしきものを語り始めた。
「忌々しかったのさ」
男、実は奇術団コンチャイテラの百面相は、吐き捨てた。
「あの、大公軍団団長のあの顔。そして、女大公のあの顔……。あの二つだけは、手に入れられなかったからな。軍団長の方は、至近距離から見れば、手に入れられるかと思ったが、近くで見ればみるほど、あの顔の造形は俺から遠ざかって行きやがった」
顔を手に入れる。
普通ならその意味するところは分からなかっただろう。
だが、巧みな変装をして、隊員に化けていたことを知っているマリオには、分かった。にわかには信じられないことではあったが、この男はカイエンやイリヤの顔に変装するために、イリヤの顔をじっくりと見たかったのだ。
そのために、劇場に火をつけるという落とし文をしたというのだろう。
イリヤが出てくるかどうかは、賭けだったのか。もしかしたら、三年前の開港記念劇場炎上のことを知っていたからかも知れない。そういうことになると、男の裏には、あの桔梗星団派に連なる団体がいるのだろう。
「女大公の方もそうだ。どうしてあの場に息急き切ってやって来たのかはわからんが、あそこで触れるほどに近くから見て、あの顔も難物だと知らされた。あの顔は、形だけならすぐに作れそうだったのだ。あの時、本物を近々と見るまで、まあだいたい作れるとたかをくくっていた。なにせ、アストロナータ神殿へ行けば、同じような顔を見ることが出来るからな。……なのに、近くで見たあの顔は!」
どうして、自分の身元は話さないのに、犯行の背景についてはここまで饒舌なのか。
そもそも、こうしてしゃべる気があったのなら、拷問に耐える必要はなかったのだ。
マリオは、唾を飛ばしかねない勢いでしゃべる男を、気味悪く思った。眉毛も頭髪もない、痩せた顔付きもあって、男の様子はあまりにも不気味だった。
「忌々しい。あの女のあの目だ! あの目がなければ、あの顔は出来上がらない。神像にはない、ただ一つの光を反射する器官。あの目玉二つだけは、俺には再現できないだろう」
男、それはコンチャイテラの百面相に間違いなかったが……は、自分に酔ってでもいるかのように、相槌もせずに黙っているマリオなど見えない、とでも言った風だ。
「……あんまりムカついたから、あの女大公を見ているうちに、体の方が動いちまったよ。この世から消しちまえば、もう顔を手に入れる必要もなくなるからな。あの女の顔だけは、必ず手に入れろと命じられていたんだ。女大公を刺せば、軍団長はそっちに目がいく。その間に隊員たちの中に紛れちまおうと思っていたのに」
これを聞くと、マリオはふっと眉を寄せた。
この男はしゃべりすぎてはいないか。
犯罪者の尋問に慣れたマリオには、この件の話は疑わしく聞こえた。今、この男の言っていることは、恐らくは、前もってきちんと計算されたことだ。完全に黙秘していないのには理由があるとしか思えなかった。
「なのに。あの軍団長は、大公をかばいやがった。俺の方に手を出せるような距離じゃなかったから、ああして自分の体で防いだんだろうが、驚かされたよ。あの大公軍団の恐怖の伊達男、まさか大公にあんな忠誠心があるとは思えなかったからね」
まったくだ、とマリオは心の中で思ったが、言葉にはしなかった。
イリヤをもう十年近く見ていたマリオには、イリヤと忠誠心、という言葉の組み合わせは、馬鹿らしいほどにあり得ないものだった。
取調室の扉が叩かれたのは、マリオが頭の中で、それまでは彼も気が付いていなかった、巧妙に隠されていたイリヤの内面、昨日のイリヤの行動の理由を探り当てた、まさにその時のことだった。
「マリオ隊長」
慎重に鍵を開けて扉を開き、顔を出したのは、取調室の外で見張りをしている隊員の顔だった。
治安維持部隊の隊長は、双子で苗字も同じだから、隊員たちは、「マリオ隊長」、「ヘスス隊長」と呼んでいる。
マリオは、ちょっと訝しげな顔をしたが、容疑者の前で会話するわけにはいかなかったので、椅子から立って扉のところまで歩いて行った。
マリオが廊下へ顔を出すと、薄暗い地下のランプの光の中に、三人の隊員が立っている。二人はこの取調室の見張りで、もう一人は外からマリオへの伝言でも預かって来たのだろう。
「何か」
マリオが短い言葉で聞くと、外から来たと覚しい隊員が、敬礼した。
「はっ。ヘスス隊長がお戻りです。容疑者を大公宮の留置場へ移動させることになったとのことです」
この時、廊下の向こうから歩いてくる、ヘススの姿が見えなかったら、マリオはこの突然の容疑者移動を怪しんだに違いなかった。
だが、向こうから急ぎ足に、何人かの隊員を引き連れてやって来るヘススの様子は、双子の兄のマリオが見ていても、なんの不自然さもなかったのだ。
「分かった」
だから、事態が急展開したのは、マリオが取調室に向かって、首をひねり、背中を廊下へ向けた瞬間だった。
結局、先週書いていたものは全文、ボツとなりました。
こっちの方がはるかにマシなはず。




