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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第六話 失楽の王
154/220

鉄色の太陽の下で


 気がつくと、イリヤは薄暗い浜辺に立っていた。

 そこから見える空は、黒いような赤いような、なんとも言えない赤銅色で、雲ひとつ無かった。

 遠い水平線の近くに、青緑色のような深緑のような、つまりはイリヤの目や髪の色によく似た、だが内部で燃え盛るもので鈍く輝く、鉄色の巨大な太陽が見えた。

 太陽が水平線にあるのに、空は薄暗く、薄暗いのに、星の一つも見えないのだった。

 つまりは、空の色も、太陽の色も、イリヤのよく見知っているものとは全然、違っていた。

 空が暗く、太陽の色が緑色なので、あたりは黄昏か黎明かわからない、薄暗い光が照らす世界だ。

 ゾッとするのは、その、雲ひとつないのに星が一つも見えない赤銅色の空を斜めに横切る、とろりと赤い、裂け目のようなものがあることだった。

 裂け目の中には、明らかに空とは違う質感の、どろどろした……イリヤは、牛や羊の屠殺をしているところや、殺人事件の被害者などの検分で、何度か見たことがあったが、生き物の腹の中にある内臓はらわたのようなものが見えていた。

「なにアレ? 気持ちわるーぃ」

 もとより、変な緑色の太陽がある世界の空とは言え、あんな気味の悪いものが、天を斜めに裂いているのは、非常に奇怪な眺めと言うしかなかった。

 目を上げたまま、その気持ちの悪い空を見ているのは嫌だったので、イリヤは目をそらすように、自分の立っている足元を透かし見た。 

 見下ろせば、足元に踏みつけている砂浜の砂の色さえ、不自然なほどに真っ白く、砂は死んだ人を燃やした後の灰のように細かくて、同じ場所で足を踏みしめていると、どんどん砂の中へ引き込まれていきそうな気持ちがした。

 その砂浜の左右を見通してみたが、船の影も街の光も見えず、ただただ見える限りの遠くまでが、まっすぐに真っ白な砂浜なのだった。

 打ち寄せる波の音と、潮の香りだけが、イリヤのよく知っているものと同じで、泡立つ波の間には、色とりどりの夜光虫や光るくらげが、怪しい虹色の光をまとって漂っているのが見えた。

 黒い大公軍団の制服の長い裾が、海風になびき、イリヤはよろめくように海と反対側の方角を振り返った。だが、海の反対側にも街の光はなく、見渡す限りが白い砂浜の続きなのだった。

 ただ、真っ白な砂浜に、これも白い大きな花弁の桔梗が、立ち並ぶ白い墓標のように花弁を揺らして一面に咲き乱れている。

「なにこれ。ここどこ?」

 イリヤはずさずさと黒い長靴で砂を蹴り、白い桔梗の花畑の中へ入って行ったが、見える風景はなにも変わることはなかった。

「あ、そうだわ。俺は、腹を刺されたんでしたねぇ」

 イリヤはふと思い出して、自分の刺されたはずの側の腹を見てみた。

 だが、真っ黒な制服には、ほつれひとつなかった。確かに、こっち側でナイフを受けて、とっさに抜かれないようにナイフの柄を掴んだのを覚えているのに。

「あれ? おかしいな」

 イリヤは制服の上から、両方の脇腹を探ってみたが、刺さったナイフどころか、痛みさえ感じることはないのだった。

 イリヤはもう一度、夜光虫とくらげの光で怪しく光る海と、大きな赤い裂け目の広がる空を見回し、そして、はたと気が付いた。

「あー、それじゃー、ここがアレですかね、あの世との間にあるっていう河のほとり……じゃないねぇ。どう見ても、海だねえ」

 ハウヤ帝国だけではなく、一般的な土着の考え方として、死者は死ぬとあの世との間にある、大きな河の辺りにたどり着く、と言われている。そこで、渡し舟の船頭に小銭を払い、あの世へと渡してもらうのだ。

 だから、死者の棺の中に幾らかの小銭を入れるか、遺骸に持たせるかするのが普通だった。

「河なら向こう岸があるけど、海だとどうなのかねぇ。向こう岸は、他の国とか? 渡し賃、べらぼうに高いんじゃないのぉ?」 

 もともと、おしゃべりなだけではなく、独り言も多い男だから、不思議なことを列挙しだすと止まらなかった。

「でもぉ、太陽の色も空の色もおかしいし、空は変なふうに裂けてるし、周りに家の明かりも見えないし。……あぁ! それじゃあ、ここが地獄インフィエルノってやつですか!」

 イリヤはひとりぼっちなので、自分で自分に突っ込むしかなかった。

 誰もいない浜辺が俺の地獄か。

 そう気が付いてみると、イリヤはちょっと寂しくなった。鬼や悪魔でもいてくれれば、そのほうが賑やかで良かったのに、と半ば本気で思った時だった。

「あれぇ? 舟が来たよぅ」

 さっきまで海を見ていた時には、見えなかったのに、見てからに古い、帆のない櫂で漕いで進む木の舟が、もう浜辺の近くまで漂って来ていた。

 そして、その船が砂浜に底を着くと、いつの間にか、船の後ろに小さな人影が現れた。

 人影は、舟の船尾を押して、舟を浜にあげようとしているように見えた。舟といっても湾内で漁師が漁をするくらいの大きさはあるから、普通なら子供のように小さな人間が、一人で押してくることなど出来るはずがない。

 不審に思いながら見ていると、夜光虫だの発光くらげだのを海水ごと体にまといつかせた、十歳くらいの子供が大きな声を出した。

「おぉい! イリヤ、黙って見てないで、手伝ってよ!」

 えっ? と目をこすって見てみれば、その子供は腰までくらいありそうな、長い紫色の髪をした、カイエンにそっくりな女の子なのだった。白い、薄い子供服のようなものを着ているが、頭から足の先までずぶ濡れだ。

 その子供の、これだけが蛍のように光っている左右の目の色が、琥珀色と灰色なのに気がつくと、イリヤは思わず、こう答えていた。

「ええっ! あんた、リリちゃんなの? どうしてこんなところに……」

 リリが舳先へ回り、小さな体で船の縄を曳き始めたので、イリヤもざぶざぶと長靴のまま海へ入って、それに加勢する。

「これ、引き上げちゃったら話すから! ああ、浜辺まで上げなくてもいいよ」

 世界が不思議世界だからか、二人掛かりで引っ張ると、すぐに舟は砂浜の近くで停止させることができた。

 イリヤは引っ張っていた姿勢から腰を伸ばすと、彼の脇腹のあたりまでくらいしかない、小さな子供を見下ろした。

「リリちゃんだよねぇ。なんか、急に成長しちゃったけど……。今、何歳? もしかして俺、おっさんになってるの?」

 思わずそう聞くと、リリ……それは左右色の違う目と、カイエンによく似た声からして、リリに間違いなかった……は、呆れたような顔をした。

「まずそれ聞くかなあ! 一歳の赤ちゃんじゃ、こうやって舟を押したり曳いたりなんかできないじゃん。どーせ、夢の中だもん、適当に大きくなったんだよ。あんまり大きくなると、カイエンと区別がつかなくなるといけないから、このくらいにしといたの!」

「ああ……そうなのぉ」

 イリヤは納得しかかったが、そこでやっと、リリの言った言葉に気が付いた。

「あれ? 今、夢の中って言った?」

 リリは、白いワンピース状の子供服の裾を、自分でぎゅうぎゅうやって海水を絞っていたが、そこでキッと顔を上げた。

「ここは、まごうことなく夢の中だよ。……じゃあ、その舟の中、見てみたら?」

 言われて、リリの頭越しに舟の中を見たイリヤは、飛び上がるほどびっくりした。

「ええーっ! まさか、俺が殿下庇って刺されたってのに、殿下の方が死んじゃったのぉ!」

 イリヤが、舟の中に見たのは、蒼白な顔色で横たわる、カイエンの姿に他ならなかった。眠っているというよりも、イリヤが「死んでいる」と認識してしまったのは、まるで息をしているとは思えない、全体の硬質な感じからだっただろう。

「やだ! 殺さないでよ。死にかかってるのは、カイエンじゃなくって、イリヤの方なんだから」

「へっ? だって腹の傷、なくなっちゃったよ」

 イリヤが脇腹のあたりを押さえながら言うと、リリは言葉が通じない野蛮人を見るような目で、イリヤを見た。

「イリヤの傷はあ、あそこにぱっくり開いてるよぉー」   

 そして、リリは、赤銅色の空を裂いている、奇怪な「裂け目」を振り向き、指で指した。

「あれが、今、イリヤのお腹に開いてる傷。本当なら、あんな傷が開いちゃったら、その人の世界は壊れちゃうんだよ。今、イリヤの世界が壊れないのは、カイエンが今、この世界を維持して壊れないようにしてくれているからなんだよ。さっきも言ったけど、ここはイリヤの夢の中なんだ。イリヤはナイフで刺されて、血管が切れて、血がたくさん出たから、ああして裂け目ができて、イリヤの世界は壊れかけている。と言うか、カイエンがそばに来る前に死んじゃってたら、普通に壊れてたはずなんだ。それを、今はカイエンが壊れないように支えている。力をぜんぶ出して支えているから、カイエンはこの夢の中にいるけど、夢の中でも意識は保てないんだよ。だから眠っているの。外の世界でも、このイリヤの夢の中でも」

 イリヤは、なんとも言えない目つきでリリを見た。リリの話は全然、理解できなかった。

「あのう。あの空の傷が、俺の腹の刺し傷だってのは、まあ、なんとなく分かります。なんか、裂け目から内臓みたいなのが見えているし。……ここが夢の中だってのも、こんな変なとこ来たことないから、それも信じましょう。でもさあ、おかしいよ。そもそも、なんで殿下は俺が刺されるの知ってたみたいに、息急き切って、あの開港記念劇場の裏へやって来たの?」

 リリは、「話はそこからか」とでも言うように、大きなため息をついた。

「そっちも夢で知ったんだけど、そっちの話は、今のこの状況を話すよりも、もっと複雑なんだ。だから、無事に三人揃って目が覚めてからでもいい?」

 イリヤはちっともよくはなかったが、話が進まないのはもっと困るな、と思い、そっちの疑問は引っ込めることにした。

「わかりましたぁ。じゃあ、そっちのご説明は、いいでーす」 

 イリヤがそう言うと、リリはさっさと話を進め始めた。 

「あたしはカイエンの夢の中に入ったことがある。それは、あたしが生まれる前にカイエンの夢とあたしの夢が、もういなくなっちゃった『あの子』を通じて、シイナドラドで繋がっちゃったからなんだけどね。だから、今でもあたしはカイエンの夢にだけは入れるんだ。他の人のには入れないけど。……あたしの蟲は小さいから。でも、カイエンの蟲は大きくて力が大きいから、自分の夢だけじゃなく、他の人の夢を支えていることもできる」

「えー? よくわかんなぁい。だって今、リリちゃん俺の夢に入っているんでしょー?」

 イリヤの質問はもっともなものだった。リリもそれは認めたらしい。

「お腹の中に、蟲がある人の夢は、実はみんな蟲を通じて繋がっているんだよ。でも、普通は蟲の宿主は、他の人の夢には入れないし、行き来もできない。だけど、あたしは生まれる前からカイエンと繋がっちゃったから、カイエンの夢には自由に入れる。カイエンもあたしの夢には普段でも入れるんだ。だけど、他の人たちは体に蟲があっても、あたしとカイエンみたいには行き来できない」

 イリヤには、今度もあんまりよく理解できなかった。

「でも、カイエンの蟲は大きいから、ぜんぶの力を使えば、あたし以外の他の人の夢にも入って行かれるんだ」

「なんで、リリちゃんはそんなこと知ってるの? だって、リリちゃんは、殿下と違って、殿下以外の夢には一人じゃ入れないんでしょ? なのに、蟲のこととか、なんで知ってるのぉ?」

 リリは小さな手で、ぱちぱちぱち、と拍手した。

 イリヤの言ったことは、ちゃんと正しかったらしい。

「あたしは生まれてくることができたけど、まだ半分、カイエンの夢の中の、生まれることのできなかったあの子と繋がってるんだ。あたしは生まれる前に、夢の中で目が覚めちゃったから、生まれるまで夢の中にいた。その間に、蟲たちの繋がっている糸をたどって、この夢の世界のからくり? を全部、空の上から見て来たの」

 リリは彼女的には理路整然と話していたのだが、それはイリヤには難しすぎた。

「ごめん。今度のは、ぜーんぜん、わかんないわ。まずその、生まれられなかったあの子っての誰?」

 イリヤがそう言うと、リリは左右色違いの目を、ぎりり、と光らせた。この分からず屋、とでも言いたかったのだろう。だが、リリはぐっと我慢したようだ。

「じゃあ、これも、イリヤはわからなくていいよ。つまり、あたしとカイエンがこの、イリヤの夢の中にいるのは、カイエンがイリヤの夢の中に入ったからなんだよ。それで、あたしはカイエンの夢を伝って、今、イリヤの夢の世界に入ってきたってわけ。……あたし一人じゃ、カイエン以外の人の夢には入れないんだけど、さっき言ったように、カイエンはぜんぶの力を使えば、他の蟲のいる人の夢に入れるから」

 イリヤは眉根に皺を寄せた。

「つまりぃ、『蟲』ってのが、俺の中にもいるってことね?」

 リリは深く深くうなずいた。

「よくわかりました。イリヤも、獣人の村プエブロ・デ・ロス・フィエロス出身だから、蟲がいてもおかしくないでしょ?」

 確かに、その通りだったので、イリヤは言った。

「うん。でも、俺のお腹には蟲はいない、って聞いてたんだけど」

 リリは大きな裂け目のある、赤銅色の空を見上げた。

「……小さいけれど、あったみたいだよ。だって、ここはイリヤの夢の中だもん。カイエンと、カイエンにくっついて、あたしも入れたんだから、間違いないよ」

 こう言われては、もうイリヤには反論はできなかった。こんな不思議な場所で、大きくなったリリと話していることからして、もうリリの話を認めるしかない状況だった。

「それでね、三人一緒にこの夢から覚めるには、イリヤがちゃんと生き返らないとダメなの。イリヤが生き返らないと、あたしもカイエンも出られなくなる。いい? イリヤがぁ、ちゃんと自分の夢を支えられるように頑張らないと、あたしもカイエンもここから出られなくなるんだよ!」

「それってまさか、俺と一緒に死ぬってこと?」

 イリヤがそう聞くと、リリは「やっと分かったか!」とでも言うように、深々とうなずいた。

「やっと分かったね! この石頭。カイエンがあたしを連れて、イリヤの夢の中に入っているから、イリヤが死ぬとあたしたちも一緒に、閉じるこの夢の世界と一緒にいなくなっちゃうんだよ」

 イリヤはぽん、と手を叩いた。

「あああ〜。なんとなくわかりましたぁ。これは今、殿下とリリちゃんと俺は、一蓮托生の状況になっていると言うことですね?」

 リリはうなずいた。

「カイエンはイリヤの夢を支えてる間は、眠りから覚めないから、あたしとイリヤの役目はあの空の裂け目を修復して、元のイリヤの夢の世界に戻すことだよ」

 イリヤは赤銅色の空の、不気味な裂け目を見上げながら訊いた。

「具体的にはどうするの?」

 するとリリは、簡単だよとでもいう風に、砂浜に咲き乱れる、真っ白な桔梗の花畑を指差した。

「あれ! あの白い桔梗で、あの空の裂け目を埋めてしまうんだ」

 イリヤは目を丸くした。

「ええー? だってあそこ、空だよ?」

 リリは落ち着いていた。

「ここは夢の世界だって言ったでしょ。夢だから空へも手が届く。……イリヤは背が高いから、きっと簡単だよ」

「ええぇ〜」

 疑い深そうなイリヤに、リリはちょっと真面目な顔になった。

「出来るんだよ。この、あたしの目、こっちの半分……灰色の方は、カイエンとあの子の夢の中で、あの子からもらったんだもん。だからイリヤより夢の中の真実がよく見える」

「あの……さっきも聞いたけど、あの子って誰?」

 リリは、ちょっと悲しそうな顔になった。

「カイエンの……生まれることが出来ないって、最初から決まってた子だよ。あの子の夢は、もちろんカイエンと繋がっていた。そこへまだあの子とよく似てた、あたしが引っ張り込まれたんだ。それであたしは、あの子の夢の中で、死ぬはずだったあの子の半分を、あたしと取り替えたんだ。カイエンが哀しそうだったから……」

 イリヤはゾッとした。リリは簡単に言うが、夢の中でもそんな事が出来るとは思われなかった。

「あの子が消えて、あたしが赤ちゃんになって生まれる前に、あたし達の夢の中にエルネストが来たよ。と言ってもエルネストには蟲はないから、入れなくて、覗いてただけだけど。それで、本当の世界へ生まれてきて本物のエルネストを見たら、目が一つ、なくなってた。……それも、灰色の方の右目が。あたし、わかったよ。エルネストはいなくなったあの子に、自分の目をあげたんだな、って。あの子の右目は、あたしが取っちゃったから……」

「……なんなの? つまりは、夢の中と現実で、父娘が目玉のやりとりしてたってことぉ?」

 リリは静かに、目を伏せた。

「そうだと思う。……だからあたしは最初、カイエンと一緒であいつ、嫌いだったけど、今はちょっと好きになった」

 リリは黙り込み、イリヤもつられて、なんとなくしゅん、となった。いつぞや、一対一で会った時に、怒りのあまり強姦魔扱いしたが、なんとなくあれはもう言わないでおいてやろうか、と思った。どうせ、エルネストが報われる日など来やしないのだから。

「ああ、時間が経っちゃう。ほら、イリヤ、あの白い桔梗の花を摘もうよ! そして、さっさとあの裂け目をうめなくちゃ」

 それからしばらく、イリヤとリリは、白い桔梗の花を腕いっぱいに摘んでは舟の中で寝ているカイエンの周りに放り込み続け、それは舟いっぱいになるまで続けられた。

 舟が真っ白に埋め尽くされると、リリを乗せたまま、イリヤは舟を海へ押し出し、それから自分も舟の端に乗り込んだ。

 そして、「空だぞ、届きっこないじゃん」と思いながら、イリヤは白い桔梗を手に、空に向かって手を伸ばしたのだが、その途端に悲鳴を上げた。

「ヒィ! いやぁあああああああああ! 気持ち悪いぃ。なんかぐちょぐちょしたとこに手ぇ突っ込んじゃったよぅ!」

 イリヤは大きくのけぞったので、舟から落ちそうになり、リリは耳を抑えて文句を言った。

「だから言ったでしょ。ちゃんと手が届くって。……もう、さっさとこの白い花、そこに突っ込んじゃって! これ全部突っ込まないと、イリヤの傷、治らないよ」

 

 どのくらい時間が経ったか、分からない。

 気味の悪い赤黒い裂け目の、最後の隙間に、イリヤが白い桔梗を突っ込んだ時だった。

 イリヤは、「なんで夢の中なのに、汗かくんだろ?」と思いながら、汗を拭きふき、船の上から顔をあげ、そして驚いた。

 さっきまで星一つ見えなかった赤銅色の空は、いまや一面の星空で覆われていた。醜い傷口は消え、天の川が見たこともないほどにはっきりと、まさに天空にかかる星の橋のように、明るく輝いていたのだ。

「ああ、エストレヤ……じゃあ、桔梗は桔梗星紋の桔梗かあ。確かに白い星みたいだもんねぇ」

 そう言えば、カイエンの三つ目の名前は、エストレヤだった、とイリヤが思い出した時。

 船の中で、それまで白い花に埋もれ、棺の中の遺骸のように眠っていた、カイエンの目が開いた。この世界の傷が修復されたので、イリヤの夢の世界を支えていなくてもよくなったのだろう。

 イリヤは、舳先に突っ立ったまま、「リリの言っていた、さっきの話は本当だったのだろうか?」と思っていた。さっきまでは、リリの言っていることに、まんまと引き摺られて行動していたが、見たこともないほど明るく輝く星空を見上げて、その美しさにため息を着いた途端に、にわかに心配になったのだ。

(俺ってやっぱり、もう薄汚れまくった大人だよねぇ) 

 確かに、この世界の空に開いていた、醜い傷跡は修復され、輝くばかりの星々で埋め尽くされた。

 だが、この今の夢の世界の風景は、果たして「元どおりの姿」になったと言えるのだろうか。白い桔梗の花で修復された世界は、傷が開く前の世界と、同じ姿に「戻った(・・・)」のだろうか。

 元々のイリヤの夢の世界。そこが、こんなに輝かしい世界だったとは、彼には到底、思えなかった。

「あれ? どこ、ここ」

「あ、起きた」

 目が覚めたカイエンが声を出すと、リリはすぐにカイエンの側へ飛んでいく。

「カイエン! すごいよー。この世界(イリヤのゆめ)、カイエンの星でいっぱいになった!」

 カイエンは舟の上に起き上がったが、しばらく星空を眺めてぼうっとしていた。イリヤがそばにしゃがむまで、彼がいることにすら気が付いていなかったらしい。

「お前、リリ? え。イリヤ、なんでみんなで舟の上に……。あの空はいったい……」

 さっきまでのイリヤと同じように、カイエンもまたこの夢の世界のことはよく分かっていないらしかった。

「カイエン、ほら、イリヤのお腹の傷はもう治ったから、もう帰ろ」

 リリは、カイエンの首っ玉にかじりついて、猫のミモのようにぐりぐりと頭を擦りつけるようにして甘えている。

「ああ。これはまたあの夢か。夢に海が出てくるのは初めてかな」

 カイエンはさすがに、夢のことはちょっとは知っているらしかった。身を起こそうとするカイエンへ、リリは面白そうに話しかける。

「あっ、そうだ! カイエン、立ってみなよ。ここはイリヤの夢だから、きっとカイエンも普通に歩けるよ」

 聞くなり、カイエンのそれまで青白かった顔が、ぱあっと明るくなった。

「なんだって? そうか、それじゃあ立ち上がってみよう」

 そう言うと、カイエンは両足に力を入れて踏ん張ってみた。

「あ」

 左手に杖はないのに、彼女は次の瞬間には普通に船底に靴裏をついて、立ち上がっていた。

「すごい! こんなに簡単に、普通の人は立ち上がれるのかあ!」

 カイエンはそう言うと、リリの両手を取って、くるくる回り始める。よっぽどうれしかったのだろう。

 その、カイエンとリリの様子を、イリヤはもう、なんだか醒めた目で見ていた。先ほど、この世界の変わりように疑いを持ってしまってから、彼の頭は大公軍団軍団長のイリヤの頭に戻っていた。

 そんな、イリヤの顔つきの変化に、リリはすぐに気が付いた。 

 リリは、カイエンの手を離すと、イリヤの方へぴょんぴょんと跳んで来た。それは、ちょうどその年頃の子供達がするような仕草だった。 

「イリヤぁ」

 イリヤはリリのその呼びかけの、今までになかった大人びた響きに、はっとした。

「イリヤは、本当に疑り深いんだねえ。まあ、苦労したみたいだから、しょうがないのかなあ……」

 リリは、先ほど、カイエンが目覚めるまでの間に、イリヤが考えていたことなど、お見通しだぞ、と言う顔つきと目の色だった。

「あたしは嘘なんかつかない。だから、ちゃんと聞いておいて。……イリヤの夢の世界は元から、こういう星が落ちて来そうな、星明かりの夜の世界だったんだよ。夜なのに、変な色の太陽が昇っているけどね」

 そして、次のセリフを言い終わると、リリは、夜光虫と発光くらげと、星明かりを映した海に飛び込んだ。

「……イリヤは馬鹿だねえ。ずっとずっと、こんなきれいな星明かりの昼と夜を、心の中だけに隠して来たんだねえ」

 ぼちゃん。じゃぶん。

 水音がして、もうそこからリリの姿が消えている。

「えっ? リリ! リリ! どこに行くの? ちょっと、私たちはどうやって戻れば……!」

 カイエンは叫んで、リリの飛び込んだ船縁に張り付いたが、もう、リリの姿は黒い海の中へ消え、浮かび上がってくる気配もなかった。

「ちょっ、えっなに? リリちゃん飛び込んじゃったの?」

 カイエンの後ろで、イリヤもびっくりしているらしい。

 置いていかれた大人二人は、リリとは違ってこの「蟲が繋げる宿主たちの夢の世界」とでもいう場所から出て行く術など、まったくわからないままなのに。

「ど、どうするの? 殿下?」

 振り向いたカイエンへ、イリヤは訊いてみたが、すぐに彼もまたカイエン同様に理解していた。リリしかこの不思議な世界からの帰り方はわからないのだ、ということに。

 






 腹を刺されて、死体にしか見えないイリヤは、アキノと、大公軍団所属の外科の医者に付き添われ、カイエンと一緒に同じ馬車に載せられた。シーヴの方は、馬車に乗り切れなかったので他の馬車で大公宮まで戻ることとなった。

 大公宮へ戻ると、そこにはサグラチカや女中頭のルーサ、侍従頭のモンタナ、それに後宮の住人である、エルネストとヘルマンの主従とアルフォンシーナ、飼い猫のミモ、仕事から戻って変事を知った、マテオ・ソーサやガラ、それにヴァイロンなどがひしめき合っていた。

「あなた。リリ様も眠ってしまったのよ。揺すっても起きないの!」

 サグラチカがそう言うと、アキノは「わかったわかった」とでも言うように、うなずいた。

「分かっている。リリ様のお部屋のそばに、部屋を用意できたか?」

 アキノは出る前に、サグラチカから事情を聞き、そこまで用意して来たらしい。

「ええ。リリ様のお部屋のお隣に、昔カイエン様がお使いだった寝台がありましたから、そのお部屋にリリ様もお運びしてあります」

「分かった。いい判断だな。……ヴァイロン、お前とガラで、イリヤとカイエン様を運んでくれ。先生、離さない方がいいんでしょう?」

 アキノが外科の医師に聞くと、医師はカイエンの方の脈を診ていたが、すぐに、もう廊下を走り出しそうになりながら、答えた。

「私もよく分からないがね、まあ、里の古老の話が本当なら、離すとそっちの男がすぐに死ぬんだろうな。ああ、大公殿下は問題ない」

 医師の話しぶりからして、この医者はアキノやイリヤと同じ、プエブロ・デ・ロス・フィエロスの出身らしい。

 シーヴはふらふらしながら、みんなの後ろから歩いて来ていたが、医師のこの言葉を聞くと、びくっとして顔を上げた。

「アキノさん! イリヤさん……生きてるんですか?」

 シーヴの顔つきは、自分の方が死にそうで、ヴァイロンやガラは大丈夫かな、と思ったが、彼らにはカイエンとイリヤを運ぶ仕事があったから、何も口を挟むことはなかった。

 カイエンはヴァイロンが抱え、イリヤはガラが抱えたが、ヴァイロンはともかく、ガラも重そうな顔などはしていない。本来なら体が大きいイリヤは、担架にでも載せて複数の男たちが運ばなければならなかっただろうが、この大公宮ではそんな手間もかからないのだった。

 イリヤの制服は、血でぐっしょりと濡れていたし、カイエンの制服も同じだったが、ヴァイロンもガラも、気にした様子はない。

 アキノももう、ヴァイロンやガラ、それに外科の医師と一緒に、早足で廊下を奥へ奥へと動き始めていた。それでも、アキノはまだ何も分かっていない人々……それは一人、シーヴだけではなかった……にも聞かせた方がいいと思ったのだろう。

「ああ。ほとんど死んでるが、まだ戻ってこられる可能性が残っている。こやつも里の出身だからな。今日までわしも本人も気が付いてなかったが、こやつの腹にも、アレが入っていたんだろう」

「おい。アレって、『蟲』ってやつのことか?」

 一番後ろからアルフォンシーナや教授と一緒について来ていた、エルネストが聞くと、アキノは振り返りもせずに進みながら、声を大きくした。

「はい! その通りでございます。でも、詳しいお話は後ほど!」

 すごい速さで人々は移動し、あっという間にサグラチカとルーサが扉をあけて待っていた部屋へとなだれ込んだ。

 そこには、大きな寝台が置かれており、その横にリリの小さな寝台が引っ張ってこられていた。なるほど、リリはすうすうと眠り込んでいるようだ。大公宮の奥医師……カイエンとリリの主治医が、もうそこで待っていた。

「よし、怪我人を真ん中にして。そうそう、畏れ多いが大公殿下とリリ様の間に寝かせるんだ。どのくらい離すとダメになるのか、私にも分からんからな」

 外科の医師が指示する通りに、意識のないカイエンとイリヤが並べられる。二人ともに、血の気の失せた顔の色で、もちろん、微動だにしない。

「熱いお湯と、強いお酒を持って来て! ああ、ありがとう。ああ、寝かせたら君たちは離れて! 傷を診るからね。サグラチカさん、消毒した布、たくさん持って来たかね?」

「はい、こちらに」

 何か言いたげなヴァイロンを、ガラが手で制しながら寝台から離れると、医師たちは手を消毒し、二人一緒になって、イリヤの制服の、ナイフの刺さったままの脇腹に、じょきじょきと鋏を入れ、首元まで切り上げて左右に開いてしまった。

 なんとなく部屋のなるだけ隅へと下がった、アキノ以下の人々が見守る中、医師たちは傷の様子を確認にかかった。

「おお……」

「これは、もう腹腔内まで刃が入ってしまっていますね」

 外科医が傷の深さを診ている一方で、奥医師の方は、聴診器でイリヤの胸の音を聞いていたが、すぐにちょっと驚いた声をたてた。

「弱いが、心臓はまだかすかに動いている。これじゃあ、普通に胸に耳を当てたのでは聞こえないかもしれん。呼吸も非常にゆっくりとだが、繋がっている。……心臓は動いていますが、傷口からはもう出血していませんね」

 奥医師も落ち着いているところを見ると、蟲を持ったカイエンの主治医は、蟲についての知識をある程度は持っているようだった。

 外科の医師の方が、それに答えた。

「私も、実物を見るのは初めてなんですがね。なにせ、大公殿下のものほど、大きくて強力な『蟲』は、里でもそうそう現れないので……」

「それじゃあ、里の古文献などから、今度のようなことをお知りになったのですか?」

「それと、かなり前に里でおんなじようなことがあった時に、直接、見ていた村の古老から話を聞いたことがあるんです。私が国立医薬院の学生だった頃ですが……ずいぶん昔です。あの古老たちももうこの世にはいませんよ」

 部屋の隅で見つめている皆には、初めて聞く話である。

「我々の里には、蟲を体内に寄生させて生まれてくる者がいます。でも、多くはアキノさんのように小さいもので、大公殿下のように生活に支障が出るほどの大きさではない。この男のように、こうなるまであることに気が付かないことも」

「ああ。それでは、軍団長は知らなんだのですか」

 奥医師は驚いたようだ。

「恐らくはそうでしょう。アキノさんも知らないんだから」

 外科の医師は、傷口の周りに強い酒を振りかけ、傷を洗いながら言う。

「これ、中身は今、どこまで修復されているのかな? それが分からんと、手出しできない。傷の周りはきれいになっているから、ナイフは抜けるかな?」

 修復。

 外科の医師がその時、言った言葉は、見守る皆の耳に奇妙に聞こえた。治る、ではなく医師は「修復」という言葉を使ったのだ。

 自分があえて、奇妙な言葉を選んだことに、外科の医師もすぐに気が付いたようだ。

「蟲は人間に寄生する別の生き物の器官ですからね、宿主が死んだら自分も死にますから、宿主が死なないように出来るだけ助けようとする。だが、普通はこんな大怪我までは治せない。蟲は大抵、普段は静かに眠っているからです」

 プエブロ・デ・ロス・フィエロス出身という外科の医者の話は、医者のくせに、てんで科学的ではない。彼は、民間伝承のような話を、クソ真面目な顔で語りだした。

「古老の話や、古い文献によれば、『蟲』のいる人間が、すぐに治療しなければ即、死ぬような大怪我を負った時、もし周りに大きな蟲、それも、眠ったままで起きることなどほとんどない普通の蟲とは違い、日常的に起きて機能している蟲の宿主がそばにいると、その強い蟲が寝ている蟲をたたき起こすんだそうです。手段はわかりませんがね。そういう危険な時に、大きな、起きて機能している蟲の宿主がそばにいなければ、その普通の蟲の宿主は、もちろん、普通の人と同じように、死にます」

 外科の医師は、そこまで離すと、ちらりとイリヤとカイエンの方を見た。

 イリヤの場合には、カイエンがそばに来るのが「間に合った」から、普通の人のようには死なずに済んだ、と言いたいのだろう。

 先ほど、アキノから「殿下は間に合ったのだな」という言葉を聞いていたシーヴは、「あっ」と、小さく声をあげた。では、アキノは医師が今話しているこの話を、既に知っていたということだ。

「大きな蟲の宿主がそばにいて、間に合ったような場合、この時に文献では、双方の宿主が同じ夢を見ると言われています。同じ夢を介して、いつも起きている強くて大きな蟲が、そばで機能不全になりそうになっている仲間を生かそうとするらしい。もっとも、あまり遠くにいるとだめなようだ。それはそうだろうね、我々だって、見えないところの人の生死はわからないからね」

 外科医はそっと刺さったままのナイフに触れ、中の様子を推し量っているようだ。

「いつも起きている大きな蟲……それが、大公殿下の体の中の蟲、と言うことですね?」

 奥医師は外科は専門ではないから、補助に徹することにしたようだ。

「そう。大公殿下はきっと、本来なら生まれる前か、生まれた直後かに亡くなってしまうような、弱い体の持ち主なのでしょう。だがどういう偶然か、体内に大きく、力のある蟲が宿っていたために、蟲の、宿主を生かそうとする力を借りて、生き延びることがお出来になった。……大公殿下の場合、蟲の活動が停止すれば、恐らく今のご健康は維持できない。だから、殿下の蟲は普通よりも大きいこともあって、例外的に常時活動を続けているのだと考えられます」

 今や、部屋の中に響くのは、外科の医師の話す言葉だけだ。

「これは私の仮定も入っていますが、私どもの里では古来から、蟲たちは共通する『夢』を見ている、と言われてきました。ここからすぐに、蟲に意思があるとは言えないが、さっき申しましたように、危機的状況でそばにいる宿主同士が同じ夢を見るとすると、宿主が同じ夢を共有する以上、何らかの手段で、蟲たちが交信しているのだろうと推測されます。その『交信』によって、今回は殿下の蟲が、軍団長の中の、隠れていた小さな蟲の活動を促したのだと考えるのが、妥当かと思います」

 ここまで話すと、外科の医師はナイフを抜くことに決めたようだった。

「私も、死体の腑分けなんかはしたことがありますから、死体なら開腹してまた閉じるところまでやったことがあるが、申し訳ないが、今の医学では、生きた人間の内臓に空いた穴だの、切れた細かい血管だの神経だのをつなぐ技術はない。死体と違ってけが人は痛がって暴れるし、そもそもあれこれやってるうちに出血で死んでしまう。昔から言うでしょう? 腹に傷を負ったら、玉ねぎスープを飲ませろって。腹からスープの匂いがしてきたら、もう助からない。ご存知のように刺し傷は、内臓までいっちゃってたらもう、助けられないんです。……それに、そもそも、一回、腹腔を開けたら、閉じたって、感染症でほとんど死んじゃいますからね。だから、この人の腹の中身の方は、『蟲』に任せておくしかない」

 そこまで喋ると、外科医はそろそろと器具を使ってナイフを抜きにかかった。単純な筋肉への「刺創」の治療は慣れているから、その手に危なげなところはない。

 やがて、がしゃん、と音を立てて引き抜かれたナイフが金属のトレイの上に放り出された。なるほど、ナイフについた血の痕からして、傷の深さがうかがえた。

「おお。血が吹き出してはきませんな。……傷口もきれいだ」

 奥医師が言いながら、イリヤの脈を診た。だが、ほとんど脈は触れなかったようで、奥医師は再び聴診器を取り出した。

「うむ。心臓の方は、弱くて遅いけれどもなんとか動いていますな。……この状態で心臓が、弱くとも鼓動し続けているとは。これも、蟲が動かしているとしたら、蟲は腹から心臓まで手を伸ばせる、ということなのでしょうな」

 奥医師の推測は、外科医も同意するところだったようだ。

 だが、聞いているほとんどの頭では、「そんな馬鹿なことが?」という疑問が渦巻いているだけだっただろう。

 周りの雰囲気の重さを知ってかしらずか、落ち着き払った外科の医師は女中頭のルーサの方へ、汗をかいた頭を向ける。ルーサは心得たもので、静かに医師の額の汗を布で拭った。

「さて、そうなりますと、蟲は、外科がご専門の先生にも出来ないようなことをやれる、って言うことですか」

 奥医師が先程までの話題に戻ると、外科医はちょっと、考えるような目つきになった。

「さっきも言いましたが、蟲ってのはその人間が生まれる前から寄生しているのです。妊娠してから感染するのではないらしい。だから、蟲自体は我々の体と同じ物でできているんでしょう。だが、我々人間の体にはない機能も持ち合わせている。内臓に空いた穴を、どうやって塞ぐのか、切れた細い血管をどうするのか、入った毒をどうやって排出するのか、それは我々には分からんことです。軍団長の傷も、こうしてナイフは抜きましたが、後の中の始末は、蟲に頼むしかありません。心臓を動かし続けているのも、恐らくは蟲の力でしょうから、なんとかなるだろう、と思うだけです」

 外科の医師は一旦、口を閉じてから、また口を開いた。

「ですが、古い文献では、大きな蟲の宿主が助けようとしても、傷は塞がらず、共に意識を失ったまま、戻ってこられすに双方ともに死んだこともあったらしいのです」

「ええっ」

 それまで、しん、として医師の話を聞いていた皆であったが、この言葉を聞くと、あちこちから悲鳴のような声が上がった。一人を活かすために、二人が死ぬのでは、元も子もない。

「生還に成功した場合には、そこに第三の蟲を持つ人物が関与していたらしい。……ですから、今回はうまくいくように思います。こちらの……リリエンスール様もまた、意識を失われている。第三の蟲がどういう作用をするのかは、わかりませんが、大公殿下と軍団長が、共に御生還なされば、それも明らかになるのやもしれません」 

 医師がそこまで話した時だった。

「あっ、リリ様!」

 リリの小さな寝台のそばに遠慮がちに付き添っていた、サグラチカが叫んだ。

「リリ様、リリ様、ああ、目を覚まされたわ!」

 サグラチカがリリを抱き上げると、リリは、昼間、カイエンに話したような、切れ切れの言葉をその小さな赤ん坊の口から発したから、医師も含めてそこにいた全員が驚きのあまり目を見張った。

「い、いり、やの……おなか、と、とじ、て……いい、よ。なか、はも……う、ふさ、い……て……」

 医師は、呆然としていたが、はっとなってリリの方へやって来た。

 そして、リリの意志のこもった目を見ると、すぐにイリヤの方へ戻った。

「まさか……。だがやはり、伝承は正しかったのだ! わかりました! すぐに傷口を縫って閉じます」

 立派な風采の中年の医師が、皇女とはいえ赤子のリリの言うことを信じて、実行するのは奇妙なことだったが、ここまで来ると、不可思議は不可思議ながら、「うまくいくのかも知れない」という希望への期待が膨らんだ。

 

 そして。

 外科の医師が傷を丁寧に縫い合わせ、きれいに消毒してから包帯を巻く。

 その頃には、奥医師の当てた聴診器に、前よりも力強い心音や、呼吸の音が聞こえ始めていた。

「大公殿下の方は?」

 手を洗いながら、外科の医師が奥医師へ尋ねると、奥医師は静かにうなずいた。

「まだ意識はお戻りになりませんが、お体に問題はございません。お熱なども無いようです」

 それを聞くと、そこにいた皆が、膝から崩れ落ちるように、椅子や床に座り込んでしまった。

 大公宮の人々は、代わりばんこに仮眠を取ろう、ということになったが、自分の部屋に戻ろうという者はほとんどいなかった。

「大丈夫です。殿下がお目覚めになるまで、ここにいます」

 シーヴは、サグラチカの心配にそう答え、ヴァイロンやエルネストなどと一緒に、部屋の窓際に持ち寄られた椅子にかけた。

 そうして、皆はカイエンとイリヤの覚醒を待ったのだが。

 外科の医師やアキノの指示で、「万が一のことがあるといけない」と、カイエンとリリ、それにイリヤは並べて寝かせられていたが、リリはともかく、カイエンとイリヤは、実に一昼夜が経っても目を覚ますことはなかった。



  ……大変でした。

 多分、細かいことろは修正すると思います。

 謎の半分くらいは解けたかな? それとも深まっちゃったかな。

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