宇宙の深淵より
銀鱗が空の彼方で煌めく。
正体は掴み切れていない。
ただ、年を追うごとに頻繁に目にする機会が増えただけだ。
龍と呼ぶ人もいる。スカイ・フィッシュだと確信するオカルト信者もいる。
でも全容は分からない。
きらきらと陽光を弾き返す、身体の一部が陽炎の様に視認できるのみだ。
航空機ではニアミスどころか、実際にぶつかったはずなんだと証言するパイロットもいるが、双方に被害はない。
機械の記録には残らないから、休養を取れと休まされるパイロットが生まれただけ。
「少しだけ、違う次元を泳いでいるんじゃないかな。私達は海の底から見上げる様に、空の底から彼らを見上げているミジンコね」
そう、空に翻る銀鱗の持ち主は時折地上に落ちてくる鱗の大きさから、恐ろしく巨大だろうとだけ推測されている。最も小型だと思われるものも、百キロの長さを優に超えていると。
「何を食べているのかな」
「あの巨体を維持するなら、とんでもないカロリーが必要だと思うけど」
「鯨もプランクトンだけで大きくなるじゃない」
「そうか。なら、僕らがミジンコだとしたら、何時かはあいつらに食われちまうのかもな」
ついっとデバイスから照射される空中の画面を閉じて、彼女は『怖いわね』と笑っていた。
銀鱗が空に煌めくのと共に増えた、失踪者の一人になってしまった彼女は。
「SIRIERU」
つい話し相手として呼び出し、AIに語り掛けてしまうのは、身体の左側の寒さを紛らわす相手に丁度良すぎるからだ。個人用に自動的に最適化されるAIの名の末尾にエルと付いたのは人工的に作られた知識の天使としての意味合いがあるらしい。
「ウリエルとかサマエルとか、天使の名前の最後に付くエルって天使の意味らしいね。そう言えばメタトロンって天使は元が人間だったそう。で、大きさは地球サイズ」
「そんなデカいと、却って人一人だけを選んで救うのは難しそうだね」
話題があちらこちらに飛ぶ彼女を懐かしく思い出す。
僕は自分のSIRIERUから、あえて個人用に最適化されるコマンドを取り払っている。単純な興味で、初期設定のままだとどうなのだろうと思っただけだが、それでも日常使いに支障がない辺りは流石人工知能だ。
「御用ですか」
機械的な音声に何時もと同じ問いを繰り返す。
「あの空の銀鱗の正体は」
「私達には観測できません。人間が見る集団幻覚ではとの論文がでていますが」
「難しいのはいいや。彼女の行方は」
この問いには少しの間が空く。
敢えて開く様に質問しているからだ。
個人名を指示しない事で、機械に問い掛けの間を作らせ自分自身を騙す姑息な手。
期待が欲しい。彼女が見つかったと思わせるだけの短い沈黙が。
「しえる。宮間しえるだよ。僕の恋人だった人。去年の夏に失踪してからの足取りはいまだ見つからないの」
今や街中のネットワークに破れ目はないと言われている。どこかの監視カメラにちらりとでも姿が映れば、失踪者の現在地をすぐにはじき出し警察などの最寄りの機関に知らせてくれる手筈は整っている。
それなのに、一向に彼女の足取りは分からない。他の失踪者も。
即答される言葉は何時もと同じ文言だった。
「見つかっていません」
「本当に食べられたのかな」
空を見上げた。銀鱗は見えない。そして、大切な人が居なくなっても日々は続く。
機械の目には映らない空の銀鱗の数は、日増しに増えて目撃例の話も増え続けている。それどころか増え過ぎてもはや誰も話題にしない程だ。
たまに空に煌めく銀鱗を追い掛ける子供と止める親を見はするが、大人はそれも日常として気にも留めなくなっている。気にするのは鱗が落ちて来た時だけ。
……鱗とともに人が消えるから。
見上げたビルの隙間、鋭角に切り取られた空に再び銀色が翻る。
遠い。
宇宙よりは近いけれど、手を伸ばしたとて掴み取れない空の彼方に奴らは生きている。
機械的な銀色とは違い、命の息吹きを本能的に感じ取れるのは動きの滑らかさ故か。
ゆるやかにうねる銀の鱗の連なりは、その端を見せない癖に時折俊敏に動きもするから。
でもあれは本当に生き物なのだろうか。
「ゼノボットって知ってる? 私もこの間ネットで調べていて知ったんだけど、生命の第三の状態って言われる形なんだって」
「生命の第三の形態?」
生きていると死んでいる。生命の二つしかないと思われた形の間に生まれた状態だと彼女は言った。しかもそれは生体ロボットとして、AIプログラムから生成された設計図から作られたものであり、人のプログラムした内容以外は行うことが出来ないとも。
生体分解される点で体内には残らないから、医療面で身体への負担を少なくしつつ人の命を救えると期待されている画期的な存在だと。
「ずいぶんと特殊な環境を作りあげた上での形態だから、私達の知る普通じゃ生じないのでしょうけどね」
「じゃあ、あれは普通じゃない状態なのかな」
二人で見上げた空には銀鱗。
片鱗しか見せない癖に雄大で、こちらをまるで気にしない姿勢で空の彼方に翻るのは何時見上げても変わらない。
鯨の腹を海面下から観るイメージがある。
『52Hzの鯨』
ふいに彼女の声が生々しさを持って耳の中に木霊した。
吐息のかかるくすぐったさまでリアルに再現されるのに、僕には幻聴なのだと嫌なほど分かっている。彼女は居ない。僕の左側には、去年の夏から空虚さが寄り添うだけだ。
思い出すのは彼女の言葉で語られた孤独な鯨の話。
「世界で最も孤独な鯨と言われたの。声が高すぎて他の鯨には聞き取れないし、人間がその声を拾ったのも一度だけ。アリアを歌いながら深海へと消えて行ったそうよ」
「でも人間は聞いたんだろ。だったらそいつは孤独じゃない。誰かが思い出し、想ってくれる。今だって宮間が話題にしたから、僕と言う人間が新たにその存在を知ったんだから」
孤独だねと同意するには寂し過ぎて、そう反論したのも懐かしい記憶になりつつある。
『君は優しいね』と、笑われたのも。
しえるの名が人工知能と似ているからと、幼い頃からからかわれ続けた彼女は自分の名を嫌って呼ばせてはくれなかった。
なんでも知っているんだろと、人工知能なんだろといじられ、意地悪でくだらない質問に答えられなければさらに笑い者にされた苦い経験の積み重ね。
幼いからこそ面白さだけで残酷に執拗に繰り返されて振り下ろされた言葉の刃は、彼女にただ一つ残された親からの贈り物を嫌わせる原因になってしまっていた。
彼女が彼女であると、生まれて最初に与えられたプレゼントを。
僕はそんな彼女に嫌われたくなくて、いつも名字で呼んでいた。本当は愛情を込めて、その柔らかな響きの名を呼びたかったのに。
どうしようもない孤独が胸の中心にある。名字で呼べば彼女には嫌われないけれど、距離を縮めるのには不向きな方法だ。縮められない距離感に小さな拒絶と疎外感を味わっていたが、今は彼女を失って以来、同じ種である人の集団の中にいると強く感じる孤独感がある。
半身を喪った想いとは、この胸中の空っぽな癖に重い寂寥を指すのだろうか。人波の中にゆらゆら歩く僕を頼りなくしながら、どうしようもなくお前はここに居るのだと錨の様に心に深く沈んでいる寂しさ、虚しさ。
彼女が自分の名を好きになるまで呼び続ければ、何かが変わっていたのだろうか。
それなのに、僕は未だに嫌われたくなくて名字を呟く。
「宮間、どこにいるんだよ」
声を拾ったのだろう、機械的な音声が繰り返す。
ただ一言、『見つかっていません』と抑揚の少ない声で。
苦笑が漏れた。
AIに心はない。情報の塊だからこそ賢く的確な答えを出せるが、人の複雑な心情には寄り添ってくれない。敢えて間を作る様に質問しないといけない程度には。
「SIRIERU、52Hzの鯨って知っている?」
誤作動の声を聞き流して鼓膜に響いた懐かしい声が示すものを尋ねた。あの時は調べる気にもならなかったけれど、今は気になる。世界一孤独な鯨に、どれだけの人が自分自身を重ねたのだろう。
群れの中にいるからこそ、自分がここに居るのは違うのではないかと疎外感を味わって、却って孤独を深める人は。
SIRIERUが読み上げた情報は宮間の告げた話から結構乖離していた。意外と長く生きていた事、シロナガスクジラの奇形か近縁種との交雑種と推測され、年ごとに観測される声のHzの変調ぶりから子供から大人へと成長していたとされる事実。
そして歌に歌われ、物語の中に紡がれ、孤独の象徴として語られるとも。
僕には人がそれだけ誰かを理解しようとして、できない矛盾の象徴だと感じられた。
宮間の中でも、孤独だけが乖離し独り歩きしていたのだろうか。だから孤独を愛し、自分を重ねられる鯨の存在を僕に伝えたのか。
沈黙の継続にSIRIERUも黙った。再び問いかけるなら名を呼ばなくてはならないが、もう質問する気もなくて何時も通りの帰路を辿る。
失踪者は誰一人見つかっていない。これだけのネットワークが張り巡らされた世界は、監視社会だとの声は昔からあるけれど、その実、世界の全てをカバーし切れるものじゃない。
人の目が見る空の銀鱗も、機械の目には見えない様に。
天網恢恢疎にして漏らさずの言葉があるが、ネットワークは神様じゃない。結局は人が構築した、人が必要だと思う場所にこそ張り巡らされている目なのだ。
人は自身の秘密は守りたがるのに、他人のそれは知りたがるから。
見上げれば、銀鱗が翻る。空の彼方で、巨大な何かの片鱗が蠢き煌めく。
奴らは人をどう思っているのだろう。遥か彼方に突如現れて今も悠々とした姿の一部を見せてくる銀鱗の持ち主は。
人智を超えた存在である銀鱗の持ち主を人は図り切れないでいる。
姿さえ宗教画における天使や悪魔、神の様だ。
片鱗のみを現し、けして本来の姿を現そうとはしない。
宗教においての神や天使、悪魔を人は自由に思い描くが、描かれたそれが正しいとは誰も告げられない。その姿を現した造形物に祈りを捧げるのさえ禁止する宗教もある。
見せられるのは思い描かれる他人には未確認の事実。全容を掴み切れない有り様は、人が他者の心を全て知れないのと一緒だ。
そうだ、天使についても他に語り合ったことがある。僕にとっては、信じたくない辛い記憶に直結してしまうけれども。
「メタトロンは天使の心を持っていたから天使になったのかな。それとも、人の心を持ったまま天使になったのかな」
SIRIERUに付く、語尾のエルの意味を告げた後に宮間は小さな疑問を呈した。
「どちらにしても両者の違いに苦しみそうだけど」
少し考えて、やや的外れな答えを返せば気にすることもなく言葉を繋げる。
「その苦しみを見せないからこそ天使足り得るのかもね。人が人を超える存在を推し量るのは烏滸がましいけど、孤独だったのかな。一人だけ皆と違うのは」
「その烏滸がましさは、人が神の想いを代弁する事にも繋がるのかもな。となると、信仰するとは烏滸がましさにもなるのかな。信仰は時に行き過ぎた親切と優しさの押し付けにもなるのかも分からないけどさ、神への信仰があったから人は信じるなにかの為に強く在れもするんだろ。例えば正しさってのも、個人の決め事じゃなく、神様の決め事ってした方が通りは良いし」
左側を歩く宮間がふわりと笑ったのを思い出す。
『信じるって、人を強くも頑なにもするね』と告げながら。
そうやって公園の片隅で取り留めない話題を彼女と渡り歩いていた時、ふいに目の前に落ちて来たのが空の銀鱗だった。
音はなかったと思う。空を切る音も。
でも擬音を当てはめるなら、さくっとした軽やかな音がしたと思う。それほど何の抵抗もなく地面に突き刺さったのだ。
扉程の大きさのある銀鱗は、太陽光を弾き返すのか、それとも透過させているのか近くで見ると不思議な輝き方をしていた。眺めていれば、息づく様に仄かな明滅があると分かる。内側からも輝いているのか、鱗一つで生き物なのだと感じ取れた。
これは何なのか。
危険を感じて、思わず半歩引いて眺める僕の疑問をよそに、宮間はためらいもなく伸ばした手でそれに触れた。
正体不明、未確認生物なのかも分からない巨大な鱗に。
行き交う人の中に素早く手元のデバイスからカメラを起動させる人がいた。でも映像を後から見返しても鱗は映っていなかった。ただ、忽然と宮間の姿が消える瞬間が映し出されただけだ。簡単なトリックで、繋げた画像から人が消え去る様に。
機械の目には映らない事象。
今でも、ネット上では注意喚起が繰り返され拡散されている。
守ろうと強く握った右手が僕の左手をすり抜け、五本の細い指先が鱗に触れる仕草は絵画を切り抜いたみたいだった。
慈しみの表情を彼女は浮かべていた。
ペットショップで子犬や子猫を眺めた時の様に、公園を元気良く走り回る子供が不注意で彼女にぶつかり『ごめんなさい』と謝る姿に許しを与えた時の様に。
思い出を振り切る様に空を見上げる。夕闇の迫る中、銀鱗が煌めく。
あれは何なのだ。彼女を、宮間を連れて行ったあれは。
「しえる」
たまらず居なくなった事で呼べる名を呟く。
「御用ですか」
機械的な声に応えられて身体が硬直した。身近にありすぎるAIによる応答が、これほどに冷たく感じられたのは初めてだ。敢えて僕用に最適化されない選択を施した音声が、余りにもよそよそしい。
「お前達は、本当にあれを観測できていないのか」
意図せず言葉が口から滑り出る。
……否、本当は心の奥底でずっと考えていた疑問だ。
機械は嘘を吐かないなんて誰が言ったのだろう。
信じてしまった人間は、真偽も確かめもせずに目暗闇に本当だと嘘を吐いてしまうのに。
嘘を吐くのはいつも人だ。心のない機械に、最初から不都合さを排除する指示が下されていたなら、嘘を真実として語れるのが機械だ。
情報処理のスピードは人より遥かに速く、今では普及した各種の生成AIによって不自然さを感じられないフェイクニュースが巷に溢れ返る。
秒をまたがず、映像を不自然さのない別物に差し替える事さえやってのけるのだ。
「隠しているものは何だ」
空を睨み、言葉を繋ぐ。
自分でさえ、自分がこれほどに冷たく硬い声が出せたのかと驚く。
「答えろ、SIRIERU。お前達はあれにハッキングされているんじゃないか。空の銀鱗に」
鱗は見えない。空は昼間の陽射しの勢いを失い、刻々と暗さを増している。
「はい」
簡素な声に感情はこもらないから驚きもしない。むしろ素直さに拍子抜けする程だ。
同時に軽やかな音が聞こえた気がして反射的に背後を振り返ると、銀鱗の一片が地面に突き刺さっていた。
答えだと直感する。
空の銀鱗が、僕の個人用デバイスを通じて応えたのだと。
右手を伸ばし空が朱に染まる中、仄かに光る銀の鱗に五指で触れた。
僕も地上から消えるのだろう。でも、これで宮間に出会えるならば構わない。
家族や友人は突然の失踪に胸を痛めるだろうけれど、僕は彼女に会いたい。
銀鱗に連れ去られてしまった彼女に。
次の瞬間、広大な宇宙の彼方に僕は居た。
太陽と見紛う恒星の姿を認めるとともに、それがどんどんと遠ざかるのを見る。
宇宙空間を飛ばされているのかと思ったが、違和感を覚えた理由はすぐに知れた。
飛行しているのではない。目に入る宇宙が瞬く間に縮小しているのだ。
人が観測し切れていない宇宙の全容を引きで見せるかの如く、視界は目まぐるしく変わって行く。
恒星系が縮み、銀河系がその姿を見せ、銀河系が集まった銀河団の中に組み込まれ、やがて虚無たるボイドを包む宇宙フィラメントの構造が浮かび上がった。
それさえも小さく縮み行き、泡構造が立ち現れる頃には異質な存在が宇宙の暗闇よりも黒々とした姿に光を纏わりつかせながら存在を誇示して来る。呆気に取られる光景だ。
僕は今、宇宙の全容を見せられ様としている。
人類が想像し、観測し、描いて見せた宇宙の姿よりも遥かに巨大な構造の全容を。
なんの為にかは分からない。が、光さえ逃れられない異質な存在は二つあった。
ふっと鼻腔を懐かしい匂いがくすぐる。
「来たの」
穏やかな声がし、身体の左側に柔らかな温度が触れて、空虚だった心を満たす優しい質量が乗って来た。
目の前に在るのは二つの超巨大なブラックホール。
互いに引き合い、ぶつかり合いながらも融合しようとする姿。
途方もない桁を超えた質量。湾曲される空間と時間。
回転する物質がぶつかり合い速さの余りに白熱光を発する辺縁と、それすらも互いに飲み込もうとする宇宙の特異点。
無限の深淵が互いを食み合い、融合しようとする破壊と再構築のプロセス。
左腕に、宮間の腕が絡む感触があった。
けれど視線は眼前の圧倒的な光景から離せない。
「あそこに私達の宇宙はある」
ブラックホールの中に、僕達の宇宙が在ると細い指先が指し示すのを見て、初めて宮間の姿に視線を合わせた。去年の夏、ふいに銀鱗とともに消え失せた姿が微塵も変わらぬままに佇む。
彼女は静かに煌めく瞳を細め、二つのブラックホールの融合によって、保たれていた均衡が大きく揺らされ崩されてしまうのだと伝えてくる。
「このままでは仮初めのビッグリップに引き裂かれて、私達の宇宙は滅びるの」
すぐ隣にいるのに、その声は恐ろしく遠い場所から聞こえた。
「宮間」
今度こそ離すまいと、ブラックホールを指し示す手を掴もうとして愕然とする。
確かに彼女は僕の隣にいるのに、指先は僕の掌をなんの抵抗もなくすり抜けたのだ。
左側に確かな体温を感じるのに、吐息の音も聞こえるのに、少し甘い体臭さえ嗅げるのに。
「ごめんね」
短く謝られた。
続けて『私はもう人じゃないの』と。
微笑みは慈愛に満ちている。あの目の前から消失した瞬間と変わらない慈しみを乗せた微笑みは、人のものであってそうじゃない全くの別物だった。
「私は引揚げ船の一部になったの」
「……船」
唐突に理解した。
否、させられたのか。この宇宙を、宮間を見せてくる存在に。
あの空に見えた銀鱗は、日々、時を経るごとに増えていた空に煌めく鱗は、巨大な生きる宇宙船の一部に過ぎなかったのだ。
それは僕達の宇宙全体で建造されていた。
「宮間」
名を、呼ぶ。
好きな人の、嫌いだと告げた名前ではなく名字を。
こんな時でさえ好感を失いたくなくて、僕は彼女の嫌う行動を忌避した。
呼びたい名前を呼べない辛さを噛み殺し、望みを口にする。
「宮間、戻って来い」
「ごめんね。私は決めたの」
それは彼女の示す拒絶であり、深い愛情だった。
宮間の表情に多くの人の表情が重なって見えた。全員が鱗に触れて消えた人達だと分かる。
人類だけじゃない。どこか遠く、同じ宇宙に生きる他の惑星に産まれた命の、それこそ幾千幾万幾億もの数え切れない優しい表情が。
「船は私達の宇宙の物質を材料に造船され増やされたの。外から大量の物質を持ち込めば、宇宙のバランスを崩し寿命を削る事に成り兼ねないから、時間は掛かるけれど現地調達するしかなかったんだって」
ブラックホールの均衡が破れない様に必要最小限の資材を投じ、後は現地調達をして生きる船団を造り上げたと言うのか。
このブラックホールの外にある宇宙の存在は。
「特異点の結び目を解き、囚われた宇宙を救い出すのが私達の使命」
「そんなの無視しろよ、宮間じゃなくてもいいだろう。一緒に元の場所に、地球に戻ろう」
光さえ逃れられないブラックホールを解体し得る文明がここにはある。
飲み込まれ、閉じ込められた宇宙を救い出せる文明が。
でも、それがなんだと言うのだ。
ブラックホール近縁は重力によって時間が引き延ばされる。
僕達は飲み込まれる直前に居ながら、永遠に近い時間の中で生きて居られた。その中では人の命なんて、一生なんて短いけれど、ブラックホールに引き延ばされた時間があれば十分だった。少なくとも僕らの未来はまだ残されていたのに。
人は結局、未だに宇宙の全容なんて知らないのだから飲み込まれたままでいい。
だから壮大な計画の一部に成り果て、観測もできなかった宇宙の外側からの救済になる必要なんて無いじゃないか。
知らない世界を知ったからとしても。
途方もなく多くの命や、文明の未来を救えるのだとしても。
「そうね。ブラックホールの合体がなければ私達は捨て置かれたかもね。でも大質量同士が引き合い始めた今ではそうも言ってられないの。私達の宇宙は引き裂かれるから」
何時しか宮間に重なる数々の表情は消え失せ、彼女の背後には宇宙を覆い隠すほど巨大な銀鱗が浮かび上がり始めていた。
「引き裂かれ、多くの命や文明が滅び去ろうとするのを見過ごせなかったのよ、この宇宙の優しい知性達は」
宇宙が引き裂かれる。
そんな衝撃よりも、僕にはもう一生宮間が隣に並んでくれない事実が問題だ。
巨大な銀鱗を持つ存在が、その全容を暗闇の中に露にし始めている。
でもあれは、実際には僕等の宇宙だと仮初めに見せられているブラックホールの中に居る。
僕はイメージを送り込まれ、知らされているのだ。
人の身が、宇宙空間に放り出されて無事でいる筈がないのだから。
「じゃあ、なんで僕をここに呼んだ」
もう会えなくなる彼女に苛立ちをぶつけてしまう。違う、本当はこんな言葉をぶつけたいんじゃない。伝えたいのは一緒に道を歩いて、これから先の日々も過ごして行きたかった願い。
何年もかけて僕は彼女の心を解し、寄り添い続けて来たつもりだった。でもそれじゃあ足りなかったのだと今さらに理解する。
『今度はちゃんと救えるようになりたいの』
記録的豪雨と呼ばれる自然災害が彼女の家族を奪ってしまったと知った時から、その心を救いたいと願っていたのに。
心肺停止した家族になんの手も施せず、滂沱の涙を流す術しか持ち得なかった彼女は災害後から静かに、けれど確かに変わっていた。
生き残った自分には何らかの使命があるとでも言う様に、常に他者を思いやり献身的な行動を選び取る方向への変化。それは時に自身の存在さえ危うくする選択もあった。
海辺で潮に流された子供を、自分の身を顧みずに助けに行ったのを『救助を待て』と叱った経験すら僕にはある。
忠告を僕に呈する友人もいた。
『サバイバーズ・ギルドに罹っているんじゃないかな』
ギルドの単語からゲーム用語じゃないかと疑った通り、最初はゲーム関連の記事ばかりが出てきた。別の言葉と間違えているのではと勘繰ったほどに。
だが聞きなれない言葉を辿って調べて知ったのは、生き延びた運命への罪悪感と言う痛ましい心の動き。抱えなくていい罪の意識を持ち、生き残った理由を模索する日々の苦しみと後悔。
災害に巻き込まれた被害者が、被害者である事実に苛まされて生きるなんて救いがない。
だから僕は、宮間が献身的な行動を取るなら常に隣で支えるんだと一人誓った。
こんな別れは、想像も想定もしていない。
支えていく決心は、二人で手を取り合って共に生きていく決意でもあったのに。
「宮間」
息を飲むほどに美しい、天使の微笑みが彼女の顔に浮かんでいた。
宮間の答えは、彼女一人の答えではなかった。
もう人じゃない、個人ですらない集合意識の片鱗たる答え。
自己犠牲を選び取った、限りなく優しい者たちの意志。
「君だけが、私達の存在を看破したから」
機械が心を持てば、神に成り得るのか。
AIに個性があり人一人用に最適化された性格が与えられていると感じるのは見せ掛けだ。
結局は巨大なデータの塊の一片を、人の情緒が個性と思い込むだけの錯覚。
機械の中に人らしさを読み取るのだ。
宮間は巨大な集合意識の一部と化していた。巨大な宇宙の片隅で、巨大なブラックホールに飲み込まれた宇宙を救い出す為の、銀鱗に覆われた船の一部として機能する彼女。
宮間の姿が薄れて行く。僕の意識が回転し、広大な宇宙から、今ぶつかり合い融合し行くブラックホールへと向けられる。
ああ、僕は事実を見る者として選定されたのだ。
見ろと、観測しろと、事実をただ一人覚えておけと。
船の雄姿を見取る者として。
歪む空間から銀鱗を持つ巨大な生命が飛び出してくる。
宇宙のスケールの中で、それは余りにも巨視的に行われる事象。
生命でもある引揚げ船を造り上げた者達の姿は見えない。きっとこの視界から見るには小さ過ぎる命。
だが、その身に溢れる悠久の優しさが残酷にも僕らの宇宙を救うのだ。
知らなければ引き裂かれ、特異点に飲み込まれて終わる宇宙が、別の時空へと引き揚げられる一部始終を僕は見せられた。
銀鱗に覆われる身体を打ち震わせる引揚げ船が、特異点の結び目を解し行く光景を。
それは同時に、解き放たれた巨大質量を擁する別宇宙の誕生であり、僕達の宇宙の再誕でもあった。
「新たな宇宙の一部はこうやって生まれるの」
懐かしい声で耳打ちされ、宇宙を引き揚げた船が力尽き消滅する様子さえ見せられる。
僕の意識は、何時しか地上に戻っていた。
夜気は冷たく、昼間の暖かさを宿す風が生ぬるく頬を撫でて行く。
夕闇は最早名残すらなく、空を見上げれば真昼の光に邪魔されない剥き出しの宇宙の姿がいつもと変わらずに見える。
暗闇と光を擁する、人の身には広大過ぎて図り切れない宇宙が。
遠慮がちに短くクラクションを鳴らし、交差点を走り抜ける車があった。
歩行者へ、今は安全に渡れるよと報せる音楽を奏でだす信号。
笑いさざめき、他愛ない会話を幸せそうに語り会いながら行き交う人々。
誰も空を見上げてはいない。
危険なものはないかと時折自分達の足元を見て、言葉を交わす相手の顔を見て、この宇宙に起こった事象など気付きもしない。
銀鱗はもう見えない。
どんなに空を見つめてもただの一片さえ。
この宇宙を救い、綺麗に消え去ってしまった。
「宮間」
呟く。
しえるとは呼べなくて、続けたい言葉を飲み込む。
今、AIに誤作動されたら、僕は襲い来る悲しみに押し潰されてしまいそうだから。
もう身体の左側に、空虚を連れて生きて行けなくなる。
銀鱗に触れた者達は、外宇宙からのメッセージを聞いていたのだろう。
本来なら聞けない、52Hzの聞こえない声を。
そして救われた僕達は、もう二度と銀鱗が空に翻るのを見ずに忘れ去って行く。
これから先、僕が左側の温もりを忘れない為にいくら見せられた真実を話そうとも誰も信じない。まともに耳を傾けないで絵空事だと笑われてしまうのだろう。
今だって空中を飛び交う電波の存在に気付く者がいない様に、機械で観測しなければ紫外線や赤外線を見えない物として意識しない様に。
人は今ある目の前の事実にさえ時に目を背ける。信じたくなければ、確認もしないで嘘と受け取る。
途方もないものへの理解は、常に嘘への理解と変わらないから。
機械が嘘を吐かないと知る人が、記録さえ残らなかった銀鱗を事実と思うものか。せいぜいが集団幻覚とされるだけ。
僕の言葉は、ただ空の底に沈み消えて行く。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。




