逆さまのはかり
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春。暖かい陽気に満ちて、足並み浮き立つ季節。新しい始まりとともに聞こえるのは、人々の弾んだ話し声だった。ざわざわとした騒音に負けないくらい、私の胸の内はたかぶっていく。
でも、なんだか悪い気はしない。髪の隙間を通り抜け、頬を撫でる柔らかな風。この心地よいなかで、いつもの並木道を越えては、はしゃぐ子どもたちとすれ違う。両脇にそびえ立つ電柱を点々と数えれば、その先に校舎が見えてくる。
そして、正門に着いた。まず、生徒の波をかいくぐり、足音の響く階段を登って、自分の教室に入る。教室の扉を開くと、私の目の前には、いつもと変わらない景色が広がるばかりだった。黒板に机に椅子に、同じセーラー姿のみんな。
今日の日直は私だが、当校はペア制で、もう一人の誰かと計二人で担当する仕組みになっている。なんでも、日直の仕事を分担できるよう配慮しているとのことだ。もう片方は誰だろうか。
さっそく、黒板の「日直」という項目に書かれた名前を確認する。白く濁った線で「赤城 陽」と記されており、確か「あかぎ よう」さんはクラスの目立たない部類に位置していたと覚えている。
うっすら顔を思い浮かべるも、途切れた面影では何も判断できない。私と同じく女の子だが、その風貌は明らかに地味だったのは印象強い。まぁ、日頃から騒いでいる派手な集団よりはマシだ。そういう人たちを忌み嫌ってはいない。ただ単に、それぞれの居場所が学内にもあるとすれば、その土地柄や特性が合わないだけだ。
自分の席に向かうと、少し息を整え、荷物を置く。しばらくプリントを整理することにしよう。ファイルから取り出す重なった紙は、どれもしわがれていた。
そして、顔を上げた時だった。目と鼻の先には赤城さんの顔があり、驚いて、思考と動きが静止する。考える間もなく、赤城さんは、
「おはよう。真木さんだよね。今日の日直よろしく。」
と話す。ご丁寧に「真木 ゆい」という私の名前も把握してくれている。なんだか、普段言葉を発しない赤城さんの意外な一面を見たようで、変な気分だ。
「うん。こちらこそ、よろしく。挨拶ありがとう。」
私もこう返すと、先生が教室に入ってきた。一気に生徒たちの波が引くと、それに紛れて赤城さんも戻っていく。気分を切り替えて前を向いた。
すると、チャイムが鳴り響く。あぁ、始まったな、と思う。みんな着席し、一旦静まったあと、新年のはじめから他愛もない挨拶を続ける先生に耳を傾ける。
その長い長い話を最後まで聞く気など起きない私は、俯く。どうせ、一生徒の真面目に聞いてない様子など、誰も気には留めない。下を向きながら、なだらかに照る、いかにも真新しい机の光沢を見つめる。それからは、時が止まったような感覚だった。
ふと、気づく。あれ?何も考えず、ぼーっとしたまま何分経っただろう。気分を切り替えるため、意識を戻そうとした、その瞬間。ちらっと淡いピンクの何かが私の視界に色を差す。
何だろう。よく見つめると、はためいていたのは桜の花びらのようだった。ぼんやりと遠のいていた意識が、次第にもっとくっきりする。この花びらは、ただ当てもなく風上を追ってきたのだ。
窓の方を向くと、大きな桜が一つ一つの花弁を散らせながら、舞う姿を見せていた。綺麗だけれど、それ以外に何の感情も浮かばず、ただ息をのんで見つめる。だが、次の瞬間、もう桜の景色のことも忘れ、明日って提出物あったかな?なんて考えに切り替わる。
しばらくは思い出そうとするが、その時のことはその場で友達に聞けばいいと思った。どうでもよくなり、前に向き直るが、それよりも重要な何かがある気がしてならない。少し、意識を集中させる。
あ、そうだ。この新学期が終われば私は高校を卒業するんだ。そんなことに目を覚ますと、あと何回の授業を受ければよいか、ようやく大学生になれるのか、など疑問が止まらない。
進学の戦いはまだこれからなのだと、のちの大変さを認識した途端、少し体が強ばって冷や汗をかく。
私のなかで何かの決意が固くなっていくと同時に、その分、心の荷も重たかった。
今期の受験に向けて、私はひたすら勉強してきのだ。これで無事に成果を発揮し、進路が決まれば、多忙な塾通いに親からの束縛も消えるだろう。苦しみからの開放に向けた、新たな道筋だ。失敗は許されない。
新年早々、私はこれからに対し、並々ならぬ思いでスタートを切っていた。
☆
今日の日直のペアである真木さんに挨拶をしたあと、席に着いてから時間が流れるのは早かった。真木さんに声をかけると、半ば驚いた顔をしていたが、悪い感じはしない子だ。
そんなことが頭のなかで反芻していると、教室の隅に飼われているメダカが目に映る。悠々と水中に佇んでいた。私は教室の窓際の席に位置しているため、隅にいるメダカのことはよく観察できるが、だいぶ成長して大きくなった気がした。
よく凝視すると、なんと草に卵も産んでおり、もうメダカも大人なのだと実感する。魚はこうして丸い形をした卵のなかから孵化する。人間とはだいぶ違うことは確かだが、生殖行為から始まり、細胞が結合して誕生する過程は一緒だ。
では、人の形を成すまで、私はいったいどんな姿であっただろうか。やはり、目に見えぬ魂や精神という類なのか。いかにして自分という存在がここにあるのか知りたい。
こんなことを授業中に考えている私はおそらく馬鹿げている。ちっぽけな脳みそを最大に稼働させたところで、苦手な数学の点数は一割にも満たないくせに。
もっとも今は物理の授業中だ。この間にも、よく分からない数字のことは次へと進んでいく。現時点でちっとも理解は追い付かない。この途方に暮れる感じがつまらなくて、物思いに更けているのだが。
あれこれ説明し、試行錯誤する先生のお話とやらは、虚しくも教室のかなたへ流れていく。きちんと聞けばテストもいい点とれるのだろうか。なんだか、それも違う。
どうしても、先生の手元にあるチョークの動きにしか目がいかず、つい関係ないところを見つめてしまう。チョークの端先は滑らかに黒板の平面をなぞり、線が寄ったり離れたりと交錯する。
私はこの動きこそ美しいと思う。だが、こんな戯言ほど、考えていても泡となって蒸発してしまう。
それよりも、もうすぐ時期が迫る大学受験のことに立ち向かわなければならない。けれど、どうにも集中できず、自分の内に引きこもっていた。
○
赤城さんと日直の仕事を終えると、私たちは一緒に帰ることになった。特に格段と仲良くなるでもないが、無言で二人でいた。
淡々と前をゆき、交錯する足元を見つめる。制服のスカートが歩みに合わせて揺れながら、革靴の足音が鳴り響く。ここまで何も話さないのも気まずいため、ひとまず進学先の話題を振る。
「赤城さんの受験する大学はどこ。私は桜坂大学を目指していて、夢中で勉強してる。」
「そっか、それなりに偏差値の高いところだよね。真木さんはとても努力しているんだね。尊敬する。私は国立の帝都大学。でも、少し無謀すぎるかなって。あまり勉強してないし。」
私は驚いた。私でさえ、血反吐を吐くような努力をもってしても、国立の帝都大学を目指そうとは思えないからだ。その挑戦が信じられず、私は白々しく、
「それもいいと思う。お互い頑張ろうね。」
なんて、綺麗事を返す。
「真木さん、ありがとう。そうだね、頑張ろう。」
変わらず前向きな赤城さんを見ると、こうして、努力する者と怠ける者の差は生じるのかと思う。赤城さんの受験結果が気になるため、私は名案を思いついた。
「そうだ、受験結果がわかったら、それを公表しあおうよ。ただ、発表後はもう授業がなくて会えないから、メールを送ることにしよう。」
こう持ちかけると、赤城さんは快く、
「うん、わかった。それいいね、よろしく。」
と承諾した。私は密かに、赤城さんは受験に落ちるだろうことを確信し、心のなかに負の感情が渦巻いている。よくない気持ちを抱えながらも、まるで何事もないかのように振る舞い、私達は家の前で別れた。
のちに、この侮蔑こそ、恥じるべき大罪であったと、戒めとなる。それに気付づくまでは、私こそ無知であったのだ。
☆
あれから、数ヶ月後。
無事、二人の受験も終わり、真木さんはどうだったかなと思う。あの帰り道のあとも、私たちは少しだけ雑談のメールを交わしていた。話すなかで、真木さんは塾に習い事にと、忙しそうであった。おそらく、もう過ぎた一般入試も、積み重ねた努力をあるがまま発揮したことだろう。
一方で、私は国立の帝都大学へ自己推薦で受験を終えたが、小論文と面接の受け答えには、前日まで試行錯誤した。まず、小論文のテーマ決めから内容に構成と進めるが、テーマで大きく左右される。そうなった時、私は何に重きを置いて話を進めるか悩んでいた。
まず、一般に問題提起される事象か、あるいは自分独自の着眼点を起点とするか。もちろん、いかに正確に物事を整理し、その分析に説得力を持たせるかは重要だ。だが、それに限らず、没個性では訴求力がない。始まりは自分の感じたことでも、それを分析して中身を持たせることこそ発展性だと思うからだ。
だが、正統派の道を逸れていいものかと、少しの冒険も躊躇していた。ただ、自分の好きから書き始めないことには筆も進まない。そのため、本来の私という人物像を魅せること、少数派だとしても素直な考えを説明すること、その二点に舵を切ったのだった。
結果は今日の十時からネットで発表だ。あと十分。緊張して、うろうろしながら、少し汗ばんでいる自分がいる。けれど、今までしてきたことを信じるしかない。真木さんもきっと同じ状況だろう。
国立の帝都大学を目指したのも、自由な校風に惹かれたからだったな、と懐古される。オープンキャンパスに行った時、生徒たちによって編集された雑誌を貰ってきた。配布されるでもなく、ただ「ご自由にどうぞ」と山と積まれていた。
だが、タイトルに興味を持ったのだ。「女性と性」という端的に記された言葉は、私の心を深く抉った。なにより、男女の性的関係や力の構図まで、一言で明瞭に示している。なんとなく感じていても言葉にせず通り過ぎる性の差異を明確に捉えている
その深層部分まで学術とする帝都大学に、素直に私も混じりたいと思った。私もそこで様々な刺激を受けながら、学習にとどまらず自己を見つめ直せるはずだと感じた。
面接でも以上のことをはっきりと自信を持って語ったが、うまく伝わったかなと不安だ。
こんなことを思ううちに、十分は経ったようだ。私は合格か不合格かに限らず、いかなる結果でも期待と希望に満ちたまま迎え入れようと、パソコンに向かった。
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赤城さんはどうだっただろうか。国立の帝都大学は受かったのだろうか。一般入試で受験を決めた私は、今、絶望という暗い闇夜に引き摺り込まれるようであった。
そう、たった現在、ウェブで合否を確認したところ、不合格だったのだ。理解できなかった。どうして、という疑問と焦りしか湧き上がらない。必死に勉強し、対策してもなお結果が伴わないのは、自分の愚かしさを突きつけられたようだ。
そんなこんなして、頭が真っ白になっている最中だった。メールの着信音が空虚に響く。
赤城さんからのメッセージだ。はっとして嫌な予感に胸騒ぎがしつつ、内容を確認すると、
「なんとね、帝都大学に合格しました。自分でも信じられなくて、夢みたい。真木さんはどうだったかな。ぜひ嬉しい報告を待ってます。」
とのことだ。衝撃と共に、足元から崩れていく脆さを感じる
そうか、真に人として頭がよいとは、ただ勉強を枠組み通りに出来るだけでは証明されないのか。きっと、赤城さんは、自分の世界を持ち得ており、そこに人を引き込むだけの正当性があったのだ。
私はようやく遥か先を見据え、遠い景色を眺めるように正気にかえる。
やっと、自分という人間の輪郭をなぞった気がした。