ザイオンの王子を追え
「ザイオンの王子サマ、見つかりましたよぉ」
カイエンの元へ、その報告が入ったのは、フロレンティーノ皇子の誕生日の宴から、まだ一週間も経たない日のことだった。
その頃には、カスティージョの屋敷に押しかけた、細工師ギルドの連中への聞き取りも終わり、将軍位を剥奪される前に自ら辞する旨の辞表を書いたカスティージョからも、聞くべきことは聞き終わっていた。
結局、細工師たちの中に扇動者が紛れ込んでいた、ということはなかった。
あの場に集まっていた細工師ギルドの人々は全員、細工師ギルドの名簿と突き合わされ、ギルド構成員またはその家族、弟子であることが照合できたのだ。
貴族のお得意様の御夫人達から、「カスティージョが細工師ギルドを狙っている」と吹き込まれた職人からは、くだんのお得意様の名前も、いちいち聞き取り、皇宮のオドザヤやサヴォナローラの元へ名簿も提出していた。
さすがに、貴族の奥様たちに、大公軍団から聞き取りに行くわけにはいかなかったからだ。行ったとしても、本当のことを話してくれるとは限らない。だから、こちらの方は、面倒だが、皇帝のオドザヤが宰相サヴォナローラと共に、一人一人、呼び出して聞くこととなっていた。
細工師ギルドの連中は、ギルド長とその下の二、三人を残して、一応保釈され、カスティージョ親子へも皇帝のオドザヤから蟄居の命が下り、カスティージョは荒らされた屋敷に戻っていた。
一方、北のラ・フランカへは、サヴォナローラからの返信を持って、フランコ公爵家とサウリオアルマの使者が戻った。
それは、泥炭加工ギルドへ、「アルタマキア皇女の奪還に成功したら、女王イローナを退け、スキュラ国内を安堵して泥炭の輸入を再開する。一日も早く、アルタマキア皇女の居場所を確定し、証拠とともに持って来るように」と伝え、様子を見るように、とのオドザヤからの返信を持たされてのことだった。
これ以上の指示を今出すことはできず、不測の事態にはフランコ公爵と、サウリオアルマのコルテス将軍に対応してもらう他にはなかった。
この事態に関しては、ハーマポスタールから、北海へ海軍を出すことも検討された。だが、南はともかく、北への航路が安定していないこと。そして、ハウヤ帝国の海軍は、平民出身の叩き上げの船乗りの集まりであり、言って見れば傭兵部隊に等しいもので、未だ命令系統に問題があることから見送らざるを得なかった。
先帝サウルの時に新設された海軍だったが、船の確保と、船乗りを雇ったところまでは進んだものの、その先はまだまだで、艦隊としての訓練も進んではいなかった。軍船の登録が終わり、船乗りを募集し、各船の船長は任命されたが、艦隊として出ていけるような編成は出来ていなかったのだ。
これは、海の脅威と言えば、もっぱら南方のラ・ウニオン海でのことであり、それではバンデラス公爵家が問題解決に当たっていたからである。さすがのサウルも、ハーマポスタールから海軍を出さねばならない事態が、こんなに早く到来するとまでは予測できなかったのだろう。
サヴォナローラは海軍の編成に取掛るべく、バンデラス公爵からも話を聞いていた。だが、オドザヤの即位以降に押し寄せて来たあれこれへの対処に追われ、海軍に関しては手付かずと言ってもいい状況だった。
そんな中、ザイオンの王子の件でわざわざ、軍団長のイリヤが、大公宮表の、カイエンの執務室まで伝えに来たのだ。
もう、日の暮れた時間で、カイエンはそろそろ奥へ戻ろうか、と思っていたところだった。
「カマラが皇宮で写して来た肖像画、結構、本物に似てましたよぅ。手配に回したのも、銅版画絵師に版を作らせて、印刷に回した物でしたから、いい線いってました。銅版画絵師は皇帝陛下の御即位の時に読売りが使った、新進気鋭のやつに頼みましたから、白黒の線画でも、顔立ちの特徴なんかはよく出来てましたしね」
カイエンは、本物の肖像画も、カマラの模写して来た絵も、手配書として回した銅版画も見ている。
絵心のあるカイエンが見ても、手配書の銅版画は素晴らしい出来だった。銅版画だから色は乗っていないが、白黒の濃淡でも、目鼻立だけでなく、髪の色の具合やなんかも上手に処理されていた。
カマラは王子三人の三枚の肖像画を模写して来た。その中の第三王子トリスタンのものを、今回は、増刷して大公軍団治安維持部隊の末端までの各署に配ったのだ。そして、見つけても確保はせず、追跡しながら報告だけを上げるように命令していた。
それにしても、今のイリヤの言葉は、なんだかおかしかった。
「カマラの模写して来た肖像画が、結構似ていた、と言うところを見ると、お前まさか、もう自分で確かめに行ったのか?」
カイエンがそう聞くと、イリヤはふふん、と得意そうに鼻をならした。
そして、カイエンの執務机の前の椅子に、許可を得ることもなく座りこむ。カイエンの横で、それを黙って見ていたシーヴが、小さくため息をついた。
「えーえ。ザイオンがらみでは、あの奇術団コンチャイテラや、皆殺しの殺人鬼に振り回されていますからねえ。今度こそは先手を打ってやらきゃあ、と、すぐに走って行って、物陰から覗き見して確認しましたよ。カマラが模写して来たのには、色もついてました。俺はそいつも見ていますからね。間違い無いでしょう」
「イリヤさん」
ここで、カイエンが口を開くよりも前に、シーヴが口を出して来た。
「……それより先に、言うことがあるでしょう。話の順番がおかしいですよ」
カイエンも、シーヴの言いたいことは分かった。
「自ら確認して来たのは結構だが、その確認に行った場所を先に報告するべきだろう。……いったいどこなんだ」
カイエンがそう聞くと、イリヤは「よく聞いてくれました」とばかりに身を乗り出した。
「ははっ。それがね、実は、王子様を見つけたのは手配書の手柄じゃなかったんですよぅ。……あの、カマラが俺のところに来て、『絵の人がいる。間違いない』って言ったんです」
「カマラが?」
カイエンとシーヴは異口同音にそう言い、言ってから顔を見合わせた。
“メモリア”カマラは、その「一度見たものは忘れず、いつでも克明なスケッチにできる」という特殊能力を有する代わりに、普通に人と話せない。そして、何でだかはわからないがイリヤはカマラから話を引き出すのが上手く、カマラもイリヤの言うことはよく聞くのだ。
そのことは、カイエンもシーヴも、よく知っている。
「カマラの家のすぐ近くに、舞踏の女神テルプシコーラの神殿があるんですが、そこで見たって言うんですよ」
「お忍びで入国した、ザイオンの第三王子が、テルプシコーラ神殿に?」
カイエンの声には、不審をただす響きがこもっていただろう。
「ええ。それも、お参りじゃなくって、神殿にある奉納舞台で踊っていた踊り子がそうだ、って言うんです。カマラは仕事に出る朝と、家に戻る夕方、神殿の前を通るんだそうです。特に夕方は時間があるから、上手なのがいると、中に入って見ていく事もあるんだそうで」
「踊り子……」
イリヤは「踊り子」と言う言葉を女性名詞で言った。
ということは、その疑惑の踊り子は、女の踊り子の姿をしているということになる。
カイエンは頭の中で、オドザヤの部屋で見た、ザイオンの王子たちの肖像画を思い出そうとした。第一、第二王子には髭があったが、第三王子にはなかった。線も、上の二人よりは細い感じに見えた。だが、それにしても。
「テルプシコーラ神殿は、門を潜ると、その先がすぐに半円形の奉納舞台になっているんです。大理石で出来ていて、階段状の観客席もある、なかなか立派なものです。そこに、夕方、毎日のように来ている踊り子が、あの絵の人物で間違いない、って言うんですよ。それもね、毎回、衣装が違っているんだそうです。それでもカマラは、自分には同一人物だと分かるんだって言うんですよ」
「……それで、それが間違いなく第三王子だったと?」
カイエンが疑わしそうに聞くと、イリヤは一応は、疑うのももっともだ、という顔をした。
「ええ。俺も一度じゃ心配だったんで、一昨日と、今日と二回、見に行って来たんです。間違いなかった場合に追跡させるために、裏の影使いのシモンと、帝都防衛部隊のロシーオに付いて来てもらってね。確かに、衣装も顔の化粧も全然違ってました。それが、金のかかった衣装なんです。そこらの、劇場専属でもなく、有名でもない、流しの踊り子なんかが着られるもんじゃない感じの。だからまあ、同一人物で間違いないでしょう。……遠くからでも見える、大きな緑色の目が、ちょっと見ない色合いでね。それに、よく見れば女にしちゃあ、踊りが力強すぎるんです。踊りの途中で何度も飛ぶんですけど、その飛ぶ時の力の入り方や跳躍力なんかもね」
緑色の目。
それは、あの肖像画を見たときに、カイエンが注目した部分と同じである。
「それで、その踊りは上手いのか?」
カイエンが聞くと、イリヤはよくぞ聞いてくれました、という顔をした。
「それですよ。殿下はまだ、見たことがないようですけど、あのテルプシコーラ神殿の奉納舞台ってのは、厳しいところでね。踊り子を囲ってる劇場やなんかの支配人が、新人を探しに来てたりするんです。見に来ている一般人の連中も目が肥えてる。なんで、下手くそだと、野次り倒されて二度と入ってこられない。そこで毎日のように、それも、なりを変えてやって来て、違う踊りを踊って、拍手されて出て行くんだってぇんです。楽師と一緒の踊り子も多い中で、音楽もなしで踊るんですよぉ。下手なら見られたもんじゃない。……そんなわけで、驚くほど上手なもんでしたよ」
「それほど上手なのに、劇場の支配人は声をかけないのか?」
カイエンは当然の質問をした。そもそも、そんな場所へ来るのは、踊りに自信があって、声をかけられるのを期待している踊り子ばかりだろう。
「それですよ。それが変だから、俺はあいつが余計に怪しいと思うんです。そいつ、声をかけられてもなんか二言三言話して、すぐに出て行っちまったんです。それで、カマラに聞いてみたら、やつが見てた時も同じだったって。だから、二日目に俺は踊り子が出て行くのを見送ってから、神殿の外で声をかけた支配人らしい男に聞いてみたんです」
「支配人は、なんと?」
イリヤは急に真面目な顔になった。
「それがね、『自分の踊りが鈍らないように来ているだけだ。女神テルプシコーラにまだ、踊っていてもいい、と言ってもらうために来ているだけだから』って言って断ったんだそうです。それでね、『話し方に外国の訛りがなかったか』って聞いたら、それが大当たり。ね、おかしいでしょ。まあ、外見での判断半分、この返答半分で、間違いないと思いますよ」
カイエンはしばらく黙っていた。
ザイオンの第三王子。外交官を通さず、お忍びでハーマポスタールまでやって来た王子。それが、女の、踊り子の真似をしている。
そもそも、王子がどうしてそんなに踊りが上手いのか。踊りと言っても、さっきのイリヤの話では高く跳躍するような、激しく、難しい踊りが。
カイエンは足のことがあって、やったこともないが、宮廷で男女が組んで踊るものとは、全然違うものなのだろう。
「……シモンが追って行ったんだな? 今日中に戻ってくるか」
カイエンは確認した。
「抜かりはないはずですよぉ。影使いのシモンと一緒に動けるようなのは、うちには一人しかいないんで、そいつも一緒に追っかけさせてますし。まあそれ、帝都防衛部隊のロシーオ・アルバのことですけど」
「ロシーオか」
カイエンは納得した。ロシーオ・アルバは、カイエンの飼い猫のミモを連れて来た人物で、獣人の血が混ざっている。彼女自身は普通の人間として生まれたそうだが、猫のように身が軽い。息子のティグレが生まれて初めて、自分に獣人の血が入っていたことに思い至った、と言っていた。
彼女は、帝都防衛部隊員としては、得難い人材だ。
先日のカスティージョの屋敷での捕物でも、突入して郎党どもを抑え、怪我人を救護した。その上に、最後には屋根の上からロープを伝って、カスティージョの立てこもる部屋に飛び込み、窓際にいた、息子のホアキンを確保した功労者である。
その上に女性隊員だから、女性に対する心遣いも出来る。
「潜伏場所を突き止めたら、ロシーオが戻ることになってます」
「わかった」
カイエンはそう答えながら、もう次のことを考え始めていた。王子発見の件に関しては、あの常人とは違うものを、違う感覚で見ている、カマラが自分から言い出したことだ。それに、イリヤが見聞きして来た事も、いちいち、証左として当てはまっている。
と、すれば次は、見つけた「王子様」を捕まえるのか、泳がせておくのか、はたまた、ザイオンの外交官に知らせてやるべきか、ということになる。
「ロシーオが戻り次第、すぐに皇宮へ上がる。……ベニグノはいるか?」
カイエンが、大公宮表の侍従、ベニグノを呼ぶと、すぐに彼は扉を開けて入って来た。
「報告が上がり次第、私は皇宮へ参る。先に、向こうへ伝えておくように」
「承知致しました」
無駄口は一切言わずに下がっていく、ベニグノの背中を見ながら、カイエンが頭の中で思い描いていたのは、もちろん、あのオドザヤのところで見た、王子たちの肖像画だった。
「じゃあ、行きましょう。今日はリタはお休みだったわね。じゃあ、ブランカ、ルビー、お願いね」
同じ頃、皇帝のオドザヤはやや陰鬱な面持ちで、自分の執務室の椅子から立ち上がった。宰相のサヴォナローラが、複雑な顔つきで、だが恭しく頭を下げて見送る。
これからすることは、昼間のうちにすませるはずだった。
だが皇帝の、上がって来た書類を読み、裁可し、玉璽を押して、すぐに官吏が動けるようにする、煩雑な仕事を片付けた時には、もう暗くなりかかった時刻だったのだ。
黙ってついて来る、大公軍団派遣の二人の女性警護。オドザヤの先に立って、案内するのは女官長のコンスタンサだ。
この日、皇太后アイーシャは、後宮の皇后宮から、海神宮に近い「皇女宮」の一隅へと引越しを終えているはずだった。
「皇女宮はもともと、ご婚礼の決まった皇女が婚礼までの間、後宮から出て住むところでした。皇子宮の方も、ここ数代の皇帝陛下には、男のお子様が少なかった事もあり、あまり使われておりませんでした。それで、皇太后陛下のお部屋は、皇帝陛下が皇太女であらせられた時にお使いの、皇女宮のお部屋と致しました」
静々と、もう、ランプに火の入った廊下を歩いていくオドザヤを先導する、背が高く姿勢のいいコンスタンサが話しかける。
「そうね。他のお部屋は、最後にお使いになったのが、お父様やミルドラ叔母さま、それに……叔父様ですものね」
オドザヤは意識したわけでもなかったのだが、アルウィンの名前だけは口から出て来なかった。
オドザヤはほとんど、アルウィンと話した事もない。アルウィンが佯死して消えた時、彼女はまだ十三くらいだったし、そのころはアルウィンもカイエンも、あまり皇宮へは上がって来なくなっていたからだ。
「警備の方は、後宮の女騎士で間に合ったのかしら?」
コンスタンサは、ちょっと立ち止まると、オドザヤの方を振り返った。
「はい。もう、後宮はお三人の妾妃様たちのお部屋の警備だけでよくなりましたから。……妾妃の宮はまとまっておりますし。ですが、マグダレーナ様のところにはフロレンティーノ皇子殿下がいらっしゃいます。そこだけは今まで通り、厳重に致しております。……見張りも兼ねまして」
コンスタンサの言葉は、最後の方で急に剣呑な響きを帯びた。
「……マグダレーナ様のところへ来る、ベアトリアの外交官公邸や、国元からの連絡はすべて開封して調べているのよね?」
オドザヤの言葉も、コンスタンサにつられたわけでもないだろうが、すっと冷たい響きに変わる。
「それはもう。もとより、後宮に入られた方々への通信は、すべて検閲されるのが決まり。私も目を通しておりますし、マグダレーナ様宛のものに関しましては宰相府の内閣大学士、パコ・ギジェンのところへも回しております。……細工がないとも限りませんので」
これには、オドザヤは何も言わずにうなずいた。
その頃には、彼らはもう皇女宮にさしかかっていたからである。
「こちらでございます」
コンスタンサが案内していく先へ足を運ぶと、広い中庭をぐるりと囲む、大理石の広い回廊に出る。この回廊の向こう側が皇子宮で、手前が皇女宮になっている。二つの間には鉄製の囲いが設けられ、そこで中庭も分けられている。
歴代の皇帝の皇子皇女には、母親の違う兄弟も多かったから、その囲いに設けられた鉄扉には、番人が立っているのが普通だったのだという。
それでも、あの醜聞として読売りに流された、サウルとミルドラの、若い日の過ちは起きてしまったのだったが。まあ、彼らの場合には同じ皇后ファナ出生の兄妹だったから、周りもまさか、と油断していたことだろう。
だが今、皇子宮の方はがらんどうなので、中庭を無粋に分け隔てている鉄の格子や鉄扉の前に、番人はいない。
いるのは警備の女騎士たちで、彼女たちは皇女宮の入り口から続く、要所要所に立ち番をしていた。
コンスタンサに先導されて、皇女宮に入っていくと、すぐに、オドザヤも見覚えがあるアイーシャの侍女が迎えに出て来た。それは、アイーシャが一番近くで召し使っている、彼女の実家の従姉妹である、ジョランダ・オスナではない。ジョランダはアイーシャのそばを離れないのだろう。
「……」
オドザヤたちも、迎えた侍女も言葉を発せぬまま、彼女らはアイーシャの新しい住処へ入っていった。
そこは、今日までアイーシャがいた、後宮の皇后宮に比べれば、部屋自体がどれも狭く、そして壁や床のしつらえも地味だった。もっとも、皇后宮の方はアイーシャの、豪華で派手な物好きの好みに合わせ、特別に金をかけて整えられたものだったから、比べても仕方がなかっただろう。
地味ではあったが、壁紙の色も明るく、木の床の木組みも真新しい色で、鏡のように光っている。オドザヤが皇太女として住むに当たって、手を入れたものだったから、オドザヤの警護についてきた、ブランカやルビーは感心しているようだ。
「こちらが、皇太后陛下のご寝室でございます」
侍女がそう言って、廊下からいくつかの控えの間や、居間を通過して連れてきたのは、重厚な一枚板の、観音開きの扉の前だった。
「ここで待っていてちょうだい」
オドザヤは、ブランカとルビーにそう言って、黒い大公軍団の制服姿の彼女たちは、控えの間に残した。もう、今のアイーシャには分かりはしないが、彼女は大公軍団の黒い制服をひどく嫌っていたのだ。
オドザヤと、女官長のコンスタンサが入っていくと、明るい空色に小花を散らした壁紙に囲まれた寝室の真ん中に、天蓋付きの寝台が据えられているのが見えてきた。
入り口の反対側には、中庭に出られる、南向きの大窓。もう十一月のこととて、そこからは花の一つも見えない。だが、日中は恐らく日が入って暖かいだろう。
寝台には、アイーシャの部屋から持ってきたのだろう、派手な濃い薔薇色のカーテンが掛けられ、同じ色で合わせた寝具が使われていた。
それが、清らかな若い印象の部屋の中で、ひどく浮き上がって見えた。
「お母様……、皇太后陛下には、お変わりはありませんか? お部屋を変わられてからは?」
オドザヤは、すくむ心を叱咤するように、横たわるアイーシャの枕元まで歩いた。
オドザヤが立ったのと反対の側には、醜く、引き攣れたような表情のジョランダ・オスナが首を垂れていた。オドザヤは彼女に質問をしたのだが、ジョランダは答えようともしない。
薔薇色の枕の上に載った、アイーシャの頭はひどく小さく見えた。今は薬が効いているのか、眠っているが、その眼窩は落ち窪み、頬はこけ、薔薇色だった頬は、ちょっとカイエンを思い出させるような土気色に干からびていた。
もっとも、この生ける木乃伊のような顔と比べるのは、いかにカイエンの顔色が良くなくとも、気の毒なことだっただろう。
オドザヤと同じ、黄金色「だった」髪は艶を失い、麦の穂のように荒れていた。そもそも、その髪の色はもう、半分以上が白くなっており、元の色が分からないほどだった。
オドザヤも、そしてコンスタンサもすぐに気が付いたが、アイーシャの寝台の周りからは、なんとも言えない不快な匂いが漂っていた。寝具も、おそらくは着せられている寝間着も、新しいものであったのにも関わらず。
もう、一年近くも寝たきりの病人である。
毎日の看病と、介護に当たっている侍女たちの前で、匂いのことなどで嫌な顔をするわけにもいかない。オドザヤもコンスタンサも、自分の鼻を刺激する匂いなど分からない態を装った。
「……随分と、遅いお時間のお越しですね」
その時、オドザヤたちの反対側の枕元に控えていた、ジョランダが、やっと口を開いたので、オドザヤはびくりと身を震わせた。
オドザヤはこの、母の従姉妹のジョランダが苦手だったし、実際のところ、嫌悪してさえいた。
体に蟲を宿した、病弱なカイエンを産んだのちに、精神の均衡を崩したアイーシャに、強い酒での憂さ晴らしを勧めたのが、このジョランダなのだ。
だから、ほんの子供の頃から、オドザヤは、酒を飲むと人が変わるアイーシャに振り回され、精神的に追い詰められて来た。皇太女に冊立され、後宮からこの部屋に移ってきたときには、心底、ほっとしたものだった。
ジョランダの、皇太后の侍女とはいえ、ただの侍女がこの国の皇帝に言うにしては、不遜きわまる言葉に、オドザヤは一瞬、気を飲まれてしまった。
「皇帝陛下にはご公務がございます。この頃の政情や、北でのアルタマキア皇女殿下のことは、あなたも聞いているでしょう。口を慎みなさい」
代わりにきっぱりとした声音で返答したのは、コンスタンサだった。その声は冷たく、突き放すようで、コンスタンサもまた、ジョランダにいい印象を持っていないことは明らかだった。
だがそれでも、オドザヤもコンスタンサも、これだけは認めないわけにはいかないのだ。
アイーシャは、なんのかんの言って、出産後の狂乱から一年近く、サウルの心中未遂からも半年近く、生き長らえて来られたのだから。そして、その裏に間違いなくこのジョランダの献身があることに、間違いはなかった。
だが。
続いて、ジョランダの歪んだ唇から出てきた言葉は、真っ黒な呪いの言葉のようにオドザヤを打ちのめした。
「おいたわしい。実のお子の手で、こんな狭いお部屋に押し込められて。皇太后様のご健康よりも、あのベアトリアの女狐の願いを聞き届けられるとは、お恨み申し上げます。皇太后陛下がお叫びになるのは、あの女のことで、ご不快なことがおありになるからですのに!」
オドザヤは、その言葉の持っている毒にあっけにとられた。それでも、はっとしたこともあった。こんな風な毒のある言葉を浴びせられるのは、皇太女に立てられて、後宮から出るまでは、日常茶飯事だったと言うことに。
もっとも、あの頃は毒はアイーシャの口から出て来ていたのだったが。
ジョランダは、あの頃と、何も変わってなどいないのだ。
そして、今の言葉は、ここで死にかけたまま生きながらえている、アイーシャが言わせていることなのだ。
それを、忘れていたのはオドザヤの方だった。
「マグダレーナ様のお産みになったフロレンティーノは、今、後宮に残っている唯一の子供です。それも、お父様の残された、たった一人の皇子。私の推定相続人でもあるのです。その子を健やかに養育できるよう、心を配るのも私の勤めです」
オドザヤは、自分でも驚いたほど、強い言葉でジョランダに答えていた。
だが、それへの反応もまた、呪いと毒にまみれていた。
「そのためには、命をかけて、リリエンスール皇女殿下をお産みあそばした皇太后様など、二の次と言うことですのね……母娘の情より建前を……」
「ジョランダ! 控えなさい!」
ついに、女官長のコンスタンサが、ジョランダの言葉に追っかぶせるように大きな声を出すと、ジョランダはやっと黙った。
「……ジョランダ」
オドザヤは、ちょっと息を整えてから、ジョランダの方を見た。
「あなたが、お母様のお世話を献身的にしてくれていることは、私も感謝しています」
ここで、オドザヤの琥珀色の目が、刺すような強さで、ジョランダの小さな黒っぽい目を見据えた。
「ですが、リリエンスールを、体内に蟲を持って生まれてきたと言うだけで拒絶し、お心を壊されたのは、お母様自身です。お母様はリリを養育することを放棄されたも同じ。……お姉様をお産みになった時と同じに。だから、私はお母様の今のご様子には同情しないわ」
ぎろり、と上目遣いに目を上げたジョランダへ、オドザヤは今まで心の中に、溜めに溜めていた言葉を浴びせかけた。
「そもそも、元からお心の弱かったお母様に、お酒でうさを晴らせば良いと、強いお酒をお勧めし、浴びるほどのお酒を毎日のように召し上がらせて、遂には、完全に壊してしまったのは、あなたのしたことでしょう?」
驚いたように見守る、コンスタンサの前で、オドザヤは厳しい声を出した。
「私は、今、このハウヤ帝国皇家の主人として、北でひどい目にあっているだろうアルタマキアにも、リリにも、フロレンティーノの養育にも、責任があります。幸い、リリはお姉様が養女として預かってくださいました。私は、私のしなければならないことをしているだけよ。あなたにも、あなたの中にいるお母様にも、惑わされはしない!」
そこまで言い終わると、もう、オドザヤは踵を返していた。
「私に、さっきのような言葉を言いたいのなら、お母様を、お健やかなお姿に戻してからにしてちょうだい」
捨て台詞のように、そう言うと、皇女宮をの廊下を、オドザヤは前も後ろも見ず、ドレスの裾をからげるようにして、早足で駆け抜けた。
そして、皇女宮の外に出た途端に、眩暈がして、広い廊下の真ん中でうずくまってしまった。
「陛下!」
コンスタンサだけでなく、護衛のブランカやルビーも、驚いてオドザヤを支える。
彼女たちの耳に聞こえてきたのは、オドザヤの、小さな、独り言のような言葉だった。
「……あんな、ひどいことを言うつもりなんか、なかったのに。私もお母様やジョランダと同じ。私は姿だけじゃなくて、中身もお母様と同じなんだわ。自分よりも弱い人に、呪いの言葉を吐き掛けることで自分を守る、卑しくて、ひどい人間!」
その時、侍従が駆けつけて来なかったら、オドザヤはしばらく、立ち上がれなかったかもしれない。
「皇帝陛下。宰相様より、お伝えするように命ぜられました。……大公殿下が、もうすぐお見えになるそうです」
大公殿下。
自分と母親を同じくする、姉妹で従姉妹。その姿が自分と同じだったら、オドザヤはカイエンも拒絶していたかもしれない。
だが、カイエンは彼女にも、母のアイーシャにも、全然、似てはいなかった。そして、裏が透けて見えるような馬鹿正直な性格は、オドザヤを安心させるものだった。
悪いことをしている、と思えば、カイエンの顔は曇る。だが、それをするしかないと決めたら、自分の感情を抑える強さを持っていた。
「すぐに、行くと伝えなさい」
侍従に答えながら、オドザヤは救われたような気持ちだった。
その少し前。
テルプシコーラ神殿から、踊り子を見えないように追ってきた、大公宮の影使い、シモンと、帝都防衛部隊のロシーオは、なかなか苦労して追跡していた。
踊り子は、テルプシコーラ神殿に、派手な衣装のままでやってきて、そのままのなりで神殿を出たのだ。
今日の衣装は、青い、ハチドリを思わせるような細身の上下の上へ、色とりどりの絹地が幾重にも重なったもので、踊りの中で跳躍すると、とてつもなくきれいだった。
そのままの姿で、夕暮れの街中を歩いて行くから、恐ろしく目立つ。だが、この細身の踊り子がザイオンの第三王子の化けた姿だとすれば、その濃い化粧と、派手な衣装は本当の顔や姿を隠すのにはうってつけだった。
だが、シモンもロシーオも、広場に差し掛かるたびに、踊り子がひとさし踊っていくのには参った。
今日は目立たぬよう、先に大公宮へ帰ったイリヤ以下、大公軍団の制服ではなく、私服である。イリヤなどは、それでも顔が顔だから、帽子を目深に被ってもいた。
シモンの方は、絶対に人の記憶に残らない、平々凡々の極みと言える容姿だから、屋台のひさしの下にでも入ってしまえば、もう、わからない。
ロシーオは広場で踊り子が止まるたびに、踊り子を追い抜いて、先の通りに身を潜めたりしていた。
何度か、広場で踊っては喝采され、小銭を曲げられ、それを拾ってから踊り子は進んで行く。
踊り子が、もう真っ暗になった時刻になって、たどり着いたのは、下町の、古くて小さな劇場の裏口だった。
「えっ」
ロシーオはちょっと驚いた。だが、よく考えれば、派手な踊り子のなりで入って行くには、ここほど自然な場所はない。
踊り子の金のかかった衣装が、くたびれた貧乏劇場とはそぐわないが、そこまで気を回して見ている者などそうそうはいまい。
(表へ回れ)
シモンが唇だけでそう言ったので、ロシーオは劇場の表へ回った。帝都防衛部隊の訓練では、追跡している人物が建物に入った時は、中で衣装を変え、別人になって出てくることもあることを習っている。
シモンの方は、周囲を確かめると、するすると劇場の二階へ上がり、難なく木製の窓の一つを外側から開け、中へ入って行ってしまった。
ロシーオが表の通りへ回ると、劇場は開いていて、あまり上手くない絵の看板が立っていた。中にはランプの光が見え、その夜の出し物の切符を売っているようだ。
幸い、表の通りは夜も賑やかな、小さな広場に面していたので、ロシーオは広場の向こう側の一杯飲み屋に入った。
今日のロシーオは、地味な、下町の女の衣装を着ている。こんな時間に女一人で飲み屋に入るのは、ちょっと変だったが、ロシーオはこんな時の対処も、しっかりと習っていた。
「こんばんは。あのさ、亭主とはぐれちまったんだ。そこの劇場の出し物を見に着たんだけど。切符は亭主が持ってるから、ここで待たせてもらってもいいかい?」
そうして、ロシーオがしばらく、飲み屋で麦酒の陶器のカップを傾けていると、驚いたことにシモンがもっともらしい顔と態度で、劇場から出て来たではないか。
どこから見ていたのか、シモンはまっすぐにロシーオのいる飲み屋へ向かってやって来る。
「なんだ、こんなところにいたのかよ」
さっきの、ロシーオの一芝居まで見ていたかのように、シモンは言った。
「なんで、先に入ってなかったんだ?」
ロシーオはちょっとどぎまぎしたが、訓練通りに返事した。
「だって、切符がないんだもん」
ロシーオがそう答えると、シモンは不機嫌そうな顔を作った。
「おいおい、お前の切符は、先に渡しといただろ? ……持ってこなかったのか」
「えー、もらったっけ?」
ロシーオは話を合わせる。もう、これからの流れはわかっていた。
「馬鹿だな。せっかく俺が店の客からもらった切符なのによ。お前、家まで取りに行ってこいよ」
これは、先に大公宮へ戻って、この場所のことを知らせろ、ということだ。踊り子はまだ中にいて、出て行く気配はない、ということだろう。
「今夜は、ザイオンから来たっていう踊り子が出るらしいぜ。ほら、小銭をやるから、辻馬車を拾えよ」
ロシーオはおとなしい奥さんらしく、神妙にうなずいた。
「じゃ、待っててね」
そう言いながら、ロシーオはうかつにもその時、やっと気が付いて、劇場の入り口の上にかかっている、看板を見た。
「……オリュンポス劇場ね。なんだか、大仰な名前」
確かに、こんな場末の汚い劇場には、勿体無い名前だ。オリュンポスといえば、ハウヤ帝国とザイオン女王国とを隔てる、天高くそびえる高山地帯の名前である。
ロシーオはもちろん、今日、追って来た踊り子がザイオンの王子かもしれないことは知っている。
ぽん、と肩をたたくシモンへ、目配せして、ロシーオは通りへ出た。
「オリュンポス劇場なんて、知らなかったねえ」
小さく呟きながら、彼女は辻馬車を探して乗り込むと、自分の家のあるコロニア・ビスタ・エルモサへやってくれ、と頼む。
ビスタ・エルモサからは大公宮は近い。
「これは大当たり、かなぁ」
十二月も目の前となった夜は冷え込んでいた。
馬車の窓から外を見る、ロシーオはそこで小さなくしゃみをした。
前は桔梗星団派のアジトにきていた、ザイオンの王子さん、トリスタンは次回、再び登場の予定です。




