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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第五話 不死の王
131/220

死者の日 2


 広場。

 それは、街中でいくつかの道が交差する場所に設けられている。

 真ん中には噴水や、彫像などが置かれる。小さな庭園のようになった場所がおかれる場合もある。

 広場。

 そこは、平和な時代には、祭りの時などに、人々が集まる場所として解放されることもあった。

 広場。

 だが、その意味は時代とともに変わって行った。

 広場。

 暗い時代に差し掛かると、そこは刑場として使われることもあった。

 広場。

 そして、時代がもっと下がると、そこでは多くの無辜の市民の血が流される場所となる。


 広場。

 ハウヤ帝国帝都ハーマポスタールの皇宮前広場は、長く、ただ「皇宮前大広場プラサ・マジョール」と呼ばれていたが、ある時代からその名前を変えていくこととなる。

 

 悪魔の門広場プエルタ・デル・ディアブロ、と。

 もっとも、その名前が大っぴらに呼ばれることはなかった。


 広場。

 そこは、人々の集まる場所。

 それだけは、どんな時代にも変わることはない。




    「自由新聞リベルタ」主筆レオナルド・ヒロンの備忘録より

 






「こうなってみると、先のサウル皇帝陛下が、大公軍団に帝都防衛部隊を創設させて、大公軍団の人数を倍増させたのは、先見の明があったとしか言いようがないねえ。二年前のあの時には、無茶苦茶なことばかり大公軍団におっ被せてくるなあ、なんて思ってたけど」

 十一月一日の朝。大公宮表にある、大公軍団長の執務室で、執務机を挟んで、三人の軍団員が向かい合って座っている。

 大公宮の奥では、料理長のハイメを中心として、執事のアキノや女中たちが、大公の食堂に華やかな祭りの準備をしているはずだ。ハイメご自慢の装飾菓子ピエス・モンテも並ぶのだろう。

 だが、大公宮の表、大公軍団の本拠地であるこの場所には、今日も浮かれた雰囲気はなかった。

 まだ早朝という時間ではあったが、もうすでに昨日、十月三十一日から臨戦態勢、というか祭り前の最後の調整作業で、軍団長様はろくに寝てもいなかった。

 それでも、こんな勤務状況には慣れっこの、イリヤボルト・ディアマンテス軍団長である。

 彼の、これだけは文句のつけようのない美貌は、気怠さをまとって、客観的な美しさ指数では通常時を上回っていたかもしれなかった。

「そうですねぇ」

 そう返事をした、大公カイエンの護衛騎士であるシーヴの方は、こちらは遠慮会釈なく、眠そうな顔を隠そうともしていない。彼にとっては、イリヤのとんでもない美貌も、とっくに見慣れたものだ。

 彼は亜麻色の髪の毛を、片手でぐしゃぐしゃとかき回した。ちゃんと朝になって職務に着く前に、宿舎に戻ってさっぱりしておこう、と内心で思いながら。

 もう一人は、治安維持部隊長の双子の弟の方のヘススだったが、彼はこんな時間も惜しいのか、椅子にもたれたまま、目をつぶり、眠っているように見える。浅黒い、いつも無表情な顔は、寝ていると蝋人形かなんかのように見えた。

「まあ、何事も起こらなければ、いいんだけどぉ」

 イリヤは鼻くそでもほじり出しそうな、退屈でくたびれた風情で、長い足を長靴を履いたまま机の上に上げた。さすがに、白い書類の紙の束の場所は避けたが、いかにも怠惰な様子でペンだのインク壺だのは、足先で左右に押しやった。

 そんな上司の様子を、驚いたふうもなく見ながら、シーヴはそう広くもない部屋の暖炉の方へと歩いていく。熾火が残っていたので、湯でも沸かして珈琲でも淹れようか、と思いついたのだ。

「奇術団コンチャイテラには、見張りをつけてるんですよね?」

 暖炉の前から火かき棒を取って、灰の中をかき回すと、真っ赤に火がおきて来た。脇の小机の上には、それ用の薬罐があったので、中身を確かめると、まだ半分ほど入っていたので、そのまま、彼はそれを暖炉の上のかぎに引っ掛けた。

「下町の……外国人の多い界隈は、今日のお祭りも関係ない人たちが多いですが、そっちへも人数を割いてます」

 シーヴの問いに答えたのは、イリヤではなく、むくりと顔を上げた、治安維持隊長のヘススの方だった。兄貴のマリオの方は、今も街中で働いているはずだ。

「街中の広場や、運河沿いへは?」

 暖炉の前で、今度は金属製の珈琲ポットに、すでに挽いて缶に入れてある珈琲を、いく匙かすくっては入れているシーヴを見ながら、イリヤが聞く。

「それも抜かりありません。ただ、皇宮前の広場だけは親衛隊の管轄になりましたから、例外です。あそこの署の署長には、いざという時にはとにかく、市民の安全を確保しろ、と命じてあります。他の場所は、帝都防衛部隊の人たちが、日頃の訓練の成果を見せてやるって、息巻いてますから大丈夫でしょう」

 これを聞くと、イリヤは面白がっているような笑みを浮かべた。

「ああ! 皇宮前広場プラサ・マジョールの署長は、あのヴィクトル・カバジェーロだもんね! あいつならまー、なんか起きてもなんとかするわ。……帝都防衛部隊の方には、訓練の成果を見せられちゃ、ある意味、困るんだけど、ね」

 イリヤはそう言うと、しばらく面白そうにへらへら笑っていた。寝不足で一度、変なスイッチが入ってしまうとなかなか止まらないらしい。

 そんな上司の様子を見ながら、湧き上がった熱湯を珈琲のポットに注ぎ入れているシーヴの方は、内心で、

(あー。イリヤさんのあの様子だと、きっとなんか起きちゃうんだろうなー。困ったもんだけど)

 と思っていた。彼の経験値では、イリヤが疲れていて、こういう状態にある時に限って、事件が向こうからやってくるのだった。

 





 「死者の日」ディア・デ・ムエルトス」の第一日目。

 そろそろ正午にさしかかろうかという時間。

 大公宮の前の広場では、市民たちも日頃から見慣れた、大公軍団の黒い制服があちこちに見え隠れする中、街の顔役や、様々な職業ギルドによって選ばれた人々が広場に砂絵を描き、市民たちは晴れ着を身に付けて、集まりだしていた。

 大公宮周りの警備には、近衛も駆り出されていたが、こちらは大公軍団と図ったうえで、市内の目ぬき通り沿いの警備と、ハーマポスタール市の外縁部の警備を担当していた。土地勘のある大公軍団が市内の警備を担当し、郊外は近衛が担当するように取り決めていたのだ。

 だから、市内で見られる近衛の姿は大通りの周りだけで、これは馬に乗り、半分、祭りの華やかさに色を添える存在のように見られていた。大公軍団の黒い制服とは違い、近衛の青灰色の制服は、意匠や色も華やかで明るかったこともあるだろう。

 近衛に士官として任官するには、帝国国立士官学校を卒業することが求められる。

 卒業後に近衛に配属されるのは、四つのアルマへの配属とは違い、貴族の次男三男や、家柄のいい者が多かったから、目鼻立ちも整った者が多く、若い娘たちなどの中には、黄色い声を上げて嬉しがるものも多かった。

 すでに砂絵が描かれるのと同時に、色々な食物を提供する屋台が立ち始め、芸人たちは各々の極めた芸を見せるために集まり出していた。

 そんな、大公宮前広場では、まだ昼前だというのに、晴れ着に身を包んだ市民たちの中心で、極楽鳥のような踊り子が舞を披露していた、その同じ時。


 皇宮の前の大広場プラサ・マジョールでも、同じような光景が繰り広げられようとしていた。

 もっとも、ここを警備するのは、黒い大公軍団の制服ではなく、臙脂色の皇帝の親衛隊の制服だ。

 皇宮の警備は親衛隊だけではなく、フィエロアルマも駆り出されていたが、皇宮の要所に少人数が立っている他は、大公軍団と近衛との連帯と同じく、市内の大通りから郊外への大きな道沿いに配備されていた。

 近衛とフィエロアルマの人数は必要だったが、日頃、街中では馴染みのないフィエロアルマの深緑色の制服が街中を大人数で闊歩すれば、市民たちは不安に思うだろう。それに、近衛とフィエロアルマは軍隊だから、街中で起こるような騒ぎへの対応には慣れていない。

 餅は餅屋、という訳で市内の警備は大公軍団が総出で当たり、ハーマポスタールの大通りの人の動きを監視、警備し、街の周囲を守り、地方からやってくる人々の出入りを見張る方は、近衛とフィエロアルマが行うことになったのだ。

 という訳で、皇宮前広場の方には、大公軍団の黒い制服の姿は少なく、その代わりにあちこちに見えるのは、親衛隊の臙脂色の制服だった。

 親衛隊も、近衛と同じく、皇宮に出入りする親衛隊の隊員には貴族の次男三男それ以下の者や、豪族、名家、大家の出が多く、庶民出身の者は少ない。だが、近衛と違うのは親衛隊員になるには、国立士官学校を卒業する必要はない、というところだ。

 では、大公軍団への入隊と同じように公募されるのかと言えば、それは違う。

 親衛隊というのは、皇帝の下に直接連なる一隊であるから、人数は多くない。こちらはほとんどが縁故で採用され、一定の訓練の後に任務に就くのだ。

 そんな親衛隊員たちの臙脂色の制服が見守る中。

 皇宮前広場では、ほとんどの砂絵が仕上がっていたが、どうしたことか他よりも作業の遅れた、一つの集団が、砂絵の仕上げにかかっていた。 

 砂絵の横には、もう、屋台がいくつも立っている。

 祭りらしく、色とりどりの色紙や布地で飾られた屋台の車は、いかにも素朴なものだが、その彩と雰囲気は華やかだった。焼き栗の屋台や、搾りたての精製されていない砂糖黍サトウキビ汁を煮立てた茶色い素朴な飲み物の店。それに色とりどりの砂糖菓子や焼き菓子、飴玉などを並べた店などが、まさに店開きをしたところだった。

「……なんだこの絵は!? この制服! まさか俺たちを皮肉っているのか!」

 晴れ着を着て集まり始めた人々の中を、鋭い男の声が雷のような激しさで通り過ぎて行ったのは。

 声の主は、体格のいい、褐色の髪の若い男だったが、その目の色が白に近いほどに薄くて、そして白目が血走っているのが、近くで見ていた人々の印象に残った。

 その砂絵を描いていたのは、どうやら何かの職人のギルドの集団だったようで、それは彼らの皮の前掛けをした姿で皆には一目瞭然だった。

 若い親衛隊員の大声を聞いて、その中から、代表者らしい年配の男が、困惑した顔で進み出た。

「いいえ。いいえ。これは、今日、この……お祭りの日なのに警備をしてくださっている……みなさまへの……その、感謝の気持ちを……」

「感謝!? 馬鹿を申すなっ! それならどうして我らの顔が髑髏なのだ! 我らを死者の列に並べるつもりかっ」

 その頃には、その親衛隊員の声を聞いて、近く集まって来た人々の中の多くが、彼が警備の仕事についていながら、したたかに酔っ払っているらしい、ということに気が付いていた。

 幾人かの人たちには、彼以外の親衛隊員もまた、酒臭い息を吐いているのに気がついた者もいた。

 だが、砂絵を描いていた男のたちの中の頭株で、親衛隊員に対応していた年配の男には、いきなり怒鳴りつけられたこともあって、相手の様子に気がつくゆとりがなかった。

 その頃には、怒りの声で畳み掛ける親衛隊員と、自らの描いた砂絵の前で立ちすくんだ年配の男、二人の周りは、群衆で囲まれていた。

「そんな……。死者の日の髑髏はむしろ縁起物……。そのような考えは全然……」

 職人ギルドの男は、困り切った顔をしていた。だが、激昂する親衛隊員に困惑しつつも、彼は誠実に話を続けようとした。

 だが、気の毒な男は、最後まで言葉を続けることができなかった。

「うるさいっ!」

 親衛隊員が地団駄を踏んで、大声で叫ぶ。

 そして、その直後。

 ひどく鈍い、だが異様な音が、すでに二人以外の人々が静まり返って見守っていた、広場の中に響き渡った。

 それは、拳が力いっぱいに肉と骨を打ち据えた、圧倒的な暴力の音だった。

「あっ」

 親衛隊員が、男をしたたかに殴りつけたのだと、皆が理解した時には、職人ギルドの年配の男は、自分たちが描いた砂絵の上に叩きつけられていた。

 ぱっ、と砂が撒き散らされ、あたりに赤い砂が飛んで散らされる。その様子は、まるで血がしぶいたかのように鮮烈だった。

「ああっ」

 年配の男は、臙脂色の制服を着た骸骨の上に、仰向けに倒れた。

 その様子を見て、群衆の中の女たちから小さな悲鳴が上がった。見ていた男たちもまた、腕で飛び散った赤い砂から身を守るようにして、呆然と見ているばかりだ。

 だが、体格のいい親衛隊員は、それだけでは止まらなかった。

 彼は、倒れた年配の男そばに歩み寄ると、その腹と言わず背中と言わず、身体中に、固い軍靴の補強されたつま先を打ち込み、これまた鋲の打ち込まれた靴底で踏みつけ始めたのだ。

 その様子は、酔っ払いの所業としても、あまりにも乱暴で、異常さを感じさせるものがあった。

 そして、周りの親衛隊員たちもまた、同じように異様だった。

 彼らは、この暴行を止めようともせず、それどころか、笑いながらそれに加わって行ったのだ。

 ああ。彼らはその部隊全員が、祭りの酒に、したたかに呑んだくれていたのだった。自分を失うほどに。そんな彼らの、酒で思考の限定された頭の中では、ただただ、祭りの日に駆り出され、働かされていることへの不満が渦巻いていた。

 もちろん、職務についている彼らには、祭りの酒などは許されてはいない。それは、どんな方向から見ても、異常な事態だった。

 自分たちの描いた砂絵の中を、転がって逃げようとする年配の男を、仲間の男たちが助けようとしたが、彼らも、体が大きく、栄養状態もいい親衛隊員の前ではどうにもならなかった。

 親衛隊員たちもさすがに、腰の剣を抜く者はいなかったが、それでも砂絵を描いていた男たちの方は、みるみるうちに傷つき、血を流し始める。

 そこに集まっていた市民たちは、赤い砂の舞う中で、本物の血が流れるのを見せられたのである。

 こんな一方的な暴力沙汰は、この普段から治安のいいハーマポスタールでは、場末の下町でも、そうそう見られるものではなかった。しかも、ここは帝都の中心、皇宮前広場プラサ・マジョールなのである。

「きゃあああああああッ」

「いやあああああああ、助けてぇ!」

 とうとう、前の方で見ていた女たちから、大きな悲鳴が上がった。

 彼女たちは、後ろへ向かって逃げようとして、後ろの人々とぶつかり合い、勢いよく転んでしまう。その頃には、広場に集まった群衆は集団的な恐怖にのっとられてしまっていた。

「たいへんだぁ! 助けを呼んでこい! 大公軍団の署から誰か呼んでこい!」

「おい、逃げるんだ! お前も殴られるぞ!」

 内側の人々は動けなかったから、中程から後ろの何人かの市民が、逃げながら、反射的に走って行ったのは、この皇宮前広場に一番近い、大公軍団の署であった。

 市民たちにとって、こういった場合に頼れるのは、大公軍団の治安維持部隊だけだったのだ。

「何をしている!」

 やがて、黒い大公軍団の制服が幾人も駆けつけた時には、臙脂色の制服を着た髑髏たちの砂絵は、跡形もなく消え去っていた。大公軍団の隊員が見たのは、逃げ惑う人々の中心で、親衛隊員たちが一方的に市民に暴力をふるっている、という、ありえない情景だった。


 この事件は、すぐに皇宮前の署から、大公のカイエンの元まで報告された。その時、カイエンが思ったことは、かなり複雑なことだった。

 大公軍団員たちは、まずは、親衛隊員たちを羽交い締めにして押しとどめようとした。

 そして、反撃されると、後から駆けつけた大公軍団の隊員たちは泥棒などの捕縛に使う刺股さすまたを持ち出して、荒ぶる親衛隊員たちを取り押さえたのだという。

「ですがね、そこへ新手の親衛隊員がなだれ込んで来て、最初の騒ぎの元になった連中を押さえつけてる、うちの隊員たちと睨み合いになったんだそうです。でも、その時、中央大通りから近衛の馬が走って来たのと、それまで見ていた市民たちがみんなこっちの味方をして、親衛隊員どもに石だのなんだのぶつけ出したんで、やつら、這々の体で逃げ出したそうです」

 カイエンに報告に来たのは、軍団長のイリヤだった。彼は、今日明日は市内警備の統括だから、大公宮の表の自分の執務室にいて、あちこちからの報告だの、要請だのに指示を出していた。そんな中で、この事件の報告を聞き、すぐにカイエンの執務室へ飛んで来たのだ。

 さすがのイリヤも、親衛隊がやらかすとは予想もしていなかったらしく、顔にはいつものとぼけた表情を浮かべてはいたが、それはどこか困惑したように歪んでいた。

「それで、皇宮前広場は今、どうなっているのだ? 現場は保全されているのか……いや、それは無理か……」

 カイエンは言いかけた言葉を飲み込んだ。今日は祭りの一日目。そして場所は帝都の中央、皇宮前広場だ。その上には事件の当事者が親衛隊と来ている。いつものように現場検証なんかできるはずがなかった。

「ええ、それですよ。親衛隊の連中は逃げちまうし、市民は怪我人取り巻いて興奮イステリア状態ですし、大公宮こっちに連絡をよこす一方で、現場の署長はまずは怪我人を病院に搬送……と言っても、祭りの日ですから、大きな病院じゃないと医者なんていやしない。でも、あそこの署長には抜かりなく出来るやつを配置してますから、怪我人は帝国国立医薬院付属病院へ運び込んだそうです」

「それは、落ち着いた判断だったな」

 カイエンも感心した。国立医薬院は、医師を養成する専門機関だが、何しろ国立だから皇宮のすぐ近くにあるのだ。

「署長は、中央大通りから駆けつけて来た近衛の兵士に手伝わせて、興奮した市民たちをとりあえず広場の隅に集めて、まともに状況を説明できそうなのから、事件のあらましを聞き出したそうです。聞いたやつの名前は控えてあります。その上で、さてどうするか、ってところで、親衛隊のお偉方がやって来たそうで」

「ああ……」

 カイエンにはもう、その先の話が見えるようだった。

「親衛隊の副隊長だとか、名乗ったそうで。呆れたことに、この皇宮前広場の警備は親衛隊が担当している、すぐに立ち去れ! って言ったそうですよ」

 さすがのイリヤも、声に怒りがこもっていた。

「事件の当事者が、自分のところの親衛隊員だというのにか……」

 カイエンの方は、怒りよりも先に、事態の深刻さに声が尻窄みになってしまった。

 イリヤの方はふーっとため息をついた。

「親衛隊のお偉いさんは、みんなお貴族か、そのご子息です。いくら皇宮前あそこの署長がお仕事のできるやつでも、現場の平民署長なんかじゃ太刀打ちできません。署長は俺か双子を呼ぼうとして、かなり粘ったそうですが、押し切られたそうです」

 カイエンは目をつぶった。

 それでは、もう現場はきれいにならされてしまっているだろう。何事もなかったかのように。

「署長は俺の指示が遅いって、『事件は大公宮の執務室で起きてるんじゃないんだ! 市民のいる広場で起きてるんだぁ!』って喚いてたそうですけどね」

 イリヤはとうとう、大公のカイエンの前であることも構わず、懐から出した煙草に火をつけた。

 カイエンは、イリヤの吸っている煙草の銘柄など知らないが、箱のラベルからして高級そうな煙草である。

「そ、そうか」

 紫煙に包まれながら、カイエンは、皇宮前広場の署長の顔をすぐには思い出せなかったので、冷や汗をかいた。これは、落ち着いたら、直々に労をねぎらうべきだろう。

 イリヤはカイエンの顔色など無視して、話を続ける。

「ですから、今頃は砂絵が一つ、消えているだけで、元どおりになっているはずです。……形だけはね」



 



 この事件は、翌日もまた祭りの日であったために、一度は、忘れ去られたように見えた。

 だが。

 「死者の日」ディア・デ・ムエルトス」明けの、十一月三日、一つの読売りがこの事件を第一面で取り上げると、この事件はあっという間にハーマポスタール中に知られることとなった。

 この事件をすっぱ抜いたのは、最近、勢いを得ている新興の新聞社の出しているもので、この事件をすっぱ抜いた号はその日のうちに何度も刷り足された。

 その読売りの名は、「自由新聞リベルタ」。

 この事件で大々的に売り出す前も、貴族や支配階級への、冷笑的で批判的な論調で知られ始めていたところだった。そこへ、この事件だから、「自由新聞リベルタ」はあっという間に発行部数を倍以上に増やした。

 

「なんということか! その酔っ払いの隊員とやらの名前はもう、調べてあるのだろうな!」

 皇宮の中にある、親衛隊長の執務室で、怒りの声を上げたのは、親衛隊長のウリセス・モンドラゴン子爵だった。彼は白っぽい金髪の下の額に青筋を浮かべ、眉をしかめ、青緑色の目を怒りに燃え立たせていた。

 副隊長は、祭りが終わるまで、事件のことをモンドラゴンに話さなかったのだ。

 モンドラゴンは、今、怒りに震えていた。

「それが……」

 モンドラゴンの前で報告している、親衛隊副隊長は、顔面蒼白だった。

 新聞種になどならなければ、親衛隊長のモンドラゴンに知られることもなかったはずだった。だが、新聞に載り、ハーマポスタール中に事件が知れ渡った今、現場には大公軍団が出動している上、市民の目撃者が多数いることもあり、もう、誤魔化すことはできなかった。

「どうした! 今更隠し立てしてどうするのだ! さっさと報告せよ!」 

 モンドラゴンには、部下のそうした怯えた様子もまた、気に障った。

「は、はい。では、申し上げます。その隊員の名前は、ホアキン・カスティージョ、でございます」

 聞くなり。

 今度は、それまで激昂していたモンドラゴンの顔の方が、一気に血が引いて、真っ白になってしまった。

「なに?」

 しばらく、モンドラゴンも、副隊長も黙りこくっていた。

「何を言うのだ。冗談など聞いている場合ではないのだぞ」

 やがて、モンドラゴンは白い額に浮いてきた汗をハンカチで拭きながら、部下の顔を見たが、副隊長の顔はもう、その時には紫色に見えるほどに青ざめてしまっていた。

「……冗談で、申し上げられる、名前では、ございません。問題の隊員とは、マヌエル・カスティージョ将軍のご子息、ホアキン・カスティージョでございます」

「まさか、宰相や大公の一派が仕組んだのか?」

 その時、モンドラゴンは、無意識に副隊長の前であるのにも関わらず、不穏な発言をしてしまった。

 だが、モンドラゴンもすぐにその危うさには気がついた。

「もういい! もうこうなっては、私は皇帝陛下のご下問は避けられまい! お前は不始末を犯した連中を厳重に見張れ! みんなまとめて謹慎させろ! これ以上新聞屋どもに、余計なことを探られないようにするのだっ」

 モンドラゴン子爵の頭に浮かぶのは、皇帝のオドザヤに呼び出され、宰相や大将軍の前で跪き、汲々として自己弁護に務める自分の、あまりにも情けなく、そして腹立たしい情景だけだった。 







 祭りの翌日。

 カイエンはオドザヤの執務室で、二日前の事件の報告するなり、苦虫をかみつぶしたような顔になった。

 すでに、彼女は「自由新聞リベルタ」が、一面記事にしたことも、把握していた。

 オドザヤの方は、なんだか、気の抜けたような顔つきだ。この事態をどう解釈したものか、ひたすらに困惑しているのだろう。この二年ですっかり人の悪くなったカイエンとは違って、未だ真面目一方な君主であるオドザヤだった。

「酷い事件ですが、件の親衛隊員が、よりにもよってあのカスティージョ将軍の息子だとは。これでは、まるでこちらが何か仕組んだようで……」

 苦い顔つきのカイエンの、この言葉を聞くと、サヴォナローラもザラ大将軍も、同じような表情でうなずいた。

「そう、向こうには思われても仕方のない事態です。こちらも、カスティージョ将軍には失脚していただくつもりでしたから。もっとも、ご家族を使うなどと言う姑息……と言うか、効果のほどが図れない、不確実な方法は使わないつもりでしたが」

 ザラ大将軍も、なんだか遠くを見ているような目つきだったが、言葉の方は皮肉に満ちていた。

「酔っ払って大事の日の警備に就く、と言うのも愚かしいことだが、まあ、ないことではないだろう。だが、よりにもよって、その酔っ払いが、将軍の息子だと言う可能性は一体何パーセントだろうな? それに、呑んだくれた男と言っても、それが人に絡むとは限らん。そして、万が一に、人に絡んでしまったにせよ、それから一方的な暴力に及ぶ可能性となれば、もっと低いだろうて。周りの同輩が止めようともしなかったと言うのも、可能性としては低いことだ。これは、そいつらみんなが、祭りだからと一緒に呑んで、一緒にご同様の酔っ払いになっていたとしか思えぬな。そして、それを新聞社の記者が見ていた、と。……こっちはまあ、謀りごとならあり得る話だわ」

 カイエンはザラ大将軍の老獪な顔を、これまた皮肉な笑みを浮かべて見るしかなかった。

「とにかく、私も宰相も、そして大将軍、あなたも仕組んでいないのだとすればです。大怪我をさせられた被害者は気の毒ではあるが、こちらにとっては、カスティージョ将軍の力を幾らかでも削ぐことができそうでありがたい、と言って言えないことはないでしょう」

 カイエンがそう言うと、オドザヤが執務机の向こうで身震いした。なんだか恨めしそうな目でカイエンを見ているようなのは、気のせいではあるまい。潔癖な正義感をもつオドザヤには、カイエンの偽悪的な言いようは意外だったのだろう。

「……ですが、息子の不行跡で、父親の職を解く、とまでは行かないでしょう。その点でも、今度の事件は我々のしたことではないですね。それなら、あまりにも中途半端ですから」

 カイエンは、オドザヤの様子には、もちろん気がついていたが、気がつかないそぶりで話し続けた。

「ですが!」

 オドザヤは、とうとう我慢できずにやや大きな声を出した。

「ええ。それでも、モンドラゴン子爵や、モリーナ侯爵は、我々を疑うでしょう」

 カイエンは、やや顔色を赤くして何か付け足そうとするオドザヤを、鷹揚な仕草で押しとどめた。

 カイエン自身は気がつかなかったが、そうして、彼女が落ち着き払った余裕のある仕草で話している姿は、彼女の伯父だった先帝サウルとよく似ていた。灰色の目の中の瞳孔がすうっと黒さを失い、無表情の中の、冷たい、厳しい目線が相手を威圧するのだ。

 オドザヤはそれを見て、恐ろしそうに、何か言いかけた言葉を引っ込めてしまった。

「……と、なれば、こういう中途半端な事件が起きて、得をするのは、第三の勢力なのでしょうね」

 カイエンがそう言うと、よく出来ました、とでも言うように、サヴォナローラとザラ大将軍がにやりと笑う。それを、オドザヤ一人が、怒りを潜めた悲しい目で見ていた。

「裏に誰かいるとすれば、それは外国人ザイオンやら、かの桔梗星団派だのの輩ですな。やつらはこの帝都ハーマポスタールの人心が乱れれば、乱れるほど動きやすくなるのでしょうから」

 ザラ大将軍がそう言うと、オドザヤはまだ怒ったような顔だったが、引き下がった。

「陛下には、身の覚えのないことで疑われるのは業腹でございましょうが、なに、いざとなったら全部、我らのせいにすればよろしいのです」

 オドザヤが無言を選んだのを見て、カイエンがそこまで言うと、オドザヤはびっくりした顔でカイエンを見た。

「お姉様! お姉様は、私に卑怯者になれ、とおっしゃるの!?」 

 そして、カイエンの方へ向き直ったオドザヤの琥珀色の目は、怒りの炎に燃えているように見えた。声も普段の彼女にはない、きつい調子だ。

 カイエンは、初めて見るオドザヤの怒りに燃えた顔つきに、内心では驚いたが、気がつかぬていで答えた。

「いいえ。卑怯者には、我らがなると言っているのです。陛下は今のまま、汚れた心や考え方には染まらないでおられた方がいい」

 皇帝とは国の象徴である。それが、女帝ともなれば、汚れた印象は致命的だ。

 カイエンは、そういう意味のことを言いたかったのだが、オドザヤには到底、納得できないことだったようだった。

 オドザヤは、唇を噛み締めると、カイエンの顔から目をそらし、宰相のサヴォナローラの方へ目を向けた。 

「宰相、すぐに親衛隊長ウリセス・モンドラゴンを、私の前に連れて来なさい」

 サヴォナローラには、これは予想内のことだったから、彼はすぐさま承知した。

 だが、今日即日、というのには異議を唱え、モンドラゴンへの下問は明日がよろしいでしょう、と言うと、オドザヤは一瞬だけ琥珀色の燃える目を光らせたが、自分をぐっと抑えてうなずいた。 

 だが、オドザヤは最後に付け加えた。

「モンドラゴンへの尋問は、私が一人で致します。宰相も元帥も、同席は不要です。……そしてお姉様も、その場にはおいでにならないでくださいませ」

 これには、カイエンもサヴォナローラも、そしてザラ大将軍も、ちょっと目を見張った。

 三人は、一瞬だけ、灰色と真っ青と、そして褐色の目を見合わせたが、すぐになんでも無い顔で承知した。

「承知致しました。では、我らは、謁見の間の外で控えさせていただくこととします」

 サヴォナローラがそう言い、カイエンもザラ大将軍も同じように顎を引いて承知する。

 サヴォナローラとザラ大将軍は、カイエンへ向けて意味ありげにうなずいて見せると、二人一緒に部屋を下がっていった。

 それを見送って、カイエンもまた、オドザヤの前で礼をした。

「では……私は大公宮へ下がらせていただきます。まだ、事後処理が残っておりますので」

 カイエンが顔を上げると、目の前に、オドザヤの思いつめたような顔があった。執務机を挟んでいると言うのに、その表情は、まるで眼前に迫ってくるように思われた。

「……お姉様は、お姉様だけは、いつでも自らを正し、卑怯な考えや行動などなさらない方だと信じておりましたのに……」

 そして、オドザヤの珊瑚色の唇から発せられたのは、いかにもオドザヤらしいものではあった。だが、その声音の哀しげな音の感じが、カイエンの心にまっすぐに突き刺さった。

「……それは……。大変、申し訳ありませんでした。ですが、私はこの街の大公です。どんな手段を持ってしても、市民を守る義務がございます」

 そうだ。

 きれいごとでは、外国の勢力や、あの桔梗星団派の勢力の陰謀には対応できない。自分は間違ってなどいない。

 カイエンはそう思い、そして客観的に見ても、自分が間違っているとは思わなかった。それでも、オドザヤの、まだまっさらな正義感に燃えた目の前では、すでに薄汚れてしまった、おのれを強く恥じる気持ちもあった。

 それだけ、カイエンはまだサヴォナローラやザラ大将軍よりは、オドザヤに近い場所にいたのだ。

「では、今日はもう、退出させていただきます」 

 オドザヤの執務室を出る、左手にいつもの銀の柄に黒檀の杖を突いた、カイエンの足元は、少しふらついていたかも知れない。

(お姉様は、お姉様だけは、いつでも自らを正し、卑怯な考えや行動などなさらない方だと信じておりましたのに!)

 その言葉が、カイエンの頭の中で何度もなんども、山の向こうから戻って来るこだまのように、または寄せては戻る波のように、繰り返されていた。




 カイエンさんも、オドザヤちゃんも、厳しい世界に晒されていきます。

 「広場」はこれからもこの物語の中で、重要な場面の場所となると思います。

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