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女大公カイエン  作者: 尊野怜来
第四話 枯葉
105/220

死ぬときはひとりぼっち


 自らを縊り殺した男

 家族へ遺す財産もなく

 友に託す言葉もなく

 縄目にそれまでの全てを託した男


 ああ誰でも

 死ぬときはひとりぼっち

 何も持たない

 ただのひとりぼっち



 

   アル・アアシャー 「殺された男」より「自らを吊った男」







 カイエンの元に、ライ 國仁コクジンの自殺のことが伝えられたのは、実質的には茶番劇でしかない朝餐が終わろうとしていた、ちょうどその時刻だった。

 リリと飼い猫のミモを中心に、なんとなくだが和やかな雰囲気になりつつあった、「大公一家」にその知らせは不意打ちの冷たい打ち水のように降りかかった。

 侍従が連れて来たのが、治安維持部隊の双子の隊長の兄の方、マリオだったことから、その事件の重要性は明らかだ。よほど大きな事件でもない限り、まだ大公宮の奥にいるカイエンのところまで事件の報告が上がってくることなどない。

「どうした?」

 だから、カイエンが聞いた時には、その場の皆が静まり返っていた。


 帝国軍の士官学校の螺旋帝国人の教授である、頼 國仁が自分の研究室にて縊死死体として発見された。

 それは、もし頼 國仁がここにいる大公カイエンの元、家庭教師ではなかったら、彼の門下生で助手の 子昂シゴウとともに、一昨年の連続男娼殺人事件で容疑者として取り調べを受けていた人物でなかったら、カイエンの耳に入ったはずもない事件だった。

 頼 國仁に関して、カイエンとの関係はそれだけではない。頼 國仁は五年前に前の大公アルウィンが佯死を遂げた時に、ともに螺旋帝国へ赴いたのではという疑惑の人物でもあったのだから。

「やはり、頼 國仁先生は、星辰セイシンを後宮から逃した一味だったのだろうか?」

 カイエン以下の大公軍団の者たちは、馬車と馬に分乗して現場である、帝国士官学校へ急いだ。その走る馬車の中でカイエンが呟いた相手は彼女と同じく馬には乗れない、大公軍団最高顧問である、教授こと、マテオ・ソーサだった。

「自殺なさったというのが本当でしたら、そういう可能性が高いですね」

 マテオ・ソーサもまた、頼 國仁が下町で開いていた塾で螺旋帝国の文字や文化、歴史、それに兵法学を学んだ一人だ。

 そして、一昨年の連続男娼殺人事件では同じ町の出身である、クーロ・オルデガが容疑者兼五人目の被害者となってもいる。

 カイエンと教授の乗った馬車の外は、もう昼前の明るさに満ちていた。大公宮も、士官学校も皇宮に近い高台にある。ハーマポスタールの中心セントロと呼ばれる、旧市街の下町の、店や神殿の多い地域とは違う。だから、石畳の道自体はそれほど混雑してはいなかった。

 それに、大公宮から士官学校の敷地まではそう遠くはない。だが、こういう急いでいるときに限って、道の先で荷馬車が荷物をぶちまけて転覆しているのだった。下町から貴族の屋敷かなんかへ、荷物を満載してやって来た荷馬車が荷物の積み方が悪かったかして、道に横倒しになっていた。

「いけませんなあ」

 窓から転覆した荷馬車を見ながら、教授がそう言ったので、カイエンはてっきり道を通れないことを言っているのかと思った。イリヤやヴァイロン、それにマリオやシーヴたちの馬は、御者に合図してから先に行ってしまっていた。

「他の道を回らせましょう」

 カイエンがそう言って、御者に命じようとすると、教授はそれをそっと遮った。

「いいですよ。……頼 國仁先生はもういけないんでしょう? 急いだって仕方ありません。私が言ったのは、他のことですしね」

「えっ?」

 カイエンが教授と向かい合わせに座っている、馬車の座席に戻ると、教授は物憂げな様子で腕を組んだ。

「いえね、こうしている間にも、本来、私たちはオドザヤ摂政皇太女殿下の即位に向けて、世情を混乱させないよう、動いていなければならないはずなのです。なのに今、我々はそれ以外の事件で振り回されてしまっているでしょう? まあ、遠い原因は昨日の捕り物で捕まえ損なったという、前の大公さんのせいなんでしょうけれども」

 昨夜のアイリス館の捕り物に、馬車の衝突騒ぎ。それに今日の朝餐での身内の中の茶番劇。

「こうしている間にも、オドザヤ摂政皇太女殿下に反対する者たちは手を打って来ているはずなのです。……昨晩のことや、今日のことでは宰相さんも時間を取られるでしょう。これは明らかに、前の大公さん……ああ、言いにくいので、あの方、と呼びますよ……の仕組んだことの延長線上にあることですよ」

 教授の言い方は穏やかだったが、言っている内容は厳しくカイエンの落ち度を責めるもののように聞こえた。だから、カイエンはとっさに返事もできない。

「……」

 実のところ、宰相サヴォナローラのところへは、昼過ぎには馬を飛ばして来たリカルドによって、さらに「青い天空の塔」修道院での虐殺事件がもたらされることになるのである。アルウィンの仕掛けはこの時も、図に当たったと言えるだろう。

「忌々しいとお思いでしょうな」

 カイエンはびっくりした。教授がそんな当たり前のことを慰め顔で言うとは思ってもいなかったからだ。

「ええ。何と言ったらいいのか……。ああいう、普通の人にはただのはた迷惑というか、せっかく落ち着いている世間を騒がすようなことというか、そういうのを自分でおっ始めようとする人間の先手を打つには、どうしたらいいんでしょう?」

 カイエンは本当に正直に、自分の今の心持ちを言ったのだったが、教授の答えは深刻なものだった。

「殿下。残念ですが、あちら側の動きはもう、あの方をこちらが抑えても、そして殺したとしても、止まることはないでしょう」

 アルウィンを殺しても、もうこの歴史の動きは止められない。マテオ・ソーサはそう言っているのだ。

「もう、あの方が桔梗館とやらを拠点にして、動き始めて何年になりますか。初めてお会いした時にお話ししたが、私も若い頃に勧誘されたくらいです。十年、十五年、いいえ、もっとでしょうな。……ですから、もうあの方の『意志』はそろそろ、次の段階へ入り、次の世代へ受け継がれようとしているでしょう。……幸いにも、大公殿下に直接出会い、あの方の影響から逃れることができた者は、『解毒』されて、こちらに残りました。ですが、今、まだ向こう側にいる若者たちはもう、戻っては来ないでしょう」

 カイエンは知らなかったが、その時、教授が言っていたのは、グスマン以下、スライゴ侯爵アルトゥールの一党。そして、あの天磊や星辰、それに 子昂シゴウたちのことだったのだろう。

「殿下はお嫌でしょうが、あの方と殿下はやはり、よく似ていらっしゃるのです。だからこそ、その性情は天と地ほどに違っていても、あの方の毒は殿下、あなた様にしか解毒できない厄介なものなのですよ」

「解毒?」

 カイエンは心底驚いて、教授の薄い、白っぽい灰色一色で塗りつぶされた目をぽかんとした顔で見つめているしか出来なかった。

「ええ。先ほど、大公殿下に出会えたものは『解毒』されてこっちに残ったって、言いましたでしょう? あの方の毒性は独特で、あまりにも強いのです。一人の人間の人生を簡単に左右するほどにね。そして、その毒性の反対側には、あの方が恐らくは無意識にでしょうが……『穢れなき状態で置いておきたい』と願っている殿下、あなた様がいるのです」

 カイエンは声もなく、居心地悪そうに身をよじった。

 はっきり言って、今でもまだ、実の父親であることには変わりないアルウィンに『穢れなき状態で置いておきたい』と思われていると言われれば、なんとも言えない生臭い嫌悪感があった。そもそも、アルウィンが彼女にしたことは、そんな風に思っている娘にすることではないように思えたこともある。

 一昨年のヴァイロンの件といい、去年のエルネストの件といい、彼女にとっては生身の体を無理矢理に変えられる出来事だったのだから。

 教授も、それに気がついたのだろう、彼は慌てたように意味もなく顔の前で手を振った。

「……いや、申し訳ありません。殿下にとっては、極めて薄気味が悪い話でしたな。お嫌なことも思い出させてしまいましたでしょう。でも、これは今言っておくべきだと思うのでね。と言うか、アキノさんじゃないが、今にならないと言えない、とでも言うべきでしょうか」

 アキノ。アルウィンの企みのほとんどを知っていながら、カイエンが気がつくまでは黙っていた、大公宮の執事で、彼女の乳母の夫。

「これはねえ、もう、あの方にとっても多分、理屈じゃないんですよ、きっと。あの方もご自分がとんでもなく危ない存在だというご自覚は、どっかにはちょっとはあるのでしょう。それで本当に、本当にあの方の最後の『良心』とでも言うべき部分が無意識の内に、偶然もあって作り上げたのが、殿下、あなた様じゃないかと思うんですよ」

 教授の言っていることは、ややこしすぎた。カイエンはそれでも理解しようと身を乗り出した。それくらいには、彼女はマテオ・ソーサという人間を信頼していたから。

「もっとはっきり言えば、実際のところあの方が悪で、殿下が善だ、などという線引きとて実は、出来はしないのです。それを決めるのは、後世の人々なんですから!」

 だが、次に教授が言ったことは、カイエンを完全に戸惑わせた。教授の話していることは、アルウィンとカイエン二人のことではなく、もっと大きな社会の変化についても含まれているのだろう。

「私は間違っているのでしょうか」

 カイエンがちょっと考えてからそう言うと、教授はぶるぶると首を振った。

「いいえ、いいえ。殿下は今のところ、間違ってはおられません。それは……殿下には未だ、確固としたおのれ、と言うべき強い自我がおありにならないからなのですから。いいえ、これはいいことなのです。私たちこの街、この国に住う者にとっては。殿下は『大いなる空虚』とでも言うべき『器』であってくださった方が都合がいいのです」

 カイエンは頭を抱えたくなった。しかし、教授の方は、言葉というものの表現できる限界を感じつつも、諦めなかった。

「王者には二種類あります。それは、おのれの欲望のままに大地を切り分け、人間を押しつぶし、歴史を作ろうとする加害者と、民によって担ぎ上げられ、その民衆の動きを体内に入れて大きくなっていく者。人々の想いを飲み込める、時代の共感者、とでも言うべき『大いなる空虚』としての存在の二つです」

 カイエンは合いの手も入れず、黙って聞いていた。聞いていれば最後には分かるだろうと思い、反発することなく心を預けたのだ。実は、彼女のこうした部分こそ、教授の言いたい、『大いなる空虚』とでも言うべき『器』であることの証だったことには気付かずに。

「あの方、アルウィン様は前者の変わり種でしょうね。恐らくあの方を動かしているのは個人の欲望だけではない。他の国や人々の思惑も、あの方は無意識に取り入れて動いているのでしょう。個人が個人の欲望のままに国土を切り分けるような時代は、もう何百年も前に終わっています。このハウヤ帝国をシイナドラドの一皇子が、ラ・カイザ王国をむしり取って建国したような時代ではないんです」

 カイエンはこれは理解できたので、ふんふんとうなずいた。

「そして、殿下……あなたは後者です。あなたは生来、あまりにも真っ直ぐで生真面目なので、おのれの欲望など自覚してはいない。いや、そういうものを持つこと自体を忌避しようとなさっているのでしょう。これは支配階級の人々の理想的な姿です。しかし、実際にはそんな支配者はほとんどいない。そして、殿下の場合には、それは間違いなくご両親の影響なのです。つい先年まで、殿下はあの方の支配下で動かされておいでだった。そして、殿下の実の母上は今もまだあの方の支配下で苦しんでおられる。そして、お母上はおそらくはもう、立ち直ることはできないほどに心身を損なってしまった。だから、殿下は無意識のうちに、『支配する欲望を持つこと』を最も憎むべき人の姿だと思ってはいらしゃいませんか?」

 カイエンは声が出なかった。

 マテオ・ソーサの言ったことは、彼女の心の芯を貫き通し、陽の光のもとに晒すようなものだったからだ。

「え、あ。そう言えば、そう、かな? うん。それはもう考えたことがある」

 カイエンはもう、アルウィンが彼女にしていた支配については自覚していた。しかし実のところ、アイーシャのことまでは考えが及んでいなかった。

 教授に言われてみれば、アイーシャにはカイエンのような「気付き」はなかったのだろうと言うことは理解できた。支配されている自覚がないから、そこから自発的に抜け出ることもできず、侍女の言うまま、安易に酒に一時だけの救いを求め、そして最後には自壊して行く道しか選べなかったのだ。

「確かにそうかもしれない。私は他人を思うがままに動かしたいとは思わない。と言うか、そんなことのために頭を使ったり、努力をしたくない」

 しばらくして、カイエンがそう答えた時、転覆していた荷馬車の片付けがだいたい終わり、渋滞していた馬車や荷車が順にゆっくりと動き始めた。 

「それですよ。さっき申し上げた、『あの方の最後の『良心』とでも言うべき部分が無意識に作り上げたのが、殿下、あなた様じゃないか』というのは、そこなんです。あの方は殿下を長いこと支配なさっていた。だがそのことを殿下が自覚なさり、支配から離れようとした時、皮肉にもあの方が『無意識に作り上げていた最大の敵』、穢れなき時代の共感者、大いなる器が誕生したんです」

 えっ?

 教授の言葉は、最後の方に向かって次第に小さくなって行ってしまったので、カイエンは動き始めた馬車の中で、一瞬、聞き違えたかと教授の方へ乗り出していた。

「殿下のおみ足が生まれつきに悪く、お体もお弱かったのもこの際はいい方に転びましたよ。……それによって、殿下はお子様の時から、人としての痛みも、他人の助けなしには生きられないことも、知っていらっしゃるからです」

 カイエンにとっては子供の頃からの、当たり前のことが、大公としては得難い特質にも変わるらしい。そして、アルウィンのしたことが、彼女を彼の「最大の敵」とやらに作り変えて行ったというのだろうか。

 難しい顔で黙ってしまったカイエンを、教授は優しいと言っていい目つきで見ていた。彼にとってはカイエンもまた、教え子のようなものなのだろう。

「いいんですよ、殿下。まだ、全部わからなくても大丈夫です。殿下は殿下ですからね。今、『そんなことのために努力したくない』とおっしゃったでしょう? そんな殿下だから、私どもも殿下に対して何か言ったり、したりする時には、常におのれの中身を確かめるようになるんです。自分はまだ大丈夫かってね。これは大切なことなんですから」

「そう、ですか」

 カイエンには、この短時間に教授に言われたことの全部は飲み込めなかった。だが、教授は「大丈夫」と言っているのだから、もう少し時間をかけてもいいのだろう。カイエンはそう考え、頭を切り替えることにした。そろそろ、馬車が士官学校の門を通ろうとしていたこともあった。

「ああ。必要なこととは言え、話がちょっと横にずれすぎましたな。……頼 國仁先生の最期のご様子を見たら、我々はもう、先にどんどん進んで手を打たなければ。こうしている間にも、敵方は動いておるのでしょうからな」

 馬車が停まったのは、一昨年、初めてカイエンがマテオ・ソーサの研究室をヴァイロンとともに訪れた時と同じ場所だった。

 馬車の扉の外には、シーヴが一人で待っており、足の不自由なカイエンと教授が馬車から降りるのを手伝った。


「こちらです」

 カイエンと教授が入って行ったとき、もう頼 國仁の死骸は毛布を敷いた床に寝かされていた。死に顔は穏やかで、しばらく見ない間にすっかり老人の顔になっていた。

 だが、縊死した現場はまだ生々しい様を残してそのままだった。カイエンたちは、無言のまま、死者にそっと礼をしてから現場に入った。

 士官学校の研究室は、決して広い空間ではない。

 頼 國仁のそれも同じで、本棚に机、いくつかの椅子や脚立などの置かれた隙間を、何人もの隊員たちがそっとすり抜けるようにして動いていた。

「何もかも、一気にやって来るねえぇ」

 午後になって、サヴォナローラから「青い天空の塔」修道院の惨劇のことを聞いたイリヤは、雄叫びをあげながら現場へ走ることになるのだが、まだこの時は疲れた顔で呟くだけだった。この言葉も、カイエンにではなくて教授に言ったらしく、言葉遣いが怪しかった。

「このおっさんは死んでるし、おっさんの助手だったって言う、 子昂シゴウって螺旋帝国人は行方不明なんですよぉ」

 イリヤの言うことは、カイエンたちに無言のまま迎えられた。こうして頼 國仁が死んでいる以上、同じ螺旋帝国人で門人の馬 子昂の行方が真っ先に探されるはずだ。それが、いなくなっているとなれば。それはアルウィンの側に走ったと言うことになるのだろう。

 イリヤだけでなく、双子の治安維持部隊隊長も昨晩寝ていないだろう。そのうちの一人、双子の弟のヘススが、カイエンたちに一礼してから部屋を出て行く。

「……宰相さんとこに行ってもらうのよ。昨日の今日でこれでしょ? 他にもなんか起きてなきゃあ、いいんだけどねえ」

 イリヤは今度はヴァイロンの方を見てぼやいた。

「まあ、ここの状況やら、俺やこのマリオのカンじゃあ、自殺で間違いなさそうだけど。……大将は殿下の視察が済んだら、一緒に大公宮へ戻って、なんかあったら動けるようにしといてくれる? 俺もここでなんか出てこないようなら、戻るからさ」

「わかった」

 ヴァイロンは答えると、入って来るカイエンと教授のために、大きな体を部屋の一番奥へ移動させた。そこは一面の本棚になっていて、とりあえず調査の対象にはなっていなかったからだ。

「さっき言っていたが、他殺の可能性はないんだな?」

 カイエンももう、いくつも悲惨な現場は見てきた。近いところでは、ここにいるイリヤがやらかした殺人事件現場にも立ち会っている。あの拷問された跡をわざと作った遺体を思い出して、カイエンは身震いしたい気持ちだった。

 彼女に「盾」のことを気付かせるためとはいえ、あんなことが平然と出来てしまうイリヤという男は、残念だがもう普通ではない。だが、アルウィンのようなもっと普通ではない人間を向こうに回したからには、彼女にも、「毒を良薬に化けさせる」ような芸当が要求される時期になっていた。

「そうっすねー。これはまあ、細かくいえばたくさん根拠はあるんですけど、俺と双子の意見をまとめると、至極真っ当な自殺です。殺した後から吊り下げたような痕跡はありません」

「そうか」

 カイエンは、無意識にこの時もイリヤの言ったことをそのまま「信用」して飲み込んでしまった。代わりに脇で教授がイリヤに向かって、

(まあ、大丈夫なんだろうけどねえ……)

 と疑い深い目で見たが、それへもイリヤは真面目な顔でうなずいた。

(嘘ついてない、ついてない! 疑うなら後でちゃんと納得するまで説明できるもんね!)

 カイエンの目は、その時にはもう横たえられた頼 國仁の遺体の方へ向いていた。

「死後、どのくらいだ?」

「それならもう、治安維持部隊の医師の見立てが出ております」

 そう言って、カイエンのそばに来たのはマリオだった。彼の真っ黒な瞳のはまった目も、寝不足でやや血走っているのが哀れといえば哀れだ。

「だいたい、昨夜の夕刻から真夜中ごろだということです。首に残った痕と、発見時の状態には違和感はありません。……この机の周りを探しましたが、遺書のようなものは発見できていません。ただ……」

「なんだ?」

 カイエンが聞くと、マリオはカイエンと教授、それに二人の後ろについたシーヴを大きな机の前に案内した。

「この机の上は片付けられておりました。これは意図的に片付けたものと思われます。その上で、この本一冊だけが『正確に』真ん中に置かれていました。この本はまだ動かしておりません」

 カイエンは机の中央に置かれた本の表紙を見て、マリオがそうした理由がわかった。

 その本は、螺旋文字で書かれた本だったからだ。このハウヤ帝国で螺旋文字が読み書きできるのは、ほんの一部の人々だけだ。一般の人々は螺旋文字の書物というだけで、「高尚なもの」、「専門的なもの」と意識し、特別視するのが普通だった。

「ああ」

 それはカイエンが昨夜、アルウィンと罵り合った時に思い出した、あの本ではないか。

 その本はあの頼 國仁が故郷へ帰ると言って、暇乞いに来た時に置いて行ったもの。あの頃も今も、まだ翻訳も出てはおらず、螺旋文字の読み書きのできるカイエンだからこそ読めたものだ。

 それは小説で、タイトルは「失われた水平線」だった。

「失われた水平線……」 

 カイエンの横で、やはり螺旋文字の読める教授が、絞り出すようにその本の題字を読んだ。

 頼 國仁にもらったあの本はもちろん、まだ大公宮のカイエンの書斎の本棚に収まっていた。

 では、この本は頼 國仁が、自分のために持っていたものか。はたまた、新しく渡来したものなのか。

「読んだことがありますか」

 カイエンが聞くと、驚いたことに、教授は肯定した。

「ええ。ありますよ。というか、その本は頼 國仁先生にいただいて読んだんです。まだ、大公宮の私の部屋の本棚に入っていますよ」

「えっ!?」

 それでは、今、大公宮にはカイエンのと、教授のと、二冊の「失われた水平線」があることになる。カイエンは驚いた顔を隠さなかった。だから、教授はすぐに、気がついたらしい。

「ああ、では殿下もそうなのですね」

 教授はうん、うんとうなずくと、マリオとイリヤの顔を見た。

「これ、触ってもいいかね」

「ええ、いいですよ。一応、そうっと扱ってください。なんだか、ここに何か挟まっているようなので……」

 マリオはそう言うと、そっと指先で分厚い本の小口の部分を指で指し示した。

「そうだな。では、ここで開いてみるか」

 教授は周りに確認してから、何かが挟まっているために隙間が空いている部分を開けようとした。

「あ、待ってせんせー」

 横から口を挟んだのはイリヤで、彼は自分の手袋を外して教授に押し付けた。それは、手の感覚を損なわぬよう、極めて薄い皮で作られたものだ。

「大丈夫だと思うけど、一応、これはめといて」

 そうして、教授が手袋をはめた手で開いたのは、本の真ん中あたりだった。

 パタンと広げられたページの中に挟まっていたもの。

 それは、鮮やかな青緑色の螺旋帝国渡りの翡翠を彫刻して作られ、銀で縁取りされたペンダントだった。銀で縁取りされた部分に、銀の鎖が通されている。

「なにこれ、……これって、あれじゃん。アレ。桔梗星紋!」

 イリヤの声が、周りを憚るように、か細くなったのも致し方なかった。

 その青緑色の翡翠の形は、イリヤがあの侍従殺しの現場で、盗んできたアストロナータ神殿の神像の盾の五芒星に細工して作った、あの文様だったからだ。

「間違いなく、桔梗星紋だ」

 カイエンが言うと、横で教授が耐えきれないと言うように、ため息を漏らした。

「ああ。では、では先生は桔梗星団派の信徒だったということになりますな。これを、最後に残そうとしたとしたらですが」

 カイエンは無意識のうちに首を振っていた。螺旋帝国でもアストロナータ神は信仰されている。カイエンは侍従殺しの時に知ったばかりだが、その中には「桔梗星団派」という数百年前に分派したグループがあるのだという。その始まりは一説によれば、シイナドラドの第二皇子からハウヤ帝国の始祖となった、第一代皇帝サルヴァドールに遡るのだそうだ。そして、その名称を利用して怪しく蠢動するのがアルウィンたち一党なのだ。

 頼 國仁が桔梗星団派のアストロナータ信徒だったとすれば、このハウヤ帝国で、「桔梗星団派」を名乗っていたアルウィンに近づいてしまった理由もうなずける。

「しかし、なぜ死ななければならなかったのか……」

 カイエンがそう呟くと、すぐに教授が話し出した。

「助手の馬 子昂がいなくなっているのでしょう? 昨日の今日だ。あの方に付いて行ったと考えるのが普通でしょうな。あの方の佯死後、螺旋帝国へ導いたのは、同じ頃に国へ帰ると言って殿下の家庭教師を辞した、この頼 國仁先生であろうと考えられるからには、先生も同行するよう、誘われたに違いない」

「でも、この人はここで自殺しているよね」

 イリヤの口調は静かだ。彼は頼 國仁との繋がりがない。それだけに冷静に事態を見られるのだろう。

「そうだね」

 教授も落ち着いていた。

 カイエンは二人の会話を聞いてはいたが、彼女の目は、青緑色の翡翠の桔梗星紋が開いている「失われた水平線」のページを見ていた。

「頼 國仁先生は、もうあの方のために働くのを潔しとなさらなかったんじゃないかねえ。一昨年のあの……連続殺人事件の折にも、かなり衝撃を受けていらしたからね。元々は自分に厳しい方だったからね。ああいうことを黙認し続けるのは、お辛かっただろうから」

「じゃあ、殿下の下でやり直せばよかったんじゃねーの? あー、そうするにはじじい過ぎたってわけぇ?」

 すぐに会話の二つ三つ先を言ってのけたイリヤへ、教授は生暖かい目を向けた。

「まあ、単純に言えばそうだろうね。まあ、君はそう言うが、一昨年のあの連続殺人事件の後の先生の顔を思い出すとねえ。……これもなんだか近いうちに明らかになりそうだが、やっぱりあれはあの亡命してきた皇子様だか、皇女様だかの仕業だったのかも知れないね。先生は知らずに悪魔を、故郷の螺旋帝国から、この国へ逃れさせてしまった。そのことを悔いておいでだったようにも思えるねえ」

「えー。そうなの? だから、自分は一抜けた、って人生にさようならってわけ? なんだか俺には納得いかないねぇ」

 カイエンも教授も、そしてイリヤも、まだあの「青い天空の塔」修道院のことは知らなかった。この時に知っていれば、イリヤも納得していたのかも知れなかった。

「俺にはわっかんないけど。まあ、いいや。……で、殿下はずっとそこのページを見てるけど、なんかわかったんですかぁ?」

 カイエンはイリヤの顔も、教授の顔も見てはいなかった。

「うん。そうだな。ここのページを見ると、先生が自裁なさった理由がわかるような気がするな」

 カイエンがそう言うと、教授もおもむろに開かれた本の内容を追い始めた。

「……なるほど。これは誇大妄想狂率いる阿呆船に乗り込んだ、今までの信仰に疑問を抱いて付いてきた破戒僧が海に飛び込んで自殺する場面ですな。阿呆船の中で諍いが起こり、船長である誇大妄想狂は、その責任を何かと優柔不断な破戒僧に求めた。そして、心情的に自分の潔白をはっきりと表明できなかった破戒僧は、自分の信仰を試すため、海に飛び込んでしまう……」

 おのれの信仰を試すため。

 カイエンは、頼 國仁が自分にこの「失われた水平線」を読ませようとしたことを思い出していた。あれは、アルウィンのしようとすることを示唆するためだったのだろう。

 と、すれば、この最後のメッセージも同じなのではないだろうか。

「では、頼 國仁先生は、馬 子昂がこの本を持ち去るか、否かに賭けたと言うわけになりますね」

 そこで、口を挟んできたのは、意外なことに書棚に寄りかかって窓の外を見ていたヴァイロンだった。

 教授もイリヤも、すぐにヴァイロンの言いたいことはわかったらしい。

「そうだねぇ。普通は遺書を残すもんだけど。ここには無いようだし。遺書はさすがに残しても始末されると思ったのかな? 馬 子昂がいなくなってるってことは、この場所の様子も見たんだろうしね。扉は開けっ放しだったんだから。だとすると、この本とか桔梗星紋のペンダントとかは、わざと残して行ったんだろうね。……最後の弟子心なのかなぁ」

 イリヤが淡々と指摘すると、教授はカイエンの前で絞り出すような声で言った。

「なんてこった、先生……じゃあ、じゃあ、馬 子昂の方が……主導権を持って動いていたと言うことなのか!」

 カイエンは一昨年の連続殺人事件の後、アストロナータ神殿にかくまわれていた、頼 國仁と馬 子昂、それにあの皇子と皇女に会いに行った時のことを思い出していた。

「そうか。あの時からもう、先生は馬 子昂の言いなりだったと言うことか」

 カイエンは、いなくなった馬 子昂のことが、いやに気になっていた。わざわざこのハウヤ帝国まで亡命させて連れて来た、皇子と皇女。いなくなった馬 子昂。彼らはわざわざこの国へやってきて、今度またアルウィンにくっついて、わざわざ螺旋帝国まで戻っていくだろうか?

 それは、単純な疑問でしかなかった。

 そして、そのことはそう間違ってはいなかったのである。



 

 




 そして。

 それは、「青い天空の塔」修道院の惨劇が起きてからすぐの、ある日の夜中。

 元老院院長、フランコ公爵テオドロの庶兄であり、モリーナ侯爵家へ養子に入った、フィデル・モリーナ侯爵の館の中の薄暗い、それでも豪華に飾り立てられた応接の間であった。

 そこには、崩御した皇帝サウルの第一皇女にして、摂政皇太女であるオドザヤの女帝即位に異を唱える人々が寄り集まっていた。

「シイナドラドのガルダメス伯爵がまだですね」

 そう言って、未だ空席のままの椅子を眺めやったのは、親衛隊長のウリセス・モンドラゴン子爵。

「あの方は、口ばかりで何も動こうとはなさらなかったですからな。……肝心のエルネスト皇子殿下は、さっさと大公宮の、あのいかがわしい後宮へいそいそと入っていかれてしまいましたしね」

 そう言ったのは、ベアトリアのナザリオ・モンテサント伯爵だ。彼は、ベアトリアの外交官だが、フロレンティーノ皇子をあげたマグダレーナの元、降嫁先であるサクラーティ公爵家の次男である。

「まあ、今少し待ってみましょう。来なければ、あの男は頼りにならないと言うことです。今度のことでは、シイナドラドは動かないと言うことでありましょう」

 落ち着いた声でそう言ったのは、一人だけこのハウヤ帝国の貴族のなりとは大きく外れた、螺旋帝国風の衣服を纏った、ひげのない中年の男だ。

「朱 路陽殿。あなたはお気楽にそう言うが、元老院の連中を動かすには『友邦』シイナドラドの名前は、実に大きいのですぞ」

 いらいらとした様子で、座っている客の周りを回るのはこの館の主人、フィデル・モリーナ侯爵だった。

「まあまあ。そう苛立っても仕方がありませんよ。皇帝の葬儀にはまだ半月あります。それまでに元老院の貴族たちのうち、何割をこちら側につけられるか。もとより、皇帝の遺言には逆らえますまい。……今度のことは最初の一石を投じることに意義があるのですから」

 慰め顔に言うモンテサント伯爵の顔は、それでもまだ余裕があった。

「そう言って、今から譲歩していたら成るべきことも成りませぬぞ」

 だが、この会合の主人である、モリーナ侯爵は苦虫を噛み潰したような顔をして唸るように答え、部屋の正面の今は火の入っていない暖炉の上に置いた、自分のグラスをぐいっと干したのであった。

 



 さて。今回から皇位継承に関わる話が始まります。

 

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