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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第五話 不死の王
120/220

大公殿下はお忍びで下町に出る


 その日。

 夕方、カイエンは大公の仕事を早めに切り上げると、自分の寝室の脇にある、化粧室に入った。

 化粧室はまさに、着替えや化粧のためだけの部屋で、明るい窓辺に大きな鏡台が置かれ、その周りに、着替えの時に衣服をかけておくための、いくつかの屏風ビヨンボが立てかけられているのが特徴的だ。

 そこはかなり広い部屋で、鏡台の後ろの広い空間には、壁にも鏡があるが、それとは別に大きな全身が映る鏡が置かれている。専属の仕立て屋のノルマ・コントが来た時は、居間か、この部屋に通される。ここで採寸が行われ、仮縫いが終わればここの鏡の前で最終のチェックが行われるのだ。

 周りの壁にはずらりと衣装の入った、壁に作り付けられた衣装入れの扉が並んでいる。部屋には寝室からの扉の他に、別に女中や侍女が衣装などを運び入れるための扉があり、その奥は大公の浴室となっている。

 余談だが、浴室の壁はタイル張りで、大理石の浴槽が置かれている。そして、浴室の隣の部屋は休息の部屋となっており、長椅子と飲み物を置くためのテーブルが用意されていた。浴室の裏にはこれ専用の井戸と、小さな竃があり、専用の係の女中が湯の用意をするようになっている。

 壁紙は衣装や化粧の色の具合が見やすい、明るい色だ。そして、暗くては夜会などの支度に困るのでランプの用意も他の部屋よりも多くなっている。

 そこでまず、カイエンはなぜか大公の制服から、大公軍団の平隊員の制服に着替えた。鏡台の前に座れば、乳母のサグラチカが髪を首の後ろで団子にして、地味な髪留めで留める。

 真夏だから、大公軍団の制服も夏服になっている。これは帝国軍でも親衛隊でも近衛でもそうだが、夏服は礼服だけは麻地や絹地だが、仕事中の制服は洗える木綿のものに変わっている。

 襟の周りの階級章を縫い付けた部分だけは取り外せるので、そこだけが冬服と共通の毛織物と絹地だった。普段、カイエンが使用しているものは大公軍団の頂点の付けるものだから、金糸銀糸で分厚い縫い取りがびっしりとされた豪奢なものだ。

 だが、平隊員の付け襟は階級でやや色味は違うものの、黒っぽい色の地に、海の波の文様が銀糸で形だけ縫い取られた簡素なものである。

 上着の丈も、普段のカイエンの制服は膝よりやや長い、軍団幹部と同じ意匠のものだが、平隊員のそれは腰を覆う丈だ。その下の黒いズボンの意匠はそう、変わらない。ズボンの上には夏でも底の分厚い長靴。

「この傷はどうするかなあ」

 カイエンが鏡の前で、独り言のように言うと、後ろに立ったサグラチカと女中頭のルーサが顔を見合わせた。

「女性隊員でも、顔にこんな大きな傷のある子はいないしな」

 カイエンは自分の顔の傷は「名誉の負傷」として片付けてしまっているので、普通だったら悩み節、恨み節になりそうなことなのに悲壮感はゼロだ。

「それは……前髪を脇に垂らしておりますから、そうはっきりとは見えないですが、やはり傷を押さえる絆創膏を貼るしか……」

 そう言うと、ルーサはもう用意していたらしい、丈夫な木綿地の裏に粘着性のある傷薬を薄く、きれいに塗りつけた小さな布を取り出した。

「こちらは隊員たちも切り傷、擦り傷に使っているそうですから、これを貼っておくしかないですわね」

 言いながら、サグラチカの方がカイエンの左頬にそれを注意深く、貼ってくれた。その上から、額の真ん中で分けた前髪を頰に垂らせば、任務でかすり傷を負ってしまった女性隊員の出来上がりだ。

「これも、とった方がいいのかな?」

 カイエンが、紫翡翠の耳飾りと、それと対になっている右手左指の指輪に目をやった時だ。

 化粧室の扉が外から遠慮がちに叩かれたのは。

「あら、誰かしら」

「あ、私が」

 ルーサが扉を開けると、以外や、そこに見えたのは扉いっぱいを埋め尽くして立っている、ヴァイロンの姿だった。

「あら、あなた、お仕事はどうしたのです?」

 乳母のサグラチカはヴァイロンの養い親だから、言葉遣いはまさに「いつもよりも不自然に早く帰宅して来た息子」への厳しい母親の追及である。

「シーヴから、殿下がお忍びでお出かけになると聞いたので、急ぎ、戻って来たのです」

「そうなの。耳が早いのね。シーヴさん、困っていたのではないの? 強引に聞き出したのでしょう」

 サグラチカの言ったことは図星だったらしく、ヴァイロンはちょっと顔をしかめた。だが、もちろん口答えなどはしなかった。 

「お忍びで下町へいらっしゃるとか、うかがいましたが」

 サグラチカ相手では敵わないと思ったのか、ヴァイロンは矛先をカイエンの方へ向けて来た。翡翠色の目がちょっと金色に光って見えて怖い。

(お堅い上に、心配性と来てるからなあ)

 カイエンはヴァイロンに知れたらこうなるのはわかっていたので、彼が戻る前に出かけてしまいたかったのだが、敵は一枚上手だった。 

「うん。女子だけの集まりなんだ。でも護衛なら大丈夫だ。腕っ節の確かなトリニとルビーが辻馬車で迎えに来てくれるし、帰りも送ってもらうから。ああ、そうだ。ミルドラ伯母様のご許可をもらえたんで、バルバラも行くんだぞ」

 カイエンは至極嬉しそうだ。それはそうだろう。事件現場に駆けつけることはあっても、それは大公としての仕事だ。お忍びで、それも同じくらいの年齢の女同士で、となれば初めてのことだったのだから。

「バルバラ様は、もうすぐこちらにお着きでしょう。……バルバラ様のぶんも制服を用意しましたのよ。バルバラ様はズボンなどお履きになるのは乗馬の時くらいでしょうから、きっと珍しがられるわ」

 サグラチカはヴァイロンを無視して、さっさと話を次に進めて言ってしまう。この辺りは女としての年季がカイエンなどとは違っている。

 それでも、ヴァイロンは食い下がった。ことカイエンの事となると、彼は頑固だ。

「そもそも、お歩きになるときはどうするのですか。お杖を使っている隊員などおりません。杖をつくような怪我をした、それも女性隊員など、目立って仕方がないでしょう!」

 さすがはヴァイロンで、追及してくる内容はいいところを突いてくる。カイエンはちょっとため息をつきたくなったが、ここは笑って説得するのが吉だろう、と思ったのは、ヴァイロンとの仲も長くなって来た証拠だろう。

 さっき、ヴァイロンの「鬼納め石」である紫翡翠の耳飾りと指輪をどうしようか、と相談していたが、これはこのままつけて行く他にないようだ。ちょっと目立つ大きさの指輪のほうは、手袋をすれば隠れるだろう。耳飾りも顎のあたりまで垂れた前髪で半分隠れるはずだ。

「大丈夫だ。さりげなく誰かが横に来て、手を貸してくれることになっている。……帰りは酔っ払ったふりでトリニに背負ってもらって、辻馬車で戻ることになっているから」

 カイエンは、にこにこと笑顔で答える。その表情からは、楽しみで楽しみでしょうがない、と言った様子が見て取れた。

「まあ、こんなご時世に浮かれたことだが、実際に街中の空気も探っておきたかったのだ。読売りにスキュラでのことが出てから、市民たちに不安が広がっているとの報告は毎日聞くが、聞くだけではピンとこないからな」

 聞くなり、ヴァイロンの端正ではあるが厳つい顔の中で、翡翠色の目がちかりと剣呑な色で光った。

「よい言い訳をご用意のようですね」

 サグラチカやルーサは見えないふり、聞こえないふりで、バルバラのために用意した大公軍団の制服を出して来て側の屏風ビヨンボに掛けたりしている。

「アルタマキア皇女が拉致されたというのに、危険です。何かあったら……」

 ヴァイロンの言いたいのは、シイナドラドでカイエンが拉致された時のことだろう。

 カイエンは鏡台の前の椅子に座って、ヴァイロンを見上げ、まさか、と言うように手を振った。ここは腐っても彼女が支配する、ハーマポスタール大公の街だ。

「アルタマキア皇女の事件はスキュラでのことだよ。本来なら、実の伯父が迎えに出ているはずだったんだ。あんなことが、そうそうあってたまるもんか。まだ、ハーマポスタールの中の治安は揺らいでいない。私が私の領地内で攫われるほどに揺らいでいるようなら、それこそこの国にとっては危機的状況ということになるな」

 さすがにカイエンも、声が固くなった。すると、ヴァイロンの方もカイエンの気性は知り尽くしているから、敏感に彼女の気持ちを汲み取ったようだ。

「……わかりました。では、私もご同行いたします」

 だが、そうして次に言った言葉はいかにも彼らしいものだった。

「え! いやそれはだめだよ。お前はでかいから、どうやっても変装にならないし。なあ、そうだろう? サグラチカ」

 カイエンはびっくりして、味方を求めるようにサグラチカの方を見た。

「そうですよ。あなたの体の大きさはどうやったって隠せませんよ。大丈夫よ。シーヴさんが普段着に着替えて、ほら、裏のナシオさんと一緒に、同じ店で飲みながら見張ってくれるって言ってるから」

「ナシオには、他に仕事があるでしょう」

 それでもヴァイロンが食い下がると、ヴァイロンが開けっ放しにしていた扉から、どこにでも出没するあの男が顔を出した。本来なら、大公の寝室を横切って出て来ていい男ではないが、この男にそういう「常識」は通用しない。

「……揉めてるな」

 ガラはぬうっと入ってくると、サグラチカの代わりにヴァイロンの説得を始めたから、カイエンは驚いた。

「大丈夫だ。ナシオの仕事は俺がやっておく。俺は決まった仕事がないから、いつでも足りないところを補っている。問題ない」

 そう言うと、ガラは彼にだけできる力技で、ヴァイロンの巨躯を化粧室の外へ引っ張って行った。

「行き先は、コロニア・ビスタ・エルモサのでかいププセリアだ。客層も悪くはない。隊員もよく行くから、変な奴も入りにくい。安心しろ。シーヴはともかく、ナシオがいれば大丈夫だ。トリニって娘は一人で十人以上相手できる。最強だ」

 コロニア・ビスタ・エルモサは、トリニの家があるレパルト・ロス・エロエスに隣接する、古い下町、といった地域のひとつだ。すぐ隣は旧市街で、この大公宮からも遠くない。

 ガラがそう言って、ヴァイロンを引きずるようにして出て行くのと入れ違いに、バルバラが着いたと女中が知らせに来た。

 だから、カイエンたちは今度はバルバラの髪型をどうしよう、などと言う、この大公宮の奥では普段あまりない女らしい話題にさっさと戻っていってしまったのだった。





 

「それじゃあ、乾杯といこう!」

 カイエンが麦酒セルベサの入った陶器のカップを持って、乾杯の音頭をとると、そこに集った若い女ばかりの集団は一斉に同じく麦酒セルベサの入った陶器のカップをテーブルの上で振り上げた。

乾杯サルー〜」

 がっつんこっつんと打ち合わされる麦酒セルベサの器。

 それから、一斉にきゅーっと一口目をあおる。

 店の厨房前のカウンターに近い、長いテーブルに案内されたのは、総勢七人の若い女たちだ。そのすべてが大公軍団の制服を着ている。

 ちょうど夕食どきだったので、彼女らのテーブルの周りのテーブルも、みるみるうちに新しい客で占められていく。今宵の幹事のロシーオは、内心で予約をしておいてよかったと思っていた。

 カイエンとバルバラはともかく、他の五人はみんな歴とした本物の女性隊員だから、周りの客は誰も疑ってはいない。

「ぷっはぁ! おいしいっ。おばさん、冷えてるねえ!」

 この近所に住んでいる女性隊員一期生のロシーオが、ここの女主人に向かって叫ぶと、中年の太り肉の女主人がにこにこと太い腕を振るって答える。

「もちろんだよ! 裏の井戸の水で冷やしているからね。今日は威勢のいい、それも若くてきれいなお姉さんたちに来てもらって、うれしいよ」

 コロニア・ビスタ・エルモサの大きなププセリア。名前は特にないが、マリーナおばさんのププセリア、として名が通っている。

 普通の家、三軒分くらいもある店で、大部分は天井だけの半分外みたいな店だが、毎日夜更けまで繁盛している店だ。決していかがわしい店ではなく、近所の者たちだけではなく、辻馬車で商人の家族などもやってくる健全な店だ。

 「ププセリア」とは、このハーマポスタール下町名物の「ププサ」を出す店のことである。ププサは、トウモロコシの粉で作った真っ白な餅の中に黒豆を煮たフリホールや肉、チーズ、玉ねぎやトマトなどを入れて鉄板で焼いたもので、野菜の酢漬けと一緒に食べる素朴な食べ物だ。

 この店では、それ以外にも多種多様な酒も出すし、竃を使ったちょっとした小料理タパスも出す。

「おばさん、おつまみからどんどん持って来てよ。たいこ……じゃなかったグロリア、何か食べたいものあり……ある?」

 ロシーオはつっかえながらも、今宵のカイエンの名前であるグロリア……それはカイエンの二番目の名前だったが、を呼んで促した。カイエンはともかく、グロリアは女神グロリアの名前だから、珍しい名前ではない。

「そうだなあ。バルバラは? 私はププサも食べたいし、ここの小料理タパスも食べたいな」

 言いながら、カイエンは物珍しそうにカウンターの向こうの壁に下がっている、今夜の料理の札を眺める。そこには様々な小料理タパスの名前が読みやすい字で書かれていた。

「あのね、私はあのタコとエビのアヒージョが食べたいです! アヒージョ大好きなの。でもこっちじゃなきゃ食べられないから」

 アヒージョとは海産物や肉、野菜にニンニクとたっぷりのオリーブ油、それに香草を散らして煮た海産物のことだ。

 バルバラは初めて着る大公軍団の制服を、窮屈そうに着ていたが、店に入ってくると急に元気になった。確かに、彼女の父であるクリストラ公爵の領地、クリスタレラでは海産物は食べられないだろう。アヒージョなどという庶民的な料理も、クリストラ公爵家の料理人はあまり作らないのかも知れなかった。

「ああ、海産物か。ロシーオ、じゃあ、海のものを使った皿を頼んでくれ」

 カイエンことグロリアがそう言うと、今宵の幹事であるロシーオはうなずいて、マリーナおばさんにアヒージョとエビやイカのレモンと香草和え(セビチェ)を注文する。

 その時、テーブルの一番端に居心地悪そうに座っていた一人の女性隊員が、隣のイザベルに耳打ちしているのを、カイエンは目ざとく見つけた。

 この夜、集まったのは、カイエンとバルバラ以外に大公軍団の女性隊員ばかり五人だった。

 一期生からはトリニにロシーオ、それにイザベル。一期生もう一人のブランカは皇帝オドザヤの今宵の警備担当だったので来られなかった。そして、第二期生からは、ルビーともう一人。フリーダ・ポンセが参加していた。

 トリニとイザベル、それにルビーは治安維持部隊に配属されているが、ロシーオとフリーダは帝都防衛部隊の配属だ。この中であまりカイエンに目通りしていない隊員となると、それはイザベルとフリーダと言うことになる。ロシーオはカイエンの飼い猫のミモを連れてきた関係で、何度かカイエンと話したことがある。

「あ、あのう!」

 最初の黒豆フリホーレスのププサが運ばれてきたとき、イザベルは思い切って声をあげた。二十歳過ぎに見える浅黒い肌に真っ黒な髪を頭の上でまとめたフリーダよりも、小柄で金茶色のくるくるした髪をしたイザベルは年下なのだが、入隊時期からいえば先輩なのだ。

 カイエンは隣に座っていたトリニが差し出した、ププサの添え物である、生野菜の酢漬け(クルティード)の瓶から酢漬けの野菜を取っていたところだったが、顔を上げた。

「どうした?」

 カイエンが、ププサに野菜の酢漬けを挟んで口に持って行きながら聞くと、イザベルはどうしてだか知らないがすっと立ち上がった。

「こ、このフリーダ・ポンセが……たいこ……じゃなかったグ、グロリアに話があるそうですぅ」 

 そこまで言うと、イザベルはすとんと椅子に座って、麦酒セルベサをぐいっと飲み干してしまった。カイエンに直接、話しかけるのは相当の勇気がいったらしい。

 大丈夫だろうか、と思いながら、カイエンはフリーダに目を向けた。

「フリーダ、なにか?」

 カイエンは普通に話しているつもりだったが、手掴みでププサにかぶりついていても、生まれは隠せないもので、その姿には町娘にはない端正な所作が見て取れた。珍しい紫がかった黒の髪の色は夜の、それもランプの光の中では黒く見えるので、彼女の身分を直ちに暴露するものではないが、ちょっとした所作の違いは、見るものによってはカイエンの身分を推し量る証左になっただろう。

「えっ。いいえ、あのう……」

 フリーダは何か言いたそうなのだが、その先がなかなか言葉にならない。カイエンがこの街の支配者である大公と知っていれば、それも不思議なことではなかった。

「フリーダ、どうしたの?」

 ロシーオが急に真面目な顔になって、フリーダを見た。ただ事ではない雰囲気を敏感に察したのだろう。

「あの。近頃、運河沿いの奇術小屋に新しい小屋がかかったって、ご報告、致しましたよね?」

 フリーダは浅黒い顔の中で、真っ黒な瞳を煌めかせた。南方出身らしい、穏やかな顔立ちだが、それがちょっと引きつっている。

「ああ。それなら、署長に報告したでしょ、あんた? 外国人の出入りは帝都防衛部隊の管轄でもあるから、もっと上まで伝わっているはずだよ」

 ロシーオの答えを聞くと、フリーダは安心したように表情を緩めた。

「……そうですか。じゃあ、大丈夫ですね。ここで来る途中で、ちらっと見たんですけど、前にトリニさんが紹介してくれた、ええと、『黎明新聞』の記者さんが、あの小屋に入っていくのを見たんで、なんとなく気になってて」

 フリーダがそう言った途端に、今度はカイエンの隣でトリニがびくりと反応した。

「ええっ?」

 その時、マリーナおばさんが小料理タパスの皿をテーブルに持ってきたので、皆は一様に黙りこくった。おばさんがいなくなってから、トリニが真面目な顔でフリーダを見た。

「……それって、あの『コンチャイテラ』?」

 フリーダは麦酒セルベサのカップを手にしたまま、がくがくとうなずいた。

「そうです。この頃、他の新聞社では記事にしてましたよね。あそこです。黎明新聞は記事にしてなかったんで、ちょっと気になったんです」

 そこまで聞いて、カイエンにも話の輪郭がなんとなく理解できた。彼女も帝都の読売りは毎日、読んでいる。奇術一座「コンチャイテラ」のことも頭の隅に残っていた。だが、注意して見たのはどうやら見出しだけだったようで、記事の中身は思い出せなかった。

「トリニ、その記者というのはウゴのことか?」

 カイエンが口元をハンカチで吹きながら、そう聞くと、トリニは聡明そうな黒い瞳をカイエンの灰色の目にしっかと合わせてきた。

「はい。そのようですね。……フリーダ、あの小屋がはねる時間はいつ頃?」

 トリニが聞くと、フリーダではなく、治安維持部隊のイザベルが答えてきた。

「あー。あそこあたりの小屋なら、はねるのはもう一、二時間先ですよ。ええと、どっかで耳に挟んだことがあったなぁ。思い出します」

 治安維持部隊のイザベルはそう言うと、瞑想するような顔になった。彼女は特殊能力を持って大公軍団に採用されている。見たものを忘れすにスケッチできる“メモリア”カマラの従姉妹である彼女の能力は、「聞いたものを忘れすに再生できる能力」だ。

「……奇術団『コンチャイテラ』の一番人気は魔女スネーフリンガと、魔術師アルットゥ。出し物の夜の部のはねるのは……だいたい夜更けの九時ごろから十時ごろです」

 まだ、大公であるカイエンのところまでは、魔女スネーフリンガと、魔術師アルットゥの話は伝わってきていなかった。その上に、カイエンは奇術団の記事をどうやら、読み流してしまっていたようだ。

「なんだ? その魔女スネーフリンガと、魔術師アルットゥというのは?」

 カイエンが小料理タパスの皿をつつき、麦酒セルベサを飲みながら、女性隊員たちにそう聞くと、女性隊員たちも口を休めることなく片っ端から、自分の知っている情報を話し始める。その様子には、食べることにも、仕事にも一生懸命な女性隊員たちの日常がそのままに出ていた。

 その様子を見て、クリストラ公爵の次女であるバルバラは、自分も目の前にある食べ物と飲み物にかぶりつきながらも、耳をすませているしかなかった。だが、彼女にとって、この夜の経験は決して忘れ得ぬものとなる。

 のちの女公爵バルバラ・クリストラは、後にこう言ったという。

「私が女公爵として我が領地を治めるにあたり、先駆者としていつも頭にあったのは、我が従姉妹、かのハーマポスタール大公カイエン殿下でございました。あの方はいつもあるべくしてそこに在られ、常に市井の一市民の生活を知ろうと努力されていました。ええ、それは高貴な方の形だけの気まぐれであったのかもしれません。それでも、あの方はいつも知ろうと努力することを忘れず、皆と一緒に『その場所におられようとした』のです。そして、あの方はご自分の使命を決してお忘れになることはなかった。それがどんなにお辛いことでも、すべてを飲み込んで前に歩いて行かれたのです。私はただ、それを倣っただけ。ええ、後にも先にも、カイエン様はお一人だけです。他のカイエン様は今までもこの先も、この世に現れることはありますまい」





  


 カイエンたちの「女子会」のあった、ちょうどその夜。

 魔女スネーフリンガと魔術師アルットゥの出し物を、その目でしっかと見たウゴは、コンチャイテラの奇術小屋を出てから、運河沿いを避けて街中を大公宮へ向かっていた。

 彼は何度か、大公宮の後宮の部屋に住む彼の師匠である、大公軍団最高顧問マテオ・ソーサの元を訪ねたことがあったから、この頃ではとりあえず大公宮の裏玄関のある裏門に顔を出せば、門番は身元を詮索ぜずに入れてくれるようになっていた。

 だから、彼は一直線に大公宮の裏門へ向かっていた。

 運河沿いを避けたのは、運河は途中で大公宮や貴族の館のある旧市街とは違う方向へ向かってしまうこともあったが、運河沿いは深夜ともなれば何かと物騒だった事にもよっていた。

 ハーマポスタール市内の治安は維持されていたが、スキュラでのアルタマキア皇女の事件が読売りに出てから、深夜に街中を行く市民の姿はめっきり少なくなった。

 サウリオアルマが北へ向かって出陣したのを境に、市民たちの間でも有るか無きかの「危機感」が生まれていたのだろう。

 ちょうど、奇術小屋と大公宮のある旧市街との中間点の街中を歩いていた時、ウゴは急に背中から冷たいものが脳天へと走って行くような不安を覚えていた。

 ウゴは黎明新聞の記者として、帝都ハーマポスタールの地理は隅から隅まで頭に入っている。だから、この日も大公宮の裏門へ向かう、最短距離の道筋を選んで歩いていたのだ。

 だが。

 ちょうど、マテオ・ソーサの私塾やトリニのペンシオンのある、レパルト・ロス・エロエスの裏通りを進んでいた時だった。

 それまではまた空いている酒屋や、居酒屋、飲み屋の灯りがあったのに、角を曲がった途端にそれが全て消えていた。

 おかしい。

 ウゴの記憶が確かならば、この裏通りにはいつも夜明けまで屋台の一杯飲み屋が並んでいるはずなのだ。

 だが、それがない。

 目前の通りは真っ暗で、通りの先に一軒だけ開いているらしい店の灯りが遠くに見えるだけだった。ウゴは引き返そうかと思ったが、そこでギクリと体を強張らせた。

 後ろで、複数の気配が道を塞いでいた。ちらりと振り返ると、複数の男の影が両側の家々の壁に黒々と浮いて見えた。そればかりか、厄介ごとを恐れた店が慌ただしく扉を締める音までもが聞こえてきたのだ。

「くそっ」

 ウゴは仕方なく、前に広がる裏通りに足を踏み入れるしかなかった。両側の家々にはもう、光もない。

 恐る恐る歩き始めたウゴだっったが、すぐに灯のついていない屋台にぶつかって喚き声をあげることとなった。

「うわっ」

 かなり大きな声が出たが、両脇の家々は沈黙したままだ。ウゴはしばらく暗闇で目を慣らすと、そっと屋台の中を覗き込み、そして声も出せずに絶句した。

 もう、完全にいけなかった。

 屋台の向こうでは、この屋台の主人と思しき中年男が石畳に倒れていた。そして、それを見た途端に、鼻に嫌な臭いが流れてくる。生臭い臭いだ。一番近いのは、肉屋の臭いだ。いや、これはそれよりももっと血生臭い。今まで、こんな臭いに気がつかずに歩いてきていたことの方が不思議なほどだった。

 そこまで気がついた時、ウゴの前に生臭い臭いが吹き付けてきた。

 向こうから、血生臭い何かがこちらへやってきたのだ。だが、ウゴはそんな事実には気がつかなかった。ただただ、異常な気配と臭いに揺り動かされた本能が、奇跡的に彼の足ををくるりと真後ろに向けさせた。そっちにも伏せている男たちがいることはわかっていたが、それでもそっちへ逃げるしかなかった。目の前の気配はそれ以上の恐怖だったからだ。

「うわぁあああああああああああああああ!」

 声が出た!

 俺は声を出せたぞ!

 ウゴは心の底で自分を褒めた。これでこそ、黎明新聞のホアン・ウゴ・アルヴァラードだ。究極の恐怖の中でも声が出るなら、まだ体はきっと動く。逃げられるのだ。

 ウゴは無意識に両腕を前で組み、頭と胸をその影に入れた。そして、そのまま突進した。多分、伏せている手練れの男たちの相手はできない。ならば、勢いでもって全力で駆け抜けるしかなかったからだ。

 ウゴは逃げながら、ひたすらに自分の靴の立てる石畳の音だけを聞いていた。

 くそ。

 ウゴは冷や汗を流しながらも、気がついてしまっていた。

 追ってくる奴からは足音がしない。

 あいつは、あの恐ろしいやつは音もなく、石畳の上を走ることができるのだ。

 ああ。

 だが、その時だった。


 前の方で、男たちのうめき声が続き、ばたばたと石畳の上に駆けつける、複数の足音が聞こえたのは。

 

「ウゴでしょ? ねえ、そうでしょう!」

 ウゴは、その声を聞いた時、心底、助かったと思うと同時に、気が緩んでその場にへたり込みそうになった。

 後ろから迫り来る、恐ろしい怪人の恐怖など、一気に、霧散したと言ってもいい。

 この声は、トリニだ!

 トリニは彼と同じく、大公軍団の最高顧問をしているマテオ・ソーサの私塾の生徒だった、同じ町生まれの幼馴染みだ。そして、螺旋帝国人の父親から教え込まれた武術によって、女とは思えないほどに強い。

 そう思うと同時に、声が出ていた。

「そうだよ! 俺だよ! ああ、本当に地獄にナントカだ! トリニ、お願いだから俺の後ろにいるこのバケモノ、ちゃっちゃとやっつけちまってくれ!」

 ウゴはもう、恥も外聞も、もう夜更けという時間もわきまえずに、死人も起き出しそうな大声で喚いていた。

 後に、ウゴは若い記者たちにこう訓戒している。

「ヤバいと思ったらな、とにかく第一に大声を出すことさ。声が出なきゃ、もう黙って殺されるっきゃない。だから、どんなに怖くてもでかい声だけは出るように鍛えとけ。ああ? から騒ぎになったら、謝ればいいじゃないか。平謝りに謝りゃいいんだよ。大怪我したり、殺されたりした後じゃ、声も出ないからな」

 と。

 

 そこに駆けつけたのは、さっきまでコロニア・ビスタ・エルモサのマリーナおばさんのププセリアで女子会をしていた七人の女たちだった。密かに同じ店でカイエンとバルバラの警護をしていた、私服のシーヴとナシオも混ざっていた。

 カイエンとバルバラは、ロシーオとルビー、それにイザベルとフリーダに囲まれて一番後ろにいた。それでも、前方で繰り広がっている異常な雰囲気は十分に彼女たちにも伝わっていた。

 カイエンは、今年に入ってからも逃亡するアルウィンの馬車と衝突した時もそうだったし、何度かこういう現場も経験していたから落ち着いていたが、バルバラの方はもう泣きそうだった。女子隊員たちの話だけでも十分に刺激的だったのに、今は、目の前で血生臭い何かが勃発してるのだ。バルバラの鼻にももう、血生臭い臭いは伝わって来ていた。

 バルバラは声も出ず、とりあえずカイエンに抱きついているしかなかった。この従姉妹は全然、強そうではないが、それでもこの街の「大公殿下」を何年もやっているのだ。それに、今も落ち着いてロシーオとルビーにトリニたちが叩き伏せた男たちの始末を命令している。人は見かけによらないとはこのことだろう。

「止まれ」

 トリニはウゴを自分の後ろに行かせると、後ろに北のナシオとシーヴの存在を意識しながら、たった一人で怪人の前に仁王立ちに立っていた。背後の男たちはもう、トリニとナシオ、それにシーヴの三人で倒している。今頃は、ロシーオとルビーが手早く拘束していることだろう。

 さすがの彼女も、ウゴの通るであろう道は予想できても、ナシオたちを先回りさせる時間はなかったのだ。

 腰には大公軍団支給の大剣を差し、後ろ腰には短剣もいくつか隠していたが、それを抜こうともしなかった。彼女はただ、両腕を体の左右に無造作に垂らした姿勢で、そこに立っているだけだった。

 そうして道に立ちはだかった、大柄なトリニの前で、怪人はしばらくの間、黙っていた。逃げようとはしない。前に進もうともしなかった。怪人にはトリニの技量がわかるのだろう。それでも逃げないのは、相当に腕に自信があるのだろうか。

「お前は……螺旋帝国人か?」

 やがて。

 怪人は、口を開くと、トリニに向かってそう聞いて来た。くぐもった声は、それが男だということしかわからない。それに、トリニはうるさそうに短い髪を振りやって首を振った。

「そう言うお前こそ、螺旋帝国人だね。言葉のなまりでわかるよ。ついでに言うと、お前の気配は前に一度、感じたことがある。私はハウヤ帝国のこのハーマポスタールの市民だ。そして、この街を守る治安維持部隊の一員。……ここで物騒なことをしでかす輩は……許さない」

 ふっ。

 トリニはいい終わらぬ前に、もう怪人の眼前に迫っていた。

 怪人が刃物を持っていることは承知してるはずなのに、彼女は腰の大剣も、短剣も抜こうとはしなかった。その時間さえ惜しんで突進したのだということが、ナシオやシーヴにだけはわかった。彼女は相手を殺さずに捕らえるつもりなのだ。

 そして、カイエンたちには、暗闇もあって見えなかったが、ただ一人、子供の頃から影使いとしての訓練を受けて来た、ナシオにだけは見えていた。

 怪人は濃い灰色のフードのある長衣で膝までを隠していたから、顔は見えなかった。だが、それほど大きな男ではない。だが、きらっと白く光った刃は、肉斬り包丁のような形をしていた。

 それを、怪人は的確に前に突き出して突進して来た。その時にはトリニが目の前に迫っていたが、怪人は刃物を突き出す速さだけでなく、それを避けられた後の引き手が凄まじく早かった。

 手元へ刃を引いたと同時に違う方向へ刃を突き出す速さは、ナシオでさえ凍りつきそうなほどの俊敏さだ。

 だが、それでもトリニの速さには追いつかなかった。彼女は悠々と怪人の刃物を左右に避けながら突進していく。

 トリニが怪人の目の前に到達し、最後の突きをかわした直後に、なんとも嫌な音がした。

 それは、カイエンやバルバラの所にまで聞こえたが、後になって考えれば、それは骨の折れる音だったのだろう。

 トリニは怪人が最後に繰り出した素早い蹴りをも、流れるような動作で避けていた。そして、そのまま、怪人が手元へ引こうとする腕を上から無造作に手刀を叩き込んで折っていた。

 トリニは怪人の蹴りに一撃を加えることも出来たのだろう。だが、彼女はより確実に相手から凶器を奪うことを優先したのだ。それだけ、トリニにとっても怪人の繰り出す刃物の速さは見過ごせないものだったのだろう。

 トリニは怪人の腕の骨を折っただけでなく、骨を折った瞬間に凶器を奪い、そのまま折った腕を掴んで引き寄せようとさえしたのだが、それはさすがの彼女でもなしうることができなかった。

 ひゅっ。

 空気が裂けるような嫌な音。 

 カイエンはついこの間、その音を聞いたばかりだった。あの、アルウィンの馬車とぶつかった街道での捕り物の時のことだ。

 それは、十字弓クロスボウの音だった。

「危ないっ」

 その場で複数の声が上がった時には、トリニはもう後ろへ下がっており、怪人は折られた腕をゆらゆらと揺らせたまま、俊敏に暗闇へと逃げ去っていた。

 しばらくして、ナシオがトリニのそばまで前進し、彼女の呟いた言葉を聞いた時、その場にいた皆は恐ろしさに心底凍る思いをすることになる。


「……あいつ、腕を折られても得物は落としませんでしたよ」


 確かに、怪人の去っていった後には、何も落ちていなかった。

 そして、ロシーオとルビーが気がついた時には、彼女たちが拘束していた男たちは、おそらくは口の中に隠していた毒によって息絶えていたのである。さすがにカイエンも彼女たちも、男たちが口の中に自殺の細工をしているとまでは思っていなかった。

「やれやれだ」

 カイエンはそう言うと、ナシオに命じていた。

「……どうやら、死人は一人二人ではなさそうだ。シーヴ、すまないが近くの治安維持部隊の署へ走ってくれ。ナシオは大公宮へ知らせろ」

 カイエンには感じ取れていた。

 これは奴らの仕業だ。

 カイエンは、あのアルウィンに心を支配された者たち、あの「青い天空の塔」修道院での惨劇の現場を思い出していた。



 なんとか更新。

 今回は大公軍団の女子が大集合。

 今回、気がついたんですが、この話、若い娘が少ないです……。

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