〔Reine de Coeurs ( ハートの女王様 )〕
ピン、と張り巡らされた1本のピアノ線
そしてピアノ線を伝い、滴る落下血痕
その真下には
遺体の状況を象った白いロープがあり
ピアノ線を境界線にすると
手前は被害者の首から下の胴体
そして、ピアノ線を越えた先にある
小さなロープは 被害者の首、らしい
ポタ、ポタ、と
絶え間なく滴る血液を
交互に見つめる名探偵の姿があり
よろけて、ピアノ線に触れようものなら
彼の首がなくなってしまうので
保護者として、すぐ隣で様子を見守る。
「……ねえ」
「はい」
「…ホントにこっち?」
「だと思います。
鑑識が間違えていなければ…」
ふーん、と鼻で返事をしたかと思えば
それっきりまた隣で黙ってしまう彼に
いや、鑑識が遺体の位置を
間違えたらマズいでしょう、とか
心の中では思うのだけれど。
いつも以上に真剣な横顔を見つめた
「犯人に背中を押されたらさ」
「ええ」
「…普通、こっちに飛ばない?」
彼の右手が持ち上がり
親指が指し示すのは
自分達の立つ、真後ろだ
「バイクの事故と一緒で、さ」
「なるほど……
勢いよく障害物に激突すれば
身体は後ろに跳ね飛ばされますね」
だけど、この首は
ピアノ線より先にあるよね、と
言わんばかりの指の差し方
「……つまり」
「このピアノ線は
凶器じゃないんじゃないかな……」
天井からピアノ線の上に落下して
切断されたのではない限りー
彼が、ふと天井を仰ぐ様子に
つられて天井へ顔を上げてみるものの
そんな痕跡は、一切残されていなかった。
-
「……戦争では人の頭ほどの高さに設置し
首をはね飛ばすことを
狙った使用法も見られた……」
警視庁内に蔵書される図書館で
一体、なんの本を読んでいるのか
と思ってしまうような恐怖話を
隣でぶつぶつと呟く彼に
思わず、眉を潜めて振り向く。
「……ピアノ線の使い方は
どうやら間違ってないみたい」
こちらの意図を知ってか、知らずか
薄く苦笑いを浮かべながら
肩を竦める彼を 黙って見つめていると
彼も首を傾げてくるが
ふい、と顔を逸らし
読みかけていた本に、改めて視線を落とす
「……犯人はマリーアントワネットか
エリザベス女王じゃないでしょうか」
「……現代の?」
「ええ」
「…じゃあ、見せしめのギロチン?」
「観衆がいないと成り立ちませんね」
どっちのほうが酷い冗談だ、と
綺麗なまでにポーカーフェースの彼が
珍しく嫌そうに顔をしかめ
悪趣味、と簡潔に呟きながら
手に持っていた本を棚へしまう。
「……どちらに?」
しかし、返答は
優美な仕草で右手が持ち上がり
人差し指を立てているだけ
細身の黒いパンツのポケットに
両手を差し入れ
カツ、カツ、とブーツの靴音が
階段を昇る度に ゆっくりと館内で響き渡り
つい、本から顔を上げて
2階に辿り着く彼を見上げた
「…なにか見えます?」
「……黒が、見える、けど?」
「……」
他に目に入るものなど
沢山 存在するだろうに
そして、同時に
まさか知りもしないだろう
今の一言が爆弾であり
投下してしまった事など。
パタン、と本を閉じて本棚に戻すと
彼がゆっくりと1階に戻って階段を降り
自分の傍らまでやってきて首を傾げる
「……?」
この2年間 蓄積してきた
信頼感の証なのか
拒絶の色も、戸惑いの色も
真っ直ぐに向けてくる瞳には見られない
女性と見間違うほどの色の白さと
きめ細かく艶やかな彼の素肌に
1度だけ、たった1度だけ触れて
抉れた傷口を癒された記憶が蘇りそうだ
身を刺すような冷たい雨が降っていた
季節も、真冬で
今は、初夏だというのに
あっという間に当時の季節や気候に
バッドトリップしてしまいそうで
そうなると、必死で抑えてきた
これまでの全ての感情が溢れそうになる
ふいに見つめ合っていた瞳を伏せて
彼から背を向けて歩き出そうとすれば
控えめでいて凛とした声が鼓膜に響いた
「……戻りたい夜って、ある?」
「ええ」
彼の問いに、即答して振り向く
顔色や瞳の動きで感情を見抜いてしまう
そんな彼だからこそ、出来た問い掛けだ
まさか即答するとは思わなかったのだろう
一瞬だけ、驚愕に固まり
しかし、柔らかく微笑んだ伏し目がちで
ほんの少し顔を俯かせる彼が囁いた
「……俺もあるよ?」
「……」
「…なんて、ね」
自嘲気味に微笑ったかと思えば
自分の横を足早に通り過ぎようとする
彼の右腕を左手で掴み、彼が勢い付いて振り向く
「……どんな夜ですか?」
「……」
「あなたが戻りたくなるような、夜って」
目の前の彼が、唇を開きかけるが
しかし躊躇うのか 閉じられてしまう
その唇の、言葉の出方を見つめて
暫く待ってもみるが、出てくる気配はない
「成瀬さん」
「?」
「……排卵日ですか?」
「ちょ、俺……男なんだけど」
「なんだか服装も露出してますし…」
怪訝そうに、空いている右手で
短めの白Tシャツの裾を摘んで
軽く下へ引っ張ってみるが
長さが足りないらしく
先ほどからチラ見えする白いわき腹に
右掌を添えて触れさせる事で
公衆の目から隠してしまう事にした
「…全く。 ファッションセンスも
いいですが、目に毒でしょう?」
「……誰の、目に毒?」
「……さあ」
軽い靴音を立てて
距離を縮めた彼の唇が伸び上がって迫り
珍しく驚愕に目を見開くと
そっと自分の唇に近づく唇、に
この場で貪りたい衝動と
内心で戦う羽目になってしまい
公衆の目があるのに、とか
いつ誰がこの棚に来ても
おかしくないのに、とか
頭では分かっていながらも
細い腰を誘うように撫でさする
吐息混じりに薄く開いた彼の唇に
小さく差し出した唇を触れさせると
ピクンと、撫でさすっていた細い腰が
誘いに乗るように 甘い反応を示し
あっという間に浚われてしまうのだ
ー あの夜へ、と。
「……やはり排卵日ですか」
「ん……違」
「今度からは、その日を狙って誘います」
「へ」
「……そうしたら
俺に落ちてくれるんでしょう?」
もう知らない、とは言わせられない
忘れたフリも許されないであろう
秘めやかで秘密めいたこの状況に、あの夜に
珍しく彼の本音を見知ってしまったせいだ
いや、わざと見せたのかもしれない
自分も同じなのかもしれない
( どちらにしても、もう手遅れの末期症状 )
身体を離して棚の隙間をすり抜けると
背後から、今度は彼の手に腕を掴まれる。
「……もし」
「?」
「もし、黒みたいに
あの夜が欲しくなったら
……どうしたら、いいの?」
自分達の姿を見つけて、駆け寄る
警官達の足音を背後に聞きながら
薄く微笑んで、彼に答えてやる。
「…そのために
お互いのお家に行き来する事を
提案したんでしょう?」
「……!」
微笑を貼り付けたまま
小さく首を傾げて、確信犯で問いかけ
彼から距離を空けて離れると
警官の1人がそっと囁く言葉に
目の前の名探偵が 微かに驚いた
「へえ……本来は白い薔薇が
一瞬で、赤い薔薇に?」
「はい、今は白い薔薇だそうです」
「現実にもいるんだね……
ハートの女王様、が」
「ハートの女王様……ですか?」
また、別の警官から彼の私物である
高級な黒いファーのショールを受け取り
羽織って正すショールのリボンを手伝うと
目の前で、自分を見上げる彼が呟いた
「生えてきた薔薇が白かったから
……首をはねたんじゃない?」
fin.