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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第五話 不死の王
150/220

楽園追放 1


「ふん。……さすがの踊り子王子も、びっくりしたようだな。舌入れてやったからな」

 エルネストはしばらくして、やっとトリスタンの青ざめた顔から顔を上げ、得意満面の勝ち誇った顔で、そんなことを言ってのけた。目の前に当事者のトリスタンの顔があるのにも関わらず、だ。

 そして、言い終わるなり、もう用はないとばかりに、抑え込んでいたトリスタンの顎と肩からは手を引っ込めて突き放し、彼の左側をくるりと回って、カイエンの方へやって来る。

 トリスタンの方は、エルネストに無理やり、首を後ろへねじ向けられた姿勢から自由になっても、その場で固まっている。

 さすがの踊り子王子も、ハウヤ帝国の皇宮、という至高の場所でこんな狼藉を、それも男から受けるとは思ってもいなかったのだろう。まあ、女からではなかなかしたくともできない、力技の芸当では、あった。

 カイエンは、二、三歩、杖に力を入れて、なおも後ろに下がった。踊り子王子も踊り子王子だが、こっちの変態皇子様も、ちょっと普通では考えられないレベルで、非常識極まるすごいことをやってのける点では、なんら負けていないではないか。

 カイエンは、その「恐ろしい皇子王子様」たちから、無意識のうちに距離を取ろうとしたのだ。

 非常識極まる男二人から、こうして距離を取って見れば、二人の表情を素晴らしく客観的に見ることができた。何事にも距離感、というものは大切だ、とカイエンはまだ混乱している頭の中で思った。

 カイエンも、積ん読乱読で読んでいる通俗小説から、男同士のあれこれがこの世に実在することは知っている。いや、アルウィンの隠し子で、カイエンの庶弟だったカルロスは、実際に男娼として男娼窟にいたのだから、大公としての仕事の中でも、そういう知識は持っていた。事件現場として見に行ったこともある。

 だが、実際にもう大人の、それも立派ななりをした男二人が、普通は男女がするような口づけをするところをとなると、そんな光景を見るのは、正真正銘に初めてのことだったのだ。

 まさか、この変態男エルネスト、両方いけるやつだったのか。

 カイエンはここまで考えたら、シイナドラドでの事やら何やら、多い出したくない方向へ思考が行きそうになったので、慌ててこの問題について考えるのをやめた。心の自衛であろう。

「な、何を……どうして?」

 カイエンとエルネストが全然違う種類の目線で見守る中、トリスタンは緑の目をぱちぱちさせ、やっと声が出て来たようだ。

 トリスタンはまだ、二十二、三というところだろう。その華やかな容貌からして、ザイオンの宮廷でも浮名を流していただろうし、踊り子に身をやつして街中で自然にふるまう術を持っていることからも、一通り以上の経験をしているはずだ。

 その変わり者の王子様が、エルネストの顔を見上げたまま、咄嗟には表情を取り繕うことも出来ないようだ。

「何を、じゃねえよ。転びかかったご主人様を支えてくれたのには、礼を言ってもいいが、その後のあれはなんだよ、おい」

 トリスタンは答えない。エルネストの皇子らしからぬ口調の乱暴さにも気がついただろうが、彼にとっても、この珍妙な事態は、初めて起こる種類のものなのだろう。

 カイエンはそこではっとした。

 そう言えば、さっき、蛇のトリスタンに蛙の自分は唇を奪われたのだ。それも、理由もわからない、突発事故のように。

「そうだ! なんなんだ、さっきのは。説明してもらおうじゃないか、ふざけた事ばかりしやがって!」

 カイエンはもう、貴婦人らしく取り繕うのも馬鹿らしくなって、トリスタンに迫った。エルネストがここまでやってしまった以上、自分だけがここで上品ぶっても始まらない。

 しかし、いきなり声をあげて、頭に血が上ったせいか、あの自分とリリの誕生日以来、オドザヤの初恋の件で悩みに悩んでいたせいか、カイエンはここでぐらっと視界がかしいだ。貧血ではないだろう。もしかしたら、久々に着た夜会服のために、胸から腹をコルセットで締め付けていたせいかも知れない。

「おっと、危ねえな」

 後ろから腕を回して、カイエンの腰を支えてきたのはエルネストだ。カイエンはびくっと身を震わせたが、トリスタンの見ている前だから、必死で平静を装った。それでも、薄い夜会服の絹地越しに感じたくなくとも感じる、エルネストの手の温度からは、なんとしても早急に逃げ出したかったのだが。

 その時だった。

 かたん、とカイエンとエルネストの背後で人の気配がし、物音が聞こえたのは。

 トリスタンの背後は、新年まで続く舞踏会の会場、「青藍アスール・ウルトラマールの間」だから、カイエンたちの背後はその反対側、ということになる。

「これは……。大公殿下でいらっしゃいますか」

 振り返ったカイエンが見たのは、小さな手持ちのランプを持った、女官長コンスタンサ・アンヘレスの、糸杉のようなまっすぐで姿勢のいい長身だった。と、なれば……。

「お姉様ですの?」

 続けて聞こえてきたのは、化粧直しに下がって行った、オドザヤの声に違いなかった。

 彼女は、コンスタンサの掲げるランプと、廊下に灯されたランプの灯りで、すぐにそこに集まっている三人の正体に気がついたらしい。

「えっ」

 当たり前のことではあるが、オドザヤは咄嗟に状況が飲み込めなかったようだ。

 皇后腹の第一皇女として、カイエンよりも厳しく社交辞令やら行儀作法に縛られ、人前で顔色を変えたり、激しい感情を見せたりしてはならない、と教育されて来たオドザヤである。そんな彼女が、不審そうな目をカイエンへ向けて来る。

 カイエンの方も、エルネストはともかく、トリスタンの方はどう言い繕ったらいいのかわからなかった。もっとも、自分はオドザヤを追ってきたのであり、エルネストはその後を追ってきた、ここまでは別におかしな話ではない。トリスタンのことは、本人に弁解させればいいことだった。

 さっきの、トリスタンの狼藉と、エルネストのそれへのお返しの狼藉は、別にオドザヤやコンスタンサに教えるようなことでもない。聞いたら卒倒するかもしれない。

 だから、ちょっと考えたのちには、カイエンの方はもう落ち着いていた。

「大公殿下、申し訳ございません。陛下のお戻りが遅いので、お迎えにきてくださいましたか」

 助け舟を出すように、事態収拾に動いたのは、女官長のコンスタンサだった。老練な彼女には、細かいところは分からずとも、カイエンがオドザヤの後を追ってきたところから派生した事態だろう、ということは想像出来たに違いない。

「ああ、そうだ。そうしたら、なんだか連鎖的に、皇子様王子様方の御不審を買ってしまったようで」

「こんな時間に、一人で飛び出して行ったきり、なかなか戻ってこないから、心配してね」

 カイエンが答えると、横でエルネストも、さっきのトリスタンへ話した時の、あの柄の悪さはどこへやったのかと聞きたくなるような上品な声でもっともらしく答えている。

 コンスタンサも、オドザヤも、カイエンとエルネストのシイナドラドでのあれこれの詳細は知らないだろう。

 だが、カイエンが帰国後すぐに病床について、しばらく回復しなかったこと、その後、結婚の披露もしない、数人が立ち会っただけの異様な結婚式を挙げたことは知っているはずだ。

 その前に、ヴァイロンとのことがあったことも分かっているから、この「大公夫妻」が普通の夫婦とは違うことも意識しているはずだった。

「そうでしたの。ご迷惑をおかけしてしまったわ。コンスタンサ、急ぎましょう。舞踏会の主催者である私が長く中座してしまって、皆に心配をかけてしまうわ」

 オドザヤがそう言って歩き始める。カイエンとエルネストはそっと道を開けた。トリスタンもそれに従ったのは言うまでもない。オドザヤは至高の存在、皇帝なのだ。

 先導するコンスタンサ、それについで、堂々とした歩きかたで進んで行くオドザヤ。

 カイエンはさりげなく、エルネストの腕から逃れて、杖を突き突き、長い裳裾に注意しながら後を行く。引っ張っている裾のぶん、間を開けなければ歩けないから、エルネストはしばらく待っていた。

 エルネストに、聞こえるか聞こえないかという微妙な声音で、トリスタンが言葉をかけたのはその時だった。

「大公殿下には、ご結婚前から愛人がおられ、政略結婚のご夫君とは不仲、とうかがっておりましたが、実態はもっと複雑なご様子ですね」

 トリスタンはもうとっくに、立ち直っていたらしい。その言葉は、エルネストへの嫌味とも牽制とも聞き取れた。目敏い彼は、夫の腕を取らず、不自由な足で一人で歩いて行くカイエンの様子から、もう何事かを察したのだろう。

 エルネストは、わざわざ、左側の真っ黒な一つだけの目を、トリスタンの飴細工か酒の瓶のガラスのような、人工的な質感の緑の目とがっきりと合わせた。エルネストはトリスタンよりも頭半分ほどは背が高い。

 トリスタンも踊りをあれだけの極めているだけあって、細身だが筋肉質な体つきだが、エルネストの方もなんで鍛えたのか、背が高くともひょろりとは見えない筋肉質な体つきだったから、そうすると、トリスタンに上から押さえつけるような圧迫感を与えた。

「複雑なのは、ご主人様の方だけじゃねえよ。俺様の方も複雑怪奇さ。さっき言っただろ? あんたみたいなきらきらしたお顔を見ると、そっちの方面の欲望が滾るんだ」

 これには、さずがのトリスタンも、眉をややしかめたが、口のへらない方へは影響しなかったらしい。

「……大公殿下のご夫君は、なかなかの役者でいらっしゃる」 

 エルネストにだけ聞こえる声でそう言ったトリスタンへ、エルネストは威圧するように上から目線で答えた。

「きらきらして、目にうるさいだけじゃなく、耳にもうるさい王子様だな。俺のは演技じゃねえよ。全部がマジだ。さっきのお前へのアレも、演技じゃ、な、い、ん、だよ」

 最後のところでは、エルネストはトリスタンのエメラルド色の絹地の上着の胸元、ちょうど緑水晶の襟飾りの下、真っ白なレースが途切れるあたりの胸元を、片手の手の指先で、つつーっと下から上へ撫でた。

「この辺りをうろつこうって言うんなら、せいぜい注意しな」

 そして、そのままカイエンの引く裳裾の後を歩いていくエルネストの、唇の中でだけ紡がれた、彼の独り言はもう、トリスタンにも聞こえなかった。

「くそ野郎め。俺がもう一生、触れられないかもしれないものに手を出しやがって。いつまでも涼しい顔でいられると思うなよ。ぎたぎたにやっつけてやるぜ」







 オドザヤが「青藍アスール・ウルトラマールの間」に戻ると、中では陽気な南方の楽曲に合わせて、群舞が繰り広げられていた。

 オドザヤが中座したのを見て、誰かが、彼女のいないことに気を向けにくいように選んだ演目なのだろう。音楽も踊りもこうした舞踏会の中で行われるものとしては、庶民的な色合いのものではあったが、こうしたもののほうが、社交界へ出たばかりの年頃の男女などには、参加しやすいものだ。貴族の中では地位の低い、広間の向こう側でたむろしている男爵や、一代限りの準男爵などにとっても同じだろう。

「……大丈夫? 心配しましたよ。なかなか戻らないから」

 オドザヤとともに戻ってきて、それぞれの場所に座ったカイエンの元へ、すぐにミルドラがやってきた。

 まさか、早々に廊下で迷って、オドザヤには全然追いつけませんでした、とは言えず、カイエンは曖昧な笑いを浮かべるしかなかった。

「伯母様、大丈夫です。もう、あの王子も気を持たせるような真似はしないでしょう」

 エルネストが変な圧をかけたから、とは言えず、カイエンはミルドラと共に、トリスタンの方へ目をやった。

 客人として与えられた、玉座に近い椅子に大人しく座った王子は、群舞に参加する様子はない。

 やがて。

 玉座のオドザヤと、国賓として座っているトリスタンの様子を見ていた、ザラ大将軍が侍従に合図するのが見えた。

「あらまあ、随分と無難な曲を選んだものね」

 しばらくして、前奏が始まったのは、緩やかで静かな曲だった。

 入江に寄せては返す波のような、だが、暖かい日差しが差し込むような曲。これはあまりにも有名なので、カイエンでさえ知っていた。春の花が咲き乱れる頃になると、街中でも流しの楽師が演奏することもある、古い古いもので、元は民謡だったものが、宮廷などでも演奏されるようになったのだと言う。

 曲名は「春のみぎわ」。

 カイエンが聞いたのは、街中であったのだろうが、さすがは皇宮で、リズムが街中で聞くものとは違っていた。

 すでに広間のあちこちで、踊りの相手を変え、次の相手を探して人々は動き出していた。

 その中、カイエンたちから刺さる視線に押されたわけでもあるまいが、トリスタンが椅子から腰を上げた。

 これで、行き先がオドザヤの玉座でなかったら、カイエンは、「エルネスト、行け!」と、狂犬をけしかけたかもしれなかった。

「陛下、どうか一曲、お相手をいただけませんでしょうか」

 トリスタンが、こればかりはけちのつけようのない、優雅な身振りでオドザヤの前で首を垂れる。

 すると、複雑に頭の横で編み込まれた、ザイオン風の長い髪から、青みがかった金髪の房が、天井のシャンデリアの光を反射しながらエメラルド色の上着の胸元へと流れていく。

 トリスタンの差し出した手へ、玉座から立ち上がり、上から手を載せるオドザヤ。

 鷹揚なその様子からは、先ほど、急に中座してしまった時の心揺れた様子は、毛ほども感じられない。外国からの国賓の願いを聞いてやる、という尊大さもまた、見られなかった。

 そこにあったのは、単純に言えば、「常に見られていることを意識しながら生きてきた」者だけが持つ、無意識の中の気高さだ。

 実際のところ、オドザヤの心がいま、揺れていないはずがない。

 だが、オドザヤは人々の視線が集まった途端に、揺れる心をすっぽりと何かで覆い隠したのだ。

 それは、子供の頃からの教育と、訓練によってしか、真には得られない性質ものだった。言葉にして言えば、帝王教育の一部だ。

 オドザヤが女帝として即位することは、二年前に立太子されてから決まったことだが、それまでの第一皇女としての教育のなかで、すでに身につけていたものなのだろう。

 それは、踊りの途中でミルドラに足を踏まれても、眉毛一つ動かさず、足が痛む様子も見せなかった、エルネストにも共通するものだ。もちろん、次期大公として養育されたカイエンにも、オドザヤほどではなくとも、備わっているものである。

「あれあれ、皇帝陛下は、なんともご立派なご様子だ。……なんだかんだ言って、前の皇帝さんは、娘をちゃんとした皇女様に育てるのには成功してたみたいだな」

 カイエンの後ろに突っ立って見ている、エルネストの声を聞くまでもなく。

 カイエンもその時、思い出したのは今は亡き先帝サウルの、気難しい顔だった。そして、次に思い出したのは、まだ輝かしいハウヤ帝国の皇后として宮廷に君臨していた頃の、アイーシャの姿でもあった。

 サウルはどんな時でも、あの気難しい仮面を外すことはなかった。今際いまわの際に、カイエンに向かってあの言葉を口にするまで、彼はカイエンにも冷淡そのものの態度でしか接しなかった。

(……カイエン、そなたには酷いことをしたな)

 あの言葉だけが、サウル本人、皇帝ではない一人の父親、一人の伯父としての言葉だったのだろう。

 だが、アイーシャは違っていた。

 サウルも、オドザヤも、生まれながらの帝王家の皇子皇女だ。だが、庶民の、小役人の娘であったアイーシャには、いくら結婚後に皇后としての教育を施されたとは言え、かわいそうだが、努力だけでは持ち得ることのないものだったのだ。

 それは生まれの卑しさをいうのではない。生まれてすぐに始められた教育と、もう十代後半になってから始められたものとでは、その定着が違ってしまうということだ。

「そうだな。伯父上はまさに、このハウヤ帝国の歴史でも特筆すべき、偉大なる帝王であられた」

 カイエンは広間の中央へ出ていく、オドザヤとトリスタンの背中を見ながら答えた。

 彼女やエルネスト、宰相のサヴォナローラなどが見送る二人の背中は、目に見えない板でも入っているかのように、まっすぐに伸びている。

 海の青と、エメラルド色の衣装をまとう、色合いの違った、だが王冠のように光り輝く髪を戴いた二人が、広間の中央に立つ。その様子は、まさに一幅の絵画のようで、今の国際情勢が今のようでなく平和で、相手がザイオンの思惑を背負ったあの怪しい王子(トリスタン)でさえなかったら、帝国の繁栄を象徴する光景に見えたことだろう。

 二人の後に、ミルドラと大将軍のエミリオ・ザラ、バンデラス公爵家のフランセスクと、ミルドラの次女バルバラ達が続く。前バンデラス公爵夫人のサンドラの手を取って出て来たのは、ザラ子爵ヴィクトルだ。

 第三妾妃のマグダレーナと一緒なのは、彼女の最初の降嫁先の次男、ベアトリアの外交官、モンテサント伯爵ナザリオ。

 オドザヤからは遠い位置であったが、オドザヤの即位前に元老院第議会を召集させた、反女帝派のモリーナ侯爵がその夫人と共に広間に出てくるのも見えた。ここで踊らねば、痛くない腹を探られるとでも思ったのだろうか。

 カイエンには見えなかったが、皇宮前広場プラサ・マジョール広場の事件で責任を追求され、減俸処分となったモンドラゴン子爵などもどこかにいるのだろうか。

「ああ。踊れない私はともかく、クリストラ公爵や、フランコ公爵がいないことが、こんな催しでも気になるもだな。……今のこの国の状況は、この舞踏会にも影を落としている」

 カイエンは豪華絢爛たる「青藍アスール・ウルトラマールの間」を覆い尽くす、貴族達の姿を、天井の上から俯瞰しているような気がした。

 やがて、人々の位置が決まると、楽団は前奏から緩やかに曲を進めていく。

 ざっ、と一斉に動く、色とりどりの夜会服姿の中、カイエンはやはり、オドザヤとトリスタンの様子が気になって、ずっと目で追っていた。

 オドザヤ達のすぐ近くで舞っている、ミルドラやザラ大将軍なども、カイエンと心は同じようで、カイエンはあの様子なら大丈夫だろうと思うことにした。



 オドザヤとトリスタンは、その後、もう二曲を共に踊った後、静かに玉座の方へと戻ってきた。

 そろそろ、時刻もとうに夜半を過ぎ、本来ならば舞踏会も御開きとなる時刻であったが、この日だけは違っていた。

 今日は十二月三十一日。

 一年最後の日なのである。

 今夜の舞踏会は、新年をことほぐという、例年の「新年の宴」も兼ねていたからだ。

 この時代にはもう、精巧な螺子ねじ巻き式の時計が、上流階級には出回っていたが、その時計通りに新年を祝う習慣はなかった。

 新年は、朝日の昇るのと共に訪れる、と考える者が多く、街中でも宮中でも、新年を高らかに祝うのは夜明けと共にするのが通例であった。

 広間には、新年の訪れまで踊り続けようという強者もいただろうが、多くの人々はそろそろ疲れを感じ始めていた。

 広間の中では、楽団が途切れることなく曲を奏でていたが、壁際のテーブルに置かれた軽食を食べたり、椅子に座って侍従の運ぶ飲み物を受け取ったりする人々も出始めていた。

 オドザヤは、ミルドラとデボラ、それにサンドラを中心にした、上流の中でも上流の貴婦人たちの輪に入って話し込んでいる。

 一方で、トリスタンの方は、ザイオンの大使である伯爵と一緒に、あちこちへと挨拶回りのようだ。

「何か、取ってきてやろう」

 自分も暇を持て余したのか、エルネストがカイエンのそばを離れると、入れ替わるようにそばに来たのは、宰相のサヴォナローラと、内閣大学士のパコ・ギジェンの、神官二人だ。

「なんとか、穏便に終わりそうですね」

 そう声をかけて来た、サヴォナローラも、パコも、なんだか二人ともに疲れた顔つきなのは、神官である彼らには、こんな舞踏会などという催しは、ただ突っ立っているだけの退屈極まるものでしかないからだろう。その点では、踊れないカイエンも同じである。

「舞台裏じゃ、そうでもなかったけどな」

 カイエンがぼそりとそう言うと、サヴォナローラは広間に背を向け、カイエンの方にだけ見えるようにして、眉を顰めた。

「陛下が中座された後のことですね。やはり、裏で何かあったのですね。殿下の後をトリスタン王子が追うように出て行ったので……まあ、その後にエルネスト皇子殿下が続いたので、大丈夫だろうとは思っていましたが」

 サヴォナローラは「穏便に」と言いはしたが、それは戻って来たオドザヤの様子がしっかりしていていたから、と言う意味だったらしい。

 それにしても、サヴォナローラがエルネストの行動を指して、「大丈夫だろう」などと言う日が来るとは、と、カイエンは感慨深く思った。

「うん。あの踊り子王子、ただ陛下をたぶらかして、皇配に収まろうというだけじゃないようだ。どう言う頭だか分からないが、私にもちょっかいを出して来た。私と陛下の間をかき回したいのかもな。忌々しい!」

 カイエンがそう言って、さっきのトリスタンの狼藉を思い出して、口を尖らせると、サヴォナローラの横で、真面目なパコがきっと顔を上げた。

「ちょ、ちょっかいって……まさか」

「大丈夫だよ、パコ。陛下だったら大変だったかもしれないけれど、私でよかった。それにすぐにエルネストが……」

 カイエンはここであの、恐ろしい情景を思い出して、口ごもってしまった。

「……あの、踊り子王子も絶句して、しばらく動けなくなるような『お返し』をしてたから」

 言葉でアレを、それもお堅い神官二人に説明する気力がなかったので、カイエンの言葉はかなり曖昧なものとなったが、パコはともかく、サヴォナローラにはなんとなく察することが出来たらしい。

 真っ青な目が、一瞬だけ、面白そうにきらめいた。表情も意地悪そうに変わったように見えるのは、見間違いではないだろう。

「やっとあの方も、殿下のお役に立つようになって来たと言うことですね。殿下と大公宮の皆様の、再教育が効いて来たようで、めでたいことです。万が一、あの踊り子王子殿下を皇配としてお迎えすることになりましたら、再教育の方法をお聞きして、この皇宮でも実施せねばなりません」

 カイエンもパコも、最初は冗談だと思って聞いていたが、どうもサヴォナローラは本気らしい。

 その時、向こうから両手にグラスと小皿を持った、エルネストが戻って来るのが見えたので、賢しいサヴォナローラは表情を元に戻し、しっかりと口も閉じた。

「おい、お前、俺の悪口言ってただろう?」

 器用に指の長い大きな手で持って来たグラスのうち、赤ワインが入っている方をカイエンに差し出しながら、エルネストはサヴォナローラを薄ら笑いを浮かべながら見た。完全に悪人の顔である。

 カイエンはいつも驚くのだが、エルネストの、相手を見てくるくる変わる態度と表情は、それはそれは見事なものだ。まあ、だから始末が悪いのだが。

「お上品な皇宮じゃ、安酒は出て来ねえな」

 いつもは砂糖黍から作られる、安酒のロンがお好みの皇子様は、不満そうに琥珀色の蒸留酒のグラスをあおる。

 同時に、酒と反対側の手に持って来た皿を、座ったままのカイエンの夜会服の膝に置いた。

「ああ、ありがとう」

 礼を言わないわけにはいかないので、カイエンはそう言うと、皿の上を見た。

 舞踏会だから、手袋をした手でも食べやすい軽食しか用意されていないが、小麦のクラッカーの上に海産物が乗せられたものや、小さく切られ、楊枝を刺したハムや肉、魚に海老、それに果物などは、時間が経つと、後から新しいものに変えられているので、新鮮なままだ。カイエンは遠慮なくいただくことにした。

 しばらく社交の時間が続き、疲れを回復した者たち、それは多くが若い貴族の子息や令嬢たちだったが、は、広間に戻り、華やかな踊りが続いた。音楽も軽いテンポのものに変わっている。

「そろそろでございます」

 玉座に戻って来たオドザヤへ、女官長のコンスタンサが囁いたのは、東の空が黒から紺紫の色合いに変わって来る頃合いだった。

 海神宮は、皇宮の建っている丘の上でも、一番高い場所に位置しており、西は西の海を一望し、東は遠くパナメリゴ街道の向こう、螺旋帝国のある方向まで、遠く大陸を見渡すことができた。

 その中でも、海神宮の一番奥に位置する「青藍アスール・ウルトラマールの間」は、一番東側に当たっており、東側の窓を開ければ、大陸に昇る日の出を見ることが出来るのだ。

 ちょうど鳴っていた曲が終わるのを待って、オドザヤが立ち上がると、広間の人々は波が引くように玉座の方を向いて静止した。

 侍従たちが、広間の東側の窓のカーテンを次々に開いていく。他の侍従たちは、広間のシャンデリアの鎖を引いて、高い天井の方へ押し上げた。

 窓の外では、他の侍従たちが、庭に焚かれていた篝火を消火する。すべてが、東から昇って来る朝日を神秘的に見せるためであった。

 やがて、紺紫から青紫へ、青紫から紫へと曙光が明け染めて来るとともに、オドザヤは厳かに、彼女の治世二年目の始まりを宣したのである。

 ハーマポスタールの街中では花火が鳴り響き、神殿からは鐘の音が聞こえ、人々は新しい年の始まりを素直に、素朴に祝おうとしていた。






 オドザヤが新年、皇帝オドザヤ二年を宣すると同時に、舞踏会はお開きとなった。

 人々は地位の高いものから、広間を後にした。オドザヤと三人の妾妃たちに続いて、エルネストとカイエンが下がって来ると、そこには、女官長のコンスタンサが待っていた。

 トリスタンは国賓で、言わば客だから、下がっていく出口が違っていて、ここにはいない。

「大公殿下。陛下が、よろしければお部屋にてお茶と朝食をご一緒していとの仰せです」

 カイエンは、ちょっとびっくりした。オドザヤも疲れているだろうし、今日、カイエンと話したいなどと言い出すとは思ってもいなかったのだ。

 エルネストや、そこへ娘たちを連れて下がって来たミルドラは、ちょっとだけカイエンの灰色の目を「今度はヘマするなよ」とでも言うように見ると、すぐに何も言わずに海神宮の外へ続く扉の方へ向かって行ってしまう。

 他の貴族たちと、皇帝家の血族、家族である彼らの出口は違うので、ミルドラの後に続く者はない。

「わかった」

 カイエンはエルネストに、「シーヴを待たせておくように」と頼んだ。カイエンの護衛騎士のシーヴと、エルネストの侍従のヘルマンはずっとこの皇宮の控え室で待っているはずだ。もっとも、これは多くの貴族たちも皆、同じである。

 カイエンは、コンスタンサに連れられて、海神宮から、オドザヤの住む皇帝の宮へと回廊を歩いた。

 こつこつと音を立てる杖の音と、二人の靴音だけが廊下を響く。カイエンはもうそろそろ疲れ切って、足も動かないし、眠くなりつつもあったが、あくびをぐっと堪えた。ここであくびなどしたら、大公殿下失格である。

 この頃、カイエンは何度かオドザヤと、彼女の部屋で食事をともにしている。だが、今日は朝日が昇ってばかりの早朝だった。

 コンスタンサは、カイエンとオドザヤを居間のソファに並んで座らせた。ソファは三人がけで、それも大振りのものだったので、並んで座っても程よい空間があり、体が密着するようなことはなかった。

 それから、後から来た侍女から、お茶とパンと果物、それに軽くて柔らかい卵料理などの載った盆を受け取り、それらをテーブルに並べると、コンスタンサは静かに礼をして下がって行ってしまった。

 カイエンとオドザヤが、オドザヤの居間で二人きりになった時。

 もう、新年の太陽は暁の青紫から赤紫、暗い赤から深いオレンジ、そして曙の黄金の光を経て、薄暗い冬の青空へと昇り切っていた。

「エルネスト様は、お姉様を大切になさっているようですね」

 いきなり、口を開いたオドザヤがそんなことを言ったので、紅茶のカップを取り上げようとしていたカイエンは、がちゃん、と音を立ててしまった。

「ええ? どうして、どうしてそんな……」

(どうしていきなり、そんな話になるの)

 カイエンは焦ったが、すぐにオドザヤの言葉の理由には思い当たった。中座したオドザヤと広間の外の廊下で会ったとき、よろめいたカイエンをエルネストが支えるようにしていたのに気が付いたのだろう。

「フロレンティーノの誕生日の時も、リリをかわいがっておられるご様子に見えましたわ。お姉様には……あの、もう他に愛しておられる方がおいでなのは知っています。でも、その方もエルネスト様も、大公宮でお暮らしなのでしょう?」

「そ、それはそうですが。いや、でも、あの」

 カイエンはこんな話は、オドザヤとでなくともしたことがなかったので、あわあわと胸の前で手をもみ絞るしかない。

 だが、カイエンにはありがたいことに、オドザヤの本当に話したいことはこれではなかった。

「私、お姉様、お姉様が羨ましいわ。二つしか違わないのに、すごく大人でいらして。男の方の前でも、落ち着いて余裕があって!」

 カイエンは、なんとも答えようがなく、黙って聞いているしかなかった。

 オドザヤは、すぐに話の核心へと入って来た。

「お姉様、私、ちゃんとわかっているんです」

「えっ?」

「あの方を……大公宮であの方の踊りを見た時から、自分の頭がおかしくなってしまったのは、きっとあの方に惹かれたからだと、ちゃんと分かってるんです。そして、ザイオンから縁談話が来て、その後、あの方が国を出奔したらしい、探してくれ、とザイオン大使が行って来た時に、自分が言った言葉も! ちゃんと、ちゃんと覚えているんです」

(なんてこと。本当に馬鹿にしているわ。いや! そんな、訳の分からない王子との縁談なんて、気持ち悪い! 誰だってそんなお話、お断りしたくなるはずだわ。どうしてザイオンは、私がそんな縁談をのむと思うの)

 オドザヤは青ざめた顔を俯けると、黄金色の髪が、はらはらと散っている白い額を、大理石で出来ているような指先で抑えた。

「そんな訳の分からない王子との縁談なんて、気持ち悪いって、私、そう言いましたわ。お姉様も覚えていらっしゃるでしょう?」

 カイエンは黙ったまま、大人しく顎を引いた。確かに、しっかりと覚えていた。

「なのに、あの方のあの踊り……リリエンスールの名前にちなんだ、百合の花咲く谷の妖精王の踊り、でしたわね。お衣装も何もなくて、音楽もなくて拍子だけ、それなのに踊っているあの方の周りには、真っ白な百合の花が咲き乱れる、妖精たちの楽園が、はっきりと見えるようでした。あれを、あの方の手や足が、自由にはばたいて作り出した夢のような世界を見せられて。それが終わった時に、ふっと微笑まれたお顔を見た途端に……」

 オドザヤは言葉を切った。

「あの方、本当にきれいなお顔をなさっていますわね。お姉様や、エルネスト様も、お父様や叔母様ミルドラに似てらして、神殿の神々のように整ったお顔でいらっしゃるけれど、あの方の美しさは全然、別」

 カイエンは心の中で唸った。

 顔や姿の美しさで言えば、まずは第一にあげられるべきなのは、今、そんなことを話している当人、オドザヤ自身なのに。

 トリスタンはもちろん、整った華やかな容姿の男だが、惜しいかな、彼の美貌にはどこか軽いところがある。人間臭い、性格の小狡さがちらりちらりとほの視えて、せっかくの美貌を損なっている。

 だが、エルネストにも言えることだが、そうした「人間らしさ」は見方を変えれば、物言わぬ神像の美しさとはまったく違う次元で、人間的な魅力としてその容貌を作り上げるものともなり得るものだ。

 だが、オドザヤの場合にはその存在自身に未だ曇りがない。それが、彼女の人生を通じて存続するものかどうかは分からない。だが、現実として彼女は「この世離れした」美貌を誇っているのだ。

「そうでしょうか。私もエルネストも、中身は神殿の神様とは大違いですよ。生臭い現実にどっぷり浸かって、そのおりに塗れて捻れている。地の顔はこのハウヤ帝国皇帝家、いいえ、シイナドラド所縁のつまらない顔立ちですが、もうアストロナータ神のような顔とは言えないでしょう。……その点では、あのトリスタン王子と同じです」

 カイエンがそう答えると、オドザヤの、それまでぼうっと夢見るような空気をまとっていた、琥珀色の目がすうっと金茶色の渦が集まるようにはっきりとした。

「同じ?」

 カイエンは、苦虫を噛み殺したような顔をしていただろう。

「ええ。これは私の想像ですが、トリスタン王子の踊りがあのように美しく、心揺さぶるものなのと、王子本人の美しさとは、全く別のものなのです。こんなこと、言いたくはないですが、多分あの王子も、人間として私やエルネストのように、もう取り返しようもなく薄汚れた部分があるのです。だって、もう二十歳をすぎた大人なんですからね。ですが、あの王子にはあの踊りがある。あの踊りの中でだけは、トリスタン王子は自分自身以外の存在の……なんと言えばいいのかな、姿形を写し取って、それになりきることが出来るのでしょう」

 オドザヤは、ぽかんとした顔で聞いていた。

「陛下が惹かれたのは、その瞬間なのでしょう。トリスタン王子が『百合の谷の妖精王』から、本来の彼に戻ろうとしていた、その瞬間の笑顔。それに引き込まれておしまいになったのですよ」

 カイエンは、自分が話している内容に、話しながら自分が驚いていた。こんな解釈は、この部屋で、オドザヤの言葉を聞くまでは、考え付きもしていなかったことであったからだ。

 自分の台詞でありながら、カイエンは「まるでマテオ・ソーサの話すことのようだ」とさえ思った。もしかしたら彼の日頃の薫陶が、カイエンの中で何かを変えたのかもしれなかった。

「そう、なの、かも知れません。いいえ、きっとそうなのでしょう」

 オドザヤは、額に当てていた指先を離し、そっと膝の上へ戻した。

「あれからの私は、自分で自分が抑えられませんでした。宰相やお姉様がびっくりすることは分かっていたのに、国賓歓迎の舞踏会を開こう、なんて言い出して。きっと、宰相もお姉様も、いい顔はなさらない。そんな事を言い出したら、私があの方に惹かれていることが露見してしまう。そうまでしてあの方に会いたいのか、あわよくば手を取って踊りたいと思っているのか、と、呆れられるだろう、と分かっていたのです。なのに、愚かな自分を止める事が出来なくて」

 カイエンは、オドザヤの横で唇を噛んだ。ミルドラの言葉が頭の中でこだまする。

(あなたは自分から男性に、心ときめかせたことがまだないのよね、カイエン)

 ああ、その通りだ。

 カイエンには、今、オドザヤが言ったような心の動きには覚えがなかった。

 だから、その時のカイエンはそれ以上の言葉を繋ぐことはできなかった。だが、彼女の人生の上へも、それは落ちかかってくるはずであった。

 そして、それは彼女が想像するよりも、近い未来のことだったのである。



 実は、エルネストにとっては、トリスタンへのあれは「間接キス」なのかも……。うれしいのかどうかは知りませんが。。。

 「第五話 不死の王」は、この「楽園追放 1 」と次の「2」で終了の予定です。

 つまり、次回で第五話を畳み、次の第六話へつなげていけたら、と思っております。

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