女大公夫妻は腹を割って話し合った
やっと会えたな兄弟
時代が変わり始めたあの時に
俺たちは出会った
ラ・カイザ王国
数百年前に失われた
そこが俺たちの血の指し示す故郷
決して見ることの出来ない
魂と血脈が遡り、集まる場所
それを血の源に持つ、俺たちは出会った
だけど
俺たちが生まれたのは、この街
ハウヤ帝国の帝都ハーマポスタール
でも俺たちは知っているんだ
ハーマポスタール
それは俺たちの国の言葉
ラ・カイザ王国の言葉だと知っているんだ
あのシイナドラドからやってきた救世主という名の侵略者でさえも
歴史から消すことをためらった言葉
ハーマポスタール
それは「二度とはないあの懐かしい街」という意味だ
ハーマポスタール
その名は侵略者も消すことの出来なかった、永遠の響きだ
俺たちはラ・カイザ
星の神エストレヤの子孫だ
だからこの街を守る
このハーマポスタールの名を永遠にこの地に残す
アル・アアシャー 「ハーマポスタール、其は永遠の名を冠する街」
シーヴとリカルドの二人が、カイエンとエルネストのいるあずまやからやや離れた場所で、お互いの共通する祖先について、何事かを話していた時。
もっとも、カイエンの護衛騎士であるシーヴは、宰相サヴォナローラの護衛である武装神官のリカルドと言葉を交わしつつも、カイエンのいる方への注意は怠ってはいなかったが。
同じ頃。
カイエンは当惑していた。
この忙しいさなか。皇帝サウルの葬儀の二日前に、子爵以上の貴族家当主の三分の一を超える署名を集めた請願書によって、緊急に開かれた元老院の「大議会」の日にだ。
エルネストは、そんな日の昼餐の後、二人きりで話がしたいと切り出してきた。
名目上は正しく紛れもなく、カイエンの夫である男の言い出したことに。カイエンは心の底から困惑していたのだった。
そもそも、彼がこのハウヤ帝国にやってきてから、カイエンは彼との直接的な接触を、極力避けてきた。
あの、結婚契約書への署名をエルネストにさせるために呼び出した、海神宮の大広間で。カイエンはエルネストのアルウィンへの忠誠を看破し、襟首をつかんで彼女の前に膝まづかせてまで、アルウィンへの気持ちを断ち切らせたのだ。その上で、結婚契約書で縛ることで、彼の忠誠するものを、強引に自分へと転換させたのだ。
それは、カイエンがエルネストを赦したからでも、ましてや愛情を感じたからでもない。実のところ、その人格を完全に信じたわけでもなかった。
彼女は、ハウヤ帝国の大公として、エルネストの忠誠が必要だからそうしたまでだ。
だから、出来うる限り、エルネストの顔など見たいとも思わなかった。それは、今に至るまで変わっていない。
だから、それ以降も。
エルネストが大公宮へ引っ越してきてからも、カイエンも、その周囲も、カイエンとエルネストがなるべく顔を合わすことさえ無いように、不自然な努力を重ねてきていたのだ。
その原因は、はっきりしている。
シイナドラドの皇太子の結婚式に招かれ、シイナドラドへ赴いたカイエンは、国境を過ぎた途端に拉致され、虜囚となった。
そして、シイナドラドのアストロナータ信教の最高位たる「星教皇」に祭り上げられ、再びネファールとの国境で解放されるまで。カイエンは彼女の実父たるアルウィンに唆され、彼女に執着するように教育されたエルネストによって、その肉体を強引に自由にされたのだ。
これをイリヤに言わせると、「この強姦魔が」という罵倒になるのだろう。事実の認定としては、それはきっぱりとこの上もなく正しい。
その結果は惨憺たるものだった。
カイエンは、生来、その体に宿した「蟲」によって、懐妊は可能でも出産は絶対に出来ない体だった。
そのカイエンが、エルネストによって望まぬ懐妊をし、定めの通りに早々にその胎児を失ってしまったのだ。
ハウヤ帝国への帰国と同時に流産したカイエンの様子を知っている周囲にとっては、その原因を作ったエルネストの存在は完全なる「悪」でしかなかった。
アルウィンの呪縛を離れたとは言っても、エルネストが、恐らくは未だにカイエンへの執着を捨てていないことを、その片目を捨てて大公宮に現れたエルネストを見て、皆が感じ取っていたからだ。
カイエンとの政略結婚の婿として、ハウヤ帝国にやって来たエルネストが、再びカイエンに挑みかかるようなことがあれば、またしても悲劇が繰り返されるかもしれない。
だから、エルネストの侍従であるヘルマンでさえも、カイエンとエルネストとを近付けないように努力していたのだ。
もとより、政略結婚などというものは不自然極まりないものだ。だが、王侯貴族にとっての結婚とは、ほとんどが政略結婚だということもまた、事実である。
だから、カイエンがエルネストを名目上の夫とすることには反対するものはいなかった。シイナドラドとの間に起こった外交的な問題を解決するために、ハウヤ帝国皇帝サウルによって、彼らの婚姻は必要と判断されたのである。
本来の政略結婚では、彼ら二人の間に生まれるであろう子供の存在にこそ意義があるものだ。だが、カイエンとエルネストの場合には、その意義は最初からあり得ないものだった。カイエンは子を宿すことはできても、出産することは出来ないのだから。
そして、もしカイエンとエルネストが普通に夫婦生活を続ければ、カイエンは孕んだ子を幾度も失い続けることになりかねない。体の弱いカイエンにとっても、そして周囲の人々にとっても、それはなんとしてでも避けるべきことだった。
その点で、カイエンの「男妾」であるヴァイロンには害がなかった。
獣人の血を引き、獣化が可能な彼には、普通の人間の女を受胎させる可能性がほとんどないからだ。
だからこそカイエンを傷つけることのないヴァイロンが、アルウィンによって「カイエンの最初の男」として用意されたのである。
つまりは。
カイエンとエルネストという二人の結婚は、本当に完全に「形式上」でだけ、求められたものだったのだ。
実のところ、そういう意味ではアルウィンはやり過ぎたのだ。彼はエルネストを煽り過ぎた。そして、悲劇が起こり、彼ら二人は大公宮という同じ屋根の下で暮らしながら、今まで、他人以上に他人な暮らしをして来たのだ。
そういう日々が続いた中で。
戸惑うカイエンの前で、カイエンを見ることなく、エルネストは言ったのだ。
「俺もあんまり気は進まねえんだが、この国も、そろそろ荒れてきそうだからな。一度、ちゃんと話をして置くべきだと思うんだよ」
と。
あずまやの中。
彼ら二人の前にアキノが置いていった飲み物はしばらくの間、沈黙とともに、手をつけられることもなかった。
やがて。
エルネストの方が、手持ち無沙汰な気分を満たすためだけに、冷たい飲み物のグラスを手に取った。
そして、カイエンの方を、その日あずまやに入ってから、初めてちゃんと見た。
「あのさ。ちょっとあんたには気持ちの悪い話をするけど、しばらくは我慢して聞いてくれよな」
一応、前置きをしてエルネストが話し始めたことは、本当に、カイエンにとっては「気持ちの悪い」話だった。
「突然、こんなことを言い出してすまねえな。……実は、シイナドラドであんたと初めて寝たときにさ。俺は、あのヴァイロンてやつの気持ちが理解できちまったんだよ。あんたの体は、大切に、大切に自分から綻ぶのを待って拓かれたんだって、すぐにわかったからさ」
聞くなり、カイエンは赤面した。
「な、何を……!?」
何をいきなり話し始めるのだ。 カイエンはあまりにあまりなことに、絶句してしまった。
そして、エルネストの言い方は、あまりに直截的だったので、ぶわっと頰に恥ずかしさと怒りで血が集まるのを、止めるすべもなかった。
「だからさ、あんたの体は、多分あのヴァイロンと同じ手管を使った時だけ、素直に悦んでたんだ。……ちょっとでも違うやり方をしたら、途端にすげえ嫌がるか、冷たいお人形になっちまったっけな」
言葉も出てこない、という様子で黙り込む、カイエンの迷惑そうな様子をからかうような目で見ながら、エルネストはとんでもない方向へ話を進めてしまった。
「……自分のしでかした犯罪行為を、長々と得意げに説明するな! 汚らわしい!」
カイエンは思い出したくもない、シイナドラドでの日々を思い出させられ、今度は怒りに頭が煮えたぎる思いだった。
本当に今すぐ、イリヤに命じて「逮捕、拘禁、拷問」させようかと本気で思ったほどだ。
「ふふ。……あんたの悦ぶやり方と、嫌がるやり方を今から列挙して確かめたっていいんだぜ。……まあ、さすがに下品だとは俺でも思うからしないけどな」
「ふざけんな! 馬鹿ッ!」
とうとう、カイエンは耐えきれずに、テーブルを拳で叩いて大声を出した。
途端に、少し向こうでサヴォナローラの連れてきた武装神官と話していたシーヴがこちらへ駆けつけてくるのが見えた。
「カイエン様! 何事ですか!?」
シーヴはカイエンとともにシイナドラドへ行っている。そこでエルネストや夏の侯爵が彼らにした仕打ちも、もちろん覚えていた。夏の侯爵には殺されかかったのだ。カイエンのそばにやってきたシーヴは、憎々しげにエルネストを睨んだ。
エルネストは、怒りに燃えた形相で腰の剣に手をかけたシーヴを見上げると、意外なことに素直に謝った。
「すまねえ。ちょっと女に話すには、直截すぎる言い方で言い過ぎちまったんだ。だから、気色が悪かったんだろうな。時間もあまりないし、焦って話を進めちまったんだよ……これからは気をつける」
シーヴは疑り深そうに聞いていた。そして、カイエンの方を見て目元で聞いてきた。大丈夫かと。
「……あまりに下品で一人よがりな言いようだったから、かっとなった。大丈夫だ、また何かあったら呼ぶから」
カイエンがそう言うと、シーヴは渋々ながらももと居た位置へ下がって行った。
「話し方に気をつけろ」
カイエンが、もう落ち着いた声で、静かに言うと、エルネストも神妙にうなずいた。とにかく話を先へ進めたかったのだろう。
「まあ、あれで俺にもはっきりと理解できたってことさ。誰かしらに尊重されて、大切に守られている人間ていうのかな。自分の全部を、安心できる誰かに預けちまうことを知っている女ってのは、違ったもんだってな」
カイエンは恥ずかしいのか、誇らしいのか、わからなくなって目を白黒させた。
「俺は、あんたとあのヴァイロンの間に割り込むような真似をしたいんじゃないんだ。これは理解してほしい。さっき話したことは、あんたたち二人の関係を、俺はちゃんと理解しているってことを言いたかったんだからな」
「……そうなの、か?」
カイエンは曖昧にうなずくしかなかった。エルネストの顔はもう真面目なものになっていて、その言葉にも嘘はなさそうだった。
「そこで、最初に言ったことさ。そういうことを俺はもう、理解しているけれども、それでも、俺たちはもう、社会的な括りとしては夫婦になっちまったんだってことだよ」
「そうだな」
カイエンはそれは事実だから、それは認めた。
だが、エルネストが、
(俺もあんまり気は進まねえんだが、この国も、そろそろ荒れてきそうだからな。一度、ちゃんと話をして置くべきだと思うんだよ)
と、この場所で二人きりで話したがった理由が完全にわかったわけではなかった。
「まあ、この傲慢不敵な俺様も、俺たちが『愛し合う幸せな夫婦』だの、『みなさんの祝福を受けた模範的なご夫婦』にはなれねえことは、とてつもなくはっきりと、これ以上ないくらい切実に理解している」
エルネストがそう言うと、カイエンはもっともだとうなずいた。
「それは……まあ、ああ言うことがあったら、当たり前だな」
すると、ふっと一息ついてから、エルネストは遠いところを見ているような目つきになって、カイエンが思いもかけないことを話し始めたのだった。
「この国へ来る前にな、俺は夢を見たんだよ。多分な、あんたが時たま見ているような、あのものすごく現実味のある、だが恐ろしい夢と同じものだ。あれは本当に生々しくて、怖いな。あんたが叫び声をあげてうなされるのも当たり前だと思ったよ」
カイエンは心底、びっくりした。
カイエンは子供の頃から、生々しく恐ろしい夢にうなされることがある。その夢から一人で覚醒することはかなり難しく、子供の頃は乳母のサグラチカが、ヴァイロンが一緒に寝るようになってからは、彼が彼女をあの夢から引っ張り上げてくれていたのだ。
エルネストにも、シイナドラドにいた時、何度か悪夢から叩き起こしてもらっていたから、悪夢を見ることがあることはバレていると思っていた。だが、エルネストもあの夢を見たとは。
そして、それからエルネストが続けた話は、カイエンを本当に驚かせるものだった。
「その夢の中でさ。俺、あのリリエンスールっていう子供と、もう一人の……あんたにそっくりな子供に会ったんだよ。なんだか薄暗い、陰気な場所だったな。あれは……沼かなんかか。白い花が咲いていたような気がする」
では、エルネストもまた、あの深緑と青黒い何かと、そして暗い灰色の渦が混ざり、内側で何かが蠢いているような沼を見たと言うのだろうか。あの、真っ白な睡蓮の咲く沼からあの子達が這い出て来るのを、見たと言うのだろうか。
だが、エルネストの言い方では、彼の見た夢はカイエンのそれほどにははっきりとしたものではなかったようだ。
「リリエンスールは両目とも、金色の目をしていた。そして、もう一人の、腐りかけた魚みたいに青ざめて、もう死んだように見えた子供の方は、両目とも灰色の目をしていたんだ。……あれは、あの死にかかってた方が、俺の、あれなんだろ? なあ、……そうなんだろう?」
エルネストは死にかかっていた子供が、自分たち二人の子供なのだろう、と言うのを避けた。それは、彼ら二人が二人ともに失った、あまりにも悲惨な出来事を指し示していたから。
カイエンは、しばしの間、黙っていた。どう話したものか、瞬時には決断できなかった。
やがて、口を開いた時、彼女の声はややひび割れて聞こえただろう。
「そうだ」
カイエンは肯定した。
「お前もあの沼に行ったと言うなら、そうなんだろう。あの子供は、もういない」
カイエンがそう言うと、今度はエルネストの方が黙り込んだ。
「……そうか。じゃあ、夢の中とは違って、実際にはリリエンスールの目の色が左右で違うのは、どういうことなんだ?」
カイエンは、ハッとして顔を上げた。カイエンの灰色の両眼と、黒い、片方だけになった目がひたりと合った。
「気がついたか。じゃあ、わかるんじゃないか? リリがしたことが」
「……まさか。あの赤ん坊の中に?」
エルネストの声がやや震えて聞こえたのは、聞き違いではないだろう。
「この国へ戻って、あの子供を失った時の私の夢の中で、リリは名乗った。その時、まだ私は皇后の産んだ子供の名前を知らなかった。知った時には驚いたな。リリは夢の中で言ったんだ。『あたしの半分を、この子と換える。この子が来てからずっと一緒だし、今はまだそんなに違わないから、きっとそれができる』ってな」
今度こそ、エルネストは言葉が出なくなった。彼は両手で自分の顔を覆い、しばらくの間動くこともできなかった。
「……信じてくれとは言わねえ。でも、これだけは言っておくよ」
そう、改めて口を開いた時、エルネストの声は悲痛な思いによじれていた。おそらく、両手で隠した下で泣いていたのだろう。
「俺はもうすぐ二十七になるが、今まで決まった女はいなかった。ましてや子供なんかはな。そして、これからもそんなものは持たないだろう。これだけはあんたに言っておく」
カイエンの方が、この時にはもう落ち着いていた。
「お前は健康な男だ。そんなことを軽はずみに言うもんじゃない」
カイエンは自分とエルネストの違いを、きちんと理解し、そして自分に関してはすでに達観していた。
「私とお前は違う。私と結婚したからと言って、そういうことを諦めてしまうべきではない」
カイエンは周到に付け足した。もう、彼女は落ち着いていた。
「お前のいう通り、私たちはもう、社会的な括りとしては夫婦になってしまった。これはもう変えられない。だが、これとそれとは別のことだと思う。お前は私に囚われているべきではない。シイナドラドでのことは……赦せることでもないし、一生忘れることもないだろう。だが、お互いにいつまでも引きずって生きていくのは愚かなことだ」
カイエンは内心で、自分の言っている言葉に驚いていた。そこまで自分が考えているという自覚がなかったのだ。
「お前の言う通り、これからの時代、この国も荒れていくだろう。私たちはハーマポスタール大公夫婦として国難に当たっていかねばならない。……最初はなにが話したいのかわからなかったが、今日、お前とこの話が出来てよかった」
カイエンは、そこまで言うと、エルネストとの結婚式の最後に彼に向けて言ったのと同じ言葉を口にした。
「……ありがとう。エルネスト」
そこまで聞いて、エルネストはやっと顔を上げた。その顔には、間違いなく涙の跡が見えたが、カイエンは見えないふりをした。
「なんてぇ女だ。……末恐ろしいな。あんたの言いたいことはわかった。俺の言いたいことも分かってくれてうれしいよ。それでも俺は一回言ったことは変えねえけどな」
エルネストも、次第に落ち着きを取り戻したようだ。
「俺は、早いうちに、この話をちゃんとしておくべきだと思っていたんだ。……なぜだかはわからないが、今日の大議会とやらいうのにも、これは関係があるような気がするんだよな。俺たちは揺るぎなく結束してねえと、きっとこの先、どんどんまずくなるんだ」
カイエンは灰色の目を見張った。
「その点では、あんたが今日、俺を連れてきたのは間違ってなかった。あんたは『夫を立てる控えめな妻』を狙っていたみたいだが。それと、大公殿下夫婦の不仲っていう噂の火消しのためだろ?」
「……そうだ」
カイエンがうなずくと、エルネストはもう普段の彼に戻っていた。
「何だろうな。あんたの思惑とは別に、……多分、あのヴァイロンみたいな馬鹿正直な獣や、あの伊達男みてえな歪んだやつ、理知的なはずの悪魔のおっさん、それに俺みたいな自分勝手で傲慢な暴れ馬を、どうしてだか知らないけれども自由に乗りこなしている大公殿下っていう評価が、これからのあんたには必要になるんじゃないかな、って思うんだよ」
「はあ?」
「大公って肩書きで何人もの大の男を従わせている、体が不自由なくせに、生意気で強引な女大公、じゃダメなんだ。それじゃあ、そこいらの王族貴族の男どもと変わりがねえ。それなら男の方がマシだとみんな思うだろう。だから、あんたは……あんな奴らをどうやってかはわからないけれども、味方にしている不可思議な女、ってのかな。なんでも、どんな奴でも受け入れることができる、でかさのある女……そういう今までの歴史にはない感じの存在に、ならなくちゃあいけねえんだろうなあ」
もはや、カイエンは言葉がなかった。
エルネストの言ったことは、前に頼 國仁の自殺現場へ向かう馬車の中で、マテオ・ソーサが言ったことと、実は同じことだったのだが。
(いいえ、いいえ。殿下は今のところ、間違ってはおられません。それは……殿下には未だ、確固としたおのれ、と言うべき強い自我がおありにならないからなのですから。いいえ、これはいいことなのです。私たちこの街、この国に住う者にとっては。殿下は『大いなる空虚』とでも言うべき『器』であってくださった方が都合がいいのです)
カイエンにその時、確実に理解できていたのは、二つだけだった。
エルネストも、あの子供の死を抱き続けているということ。死ぬまで忘れずに持って行こうとしていること。
そして。
自分たちは夫婦でも愛人でもないにせよ、「何か」特別な絆を作らないわけにはいかないということ。
だが、それがどういうものになるのかは、まだその時のカイエンにはまったくわからなかった。そもそも、加害者と被害者から始まった彼ら二人が、「絆」などというものを構築できるのか。
だが、その一方で、彼らは、望まぬことではあったがこの世に一度は存在したものを……世界に人として立つことの出来なかった存在ではあったが……を間に挟んで、これからも生きていかなければいけない関係でもあったのだ。
カイエンは、母屋の方から心配そうな顔で歩いてくる、エルネストの侍従のヘルマンの姿を目に留めながら、考え続けていた。
カイエンはあずまやを後にすると、一時間ほどテラスに面したサンルームの寝椅子で休ませてもらった。
アキノに起こされた時にはもう、午後の大議会開催の時間に迫っていた。
そして、カイエンたちは再び元老院議事堂へ戻り、午前中に自分たちの座っていた席へ戻った。
午後の部は、もう大議会の開催は午前中にされているので、入場の順番は自由だった。
午前中の議論は、モリーナ侯爵の、
「確かに、皇帝陛下は次代をオドザヤ摂政皇太女殿下に任された。だが、サウル皇帝陛下がれっきとした皇子、フロレンティーノ殿下を残されたことに変わりはない。で、あるからには、オドザヤ皇太女殿下の御即位後、殿下が皇配を迎えられた場合、そして皇子をあげられたとした場合。この場合に対してのことも、ここで決めておくべきことかと存じる」
という言葉の後で紛糾して終わっている。
カイエンはオドザヤが、宰相のサヴォナローラとザラ大将軍を従えて、席に着くのを見ながら、自分も席に着いた。
すり鉢状になった議事堂の上の方から眺めていると、子爵以上の当主たちで構成された貴族たちが座っていく様子がよく見えた。
議長であるフランコ公爵テオドロは、まだ入場していない。恐らくは最後に入場するつもりなのだろう。
今回の大議会開催のの請願書を提出した、モリーナ侯爵たちは、すでに着席して何事か話し合っていた。
その他の貴族の当主たちもあらかた入場を済ませたのち。
議長であるフランコ公爵が入場し、議事堂内を見渡した時。
まだそこに座っていない存在を認めるのに、そう時間はかからなかった。
「バンデラス公爵と……何人かの当主がまだですね」
オドザヤを挟んだカイエンの向こう側から聞こえてきたのは、冷静なクリストラ公爵の声だった。
伯爵、子爵家の当主だけがまだならば、大議会は午後の部の開催を宣言されていただろうが、来ないのは三人しかいない公爵の一人である。
議事堂の中央の議長席に着いたフランコ公爵が、カイエンとクリストラ公爵の方をそっと見上げてきた。
「待つしかあるまい」
カイエンが思った時、足の悪いカイエンの方へ、気を利かせたクリストラ公爵が歩いてきた。
「とりあえず、待ちましょう。なに、半時間も過ぎれば大議会再開を宣言しても問題ありません」
カイエンがうなずきながら、モリーナ侯爵達の方を見ると、そこでもざわざわと動きがあった。モリーナ侯爵のところへ、モンドラゴン子爵が苛立った様子で歩いていくのが見えた。
「向こうも、困惑しているようです。……待ちましょう」
カイエンが言うと、カイエンの視線の先を追ったクリストラ公爵もうなずいた。
「モンドラゴン子爵の様子だと、あちらの陣営のどなたかもまだのようですな。……こちらは皆、揃いました」
クリストラ公爵は、安心させるようにカイエンに微笑みかけてきた。
「なに、バンデラス公爵とても、今ここで積極的に動こうとはしておられないでしょう。私はそう考えます」
カイエンがそれへ、そっとうなずきかえした時だった。
いくつかある議事堂の入り口の、一番下からバンデラス公爵と数人の当主達が現れたのは。
「遅参して申し訳ない」
そこは抜かりなく、詫びる言葉とともに入ってきたバンデラス公爵は午前中に座っていた、議場のど真ん中の同じ席に着く。
問題は、彼の後ろにくっついてきた数人の当主達だった。
彼らは、ちょっとおどおどとした様子で、はっきりとモリーナ侯爵のグループが座る方を見たのだ。そして、彼らが最終的に陣取ったのは、バンデラス公爵の周りの席だった。
「へぇえ」
カイエンの横で、先ほどまではしおらしかった男が、面白そうに小さな笑い声をあげた。もちろん、他の貴族達には聞こえない、極めて小さな声である。
「こっちは崩れてねえんだろ? なのにあっちはもう崩されたのかもな」
先ほど、クリストラ公爵は「こちらは皆、揃った」と言っているのである。
と、なればバンデラス公爵に続いて入ってきた当主達は、中立派か、モリーナ侯爵派に違いなかった。
そこまで見て、カイエンはふと、一見関係なさそうなことを考えた。
そういえば、中立を主張しているように見えたバンデラス公爵は、どこで休憩を取っていたのだろう、と思ったのだ。
カイエンの大公の控え屋敷でさえ、常駐の使用人を置かずに維持だけがなされているのだ。二十年振りに帝都ハーマポスタールに上ってきたバンデラス公爵家の控え屋敷はどうなっていたのだろう。
カイエンは自分の席へと戻りかかるクリストラ公爵を呼び止めた。
「伯父様、ちょっと」
クリストラ公爵はすぐにカイエンのそばに恭しく控えた。傍目には大公のカイエンが伯父で筆頭公爵に何か命じてるように見えるだろう。
「あの、バンデラス公爵の控え屋敷はどうなっていますか? その、私が聞きたいのは、彼はどこで休養をとったのだろうということなのですが」
カイエンがそう聞くと、クリストラ公爵はゆっくりとうなずいた。老練な公爵はその辺りのことも調べていたらしい。
「バンデラス公爵には、ずっとこのハーマポスタールに駐在して、定期的に連絡をとっている部下がいるのです。今度の来訪前には、このハーマポスタールにある、すべてのバンデラス公爵家の不動産に手を入れさせ、準備していたようです」
「では、この皇宮の控え屋敷も?」
カイエンが聞くと、クリストラ公爵は肯定した。
「はい。バンデラス公爵家の控え屋敷も、私どもの屋敷と大差ない広さではございますが、休息するのはもちろん、話し合いの場としても十分なものでございましょう」
そこまで聞いて、カイエンが納得した時だった。
「……だいたいお揃いのようですな。では、午後の大議会を始めることといたします」
議事堂の中央で、議長のフランコ公爵が開会を宣言した。
「まずは議論が始まるでしょう。……我々の側の見解の表明は、私が致します。大公殿下は後押しをしてくだされば……」
「わかった」
カイエンはそう言うと、すっと正面下段のバンデラス公爵の様子と、中央に立っているフランコ公爵の姿を目に捉えた。
「……女帝即位に伴う問題の落とし所は決まっている。問題は、フロレンティーノ皇子のご養育についてと、オドザヤ皇女の結婚についてだ」
カイエンはふと、先ほどまでクリストラ公爵家の控え屋敷の庭、そのあずまやの中でエルネストに言ったことを思い出していた。
「私とお前は違う。私と結婚したからと言って、そういうことを諦めてしまうべきではない」
カイエンはあの言葉と同じような意味を、妹のオドザヤにも伝えたかった。
「私とあなたは違う。あなたが女帝となったからといって、人間としての営みや幸せを諦めてしまうべきではない」
と。
だが、カイエンはまだオドザヤにそれを言うことができていなかった。
だが、近い未来に、カイエンはオドザヤにその言葉を言うことになるだろう。そして、それが実現できるよう、姉としてできうる限りのことをしたかったのだ。
えーと。題名の通りです。
「大議会は〜〜」はちょっとタイトルを変えて次回も続きます。




