私のために 竜王編
「お願い………お願いね………タイウィン」
(聞こえる………やさしく、それでいて凛とした声が。聞き間違えるはずもない………これは、アーシェの声だ)
これは夢だと………タイウィンにはすぐに分かった。夢の中で、これは夢だと気づく事がこのところよくあった。どうせなら……気づかぬ夢を見せてくれても良いだろうに。
その念をおすような……それでいて心の底から懇願するような声音が頭の中で反芻される。
目の前には大きなベットが置かれていた。そして、そこで見目麗しい女性がベットの背凭れにもたれかかるようにして、上半身だけを起こした格好でタイウィンに微笑みかけていた。
アーシェは少しだけ色褪せた茶色の髪を括っている。昔に比べると頬が若干削げてしまっていたが、彼女の美しさの障害にはなりえなかった。
その瞳は吸い込まれそうな程きれいに透き通った蒼だ。本当に……きれいな瞳だった。
(あなたの瞳には私が映っている………いや、正確には若造の頃の私がだ)
アーシェの瞳に映っているのは若き日のタイウィンの姿だった。こうしてまじまじと見てみると……自身が年老いたことをタイウィンは認めざるをえなかった。
そして、この後の事をタイウィンはしっかりと覚えていた。
(そう……私はしばらく黙りこんだ後にこう答えるのだ)
心得た…………と。約束しよう………と。
そしてタイウィンが思い描いた通りに夢も進んでいく。すると、あなたは満足そうな……安心したような笑みを浮かべてくれた。
その笑顔が見れただけで、遥々ドラグーン王国の南部にまで赴いた甲斐があった。
(あれでよかったのだ………そう………あれで………)
============= ラニスポート城・寝室 ==============
タイウィンはゆっくりと重い瞼を開いていった。すでに窓からは眩しい光が入り込んできていた。そして、それがタイウィンにはなぜか無性に腹立たしかった。
「…………」
まだ覚醒していない頭のまま、タイウィンは近くに置いてあるワインをグラスに注いだ。朝からの飲酒ではあったが、もはやタイウィンには習慣の一つになっていた。
それにたった一杯なら、タイウィンにとっては水のようなものだった。
「……………朝からの酒は体に良くないぞ、タイウィン」
ピクっとそのグラスにワインを注いでいたタイウィンの手が止まる。そして、咄嗟に後ろを振り返った。
しかし、もちろんそこに誰かがいるはずもなかった。
「……………」
しばらく、目の前の虚空を見つめていたタイウィンであったが、苛立たしげに舌打ちをすると……その半分くらいにまでワインが注がれたグラスを投げ捨てる。
見るからに高価そうな絨毯にワインが飛び散り、グラスの破片が辺り一帯に飛び散った。そして、疲れたように息を吐きだした。
(私も耄碌したものだ……あの馬鹿の幻聴が聞こえるとはな)
今思えば、デニスはいつもそうだった。ガウエン元帥のところにいた頃から、いちいち人のやる事為す事に上から目線で偉そうに説教などしてきた。
とにかく、デニスとは反りが合わなかった。目指すものも……生き方も……そのすべてがあまりに違いすぎた。互いの進む道が交わることなど絶対にありえないと分かっていた。
いや………それどころか、遅かれ早かれいつか正面からぶつかる事になっただろう。
だが、奴の事は認めざるをえなかった。自分の方が優れていると確信できることもあれば、絶対に越えられないと思わされることもあった。
だからこそ……奴とは全身全霊をかけていずれ決着をつけるつもりだった。だが、その時はあまりに無粋なかたちで永久に失われる事となった。
「この代償は高くつくぞ…………小娘」
タイウィンは歯ぎしりと共に、苛立ちを吐き出した。そんな時、グラスの割れる音を聞きつけたパトリックが部屋に入ってきた。
床に散らばるグラスの破片をみても、パトリックはまったく動じていなかった。そんなパトリックにタイウィンは淡々と命じる。
「パトリック………水を持ってこい。それと、その残骸をすぐに片付けよ」
「かしこまりました」
パトリックは言われるがままに、水を持ってくるために部屋を後にした。
============== ===================
「親方様……ランス将軍がお見えになりました」
「…………通せ」
タイウィンは短く答える。
すでに時刻は昼近くになっていた。タイウィンは自らの部屋である塔の最上階から、腕を組み仁王立ちしながら外の景色を眺めていた。
そこからはラニスポート城の中庭も……城壁も……さらに、その先に広がる平野も山地もそのすべてが見えていた。
パトリックは部屋を出て数分もせずに、ランス将軍を連れて戻ってきた。
赤を基調とした鎧を纏い、タイウィンの部屋に飾られている得物より一回り小さい青龍偃月刀を背負っていた。歳は20代後半から30代前半といったところだろうか。タイウィンよりもひとまわりは若く見えた。
「タイウィン様………ランス・ターリー、只今参上いたしました」
ランスはそう口上を述べた後、直立不動の姿勢をとり、姿勢を正した。しかし、タイウィンはそんなランスの方を一瞬たりとも見ようとせずに話始めた。
「ランス………デニスの件は知ってるな?」
「はい……すでに聞き及んでおります。何者かに暗殺されたと………」
「さすがに話が早くて助かる。弟のカエサルとは大違いだ……まぁ、それは良かろう。では……デニスの暗殺の手引きをしたのが、私だという噂が広がっている事は知っているか?」
それを聞いた瞬間、ランスの表情が変わった。殺気に近い怒気が部屋の空気を張り詰めさせた。
「………成程、そういう筋書きですか」
そう吐き捨てるように言うランスの声を聞き、タイウィンは何も言わずに首肯する。
(本当にランスは逞しくなった……従者として初めて私に挨拶に来た時に、怯えて泣き出した少年がこうも変わるか。歳月の重みを感じずにはいられぬ)
だが、タイウィンはその感傷的な気持ちを心の奥底にしまいこんだ。それはこれより先は邪魔にしかならないからだ。
「そうだ。あの小娘は、私にこの一件のすべてを擦り付けて闇に葬るつもりのようだ。だが……私もみすみす殺される気はない」
「では………」
「ああ……当初の『計画』を少しばかり早める。すでに信頼できる者たちには兵を集めさせている。また、王都に潜伏させた者たちも、時期がくれば行動を開始するだろう………だが、いかんせん時間が足りなかった。それに、旗色は悪いと言わざるをえん……ヴェラリオン家に連なる諸侯はデニスの復讐に燃えるだろう。元帥軍……数少ないとはいえ王家に忠誠を誓う者……我がウェンデル家に恨みをもつ者たちも敵に加わる事だろう」
「………」
ランスはじっとタイウィンの背中を黙って見つめ続けた。タイウィンは一度息を吐き、はっきりとした口調で告げる。
「だが………私はそれをすべて承知した上で、お前をこのラニスポート城の城代に任じ……こう命ずる」
そこでタイウィンは一旦言葉をきった。未だタイウィンはランスに背を向けたまま、外の光景を眺め続けている。そして………冷たい響きの籠った口調でこう告げた。
「すべて蹴散らせ………私の『国』を穢させるな。ランス……私のために…………死ね!!」
それを聞いた瞬間……ランスの体が瘧のように震えだした。そんなランスの変化を背に感じながら、タイウィンは淡々と続ける。
「今回の戦、どう考えてもこちらの分が悪い。持ち堪えることができる可能性など、それこそ万に一つといったところだろう。だが、その万に一つの可能性を実現させる事ができる者がいるとしたら、私以外にはお前しかいない」
さらにランスの目から涙が溢れ頬をつたっていった。そこで今日初めてタイウィンは振り返り、ランスをその冷徹な瞳で真っすぐに射抜いた。
「3……いや、2カ月耐え抜け。私は必ずや援軍を率い、自らの『国』に戻ってきてみせる。全身全霊をもって、我が期待に応えてみせよ!!ランス・ターリー!!」
そんな城中に響き渡る程タイウィンの檄をうけ、ランスはその場で背負っていた青龍偃月刀を傍らに置き、膝をつき頭を垂れた。そして、流れ落ちる涙を拭いもせずに懇願する。
「………一つ、お願いがございます」
「何だ?言ってみよ……可能な限り叶えてやる」
タイウィンはその鉄仮面のような表情を崩さず、尊大に言い放った。ランスは本当に恐れ多いというように、言葉を途切れ途切れにしながら望みを述べる。
「旗を……タイウィン様の、貴方様の旗を掲げることを……その旗の下で闘う事をお許しいただきたい」
それを聞いたタイウィンは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。すでにあの頃の面影など微塵もなくとも、根本的な部分は何も変わっていない。
「ふん!!旗ぐらい好きにしろ……むしろ、私が戦場にいるという偽装にもなろう。だが、分かっているな?その旗を掲げるのことの意味を?」
「はい」
「……ならば良し。その願い私が叶えてやろう……ランス、我が誇りの元で戦う事を許可する。しかし、私の誇りを掲げて戦う以上、負ける事は断じて許さん」
「ありがたき……幸せにございます」
そして、ランスは頭をあげ膝をつきながらの状態のままタイウィンを見上げる。
「このランス……これ程までに歓喜に打ち震えたことはございません。貴方様のために闘えることを、このような大役を任されたことを生涯の誇りに思います。すでに国境は封鎖されている事でしょう。やはり計画通り、かの国へと赴くには『あそこ』を生きて抜けるしか道はなさそうです。十二分にお気を付けください。魔獣もさる事ながら、エルフ族も凶暴化しているとのこと………タイウィン様……どうか……どうか……御無事で」
タイウィンはそんなランスの言葉に微かに首肯しただけだった。しかし、ランスにとってはそれで十分だったようで………青龍偃月刀を握り、ゆっくりと立ち上がった。
「では、私も急ぎ戦支度をせねばなりません。これにて………失礼いたします」
ランスは深く深く礼をすると、踵を返し部屋を後にしようとした。そんなランスをタイウィンが呼びとめた。
「…………ランス」
それを聞き、扉付近でもう一度タイウィンの方を振り返るランス。タイウィンはそんなランスに向かって何かを言いかけた。
しかし、そんなタイウィンの腕をずっと後方で控えていたパトリックが突然掴んだ。そして、タイウィンをじっとその片目で見上げてきた。
しばらくパトリックと見つめ合った後に、タイウィンはランスに行けと雑に合図をした。それを受け、ランスはもう一度深深と礼をすると、部屋を後にしていった。
そして次の瞬間………タイウィンはパトリックの顔を薙ぎ払うかのように打った。しかし、パトリックは悲鳴ひとつ上げずに、黙ったまま口から垂れる血を拭った。
タイウィンはパトリックの腕をぞんざいに払うと、また窓の外に目を向けた。
「………パトリック、お前には礼を云わねばならんようだな」
「いえ……そのような」
そういうタイウィンに対して、パトリックは短く答えただけだった。タイウィンは自らの過ちを悔むかのように固く口を結んだ。
(私は………いったい何と愚かな事を言いかけたのだ。私のために、自らの命を擲って戦に赴こうとしている一人の真の忠臣に対して何を。パトリックがいなければ、私はとんだ恥知らずになるところだった。すべては………あの夢のせいだ……あの夢の)
タイウィンはしばらく黙ったままだったが、ため息と共にこう呟いた。
「ここで死ぬようなら……それもあの者が自ら選んだ運命という事であろう。すまぬな………すまぬ」
「…………」
パトリックはそんな辛そうに独白を続けるタイウィンを、黙って見つめ続けていた。