欲望の果て
「この人、痴漢です!」
夕方の満員電車でセーラー服の女子高生が大声を上げた。周囲の乗客が一斉に彼女を見る。彼女はその犯人と思しき男の腕を掴み上げ、涙ぐんだ目で哀れみを乞うように周りを見た。
「何を言っているんだ、私は君に触れてもいないぞ」
当然の事ながら、身に覚えのない男は反論した。しかし、場の雰囲気は男に圧倒的に不利だった。泣きそうな顔をして震えながらも相手の腕を掴んでいるいたいけな女子高生と草臥れた紺のスーツにユルユルのネクタイを締めた中年のサラリーマンでは10:0くらいで負けが見えていた。
「往生際が悪いぞ。さあ!」
すぐそばにいた大柄な詰襟の男子高校生が中年サラリーマンの肩を掴んだ。電車はちょうどホームに滑り込んだところで、彼らの目の前のドアが開いた。サラリーマンは男子高校生に押し出されて電車を降り、何事かという顔でこちらを見ている駅員の方に歩かされた。その後ろから涙を拭いながら女子高生がついて行く。男子高校生は周囲の人々の賞賛を浴び、照れながらお辞儀をしていた。その間、中年サラリーマンは俯いたままだった。
三人は事情を聞いた駅員に先導されて、事務室に案内された。男子高校生は警官が来るまでの間、中年サラリーマンを押さえつけるように椅子に座らせ、睨み続けた。サラリーマンは男子の視線に怯えたのか、終始無言で、目を伏せたままでいた。女子高生はサラリーマンを視界に入れるのも嫌なのか、二人に背を向け、駅員の一人が出て行ったドアを見つめている。
「かけてください」
もう一人の駅員が彼女に声をかけた。しかし、彼女は頭を振って座ろうとしない。駅員は小さく溜息を吐き、中年サラリーマンと男子高校生の方に視線を向けた。彼は年齢的にサラリーマンに近いので、少しだけ同情していた。
(長くこの仕事をしていると冤罪もたくさんあるのを知る。この人もそうかも知れないな)
そう思う根拠は何もない。直感的にそう思っただけである。
やがて警官が二人来て、事情聴取が始まった。女子高生と男子高校生の話を聞き、その後でサラリーマンの話を聞いた。双方の言い分は完全に食い違い、警官二人もサラリーマンを犯人と断定できないでいた。只、時間だけが経過していく。
「あの」
しばらくして、サラリーマンが口を開いた。警官が調書からふと顔を上げ、パーテンションの向こうにいた女子高生がビクッとし、男子高校生が鋭い目つきでサラリーマンを睨んだ。
「もういいです。私がやりました。示談にしてもらえないでしょうか?」
サラリーマンは腑抜けた顔で警官に告げた。警官二人は思わず顔を見合わせた。
こうして、長期戦になると思われた事件は、サラリーマンの「自白」で事件にしない方向に進み出した。彼が提示した示談金で女子高生は承諾し、サラリーマンが現金で渡した。そして、互いに事件にしない事、他言はしない事を書いた文書を取り交わし、駅員の二人が証人として署名し、痴漢騒ぎは決着した。
(世間体を恐れたのか)
駅員の一人は、ホッとした表情で事務室を出て行くサラリーマンを見て思った。
だが、事件は終わっていなかった。
「な、言ったろ? ちょろいんだよ、あの手のオヤジはさ」
人気のない路地裏で男子高校生がニヤニヤしながら言った。
「でも、もう私、こんな事するの嫌だよ」
女子高生は悲しそうな顔で言い返す。二人は友人ではないが、同じ電車でたびたび顔を合わせている顔見知りだった。
「平気さ。あのオヤジ、ミカのケツをずっと見てたんだぜ。もう少しで触るつもりだったんだ。だから示談にしてくれって言ったんだよ。またやろうぜ、小遣い稼ぎ」
男子高校生はミカと呼んだ女子高生の肩を抱いて耳元で言う。
「それに協力しないって言うのなら、ミカが駅前のスーパーで万引きしてるのを喋っちゃうぜ」
その言葉は呪文のようにミカの耳の飛び込み、彼女の身体をたちどころに硬直させた。
「どうする、ミカ?」
男子高校生は息がかかるほどミカに顔を近づけた。ところがミカは顔を背けて、
「言いたければ言えばいいじゃない! そしたら、貴方の事だって全部話すから!」
ありったけの声で反論した。その途端に男子高校生の顔つきが変わった。
「てめえ、こっちが下手に出てればいい気になりやがって! ぶち殺すぞ!」
彼はミカの襟首を掴むと捩じ上げた。体重差があるので、彼女の身体は地面から浮いてしまった。
「く、苦しい……」
ミカの顔が赤くなり、血管が浮き上がった。それでも男子高校生は彼女の襟首を持ち上げたままである。
「そういう事だったのか」
背後で突然声がしたので、男子高校生はビクッとしてミカを放し、振り向いた。するとそこには先程のサラリーマンが立っていた。
「てめえ、つけて来たのか!?」
電車の中での正義感溢れる行動をとった時と同一人物とは思えないほど、彼の顔は醜かった。
「私にはわかるんだよ、君の考えている事が。だから示談にした。そうしないと、その子が痛い目に遭いそうだと思ったのさ」
中年サラリーマンは無表情な顔で言った。男子高校生はニヤリとして、
「訳のわからねえ事を言ってるんじゃねえよ、ヘボオヤジ! てめえもぶち殺してやろうか!?」
そう言うとサラリーマンに突進した。その場にへたり込んでいたミカがハッとして顔を上げた。
「逃げて!」
ミカは男子高校生の裏の顔をよく知っている。彼は殺しこそしていないが、自分の邪魔をする者はとことん叩きのめす性分なのだ。
「やめてくれ。これ以上君を恨ませないでくれ」
サラリーマンは奇妙な事を呟いた。
「バカか、てめえは!」
男子高校生の右ストレートが一閃し、サラリーマンの身体が宙を舞ってその向こうにあったポリバケツの一つに落ちた。ポリバケツは破損し、中の生ゴミが散乱した。その上に倒れたサラリーマンは腐臭のする生ゴミ塗れになってしまった。
「俺の秘密を知った以上、このくらいではすませねえ。野垂れ死んでもらおうか」
男子高校生はサラリーマンに歩み寄り、彼の足を力任せに踏みつけた。
「ぐあっ!」
鈍い音がした。右の足首の骨が折れたのだ。苦痛に顔を歪めるサラリーマンをふてぶてしい顔で見下ろし、
「それ、もういっちょ!」
男子高校生は狂喜して左の足も踏みつけた。
「ぐお!」
サラリーマンがまた呻いた。男子高校生は満足そうに笑うと、次にミカを見た。ミカは彼の視線に狂喜を感じ、震え出した。
「お前もここで死にな、ミカ。協力しない奴はもういらないからさ」
男子高校生はゲラゲラ笑いながらミカに近づく。ミカは恐怖のあまり、叫ぶ事もできなくなっていた。
「タイムアウトだ」
サラリーマンの声がした。
「何?」
男子高校生が目を見開いて彼を見た。
「すまないが、君はもう死ぬ。言ったはずだよ、これ以上恨ませないでくれと」
サラリーマンは悲しそうな目で男子高校生を見上げていた。
「ふざけるな! 死ぬのはてめえだ……」
彼はサラリーマンに向かっているはずなのに何故かその視界にミカが見えて来たのでギョッとした。自分を見ているミカは、絶叫していた。
「な、何がどうして……」
彼の首は百八十度回転して後ろを向いていた。まだ叫び続けるミカの顔が視界から外れ、またサラリーマンが見えて来た。
「ぐげ……」
男子高校生の頭は一回転して首から捻じ切れ、ゴロンと地面に落ちた。まるで松ぼっくりのように。続けて頭部を失った首から血が噴き出し、胴体が前のめりにドスンと倒れた。
「私の忠告を聞かないからだよ。愚かな男だ」
サラリーマンは上半身を起こすと折れた足首をいとも簡単にクイと捻って直し、立ち上がった。
「あ、あ、あ……」
ミカは次は自分だと思った。そう思った時、下半身が温かくなり、太腿の内側を何かが流れ落ちていくのを感じた。
「安心しなさい。私は君を恨んではいない。だが、もう二度とこんな事はしてはいけないよ」
サラリーマンは悪戯をした子供を諭すような笑顔で告げると、踵を返して路地から立ち去ってしまった。
そして深夜、首を切断された男子高校生の遺体が発見された。切断した凶器は不明のままである。