罠
「ふ~……いい湯だったな」
「…………そうだな」
ゆったりと温泉を堪能したカエデとレンは、二人とも幾分か満足そうにしながら並んで山道を下りていく。夜空は木々に囲まれていてよく見えないが、かすかに星の光が垣間見えていた。
『ルードンの森』は大陸の北西部にある広大な森であり、多くの魔獣がそこに住みついている。滅多にないことだが、人里が魔獣に襲われることもあるらしい。
そんな広大な『ルードンの森』は、ドラグーン王国とスタットック王国との国境を跨ぐ形で位置している。したがって地図上だけの話でいえば、『ルードンの森』を通れば両国を簡単に行き来することができる。
しかし、それはあくまでも地図上での話である。大木が生い茂り、魔獣が跋扈しているような場所を軍隊が通るのは容易ではない。事実、ドラグーン王国とスタットック王国との長き戦乱の歴史においても、『ルードンの森』から敵が攻め込んできたことは一度もない。
主に戦場となるのは、北の『ルードンの森』と南の『大砂漠』に挟まれた中央の平地や山岳地帯だった。
実際に旅人や商人などは、両国を行き来する場合には『ルードンの森』よりもっと南にある街道をつかう。確かに関所があるためある程度の金はかかるが、命を落とすことに比べれば安いものだ。
さらに、最近では多くの盗賊たちが跋扈していた南の大砂漠に安全な交易ルートが確立されつつあるため、態々『ルードンの森』を通ろうとするものなど皆無といってよかった。
そんな地では宿屋も少なく、当然湯に浸かることなど中々できることではなかった。そんな理由から久しぶりの湯浴みであったために、二人はいつもより入浴時間が自然と長くなってしまっていた。
すでに夜の帳が下り始め、辺り一帯が薄暗くなってしまっている。カエデは頭の水気をタオルでとりながら、上機嫌でレンに話しかける。
「ふふふ……あの温泉は私には少し熱いくらいだったが、カイはあれ位の熱湯を好むから喜ぶだろうな」
「………そうなのか?」
「ああ、カイは小さい頃から寒いのが大の苦手だからな。ふふふ……いつも冬になると震えながら文句を言っているよ。だから、カイはお風呂などは極限まで熱くしてから入るんだ。『ルードンの森』に向かって進むにつれて、どんどん寒くなっていってるからな……最近は見ているだけで辛そうだな」
「………それは……気がつかなかったな」
僅か数カ月とはいえずっと旅をしてきたレンは、ある程度はカイの事を分かったつもりでいたのだが、カイが寒さに震えているなどまったく気がつかなかった。
というより、北部で育ったレンにとってはこれくらいの寒さはまだ肌寒いと感じる程度だった。しかも、カイも普段は別段辛そうにしている風でもないのだ。
レンがその事を指摘すると、カエデは軽く頷きながら答えていく。
「カイはあまり人前で弱音を吐くような事はしないからな。………まぁ、私もカイとは十五年来の付き合いだ。言葉に出していなくとも、何となく感じ取れることがあるんだ」
「…………」
(………十五年…か)
カエデが何気なく言った一言をレンは心の中で呟いていた。言葉にすれば短いかもしれないが、十五年もの歳月とは………まだ二十にも満たぬ自分にとっては途方もない年月だ。
その間、カエデとカイは幼馴染としてずっと共に育ったのだろう。自分がカイについて知っている事など、カエデが知っている事に比べたら本当に欠片のようなものなのかもしれなかった。
それを強く感じた瞬間………言いようもなく心の中がモヤモヤした。そしてレンはそれを自覚し、酷く狼狽した。
(な、なぜ………こんな気持ちになる!あ、当たり前の事じゃないか。カエデはカイの幼馴染であり、俺はただ数ヶ月前に知り合った……一人の友に過ぎない……からな)
レンがそんな事を自問自答していた時、カエデも誰にも聞こえないような小声で呟いていた。
「そうか………もう十五年にもなるのか。カイと出会ってから……」
初めてカイと出会ったのは、水月家の道場でだった。長年水月家宗家を裏で支えてきてくれた、了山家の跡継ぎとして紹介されたのを覚えている。
カイの父と自分の父が主従関係を結んでいたこともあり、よく武術の技を共に磨いたり、遊んだりするようになった。
その頃のカイは自分より背が小さく、少し泣き虫なところもあった…………まぁ、自分が取っ組み合いの喧嘩をして泣かせてしまった事も多々あるのだが。
ともかく……幼馴染としてあまりに一緒に居すぎたためか、カイはいつからか家族同然に接してくるようになった。
もちろん……カイが自分のことを家族のように大切に思ってくれているのは嬉しい。けれど、それはつまり………カイが自分のことを一人の異性としてはまったく見ていないことを意味していた。
カエデは少し前にカイが叫んだ発言を思い出し、また軽いイライラを覚えた。
(まったく……なぜ、あいつはあんなに鈍いんだ!幼馴染だからといって、す…好きでもなければこれだけ一緒にいる訳ないだろうが!)
これでも、さり気無くアプローチはしているはずなのにまったく効果がない。まぁ……その八つ当たりというか、軽い復讐として先ほどカイに少し意地悪なことをしてしまったのだが。
カイが覗きなんて真似をしないことは、自分が誰よりもよく分かっているつもりだった。きっと今頃、カイは一人落ち込んでいることだろう。
(仕方ないな……ちょっと傷つけすぎたかもしれないからな。私が慰めてやるか……)
うんうん……とカエデは軽く頷きながら、ずっと無言のレンと共に山道を下っていく。すると…………
「「アハハハハハハハ」」
落ち込んでいるカイがいるであろう前方から、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。それを聞きカエデとレンはお互い眉を顰めながら一瞬顔を見合わせてしまった。
不審に思った二人は少しばかり早足でカイの元へと向かった。
そして、茂みを抜けた二人の目に飛び込んできたのは…………ベロンベロンに酔っ払ったカイと………その隣で楽しそうに話続けている一人の若い娘だった。
「キキキキ……それでな~……俺っちも、まさかあんな‘罠’が仕掛けられているなんて思いもしなかったんだ!さすがスタットック王国で、賢王の生まれ変わりと噂されている『北の王』・ソロス・スタットックなだけの事はあるぜ!この『盗賊王』メリル様も今回は負けを認めざるをえなかったって訳なんだ!まぁ、次こそは絶対に成功させてみせるけどな!……おい、カイ~~……俺っちの話ちゃんと聞いているか~?」
胡坐をかいているカイに、寄りかかるようにして座っている娘は褐色の肌をし、珍しい黒髪を後ろで縛りポニーテールのようにしている。カイが以前買った真っ白なローブを着こなし、さらにバンダナを頭に巻いており、その腰には半月刀がぶら下がっていた。
もちろん…………魔国第2代魔王であるカイ・リョウザンの盗賊としての師匠であり、自称・魔国を盗んだ『盗賊王』……メリル・ストレイユである。
メリルはカイに自分の話をちゃんと聞いているかどうかを確認した。しかし、カイはそれには答えず…焦点の定まらない目をしながら独り言のように語り続けている。
「それれさ~カエデはら~~酷ひれろ~~俺とはら~~もう長い付き合いらんだから~~…ヒック……俺がそんら事さ~~する訳ないっれ分かっれるはずなの~~それらのに………」
カイは片手にワインが並々に注がれたグラスを持ち、もう片方の手には見るからに高そうなワインのボトルを握りしめている。さらに、呂律の回っていない状態でゆらゆら揺れていた。
それを聞いたメリルは可笑しそうに笑っていた。
「キキキキ………今日のカイは何か面白れ~な~…ほれほれ~……どんどん飲むんだ!トーラン城から少しばっかし拝借しすぎて重かったんだよな~、けど捨てるのも勿体ないだろ?だから、俺っちとカイで全~~部飲み干しちまおうぜ!」
そういうとメリルはグラスの底を持ち上げると、無理やりカイに飲ませ始めた。
「ちょ…待っ…グビグビ……ちゃ、ちゃんと…グビ……の、飲むからさ……」
「キキキキ……ほれほれ~俺っちがグラスに注いでやるぜ~」
メリルはさらにカイのペースを上げさせ、無理やり空にさせたグラスにワインを注いでいく。カイは少し咽ながらもそのすべてを飲み干していった。
「ケホケホ……アハハハハハハ、ありがろうね~……もう~メリルは優しいな~」
「キキキキ……おう!俺っちは優しいぞ~…何たって俺っちはカイの事が大好きだからな!けどよ~…こんな山奥で俺っちを出迎えてくれるなんて、やっぱりカイは俺っちの最高の子分だな~」
そうメリルは嬉しそうに叫ぶと思いっきりカイに抱きついた。
「メ、メリル~…駄目らってば…ちょっろ離して~」
カイはいつものように抱きついてきたメリルから逃れようとしたが、酔っ払っているため思うように力が出せないのか一向にうまくいかなかった。
もちろん………それに気付かぬメリルではなかった。弱った獲物を目の前にした獣のように、キラリンと瞳を輝かせた。
「お!何か今日はカイの抵抗が弱いな~…キキキキ……それムギュ~ッと」
「や、やめ!メ、メリル!あ、当らっれるから!」
メリルは自分の体を押し付けるようにしながらカイに頬ずりしている。カイも慌てていて、抵抗はしているようだが、メリルのされるがままになっていた。
「………メリル…」
あまりに突然現われたメリルに理解が追いつかず、しばし混乱していたレンであったが、二人がじゃれ合うのを見ている内に心がス~ッと冷静になっていくのを感じた。
そして、状況を確認するために……なぜここに……と続けるはずだったのだが、それはカエデの絶叫によって完全に遮られてしまった。
「…な…な…な…何をしているか――――!!」
カエデはカイとメリルが抱き合うのを見た瞬間、あまりの衝撃にまるで石像のように呆然とその場に立ち尽くしてしまっていた。
しかし、メリルがカイに頬ずりをしたのをきっかけにハッと意識を取り戻し、あらん限りの大声で絶叫した。
カエデはすぐにカイとメリルの元へと駆け寄ると、二人を引き離そうとカイの腕をとり引っ張った。しかし、それにいち早く気がついたメリルはカイのもう片方の腕にすばやく絡みつく。
今になってレンは気がついたが、メリルも普段より少しばかり顔が赤くなっていた。おそらく、メリルも少し酔っているのだろう。そして、その要素はさらに事態が混沌としてしまうような嫌な予感しか生まなかった。
メリルはぷ~~っと不機嫌そうに頬を膨らますと、初対面のカエデに食って掛かる。
「何だよ~お前~~!!俺っちのカイを離せよ~」
「!!!…な、何………だと?カ、カイ!今のはいったいどういう意味だ!しっかりと説明してもらうぞ!」
カエデはカイの胸倉を掴むと、力の限り高速で前後に動かした。カイは苦しそうに首をカクカクさせながら答えていく。
「ちょ!待て…し、死る!……死んじゃるって!」
「カイ~…こいつは誰なんだよ~ちゃんと俺っちに説明しろよ~」
そんなカイの腕には未だ酔っ払ったままのメリルが張り付いている。
「…………」
レンはそんな三人が入り乱れた混沌とした状態にどう入っていけばいいか分からず、しばらく黙ってそんな状況を見つめることしかできなかった。