少し歪なデート回③
目的地の書店がある三宮センター街へは、地下鉄を降りた後、そのまま地下街を通ることで辿り着ける。
地上の凍えるような寒さを避けることができて非常に便利なのだが、皆同じことを考えているようで、地下街は予想以上に人でごった返していた。
俺も遠山さんも人にぶつからないよう必死でゆっくりと会話する余裕がなく、俺は自分からこのルートを提案してしまったことを後悔した。
大丈夫、と遠山さんは言ってくれたけれど、地下鉄に乗る前の一件といい、先ほどから彼女に迷惑をかけてばかりな気がする。
──地下鉄に、乗る前……。
地上に出るエスカレーターの手すりに体重を預けながら、俺は先刻の遠山さんの姿を思い出していた。
『それなら、なんで......?』
『......え?』
『なんで、あの時......』
……あれは結局、何を言おうとしていたのだろうか。
遠山さんのこわばった表情。
恨めしげでありながら、どこか縋るような面持ちのようにも映った。
だがどちらにせよその真意が分からなくて、俺の思考はざわめき始める。
彼女の言う「あの時」に、俺は何か、とんでもないことをやらかしてしまったのか?
……俺と彼女が疎遠になってしまったのは、その「何か」が原因なのか?
俺は彼女について、とても重要なことを見逃してしまっているのかも……。
「紺野くん、前」
「おっ……と」
……危なかった。
エスカレーターを登り切ったことに気づかず、前につんのめる所だった。
「大丈夫?一回休憩する?」
俺が疲れているように見えたのか、遠山さんは心配そうな表情でこちらを見つめた。
垂れ目がちの均整の取れた顔が近づいてきて、少しドキッとしてしまう。
「ごめん、大丈夫だから。遠山さんこそ、結構歩いたけど疲れてない?」
「ううん、大丈夫。休憩はもう少し後でいいかな」
「分かった、じゃあこのまま目的地まで行こうか」
(……いかんいかん)
これ以上、遠山さんに迷惑をかけてどうする。
あの時彼女が何を言おうとしたのかは分からないが、本人が言わないと判断したのであれば、こちらが色々と詮索するのは余計なお世話だろう。
──それに今回は、遠山さんが少しでも楽しめるようにする方が重要だ。
というのも、ここまでの彼女の言動を見ていて、確信したのだ。
彼女は今、とても不安定な状態にいる、と。
『……ドッチボールの時の私、全然外野にパスしなかったよね。……自分で相手を倒したいって躍起になって、結局失敗して、チームに迷惑かけちゃって……。ほんまバカやったなぁ、私。あはは』
地下鉄の駅についてからの会話で、彼女は小学校時代の自身のエピソードを、自虐交じりで話していた。
しかしその表情は決して晴れやかなものではなく、むしろ自分を責めているようで……。
こちらとしてはどんな言葉を返せばいいのか分からず困惑してしまう場面が、何度かあった。
なぜか今の遠山さんには、自分自身に対して嫌悪感を抱いている部分がある。
そのため俺は、彼女の表情をこれ以上曇らせることのないよう、上手く立ち回らなければならないと思った。
せめて今だけでも、彼女が心から楽しめるように。
俺はそんな小さな決意を胸に、遠山さんの方に向き直る。
気づけば目的地の書店は目の前にあった。
「どうする?何階から見る?」
ここの書店は建物の2階から5階の多重構造となっており、一フロアごとに別ジャンルの書籍が置かれている。そのため店内は一見は狭く見えるが、総面積としては県内で最大の書店なのだとか。
「うーん、なんも考えてなかったなぁ。とりあえず下から順番に見ていこ」
「分かった」
2階フロアへとやってくると、独特な書籍用紙のにおいが鼻をくすぐった。
フロアに所狭しと並ぶ本棚に、隙間なく敷き詰められた書籍たち。その一つ一つが鮮やかな色彩を放っているのを見ると、自然と気分が高揚していくのを感じる。
俺はこの、整然としているようで混沌とした「書店」という空間そのものが好きだ。
引き寄せられるように手近な本棚の前にやって来ると、そこは話題書コーナーだった。
文学賞の受賞作やその候補、アニメ・実写化された小説、世界の成功者のありがたい言葉が書かれたビジネス書など、雑多なジャンルの本が並ぶ。
「話題書コーナーって、私は普段見ぃひんなぁ」
「あれ、そうなの?」
「うん。みんなが好きなものが、自分の好きなものと重なるとは限らへんし」
……そう話す彼女の顔が一瞬、寂しげに映ったのは気のせいだろうか。
「そうかもしれないけど、意外と一つ二つは興味のある本が出てくるものだよ」
そう言いながら、俺はざっと本棚を見回してみる。そして、一冊の本を手に取った。
「……これとか、小学校の時に二人とも読んだ小説じゃない?」
「ほんまや、懐かしい。なんで今になって?」
小学校時代に流行った小説がなぜ話題書のコーナーにあるのか遠山さんは不思議に思ったようだったが、その後本の帯を見て「あぁ」、と納得したような声を上げる。
「『アニメ映画化!大人でも泣けるとSNSで話題!』かぁ。……思い出の作品が再注目されるのは嬉しいけど、ちょっと複雑やなぁ」
「……あっ、もしかして、『SNSで話題』の部分が引っかかる感じ?」
「そう、分かる?なんか軽薄な感じがするって言うか」
「うん。マンガやライト文芸はともかく、発言力のある人に評価されている方が信憑性あるよね。例えば、ベストセラー作家とか、評論家とか」
「そうそう」
大衆が評価しているのか、あるいは特定の個人が評価しているのかでこんなに印象が変わるのは不思議だが、この場合は、映画を観るであろうファミリー層を狙っての宣伝文句なのだろう。
実際この小説は冒険譚でありながら、「夢への熱い思いを持つ登場人物たちの人間ドラマ」としての側面も持ち合わせているため、子供向けながら幅広い年齢層にアプローチできる作品であるのは間違いない。
「……確かに今思えば、結構ストーリー重かった記憶あるわ」
「主人公めっちゃ挫折するんだよなぁ。だからこそ泣けるんだけど」
小説を手に取り裏側のあらすじを見ていると、当時読んでいた頃の感動が少しだけ蘇ってきて、思わず顔が綻ぶ。
「そういえば紺野くん、普段よくアニメ見るんだよね?これも見るの?」
「うーん、久しぶりに見るのもアリなんだけど……。この手のアニメ化は一つ懸念点があって……」
そう言いながら、帯の裏側の部分に視線を移す。……悪い予感が的中してしまった。
「誰だ、この人……」
アニメ版の声優の画像を見て、思わず落胆の声が漏れた。聞いたことがない名前の人だった。
若干化粧で顔を整えているのを見る感じ、恐らく……。
「この人、クラスの子が話してたかも。確か……『最近キテるアイドル』、なんやって」
「あー、そういう……」
……やっぱりそうか。
この手の、アニメ好き以外もターゲットにしたアニメ映画は若手のアイドルを声優として起用することが多いが、これも例外ではなかったらしい。
「いやね?もちろん上手い方もいらっしゃるんだけどね?その、どうしてもピンキリというか……元々の声のイメージと一致しない可能性が、かなり高いんだよね」
「なるほど……」
まぁ声優一筋の人でも、時々そうなるんだけど……。
「……じゃあ、今度一緒に見に行かへん?」
「……え?」
……完全に予想外の言葉が飛んできた。
俺と遠山さんが、一緒に映画を……?
「いや、あの、一緒に行くんやったら、もし声優さんの声がイメージと合わなくてもさ、『全然違うやん~』みたいな感じで笑い話にできるし。……一人でがっかりするより、そっちの方がいいかなって」
透き通るような色白の頬を少しだけ赤く染めながら、遠山さんは遠慮がちに答える。
やっぱ小学校の頃より垢ぬけたよなぁ、遠山さん…………って、そうじゃなくて。
「いや、その、もし友達とかと行くなら全然それでいいから!……ただの提案、やから」
急いでそう付け加える遠山さんの声が大きめだったこともあり、周囲の視線がこちらに向けられているのを感じる。
それと同時に、「断る訳ないよな?」という圧も周囲から感じる……ような。
……別に俺たち、そういう関係じゃないんだけど。
とはいえ、特に断る理由もなかった。
紫音と行くにしても、あいつの好みとはちょっと方向性が違う作品だから、ちょうどいい。
「いいの?」
「うん。話聞いてると、私も見てみたくなったし」
「なら、今度一緒に行こうか。公開日はもう少し先だけど」
「ほんまに!?ありがとう、楽しみ!」
──そう言って目を細める遠山さんの顔は、先ほどまでの引きつった笑顔とは違い、嘘偽りない喜びを表していて。
雨上がりの空のようなその笑顔に、俺はホッと胸を撫で下ろすのだった。
◇
その後しばらくは、以前メッセージでの会話で話題に出た遠山さんおすすめの小説について、色々と教えてもらった。
彼女は普段電子書籍で本を読んでいるらしく、本を貸すことが出来ないことを申し訳なさそうにしていた。
彼女の薦める本を読むには自分で購入する必要があったが、まあ、じっくり時間をかけて読みたい俺としては、さほど問題ではない。
とはいえ彼女のおすすめを全部購入するにはさすがに所持金が心許なかったので、今回はそのうちの二冊を買うことにした。
「まずこれは確定として、もう一冊はどうしよっかな。私が個人的に推したいのはこっちなんやけど、紺野くんの好みとかを加味したらこっちも捨てがたい……うーん」
「……そんなに悩むなら、別に俺、三、四冊買うけど?」
「それはさすがにダメ。これは私の自己満足みたいなものなんやから。……想定外の出費やと思うし、あとで飲み物奢らせてな?」
「別にそこまで気にしなくていいのに……」
「私が気にするの。あと、紺野くんのおすすめの、ラノベ?についても、後で教えてな。心ゆくまで布教してくれていいで」
「いや、それはちょっと……恥ずかしすぎるというか、遠山さんの好みに合わない可能性がだいぶ高いというか……」
「それでも大丈夫。私も紺野くんの好み、知りたいから」
「……え〜」
高校では本好きの友達がいないらしい遠山さん。
共通の趣味を持つ人と話せるのがよっぽど嬉しいのか、両の目を輝かせながら半ば強引に話を進めていく。
可愛い女の子が自分のことを知りたがっているというシチュエーション自体はグッとくるのだが、いかんせんトピックが最悪だ。
この後、一体俺はどんな顔で、声に出すのは恥ずかしいようなタイトルの数々を紹介すればいいのだろうか。
そしてテンション高めの遠山さんと共に、漫画やライトノベルのコーナーがある4階へとやって来た。
そのまま真っ直ぐライトノベルの棚へ行くと思いきや、遠山さんが足を止めたのは、子供向けの図鑑が並ぶ区画だった。
「あっ、これ……」
彼女の声につられて目を向けてみると、俺が昔読んでいたものと同じシリーズの図鑑が並んでいた。
懐かしいなぁ……。幼い頃、祖父母が誕生日プレゼントとして毎年違う種類のものを買ってくれて、何度も読み返したものだ。
「昔紺野くんが好きだった石の図鑑って、あるんかな」
「そういえば、そんなの読んでたね……」
かつて俺が特に好きだった、岩石と鉱石の図鑑。
長い年月をかけて綺麗な色や模様が産まれるその神秘的な美しさが好きで、長らくお気に入りだった。
「今はもう好きじゃないの?」
「好きじゃないって訳ではないけど……なんか、アレでしょ。石が好きな男子高校生って」
「……アレって?」
「え」
……てっきり「そうだよね」みたいな言葉を返されるかと思いきや、「よく分からない」という顔をされてしまった。
「ええ、分からない?…………その、変と言うか、ネタにされるじゃん?ニッチな趣味みたいなものだし」
「う~ん……?」
「それで、もしそういうニッチなものを趣味にしてたらさ。本人としては本気でそれが好きなのに、周りはそれを面白がって話のネタとして消化するばかりで、内心モヤモヤする…………みたいなこと、ありそうじゃない?」
「……実際に、そんなことがあったの?」
「いや、ないけど……SNSでそんな感じの話を見たことがあるんだよ。で、そこのコメント欄に『それくらい我慢しろ自己中』ってコメントがあったから、そういうものなのかな、と……」
理解されない趣味を語ったところで、面白がられて虚しくなるだけ。
それを知って以来、幼少期に読んでいた趣味の本は軒並み押し入れに突っ込んでしまった。
変に自己主張なんてせずとも、適当に周りの流れに合わせていれば、気楽にやれる。
別に俺、間違ったことは言ってないと思うのだけど……。
俺の言葉を聞いた遠山さんは、なぜかひどく寂しそうな表情を浮かべながら言葉を探しているようだったが……その後、意を決したように口を開いた。
「一つの側面だけ見て他人を判断する人の言葉なんて、聞く必要なくない?」
「……え?」
「私は、紺野くんが綺麗な石について楽しく話しているの、好きやったで?それに……紺野くんが教えてくれたから、分かるよ。石とか鉱物って、長い地球の歴史の中で産まれて、人類の歴史とも密接に繋がってる、すごく奥深いものだって。バカにされるようなくだらない趣味なんかじゃ、ないと思う」
「……。」
俺の家に遊びに来た遠山さんと、一緒に図鑑を見た日のことが、ふと思い浮かぶ。
……大して深い知識もないくせに、「石にはロマンがあるんだよ!」なんて、自慢げに話していた俺。
彼女が事あるごとに「へぇー!」とか「すごーい!」とか言ってくれるものだから、調子づいた俺は惜しげもなく自分の知識を披露したものだ。
すでに朧げになっていた記憶だったが、それをまさか、彼女が鮮明に覚えているとは……
「なんか……ちょっと寂しい。昔の紺野くんは、自分の好きなものを堂々と話していたのに」
……確かに昔は、自分の話をたくさんしていた。
特に遠山さんはいつも俺の話を熱心に聞いてくれたから。
けれど……。
『……もうたっくんのこと、知らへんもんっ』
『紺野。お前ちょっと、調子乗りすぎとちゃうか』
いつしか、だんだん、自分のことがよく分からなくなってしまった。
そして今となっては、本当の俺が好きなものが何かすらも、分からないでいる──
「ちょっと、来て!」
「うわっ!?」
突然俺の左手が、遠山さんの右手に捕らえられた。
そのまま、上りのエスカレーターの方角へと進む彼女に、グイグイと引っ張られる。
遠山さんは黙ったまま、エスカレーターに乗って上の階へと向かっていた。
俺の手も握られたままなのだが、彼女の有無を言わせないその雰囲気に気圧されて、言い出せない。
女の子らしいワインレッドの手袋越しに、彼女の体温が伝わってくる。
(え?なんで俺、女子と手繋いでるの?)
そんな馬鹿みたいな考えが浮かんでくるほど、俺の頭は混乱してしまっていた。
状況整理すらおぼつかないまま俺が連れてこられた場所は、専門書の並ぶ本棚だった。
「多分このへんに……あった」
彼女は本棚に向かってしばらく視線を彷徨わせた後、そこから一冊の本を引っ張り出す。
「これ、私が買ってあげる」
押し付けるように差し出された本を、反射的に受け取る。
そのA4サイズの本をよく見ると、『心きらめく鉱物の世界』と書いてある。
「え……なんで?」
「……ごめん、さっきのは言い過ぎやったわ。……けどやっぱり紺野くん、なんか我慢してるような気がして。飽きたらすぐ、捨ててもうてもええから」
……返事をするよりも前に、俺の手は本のページをパラパラとめくり始めていた。
(ああ、懐かしい……。)
ロードナイト、ラピスラズリ、ペリドット、琥珀……
かつて心惹かれた美麗な鉱物の数々が、詳細に説明されている。
(北海道産の、発光するオパール……そんなのもあるのか。……へぇ、クォーツって、『氷』が語源なんだ……)
当時は鉱物について浅い知識しか持っていなかったが、こうして新しい知識に触れていると、不思議と心が高鳴る。
それでいて、どこで失くしたか分からない忘れ物が見つかった時のような、そんな安堵感もあって。
……今まで体験したことのない感覚だった。
「紺野くんの言う通り、人の話に合わせるのも大事やけどさ。……自分の心を丸ごと犠牲にし続けるのって、やっぱり辛いと思う」
「……!」
「やからさ、私の前ではそんなに気にしなくて、ええよ……?いや、えっと……別に……もう石とかは好きやないんやったら、全然、それ以外でも……」
なぜか言葉を重ねるほどに、遠山さんの顔は赤らんでいき、話し方も自信のないものへと変わっていく。
「……遠山さん?」
「今私、めちゃくちゃ恥ずかしいこと言ってない……?」
「いや、そんなことは……」
「……ごめん!何様やねんって話よな?こんな説教みたいなこと言うつもり、なかったんやけど……!なんか紺野くんの顔見てたら、何かしなきゃって、思ってもうて……!」
「俺、どんな顔してたの……?」
「なんか、暗い気持ちを無理やり押しつけるような、そんな顔しとった……」
「マジか」
完全に無意識だった。
……でも、そうか。
彼女の言う通り……俺は自分の「好き」を、我慢していたのかもしれない。
「なら、お言葉に甘えて……この本、買ってもらおうかな」
その言葉に、遠山さんの表情が一気に華やいだ。
「ほんま!?読み終わったら感想、教えてな……!」
彼女はまだ少し朱色の残った頬のまま、温かな笑みを浮かべるのだった。