幼馴染み同士で婚約した私達は、何があっても結婚すると思っていた。
■
北の果てにある領地。その冬の空を覆う曇天。
その鈍色を思い起こすように濃い灰色の瞳が、ローラを冷たく見下ろす。
「ごきげんよう、レオン様」
「……フン」
学園では爵位に関係なく、学生同士の挨拶は「ごきげんよう」だと決められている。
朝も夕方も関係ない。出会った時も、去り際も「ごきげんよう」と言い交わす。
両手で持っていた本を片手で胸元へと引き寄せ、もう片方の手で軽くスカートの裾を持つ。淑女の礼をもって婚約者であるレオンへと挨拶を告げるローラに対して、レオンは言葉もなく一瞥をくれただけで去っていく。
その横には、愛らしい令嬢を伴ったままだ。
彼が、婚約者であるローラに対して申し訳なさそうな態度を取ることすら止めてしまって久しい。
すれ違いざま、艶のある栗色の髪を揺らして、令嬢がちいさく会釈をローラへと送った。
それに気が付いたレオンが、令嬢に向かってエスコートの手を差し出した。
まるでローラから令嬢を守るように。
ふたり連れ添って去っていく、その後ろ姿を見送る。
大きな身体で瞳の色より濃い灰色を帯びた黒髪をしたレオンの隣で、彼の肩までしかない栗色の髪をした華奢な令嬢は、婚約者であるローラよりずっとお似合いに見えた。
ローラの実際の背はレオンより低いとはいえ、ヒールのある靴を履いてしまえば彼と目線が合う。
つまり令嬢よりずっと背が高い。田舎者であるが故、王都で暮らしている令嬢たちより骨太でがっしりしている自覚もあった。
金髪というには輝きもなく、色も薄い髪は下ろしたままだと広がってしまう。
「たまには綺麗に纏めてみては」とレオンに提案されてからは、きっちりと纏め上げるようになった。
残念ながら言葉と共に貰った髪飾りは、夜会につかうような派手なものだったので学園では着けることができずに今も仕舞ったままだ。
確かに、きっちりと纏めておくと勉強する時に目にかからなくなったのは楽ちんで、言われたから従っているというより今では気に入って纏めている。
だが、きっちりとし過ぎているせいなのか、同級生たちからは威圧感があると揶揄われた事もあった。
怯えさせてしまっただろうかと、苦笑することしかできなかった。
男爵令嬢である彼女とレオンが連れ立って歩く姿を見るのは初めてではない。
春を迎える少し前辺りからお気に入りとなったようだ。昼休みなどもふたりで共に並んで過ごしているのをよく見かけるようになった。
「まるで、ローラがあの子に悪さをするとでも思っているみたいな態度ね」
「イザベル様、ごきげんよう。お恥ずかしいところをお見せしてしまったようですね」
恥じ入るローラだが、実際に悪い事など彼女はなにもしていない。
ただ学園の廊下で出会ってしまった婚約者へ挨拶をしただけだ。
だが、十年来の婚約者と良好な関係を築けないでいることが悪いと言われればそうなのかもしれない。
ローラとレオンとて、学園に入学する前まではそれなりに仲は良かったのだ。
学園に入って、それぞれが、両親により引き合わされたお互いだけという狭い世界だけではなく、もっとずっと広くて自由な世界を知ってしまっただけなのだ。たぶん。
ローラは知ることの楽しさを、レオンは交友を広げる楽しさをそれぞれ選び、その違いが今のふたりの距離を生んだ。
「それに。よくもまぁ婚約者の前で、あんな風に別の女をエスコートするような真似をできるものよね。最低だわ」
「イザベル様。もうその辺で」
はっきりと過激すぎる非難を口にするイザベルの声が廊下に響いてしまいそうで、ローラは慌てて取り成しを口にした。
こんな風に、婚約者の事で居心地の悪い思いをするのは、この学園に入学してから何度目のことだろう。
昨年末のあの日以降はとみに増えた。
むなしい気持ちを誤魔化すように視線を窓の外へを向けた。
たのしそうに白い小鳥たちが飛び交う青い空の、遥か先の向こう側。王都ではすでに春となっているのにもかかわらず、遠くに臨む山の上には今も白い冠がかかっていた。
あの山の麓にある我が領地では、まだ雪の季節だ。
隣にあるレオンの家の領地は雪解けの季節を迎えているかもしれない。
どちらにしろ、あの地の空は今もあの鈍色をしているのだろう。
『ローラ』
何度も聴いたローラを呼ぶ声が耳に蘇る。
最後に婚約者から笑顔を向けられたのはいつだったろう。
名前を呼ばれたのは、去年の暮れが最後だった。
笑顔とはほど遠い、まるで温度のない声が耳に戻る。
『ローラ。田舎貴族でしかない俺達が王都に居られるのは学生の間だけだ。その間だけでも、お互い自由に、世界を広げておくべきだと思うんだ』
頷いて受け入れたが、レオンの言葉の意味を完全に理解できていなかったようだ。
けれどまさかそれが、年末年始に行なわれる学園のパーティでエスコートをしないという意味だなんて。
お陰で、婚約者のいる令嬢として異性との交流を最低限にしかしてこなかったローラはひとりで参加することになった。
婚約者のいない学生は少なくない。
それに年の離れた相手と婚約をしていて学園内にはいない事もある。
だからひとりで参加していたのはローラひとりという訳ではないし、むしろそれなりに多かった。
しかし、同じ年の婚約者が学園内にいるにもかかわらず、ひとりで参加したのはローラだけだった。
それだけではない。以降、どのパーティも、ローラの婚約者であるレオンは、別の令嬢をエスコートしていたのだから。
唯一の救いは、エスコートをした相手が違う令嬢であったということだろうか。
しかし、春のパーティでエスコートをしていた先ほどの男爵令嬢のことは別らしい。
この先にある夏のパーティでも、レオンがエスコートするのではないかと噂を呼んでいる。
それほど、ふたりの距離は近く、一緒にいる時間も長かった。
もう他の生徒たちの姿に紛れて背中すら見えなくなったふたりの姿を探すように、ローラはぼんやりと彼等が去っていった廊下の先へと視線を向け弁明めいた言葉を口にした。
「んー、でも私も、婚約者らしいことよりも、好きなことをさせて頂いておりますし」
「いやね。他の異性と親しい時間を持つことと、領地経営に関する勉強会へ参加することを同列に語らないでくださるかしら」
イザベルが拗ねたように目を閉じると、つんと顎を上へと向けた。艶やかな赤毛が揺れた。
そうしておいて、ゆっくりとローラを振り向き視線を合わせると、にぃっと笑った。
勝気そうな大きな青い瞳は侯爵令嬢らしいともいえるし、あまりにも心情をそのまま表しているようで、高位の令嬢らしくないともいえそうだ。
くるくると表情を変えるイザベルはまるで猫のようだと、いつもローラは思っていた。
イザベル自身も勉強会の参加者だ。だからだろうか、同列にされたことを心底嫌そうにするのでローラは笑ってしまった。
「さぁ、嫌なことは忘れて早く行きましょう? お兄さまに怒られてしまうわ」
腕を組まれて促された。
勉強会の主宰者はイザベルの実兄だ。その伝手で、ひとり遅くまで図書館で調べ物をしていた同級生のローラも声をかけて貰えたのだ。
侯爵家のご嫡男で成績も常にトップを維持しているフィリップ様が開かれている勉強会に、田舎者のローラが参加させて貰えるだけでも奇跡のようだ。
この勉強会のお陰で、異国で発表されたばかりの論文を読める機会に恵まれたし、彼らと一緒に翻訳しながら討論する楽しさを知った。
領地では休耕期間を設けて土地を休ませていた農作物の尻腐れ対策も、肥料を工夫し、違う作物を挟んで作付けすることで農地を休ませずに効率的に農作物をつくることができるようにもなった。
ローラの実家で作っているワインに興味を持って貰う事もできた。家業を王都で広げる伝手として、手応えを感じている。
それもこれもすべて、イザベルとフィリップ兄妹のお陰だ。
「ふふ。フィリップ様はお優しいもの。遅刻したって怒ったりなさらないわ。けれど怒られなければ遅刻をしていいという訳ではないものね。急ぎましょう」
急ごうと言ってしまったけれど、イザベルのポンパドゥールにした前髪を止めている髪飾りが曲がっているのに気が付いたので、手で合図してしゃがんで貰う。
イザベルの赤い髪を彩る春の緑を思わせる飾りピンは、実はローラと色違いのお揃いだ。お互いの瞳の色に近いちいさな石がついているだけのピンなので、使いやすくて今のローラも着けている。
去年、なぜかイザベルの誕生日にお祝いとして受け取ることになった。
「友情の証として受け取って欲しい」と別世界のおひめさまのようだと憧れていた美しい侯爵令嬢から言われて、嬉しかった。
「はい。これでいいわ。美人侯爵令嬢サマ」
「ありがとう。ローラはまるで年季の入ったプロの侍女のようね」
「それは誉め言葉に入るのかしら」
「当然じゃない。当家の侍女は王宮侍女にだって負けないレベルだもの」
「学園を卒業したら、しばらく行儀見習いに行かせて貰おうかしら」
「うふふ。でもローラが侍女になるのは難しいんじゃないかしら」
「そうね、私ったら結構ガサツだもの」
無理である本当の理由は、お互いに、学園を卒業したら婚約者の家へ入らなければならないからだ。そこで嫁入り先の家の家政について教えを受ける。半年から一年はそうして過ごし、結婚式を迎える前に夫人として立つ準備をすることになる。
学園を卒業するまであと二年を切った。
その頃、レオンとローラの関係は、どうなっているだろうか。
「はぁ。侍女よりずっと似合う仕事があるのに。お兄さまが優しいのは、ローラにだけですのに」
「なにか言った?」
「ううん、何でもないわ」
首を振って笑うイザベルとふたり、自習室へといそいだ。
■
「できたわ」
ローラは、来週末のレオンの誕生日プレゼントの為に刺していたハンカチの裏表をためつすがめつ確かめると、満足そうに頷いて針を置いた。
「目がしょぼしょぼするわ」
毎日の予習復習に加えて、週二回の勉強会の復習だけでもローラの自由時間のほとんどが埋まってしまう。
けれど、婚約者である限りは、誕生日の贈り物を自分の手で作り渡したかった。
去年の誕生日に贈った懐中時計用の飾り紐は、今も使って頂けている。
ジャケットの内ポケットから、苦労して探したレオンの瞳と同じ鈍色の糸で編んだそれがはみ出しているのを、確かに見た。
渡したのはあの宣言の前のことだったから、受け取って貰えたこと自体はともかく、今も使ってくれていることが嬉しかった。
「大丈夫。婚約はそのままなのだもの。学園を卒業して領地に帰ったら元のレオン様に戻って下さるわ。そうして、結婚したら、ずっと一緒に暮らすのよ」
あんな事もあったねと懐かしむ日もいつかくるのだろう。
今は拗ねた態度を取る勇気もでないけれど、きっと夫婦になって沢山の時を傍で過ごしたならば、ローラも素直に口にできるようになるかもしれない。
だって。今もローラの編んだ飾り紐を、肌身離さず使ってくれているのだから。
だからきっと今年も受け取ってくれるだろうと、レオンの家の紋章とイニシャルを組み合わせた精緻な文様をハンカチへと縫い取ることにした。
婚約者への贈り物としては定番中の定番である。
大袈裟過ぎず、かつ軽くて薄くて小さくて、何枚あっても邪魔にはならない。
多分、今のローラから受け取っても、負担にならないはずだ。
「白地のハンカチに鈍色の糸だけでは、全体が沈んでしまうもの」
刺繍全体からすれば1%にすら見たない自己主張。
鈍色の糸と、イニシャルに影をつける為だけの差し色として、ほんの少しだけローラの瞳の色である春の緑の糸を使った。
表面からは見えないように、上から鈍色の糸で覆うように刺してあるので、角度によってなんとなく緑色の糸が見えるだけだが。
それでも、色を変えていない紋章部分とはやはり違って見えるので満足だった。
「少しというかかなり面倒だったけれど、上手にできて良かった」
パッと目にはわからないように隠してあるとはいえ、ローラの色が一緒に刺してあるのを見たら、すごく嫌な顔をされるかもしれない。
けれど、レオンに嫌そうな顔をさせてみるのも、悪くない気がした。
「なるほど。嫌な顔は、《《される》》のと、《《させる》》のでは、違うのね」
ローラによって嫌そうな顔を《《させられている》》レオンを想像すると、ちょっと気が晴れた。
「レオン様は、どんな顔を見せて下さるかしら。喜んで受け取って下さることはないかもしれないわ。ううん、間違いなくお顔を顰めるわね。……でもきっと、受け取っては下さる。それで充分」
受け取っても、飾り紐とは違って、使われずに机の奥にしまわれてしまうかもしれない。
それどころか包装を解いても貰えないかもしれない。
「ふふ。婚約したての頃の方が、仲が良かったかもしれないわ」
それだって、お茶会の席では自分の好きな物ばかりをローラから奪ってまで食べてしまうレオンに呆れたり、一緒に本を読んでいた筈なのに落書きを始めるレオンに笑ってしまったり、レオンに誘われてピクニックに行ったら実際の目的は釣りで、餌のミミズを針につけられなくてローラが大泣きしたりと大騒ぎに発展したものだ。
記憶の中でふたりは、いつだって喧嘩していて、ローラが泣いているか、レオンがぶすくれたりしている。
「いつだって私達は、お互いにしたいことを主張して喧嘩してきたわ」
それでも会えると嬉しくて、別れる時はいつだって寂しくて、「また会おうね」と約束を交わした。
笑い合って、たくさん喧嘩して、同じ回数だけ、仲直りしてきた。
同じ位の目線であった頃は、確かに仲が良かったのに。
最近は、共にいないという以上に、傍にいてもどうしていいのか分からない。
大体、口下手なレオンがあんなにも令嬢たちと楽しそうに会話できるなんて思わなかった。
ローラといる時は今も昔のレオンそのままに、ぶすっとしているのに。
「でも、きっと大丈夫」
机の引き出しから、貰ったまま一度も出番を迎えたことのない髪飾りを取り出し、指でそっと撫でる。
華奢な銀細工の髪飾り。普段使いには到底向かない。
一緒にパーティへ出席してくれさえすれば、使うこともできるのに。
「どんな顔をして、買ってきたのかしら」
適当に、王都の令嬢が好みそうな華やかなものを指差して買うレオンの姿を思い浮かべてひとり笑った。
共に過ごしてきた記憶と築いた絆は、まちがいなくローラの中にあるように、レオンの中にもある筈だから。
仕上がったばかりのハンカチを手に取り、イニシャルを指で辿る。
ローラの頭の中で、ハンカチを贈られたレオンが嫌そうにする姿がやすやすと思い浮かんだ。
それでも渡すことをやめようと思わない自分に、苦笑した。
「さて。明日の授業と勉強会の予習をしてしまいましょう」
■
レオンの誕生日当日。
休日に呼び出すほどのこともない。
大きな物でもないのだからと、派手にならないようシンプルに包装して持ち歩いた。
隣のクラスなのだ。廊下で会えた時にでも、受け取って貰えたらそれでいい。充分だ。
そんな事を考えている内に、昼休みになっていた。
放課後にはいつもの勉強会があるので、思い立って食堂ではなく、最近のレオンが、あの男爵令嬢と一緒にランチを取っているテラス席へと足を運んだ。
プレゼントだけをこれ見よがしに持って歩くきになれなかったので、本も一緒に抱え持つ。
探しに行こうというのに、ふたたび婚約者レオンの横にあの令嬢の姿を見るのが嫌で、一歩進むたびに、気分が沈む。
案の定、向かったテラスで、あまりに近くで座るふたりを見つけて、思わず手にした本と包みを握り締めた。
すこしだけ深呼吸をして気持ちを静めると、令嬢らしい笑顔を貼り付けて近寄っていく。
「ごきげんよう、レオン様。お誕生日おめでとうございます。こちら、お受け取り下さいませ」
できるだけさりげなく。
ここに来るまで、プレゼントの包みだけを持って歩く気になれなかったので隠すために持っていた本を胸に抱え、片手で差し出した。
それを受け取って貰うことだけすれば、すぐさまこの場を立ち去るのだと伝わるように、テラス席への同席すら願うことをしなかった。
レオンを思いやったからだというのに。
当の本人は嫌そうな顔を隠す事すらしなかった。
表情を歪め、席を立ちあがる。
「なんて無粋なんだ。今、俺はフランと話をしているんだ。勝手に話へ割ってくるな。後で」
パシッ。
「あっ」
レオンが振り払った手が、ローラの差し出したプレゼントを、叩き落とした。
それは思いの外勢いよく弧を描いて、差し出したローラの手をすり抜けていく。
ローラの視界の先で、テラス席を囲む柵をあっさりと飛び越えていき、中庭の、前日の雨でできた水たまりの中へ吸い込まれるように、落ちた。
ぱしゃん。
軽い水音が聴こえて、膝から力が抜けそうになる。
思わず柵に取りすがったローラの目に、水たまりに浮かぶ包みが、哀しげに揺れていた。
「あぁ……」
「わ、わざとじゃない。けど、こんなところで立ったままとか。そっちだって酷い」
焦った様子のレオンが、なにか喚いていたが、ローラには何も届かなかった。
「失礼、いたします」
その場で涙を溢さないようにするのが、精一杯だった。
俯いたまま軽く膝を曲げて礼をとり、「ごきげんよう、レオン様」とだけなんとか口にして、踵を返した。
後ろからローラの名をレオンが呼んでいるのは分かったが、振り返ることすらせずにテラス席から出た。
そのまま食堂前の階段を駆け下り、落ちたままになっている筈のものを拾いに向かう。
が、その途中で、足を滑らせた。
ずるりと足の裏を舐めるように、階段の角が滑っていく。痛い。
涙で歪む視界が大きく斜めにずれていき、ローラの色の薄い金色の髪が大きく乱れ、ゆっくりと揺れ動く様を、眺めた。
──落ちる。
まだ階段は数段しか降りていない。
上段であるここから落ちたら、さぞ大きな怪我をすることになるだろう。
続いてくるであろう衝撃と痛みを覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。
しかし、ガクンと衝撃は受けたものの、痛みはまったくやってこない。
恐るおそる目を開け見上げた先にあったものは、整い過ぎた見知った顔だった。
「大丈夫かい? 階段を降りる時は気をつけなくては」
綺麗なのに大きくて力強い手が、ローラを抱き締めていた。
「フィ、フィリップ様っ! ありがとうございます。その、申し訳ありません」
慌てて身体を離して、礼を告げた。
「ふふ。なにか考え事でもしていたのかい? 子供の頃のお転婆だったイザベルならともかく、君が階段を踏み外すとは思わなかったよ」
淑女らしからぬ動きをしてしまって赤くなるローラには気付かない振りをしてくれたフィリップが「怪我はないかい」と気にかけてくれる。
「大丈夫です、あの、フィリップ様こそ、お怪我はありませんか」
無様に落ちようとするローラを無理な体勢で受け止めてくれたのだ。
それこそどこか捻っているかもしれない。
お互いに、怪我はないかと相手の心配を繰り返しているところに、バタバタと人が近寄って来た。
「やっぱりか。この浮気者」
いきなりローラの肩を掴まれ強引に振り向かされた。
「れおん、さま?」
階段を落ちかけたショックと、肩をつよく掴みかかられた痛みと衝撃と、目の前でローラを「婚約者失格だ」と冷たく宣告した婚約者の顔と。
つい先ほど、時間をかけて丹精込めて刺繍をした誕生日の贈り物を突き返されたのはローラである。
しかも、叩き落とされたそれは、いまも、水たまりの中に沈んでいる筈で。
それを謝られるならともかく、なぜ、浮気者扱いされなくてはいけないのか。
冷たく、睨みつけられなければならないのか。
ローラにはわからない。
「俺は、お前を、妻にできない。婚約は、解消だ」
一字一句、はっきりきっぱり言い切られた。
けれど、ローラにはレオンが何を怒っているのか、何を言われているのか頭が真っ白になってしまってまったく理解できない。
ローラは、完全に混乱していた。
「え、あの……こんやく、かいしょう、ですか? わたしが、有責で?」
「そうだ。お前は俺に相応しくない」
間髪をいれずに言い切られた言葉が、ようやくローラの心と頭に沁み込んでいく。
「キミ。彼女はいま階段から落ちかけてショックを受けている所なんだぞ。婚約者なら労りの言葉をかけるべき所なんじゃないのか」
割って入ってくれたフィリップの声すら、今のローラには遠かった。
肩に掛かっていたレオンの手を、フィリップが強引に掴んで離れさせた。
それすらも、解放されたというより、離れていくと表現してしまう自身の在り様が、痛い。
なにより、ローラはとうとう理解してしまったのだ。
本当はずっとずうっと、そうなんじゃないかと頭の隅で思っていた。
レオンの冷たい瞳の意味するところを。何度も。
王都で華やかで愛らしい令嬢らしい令嬢たちを知ってしまったレオンは、ローラのような勉強ばかりしている田舎者など、傍に置いておくのが嫌になってしまったのかもしれないと。
本当は何度もそう考えた。
考える度に、くだらないことで笑い合えた仲の良かった過去の記憶を取り出して、冷えていく心を温め返した。
繰り返し。繰り返し。
もうとっくに、壊れてしまっていたというのに。
ローラだけが、諦められなかった。
初めての恋を失ったことを認められずに、きらきらと心に残る想い出の欠片を掻き集めては、まだ綺麗だと、目を逸らしてきた。
でもそんな誤魔化しも、今日でおしまいだ。
「やはり、私では、駄目なのですね。他の。あの男爵令嬢を、レオン様は、選ばれて……」
「……」
「そうですか。もう、返事をするのも、お嫌ですか。私とは話し合うことすら、嫌だということなのですね」
この半年で胸に滓のように溜った淀んだ恨み言が、口から零れていく。
「フラン嬢は、関係ない」
「では、ただ私と結婚する未来が嫌だということですね。私自身が嫌いになったと」
「っ、それはお前の方だろう? 知ってるんだぞ、ずっとずっと、俺を裏切ってきた癖に!」
■
謂れのない非難をされて、頭がカッとなった。
「裏切ったのは、あなたでしょう、レオン! ばーかばーか、レオンのばーか。他の女の子ばっかり構って、私をパーティでエスコートもしなければ、笑いかけることもしなかった癖に!」
「っ! き、気が付かないとでも思ったのか。俺が渡した髪飾りは一度も着けない癖に、顔と爵位の高いだけの男から貰った髪飾りは毎日着けやがって」
「これは、イザベル様から頂いた飾りピンです!」
「この期に及んで、嘘を吐くな! 知ってるんだからな、それを買ったのは妹の方じゃないって!」
「顔と爵位の高いだけの男というのが私のことなら、私がその飾りピンを贈ったのは妹のイザベルにだよ」
レオンとローラが、ふたり同時に声がした方へと首を向けた。
「ふっ。息ピッタリだね、キミ達。妹から誕生日に普段使いできる髪留めをリクエストされたので、彼女の瞳の色に合わせた青い石の飾りピンを用意したんだ。そうしたら服装に合わせて幾つか違う色味の物も欲しいと強請られてね。購入した店を教えて、好きなだけ私の名前で買っていいと言ったんだ。多分、最初に買った妹の瞳の色合いの石の飾りピンが、いまローラ嬢の髪にあるそれだと思うよ」
思わずローラが飾りピンへと手をやると、なぜかレオンがその手を叩き落とした。
「なにするのよ、痛いじゃないの」
「煩い。そんなのをいつまでも着けている方が悪いんだ」
ごちゃごちゃと言い争いを始めた婚約者同士に構わず、フィリップは事実だけを提示していく。
「だから、それを買ったのは確かに私だけれど、贈ったのはローラ嬢ではないよ。妹のイザベルに贈ったんだ。私は婚約者のいる令嬢へ、贈り物などしない」
確かに、兄と妹なだけあってフィリップとイザベルの髪と瞳の色はよく似ていた。勿論顔つきもそっくりだ。赤毛らしい勝気な美少女といったイザベルと、より一つ一つのパーツを男らしく強くした眉目秀麗なフィリップは、誰が見ても血縁関係があると分かるよく似た兄妹で、勘違いの余地など入りようがない。
イザベルの瞳の色に似た石は、フィリップの瞳の色にもよく似ているということになる。
口喧嘩をしている最中であろうとも、関心のある話題ならレオンにはちゃんと聞こえているらしい。
何度か口を開けたり閉めたりを繰り返し躊躇しながらも、結局はその疑問を口にした。
「でも、だったらなんで。去年の夏は、領地に帰らないで、この男の家に行ったんだよ」
「去年の夏に、私がフィリップ様のタウンハウスへお伺いした理由ですか?」
「そうだよ! 毎年、夏は一緒に過ごして来ただろう。それなのに、お前は王都で過ごしてて帰ってこなかったじゃないか」
「ちゃんと伝えたでしょう? お父様が、ぎっくり腰になっちゃったからよ」
「伯爵がぎっくり腰になるとなんで、侯爵家に招待を受けるんだよ」
「違うわ。商談にお伺いする予定だったのよ、お父様が。けれどぎっくり腰になってしまって、馬車にすら乗れなくなってしまったの。仕方がないから急遽兄が出てきて商談の席につくことになったのだけれど、私とイザベル様が同級生だという繋がりからの商談だったから。兄に泣きつかれたのよ。『せめて横に座っていてくれ』って」
ローラの兄は現在二十歳。学園を卒業して二年が経ち、少しずつ家業について任されることも増えてきたけれど、どこか引っ込み思案で学園在学中に婚約者どころか一度も恋人らしきものを作ることすらできなかった。
そんな兄から泣きつかれて放っておけるほど、ローラは薄情な妹ではない。
「そんな……じゃあ、兄と寄り添って仲良さそうだったとイザベル様が言ってたのは……」
「まんまよ。私と兄のチャールズの事だと思うわ。でも、いつイザベル様とそんな会話したの?」
黙り込んでしまったレオンに、フィリップが肩を叩いて労った。
「申し訳ない。我が妹が、キミを混乱させてしまったようだ。想い合う婚約者同士にチャチャを入れて喜ぶなんて。本当にすまない」
フィリップが、眉を下げて妹の代わりに謝罪した。
爵位が上で歳上である先輩から、真摯に謝罪されてしまっては、受け入れるしかない。
さすがにレオンも、これ以上誤解し続けることは難しいだろう。そう思ったのに。
「……じゃあさ、じゃあなんで。なんで俺が贈った髪飾りは、着けてくれないんだ? 他に好きになった男がいるというのじゃなくても、俺の事が嫌いだからなんじゃないのか」
レオンが苦しそうに、それを告げた。
「正直に、言ってくれ」
顔を上げていることすらできなくなったのか、すっかりしょげかえり、足元を見つめるばかりになっているレオンの顔を、ローラはおもむろに両手でパチンと挟みこんで強引に持ち上げ視線を合わせた。
「あの髪飾りは、確かに華やかでとても素敵です。けれど」
「けれど?」
「パーティの席でしか着けられないほど、華やかすぎるのです。学園に着けていくなんてトンデモナイ!」
「え、あ。……そう、なのか? え、なにか決まりでもあるの?」
「あるのです。石を使うなら光の屈折が激しくならないようカボションカットの石のみがマナーですし、細工もシンプルにして揺れて音が立つようなことがないようにします。きらきらと反射して同級生の目に光が入っても、動く度に小さな音が延々と鳴るようなことになっても、勉学の邪魔になりますから」
「勉学の、邪魔になるんだ」
「そうです。邪魔にしか、なりません」
「う。でもさ、パーティの席でだって、着けてきたことないじゃないか」
「それを、あなたがいうのですか? 私のエスコートを直前になって断ってきた不誠実な婚約者である、あなたが?」
「え、あっ」
「『え、あっ』ではありません。婚約者であるあなたが他の令嬢をエスコートしているのに、その婚約者から貰った髪飾りを着けてひとりでパーティへ出席するなどあり得ないでしょう?」
「……ありえないのか」
「逆に、どうして着けられると思うのですか? 私は、婚約者であるあなたに、エスコートをして貰えなかったのに」
「……ごめん、ローラ」
「……レオン様こそ、どうして私以外の令嬢をエスコートされることに決められたのですか。それほどに、私と、婚約しているのが、お嫌でしたか」
ぽろり。本音が口からぽろぽろと零れていくのと一緒に、涙までが零れ落ちていく。
「ローラ! 違う、ちがうんだ。ローラが、俺からの髪飾りではなく、侯爵家の嫡男から贈られた髪飾りを常に身に着けているし、俺と一緒に過ごす夏ではなく、王都でその男と仲良く過ごしたと聞かされて。それで、それなら、親が決めた婚約者でしかない俺ではない男を選びたいというなら、それを邪魔しては、いけない気がして……」
「わたしに、他の男を選ばせようとした、と」
「ちが……わない。そうだ。ローラに、将来の選択ができる余地を作るべきだって。それが男の度量だと。でも、傍にいると変に嫉妬してしまいそうだし。ただ、悪い男に弄ばれるのは駄目だから、情報通っていう噂だった令嬢たちから、その男の話を教えて貰ってて。その報酬に、その、エスコートを」
最後の方は声にならずに、ごにょごにょと言っているだけになっていたが、なんとなく言いたいことは伝わったので聞き糺すことはしなかった。
けれど、だからこそ言ってやりたかった。
「納得できないことがあるなら、私に直接問い糺して下さればいいのに」
「ごめん」
「勝手に決めないで。勝手に、諦めないでよ、私を」
「ごめん」
「ふたりの、未来のことでしょう?」
「うん、うん。ごめん、ローラ」
「私も、ごめんなさい。去年の夏に会えなかった理由とか。もっときちんと説明するべきだったわ」
「うん、あれは悲しかった」
「ごめんね。他にもいろいろ。沢山寂しくさせちゃってた。レオンなら分かってくれるって。甘えてた」
「うん」
ふたりがお互いの腕に、お互いが縋るようにして近付き、抱き合う。
ローラのきっちりと纏め上げられていた髪に、レオンがほおずりする度に、それは解れてゆるやかにカーブを描いてローラの白い頬を縁取った。
「かわいい。俺の知ってるローラだ。ふわふわの髪をひとつに無造作に束ねるだけの」
「ふふっ。いつの私よ。でも、レオンがそういうなら、たまには下ろしてみるわね」
ローラが笑うと、レオンもホッとした様子で笑顔になった。
ふたりの視線が絡み合い、顔が近づいていく。
その時、パンッと大きな音がした。
「きゃっ」
「あっ」
「ここは学園の校舎内で、しかもまだ昼休みの時間なんだ。不純異性交遊は婚約者同士とはいえ禁止となる」
黙って去るべきなのかと悩んで校則を守らせることを優先した優等生の顔をしたフィリップが神妙に警告を発する。その顔はどこか優しい。
フィリップという観衆がいることをすっかり忘れてふたりだけの世界を作って抱き合っていたローラとレオンは、慌てて身体を離した。
「ヨシ! 良い物を見せて貰った。婚約者同士が愛を確かめ合う感動的なシーンは見れたし、私はここで席を離れて……少し、いや、しっかりと、妹を〆てくることにしよう」
「ぎくぅっ」
真っ赤になっているふたりへ、振り向く事もしないままフィリップが軽く手を振りその場を離れていく。
その先には、踊り場の陰から、様子を覗いているイザベルの姿があった。
「だって、ローラみたいな真面目でいい子がお姉さまになってくれたらいいなーって。いやん、お兄さま。ごめんなさーい」
■ SIDE:レオン
「勉強会?」
「そう。同じクラスにいる侯爵家のご令嬢から誘って頂いたの。主宰は上級生の方なのだそうなのだけれど、私達の学年でも参加していいんですって」
「侯爵家の令嬢なんかと仲良くなったんだ」
「よく図書館で勉強しているのを見ていてくれたらしいの。それで、お声をかけて下さったのですって。すっごくお綺麗なのに気さくな方でね、所作も美しいし、令嬢として憧れちゃうわ」
頬を上気させて話す婚約者が眩しくて、レオンは目を瞬いた。
入学した王都の学園で、残念ながらレオンはSクラスになった婚約者と同じクラスにはなれなかった。
レオンのクラスはBだった。そしてこのBクラスには、地方を治める貴族家の嫡男が多かった。跡取りという将来の道がすでに決まっているからだろうか。貴族籍を失わない為にも自らの価値を高めるべく勉学にのめり込む、次男や三男の令息たちのような熱意のない者がほとんどだった。
勿論、嫡男といっても本当の高位貴族は別だ。幼い頃から国政を担うべく英才教育を受けた彼等彼女等で、Sクラスは埋められていた。
そこに唯ひとり選ばれた田舎貴族の伯爵家の令嬢がローラだった。
──ローラがSクラスに選ばれたと知った時は、一緒に喜べたのに。
今は素直に喜ぶことが難しくなっている。そんな自分に、少しだけ胸が苦しかった。
「勉強会の内容は領地経営についての討論がメインだそうですけれど、学園の授業に関する質問も受けて下さるそうなの。レオン様も一緒に参加しませんか?」
「俺は、いいよ。やめておく」
その授業に関する質問を上手くすることすらできそうになかったし、あまりに低いレベルの質問をするのも恥ずかしい。
絶対に、ローラの足を引っ張ることになる。そんな自分が思い浮かんだ。
レオンは元から勉強があまり好きではなかった。
勿論、領地に関することは沢山知っていると自負している。
旨いチーズの作り方。旨いチーズが作れる、濃い牛乳を出す乳牛の育て方。牛の出産の補助。
農場の管理や夏の水の配分や、雪の季節の過ごし方。
領地を治める者として必要とされる知識は、幼い頃からずっと領地で教わってきた。
学園を卒業して戻ってからも、領地で暮らす領民や両親から教わっていくつもりはある。
だが、商取引に必要な法律や計算はともかく、学園でかなりの時間を割いて教わるこの国の歴史や近隣国の情勢や高度な数学などは正直なところ必要ないのではないかと思っていた。
「ローラは、知ること自体が好きだもんな。俺には構わず参加しておいでよ」
ふたりでいる時間が少なくなるのは嬉しくなかったけれど、侯爵家との繋がりができるのは、一次産業がメインとなる田舎領主家としては得難いものであった。
「え、レオン様は、参加なさらないのですか?」
「俺は、いいよ。他に、やりたいことあるし。行っておいで」
正直、ローラから“レオン様”と呼ばれるのも落ち着かない。心の距離を感じる。
けれど婚約者として正しい呼び掛け方だと教えられたと言われてしまえば、レオンに覆せる訳もない。
だから正しい婚約者としての態度らしく、重ねてローラだけの参加を勧めると、ローラは春の緑のような瞳を輝かせて頷いた。
──かわいい。寂しいからやめろとか言わないで良かった。
勿論、この時のレオンには他にやりたいことなんてなかった。
なんとなく見栄を張っただけだ。
勉強会への参加を後押ししたことを、後になって死ぬほど悔やむと、この時のレオンはまったく思っていなかった。
■
──また、だ。
「レオン様、音楽室へ移動されるところですか? 次の授業でしょうか」
綺麗に巻きつけられるようになったローラの色の薄い金色の髪。
後ろで束ねているだけでは、細い髪はすぐに縺れてしまう。
けれど、その縺れた髪が太陽の光を浴びて光るところを見るのが、レオンはとても好きだった。
それが観たい為だけに、幼い頃は本ばかり読んで部屋から出てこようとしない婚約者を外遊びへと連れ出していた。
けれど、いつの頃からかレオンの好きなやわらかな金髪はきっちりと纏め上げられるようになった。丁寧に香油を使って手入れをされるようになった髪は艶やかで、おくれ毛すらない。
隙のない髪型に、レオン以外の男から贈られた飾りピンが華やぎを添えている。
レオンが、王都に来て初めてひとりで買い物をして贈った髪飾りは、いまだに一度も着けてみせてはくれないのに。
ローラの髪を飾るそのピンを見る度に、胸の中で黒い滓のようなものが渦巻く。
レオンはそれに耐えて、いつもじっと見ている事しかできなくなっていた。
『これ? イザベル様が下さったの。あの方の瞳の色の石なんて恥ずかしいのだけれど、どうしてもって言われて』
初めてローラの髪にそれが飾られていることに気が付いた日。つい見つめてしまったレオンに、はにかんで笑ったローラの顔。あれは、嘘をつく後ろめたさを隠す笑いだったのかもしれないと考えるだけで、苦しい。
俺の好きなローラはそんな子じゃないと思う。
思いたいけれど、今となっては、違うと否定しきることもできなくなっていた。
そんな自分がただ情けなかった。
『拾って下さったのね、ありがとう。大切な物なの』
廊下に落ちていた、婚約者の髪に着けられていたモノにそっくりで石の色だけが違う飾りピンを拾った所で、ローラを勉強会に誘ったというあの侯爵令嬢から声を掛けられた。
差し出したピンを受け取る指は白くて人の手と思えないほど細かった。
多分、我が領地で農作業なんか絶対に手伝えない。あっさりぽっきりといってしまうだろう。
そう思って見ていただけなのに、ご令嬢は飾りピンを手に嫣然と笑って言った。
『これ? おにいさまが、贈って下さったモノなの。もしかしたら、未来の義姉になって下さるかもしれない方とのお揃いが欲しくって。無理を言って強請ってしまったの』
視線を勘違いしたらしいご令嬢の無邪気な言葉は、レオンの心を木っ端みじんに破壊した。
あの後、どうやって寮の自室へ帰って来たのか分からなかった。
いつも一緒に寮に帰る為にローラを図書室まで迎えに行っていたのだが、それすらしたのかさえ思い出せない体たらくだった。
だが、翌朝ローラから責められたりすることもなかったので、ちゃんと寮まで送り届けることはしたのだと思う。多分。
それ以来、愛しい婚約者の髪を飾るそれが視界に入る度に、レオンの腹の奥へと黒い滓が溜まっていくようになった。
侯爵令嬢の兄が誰なのかは簡単に知ることができた。
一学年上の先輩で、入学以来学年一位を取り続けている麗しの侯爵令息。
恋愛結婚をした両親の方針で、いまだに婚約者も持っていないというのは有名だ。
だからたくさんの令嬢たちから狙われているけれど、彼の開いている勉強会には優秀で将来有望な生徒しか呼ばれないという。そんな勉強会に、ローラは誘われて席を得ている。
それだけではない。個人的に邸宅に呼ばれるなど交流を深めている。兄妹どちらからも特別扱いされている。
それが意味するところを理解できないほど、レオンは愚鈍ではない。
唯一、レオンに勝ち目があるとしたら、ただ隣の領地に生まれたというだけ。
幼馴染みでなければきっと、ふたりは婚約することもなかった。
子犬のようにじゃれ合って育った。
泣いても泣かされても、喧嘩をしてもすぐに仲直りできた。
会えると思うと嬉しくて、構い過ぎて泣かれて、悲しくなって喧嘩した。
それでも、別れ際には仲直りして、また会おうねって約束した。
ずっとずっと。そんな風に傍にいられるのだと、信じていた。
そんな一番近くにいる少女に、恋をしていると自覚したのはいつだっただろう。
それすらはっきりと思い出せない。それほどずっと傍にいた。
その内に、親同士が話し合って、婚約することになったのだ。
だから、そう。ふたりの仲を繋いでいるのは、親が決めた婚約。ただそれだけだ。
太陽の下よりも家の中で本を読んでいる方が好きで、成績だってとても優秀なローラは、多分きっと、あの麗しの侯爵令息の手を取りさえすれば、あの侯爵令嬢みたいな細くて白い指にだってなれるのだろう。
幼馴染みというだけで婚約者となったレオンが、この恋を手放すだけで、それは叶うのだ──
■
もう無理だ。婚約者の地位にしがみついていることすら、辛い。
初めての長期休み。
夏の空は高く晴れていて、ローラと同じ長距離乗合馬車に一緒に乗っているだけで胸のつかえが消えていった。
「あとでまた会いにくるよ」
先に着いたレオンの領地からローラの家まで、伯爵家の馬車で送っていき、確かに落ち着いたら一緒に会おうと約束して別れたというのに。
親族ともひと通り挨拶回りを終わらせて、領地も廻り終えたので、そろそろ会いたいと先触れの手紙を出そうとした時に届いたのは、彼女からの誘いの手紙などでは勿論なく、断りの短い手紙だった。
『ごめんなさい。父がぎっくり腰になってしまったので、王都に向かうことになりました。新学期には、あちらで会いましょうね。 ローラ』
短いメッセージは、文字の綺麗なローラにしては焦った様子の崩れた文字で書かれていた。
「どういうことなんだ?」
レオンやローラのような田舎貴族家には王都にタウンハウスなどない。
王都に戻ったとしても、学園が休暇に入ってしまっているので、今からでは寮に泊ることもできない筈なのに。
嫌な想像が頭を過ぎる。
「王都って。一体どこへ行ったんだ、ローラ」
***
「はぁ……」
新学期に合わせて王都へと戻ってきたレオンの顔色は冴えないままだった。
ローラに手紙を書こうにも何処にいるのかも分からないのだ。
ならば、ローラの家へ問い合わせるべきなのだろうが、婚約者なのに何も教えてもらえなかったなどとどう切り出したらいいのかも分からず、結局何でもできないまま休みは終わってしまった。
「学園辞めたくなってきた」
学園に一番近い乗合馬車乗り場から、とぼとぼとひとり荷物を抱えて寮に向かって歩いた。
長期休暇が始まって、ローラと一緒に領地へ向かった時は目に入るすべてが嬉しくて楽しかったというのに。
まだ入学して半年。そんな弱音を吐く自分が情けなくて仕方がなかった。
まずは男子寮に向かい、受付を済ませて、荷物を置いたら、女子寮へでも向かってみようか。
「いや、まずどこかで腹ごしらえしよう」
寮の食事は朝と晩のみ提供される。これは学園が休みの間も適応される。
昼食は途中で止まった宿で作って貰ったサンドイッチを馬車の中で食べはしたが、夕食の時間まで持たない気がした。
「屋台で買い食いだと、手荷物から目を離すことになるしなぁ」
一度寮に荷物を置いてから食べに出かけるのはさすがに億劫だった。
女子寮にローラを探しに行って、彼女がいなかったら更に気が滅入ることになるだろう。
腹が減った状態でそんなことにでもなったら、立ち直れる気がしなかった。
「仕方がない。ランチタイムを過ぎてしまったこの時間に開いている、ある程度のランクの店といえば……そうだ、一度ローラと来たカフェがあるな」
記憶を頼りに鞄を抱えて歩くと、記憶の通りの場所に、そのカフェはあった。
ただし、ローラと一緒ならともかくレオンひとりで入るには少し勇気が必要な愛らしい造りの店ではある。
「端っこの席にして貰って、ささっと食べて帰ろう」
席に案内されて、コールドミートを使ったボリュームのあるサンドイッチとミルクたっぷりの珈琲を注文すると、すぐにそれは運ばれてきた。
パンの表面はカリッと焼いてあって香ばしい。
そして、かぶり付くとすぐに口の中に肉の旨味と酸味のある複雑な味わいのソース、そして新鮮な野菜の味が広がる。
「さすがに旨いな。けど、俺はどっちかというと昼に食べたサンドイッチの方が好きだな」
何肉か分からない夕食メニューに出たグリル肉の残りをこそげたものに、たっぷりのマスタード。そして茹でて潰したじゃが芋が挟まれている。
シンプルに、腹が膨れることだけを考えたサンドイッチ。働く人の為の食べ物だ。
比較をしてはみたものの、どちらも美味しく食べて貰う為に料理人が真面目に作ったものであることに違いはない。
欠片ひとつ残さぬよう、レオンはゆっくり味わって食べた。
「ミルクたっぷり入れた珈琲も、元の珈琲が違い過ぎるのか領地で飲むのと全然違うな」
乳脂肪に負けないふくよかな珈琲を飲んでひと息ついたところで、そろそろ寮に向かおうかと席を立とうとした。
そこへ、どこかで聞いた事のある声が耳に届いた。
「うふふ。あの時のローラったら緊張しちゃって、可愛らしかったわ」
「もう。そんなに揶揄わないでください、イザベル様」
「あら、いいじゃないの。おにいさまともとても仲がよろしくて。ずっと傍から離れようとされないんですもの。ふふ。あまりに愛らしいおふたりの様子に、わたくし、思い出すだけで笑顔になってしまうわ」
この会話をしているのが、誰と誰なのか。
レオンには、顔を見て確かめるまでもなかった。
ふたりの令嬢たちが甘いケーキと香り高い紅茶、そして会話をたっぷりと楽しみ、帰っていってからも、レオンは壁際の席から立つことはできなかった。
■
カフェでの記憶において、なによりもレオンを苦しめたのは、あの会話を聞いていたのは、レオンだけではなかったということだ。
当たり前だ。
あの時、レオンがあの話を聞いてしまったあの店は、お茶を愉しむ沢山の客でにぎわっていたのだから。
新学期が始まってからというもの、本気で心配した様子のクラスメイトや、ただの冷やかしや揶揄いの言葉をかけたいだけの輩までがレオンに憐みの視線を送ってくるようになった。
沢山の生徒たちから伝えられる、「ねぇ、知ってるの? あなたの婚約者ったらね……」何度も繰り返される形だけは忠告の言葉。
中には、「あなたがしっかりと婚約者を捕まえておかないからいけないんですのよ」と上級生の高位貴族の令嬢たちからまで「だから田舎貴族は」と因縁をつけられる始末だ。
どうやらローラ本人にはすぐ傍にフィリップ様とやらの妹であるイザベル嬢がついている為に何もできないとばっちりを受けているらしい。
「まぁ、俺も婚約者であるローラに何も訊けてないんだけどな」
自嘲する呟きは、誰の耳にも届かず風に紛れていくばかりだ。
レオンの前で、あまり笑わなくなったローラに、何を訊けばいいのだろうか。
最早、彼女とどんな風に何を話して、笑い合っていたのかも思い出せない。
彼女の髪に、あの侯爵令息の瞳と同じ色の飾りピンを見つける度に、言葉が出てこなくなる。
あの、カフェでの会話が頭の中で繰り返される。
「俺が、俺から手を離すべきなんだろうなぁ」
それを待ち望まれているのかもしれない。そんな考えが浮んで、ただ胸が苦しかった。
***
夢を見た。
まだ幼かったローラとふたり、将来の夢を語っていた。
『俺は、領地のみんなで食べても無くならないくらいデッカくて、世界で一番うまいって言ってもらえるチーズを作りたい!』
子供らしいといえばらしい、阿呆な夢を口にするレオンとは対照的に、きらきらと瞳を輝かせながら手に持った本を撫でながら、ローラが語る。
『私は、いろんな事を知りたいわ。たくさんの本を読んで、何でも知ってみたいわ』
挿絵がいっぱいあるならともかく、文字ばかりの本を見ているとあっさりと夢の中へと落ちてしまうレオンには全く分からない夢だった。
けれど、それを語るローラの瞳はきらきらと輝いて楽しそうだった。それを見ているだけでレオンも嬉しくなった。
『それって勉強がしたいってことか。ローラは王都にいきたいの?』
『そうね、おとうさまとおかあさまから話を聞いたことがあるの。学園には大きな図書館があって、学園に通っていた三年、通い詰めたけれど読み切れなかったっていってたわ。再来年にはおにいさまが通うんですって。いいなぁ、私も早く学園に通いたいなぁ』
夢から覚めても、レオンはしばらく動けなかった。
気が付けば、頬が濡れていた。
「やばい。夢を見ながら泣くんじゃなくて、夢を覚えてて起きてから泣くのってどうなの」
ヘラヘラとした笑いが唇に浮かぶ。
枕元においていた、去年の誕生日に貰った飾り紐を手に取る。
まだ、勉強会に誘われてすぐだったから、少し拗ねてしまってはいたかもしれないけれど、素直に受け取れた。
祖父から受け継いだ懐中時計にぴったりのその紐は、ローラ自身が編んでくれたものだ。
丁寧に編み込まれたそれを、指でなぞっている内に、心が落ち着いた。
自分でも、不思議だった。
あれほど悩んで胸に溜っていた滓が昇華していったようだった。
「まずは、あの野郎の情報を集めて、ローラを預けるに値するって納得出来たら」
ローラへ、離れようと宣言するのだ。
■
自分から手を離すと決めた癖に、誕生日の贈り物を、ローラが、昼休みの食事中に、立ったまま手渡ししておしまいにしようとしたのは、キツかった。
差し出されたのは、ちいさな紙包みで、細いリボンが掛けられているだけの簡素な物だった。
早く受け取れという圧を感じる。
受け取ったなら、義務は果たしたと、その足で侯爵家の兄妹の所にでも行くつもりなのだろう。
手を離すと決めたのは自分なのに、何故か猛烈に、悲しくて悔しかった。
「なんて無粋なんだ。今、俺はフランと話をしているんだ。勝手に話へ割ってくるな。後で時間を取る」
そう言って、手を振っただけのつもりだった。なのに。
パシッ。
差し出されていた包みに、振った手が当たってしまった。
「あっ」
それは思いの外勢いよく窓の外へと飛び出していき、ローラが伸ばした手を越え、テラス席の柵を越えていく。
ぱしゃん。
中庭の、前日の雨でできた水たまりの中へと落ちる音がした。
「あぁ……」
柵に縋りつき、下を覗き込んだローラが落胆の声を漏らした。
さすがにそんなことをするつもりはなかったので、慌てて言い訳を口にした。
「わ、わざとじゃない。けど、こんなところで立ったままとか。そっちだって酷い」
こんなことを言いたい訳じゃないのに。ちゃんと謝らないと駄目だ。
それなのに。
謝罪の言葉を探している間に、ローラは踵を返して去ってしまった。
「うわー、さすがにあれは駄目ですよ、レオン様」
「フ、フラン嬢。すまないが、ひとり置いていってもいいだろうか」
「早く追って差し上げて下さい。黙って置いていかれるようでしたら、反射的に捕まえようとしちゃったかもしれませんけど。変な所で紳士ですよね、レオン様って」
ひらひらと手を振るフランに背中を押される。
「ありがとう。約束した将来の婿候補は必ず見つけるから!」
手を振り答えて、走っていったローラを追いかけた。
***
「あんなに未練たっぷりじゃどうにもならないわよねぇ。一緒にいても、ローラさんがいかに優秀で、侯爵夫人になってもやっていけるほど素晴らしいかって話と、幼い頃の思い出を延々と繰り返し聞かされるばっかりだし。あーあ。私も、誰かにそんな風に一途に想われたいー!!」
■ エピローグ:顔と爵位がいいだけの先輩と兄の事がだいすきな妹の話
「でもおにいさまだって。本当は彼女を気に入っていらしたでしょう?」
涙目になって耳を押さえる可愛い妹を、兄が目が笑っていない笑顔で問い掛けた。
「まだそんなことを言っているのかい。私の妹は、存外頭が悪かったようだな。失望したよ」
やれやれとばかりに、両掌を肩の高さで天に向け、首を横に振ってみせた。
そこまでして見せたというのに。妹がその愛らしい唇を尖らせてまだ言うのだ。
「でも。おにいさまが笑いかける令嬢なんて、ローラだけじゃない。だから、わたくし……」
しょんぼりと肩を落とした妹の、綺麗に纏められた髪をぐりぐりと乱暴に撫でた。
「きゃあ、やめてくださいまし。髪が、セットが崩れますわ!」
騒ぐ妹を無視して「罰だ」と呟き、更に両手に力を込めて乱暴に撫でてやる。
すっかりぼさぼさになったところで手を緩めた。
「馬鹿だな、そんなの。お前が自分から欲しいと動いた、数少ない友人だからだよ」
「……そうですの?」
ぼさぼさの頭のまま見上げてくる、ぽかんとした表情の妹へ、笑顔を向ける。
「勿論だ。あぁ。それと、私の顔と地位だけをみて目の色を変えるような令嬢ではなかったのも大きいな。まぁ、そんな狩人みたいな令嬢をお前が友人に望む訳ないだろうがね」
「そうでしたか。わたくし、勘違いしてしまって。恥ずかしいですわ。ローラと婚約者様にも謝らなくてはなりませんね」
しょんぼりとしていた妹の顔が幼い頃のような甘えたそれに変わっていくのに、目を眇めた。
理想の令嬢だと賞されるようになった妹がみせなくなってしまった表情だった。
やはり兄という生き物は妹に弱いのだなと、諦めの入った息をはいた。
ぼさぼさになった髪を、ゆっくりと手櫛で整えてやる。
「あぁ、そうだ。それがいい」
この会話に疑問など持たず。
受け入れてくれ。
私も、心に宿りかけていた想いに、気が付かなかったことにするから。
婚約者に疎まれている哀れな令嬢などいなかった。
新しい知識や気付きに目を輝かせる礼儀正しい令嬢の記憶は、婚約者と心を通わせた幸せな笑みで上書きされた。
後輩の幸せを祈る、優しい尊敬される先輩。
それが自分に求められる立ち位置なのだから。
ちなみに男爵令嬢フランちゃんは、ローラとイザベルのお揃いの飾りピンを取り扱っている商会の娘です。
あのピンをローラに買い与えたのが侯爵家の嫡男かどうかをどうしても確かめたかったフィリップが接近して情報を得る代わりに、婚約者候補になりそうな上位貴族の令息を紹介することになっていました。
でも実際に狙われてたのはレオンだったっていう☆
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2024.02.16 レオン視点を後半に加筆しました。
よろしくお願いしますー
2024.04.17 エピローグ代わりに、爵位と顔がいいだけの先輩と妹のお話を入れておきました。
よろしくお願いしますー
お付き合いありがとうございましたー!
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ちぐ/日室千種様(@ChiguHimu)より
万感の想いを込めて頬ずりを満喫するレオン君
FAを頂いてしまいました☆
分かりあえていると信じていればいるほど言葉足らずになり、そこから心がすれ違っていく。
仲良しの喧嘩って大抵そこから始まる気がします。
ローラちゃんが爆発してくれて、本当に良かったと思っているに違いないレオン君なのでした☆
ありがとうございましたー(∩´∀`)∩♡