第十九代ハウヤ帝国皇帝オドザヤ即位す (2017.0619 一部改稿)
海よ
この偉大なる帝王の魂と肉体を
彼方の大海原へ還します
寄せては帰る波の中に
海の記憶の中に
この男のすべてが
溶け込んで
永遠にこの街から
離れていかないように……
巻き貝の螺旋を駆け上り
いつまでもこの街への道が
途切れないように
星よ、天よ
あなたの子孫であるこの命が
歴史を超えて歩いていく
我らの途切れぬ列に加わります
いつかまた生まれ変わって
あの星の大河を航る時代に
生まれてくる時のために……
その時が来たら
我らすべての眷属打ち揃い
あの星の大河の向こうへと
大地を抉り飛ばすほどの力で
共に帰ってまいりましょう
約束のままに
あの古い古い日の約束のままに
海神オセアニアの大神官と、アストロナータ神殿の大神官の唱えた祈りの言葉に送られて。
ちょうど正午から始まった、サウルの葬儀は夕方にかかる頃には滞りなく終わり、その遺骸は歴代の十七人の皇帝たちとその皇后の墓が並ぶ、皇帝家の地下墓所に埋葬された。
葬儀は子爵以上の貴族の当主夫婦が連なって行われたが、埋葬の方は、皇帝の親族のみで行われた。
葬儀の間、サウルの遺骸は亡くなってからの一ヶ月、ずっと横たえられていた木製の、だが黒と金で象眼された豪奢な棺の中に収められていた。そして、葬儀が済むとそれは屈強なハウヤ帝国軍の将軍たちに担がれて地下墓所に運ばれ、すでに蓋となる墓標とともに用意されていた、大理石の石棺に収められたのだ。
通常は庶民の慎ましい墓から、貴族の墓まで、墓所では棺は土中に埋められ、その上に墓標が建てられるか、または個人の肖像を形作った、大理石の棺が聖堂内に安置される形式が多い。前者は庶民の墓に多く、後者は貴族の墓に多かった。
石棺を墓標の下に埋め込み、床面には墓標だけが並ぶ様式はこの皇帝家の地下墓所だけで、他にはあまり見られないものであった。皆、注意して歩いてはいるが、ちょっと間違えば歴代の皇帝や皇后の墓標を踏むこともあり得るのだ。
十七代全ての皇帝と皇后、それに皇子皇女の身分のまま身罷った人々の多くが埋葬されている皇宮の地下墓所は、葬祭殿のすぐ近くに設けられている。
カイエンとエルネストだけが知っているように、それは千年単位の歴史を誇るシイナドラドの地下宮殿と墓所には遠く及ばなかった。それでも、真っ黒に広がる大理石の床に、棺の大きさに合わせて四角く切られて嵌め込まれた大理石の墓標に金文字で記された名前がずらりと並んでいる様は、厳かで偉大な雰囲気に包まれていた。
前述のように、シイナドラドの墓所とは違い、このハウヤ帝国皇帝家の墓所では棺は露出していない。
これも石造りの棺は墓標を金文字で刻んだ、一枚板の墓標の下にすっぽりと納めるようになっている。だから、地下墓地の中は平坦で、奥の奥に一段高い場所にある、第一代皇帝サルヴァドールの大理石の巨大な石棺以外は、だだっ広い礼拝堂のように見えた。
サウルの棺が、そこまでそれを担いで来た将軍たちによって、真っ黒な大理石の外側の棺の中に吊り下ろされ、鈍い音とともに棺を覆う墓標が床に嵌め込まれた時。
そこに集った皇帝一家の中で、一番、棺に近いところに並んで立っていた、オドザヤとカイエンはびくりと体を震わせた。
カイエンは皇帝の家族とはいえ、臣下だから、本来なら摂政皇太女のオドザヤの隣になど立てない。だが、葬祭殿からこの地下墓所に入るなり、オドザヤがカイエンの手を握って離さなかったので、仕方なくそうしていた。もっとも、これに一番不服を言いそうな皇后のアイーシャはいなかったし、妾妃たちもアルタマキア皇女もカイエンに文句を言ったりなどしなかった。
フロレンティーノ皇子を抱いた第三妾妃のマグダレーナと、リリエンスール皇女を抱いたクリストラ公爵夫人ミルドラは、カイエンたちの向かい側に立っていた。フロレンティーノ皇子は何度かむずかって泣き出しそうになり、マグダレーナが慌てた様子であやしていたが、リリの方はご機嫌よく起きているか、静かに寝ているかで、叔母のミルドラを煩わせることはなかった。
「ああ、お父様のすべてが終わってしまいましたわ」
オドザヤがその時、カイエンにしか聞こえないだろう小声で呟いた言葉に、カイエンは目が醒めるような、いや、ぐるぐると押し寄せてくる何者かに翻弄され、頭が回ってバランスを失って倒れそうな心地がした。そして、自分のこの感覚は手を握り合っているオドザヤも同じなのだろうということにも気がついた。
「ええ。伯父上の時代はこれで終わりました。……これ以降は、あなたの時代が始まるのですよ」
カイエンが模範的な言葉を選んで、そう答えると、カイエンの握っているオドザヤの華奢な手が、すうっと冷たくなった。
「……お姉様」
「はい?」
カイエンが、自分よりもやや高いところにあるオドザヤの顔を覗き込むと、その、最近痩せて以前よりも凄絶な雰囲気を増した美貌が泣きそうに歪んでいた。
「いや、嫌だわ。怖い! これでもう私は逃げられません。私にこのハウヤ帝国を背負うことなど出来っこないのに……」
さすがに、他の家族親族をはばかったのだろう。その声は小さかかったが、軋むようなその声音には泣きそうな気持ちを必死に抑えている必死さがうかがえた。
「そう、そうですね。でも、それは私も同じですよ。皇帝になられるあなたの背負うものとは重さが違うが、私のハーマポスタールも、非才な私には重すぎる代物ですからね」
カイエンはとっさに、慰めになっていないことを百も承知で、そんなことを言ってしまった。星と太陽の指輪を二人で共に受け継いだ以上、カイエンとオドザヤはもはや運命共同体なのに。忸怩たる思いのカイエンは、この時初めて、カイエンはオドザヤの孤独を実感していた。
カイエンには大公宮に帰れば、家族とも言える人々が待っている。
夫のエルネストはまた別だが、ヴァイロンを始め、執事のアキノ、乳母のサグラチカ、養子としたリリ、後宮に住んでいるマテオ・ソーサと、なんだかわからないが頼もしいことこの上ないガラ。そして部下ではあるが護衛のシーヴも、アルウィンの拾って来たあのイリヤでさえも、今となっては忌憚なく話せる間柄になっている。シイナドラドまで付いて来てくれた女中頭のルーサや、女騎士たちとの間にも苦難を共にしたという面では仲間意識がある。
だが、一方のオドザヤはどうだろうか。
未婚の彼女のそばには、当然のこととして、カイエンのヴァイロンのような存在はいない。母の皇后アイーシャとの関係は、カイエンの思っていたよりもはるかに深刻なものだったようだし、それに今はもう、アイーシャは生ける屍のような状態だ。
アキノやサグラチカのような存在といえば、女官長のコンスタンサ・アンヘレスが相当するのだろうが、彼女は後宮の女官長であるから、常にオドザヤのそばにいられるわけではないだろう。サウルの臨終の前に見た様子では、妹のアルタマキア皇女との関係も親しいものではなさそうに見えた。そしてアルタマキア皇女は近日中には北方へ、彼女の母親である第二妾妃のキルケの故郷、自治領スキュラを相続するものとして去っていく。
宰相のサヴォナローラと、大将軍のエミリオ・ザラはこれからオドザヤの左右の腕として働くことになるのだろうが、年齢も離れているし、性別も違う。彼らはオドザヤの個人的な慰めになるような存在にはなるまい。
では、友人は?
カイエンは一昨年に招待されたオドザヤのお茶会を思い出した。そして、自分が子供の頃に「遊び相手」としてアルウィンによって集められた、あの意地悪な貴族の子供たちのことも。
オドザヤはあのお茶会で、誰と一番親しそうにしていただろうか。あの時、オドザヤと親しげに話していたアルトゥール・スライゴ侯爵夫人ニエベスは、あの春の嵐事件で粛清された夫に連座して裁かれ、今は親族の館で軟禁されているはずである。
そこまで考えて、カイエンは慄然としないわけにはいかなかった。
姉であるとはいえ、自分はオドザヤと親しく育ったわけではない。母親のアイーシャのことがあって、ほとんど皇宮へ上がることなく少女時代を過ごしたカイエンと、ほとんど皇宮を出ることなく育ったオドザヤは、従姉妹としてさえも疎遠なものだった。従姉妹としては、伯母のミルドラの三人の娘たちとの方が、まだ交流があっただろう。
カイエンは、そうして色々と考えはしたが、簡単に良い案が浮かぶはずもなく、黙って俯いているオドザヤの背中に手を添えて、こう言うしかなかった。
「……すみません。こんなことは慰めにもなりませんね。でも、これだけは言っておきます。大丈夫。あなたが一人ぼっちにならないように、私もちょくちょく皇宮へうかがいましょう。……そうそう、大公軍団から派遣している、トリニとブランカの二人は、ちゃんと働いていますか」
とにかく、オドザヤの周囲を暖かい人材で包まなければ、と思いながらカイエンはそう聞いてみた。
オドザヤも、トリニとブランカの名前が出ると、強張った顔を少しだけ和らげた。
「……あ。そうですわね。あの方たちは本当によくしてくれますわ。トリニさんはとっても明るくて話し上手ですし、上背があって本当に頼もしいわ。それに、ブランカさんは田舎にお子さんがいるお母様だからかしら、優しくて、色々気配りしてくれて、感謝しておりますのよ」
それは良かった。カイエンはとりあえずは安心した。
ひそやかな声の会話の間にも、サウルの墓標はしっかりと地下墓所の真っ黒な大理石の床と同化し、もう見えるのは彼の名前と、在位が書かれた墓標だけになっていた。
「さ。皆様でお花を手向けられませ」
海神オセアニアと、アストロナータ神殿の大神官が促すと、サウルの家族と親族たちは、すでに用意されていた真っ白な花々をてんでに手に取り、墓標の名前の下に手向けるべく居住いを正す。
カイエンとオドザヤは二人一緒に、真っ白な百合と薔薇を選び、サウルの墓標の上に手向けた。
人々の献花が終わった時。
黒い墓標の上を埋め尽くす花々の光景が皆に認知されると、もうこの世界から、サウルの生きていた気配のすべてが消えうせた。それは、彼がもはや歴史上の人物になったことをはっきりと語っていた。
カイエンは地下墓所から葬祭殿へ戻り、待っていた臣下たちの前へ戻ると、女官長のコンスタンサと、宰相のサヴォナローラの姿を探した。
埋葬を済ませて戻ったサウルの親族たちが戻ると、神官によって皇帝サウルの葬儀を終える旨が厳かに伝えられ、貴族たちは静かに下の身分の者たちから、順番に葬祭殿を出て行く。
サヴォナローラと、コンスタンサの姿はすぐに見つかったので、カイエンはオドザヤをコンスタンサに任せ、自分はサヴォナローラと向き合った。
リリを抱いたミルドラと、一人ぼっちの異国人であるエルネストが向こうで居心地悪そうに佇んでいる。ミルドラの夫のクリストラ公爵ヘクトルが、気を遣ってなにか話しかけてくれていた。そちらへちょっと礼をして、カイエンはサヴォナローラに話しかけた。
「今日すぐにでも、後宮の女官長である、コンスタンサ・アンヘレスを摂政皇太女殿下、明日には第十九代皇帝となられる方の皇帝付き総女官長に任命するように」
カイエンが厳しい顔でそう命じると、サヴォナローラは少しの間、反応できないでいたが、すぐに恭しく頭を下げた。
「これは私としたことが、行き届きませず、申し訳もございません。直ちにそのように手配いたします」
「今、摂政皇太女殿下の護衛に出している、トリニとブランカだが、トリニは治安維持部隊に必要な人材だ。本人も街中での勤務を希望している。ブランカの方は元は私の女騎士だから宮廷のことにも慣れている。だから残すが、トリニに変わる女騎士を後宮からでも選別できるか?」
もう、遅い時間だったので、カイエンは話をどんどん先へ進めていった。サヴォナローラの方も、話の先を読んで来た。彼は聞かれてもいない、オドザヤの侍女のことを話にのせた。
「オドザヤ様のお付きの中では、大公宮へも付いて行ったことがございます女官のカルメラが、若いですがしっかりしております。忠誠心にも背後関係にも問題はなさそうです。そして、後宮の女騎士ですが、私に心当たりが数名おります。気立てが良く、欲がなく、変な背後関係のない、だが腕の立つ者です。その中から二名ほどをブランカ殿に加えれば、交代でいつでも警護が出来るかと思われます」
カイエンはうなずいた。
「わかった。そうしてくれ。もし、支障があるのなら、大公軍団の女性隊員の中で希望者を探す。去年の秋募集でも数名の女性隊員を採用している。……そういえば、女神グロリア神殿の武装神官だったすごい才女がいるぞ。腕の方も申し分ない。だから帝都防衛部隊に配属したが、元神官だから、行儀作法もしっかりしたものだ」
カイエンは、話しながら、その元女神官の顔と姿を思い出していた。うん、あれならオドザヤのそば近く仕える護衛にも適任だろう。問題は本人の気持ちだが、命じられれば火の中でも水の中にでも入っていきそうな頼もしさがあったっけ。
カイエンが彼女に話してみよう、と思っていると、サヴォナローラが怪訝そうな顔をした。
「……私の護衛をしている、弟弟子に、アストロナータ神殿の武装神官のリカルドという者がいるのですが、彼から聞いたことがあります。その元、女武装神官というのは、もしや……」
「もしや?」
カイエンは先を促すしかなかった。あの女はそれほどの有名人だったのだろうか。
「……ルビー・ピカッソというのでは?」
サヴォナローラのあげた名前を聞いて、カイエンは驚いた。
「その通りだ。では、彼女は神官の中ではかなりの有名人なのだな?」
すると、サヴォナローラは彼には珍しく、変な笑いをその痩せた厳しい顔に浮かべて見せた。そして、小さな含み笑いさえしたのである。
「ふふふ。リカルドが言うには、ルビー・ピカッソは女ばかりのグロリア神殿で、女神官たちに大人気。追いかけ回されて嫌気がさして大公軍団に応募したと、帝都中の様々な神殿の神官たちの間で評判だったそうですよ。仕える神は違っても、神官の世界など狭いものですから」
カイエンはルビーの姿形と人柄を思い浮かべ、心の中でうなずいた。まあ、そんなこともありそうな女では、ある。
「そうか。それでは、この話はぜひ、彼女に話してみることとしよう。……確かに彼女なら、新皇帝の護衛としてあれ以上の者はないと言えるほどだ」
カイエンはそう言うと、もう明日のオドザヤの即位式のことに頭を切り替えていた。
その日。サウルの葬儀と埋葬が終わったのは、もう夕刻にかかった時刻であった。
カイエンとエルネスト、それに皇宮の控え室で待っていたサグラチカの抱いたリリが大公宮に帰り着いたのは、もう六月の長い日もすっかり暮れた時刻になっていた。
「おかえりなさいませ」
大公宮の奥の玄関で、カイエンたちの馬車を出迎えたのは、この大公宮の執事のアキノと、エルネストの侍従のヘルマン、それに大公軍団の制服をきちんと隙なく着こなした、ひと一倍目立つでかい男の三人だった。
三人目は、本来はこうして大公夫妻と養女のリリを出迎える必要も義務も、そしておそらくは権限さえもない男である。
だが、この女大公カイエンの大公宮では、それもあまり違和感なく、そこにいた皆が彼がそこにいることを認めていた。
と言うか、誰も彼に文句を言えるものがいなかったのだろう。それは、彼の養い親である執事のアキノとてもそうだったのだ。それほどに、今や彼の存在というのは、一昨年、彼が、今や鬼籍に入った皇帝サウルの命令で女大公の男妾にされた時には、くどくどと諭したアキノでさえも遠慮するような位置になっていたのである。
その理由は、と聞けば、彼ら大公宮の人々皆が、渋々ながらも答えたであろう。
(だって、ヴァイロンにはもう、カイエン様しかないんだもの。カイエン様のこととなったら、誰が何を言っても聞きゃあしないし……)
と。
確かに、大公であるカイエンは、愛人であるヴァイロンがいなくとも存在できる、かもしれない。だが、ヴァイロンの方は明らかにカイエンがいなければ、人間としての様相さえ保てないのではないか。
アキノを始め、カイエンのそばにいる者たちは、いつのまにかそのような考えを共有するようになっていた。
「た……だい、ま」
馬車からは最初にエルネスト、次にリリを抱いたサグラチカが降り立ち、最後にカイエンが降り立ったのだったが、カイエンは降り立った途端にその場の緊張した雰囲気に気がついた。
もちろん、それはエルネストと同じ空間に、ヴァイロンがいるという緊張感に他ならない。
先日のイリヤを糾弾する朝餐ではことなきを得たが、この二人の同席は大公宮の人々によって、今まで何ヶ月も周到に阻まれて来たのに。それがどうして、この晩はこんなことになったのか。
見れば、横に立っているエルネストが喪服の上に着ていた外套を、彼の侍従のヘルマンが受け取っているところだった。反対側では、夫のアキノに目で合図してから、サグラチカがリリを抱え、早くも奥へ向かって歩き始めていた。確かに、リリにとってはもう眠くて仕方のない時間だろう。いつも機嫌のいいリリは、今日の葬儀と埋葬の間、一度もむずかることなく大人しくまどろんでいたのだが、それでも生まれて半年余りの赤子であることに変わりはない。
カイエンは目をさまよわせながら、彼女の外套を受け取りに来たアキノに外套を渡した。そして、そっとアキノの様子をうかがったのだが、彼の厳しい顔つきには諦観とでも言うべき表情が見えただけだった。
「あの、これはどういう……?」
カイエンが「なんで自分が!」と思いながらも、誰も何も説明してくれない中、冷や汗をかきながらヴァイロンの方をうかがおうとしたところへ、やっとのことでアキノが返事をしてくれた。
「大丈夫でございます。カイエン様がご心配なさることではございません。……大丈夫ですから、何もお気になさらず、どうぞこちらへ。いつもと同じに、お居間に晩餐の用意ができております」
「ええっ。しかし、あれは……あの二人を残して行っては危ないだろう。ヘルマンだけでは何かあった時に困るのでは。……え? ヘルマン、お前も下がるのか」
カイエンの目の前で、エルネストのただ一人の侍従であるヘルマンは、恭しくカイエンとエルネストの二人ともに礼をすると、先に部屋に下がって待っている旨をエルネストに告げ、さっさと去っていってしまった。
「さ。お疲れでしょう。どうぞ、こちらへ」
アキノにとうとう、腕を取って促され、カイエンは後ろ髪を引かれるような気はしたものの、自分の居間の方へ向かって歩き始めるしかない。
「……本当に大丈夫なのだろうなぁ」
最後にカイエンがいった言葉は、誰にも受け止められることもなく、大公宮の回廊に落ちて消えてしまった。
そして。
大公宮の玄関ホールに残されたのは、カイエンを挟んで、微妙にも微妙すぎる関係になっている二人の男だけであった。
先に口を開いたのは、以外にも、身分的にはシイナドラド皇子のはるか下にあるはずの、ヴァイロンの方だった。
「ご機嫌よう。皇子殿下。今日までろくな挨拶も致しませんでしたが……。今日こそはあなたに申し上げねばならぬと思い、アキノ様やあなた様の侍従の方にもご了承をいただき、私はこうしてこの場に残していただいた。私はカイエン様に私のことでこれ以上、この大変な時期にお気遣いをおかけするわけにはいかないのだ」
エルネストは黙って聞いていた。彼としても、カイエンの執事のアキノや、自分の侍従のヘルマンが淡々と去っていった時点で、こういう話になることは予期していたからだ。
ヴァイロンの話し方は、彼の身分でシイナドラドの皇子に話すものとしては、最初はともかく、最後の方はかなり不遜な言い方だったが、それもあまり気にはならなかった。エルネストも、ヴァイロンがエルネストのことをどう思っているのか、想像できないほどの愚か者ではない。ヴァイロンの立場からすれば、このいささか身分をわきまえぬ、無礼な喋り方の中に、おのれの怒りが無意識に出てしまっているのかもしれなかった。
カイエンに会う前のエルネストだったら、妻の陪臣、それも愛人ごときが、自分にこんな喋り方をしたらただでは置かなかっただろう。その点では、エルネストもこの大公宮の身分の垣根の恐ろしく外れた環境に慣れ始めていたと言える。
ヴァイロンは、エルネストが黙って聞く姿勢を示したのを見ると、言葉を重ねた。
「……これは最初に言っておくが、私はあなたがカイエン様にしたことを赦すつもりはない。その傲慢な顔を粉々に粉砕して、二度と世間に顔向けできない様にしてやりたいという気持ちが変わることもないだろう。……殺してしまっては、苦しみ続けさせることができないからな。それにしても、カイエン様によく似たその顔を殴りつけるのは、忌々しいが難しいことだ。……その顔に生まれついたことを、あなたの祖先に感謝するといい」
そこまで言うと、ヴァイロンは潔くまっすぐにエルネストの顔を見下ろした。そう、かなり長身の部類に入るエルネストでも、ヴァイロンの巨躯からすれば頭半分ほども低かったのだ。
「あーあ。そんなこと言うのかよ。この顔は殴れないってか? そんなことを聞くと、なんだかお前に別の意味で襲われそうで怖くなってくるな」
聞くなり、ヴァイロンの翡翠色の目が獰猛な金色に光った。それでも、ヴァイロンはこのふざけた言い様をなんとか堪えた。
「……そんなんじゃあ、あのアルウィン様の顔なんか永遠にぶん殴れないぜ。……まあ、お前はあの人のお陰で、カイエンの一番のお気に入りにしてもらえたんだから、その点では、アルウィン様にはお礼を言いたいくらいか。まあ、だから、あの人のことは……もうしょうがないと諦めるんだな」
ぎらぎらとまさに野獣のように光るヴァイロンの翡翠色の目を、エルネストは恐れげもなく見上げていた。実際はちょっと怖かったのだが、それを顔に出せる性格ではない。シイナドラドで、獣化したガラに襲われたことがあったから、普通よりも自分よりも大きい、半分獣の血の入った存在に慣れていたと言うこともあるだろう。
「確かに。……あの方には士官学校に入れていただき、将軍として一人前になるまで、後見いただいた恩がある。それは認める。あの方の思惑で、こうしてカイエン様のおそばにいられることにもな。だが、それで、あの方がカイエン様になさったことのすべてが贖えるとは思わない。これは、あなたについても同じだ」
ヴァイロンがそう言うと、エルネストはちょっと驚いたような顔をした。ヴァイロンがそこまで客観的に、冷えた頭で話を進めてくるとは思っていなかったのだろう。
「思ったよりも冷静だな。あの、ガラとかいうやつみたいに、カイエンを傷つけた俺には牙剥いてくると思ってたぜ」
エルネストはそう言うと、ガラに噛まれ、脱臼させられた右肩をそっと押さえた。そこには、普通に動かせるようにはなったものの、まだ何か引き攣れたような違和感が残ったままだ。
「カイエン様は、私がそうすることは望まれまい。男の私には本当にはわからないことだが、あの時。……望まない子供でも、それを一度は体の中に育み、そしてその事実を知って間も無く喪われた時の、カイエン様の衝撃は……。側で見ているだけでも辛い、悲しい、いいや、こんな言葉では言い尽くせない。あれは、この世の理不尽に対する怒りのような……本当に、側から見ているだけで、心も体も抉り取られるような凄まじいものだった」
エルネストは黙って聞いていた。
彼は、自分とカイエンの間にできた子供が失われた時のことを知らない。
そのことを彼に知らせたのは、アルウィンとグスマンだった。そして、彼らは彼をカイエンを求めるよう、カイエンに執着するよう、長い時間をかけてけしかけたくせに、その結果の精算を一方的に求めてきたのだ。
そして、あの時、エルネストは血族の証である灰色の方の目を自ら捨てる道を選んだ。
だから、この時、あの恐ろしい沼のほとりにいた自分の娘のことを話す気持ちになったのだろう。
「……カイエンには、大議会のあった日に話したんだけどよ。俺、夢の中で俺の子供に会ったんだ」
包み隠そうともしないヴァイロンの物言いに、エルネストもまた、素直にあのことを伝える気持ちになっていた。
「お前も、カイエンのひどい悪夢のことは知っているだろう。あれを、俺も見たんだ。そこで、真っ黒な沼の淵で、俺の子供はあのリリって子供に救われた」
ヴァイロンは、エルネストが唐突に始めた話に驚いた顔をした。
「えっ!?」
実はヴァイロンはカイエンから、夢の中でリリがカイエンの子供の片目を抉り取って自分の半分にした夢のことを聞いていたのだ。だから、エルネストの見たという夢の話は、疑いもなく彼の心に落ちた。
「信じられねえよな。でも、俺はもう疑わない。あのリリって赤ん坊の半分は名前もない俺の子供なんだ。カイエンにそっくりだったな、なのに、青ざめて、死んだ魚みたいな目で俺を見ていたよ。……気持ち悪いざまの子供だったのにな。それでも俺は今でもあの気持ちの悪い、ほんの小さな女の子なのに、死んだ魚みたいな目をした、あの子供が愛しいと思ったんだ。……なんでかな。実はこれはずっと考えてきたことなんだぜ。で。多分、あの子供が愛しいのは、あれが、真実、俺とカイエンの子供だったからなんだよ。……だから、俺はあのリリって子供を守っていかなきゃならんと思っている。あの子の中には、カイエンと俺の娘がいるのかもしれないからな」
ヴァイロンは黙っていた。彼は、カイエンに夢の話を聞く前から、初めてリリを見たときから、彼女の虜になっていた。それは、彼の獣の本能がそう決めたことだった。そしてそれは彼がカイエンを求めたのと同じ種類のものだった。
リリの半分が、カイエンと、この憎むべき男の子供だとしても、それでリリへの愛情が醒めることなどない。
そして、エルネストの方はカイエンの喪った子供のことを知っている、そして、大切に思っていると言ったのだ。だから、リリも大切にすると。
「聞いてるよ。お前、あのリリって子を実の親父みたいに可愛がっているんだって。……このことを知っていてそうしてるんだとしたら、お前はとんでもなくでかい男だってことになるな。忌々しいことだけどよ」
忌々しい。
先にヴァイロンが使ったのと同じ言葉を使いながら、エルネストは突っ立ったままでヴァイロンの顔を、初めてまともに見上げた。
「俺は卑怯者だった。あの人の傀儡だった。多分、これは本当に気持ち悪いけど、お前も知っていることだろうから我慢して聞けよ……。俺は、どうしたってカイエンを抱くわけにはいかないあの人、アルウィン様の代わりにカイエンを自由にしたんだ。自分の気持ちだけを押し付けて、心も体も痛めつけて、人形みたいに扱って。だが、その結果だけはあの人は贖ってくれなかったよ。わかるだろ? 本当に卑怯で最低なのはあの男だ。だが、だからと言って、それで俺の罪科が減るわけでもないけどな」
ここまで聞いて、やっとヴァイロンは言葉が出てきた。そして、その言葉は囁き声のようで、その上に震えていた。
「……では、あなたは……あなたも、カイエン様を愛しているのだと言うのだな?」
その声は、そこに肉を切ってぶちまけられた血潮のように凄惨な響きを帯びていた。
淡いミルク色のロマノグラスのランプが照らし出した、大公宮の玄関ホールは、今や、針が一つ落ちても聞こえるような静寂に満ちていた。
「それでは、聞こう。カイエン様は私の唯一。他に代わりになるものはない。……あなたにとってはどうか?」
そして、ヴァイロンの唇から出てきた言葉は、エルネストに厳しくその是非を問うものだった。
「唯一か」
唯一。ヴァイロンにとって、カイエン以外のものは何もないのと同じなのだ。その言葉の重さは、エルネストにすぐに返事をするのをためらわせた。そして、その、ためらったことこそが、彼を打ちのめした。
「……嗚呼。そうか」
エルネストの片方だけの真っ黒な瞳が、悲しそうに乳白色のランプの光の中を彷徨う。
「わかったよ」
エルネストは今や、敗北を認めるしかなかった。それでも、彼は素直に引き下がるつもりはなかったけれど。
「よぅく、わかったぜ。俺とお前は本当に属する種族が違うんだってな。……俺は多分、カイエンを愛しているんだろう。とにかく、今は間違いなくな。でも、それだけに俺の人生を任せられるかといえば、そうじゃないかもしれねえな。俺は、俺はお前とは違う。俺は薄汚い人間なんだ。皇子だなんだって偉そうにしてたって、生きているうちに、時間に流されて変わっていっちまう、しょうがない一人の罪深い人間なんだ」
ヴァイロンはかっと翡翠色の目を見開いた。今、エルネストの言ったことは、ヴァイロンの勝利を認めるものだった。だが、同時にそれは彼ら人間たちの織り上げていく、これからの歴史のもの哀しさを端的に表現していた。
「わかった」
ヴァイロンは、それだけはわかったので、それについては肯定した。
「あなたが今は、間違いなくカイエン様を愛していること。そして、もう傷つけないと言うのなら、今はそれでいい。はなからあなたを殺せない以上、それ以上は私には望むべくもないことだ」
ヴァイロンはそう言い切るなり、もうエルネストに背中を見せて、カイエンの居間へと続く廊下を歩き始めていた。
エルネストの方はヴァイロンのその潔さに、今度こそ身震いするほどの恐ろしさを感じていた。この割り切りの良さは、やはり人間ではない。
だってそうだろう。
エルネストはカイエンを拉致した上に、無理やりに自分のものにし、肉体的にも精神的にも打ちのめした。その加害者がずうずうしくもカイエンの正式な夫になり、今、カイエンを愛していると言ったのに。あの半分獣の男は、「今はそれでいい」と言ってのけたのだ。それは、今、カイエンに愛されているのは自分だけだ、だったらそれでいい。エルネストなどいてもいなくても同じだと、そう言ってのけたのに等しかった。
「へぇ。ま、それじゃあ、せいぜいここでは喧嘩はしないで仲良くしようぜ。俺の傲慢なのはもう治らねえ。だから、俺の侍従のヘルマンみたいに心の中で俺を粉々にして、踏みにじって我慢するんだな」
エルネストは言いながら、その場に崩れ落ちそうな疲労を感じていた。
ああ。
カイエンの「男」は本当に人間とは違う、一頭の猛獣だった。
カイエンが逃れようとしても、あの獣は彼女を決して離さない。
そして、あのカイエンという女は、無意識のうちにもそれを知りながら、あの猛獣の狂愛を受け入れているのだ。
エルネストは、その場で大きく背中を反らし、深呼吸した。今まで、猛獣の前に仁王立ちに立っていた疲れが、彼をその場に縫い止めているように感じられた。
「ヘルマン、居るんだろう?」
エルネストはとうに、彼の侍従が一旦は引き下がった廊下を戻り、近くに潜んでいることを知っていた。彼がわかっていたのだから、ヴァイロンにもヘルマンの気配は暴露ていただろう。
「俺は猛獣とやりあって、疲労困憊した。部屋に帰ったら風呂に入ってすぐ寝るぞ。……慌ただしいことだぜ。前の皇帝の葬儀が済んだらもう、その翌日が新皇帝の即位式だってぇんだからな」
第十八代皇帝サウルの葬儀と埋葬の翌日。
サウルの第一皇女、そして摂政皇太女のオドザヤ・ソラーナ・グラシア・デ・ハウヤテラは、彼女の立太子式と同じ場所、海神宮の大広間を埋め尽くす貴族たちの前で、海神オセアニアとアストロナータ神殿の大神官の手で皇帝の冠をその黄金色の髪の上に戴冠し、第十九代皇帝オドザヤとして即位した。
ハーマポスタール大公、カイエンは臣下としての最上席でそれを見届けた。
この日から、ハウヤ帝国は女帝と女大公の支配する国となる。
それはもちろん、それまでの三百年を超えるハウヤ帝国の歴史上でも、初めてのことだった。
ふわー。
ヴァイロンとエルネストの話し合いというかなんというかが終了!
そしてオドザヤちゃん即位。
次回からは第四話も終結に向かいます。




