死者の日 1
「死者の日」は二日に渡って祝われる。その一日目は、十一月の一日である。
すでに、前日の十月三十一日には、各家庭に祭壇が設けられ、夜からは、ハーマポスタールの港の近くでは花火が打ち上げられ、市民たちは明日、明後日に着る晴れ着を用意する。
金持ちや貴族の中には、様々な仮装に身を凝らす者もおり、人々はかなり前からこの日のために準備をしているのだ。
その、「死者の日」一日目の早朝、まだ太陽の登る前。まだ空には星が見える夜明けだった。
大公カイエンは帝都ハーマポスタールの市内ではあったが、中心部を外れた場所にある、共同墓地にいた。
それは、カイエンが建てた異母弟カルロスの墓の前だった。
伯母のミルドラと、アルウィンがあの奇妙な会合を持った場所だ。
もう、花の終わったブーゲンビリアの枝が垂れ下がる、白い墓の前にたたずむのは、執事のアキノと乳母のサグラチカの夫婦と、護衛騎士のシーヴを連れたカイエンだけだ。
「死者の日」は二日に渡って祝われるが、一日目は子供のうちに死んだ者の魂が戻る日とされていた。二日目の十一月二日に戻るのは、年経てから亡くなった者の魂だ。
そこに記された言葉は、カイエン自身が選んだものだ。
(花散らせ十五の四季を重ねつつあの地この地で君も吾も泣く)
カルロスは十五歳で命を失った。おのれの父親が幻惑したアルトゥール・スライゴたちの一党に利用され、そして、いとも簡単に殺されてしまったのだ。
「……迎えに、来たよ」
カイエンはすぐ後ろにいるアキノやサグラチカ、そしてシーヴにも聞こえないくらい、小さな声で呟いた。大きな声でなど、言えはしない。
こうして、一緒に育ったわけでもない、父親の庶子である弟の墓を作ったのはカイエンだ。だが、そこに到るまでのカイエンの中では様々な葛藤があった。この墓を作ることを決めた時には、自分の中の欺瞞を嫌が応にも意識したものだ。
娼婦だった母親が亡くなり、父のアルウィンに顧みられることもなく、男娼に身を落とし、最後は桔梗星団派のアルトゥールたちに「使い捨て」にされた弟。生きている姿を見たのは、二年前にあの開港記念劇場でちらりと見ただけ。すぐにカルロスは口封じのために殺され、死骸となってカイエンの前に横たわった。
「去年は、来られなかったからな。まあ、形だけのことだよ」
言い訳のように、カイエンは口の中で呟き続ける。それを、アキノもサグラチカも、シーヴも聞かないふりで佇んでいる。
「朝日が昇ったら、ここも騒がしくなるだろうからなぁ」
この時代、子供のうちに死ぬ者は少なくない。
この墓地も、陽が昇れば、墓参りの人々でいっぱいになるだろう。
「今日明日は、忙しくなるだろう。全部終わったら、また片付けに来るからな」
言いながら。
カイエンは後ろにいる三人に手で合図した。すぐに、アキノとサグラチカが持っていた荷物を開いた。そこには、色とりどりの、ロマノグラスに入った蝋燭、それに果物、菓子、それにオレンジや赤の華やかな花束がいくつも、他には絹地の派手な色の布地が詰まっていた。
「昨日、エルネストの奴に聞いたんだ」
カイエンは、白い墓石の上にオレンジと紫の花を編んだ花輪をかけながら、カルロスに話しかける。それを、アキノもサグラチカも、シーヴも聞き流して、黙ったままに動く。
「シイナドラドの東側の街で、とうとう反政府軍が立ち上がったそうだ。螺旋帝国に近い側の街を順に手に入れて行って、ついに名乗りを上げたってな」
カイエンは、墓標の前に蝋燭の入ったロマノグラスを、いくつも置いては、アキノの差し出す金属製の懐炉から種火をとって、火をつけていく。今日明日は、墓の蝋燭を点けっぱなしで置いても、墓守が巡回しているから大丈夫なのだ。
「皇王を否定してはいないらしい。だが、皇王一族に連なる者たちが、髪や目の色の違う庶民たちを、一方的に支配している図式はまかりならんという主張だそうだ。……まあ、もっともだな。このパネメリゴ大陸一の、古い、古い国だから、今まで庶民たちはそれに疑問を持つこともなかったんだろう。だが、外から知恵をつけられれば、一斉に目が開く」
カイエンは、心の中で螺旋帝国をイメージしようとして、あえなく失敗した。カイエンは螺旋帝国の書物を読み、頼 國仁先生などの螺旋帝国人を見てはいたが、それで彼の国の様子が手に取るように見えるようになるはずもなかった。
「こうなってみれば、螺旋帝国の『易姓革命』は、すべての始まりだったのだろうな。シイナドラドにも、螺旋帝国で革命を起こしていた者たちの一派が、もうかなり前から入っていたらしい。……だから、あの皇王一族は、焦っていたのだ」
もう、二十年以上も前に最後の一人が死に、候補者さえもいなくなっていた「星教皇」という存在。
アストロナータ神の降臨以降、シイナドラドを導いて来た存在を失って時間が過ぎ。そして、東からは新しい考え方が入って来る。鎖国を敷いてもそれは止めようもなかったということだ。
それでも、皇王派も鎖国を敷き、国内の要所に砦を築いて用意はしていたのだ。
彼らは自らの「終わり」のようなものを予感しながらも、諦めてはいなかったのだろう。いや、こうしている今も諦めてはいない。だから、虹彩異色の目を持ち、カイエンの次に「星教皇」になれる条件を満たしていたエルネストは、国外へ出されたのだ。
だから、皇太子の結婚を理由に、現在、星教皇になれる唯一の存在であるカイエンをシイナドラドまで呼び寄せ、無理矢理に星教皇に即位させた上で、ハウヤ帝国へ戻す、という迂遠な手段を選んだのか。
「……エルネストがガルダメスのところで聞いて来たところでは、螺旋帝国はシイナドラドの首都、ホヤ・デ・セレンと、皇王宮を狙っているらしい。そのために、シイナドラドの国民を焚き付けて、反政府軍を立ち上がらせたんだとさ。……何でかはまだ分からないが、螺旋帝国はアストロナータ神の『あれ』に興味があるらしいんだとさ」
あれ。
エルネストがカイエンに言ったのは、アストロナータ神の「不朽体」のことだった。
カイエンも地下宮殿で見せられたが、あのホヤ・デ・セレンの地下宮殿に、螺旋帝国の清王朝、「青」の皇帝、馮 革偉は注目しているのだ、そうだ。
(もう、何世代か、それ以上にも渡って、あのアストロナータの『不朽体』に触れたものはいない。大神官でもだ。俺だってあれがホンモノかどうかなんて、知りゃあしない)
エルネストはにやにや笑いながら、付け足したっけ。
(でも、これだけは確かだな。もう多分、シイナドラドの皇王家に、星教皇になれる子供は生まれない。だが、このハウヤ帝国では……まだ、分からない。と言うのは、あんたに続いて、リリエンスールが生まれたからだよ)
リリ。
カイエンが引き取って育てている、紫の髪と虹彩異色を持つリリエンスールは、先帝サウルとアイーシャの子だ。そして、カイエンはサウルの両親を同じくする弟のアルウィンと、アイーシャの子である。
「カイエン様、大丈夫ですか」
すぐ横からシーヴの声が聞こえて、カイエンははっとした。物思いにふけってしまっていたらしい。その間に、もう東の空が白み始めていた。
「ああ。……きれいにできたな。ありがとう」
カイエンは白い暮石の周りに飾られた、蝋燭の光に照らされた、花束や果物、菓子などの様子を見て微笑んだ。いささか、装飾過多だが、この過剰な感じこそがこの、「死者の日」なのだ。
そのままカイエンが白い、子供のまま死んだために、名前の刻まれていない墓石の前で目をつぶると、アキノやサグラチカ、それにシーヴもそれに倣った。
カイエンの物思いの中で、最後に出て来た名前。
カイエンとリリ、二人の星教皇になれる娘たちを産んだ女の名前は、アイーシャ。
その名前の意味を、カイエンたちが知るまでには、まだしばらくの時が必要だった。
同じその日の朝、オドザヤはいつもの時間に起こされると、いつものように近侍の侍女のカルメラ他、数人に手伝ってもらって、身仕舞をした。
皇帝でなくとも、貴族の女性の着替えや洗顔、髪を結い上げ、化粧するまでの工程はとても一人で出来るものではない。特に大変なのが、ドレスの着付けである。これにはドレスの様式によっては、侍女が二人も三人もつくこともあるくらいだ。
祭りの一日目は、皇帝のオドザヤは人前に出るわけではない。だから、その朝の支度はいつもの朝となんら変わることはなかった。
オドザヤは母親のアイーシャとは違って、あまり衣装や装身具にはこだわりがない。もちろん、彼女も美しいものへの興味はあるが、生まれついでの皇女である彼女には、母のアイーシャとは違う、「場所柄や身分を考えた上での、一段控えめには見えるが、本物の美しさを持ったものを選んで身に付ける」といった、お上品な審美眼のようなものがあった。
他人の目を意識し、尊大に見せない工夫をすべきだというのが、彼女の考え方だった。これは、おそらくは父親のサウルの考え方に影響されたものだったのだろう。先帝サウルは華美な装いは好まなかった。だが、身に付けるものは地味でも品質の良いものばかりだった。
簡単に言ってしまえば、オドザヤにはアイーシャのような「審美的な美への欲」がなかったと言うべきだろうか。これは、健在な頃のアイーシャに言わせれば、「お前は、金の苦労をしたことのない皇女様だからね」ということになっていたのだが……。
つい先年まで、アイーシャが健在だった頃のオドザヤの身の回りの支度は、すべてアイーシャの趣味と許可のもとに選ばれていた。だから、オドザヤの身に付けるものはアイーシャより目立ってはならず、一段劣ったものが選ばれるのが常だった。
だが、アイーシャがリリエンスールを産んだことで狂乱して寝たきりになって、もう一年近く。
この頃では、オドザヤは自分で自分の身の回りのことを決めるのが普通となり、この日、彼女が選んだ装いもまた、彼女が自分で選んだ布地、自分で選んだ仕立てで作らせたものだった。
今日の皇宮での、「死者の日」での儀式を意識して、彼女が選んだのは、鈍い光沢を持った青っぽい銀色の、波打つような地模様のあるやや固めの生地で仕立てたものだった。皇帝家でも、「死者の日」に晴れやかで派手な衣装を選ぶこともあったが、今年は父のサウルが亡くなって初めての「死者の日」だ。
それでも、いつもとは違って襟元の詰まったドレスではなく、その日のものは襟元のぐっと開いたもので、そこに彼女はこの日のために選んだ、最高の青さのラピスラズリの首飾りを飾っていた。ラピスラズリは邪を払う宝石として有名なものだ。それとは別に胸元に隠れていく金の鎖の先にあるのは、姉のカイエンと分け合った「星と太陽の指輪」の片割れ、「太陽の指輪」である。
「お姉様は?」
鏡の中で、黄金色の髪の結い上がり具合を確かめて、オドザヤは侍女のカルメラを振り返った。髪には、ドレスの色合いに合わせた青い宝石のはまった髪飾りが留められている。
祭りの二日目には、先帝サウルの魂を迎えるための儀式が、この皇宮でも行われる。と、言っても「死者の日」の儀式というのは、あくまでも家族の中で行うものであるから、オドザヤが市民たちの前に出るようなことはなかった。
「大公殿下は、朝一番に御用を一つ片付けられてから、おいでになるとのことでした。……昼からは大公軍団のお仕事で大変になられますから、お時間に追われておられるとのことです」
「そうでしょうね。……この皇宮の警備は親衛隊と、それにフィエロアルマがしてくださるのだったわね」
オドザヤにはもう、そんなことは自明の事柄だったが、彼女はあえて口に出して確かめずにはいられなかった。
そして、大公カイエンの訪れが告げられた時には、オドザヤは朝食も済み、ゆったりと彼女の居間で待っていた。
今、オドザヤが使っているのは、サウルが死ぬまで住んでいた、皇帝宮の居住区である。
そこは、サウルが亡くなり、オドザヤが皇帝となるまでには模様替えなどは間に合わなかった。だが、夏にはそれも終わり、サウルの頃よりもかなり華やかな色合いに整えられたそこに、オドザヤは皇太女宮から移り住んでいた。
「はい。あら、何だかお廊下の方が騒がしくなってまいりましたね」
オドザヤの居間まで来るには、海神宮から長い回廊を渡って来る必要がある。オドザヤはカイエンの足を思って、ちょっと焦った。ここまで歩いて来るだけでも、姉のカイエンには結構な労働になるだろう。
「きっと、お姉様がいらしたんだわ。……カルメラ、聞きに行ってちょうだい」
オドザヤはそう言うと、晴れ晴れとした微笑みを、その麗しい顔に浮かべた。
彼女にとって、今や、母を同じくする姉で従姉妹のカイエンだけが、そばにいる兄弟だった。異母妹のカリスマとアルタマキアはもうこの皇宮にはいないし、去年、生まれたばかりの異母弟のフロレンティーノは、オドザヤにとって近しい存在ではなかった。
カイエンは市内の共同墓地を出ると、そのまま馬車に乗って皇宮へやって来た。
この大公軍団が一番忙しい日の朝に、彼女がわざわざ皇宮へ来たのには、もちろん、確かな理由があった。忙しい日にすまないが来てくれないか、とオドザヤから連絡があったのだ。
「じゃあ、ここで待っていてくれ。そんなに時間はかからないはずだ」
カイエンは、三人を皇帝宮の手前にある海神宮の、こうした場合に従者を待たせるためにある部屋の一つに、アキノたちを待たせ、一人、侍従に案内されてオドザヤのいる部屋の方へ歩いて行った。
オドザヤの住んでいる辺りには、さすがに侍従や侍女、それに親衛隊の姿も多く見られた。
現在、オドザヤの住んでいるところは、前にサウルのいたところだから、カイエンはサウルの臨終の折に来たことがある。だが、そこの様子は、あの日とはまったく変わって見えた。廊下の模様替えなどはしていないはずだが、住人が変わると、同じ場所でも印象が変わるものだな、とカイエンは感慨深く思った。
「こちらへ」
そして、案内されて入ったオドザヤの居間は明るい色彩に満ちていた。秋晴れの真っ青な、だが夏のそれとは色の強さの全然違う空が見える窓が、開けられていることもあるのだろうが、そこは、サウルの住んでいた時とはまるで違った部屋に見えた。
実際のところは、壁紙を張り替え、椅子やソファの布地を変えただけで、家具そのものはそのままだったのだが、色彩が若返った、とでもいうような印象だ。
部屋の隅には、カイエンの大公軍団から派遣している、元はカイエンの後宮の女騎士であるブランカが警護に立っていた。それへ、カイエンは目だけで挨拶して、中へ入る。
「お姉様、お忙しいところをすみません」
そして。
ソファから立ち上がったオドザヤもまた、カイエンにはずいぶんと華やかに見えた。実際にはオドザヤの選んだその日の装いは、他の貴族の同年代の娘たちとは、比べようもなく地味だったにもかかわらず。
カイエンは今日も、年がら年中代わり映えのしない、大公軍団の制服姿である。
カイエンがオドザヤの隣のソファに座ると、オドザヤはすぐに用件を話し始めた。時刻はまだ午前中も早い時間だが、今日の儀式やカイエンの仕事を思えば、気が急いた。
「用件は……その、二つ、ありますの」
オドザヤとカイエンの前に、紅茶と茶菓子を持って来たのは、侍女ではなく、皇帝オドザヤ付きの女官長となったコンスタンサ・アンへレスの背の高い、まっすぐに立った針葉樹のような姿だった。
「あの、一つはザイオンからの……あのことで」
カイエンはオドザヤの口調が、急に歯切れ悪くなったのに気がついた。なるほど、九月に、ザイオンの特使が持って来た縁談話と関係があるらしい。
「……一昨日、三人の王子様方の肖像画が届きました」
言いにくそうなオドザヤに変わって、口を開いたのは茶菓を運んで来た銀の盆を持ったまま、下がろうとしていたコンスタンサだった。
「ああ……」
カイエンは心中、「なんだその話か」と思わないでもなかった。それなら、今日でなくとも、「死者の日」の終わった後でもよかったのでは、と思ったのだ。
それは、オドザヤやコンスタンサにもわかったようだった。
「ええ。そっちの方は、別に急ぎませんのよ。でも、ザイオンのあの……特使の方は、まだこのハーマポスタールにおられるそうなのです。こちらのはっきりとした返事を聞くまでは帰れないとか、言っているそうで」
オドザヤの顔には困惑の色が深い。カイエンはここまで話を聞いていて、なんとなく気になった。
「そうですか。しかし、あの特使、どうしてもっと早くその、王子方の肖像画を出してこなかったんでしょうね?」
カイエンがそう言うと、オドザヤもコンスタンサも、もっともだ、というようにうなずく。特使が来てから、もうひと月以上の時間が流れているのだ。
「それなんですわ。ご存知の通り、あちらは、最初は王子を三人ともこちらへ寄越すと言っておりました。でも、それは私も即位後間もないこと、お迎えするにも準備があるから、とお断りしました。それには納得していただけましたから、最初に宰相が言っていたように、もう王子方がザイオンを発っている、などというようなことは、なさそうだったのですが……」
カイエンはなんだか、引っかかるものを感じずにはいられなかった。だから、彼女の表情はやや曇ったものになったのだろう。
「ああ、お姉様も気になられるんですわね。あの、宰相もそう申しましたの。でも今日は、宰相やザラ大将軍は市内の警備やなんかで、早朝から現場に出るので……それで、私からお姉様にお話しすることにしましたんです」
カイエンはやっと、今日この忙しい日に呼び出されたことに納得がいった。
「九月の段階では、王子たちの顔を見せるわけにはいかなかったが、今はもう構わなくなった、とでもいうんでしょうかね」
カイエンが熱いうちに、と紅茶のカップを取り上げると、オドザヤも同じようにカップを取り上げた。
「宰相も同じことを言っていましたわ。これは冗談ですが、……実はもう隠密裏に、このハーマポスタールに来てるのかも知れない、とも」
カイエンは、ちょっと黙り込んだ。
「その肖像画を持って来たのは、一昨日でしょう? じゃあ、もう顔がばれてもいいというわけだ。……確かに、それはおかしいな。ああ、そうか!」
カイエンがちょっと大きな声を出したので、コンスタンサはまだしも、オドザヤはびくりと身を震わせた。
「ああ、ごめんなさい。九月の段階で肖像画をこちらが見ていたら、あの用意周到な宰相は、街道沿いに肖像画の写しを回したかも知れません。王子様だって山賊じゃないんだ、街道を通らずにはやってこられないだろうから。ザイオンとこのハウヤ帝国の間には、直接の街道はない。オリュンポス山脈という天然の壁が立ちはだかっていますからね。と、なるとザイオンからはベアトリアを通過し、パナメリゴ街道を通って、クリスタレラを通過することになります」
「ええ、そうでしょうね」
オドザヤはゆっくりと、お茶の最初の一口を飲み込んだ。カイエンも一口飲んだ。それは、秋の新茶らしく、濃厚な味わいが渋く感じる寸前で留められている。お茶を淹れた者もさすがに皇宮で、素晴らしい味わいだった。
「クリスタレラまでの連絡手段は、去年、私がシイナドラドへ行った折に強化されている。だから、情報の伝達はほかの方角よりも早い。……これは、まさか」
カイエンはふと、オドザヤの美しい顔から視線を、秋晴れの窓の外へと移した。
「宰相の言う冗談の方が正しい、のかも知れませんね」
鬱陶しいことだ。
カイエンは内心で、また仕事が増えた、と嘆息した。
「では、その問題の肖像画を拝見しましょう。……可能なら、今日中に絵を模写させるための隊員をこちらへよこします」
カイエンの頭の中にあったのは、もちろん、あの“メモリア”カマラの顔だった。彼は市内で事件が起こらない限りは、暇なはずだ。
「わかりました」
そう言うと、オドザヤはコンスタンサに合図した。
コンスタンサはもう用意していたのだろう、すぐに三枚の、両手でやっと持てるほどの大きさの絵を、えっちらおっちらと運んで来た。それらは金色に塗られた、豪華な彫刻された額に入れられている。
「これはまた、大きな肖像画だな」
カイエンはそう言ったが、これがザイオンの特使と一緒に来たのだとしたら、ちょっと大きな革鞄なら十分に入れることができただろう、と計算していた。
コンスタンサは、オドザヤとカイエンが座っている二つのソファの向かい側の、長椅子の上に、三枚の肖像画を並べていく。
それは、三枚共に同じ画家の手で描かれたものだろう。やや絵心のあるカイエンには、それがすぐに分かった。
ポーズはやや違っているが、構図も、人物の大きさも、色合いも描き味も同じ、三枚の肖像画だった。
「右から、第一王子のジョスラン王子、第二王子リュシオン王子、そして第三王子、トリスタン王子だそうでございます」
コンスタンサはなんの感情も入っていない声で、三枚の絵の人物を紹介した。
「へえ」
カイエンは、こんな時だが、面白そうな気持ちを覚えずにはいられなかった。
「この三人の王子は、みんな父親が同じなのか?」
カイエンが聞くと、コンスタンサは静かに、メモかなんかを読み上げるように答えた。
「はい。御三人ともに、チューラ女王と王配殿下との間の御子だそうにございます」
カイエンの眼に映る、三人の王子は、三つ子のように似て見えた。
三人とも、十八のオドザヤよりは年上で、二十代の前半から中程の年頃に見える。第一王子のジョスランと、第二王子のリュシオンにはきれいに整えられた髭があるが、第三王子のトリスタンだけはつるりとした顔をしている。
だが、三人ともによく整った顔立ちだった。まあ、お見合いの肖像画だから、本物よりも美しく整った顔に描かれていて、おかしくない。
高貴な面高な顔立ち。北方のザイオン人らしい、色の白い顔、その頰は薔薇色で健康そうだ。何よりも、彼ら三人に共通するのは、そのオドザヤにも似た、金色の髪。それに、三人ともに同じなのが、目の色だった。
「緑色の目か」
ハウヤ帝国は人種の坩堝だから、緑の目の人間も多くいる。実際に、カイエンの周りにも、翡翠色の目をしたヴァイロンと、緑がかった鉄色の目をしたイリヤがいた。フィエロアルマの将軍である、ジェネロも灰色がかった緑の目をしている。
だが、王子三人の緑の色彩は、その誰とも似ていないように見えた。
「これは、目立つな」
カイエンは、先ほど話していた憶測が、この肖像画によって裏付けされたように思えた。
「すぐに、模写をさせましょう。肖像画として持ってきているんですから、まったく似ていないなどと言うことはありますまい」
カイエンは、なんだか気が急いて、もうソファを立ち上がろうとしたが、そこで気がついた。
ここへきた時に、オドザヤが、
(用件は……その、二つ、ありますの)
と、言っていたことを思い出したのだ。
カイエンは、慌てた自分を恥じるように、やや赤面してオドザヤの方を見た。
「ああ、そうでした。もう一つのお話というのは?」
カイエンがそう聞くと、オドザヤとコンスタンサは顔を見合わせた。
「それですわ。それは……お母様のことです」
オドザヤの「お母様」とは、もちろん、現在は皇太后となっているアイーシャのことである。
カイエンは、無意識のうちにやや眉を顰めていたかも知れない。それほどには、彼女にとってアイーシャとは苦手な存在だった。リリを出産したのちに狂い、もはや回復の見込みのない廃人だとしても、その名前だけでアイーシャは未だにカイエンを脅かすことができたのだ。
「皇太后陛下の……」
カイエンが喉の痰を切るような様子で、言いにくそうに言うのを、オドザヤは悲しそうな顔で見た。彼女にも、カイエンとアイーシャとの間のことはもう、全部、わかっていたから。
「お母様は、いえ、皇太后陛下は、ずっと後宮の皇后宮でご療養でした。でも、この頃、後宮で他の妾妃の方々……特にフロレンティーノのいるマグダレーナ様が、どうにかならないかとの仰せで……」
オドザヤが口を切ると、後をコンスタンサが続けた。
「皇太后陛下には、お薬が切れますと、ご狂乱が始まるのです。これは昨年末の御出産後からずっとなのですが、この頃ではその恐ろしげな声で、フロレンティーノ皇子がひどく怯えられ、泣かれるとのことで……」
カイエンはちょっと驚いた。
カイエンが最後にアイーシャを見たのは、サウルが亡くなった五月だったが、その時もう、アイーシャはかつての美貌をすっかり失い、しぼんだ老婆のように見えたのだ。それが、もう一年近くも、寝たきりで生きているだけでも驚くのに、今でもそんな大きな声が出ると言うのか。
気の回るオドザヤには、カイエンの気持ちは手に取るようにわかったらしい。
「私も驚きましたのよ。私は皇太女になってからは、後宮を出ましたので、聞かされるまでは知らなくて……。マグダレーナ様やフロレンティーノには、申し訳ないことでした。それで、おか、いいえ、皇太后様を後宮から出すべきでは、と言う話になりました」
カイエンには、にわかには返事のしようもなかった。
「でも、警備のこともあります。アルタマキアがあんなことになったのですから、皇太后様がどうにかされるようなことがあったら大変です」
オドザヤの声は、そこでちょっと震えた。
「今日明日の儀式が終わりましたら、行き先を考えなければ、と思います。これは、宰相には伝えましたが、政治的な国事とは違いますので、忙しいあの者をあまり煩わせずに決めたいと思います」
カイエンは内心で、オドザヤの落ち着いた声の裏にある、彼女の苦悩を感じ取っていた。
「本来なら、すでに皇帝に立った娘である私が、なんとか面倒を見て差し上げるべきでしょう。それは、重々、わかっております。しかし、この皇宮に引き取ることも出来ません。こちらには宰相や大将軍、お姉様もいらっしゃいますから」
「わかりました」
カイエンは、もっと言葉が出てきそうなオドザヤを遮るように、言っていた。
「陛下の御心、この私にもようく分かっております。看護と警備が行き届く場所を、なんとか探してみましょう」
カイエンはそう言いはしたが、そんな都合のいい場所に心当たりなどはなかった。これは、祭りが終わったら、あちこちに図って探さねばなるまい。
「その、先ほどの肖像画の件も含めて、早急に手配いたします」
そう、言ったものの。
カイエンの頭に、いい考えがあるわけではなかった。
まずは、今日明日の二日間。「死者の日」を無事に乗り越えてからのことだった。
そして、「死者の日」一日目の、大公宮の前の広場。
この広場は石畳だが、昨日からそこには薄く土が敷かれ、その上に極彩色の砂絵が描かれている。
ハーマポスタール近郊では昔からこの季節、ほとんど雨が降らないため、「死者の日」に合わせて、道や広場には神々やら、死者を婉曲に表現した、陽気な様相の骸骨たちなどが砂絵で描かれるのだ。
ハウヤ帝国の中でも西側のこの帝都ハーマポスタール付近だけの風俗で、これを見物しにやってくる旅人も多かった。
この年、大公宮前広場に描かれた砂絵には、大公であるカイエンの名前にちなんだ、女神グロリアや古の星の神、エストレヤ、それにアストロナータ神の姿もあった。
そして、様々な服装の骸骨たちの行列。
そこには、ありとあらゆる職業の人々の姿をした、骸骨が歩いていく様が、滑稽な仕草で描かれていた。
その、砂絵を避けるようにして、日頃から鍛えに鍛えた芸を見せるのが、祭り一日目の昼頃から集まりだした、詩人に、楽人、大道芸人や踊り子などの芸人たちだ。
大公宮前の広場には、たくさんの一般市民たちも集まっていた。だから、群衆の中には黒い大公軍団の制服の姿も垣間見える。それは、祭りの雰囲気には似合わないものだったが、庶民たちはもう、大公軍団の黒い制服には馴染んでいた。
「おや、今年は物々しいね」
「ああ、大公軍団か。仕方がないよ。北であんなことがあっちゃあ」
「市内でも、なんだか怖い事件があったんだもの」
そして。
人々は、見慣れた大公軍団の制服に納得すれば、早くももう広場に集った芸人たちの姿を目で追っている。
「やあ、あれはすごい美人だなぁ」
「あの羽! ……極楽鳥? 孔雀? それにしても、なんてきれい!」
「踊り子だな。見たことのない顔だ。……地方から来たのかな」
「それにしちゃあ、垢抜けてるぜ。あの髪! まるで皇帝陛下の御髪みたいな金髪だ!」
晴れ着に身を包んだ市民たちの中から、歓声が上がる。
その中心にいたのは、青や緑、それに黄色からオレンジ、赤へと続く極彩色の羽を纏った、一人の踊り子だった。凝った、金のかかった衣装で、踊り子の両手、両足にも色とりどりの羽毛が使われ、生の手足は見えない。その下から覗く衣装はどことなく螺旋帝国風にも見える複雑な文様のもので、異国情緒にあふれている。
だが、それでいてそれらの衣装を纏った、踊り子の髪は黄金のような金色なのである。
踊り子の後ろに控えた、楽師たちが演奏を始めるが、踊り子はすぐには動かない。
無言劇の役者のように、ぴたりと踊り始めのポーズを決めたまま、彼女は彫像になったかのようだ。そのポーズは片足を上げ、片手を高く跳ね上げた形で、そのバランスの悪いポーズで静止していることだけでも、踊り子の技量は明らかだった。
音楽だけが鳴り響く中、その異常さに晴れ着の人々の足が止まっていく。
やがて。
タン!
いきなり、雷でも落ちて来たかのような、だが軽やかな音が広場に響くと、踊り子は軽く石畳を蹴って飛び上がっていた。すると、ふわりと、着ている衣装の極彩色の羽が、空へ向かって斜めに広がる。その間は一瞬で、見ている人々は音の正体にも気がつかない。
タン! タン! タン!
やがて、それが踊り子の履いている、特殊な靴の音だと気が付いた時には、もう彼女は鳥のように広場を舞っていた。
ひるがえる、長く千切れた色とりどりの房のついた衣装の布地、踊り子の金色の髪、そして踊り子の耳から肩、腕や背中を覆う虹色の羽。足元に付けられた鈴の音。
それらが、くるくると回り、くねり、跳び、そしてまた広場に落ちてくる。
タン!
その度に、踊り子の履いた特殊な靴の靴底が石畳を打つ。
楽師たちの奏でる、異国的な曲調の中。
踊り子は、大きな一羽の鳥そのものとなって動く。
うごめく黄金の髪は波のようにしなり、その合間から見える顔は真っ白に塗られた上に濃く化粧されている。
だが、化粧の合間から覗く顔立ちは、恐ろしく整っていた。ラ・ウニオンの内海のような、翡翠のようにも見える緑の目の周りを、青や緑の宝石を砕いたような色が強調しているせいか、女は人と化鳥の間を彷徨う神秘の存在のように見えた。
……舞って待ってどこへいくの
この海の果てまで遠く
誰が呼んでいるの
だから彼方遠く
だから海を越えて
陸を越えて海を越えて
もう行けるところは空しかないよ
もう足がないし
もう体の中は空っぽ
風鳥は極楽鳥になって
軽くなった体で飛ぶよ
どこまで
あそこまで
青い青い青い
あの青く続く空の向こうまで
踊り子の後ろで、楽師たちが楽器を奏でながら、低い声で歌う。
彼らと踊り子を囲む輪は、よく晴れた天まで高い蒼空のもと、広場に渦が広がるように、大きくなっていく一方だった。
お祭り、始まりました。
何回か、続くかもしれないです。




