魔女スネーフリンガ
彼女は水面を凍らす風
彼女は氷原に舞う風花
彼女は永久凍土の上を撫でる嵐
彼女は雪の娘
彼女は氷の魔女
彼女は雪の結晶
彼女はもう年老いた老婆のよう
彼女の目は波のない淀んだ湖水
彼女の声は凍てついた水面の匂い
彼女の髪は冬の白い椿
彼女は笑わない
雪の結晶は決して溶けない
みんな心しておいで
彼女に出会って
凍死しないように
彼女を見て
氷の柱にされないように
アル・アアシャー 「雪の結晶の来る前に」
夏。
それは、貴族達にとって、本来ならば社交の季節である。
貴族達はこの季節には、地方の領地から帝都ハーマポスタールへ上ってきて、街中の屋敷に住まう。そして、財力のある貴族の家では連日のように茶会やパーティ、晩餐会のようなものが開かれるのだ。
皇宮も例外ではなく、皇后アイーシャが健在の頃には、真夏ともなれば何度も彼女主催の集まりが催されるのが常だった。
だが。
新皇帝オドザヤの即位の直後に起きた、第三皇女アルタマキアの拉致と、北方の自治領スキュラの一方的な独立宣言は、帝都の夏の雰囲気を氷で真っ白に塗りつぶすような作用を持っていた。
社交に花を咲かせるはずの貴族たちは身を潜め、パーティや晩餐会なども、行われたとしても極めて密やかなものであった。大公宮の奥でも去年のように、七月下旬生まれのヴァイロンの誕生日が行われはしたが、そこでの話題はスキュラでの状況に関する話に終始してたほどだ。
宰相サヴォナローラと元帥大将軍ザラは、事件発覚後、速やかにハウヤ帝国四大アルマの一つである、サウリオアルマを北方へ動かした。スキュラとの国境に一番近い場所に領地を持つフランコ公爵は、アルタマキアを送って自領まで赴いたまま、そこに留まっていた。
サウリオアルマの将軍は、ガルシア・コルテス。年齢は三十代の半ば。脂の乗り切った年頃である。
スキュラに近い北部の豪族の出身だが、彼の家族はハーマポスタールに住んでいた。帝国北部の地の利を熟知するものとして派遣されたのだが、意地の悪い見方をすれば、家族を皇宮に人質に取られた上での派遣という見方もできた。
アルタマキアの行方不明から先、帝都の読売りは連日、この話題についての記事を載せていた。スキュラの独立宣言は、ハーマポスタール市民に驚きをもって迎えられ、市内の噂話といえばこれ一色といっても良かった。
そこにサウリオアルマの派遣が決まったことで、読売り各紙は、「すわ戦争開始」とでもいう論調になったから、人々は浮き足立ち、大公軍団の治安維持部隊は繁忙を極めていた。
そういう緊迫した政情の中。
八月も半ば。
皇宮では市民が聞いたら、「この非常時に何をやっているのだ」と言いそうな集まりが、密かに行われようとしていた。もっとも、集まりといっても極めて小規模なものだったから、名称を穏便なものにすれば問題になるほどのものでもなかった。
この集会を思いついたのは、大公のカイエンである。
最初、この催しを大公宮で行うという案もあったのだが、大公宮には隊員の出入りもある。だから、カイエンは思い切って皇宮の、それも皇帝のオドザヤの瀟洒な応接室を会場にすることにしたのである。
そこならば、オドザヤの即位前のゴタゴタでギクシャクした関係になっている、親衛隊に勘付かれないとの思惑もあった。
本来ならば皇帝の周囲を警備するのが仕事の親衛隊は、オドザヤの即位以降は皇帝ではなく、皇宮全体の警備を担当するような形に仕事の方向性を変えていた。彼らの長であるモンドラゴン子爵にしても、女帝を支持していないにせよ、ハウヤ帝国に対する忠誠という点で問題があるわけではない。
後宮を管理する女官長から、女帝オドザヤ付きの宮廷女官長となったコンスタンサ・アンヘレスは老獪だった。就任後、すぐに彼女は皇宮全体の女官たちを面接し、背後関係を調べ、オドザヤの日常の業務すべてに影のように配置できるだけの人数の有能な女官を選抜した。
そして、彼女は親衛隊との間に隙を作ってしまった平民宰相サヴォナローラの代わりに、オドザヤと宰相府の警備担当者と、親衛隊との間の連絡係のような役目も果たすようになっていた。
今や、コンスタンサ率いる宮廷女官たちがいなければ、皇宮の奥向きは成り立たなくなっていたと言えよう。
だから、コンスタンサは宰相府の武装神官たちや、オドザヤの護衛のブランカやルビー、それにリタなどとも細かく連絡をとっていた。
そんな中、行われる集まりの名前は、「とりあえずみんな落ち着いて冷静な気持ちで親睦を深めましょう、な集まり」だった。
名称はふざけていたが、実質的に「非常時だからこそ」な内容もちゃんと含まれている。
それは、ハウヤ帝国の北と南から、急遽呼び出された人々を出迎えるためのものでもあったのだ。
その日。
皇帝オドザヤの住まう宮の、よく手入れされた中庭に面した応接室に集まった人々は、十人余り。
読売りの記者でも紛れ込んでいたら、その身分の幅の広さに目を丸くしたに違いない。
そこにはこのハウヤ帝国の皇帝であるオドザヤ、大公のカイエンに始まって、客としてではないが護衛の仕事で居心地悪そうに部屋の隅に立っている、ブランカやリタ、ルビー、それにカイエンの護衛のシーヴまでもが紛れ込んでいたのだから。
「陛下、大公殿下、ミルドラ様、ああ、それにバルバラ様も! お久しぶりでございます!」
真夏の花々が咲き乱れる庭を眺めるテラス。
この応接間に案内されて入ってくるなり、オドザヤとカイエン、それにミルドラの前で大仰に挨拶をしたのは、フランコ公爵夫人のデボラだった。ミルドラは、公爵家の後継が決まった次女のバルバラを伴って来ている。
この応接室は、数ある皇帝の応接室の中でも私的な催しの為に用意されていた場所で、それゆえに先代の皇帝サウルはあまり用いなかった場所だった。だからかもしれないが、家具や調度の様子は優しい意匠が好みだったという、先先代皇帝レアンドロの好みのままに保存されていた。
テラスには日除けがかけられ、風向きもよかったので、室内には真夏でも涼しい風が吹き込んでいた。
「デボラ様、この度は大変なことで……」
その先の言葉が続かなかったのは、オドザヤもカイエンも、そしてミルドラも一緒だった。デボラは夫のフランコ公爵テオドロとともに、スキュラの後継者となるべく北へと向かうアルタマキア皇女について自領のラ・フランカまで赴き、そこでアルタマキアに起きた異変を聞いたのだ。
デボラのふっくらとした人の良さそうな容貌は変わらないが、内心の不安を表して、顔の皮膚がそそけ立っているようだ。
「ええ、ええ。もう、私などはもう、どうしていいのやらわかりませんで。サウリオアルマが派遣されるとのことで、とりあえず夫に言われてハーマポスタールに……」
それを聞くと、カイエンよりも先に皇帝のオドザヤの方が、目を伏せてしまった。
オドザヤは普段ならカイエンが身につけそうな、青紫のあまりスカートの膨らまない細身のドレスを纏っていた。彼女の髪は金髪で、目の色は琥珀色だったから、その服の色は、紫っぽい髪の色のカイエンに似合うのとは別の意味でとてもよく映えていた。
本人は極めて控えめな性格だったのだが、そこは立っているだけで華やかで美しいオドザヤの背後には、影のように女官長のコンスタンサが張り付いている。
「ごめんなさい。私が不甲斐ないばかりにこんなことになって……。フランコ公爵夫人と、そして……」
ここで、オドザヤはもう応接室の奥のソファに座り、クリストラ公爵と歓談中の見慣れない人々の方を見遣った。
クリストラ公爵ヘクトルのそばに席を占めているのは、バンデラス公爵である。だが、バンデラス公爵の左右にやや居心地悪そうに座っているのは、見慣れない顔だ。一人はもう五十がらみの恐ろしく姿勢のいい貴婦人で、もう一人はバンデラス公爵ほどではないが珈琲色に近い顔の色をした、二十歳前の若者だった。
「あら、あの方々は?」
デボラもバンデラス公爵は先帝サウルの葬儀の席で紹介されている。だが、他の二人は初めて見る顔だった。
ここで、カイエンがオドザヤの代わりに口を挟んだ。
今日はカイエンも珍しく貴婦人らしいドレスに身を包んでいる。もっとも、色や形は足が不自由なこともあって裾を引かない、年齢相応より地味目な、それもやや堅めで細身の意匠である。それでも、襟元から淡雪のようなレースを散らした、夏らしい濃い青の柔らかい絹のドレスには細かく夏の花々が刺繍してあって、華やかだった。
カイエンは今日はエルネストを大公宮に置いてきたので、気が楽だった。
「若君の方は、バンデラス公爵のご長男のフランセスク殿。女性の方は、公爵のご母堂、先代バンデラス公爵夫人のサンドラ様です」
「ああ。……わかりましたわ。そうでしたのね」
デボラは深々とうなずいた。では、あの貴婦人と若者は、彼女と同じ「理由」でハーマポスタールへ上ってきたのだ。
「ええ。そうです。バンデラス公爵はやはり、自領へお帰りにならないわけにはいかないですからね。……ですから、急遽、あのお二人を呼び出したのだそうです」
カイエンは内心、それにしてもあの二人がやってくるのは早かったな、と思っていた。
南のモンテネグロから二週間足らずでの到着だったからである。もっとも、彼らは陸路ではなく、ラ・ウニオン海を陸伝いに船でやって来たのだった。風向きにもよるが、陸路よりは早く着けるだろう。
その時、応接室の扉が開き、仕事の都合で遅れていた最後の出席者たちが入って来た。
「遅くなりまして。申し訳ございません」
「お待たせいたしましたな」
丁寧に挨拶したのは、宰相のサヴォナローラ。いささか尊大に聞こえる声の主の方は、元帥府の主、エミリオ・ザラ大将軍である。もっとも、ここに集った人々の中では彼は最年長かもしれなかったから、誰もそれを不遜だと思うものはいなかった。
サヴォナローラの背後には、オドザヤの後ろのコンスタンサのように気配のない、アストロナータ神殿の武装神官のリカルドが続いている。リカルドは己の主人であり、兄弟子でもあるサヴォナローラの後ろで扉が閉まると、そっと動いてブランカやルビーたちの控えている壁際に移動した。
「お揃いですね」
サヴォナローラは集まった顔ぶれを見回すと、まっすぐにオドザヤと、その真横にいたカイエンの方へ歩いて来た。
「では、お席にお付きくださいますように」
席といっても、謁見の間とは違って皇帝の玉座があるわけではない。これはごくごく内うちの集まりなのだ。
オドザヤは応接間の正面にある、大きな鏡が据え付けられた壁にはめ込まれた大理石の暖炉の前のソファにかけ、カイエンはそのすぐ横のソファに座った。カイエンの隣にはすでにクリストラ公爵が座っていたから、ミルドラやバルバラはその次に座る。カイエンの向かいには、今日の客でもあるバンデラス公爵とその母、それに息子が座り、その次にはフランコ公爵夫人のデボラが席を占めた。
ザラ大将軍は末席に座ったが、宰相のサヴォナローラはオドザヤの背後に、女官長と共に立った。
「本日は、バンデラス公爵家より、サンドラ前公爵夫人、そしてご子息フランセスク様においでいただきました。ご存知の通りの政情によりまして、帝国は非常事態となっております。国民に不安を抱かせぬためにも、我ら一丸となってこの度の事態に対さねばなりません」
ここでサヴォナローラは一旦、口を閉じた。
さすがの彼も、今の時期に北にいるフランコ公爵の夫人や、南へ帰るバンデラス公爵の母親と息子を帝都に呼び寄せた理由、その生々しい理由を、そのままに言葉にするのはためらったのだろう。
「いいわ。残りは私からお話しします」
ここで、オドザヤが落ち着いた声でそう言ってサヴォナローラを抑えた。その様子に、カイエンはちょっと驚いた。だが、確かに皇帝サウルであったら、このことは自分で話そうとしただろう。
「本日は、このハウヤ帝国の東西南北を領地とされている、重鎮の方々に来ていただきました。ご存知のように、私の妹であるアルタマキアがスキュラで拉致され、スキュラはアルタマキアの身柄を盾に一方的な独立宣言をしてまいりました。先帝陛下はアルタマキアを自治領スキュラの後継にと決められましたが、それに不服だったのでしょう」
オドザヤはそこまで言うと、すっと琥珀色の目をバンデラス公爵家の人々と、デボラの方へ向けた。
「ここにおります大公、宰相、大将軍、ともにスキュラのこの度の動きは、スキュラ単独のものではないだろうとの意見です。ですから、我が国としましては国土の安寧を図るため、帝国版図の四方全てを完全な状態で防衛しておきたいのです」
「もっともなことでございます」
静かに言ったのは、意外にもバンデラス公爵だった。オドザヤも意外に思ったようだが、彼女はそのまま話を続けた。
「北方での交渉ごとには、領地の隣接するフランコ公爵が当たります。すでにその後ろ盾となる戦力として、サウリオアルマをガルシア・コルテス将軍の指揮で派遣いたしました。そして東側、ベアトリア国境へはクリストラ公爵にこの後、すぐに向かっていただきます。西側はこのハーマポスタールの大公と、フィエロアルマが守ります。……そして、南方への守りには、バンデラス公爵に領地へお戻りいただき、対処していただくことになります」
オドザヤの言葉遣いは、皇帝としては丁寧すぎるものだった。だが、この席ではまだ十代の彼女は経験のない子供にすぎない。だから謙虚なオドザヤはその心持ちそのままの言葉遣いを選んでいるのだろう。
「……私はクリストラ公爵、フランコ公爵、そしてバンデラス公爵の帝国への忠誠を疑ってはいません。ですが、父の存命中ならともかく、女であり、ましては何の経験もない若年の私が皇帝となった今、ハウヤ帝国はこれ以上、一つの過ちも犯すことはできないのです。間違いなく確実な方法で国体を守ること、国民の生活を安寧に保つこと。そのためには!」
オドザヤの声が高く裏返ったようになって掠れた。カイエンは思わず、オドザヤの手をそっと握りしめた。
「……陛下、大丈夫です。皆様、陛下を責めてなどおられません」
カイエンが囁くように言うと、オドザヤはびくりと身を震わせた。ちらりと琥珀色の目がカイエンの灰色の目とかち合い、そして別れる。
「心苦しいことではございますが、そのためにフランコ公爵家からはデボラ様、そしてバンデラス公爵家からはサンドラ様とフランセスク様に来ていただきました」
「つまりは……悪い言い方をあえて致しますと、『人質』ということになりますね」
オドザヤが言いにくいであろう部分を、カイエンはあえて口を挟んで言ってのけた。だが、その事実はここに集った人々にはもう既知の事実だったので、驚く者はいなかった。密やかに驚いていたのは、護衛の者たちだけだっただろう。
それでも、その場には一瞬、沈黙が降りた。
だが、沈黙を破ったのはオドザヤでもカイエンでも、ましてやサヴォナローラでもなく、ミルドラの愉快そうな声だった。
「あのね。私とバルバラは自ら志願致しましたの。……万に一つでも、フランコ公爵様やバンデラス公爵様が難色を示された時のことを考えてね」
ミルドラがそう言うと、ほほほ、と向かい側に座った先代バンデラス公爵夫人のサンドラが笑い声をたてた。サンドラはもう五十代の半ばだろう。だが、そのやや厳しい線で構成された端正な容貌は若々しく、体もほっそりとした体型を保っている。
意外なのは、彼女の顔の色や髪の色、目の色だ。珈琲色の顔色に黒い髪の、南国系の容貌を持った息子のバンデラス公爵や、孫のフランセスクとはとは違い、サンドラの皮膚は青白く、髪の色は金茶色で、目の色は息子と同じ鋼鉄色だった。肌や髪の色味はともかく、ナポレオン・バンデラスの北の血を思わせる厳しい直線的な顔立ちは、サンドラから受け継いだもののようだ。
「それはそれは、南の田舎公爵家などにお気遣いいただき、ありがとうございます」
サンドラの鋼鉄色の目が、ミルドラの灰色の目を覗き込む。カイエンは見ていて、はらはらとしたが、口を挟むのは控えた。ミルドラ伯母はこの程度のことでは動じないだろう。
「あら。ここの陛下や宰相は、最初、フランセスク様だけでいいとお考えでしたのよ。でも、私がサンドラ様もお呼びしたら、と申し上げて変えていただきましたの」
おいおい。
カイエンはちょっと焦った。そこまでここで話してしまうのか、と、そっとサヴォナローラの方をうかがってみると、サヴォナローラもミルドラに歯向かう気はないようで、そっと首を振って見せた。
「だって。サンドラ様はザイオン女王国のご出身だとうかがっていましたから。確か、サンドラ様のお父上がザイオンの外交官でいらして、このハーマポスタールで先代のバンデラス公爵様と出会われたのでしたわね」
この事実はカイエンもサヴォナローラも、今度のことを決めるときに、初めて知ったことだった。彼らより一世代、二世代上の貴族社会を知っているミルドラの世代でなくては、知りようもない情報だ。
ザイオン女王国は、ハウヤ帝国の北東に隣接する国だが、国境は急峻な万年雪を被った山脈で仕切られているので、危険で狭い、獣道のような山越えの道を通らぬ限り、直接の出入りはできない。そういう関係で、今まで直接の交流の少なかった国である。戦争をしたこともない。
それでも、数代前からハーマポスタールへは外交官がやってきている。
サンドラはミルドラの言葉を聞くと、ふっと微笑んだ。こちらもなかなかの狸か狐のようだ。
「そこまでご存知でしたの。それではもう、仕方がありませんわね。そうです。私の実家はザイオン女王国の侯爵家です。ザイオンとこの国との間にはオリュンポス山脈が連なり、ベアトリア経由でしか来ることはできません。ですから、この国でザイオン人といったら、螺旋帝国人並みの少なさでしょうね。……そんなザイオンをも牽制しておいた方がいいとお考えなのですわね」
サンドラは呆れたような声音で言ったが、ミルドラは微笑みと共にうなずいた。
「ええ。ベアトリアからはマグダレーナ様がいらっしゃっておられるし、ネファールにはこちらからカリスマ皇女が参っております。東西南北を固めた後に残るのは、オリュンポス山脈で隔てられているとはいえ、国土の広いザイオンだけですもの」
(だから、貴女にも来ていただいたのですよ)
ミルドラは言葉にはしなかったが、それはそこにいた皆の頭に聞こえない言葉として入って来た。
「ザイオンのチューラ女王の王配は、サンドラ様の兄上とうかがっております」
サヴォナローラが抜かりなく調べた事実を続けて述べると、そこに集った人々はもう、黙りこくるしかなかった。
そして。
一言も発しないまま、祖母のサンドラの横に座っている、バンデラス公爵の長男、フランセスクは、不安そうな目で父親と祖母の顔を等分にうかがっているようだった。
そして、沈黙がおりたところで秘密の集まりはお開きとなり、応接室にはオドザヤとカイエン、それにミルドラとバルバラの血の繋がった親戚のみが残った。
女官長のコンスタンサやオドザヤの護衛、カイエンの護衛のシーヴは残っているが、他の人々は下がっていた。
女たちはオドザヤのそばのソファに移り、コンスタンサ自らが室外へ出て、オドザヤ付きの侍女を連れて戻り、テーブルの上の茶菓を片付け、新しく涼やかな冷たい飲み物と、夏らしいジュレやシャーベットなどの菓子を運んでくる。
先ほどまでの集まりでは、誰もろくに茶を飲むこともしなかったので、女たちは皆、喉が渇いていた。
「そうそう。キルケ様はどうなさっておいでなの」
思い出したように、飲み物を口にしながら言ったのは、ミルドラだった。第二妾妃キルケはアルタマキアの母親である。
「アルタマキアのことを聞いてから、寝込んでおられます。キルケ様が言うには、お兄様のエサイアス様がそのような暴挙に出られるとは考えられない、今度のことは元首夫人のイローナの仕業に違いない、と。エサイアス様のご結婚は北海の向こうのマトゥサレン一族の力が侮れないほどに大きくなり、北海の海の治安が乱れて来たために行われた縁組だったそうで……」
答えたのはオドザヤだった。彼女は身内のみに囲まれて、やっと体の力を抜くことができたのだろう。声の調子が変わっていた。
「怖いわ。アルタマキア様のお付きの者などはどうしたのかしら?」
そう言ったのは、ミルドラの次女のバルバラだ。彼女はオドザヤと同年だから、拉致されたというアルタマキアのことが自分のことのように気になるのだろう。
「フランコ公爵からの書簡では、身の回りの世話をするために伴った侍女は全員、返されて来たそうだ。だから、アルタマキア皇女のそばには、今、ハウヤ帝国の者は一人も付いていない」
カイエンが答えると、普段は気の強いバルバラも青ざめてしまった。
「ええっ。それでは、アルタマキア様はお一人で知らない人たちの中に?」
バルバラの問いに対する答えはもう、皆が知り尽くしていたから、カイエンもオドザヤもミルドラも黙って曖昧な表情を顔に浮かべているしかなかった。
「それはそうと、お茶会など久しぶりですね」
沈黙に耐えかねたカイエンがそう言うと、オドザヤはふっと遠い目になった。
「お姉様を私のお茶会にお招きしたのは、もう二年も前になりますのね。……あの時はお姉様の身に起こったことなども知らず、私は無邪気にはしゃいで……さぞ、能天気な娘だと思われたでしょうね」
即位からずっと、心休まる時もなく、おのれの未熟さを呪うばかりだっただろうオドザヤの言葉は本人が意図せずとも、ついつい自虐的な物言いになる。
カイエンは自分の、余裕のないクソ真面目さは自覚していたが、この妹も芯のところは同じような不器用さを持っていることに最近、気がついていた。
「ああ。あれは何月でしたっけ? 春の……薔薇を愛でる会でしたか。あの時は華やかでしたね。お歴々の令嬢が集まって」
カイエンが思い出しながらそう言うと、オドザヤも遠くを見る目になった。たった二年あまり。なのに、この二年の間に彼女らの上に降りかかった運命はなかなかに過酷なものだった。
「お姉様、あの時に来ていた子達はもう、ほとんど皆、嫁ぎましたのよ」
オドザヤはちょっと寂しそうに言う。あの頃のオドザヤにとって、友達といえば母のアイーシャの取り巻きの貴族の娘たちだった。当時、もうお年頃だった彼女らはあれから次々と相応の貴族の家に嫁いで行ったのだ。
「えー。オドザヤ様のお友達なら、私と同じくらいでしょう? みんなもう結婚しちゃったの?」
オドザヤの代わりに本音を吐いたのは、同年のバルバラだ。バルバラはオドザヤの従姉妹だから、こうした私的な空間では陛下と呼ばなくてもいいらしい。
オドザヤはバルバラの、ミルドラによく似た顔を見て微笑んだ。
「あら。あの時のお茶会には、もう結婚した友達も来ていたのよ。十六でさっさとお嫁に行ったから、みんなにからかわれてかわいそうだった……」
そこまで話して、オドザヤは急に口を噤んでしまった。
その、十六で嫁いだ「友人」の名前と、その嫁ぎ先、そしてその末路を思い出したからだ。
「いやだ。……私」
オドザヤが言いよどんでいるうちに、カイエンの方が思い出していた。
あの二年前のオドザヤの茶会。妹のカリスマとアルタマキア、そして貴族の令嬢たちが招かれた。あそこでヴァイロンとのことを賢しげにオドザヤに話したあの女。たった一人だけ、もう人妻だったのは……。
あの時のことを知らない、ミルドラとバルバラが怪訝な顔をしている中、カイエンは思わずその名前を呟いてしまっていた。
「……ニエベス」
そうだ、ニエベスだ。
あの、アルトゥール・スライゴ侯爵の夫人だった、ニエベス。
「春の嵐」事件で処刑された、ウェント伯爵の妹。そして、同じく秘密裏に消された、アルウィンの子飼いだったアルトゥール・スライゴ侯爵の妻。
彼女は遠い親戚かなんかの屋敷で幽閉されているはずだ。
「ニエベス……ああ!」
賢明なミルドラは、その名前だけでもうわかったようだ。
「スライゴ侯爵の。……そういえば、スライゴ侯爵家は取り潰されたけど、領地は北のほうだったわね?」
ミルドラの言葉を聞いて、カイエンははっとして顔を上げた。
「そうだ。……スライゴ侯爵家の領地はラ・フランカよりも北だった。二年前の事件であそこは皇帝直轄領になって……」
オドザヤもはっとした顔をした。
「代官が送られているはずですわ。そして、今度のアルタマキアのスキュラ行きでもそこを通過したはずです」
カイエンとオドザヤは、しばらくの間、黙って顔を見合わせていた。これは偶然だろうか。フランコ公爵からの知らせでは、元スライゴ侯爵家の領地でのことなど触れられていない。
だが、気になった。
カイエンはしばらく黙っていたが、すぐにこれは調べた方がいいと判断した。アルトゥールの背後には、アルウィンがいた。だから、あの事件はまだ終わっていないのかもしれないのだ。
そんな彼女の顔を、ミルドラとバルバラの母娘は黙って見ている。
「元スライゴ侯爵夫人ニエベスの幽閉先に問い合わせて見ましょう。いや、直に誰か行かせた方がいい。そんなことはあるまいが、こんな事態の中ではなんでも起こりうると思わなくては」
カイエンはそう言うと、もう立ち上がっていた。護衛のシーヴが慌てて壁際からやってくる。
「陛下、このことは一応、宰相にも伝えてください」
カイエンはそう言い残すと、やや唖然とした顔の三人を残して、もう部屋の扉へ向かっていた。
同じ頃。
ハーマポスタールの下町では、はるばる遠いザイオンからやってきたという奇術の一座が評判となっていた。
一座の名は「コンチャイテラ」。意味は「貽貝の大地」とでも言うのだろう。奇妙な名称である。何よりもザイオン風の名前ではなく、このハウヤ帝国風の名前なのが不自然だ。もっとも、この地での興行に当たって、名称を当地風にしたのかもしれなかった。
一座は下町の港から連なる運河沿いに小屋を建て、そこで興行を始めていた。運河沿いには同じような旅の一座やサーカス団、劇団がひしめいていたが、その中でも、新顔のこの一座は瞬く間に客を集めていた。
そこの一番の売り物は、魔女と魔術師が観客を使って行う「当て物占い」と、「心霊術」であった。
魔女や魔術師を名乗る奇術師などは珍しくもないが、ここの一座の出し物はちょっと変わっていた。
「魔女」の名前は、スネーフリンガ。
黒衣を纏った彼女は、まだ十代の初々しさをたたえた美貌と、彼女が抱えて現れる、奇妙な「魔術師」とで瞬く間に有名になった。
黒衣の美女は真っ白な髪に、真っ白な顔。普段は淀んだ沼のような緑の目が、時にらんらんと輝く。そして、その腕には一人の幼児が抱えられているのだ。
この幼児が「魔術師」だった。
その名はアルットゥ。
まだ二、三歳ほどにしか見えないこの幼児が、大人の男の声で語るのである。
最初は、人形を使った腹話術のようなものだろうと皆が思い、顧みられることもなかった。
だが、魔女の出し物は観客を巻き込んで行われるようになり、呼ばれて壇上に上がった観客に、魔女はこの「魔術師」アルットゥを抱かせる。
すると、アルットゥは観客の腕の中で、大人の男の声で語るのだ。
これまた最初は、観客の中にさくらを混ぜているのだろうと噂されたが、じきに実際に壇上に呼び込まれた素人の観客が、その不思議さを語り始めると、あっという間にこの興行は有名になった。
評判は噂を生み、一部の読売りが記事にすると、下町の運河沿いの「コンチャイテラ」の小屋は連日、連夜、満員となった。
そうなると、他の読売りの記者も小屋に押しかける。
その中には、「黎明新聞」の記者、ホアン・ウゴ・アルヴァラードの姿もあった。
彼は大公軍団の最高顧問である、マテオ・ソーサの営んでいた寺子屋の弟子だが、普段ならこんな眉唾ものの話題には飛びつかない。
だが、敏腕記者としての嗅覚がこの小屋へと彼を引き付けたのである。
ある日、妖しさ満載の夜の部で、魔女スネーフリンガと魔術師アルットゥの出し物を、その目でしっかと見たウゴは、なぜか新聞社に戻らず、直ちに大公宮の師匠の元へ急いだ。
「臭う、におうんだよなあ。……どうしてだかは分からないけど、北での事件となんか関係あるような気がするんだよなあ」
呟きながら、夜のハーマポスタール市街を走るウゴには、自分のかぎつけたにおいの理由はわからない。だが、それまでの彼の記者としての経験が告げるのだ。もしかしたら、マテオ・ソーサの塾で学んだ知識が、無意識の中で彼になにがしかのヒントを与えていたのかもしれない。
「ザイオンかあ。山の向こうって言っても、北は北だしな。森林地帯を挟んでいるって言っても、スキュラもザイオンも北には違いない!」
ウゴは独り言を言いながら、大公宮へ向かって走る。
時代はまさに、脈動するがごとくに動き始めていた。
なんとか予定通り、第五話「不死の王」を開始できました。
第一話の伏線を今頃回収にかかっております。長かったな……。
第五話から、ハウヤ帝国周辺国が増えてきます。
実際はシイナドラドと螺旋帝国の間にも国々があるので、最終的にはもう少し国が出てくると思います。
第五話からもよろしくお願い申し上げます。
 




