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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第五話 不死の王
134/220

ラ・ウニオン海のディヴァ


 十一月四日。

 親衛隊のモンドラゴン伯爵が、皇帝オドザヤの呼び出しを受けたその日。

 カイエンは、オドザヤがモンドラゴンを追求する一部始終を、宰相のサヴォナローラと大将軍エミリオ・ザラとともに隠し部屋から見聞きした。

 その帰り、カイエンはオドザヤの部屋に寄って、彼女と夕食を共にしてから、夜更けになって大公宮へ帰った。

 サウルが亡くなり、オドザヤが即位してから、カイエンは何度かオドザヤと二人だけで食事をとったが、いつも、彼女たち二人だけの食事の時には、女官長のコンスタンサ・アンヘレスがただ一人で給仕をするのが常だった。

 オドザヤが、呼び出したモンドラゴンを強く追求しすぎた、つまりは「やりすぎた」ことについては、カイエンは一言も触れなかった。オドザヤの方も今日の謁見の間での出来事は、ついに一言もしゃべらなかった。

 二人が話題にしたのは、この頃、後宮で問題になっているという、二人の母親、皇太后アイーシャの処遇のことでもなく、もちろん、 死者の日ディア・デ・ムエルトスに起きた、皇宮前広場プラサ・マジョールの事件のことでもなかった。

 年頃の普通の娘達なら、もっと色めいた話。例えば、オドザヤに来ているザイオンからの縁談話、または送られて来た三人の王子達の肖像画についてなどが話題になっただろう。だが、そんな話題もオドザヤの口からは出てこなかった。

 だから、二人の話題は、大公宮や皇宮での、たわいもない出来事や、この頃読んだ本の話。はたまた、短い間に瞬く間に上達した、オドザヤの螺旋文字の習得などについてだった。

 長い年月、酒浸りだったアイーシャに苛まれて来たオドザヤは、食前酒が済むと、もう酒には手を出そうとしなかった。それを見て、カイエンも遠慮したので、かなり夜更けになって退出の挨拶をした時も、彼女はまったくの素面だった。

 シーヴの待っている、大公の紋を扉にうった馬車に乗り込み、大公宮へ戻る道すがら、カイエンはなんとなく気になって、皇宮前広場プラサ・マジョールをカーテンの引かれた窓からそっと見た。

 だが、もうほとんど周りを囲む建物の窓から灯りが消えた時刻だったから、馬車に取り付けられたランプの照らし出す範囲は限られており、広場の様子をうかがうことは難しかった。

「あの事件以来、ここに屋台の店を出していた人たちのうちの何割かは、他の場所に移っちゃったんだそうです。一時的なことでしょうけれど、寂しいですね」

 そう、馬車のカイエンの反対側の席から話しかけたのは、もちろん、護衛騎士のシーヴだ。気の回る彼には、その時のカイエンの気持ちが読み取れたのだろう。

「そうか」

 この夜は月も無く、馬車のランプだけでは危なかったので、馬車の速度はかなり抑えられたものだった。酔っ払いでも引っ掛けたりしたら、今度はカイエンが新聞種になりかねない。

 だから、いつもよりもかなり時間をかけて、皇宮から大公宮へ着いたのは、もう夜更けだった。

 なのに、大公宮の裏玄関には先客がいた。

 それは無紋の馬車だったが、色や意匠を見れば、この大公宮の馬車であることがわかる。

 カイエンは、嫌な予感がした。 

 大公宮の表の入り口は広くて、同時に何台もの馬車に乗り降りができる。

 だが、大公宮の裏は、そもそも何台もの馬車から同時に乗り降りする必要がないので、門を入るとゆったりと道は裏玄関へと弧を描いて伸びている。馬車もその下を通れる、高い天井の屋根の中の玄関口のすぐ前で、馬車から降りられるようになっているのだ。

 乗客の降りた馬車は、そのまま円形を描く道なりに進めば、そのまま門を出ることもできるし、大公宮の馬車止まりへと入って行くこともできる。

 カイエンの前の無紋の馬車は、乗客を玄関で下ろすと、そのまま大公宮の馬車止まりの方へと進んで行った。

 裏玄関は、乳白色のロマノグラスのランプが、いくつも煌々と照らしていたから、カイエンには降り立った二人の男の背格好から、それがエルネストとヘルマンの主従らしきことがすぐにわかった。

 自分の馬車から降りたカイエンが、裏玄関の中へ入ると、思った通り、エルネストとヘルマンがそこに立っていた。

 エルネストのなりはいつも黒っぽいが、カイエンも貴族育ちである。相手の服が、昨日の夕刻、同じ場所ですれ違った時と同じなのに、すぐに気が付いた。

「まさか……昨日の夜出かけて、今帰って来たのか」

 カイエンが、見たくもない顔を視界に入れながら、うんざりした声で聞くと、相手の方はかなりうれしそうに笑みを浮かべて返事したものだ。

「そうですよ、ご主人様。……名ばかりでも夫の服装には目ざといようで」

 カイエンの後ろで、シーヴが小さな声でいとまを告げ、「また、明日」とか言いながら、裏玄関から隊員宿舎のある方へ消えて行く。

 シーヴはシイナドラドで、危なく夏の公爵に殺されかけたから、エルネストには近寄ろうとしない。それでも、アキノがいなかったら、護衛を継続しただろう。

 カイエンは、音もなく自然に彼女を迎えに出て来た、執事のアキノに、後ろから外套を脱がせてもらいながら、さらに相手を追求した。

「居続け、と言うやつだな。懐が暖かい、放蕩者のする行為だ」

 カイエンが鋭く切り込むと、エルネストはそれをやんわりとうなづいて、受け止めてしまった。この辺りは年齢が七つほども違うから、カイエンは不利だ。それに、カイエンはエルネストに会うのを出来るだけ避けているが、向こうはカイエンを避けてはいない。

 この時も、カイエンは言ってしまったあとで、「余計なことを言った」とほぞを噛んだが、もう遅かった。

「おや、さすがはご主人様。そんな言葉もご存知で」

 エルネストはからかうような口調で言ったから、カイエンはかっとなった。 

「だいたい、予定外に居続けなどされたら、女性の方でも迷惑だろう。確か、会員制の高い店に行くと言っていたな? ああいう店の女性は毎晩、予約で埋まっているはずだ。居続けを喜ぶのは客の予約などない店だ」

 エルネストは思わず、拍手した。これは、カイエンをからかったのではなく、お姫様育ちとは思えない裏事情の詳しさへの賞賛だった。だが、カイエンにはもちろん、からかわれているとしか聞こえなかった。

 エルネストの後ろで、侍従のヘルマンがエルネストの耳元で何事かささやき、なんとか主人を止めようとしているが、この男がそれで止まった試しはない。

「からかっているな」

 カイエンはかなり不快だった。そもそも、このエルネストの夜遊びの掛かりは、大公宮で出すのではないか。まさか、シイナドラドの外交官である、あのケチなガルダメス伯爵が出しているとは思えなかった。この辺りは今度、アキノにちゃんと聞いておこう、とカイエンは頭の隅でメモを取った。

「いやいや、そんなことはありません。さすがはこの街の大公殿下。どんな方面にもお詳しいと……」

 エルネストは最後まで言えなかった。

 カイエンはもう、エルネストの話など聞く気はなく、杖を突いて、さっさと奥へ歩き始めようとしていたからだ。

 エルネストは笑いを含んだ声で、カイエンの後ろ姿へ向かって言葉を放つ。

「おいおい、冷てえなあ。ちょっと待ちなよ! なあ、今、あんたの言ったこと、本当に正しいんだよ。昨夜の俺の敵娼あいかたなんだけど、今日の夜は、夕刻から予約が入ってたんだ。それも、今度、そいつを身請けするっていう旦那のさ! 俺はその予約をぶっちぎってやったんだよ! 夕方、娼館の使いから、この話を聞いた旦那は、さぞや憤ったことだろうよ」

 この言葉には、まだカイエンを引き止める力はなかった。要は自慢話ではないか、カイエンはそう思ったので、すたすたと歩き続けた。杖を突いていれば、リズムとしては普通に歩けるのだ。

 彼女はエルネストの言葉を無視して、もう、奥へとどんどん歩いて行った。そして、彼女の後ろについた執事のアキノが、たいして申し訳なさそうな様子でもなく、エルネスト主従に優雅に挨拶をした時だった。

「おい! これを聞かないで行くと後悔するぜ。……その女、アルフォンシーナっていうんだけど、の旦那の名前、カスティージョっていうんだぜ。それも、伯爵様だ!」 

 今度の言葉には、一瞬でも早く、エルネストから遠ざかりたかったカイエンの歩みをも、止める力があった。

「今、なんと言った?」

 奥へと続く、長い廊下の途中から、背中で聞いたカイエンへ、エルネストは「勝った」という顔つきで言ったものだ。

「俺は今日、コンドルアルマの将軍様の、高級娼館のご予約をぶっちぎって来た、って言ったんだよ」

 一応、カスティージョの名前が出たから、カイエンは立ち止まったが、それだけなら、彼女はすぐにまたエルネストから遠ざかる方を選んだだろう。

 だが、カイエンも、次のエルネストの言葉を置き去りにして、去って行くことは出来なかった。

「アルフォンシーナに聞いたところでは、将軍様は、娼婦おんなにいじめられるのが、ことのほか、お好きなんだそうだ。これは醜聞だろ? 男、それも軍人にとっちゃ、最悪の種類のな」

「なに?」

 カイエンが今度こそ、仕方なしに振り向くと、エルネストは揉み手せんばかりの風情でこう言うところだった。

「まあ、こんな玄関先じゃなんだ。ご主人様のお居間にでも通して欲しいなあ。そこでゆっくり話そうじゃないか」

 と。


 カイエンはアキノと顔を見合わせた。

 カイエンは自分の寝室に近い居間にエルネストを、たとえヘルマン付きでも、招き入れたくなどなかったので、彼らは揃って大公の食堂へと入って行った。

 廊下の途中で、敏感に裏玄関の異変を感じ取ったらしい、侍従頭のモンタナと、女中頭のルーサが合流した。ルーサがそっとカイエンの耳元で言ったところでは、乳母のサグラチカはリリを寝かしつけたまま、自分もうとうとしてしまっている、とのことだった。

 アキノは二人に、お茶の準備をして持って来たら、下がっているように命じたので、二人はすぐに厨房の方向へと去って行く。

 カイエンとエルネスト主従、それにアキノが食堂に入ってしばらくすると、今度は知らせを聞いて駆けつけたらしい、真っ黒な大公軍団の制服を着ていてさえ、人一倍大きな男が入って来た。

「ちょうど、仕事が終わって戻ったところでして」

 そう言うと、ヴァイロンはカイエンとエルネストの間の席に、さも当然のように座り込む。

 カイエンの後ろには、アキノ。

 エルネストの席の後ろにはヘルマンが、無表情で佇んでいる。

 彼らは皆、侍従のモンタナが茶菓を運んで来るまで、一様に黙りこくっていた。時間はすでに真夜中近く。たった五人がいるには広すぎる大食堂は、入って来てすぐにアキノが手ずから暖炉に火を入れたが、それでもまだ寒々としていた。

 もう十一月ともなれば、ハーマポスタールでも夜は冷え込んで来るのだ。

 カイエンは、さっきアキノに脱いで預けた外套を、もう一度着込んでいた。

 カイエンのカップにはアキノが、エルネストのそれにはヘルマンが、別のポットから茶を注ぎいれる。

 モンタナは残ったポットで、ヴァイロンのカップを満たしたのち、丁寧に挨拶をして出て行った。

「じゃあ、そろそろ始めようか」

 エルネストも寒さを感じていたのか、酒を出せ、などというわがままは言わず、すぐに紅茶に口をつけた。眠気覚ましの効果を狙ったのか、紅茶からはかすかに生姜ヘンヒブレの香りがした。大公宮の召使いたちは有能である。

 そのままでは、ヴァイロンには話が見えないから、カイエンは簡単に先ほど玄関ホールで交わされた会話を話して聞かせた。

 ヴァイロンは無表情のまま聞いていたが、カスティージョの名前が出ると、憤懣やるかたない、と言いそうな表情になった。

 カイエンも、改めて自分で話してみれば、ヴァイロンがそんな表情になる理由はすぐにわかる。もう三年目の付き合いだから、彼の思考のたどる道筋も、至る場所も簡単に想像できた。

「しかし、つい一昨々日に息子が不始末をやらかしたというのに、その親父が娼館遊びとは。まあ、娼館に予約を入れたのは事件の前かもしれんが、それにしてもな。その上、身請け話だと?」

 改めて、ヴァイロンの心を代弁する形で、カイエンがそう言うと、エルネストは面白そうな声を出した。

「ああ、身請け話はもう先からあったんだよ。俺が予約入れてたのに、女がすぐに出てこない時があってさ。その時、なーんとなーく、このヘルマンに俺の前の客をつけさせたんだよ。そうしたら、大当たりさ」

「なぜ、その時すぐに言わなかった?」

 カイエンが切り込むと、横で、怖い顔のヴァイロンもうなずいた。

 そういえば、とカイエンはちらりとヴァイロンとエルネストの方を盗み見た。いつの間に、こいつら同士はいがみ合うのを止めたのだろう。エルネストが来た直後は、会わせたら血の雨が降りそうな雰囲気だったのに。

 彼女は、サウルの葬儀の夜、彼らが、カイエンを部屋に行かせて、一対一で対話した内容は知らされていなかった。あの後、部屋に戻って来たヴァイロンを問い詰めたのだが、彼は頑として話そうとはしなかったのだ。

「いや、カスティージョが間違いなく、その女の旦那で、『そっちの趣味』も間違いない、ってのを確認してからにしたかったからさ」

 エルネストはそこは抜かりなく答えた。カイエンは、胡散臭そうに見たが、口では違う質問をした。

「さっきは、カスティージョは、娼婦おんなにいじめられるのが好き、とか言っていたな。その、なんだっけ? アルフォンシーナか、は客を鞭とかで叩いたり、踵の高い靴で蹴ったり踏んだりするのか?」

 なんで、そんなことを知っているのだ。

 エルネストとヘルマンは、ちょっと頰のあたりが引きつったが、アキノとヴァイロンは平気な顔だ。

 エルネストとヘルマンは、娼館遊びなどしたことがあるはずのないカイエンが、そこまで知っているとは思わなかったのだろう。実のところを言えば、カイエンがこの知識を得たのは、流行りの怪しげな通俗小説からだったのだが、そのことは執事のアキノや、ヴァイロンなど、ごく近しい者しか知らないことだった。

 ヴァイロンも、最初のうちは寝台に寝転がって、怪しげな絵の描かれた表紙の通俗小説を読みふけるカイエンには驚いた。だが、そんなのはもう通り過ぎた昔のことだった。

 カイエンは時折、仕事の途中や帰りに、街中の本屋に立ち寄ることがある。本屋には、この街の大公殿下が通俗小説を山と買い込んでいくから、最初のうちは驚愕されたものだ。

「あ、ああ。多分、それだな」

 エルネストは、結局、彼には珍しく穏便な返答を選んだ。だが、それで終わらないのがこの男の性格だった。  

「そうそう! それに、こいつも言っとかないといけないかな。そのアルフォンシーナって娼婦おんな、声がご主人様にそっくりなんだよ。おまけに男みたいな話っぷりも」

「はあ?」

 これには、カイエンも思わず変な声が出てしまった。

「アルフォンシーナに聞いたところじゃ、カスティージョは気が付いてないそうだけどな。面白いよな」

 カイエンは何か、心に引っかかったが、すぐにはそれに気がつかなかった。気が付いたのは、太い眉のあたりを厳しくしかめたヴァイロンがこう質問したからだ。

「……ところで、どうして皇子殿下は、カイエン様と声がそっくりな娼婦のところへ通っていたのですか」

 ずばりと聞いたヴァイロンの言葉を聞いて、カイエンはやっと気が付いた。そして、カイエンも嫌そうにこう聞いた。

「おまえは、私にいじめられたかったのか? ……ああ、いい。聞きたくない」

 カイエンは去年の、シイナドラドでの、悲惨極まる思い出が蘇りそうになったので、何か答えようとしたエルネストを遮った。頭をぶるりと振るようにして嫌な思いを振り払うと、彼女は前向きに話を進めていった。 

「話はわかった。だが、どうするかな。これはデリケートな話だぞ。身請け前にしろ、身請け後にしろ、カスティージョの性癖を読売りかなんかに流したら、すぐにその……アルフォンシーナか、その女性が疑われる。娼館では他の客の話を違う客にするのは、最大のご法度だろう」

 カイエンがそう言うと、エルネストとヘルマンは顔を見合わせた。

 だが、先ほどの「そっちの趣味」話で、カイエンがこういう方面にも詳しいことが分かっていたので、もうそれほどには驚かなかった。

「かと言って、おまえが彼女を、カスティージョからトンビに油揚げで身請けしたら、それはそれで読売りに流したのが、こちらだと暴露ばれるしな。もしやるとしても、おまえの名前は伏せないといけないな。こちらの醜聞が流れたら困る」

 これを聞くと、エルネストは、はったと、真っ黒の一つだけの目を見開いた。

「ちょっと待て。俺が身請けしていいのかよ?」

 その質問は、エルネスト以外の男三人にとっても、もっともな質問だったので、皆の視線がカイエンの上へ集まった。

 カイエンの方は、至って真面目に考えてしゃべっているので、平気な顔で答えた。

「いいんじゃないか。おまえも彼女にいじめられるのが好きなんだろう? まあ、彼女の方は迷惑かもしれないが……。まあ、どうするにせよ、一度、アルフォンシーナの気持ちを聞いておかないといけないな」

 高級娼館の女とは言え、一介の娼婦の気持ちを聞いてからにしよう、と言うカイエンを、男どもは呆然と眺めていた。最初に正気に返ったのは、意外にも、ヴァイロンだった。

「では、皇子殿下のご紹介、ということでその店にご予約を入れられたら、いかがですか」

 この提案もまた、他の三人の男どもには度肝を抜かれるようなものだったようだ。だが、皆、沈黙を守った。

「そうだな。しかし、ヴァイロン、おまえが一緒に行ったら目立ちすぎるな。シーヴじゃ、若造すぎるし……。ああいうところに、女が主人で行くのも変だ。私は従者かなんかに化けないといかんだろう。そうなると、お金持ちか貴族かに見えるやつでないと……」

 えっ、カイエン自身が会いに行かなくっても良いのでは。

 エルネストもヘルマンも、そしてアキノも、そう思ったが、カイエンとヴァイロンの二人の頭の中では、本人が行くべきであるものらしい。

「マテオ・ソーサ先生はどうですか。お歳的にはちょうどいいのでは?」

 真面目な顔でヴァイロンが提案する。

「うーん。どうかな。貴族には見えないだろう。金持ちにも……」

「そうでもありません。先生はあの通り、性格や話し方は目立ちますが、黙ってそれなりの服装をなされば、金持ちの、ああ、因業な金貸しかなんかの、その、ちょっと変わったご趣味のお方に見えると思います」

「でも、先生じゃ、腕っ節は期待できないだろう。ああ、そうだ。ナシオとシモンがいたな。彼らに影から見張ってもらおう」

 カイエンは名案を思いついた、というように言う。ちなみに、ナシオとシモンは、ザラ大将軍のところから預けられた、この大公宮の影使いである。 

「では、すぐにそう取りはからいましょう。このことは宰相殿へは?」

「もちろん、言っておくべきだろう。だが、これはサヴォナローラの方では動けないだろうから、うちでやるしかないな」 

 エルネストたち三人は、あっという間に、変態金持ち因業親父の役を振られそうな雲行きになってきた、マテオ・ソーサが気の毒になってきた。それに、あの歳まで独り者で、研究三昧の教授が、娼館遊びに慣れているとも思えなかった。

 だが、賢明なことに、みんな黙っていた。確かに、大公軍団周りで、金持ちに化けられそうで、あまり目立たない見かけなのは、教授くらいしかいない。貧相なのは、かえって高利貸しの因業親父役に合いそうでもある。

「じゃあ、そういうことにしよう。エルネスト、今日は上出来だったぞ。居続けの放蕩と浪費には目をつぶってやる。いじめられる快楽に目覚めたこともな!」

 カイエンはそう言うと、もう立ち上がっていた。後ろにヴァイロンとアキノを引き連れて、自分の部屋の方へ向かう背中を、エルネストとヘルマンは呆れて見送るしかなかった。

「俺は、いじめられに通っていたわけじゃねえよ」

 最後の最後に、エルネストが言った言葉は、相手に伝わることはなく、そして、侍従のヘルマンにさえ無視されたのだった。








 話はやや遡る。

 十月の中旬。

 ラ・ウニオンの内海。天気は快晴。風は順風。

 水面は空を写して真っ青だった。ハーマポスタールではもう朝夕は冷え込むだろうが、この南のネグリア大陸との間の海は、年中、温暖な気候だ。

 何もなかったら、景色も潮風の心地よさも、最高の日だっただろう。

 九月の下旬にハーマポスタールを陸路で出た、ナポレオン・バンデラスは、途中から海上へと移動手段を変えた。

 付いてきていたお付きの部下の半分は、陸路のままモンテネグロへ向かわせている。そして、今、この船に乗り込んでいるのは残りの半数だ。彼らは船員たちに混ざって、必死の操船を手伝っている。

 皆が今、忙しく動きながらも、ラ・ウニオンの内海を進む貨物船の甲板から、そろそろ見えてくるはずの「その場所」の方角をちらちらと眺めていた。

 その時、貨物船は危機的状況にあった。

 この時代の船は、帆船である。その発達によって、今は遠く東の果ての螺旋帝国までの航路が拓かれた。

 そして、戦いに大砲が取り入れられ始めたのは、陸上の戦争よりも海の上の方がやや早かった。これもまた、海上交通が多くなるに従って増加した、「海の上の略奪者」、海賊たちが金にモノを言わせて始めたことだった。不思議なことに、海に面した各国の海軍は大砲の導入に関して、海賊に遅れをとった。

 これは、最初に海賊に大砲の利点と技術を教えたのが、パナメリゴ大陸最古の国、シイナドラドだったからとも、羅針盤や海図を先に取りいれていた、螺旋帝国だったからとも言われている。

 ともかく。

 現在、ラ・ウニオンの内海を行く船には、大きな船ならば必ずといっていいほど、大砲が導入されていた。

 貨物船の船長は、もうバンデラス公爵の正体を知らされていたから、この危機を引っ張り込んだのが、彼だということには気が付いていた。

 どうして、自分の領地モンテネグロから、自前の船が迎えに来るまで、港で待っていてくれなかったのか。どうして、自分の貨物船を選んで乗り込んできたのか。

 かなりの大枚を提示されて、喜んで乗せた自分を、中年の船長は心の底から呪っていた。

「敵船、砲撃準備に入りました!」

 マストの上の見張り台から、緊張した見張りの船員の声が聞こえた直後。

 砲撃の音と前後して、貨物船のすぐ後ろの海が裂け、砲弾が落ちた。そろそろ、大砲の飛距離まで相手の船が追いついてきたのだ。そして、敵船には船首にも大砲がある。程なく、この船は後方からの砲撃に晒されることだろう。

「くそ。あいつら、いやに操船が上手いな」

 船長が言うまでもなく、彼我の距離は詰まってきていた。

 バンデラス公爵と、船長が振り返ると、大砲の飛距離ぎりぎりに迫って来る船が見えた。同じくらいの大きさの船なので、今まで砲撃されすに済んだが、もう少し距離が縮まったら、大砲の打ち合いになる。そうなれば、船の進む方向は同じでも、大砲を撃つ方角は反対になるから、風下側が不利になる。

「もう少しなんだがな。なんとか、もう少し早くできないかね」

 バンデラス公爵は一応、聞いてはみたが、無理なことは分かっていた。

 ここでは、貨物船が海賊に襲われる危険はいつものことだから、特にこの船の操船が下手なわけではない。相手の操船が上手いのだ。

 バンデラス公爵の頭には、去年の春、モンテネグロの港に入ってきた、ラ・パルマ号の姿が蘇っていた。無人のまま港へ入ってきた船。無人なのに、船内が血まみれだった船。

 自分が狙われる理由は、自分が母と息子という人質を預け、皇帝オドザヤや、大公カイエンの側についたからだろう。実際には、ハウヤ帝国から自領モンテネグロが離れる可能性を、彼女たちには伝えてあるが、そんなことは「彼ら」には関係ないに違いない。

 彼らとは、ラ・パルマ号から降りた男たちの、そして、代わりに乗り込んだやつ、マトゥサレン・デ・マールの属する組織だ。

 「桔梗星団派」。

 前の大公だった、アルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタールが党首に立つ、あの、はた迷惑な団体だ。間違いなく、シイナドラド、そして螺旋帝国ともつるんでいる。おそらくは、彼の母親サンドラの故郷、ザイオンとも。

 彼らの目的は、第一にハウヤ帝国を崩すことだろう。だが、その最終目標はまだ、見えない。

 バンデラス公爵は、カイエンと再会したアルウィンが口にした、「新世界」の構想は知らなかった。だが、聞いていたとしても、今の状況が変わるわけではない。

 その時、マストの上の見張り台の船員から、声が降って来た。

「あれ! 見えてきましたぜ。……ディヴァ島だぁ」

 聞いた途端、バンデラス公爵の厳しい顔つきから、表情のすべてが、すっと消えた。

 ディヴァ。

 その言葉の意味は、「神々しい女神」だ。

 その島は、その名前ゆえと、潮の流れの方向によって、この航路を通る船舶がほぼ必ず横を通り抜ける島である。

 ディヴァ島の外観は、かなり変わっていた。

 と言うより、奇怪と言う形容がふさわしい。ディヴァ島は無人島で、岩で覆われた高い塔のような島だ。砂浜もないので、横は通っても、そこに降りる船乗りはいない。

 ディヴァ島は、正確に言えば、一つの島ではなかった。高くそびえた岩だらけの塔のような島本体の周りを、ぐるっと囲むように、島本体の岩とは色を異にした、本体よりは高さの低い、ほぼ円形の奇怪な形の岩の島が、途切れずに巡っているのだ。

 それは、すっくと立った女神と、それを讃えて周りを取り囲んだ信者たちを連想させ、それでここはディヴァ島と呼ばれるようになったのだという。

 これも奇怪なことに、この島の周りは水深が深く、かなり島寄りに進んで行っても座礁することはない。

「公爵様、大丈夫ですよね? おっしゃってたことは、間違いないですよねえ」

 船長が、バンデラス公爵の背中に、必死の声をかける。他の忙しく立ち働いている船員たちも、気持ちは同じだろう。

「さあな。日付はハーマポスタールから使いを出して連絡した通りだ。もっとも、これほど正確に到達するとは思っていなかった。船長、感謝するぞ」

 バンデラス公爵は、おのれの準備が何らかの理由で阻まれ、モンテネグロへ連絡が言っていなかったら、と思わないわけではなかった。

 陸路を行く間にも、二度ほど襲撃されている。予想はしていたから、何とか切り抜けたが、敵だけでなく味方にも死傷者が出た。モンテネグロへの使いが奴らに阻まれていれば、この船にもう勝機はない。

 この貨物船は、バンデラス公爵の策を信じて、砲撃準備はしているものの、砲台を敵船の側に向ける動きはせず、先を急いでいる。この様子を敵が怪しまなければいいが……と、この船の皆が思っていた。

「敵船、一斉砲撃!」

 そして。

 見張り台からの声とともに、凄まじい破壊音が聞こえ、とうとう船尾に砲弾が命中した。と言っても、精度が高いわけではないから、命中したのは一つだけだったようだ。だが、帆船は船首と船尾の構造が弱い。砲台もそちら側には少ないか、まったくないかだ。この貨物船には、もちろんない。

 叫び声が聞こえたが、船長はひたすら先を急がせた。

 ディヴァ島の側面に差し掛かり、そそり立った岩山の向こう側が見えた瞬間、船長はバンデラス公爵の命令を待たずに、砲撃準備を命じていた。

 この貨物船では、砲撃は相手に舷側を向ける必要がある。今までは先を急ぐためにそれを避けていたのだ。

「撃てえ」

 船長が叫び、横っ腹を敵船に向けた貨物船から一斉に大砲が打たれる。火薬のにおいが立ちこめた。だが、大砲の数自体が敵船よりも少ないため、敵船はひるむことなく打ち返してきた。

 横っ腹にも、砲弾をくらい、船が激しく揺れた。このままではこの貨物船が沈むのは時間の問題である。敵の大砲は鳴り止まない。

 だが、風向きはもう、こちら側に変わろうとしていた。


 その時だった。

 ディヴァ島の周りを円形に囲む、岩の向こうの左右から、貨物船や敵船よりも大きな、二隻の帆船、それも武装帆船の姿が現れたのは。

 貨物船の進む方角に現れた方は、貨物船が進路を塞いでいるから、すぐには相手側に砲撃が出来ないが、反対側からの船からは砲撃が可能だ。それも、敵の船よりも多い大砲で。

「ああ! あの紋章!」

 船長も船員も、バンデラス公爵の部下たちも見た。

 武装帆船のマストの上に翻る、バンデラス公爵家の紋章の染め上げられた、鮮かな黄色地の旗を。その意匠は、赤いバンデラを掲げたコンドルだ。

 ナポレオン・バンデラスは、目の前をこの船とすれ違う位置で帆走してくる軍船の甲板に、見えるはずのない姿が見えるような気がした。あの船の名前がわかったからだ。偶然だが、この船とすれ違う方向に出てきた方の船は……。

「エンペラトリス! 間違いない、エンペラトリス号だ。よかった!」

 彼の愛する長女の名前を冠した船。それを見るバンデラス公爵の目には、娘が助けに来てくれたかのように見えたのだろう。

 ディヴァ島の向こう側の武装帆船は、大砲を打ち続けている。敵船は船尾を見せて、逃げに入っているようだ。

 貨物船とエンペラトリス号が、十分な距離をとってすれ違う。

 その時、バンデラス公爵はエンペラトリス号の甲板に、娘の、彼と同じ珈琲色の顔に、それとはそぐわない金色の髪をした、彼によく似たすらりと背の高い姿を見たように思った。

「はは。……まさか、な。さすがに軍船に乗ってくるはずがない」

 バンデラス公爵の呟きは、砲撃の音にかき消された。

 エンペラトリス号もまた、砲撃を始めたのだ。

 こうなれば、もう、船の皆が振り向くまでもなく、敵船は船全体に砲撃を受け、マストは折れ、舷側は破壊され、浸水が始まっているはずだ。

「よかった! 助かった!」

 貨物船の船員たちは、それこそ本当にそれが神々しい女神、ディヴァであるかのように、ディヴァ島の黒く空へのびた岩山を見上げたのだった。

 

 

 エンペラトリス、名前だけの登場でした。

 すみません。

 次回は、出ると……思います。

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