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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第五話 不死の王
135/220

教授は緑色の服を嘆く


 女大公カイエンには、色々な逸話があった。

 その中でも、彼女が市井に出て、様々な階層の市民たちと交流した物語は多い。

 ある時、彼女は冷酷非情の金貸しに化けた、かの「小悪魔メフィストフェリコ先生」マテオ・ソーサの従者、または息子に化け、さる高級娼館へ赴いたと言う。

 そこで彼女が出会ったのが、後の「マドリーナ」こと、アルフォンシーナ・デ・カサノヴァである。


 


    アル・アアシャー  「海の街の娘の叙事詩エピカ」より








 沈んでいく敵船の姿を、真っ青な波間に揉まれて沈んでいく姿を見た、貨物船の乗組員たちの喉から、歓呼の声が上がった。沈みいく船からは、いくつかの小舟がぎりぎりの瞬間に降ろされ、いく人かが乗り移るのが見えた。

「公爵様、小舟がいくつか降ろされたようですよ」

 バンデラス公爵の横で、遠眼鏡を両手に持って覗き込んでいる貨物船の船長がそう言うと、バンデラス公爵は顎を引くだけで答えた。

 ディヴァ島の向こう側で待っていた、バンデラス公爵家の船は、一隻はエンペラトリス号、もう一隻の名前はミストラル号である。

 先に攻撃を始めたミストラル号の方が、敵船に近かったので、攻撃を終了したミストラルの方が、ゆるゆると沈む敵船から逃げ出した小舟の乗員を収容すべく、小舟の方へ近づいていく。

 もっとも、小舟に乗り移った方ではミストラルに収容されたくなどないから、諍いが起こる可能性はあったが、もう大勢は決まっていた。

 そして、もう一方のエンペラトリス号の方は貨物船に、先ほどまで敵船を攻撃していたのとは反対側の舷側を向けて、動きを止めている。

 貨物船も砲撃を受けて、浸水していたので、船長は修理が可能かどうかを確認するためもあって、船をディヴァ島の周りを囲む円形の岩島に寄せていった。岩山には少しだが木が生えている。停泊できそうな浜などはないが、岩だらけの入江のような場所はあった。

 そこに、いつの間にか何人かの男たちの姿があった。

「なんだ、あの人たちは?」

 船員たちの中から声が上がったが、バンデラス公爵や船長には、もうその正体は明らかだった。

「あの人たち……。岩山に登って、こちらの様子を裏に隠れている二隻に伝えていたんですね」 

 船長の問いに、バンデラス公爵は無言でうなずいた。

 ディヴァ島には、バンデラス家の船の船員がよじ登り、船が来る様子をエンペラトリス号へ伝えていたのだろう。それでなくては、ディヴァ島の裏側に完全に隠れた状態で、やってくる船を監視し、ちょうどいい頃合いで攻撃に出ることなどできない。

「あれ! えらいきれいな若い衆が乗ってるなあ。顔は黒いけど、こっちじゃ珍しい金髪だぁ」 

 その時、エンペラトリス号の艦上を遠眼鏡で見ていた船長が、ちょっと驚いた声を上げた。それを横で聞いていたバンデラス公爵は、珈琲色の顔の中の厳しい鋼鉄色の目を、驚きに見開いた。

「なに?」

 船長は、バンデラス公爵の様子になど気がつかず、じっと遠眼鏡で覗いている。自分の船が襲撃され、修理が可能か否か、と言う場面なのに、暢気なものである。もっとも、船長にしたら、船が壊されたのはバンデラス公爵を乗せていたからなので、船が廃船になったとしても、ちゃっかりとバンデラス公爵家に賠償させるつもりなのだろう。

「ちょっと、失礼」

 きれいな若い衆、と言う言葉に反応したバンデラス公爵は、いきなり船長の手から遠眼鏡を奪い取っていた。

 そして、覗き込んだ遠眼鏡の向こうに何を見たのか。

「エンペラトリス!」

 そりゃそうでしょ、あの船の名前はエンペラトリスですよ、何を驚いているんだ。

 怪訝な顔で自分を見る、船長を無視して。

 バンデラス公爵は、珈琲色の顔に忿怒の表情を浮かべ、遠眼鏡を船長に返す時間をも惜しむように、甲板の船員の方へ叫んでいた。船員たちは、にわかに恐ろしげな雰囲気を纏わせた公爵の姿にびっくりしたようだ。

「すまないが、小舟を降ろしてくれ! エンペラトリス号に行きたい」

 そして用意ができると、バンデラス公爵は待ちきれない様子で小舟に乗り移った。

 バンデラス公爵は、晴天の下、呆れるほど青く澄んだ海水の上を、船員が漕ぐ小舟に揺られる間、一言も口を聞かずにエンペラトリス号へ向かう。海鳥が呑気に鳴き合いながら、その上を飛んでいくのが見えた。


「あら。もうバレちゃったのね、お父様」

 そして。

 小舟を急がせて、停泊中のエンペラトリス号に近付き、降ろされてきた縄ばしごを、するするとよじ登ったバンデラス公爵が、エンペラトリス号の甲板で見たのは。

 彼が目に入れても痛くないほどに可愛がっている、愛娘、長女のエンペラトリスの姿であった。

 では、先にエンペラトリス号が島の向こうから現れ、貨物船とすれ違った時、その船上に見た姿は、幻でもなんでもなかったのである。

 そして、エンペラトリス号の甲板に登ってくるなり、呆れたように無言で自分を見つめる父へ、エンペラトリスは、言い訳するかのように続ける。

「だって、ハーマポスタールから、あんな手紙が来ちゃ、みんな心配するじゃない。うちのお母様はともかく、フランセスクのお母様は、半狂乱で大変だったの」

 それまで、鬼のような表情で娘の顔を凝視していた、バンデラス公爵は、ここまで聞いて我に返った。

「……それで、船に乗れないお前が武装船に乗っかって、こんなところまで来たと言うのかっ?」

 普段の、それも他人行儀で冷たい印象の彼しか知らない、ハーマポスタールの人々が、今の彼の様子を見たら、鳩が豆鉄砲を食ったような顔を見せたに違いない。

 それくらい、その時の彼の様子は、怒りとともに呆れに呆れた、という人間らしい感情を見せていた。

 それにしても、「船に乗れない」とはどう言う意味なのか。

「そうよ。……見ればわかるでしょ、もう、モンテネグロの港を出てから、毎日、ずうっとこうして桶を抱えて頑張って来たのよ。さっきは船が止まったんで、ちょっとだけ元気になって、甲板で立ち上がれたの。だから見つかっちゃったんだけど」

 バンデラス公爵は、そう言う娘を、甲板に立ったまま見下ろしていた。

 今、彼女が着ている服装は、地味ながらも淑女の着る絹のドレスではある。だが、ドレスの生地は普通よりも丈夫そうな厚地のもので、襟元は詰まっており、どうやら上下に分けて着る意匠のものだ。その上に、ドレスの丈は普通よりも短めなようだった。

 そして、そのドレスの裾から飛び出ているのは、無骨な、船乗りの履く、濡れても滑らない工夫のされた革の長靴だ。男装しているよりはましだったが、その衣装の選択は、エンペラトリスが極めて現実的な考えを持った娘であることを示していた。

 そして、バンデラス公爵が娘を見下ろしていたのは、エンペラトリスが小柄なお姫様だったからではない。

 今年で十七になる彼女は、立ち上がれば、その父親とほぼ同じくらいの上背があった。母親が嫁入り先を心配するほど、エンペラトリスは縦に大きく成長しすぎたきらいがあったのだ。実を言えば、今、ハーマポスタールにいる、同い年の異母兄であるフランセスクよりも、彼女の方が背が高かった。

 だが、今、バンデラス公爵は彼女を眼下の、それもかなり下に見下ろしている。

 それは、エンペラトリスが木の桶を抱えて、甲板にへたり込んでいるからに他ならなかった。

「でも、船が止まれば止まったで波で揺れるんですもん。……うっぷ……」

 そう言うと、エンペラトリスは父と同じ珈琲色の顔を、桶の上へと伏せた。顔を伏せると、後ろで括っただけの金色の長い髪が、背中から一方の肩の方へ流れて落ちる。

 聞くだに気持ち悪そうな音が聞こえたが、もう胃液以上のものは出ないようだ。

 もちろん、父のバンデラス公爵は知っていたが、エンペラトリスは母方の祖父が船乗りだと言うのに、ひどい船酔いをするたちなのだ。

「お前が……お前が、そんな馬鹿とは思っていなかったよ」

 やっと落ち着いて来たらしい、バンデラス公爵は屈み込むと、それでも気持ち悪そうに吐き続ける娘の背中をさすってやった。

「公爵様、申し訳ございません」

 その時、中年の真っ黒に日焼けした、船長の帽子を被った男が近付いて来なかったら、バンデラス公爵はもっと娘の不明を訊す言葉を重ねたに違いない。

「グスターボ、お前。どうしてこの子を乗せたりしたんだ!?」

 だから、エンペラトリス号の船長の方を見た、バンデラス公爵の声は怒りに上ずっていた。だが、グスターボ船長の方も、なかなかに狡猾だった。

「……本当に申し訳ないことで。サンドラ様がいらっしゃれば、お止めしたんでしょうが……」

 この返答には、ぐう、とバンデラス公爵は眉を怒らせたまま、次の言葉を飲み込むしかなかった。確かに、サンドラがフランセスクとともに、ハーマポスタールに人質同様に置かれている今、モンテネグロのバンデラス公爵家の中で、エンペラトリスを止められる者などいない。

 強いて言えば、エンペラトリスの母親だが、あれも、フランセスクの気弱な母親が先に泣き出しでもしたら、エンペラトリスに、「お前が行って見届けてこい」くらいは言い出しそうだ。本当は自分が出て来たかったかもしれないが、サンドラがいない今、公爵家を留守にすることは避けたのだろう。

 今はラ・ウニオン共和国の元首ドゥクスになっているが、元は海賊船の船長を父に持つ、エンペラトリスの母親と、モンテネグロの街の顔役の娘であるフランセスクの母親。二人はともに正妻ではない。そもそも、公爵としてのナポレオン・バンデラスには正妻はいないのだ。

 二人の母親は、個人的には仲が悪いわけではないが、それぞれの父親の立場が立場だから、バンデラス公爵家内での勢力争いというものは、ある。

「ああ、ミストラル号が、捕虜どもを収容しつつあるようです」

 エンペラトリス号の船長は、バンデラス公爵がぐっと詰まったのを、見逃さなかった。

 この、ディヴァ島のある場所からは、ネグリア大陸よりもパナメリゴ大陸がずっと近い。運が良ければ、小舟でもたどり着けないことはないが、敵船の生き残りは、とりあえず救助してもらって捕虜になる方を選んだようだ。

「そうか。それでは、ディヴァ島の乗組員を収容したら、あの貨物船の修理にかかれ。……賠償金を払わねばならんだろうが、廃船にするよりは応急修理して、モンテネグロまで連れて行った方が安く済むだろう」

 バンデラス公爵がそう言うと、甲板にへたり込んだままのエンペラトリスが、すっくと立ち上がった。顔色は真っ青だが、元の体が丈夫だから、船酔いで吐き続けでもなんとかなっているらしい。

「お父様、私、ちょっとあのディヴァ島で休みたい。もう、揺れている船の上は耐えられない!」

 立ち上がって見れば、確かにエンペラトリスは父親とほとんど同じ高さに、同じ鋼鉄色の目がある。もう十七だから、これ以上は育たないだろうが、このままでは先が心配だ、とバンデラス公爵は思わずにはいられなかった。

 見れば、短めのドレスの裾からは、にょきっと船乗り用の色気のない長靴がのぞいていた。その足も女にしては大きい。まあ、だからこそ船乗り用の長靴が問題なく履けるのだろうが。

 ハーマポスタールで会った、大公のカイエンは普段は男装している上に、目つきが鋭く、話し方も男のようだったが、それでも外見は小柄で弱々しかった。エンペラトリスは、話し方やら普段の言動は、公爵家の姫として別におかしくはないが、こう大柄では……。

 そこまでつらつらと考えて、バンデラス公爵は自分の物思いを打ち切った。今は、そんなことを考える時ではない。

「……わかった。修理の間、お前は島に上がっていなさい。動物なんかいないだろうから、天幕でも張れば、大丈夫だろう」

 

 こうして。

 バンデラス公爵が、彼の領地、モンテネグロの港へ帰り着いたのは、その数日後のことであった。

 その前の夜中、ミストラル号の船底に閉じ込められていた、捕虜の一人が逃げ出した。泳いで陸へ上がった男は、モンテネグロの「桔梗星団派」の連絡員の元に駆け込み、このことは早くも十日後には、ハーマポスタールへ伝わっていた。







 一方。

 ハーマポスタール。

 十一月の半ばに差し掛かったある日だった。

 先日、エルネストの訪れた、上品な佇まいの高級娼館。

 その前に、目立たない黒い馬車が止まる。その馬車は、よく見ればエルネストが使っているのと同じ、大公宮の馬車だったのだが、通行人には無紋のその馬車が大公宮のものだとはわからない。

 娼館の警備員は、馬車の御者に合図して、馬車を入口の中へ入れた。

 この通りの店は、建物自体は高いが、長屋風に隣の建物と正面の外壁が繋がっている。この娼館の入口は、馬車も通れるアーチ状の門になっており、中が石畳の中庭風になっていて、馬車も止まれるのだ。

 馬車から、小柄な二人組が降り立つと、先日のエルネストの場合と同じく、娼館の扉は呼び鈴も鳴らさないうちに、内側から開いた。

 二人が何も言わないうちに、扉は二人を飲み込んで閉まっているのも同じだ。

「ようこそいらっしゃいました。こちらへどうぞ」

 彼らの前に、中年の、だが上品で金のかかった装いの女が立っているところまで、判で押したように同じである。

 だが、それからの展開には、少々の違いがあった。

 二人が導きいれられたのは、ホールの奥の、赤い絨毯の敷かれた大階段の方ではなく、一階の小洒落た応接間のような部屋だった。

 女主人が真っ赤な天鵞絨の張られたソファに、二人の客を座らせ、自分は向かい側に座る。すると、これまた自然に奥の扉が開き、飲み物を盆に載せた召使いが入って来た。

 召使いが、熱い紅茶に香り高い蒸留酒を入れた飲み物の、高価そうなカップを置いて出て行くと、女主人はおもむろに口を開いた。

「この店には初めてでございますね。初めまして、ここの主人をしております。カティアとお呼びください。お客様は、セサル様のご紹介でございますね」

 セサル、とはエルネストの二つ目の名前である。ここではそれを名乗っているらしい。

「そうだが。……この店では、客を尋問するところから始めるのかね」

 女主人の前に座っている二人のうち、年かさの方が、最初っからイラついた声を出した。彼は、すぐに女の部屋に案内されず、こんな部屋に連れてこられたのが気に食わないのだろう。

「いいえ、いいえ、とんでもございません。ちょっとした確認でございますわ。……アルフォンシーナをご指名とか」

 言いながら、女主人カティアは、目の前の二人をそっと相手にわからないように、ぶしつけでない程度に見遣った。

 彼女の目の前に座っているのは、光沢のある緑色に金色のボタンと金色の縫取りの、金のかかったきらびやかな、だがやや趣味の悪い服と帽子の、貧相な二人組だった。

 先ほどから密かに観察していたところでは、年齢こそ親子のように違っているが、この二人には明らかな共通点がいくつもある。

 背が低く、貧相なところ。それでいて金のかかった身なりであるところ。真っ黒な、やや縮れた髪。二人ともに顔色が悪く、病人のようだ。そして、一番奇妙な共通点。

 年かさの方は杖をついていないが、やや足を引きずって歩いていた。そして、息子のように若い方は、高級そうだが趣味のあまり良くない、金色の持ち手に、真っ赤にエナメルの塗られた杖を突いていたのだ。

 女主人の視線に気が付いたのだろう。若い方が、蚊の鳴くような声で、

「見ないでよ……子供の頃、階段から落ちたんだよ」

 と言ったので、彼女は慌てて謝罪し、目をそらした。

 それにしても、こうした場所へいい年をした男が、「派手な緑の服」で来るとは。どういう神経なのだろう。女主人は、年配の男の悪趣味には、心の中で大いに眉をひそめた。

 若い方は、まだ十代の少年だろう。緑色の帽子の下、恥ずかしそうにうつむいているので表情は見て取れないが、年かさの方の因業そうな厳しい顔つきとは違い、整った優しい顔立ちだ。後ろできれいにリボンで束ねている巻き毛が長い。外見よりももっと幼いのかもしれなかった。

 あんまり似てはいないけれど、親子なのかしら。

 女主人カティアがそう、想定したところだった。

「そこまでわかっていて、なんでこんなところで待たせるんだね? 息子はこんなところは初めてなんだよ! じろじろ見たりしないでくれ。緊張してアレが役立たずにでもなったら、どうするんだ。高い金をとるくせに。あんた、責任が取れるのか?」

 キンキンした声で、父親……であることが今の言葉でわかった、が、怒鳴るような大声を出した。

「これは、申し訳ございません。あの、では、お二人ご一緒に、アルフォンシーナをご指名ということですのね?」

 こんな商売だから、女主人は色々な奇妙な客のあしらいに慣れている。だから、そう答えた声は落ち着き払っていた。もっとも、周到な女主人はやや早口で言って、申し訳なさを強調するのも忘れてはいなかった。

 店としては、一見の客はみな、こうして紹介者や予約の内容を確認するのが決まりだった。今回は客の方で、女まで事前に指定して来た。いくら紹介でも、同じ女を、会いもしていないのに最初から指名してくることは少なかったのだ。

「では、ご案内いたします。こちらへ」 

 女主人も、アルフォンシーナ同様、エルネストの正体にはもう気が付いていた。こうした店では大貴族も珍しくはないから、驚きはしたが秘密は厳守していた。

 その「外国から来た皇子様」のご紹介である。

 皇子様のご紹介にしては、この客は金持ちではあるが、趣味が悪くて、まさに因業な高利貸しにしか見えない。それでも、支払い能力には問題はなかろう。

 真っ赤な絨毯の敷かれた大階段を登りながら、女主人カティアは、そう自分自身に言い訳していた。


 エルネストの場合と同じく、女主人は彼ら二人……。それはもちろん、大公のカイエンと大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサの変装だったのだが、をアルフォンシーナの青い部屋に案内すると、さっさと出て行ってしまった。

「やれやれ、やっとの事でお部屋に到着だ。大丈夫か、お前? ちゃんと出来そうか」

 そう、ソファにかけながら、見事な演技で息子役のカイエンに言った教授は、もう、どこから見ても下品で、服装の趣味も最悪な、金貸しの因業親父にしか見えない。

 今夜、カイエンの方は、髪を黒く染めて、緩やかな巻き髪になるようにして、教授は真っ直ぐな髪をコテでチリチリにした。そうすると、カイエンはお貴族の小姓かなんかに見えたし、教授の方は、厳しい顔つきが、一転して、冷酷無比な顔に変わって見えた。

 女中たちが用意した緑色の派手な服も、二人の印象をがらりと変えた。

 教授は、

「なんと! こんな髪にした上に、私がその緑色の派手派手な服を!? なんで、よりにもよって緑色なんか選んだんです? ありえない!」

 と、最初のうちは断然拒否、という態度であったのだが、服を着せられて鏡の中を覗くと、急におとなしくなってしまった。

「……あああ。髪を縮らせて、こんな服を着ただけで、人間がこんなに変わって見えるとは……」

 と、呟いて床にうずくまってしまったほど、この簡単な変装には効果があった。忙しい中、変装見物に来ていた、軍団長のイリヤなどは、腹を抱えて笑ったものだ。

「ひゃははははは……。うわ、ありえないわ。それ、ルーサさんが選んだの? ぶひゃはは、まさに『緑色の爺さん(ビエホ・ヴェルデ)』じゃん。あははははは」

 女中頭のルーサは、曖昧に微笑んでいたが、教授としてはこの緑色の衣装と、今回の役割は最悪だった。

 「緑色の爺さん(ビエホ・ヴェルデ)」とは、「好色極まる狒々じじい」という意味なのだ。教授が嫌がるのももっともだった。

 それでも、カイエンと一緒にこうして娼館なんかに来てくれているのだから、ありがたい。

 カイエンは元から声が低いから、あまり違和感のない感じの声を作って、小心な息子を装って答えた。

「はい。お父様は、なんでもよくご存知だから」

 そう答えると、カイエンはそっと天井の方をうかがった。今日のこの珍道中には、大公宮の影使いである、ナシオとシモンが見えないように付いて来ているはずである。どこに隠れているのかは、もうわからないが。


 カイエンは、青い部屋の様子を静かに、だが興味深くうかがいながら、ここへ来る前に教授と話したことを思い出していた。

 カイエンが、エルネストのした話を教授に話し、意見を聞くと、教授はこう答えて賛成してくれたのだ。  

「ああ。カスティージョの醜聞を流すということですな。我々の側は、もう何度もこの戦術で敵方にやられていますからね。こういうことは、噂の内容が真実である場合に、効果が大きいのです。つまり、噂の内容が真実だから、嗚呼、あれはこういう事だったのか、とその人物の周囲から、自然に肯定の物証や証言が出てくる。だから、揉み消せないのです。先のサウル皇帝と公爵夫人のがそれですな。貴族の中には薄々勘づいていた者がいたでしょう。だから、あっという間に広まった。……反対に虚偽の噂は、周りから、反対の証言や物証が出てきます。それが噂の信頼度を著しく下げるのです。カスティージョ将軍の場合、真実だから、戦術的には有効でしょう」

 その上で、カイエンが、カスティージョに身請けされることになっている、アルフォンシーナが被るだろう迷惑のことを話すと、教授は馬鹿にするどころか、真面目な顔になった。

「なるほど。そこまで周到に、一娼婦のことだと切り捨てないでお考えになったのですね。生真面目な殿下らしい心遣いです。しかし、心遣いだけではありませんな。カスティージョ本人が持つであろう怨恨は仕方がないこと、仕掛けた我々が被らなければならない当然の結果です。ですが、その女性の方からしたら、身請けされるというのは、一生の大事でしょうからね。カスティージョに恨まれた上に、放り出されでもしたら、人生そのものが壊れかねない。放り出されるどころか、闇に葬られる可能性だってある」

 殺されるということか。

 カイエンは理解したので、話を先に進めた。

「身請け話にこちらが割り込んで、先に連れ出してしまう、というのは、どうですか」

 教授は、ちょっと難しい顔になった。

「それは……。カスティージョよりも多くの金を積めば、おそらくは可能でしょう。店側は仁義を欠くことになるので、嫌がるでしょうが、最後は金で動きますよ。まあ、この醜聞を使うと決まった場合には、この手を使うしかないでしょう。だが、身請けするのはこの大公宮の関係者であってはならない」

 カイエンはうなずいた。

 それは、もうカイエンも考えていたことだったからだ。

 彼女が、「アルフォンシーナの気持ちを聞く必要がある」とエルネストに言ったのは、彼女にどこまで話しても大丈夫か、人となりを見たい、という気持ちからだった。

 カイエンは、考え考え、慎重に話した。

「それも含めて、『新しく登場した金持ちの客』を登場させておくのは有効だと思うんです。エルネストが身請けしたいと言っている、とアルフォンシーナには伝え、だが大公の婿だから名前は出せない。代わりにこの新しい客の名前を使う、と」

 教授は真面目な顔で聞いていた。ことはたかが醜聞、たかが娼婦の身の上である。だが、こういう細かいところで心遣いを怠ると、こういう微妙な問題だからこそ怖い。

「では、殿下と私が彼女を見に行くというのは、皇子殿下の御使いとして行くということですな」

「ええ。本当はガルダメス伯爵あたりが適任ですが、それだと、彼にこの企みが筒抜けになる。こちら側に引き込んでいるとはいえ、まだそこまで信用していいかどうかは……」

 カイエンがそう言うと、教授はちょっと考えてから、言いにくそうに話し始めた。

「殿下。殿下がその娼婦、アルフォンシーナの身の上を心配しておられるのは、本当でしょう。わかりますよ。ですが、殿下自ら会いに行く、とおっしゃるのには、他に理由がおありでしょう?」

 と。

 正直、カイエンは「来たな」と思った。教授には隠せないだろうと思っていたからだ。

「……やっぱり、わかりますよね。エルネストの話ぶりを聞いていて、急に、あいつが前に言った言葉が思い出されたんです」

 その時、カイエンが思い出したのは、あの大議会の時、クリストラ公爵家の控屋敷で、彼と話した時のこんなセリフだった。

(……信じてくれとは言わねえ。でも、これだけは言っておくよ)

 そう言ってから、エルネストが続けた言葉だ。

(俺はもうすぐ二十七になるが、今まで決まった女はいなかった。ましてや子供なんかはな。そして、これからもそんなものは持たないだろう。これだけはあんたに言っておく)

 それに、カイエンはこう答えたのだ。

(お前は健康な男だ。そんなことを軽はずみに言うもんじゃない。私とお前は違う。私と結婚したからと言って、そういうことを諦めてしまうべきではない)

 カイエンがあの時のことを話すと、教授は厳しい顔に、泣くのを我慢しているような表情を浮かべた。

 彼は、一度も結婚せずに四十の坂を越えた人間だ。人に同じことを言ったり、言われたりしたことがあるのかも知れない。

「なるほど。殿下は本当に、なんと言うか、公平な方ですな。なかなか、そこまで言えませんよ。なるほどね。今度のことは、そこから来ているんですか。それでは、仕方がありませんね。お話だと、皇子殿下はこの醜聞を流した後の、アルフォンシーナの身の上のことなんか、考えちゃあいなかったようですけれど。大公殿下は、もしかしたら、と思われるんですね」

 これにはカイエンは、曖昧な顔で答えるしかなかった。

「いいえ。あいつのために不幸になる女性を、見たくないだけです」

 そうだ。もしかしたら、の方はそう言う可能性もある、というだけだ。

 カイエンは天井までも淡い空色で彩られた、海の中にいるような、美しい部屋の中で自分に言い聞かせていた。


「お待たせ」

 その時、青い部屋の奥の扉が開き、女の声がした。

 その声を聞いた途端、カイエンと教授は顔を見合わせた。確かに、その声はカイエンによく似ていたからである。

 入って来た、アルフォンシーナは、今夜は深い、落ち着いた群青色の服をまとっていた。髪や手首に付けているビーズの中の、大きいものは本物の宝石や真珠だろう。布の縁が銀色の刺繍で飾られた、群青色の透ける布地が何枚も重ねられたドレスは、足の膝から下が透けていた。胸元も大胆に開いていたから、カイエンも教授もちょっと驚いた。だが、二人とも興味があるものからは目を逸らさない性格だったので、こんなところへ来る客として不自然ではなかった。

 アルフォンシーナは、カイエンたちの座っていたソファの向かい側に座った。初めての客、それもなんだか変な二人連れの客の横に座って、しなを作る気持ちにはならなかったのだろう。

「親子で一人の女を買いたいって言うんだってね。ああ、この言葉遣いのことは聞いているのかな?」

 貧相な体に、事もあろうに緑色の派手な服を身につけた二人組を、彼女は緩やかな動作で、等分に見た。ここにアルフォンシーナを指名して、紹介されて来た客だから、聞いていないとは思われなかったが、客が怒りだしてからでは遅いと思ったのだろう。

「聞いているとも。セサル殿はそこが奥様とそっくりでたまらない、とおっしゃっていたからね」

 狒々じじい役の教授が、先ほど、ここの女主人相手にしていた話し方とは全然違う、上機嫌な話しぶりで答えると、アルフォンシーナは青い目をちょっと見張った。この客が、あのセサル殿ことエルネストに本当に紹介されて来たのだと、彼の知人なのだと理解したからだ。

「実はね、私はいじめられて喜ぶ趣味はないんだよ。壁の向こうから見聞きされる趣味もね。……ここへ秘密の話をしに来る客もいるんだろう? それにはいくら上乗せすればいい?」

 どう見ても、金持ちの因業親父にしか見えない教授がそう聞くと、アルフォンシーナは急に納得した顔になった。

「急に紹介だからって、予約をねじ込んで来たんだってね。大枚はたいて。なに? 後から合流して来る人がいるの?」

 カイエンは彼女と、あまりに声が似ているから、黙っていたが、教授は澄まして答える。

「ああ、そうだよ」

 そして、急に声の調子を変えた。

「……ナシオ、ここは大丈夫かね」

 アルフォンシーナは怪訝そうな顔をした。そして、次の瞬間、彼女はひっくり返るほどに驚いた。

 部屋の、通りに面していない方の窓が、鍵を閉めてあったはずなのにも関わらず、外から開いたからだ。そして、もっと驚いたことには、その窓の向こうのバルコニーに、黒っぽい服の一人の男が立っていたからである。

「周りは確かめました。これより、ご相談中に近付く者は、薬で、少し眠っていてもらいます」

 黒っぽい服の男は、今夜、カイエンたちの警護についているはずのナシオとシモンの、大公宮の二人の影使いの一人、ナシオだった。

「君たちだから大丈夫と思うが、後で不審に思われないようにな」

 教授がそう言うと、ナシオは黙ってうなずき、窓は音もなく閉められた。

「さて、と」 

 教授とカイエンがもう一度、アルフォンシーナを見た時、彼女はすっかり固まっていた。だが、気丈な彼女はすぐに立ち直った。

「あんたたち、金持ちの商人の親子なんかじゃないね? ここに遊びに来たわけでも!」

 アルフォンシーナはソファに座ったまま、教授とカイエンの顔を、食い入るような目で見た。

 あんな男に周りを見張らせているこの二人組に、この部屋の中で行われていることが外へ漏れないようにされたのだ。その間に自分は何をされるのか。彼女の頭の中で、恐怖がむくむくと顔をもたげ、襲いかかって来るようだった。

 その様子を見て、カイエンは初めて口を開いた。

「十分に怪しい行動だと思うが、我々はあなたを害しに来たわけではない。話があって来ただけだ。だが、この話はこの店の者には聞かれない方がいい。あなたにとっても、我々にとってもだ」

 その、自分と良く似た声を聞くなり、アルフォンシーナはカイエンの正体に気が付いた。 

 その様子を見ながら、カイエンは、それまで部屋の中だと言うのに、被っていた緑色の帽子を取った。

「私はカイエン。その顔だと分かったみたいだね。……この街の大公をやっている」

 カイエンは髪を黒く染め、巻き髪にしていたが、アルフォンシーナは確信した。カイエンの肖像画は、オドザヤの即位式の日、今年の夏至祭の日の読売りに、オドザヤとともに掲載された。だから、アルフォンシーナもそれを見ていたのだ。

 それに。

 何よりも、アルフォンシーナが驚いたのは、カイエンの顔だった。自分と声が似ているとは、エルネストから聞かされていた。だが、彼と顔が似ているとは、聞かされていなかったのだ。

 アルフォンシーナは、もう落ち着いていた。クソ度胸が出て来た、と言うのかもしれない。

「……そうですか」

 アルフォンシーナの言葉遣いが変わっていた。そして、声の質が恐ろしいほどに冷たくなった。

 その声音の変化に、カイエンの方が緊張した。

「皇子殿下は、ご主人様が構ってくださらない、とおっしゃっておられましたが、違ったようですね。ご主人様……いいえ、大公殿下には、関心がないどころか、夜遊びの相手を、嫉妬心に駆られて咎めにいらっしゃるほどには、ご夫君に関心がおありになったのですね」

 そして、アルフォンシーナが、淀みなく、貴族の夫人のような言葉遣いでこう聞いて来た時。

 カイエンは思わず、こう言ってしまっていた。あまりに意外なことを言われたので、考えるよりも先に突発的に言葉が出てしまったのだ。

「はあ!? 嫉妬心? 咎める? 何を言ってるんだ、あなたは! 私の正体がわかっていて、なんでそうなるんだ。……エルネストはちゃんと、あなたのことは私が決めるから、って言ったはずだけど……」

 今度、はっとして黙り込んだのは、アルフォンシーナの方だった。彼女は思い出していた。

(申し訳ないが、お前の『使い方』は、俺の『ご主人様』がお決めになる。いいか、俺のこの話も、お前は話せねえはずだ。さっき言ってたよな、俺のことを、馬鹿かって言った後だ。『他の客の話はご法度だ。私たちが漏らせば、きついお仕置きがある』ってな)

 お前の使い方は、俺のご主人様がお決めになる。

 そうだった。

 では、これはあの話の続きなのだ。

 こういうところの高級娼婦は、世間の話題にも詳しい。客層が高いから、貴族社会のあれこれにも詳しかった。

 それに、カスティージョとの寝物語で、アルフォンシーナは彼女の旦那であるカスティージョが、オドザヤの即位前に元老院の大議会を開催させるために動いていたことも知っていた。女皇帝や女大公とは反対側の勢力であることも。

 だから、大公の夫のエルネストが、カスティージョの醜聞を掴んで、勝ち誇ったような様子になった理由もわかっていたのだ。

「でも、でも、まさか大公殿下がこんなところへ直接……あの話の続きをしにいらっしゃるなんて……」

 いくら、自分の反対勢力を排除する工作のためとはいえ、大公自らが、女の身で娼館までやって来るとは、普通は思わない。普通、貴族の女がこう言うところへ乗り込んで来るなら、理由は夫の浮気を咎めるためだ。それにしたって、滅多にないことだが。

「話が通じたようで助かった。話は、あなたの身請け話のことなんだけど」

 そして、次にカイエンが言った言葉に、アルフォンシーナはまた驚かされた。

「カスティージョ様のことではないのですか」

 思わず聞いてしまったアルフォンシーナへ、カイエンは暢気な様子で首を傾げて見せた。

「ああ。そっちが本題だったな。そうだった、そうだった」

 呆れて見守るアルフォンシーナの前で、教授がカイエンに言っているのが聞こえた。

「しっかりしてくださいよ。こんな恥ずかしい扮装までさせられて、ここまで付いて来た、私のことも考えてください」

 その通りだ。

 アルフォンシーナは教授の正体を知らない。それでも、いい年をした男が、こんな格好でお供をさせられたのには同情した。

「じゃあ、早速だけど、二人きりで話がしたいんだけど」

 二人きりで?

 まさか、大公殿下って、そっちの趣味だったの?

 そんな、馬鹿らしい考えが、一瞬頭の隅を横切るくらい、アルフォンシーナはカイエンのこの言葉を、何か遠いところから響いて来る言葉を聞くように呆然として聞いていた。

 

 


 やっと、エンペラトリスが登場。

 カイエンVSアルフォンシーナは、次回。

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