氷の瞳の婚約者
私──ケイティ・アロキンスの婚約者であるオリバー・オブナガンは溶けることのない氷の瞳を持つ貴公子だともっぱらの噂である。
確かに切れ長の瞳は薄い青色をしていて少しは氷を連想させるかもな……なんて思わないでもないし、伸ばして結んでいる髪の色が青みがかったグレーなのもそういった印象を助けているのかもしれない。
眼鏡をかけているのもクールなイメージに一役買っているのではないだろうか。とはいっても、別に見た目だけで氷の瞳なんて言われているわけではない。
我が婚約者は、人前で笑わないのだ。
そのせいで「産まれてから一度も笑ったことがない」とか、「どんな女を見ても心を乱すことがない」とか、果てには「呪いで笑うことができなくなった」とか、とにかくそんな感じのどこの物語から出てきた王子だと言いたくなるような噂が山盛りある。
それでもそんな噂が山盛りあるだけなら特に害もないしかわいらしいものだ。しかし中には噂を聞いて我こそは氷を溶かす乙女なりと名乗りをあげてくる者もいるのだ。
いや私の婚約者なので。5歳の時から決まっているし、両家の仲もすこぶる良好なので。
そんなわけで名乗りをあげられても大変困るのだけれども、恋に恋する乙女というのは他人の都合など知ったことではないらしい。
興奮して突撃してくる姿を乙女というよりも猪かなにかに例えた方が良いような気がしてくるのは許して欲しいものだ。
「貴女が婚約者だから、オリバー様は笑えないの!」
「……はぁ」
完全に恋とか愛とか色々なものに酔いまくって突撃してくる人の、夢見がちな台詞には一体なんて返すのが正解なんだろうか。未だに私には答えが見つかっていない。
そもそも伯爵家同士の婚約に横から口突っ込んでなしにしようとするなら、それなり以上の家格と道理を引っ込めてでも無理を通すだけの政治的手腕が必要だろう。そこに令嬢の健気な愛とかは別に必要ない。
「このままではオリバー様がかわいそうです!」
「婚約者を哀れんでくれてどうもありがとう」
「私ならっ、私なら貴方と違って、氷を溶かすほどの愛を捧げられます!」
こんな台詞をそらんじて言えるなら、もう舞台女優でも目指した方がいいんじゃないだろうか。照明を浴びているわけでもないのに一人大盛り上がりする彼女を眺めながら、これを見せたら確かに彼も笑うのではないかと考える。
それはもう、文字通りに。
「氷の瞳を溶かしてさしあげられるのは私だけ……らしいわよ」
「あっは、はーっ、いやそれは、ふっ、ふふ、自信がおありだ、いやー、くっ、笑えて、ふぐ、し、仕方がないな」
本当に文字通り、私の婚約者は笑っていた。それはもう派手にうるさく、なにが凍ってるって?と聞きたくなるくらいには笑っていた。
私の前でお腹を抱えて笑い転げる男を眺めつつ、これを見せたらあのご令嬢たちがどんな顔をするのか考えてしまう。
「氷の瞳の笑顔が見れても、これではねぇ」
眼鏡もずれてるし、涙まで流して笑ってるもの。彼女達が見たいのはきっと愛する人へ向ける微笑みとかであって、決してこの大爆笑ではないはずだ。
私としてもすっかり見慣れてしまっているけれど、これにときめくかと言えば否である。いつものことだけどよくそんなに笑えるわね、くらいのものだ。
「しかし溶け、ふふっ、溶かしてっ、さ、さしあげる、くっ……婚約者に言うとは随分と、ぐっ、ふ、はは、血の気の多い……」
「笑うか話すかどちらかになさいオリバー」
顔色が変わらないとはなんだったのか、今は比喩でなく赤く変わっている。それだけ沈着冷静だという意味だとしても、この状態では沈着も冷静もあったものではないだろう。
クールという形容詞もどこかに忘れてきたような有り様であるし、切れ長の瞳なんてひーひー言いながら笑っている姿ではあまり意味もない。
話すのをやめて笑いに専念する姿など、いっそ貴公子とは一体なんなのかと聞きたくなるくらいだ。
少なくとも婚約者とお茶をしているのに笑いすぎで折りたたまれたような姿になっているのは奇行であっても貴公子たりえる行動ではないと思う。
そもそも、オリバーは元からこういう男なのだ。
婚約者になると引き合わされた幼い時から、彼はよく笑う子供だった。いつもニコニコしているだけでなく、面白いことがあると止まらない程度には笑う子供だった。
そんなオリバーだったのだけれど、幼いながらに男としてなのか貴族としてなのかのプライドを持っていて笑い転げる彼をかわいらしく面白い子供として見る周囲の目に「いつも笑っているとなめられるかもしれない!」と本人としては真剣に悩んだ。
真剣に悩んだ結果、出会ったばかりの幼い私に相談をして。
「じゃあ外で笑わなければいいんじゃない?」
という大変に子供らしいアドバイスをされ「ケイティは天才だ!」と採用してしまい。そして真面目な顔を作っていたのを「理知的なお子さん」と褒められたために、これはいけると突き進んだ。
そうやって努力の方向性をだいぶ間違えたオリバーは、ただの愛想の悪いやつにはなるまいと色々なことに励み、そしてその色々なことで普通以上に優秀になってしまった。
もうその頃にはこれだけ優秀なのだから笑っていてもなめられないんじゃないの?と思わないでもなかったけれど、オリバーは達成感を感じていたし私や家族と一緒の時は前と変わらなかったから止めずにそのままにしていた。
そうしてオリバーは完璧な"笑わない"外面を作り上げた。それは学園に入学してからも剥がれることはなく、なんならより便利に使っているように思える。
学園に入学してしばらくは男同士の付き合いもしていたみたいだったけど、生徒会に入ってからはそれもあまりなくなった。大変に仕事熱心だという話はよく聞く。
生徒会役員とはいえそんなに仕事熱心でいいの?遊びたくならない?と聞いたら、めんどくさくてケイティには関係ない話(おそらく婚約者絡みの愚痴や下世話な話だ)をしなくてよくなり大変快適だとご機嫌だったのでその後は特になにも言っていない。
そんなこんなと過ごしているうちに、笑わない姿がなんだかミステリアスにでも見えたのだろうか?オリバーに関しての噂が色々と囁かれるようになった。
本当のオリバーを知っている人間からしてみると彼でなくとも笑ってしまいそうな噂は、知らない人間からしてみたら信憑性があったらしい。そうやって尾ひれや背びれがつくどころか、足でも生えて駆け出していきそうな噂が出来上がった。
「噂によると、氷の瞳の貴公子であるオリバー様は笑うと死んでしまうらしいわよ」
「ぐっ……ふ、それじゃっ、く、はは、いま、今死んで、くっ、ひ」
「そういう愉快な方向性の笑い死にではないと思うわ」
氷なんだから儚く溶けるとかではないだろうか。噂でキャーキャー言っている乙女としてはさすがに氷の瞳の貴公子が笑い死ぬところにときめく趣味はないと抗議したくなると思う。
人間が溶けて死ぬというのもはたしてロマンチックか?と聞かれれば私は絶対にお目にかかりたくはないが。そこは言わないのがお約束だろう。
少なくともひーひー笑ったりしないミステリアスで儚い状態を最期まで維持して欲しいということだろう。既に崩壊しているのは知らぬが花だ。
でも「本当のあの方」とか言うのだから、案外これも受け入れられるのかもしれない。それとも思ってたのと違うと逃げ出すとか、そっちの方がありそう。
「これを見たら百年の恋も覚めそうだものね」
「えっ!?ちょっと待ってくれ、冷める?」
「覚めるでしょう?あの娘達が好きなのは氷の瞳の貴公子様で笑い転げてるオリバーじゃないもの」
笑いを引っ込めて、急に悲鳴のような声をあげたオリバーをなにを言っているんだという目で見る。見られた当人はだらりとソファーに寝そべって、へらりとこちらに笑いかけていた。
「ケイティが苦労をしたのに笑ったから、愛情が冷めたと言われるのかと思った」
「本当に大変だったら貴方に笑い話として話したりしないわ」
「その認識は間違ってなかったんだね?」
婚約者で幼馴染みのような関係である私よりオリバーのことを知ってるなんて勘違いをしているなんて言われたら、普通は面白くないだろうとは思う。
でもそれが脚色されまくって最早別人になっている噂の中の氷の瞳の貴公子様だとしたら、もう笑い話にでもするしかない。憤慨したところで彼女たちが恋い慕っているのは私の婚約者ではないのだから。
「私の見た目でいけると思うのでしょうね」
「ケイティにどうして勝てると思うのか、俺としては不思議で仕方がない」
「貴方と並んだら地味だもの」
茶色の髪に緑色の瞳はありふれているし、指通りがいいと言えば聞こえがいいけれど癖のない髪は特徴にかける。顔立ちも悪くはないが特別いいと言えるほどではないと思う。
貶されるような容姿をしているとは思わないけれど、見目麗しいオリバーと並んだら確かに見劣りするだろう。オリバーは褒めるけれど、確実に幼馴染みで婚約者の贔屓目があると思っている。
でもオリバーは自分を選ぶはずと胸を張って言えるご令嬢のことを羨ましいとかそういう風には思えない。むしろナルシストなんじゃないかと思ってちょっと引く。
だって自分の美しさなら婚約に割り込んで奪い取れると思うなら、どれだけ自分の容姿に自信があるんだという話になるし。そこまで言うなら顔ひとつで国でも傾けられるようになってから出直してほしい。性格だというなら、それこそどの口がとしか言えない。
「私はあそこまでの過剰な自信は持てないしね」
「名乗り出た彼女たちは部屋に鏡がないんだろうか、家から送って貰えばいい」
「今度それを直接言ってあげたら?冷たくて素敵って盛り上がるかも知れないわよ」
オリバーがあからさまに嫌そうな顔をしてため息をついた。ご令嬢方へのサービスは冷たい言葉だとしても提供したくないらしい。
私からすれば笑い話にしかならない夢見る乙女たちも、彼にとっては勝手に作り上げた知らない自分の信奉者なのだから関り合いになりたくない気持ちは少しわかる。話が通じない相手というのは対応に体力を持っていかれるものだ。
「そろそろ噂をどうにかしないといけないな」
「あら、学園で笑い転げるつもりかしら」
「……そうだね、転げはしなくても笑うのはいいかもしれない」
にっこりと微笑んだオリバーになんだか嫌な予感がしたのは、長い付き合い故の婚約者の勘だったのかもしれない。
休み明けの学園では、あちこちで騒ぎが起こっていた。そうは言っても別々の場所で違うなにかが起こったわけではない。単純に騒ぎの元凶が動いて移動しただけだ。
騒ぎの元凶とは婚約者であるオリバーと、大変に不本意ながらこの私である。不本意すぎて1日の半分も過ぎていないというのにだいぶ疲れてぐったりしているが、まだまだ騒ぎは収まりそうにない。
「それもこれも全部オリバーのせいだわ」
「愛しの婚約者にそんなことを言われたら、流石の俺も泣いてしまいそうだ」
「貴方が小さい頃、庭で蜂に刺されてわんわん泣いたのを言いふらしてやろうかしら」
幼い私が隣で「オリバーが死んじゃう!」と泣きじゃくったことは、とりあえず棚にあげておく。あの時のオリバーは自分のことで手一杯だったので、二人を見ていた兄が聞いていない限り私のことは蒸し返されないのだ。
そんな甘さもなにもない会話がきっと聞こえていないのだろう。微笑むオリバーの姿だけを目にした下級生が悲鳴とも歓声ともつかない声をあげた。
つまりは単純に、オリバーは私と一緒にいる時だけ微笑むようにしたというだけの話であるのだけれど。これは想像していた以上にものすごい効果を発揮した。
学園中どこでもオリバーと二人でいる限り、それはもう人からの視線が刺さる。それらを体に突き刺したままオリバーが私を見て愛おしそうに微笑むものだから、見物人達は大興奮だ。
サービスはしないんじゃないかと言ってやりたかったけれど、顔を向けたら微笑みが返ってくるのがわかりきっている。私から周りに騒ぐ口実をプレゼントするわけにはいかないとグッとこらえた。
私がグッとこらえたところで隣にいるオリバーは勝手に微笑むのだから無駄な抵抗だとはわかっているのだけれど、無駄だとわかっていても抵抗する自由はあるだろう。
「今のケイティは一生懸命に爪を立てる子猫のようだね」
だけど耳元で囁かれるなんて、そんなことはさすがに想定外だった。慌てて真っ赤になった耳をおさえた私を見てオリバーは愉快そうに笑う。見慣れたいたずらを成功させた時の顔に、思わずカッとなってしまった。
「ちょっと、オリバー!」
「ふふ、俺の愛しい婚約者は相変わらず恥ずかしがりのようだ」
よく響く声で言われた後、恭しく手を取ってキスされて。きゃあという周囲の声を聞きながら「やられた」と思った。オリバーはきっと最初からこれを狙っていたのだ。
そうでなくては、わざわざ聞こえるような声で言うはずがない。これを聞かせるために私に付きまとうように一緒にいて、いたずらに怒った私をまるで愛を囁かれて取り乱したように見せたのだろう。
「嵌めたわね、オリバー」
「事実だよ」
「そんな事実はないわ」
「君が気づいていないだけで、俺は昔から知っていたよ」
池のほとりではじめてキスをしたときに突然のことに驚いた私がオリバーを池に落としたことを持ち出されたので、私はなにも言い返すことができず口を閉じる。
悔し紛れに睨み付けたけれど、何が氷の瞳だと言いたくなるような顔で微笑み返されただけだった。
それから、大変に……大変に不本意なのだけれど、オリバーの思惑通りに氷の瞳の貴公子の噂は別のものになった。
そしてあろうことか「恥ずかしがりの愛しい婚約者に外で愛を囁くと拒絶されるものだから、それを外に出さないようにしていたのだ」という噂をオリバーはにこやかに肯定してしまったのだ。
その上いけしゃあしゃあと「二人きりの時は許してくれるのだけれど」などと言ったために、私はよくわからない羨望の視線を浴びる羽目になった。
私に突撃してきた人たちはしばらく魂が抜けたみたいな様子だったけれど、しばらくしたら別の人に狙いを移したようだった。恋する乙女というのは思っているよりもずっと、図太くてたくましいのかもしれない。
「事実無根の噂をどうにかしたいものだわ」
「俺は真実だと思っているけれど」
恨みがましいと自分でも思うような目線を向けているはずなのに、オリバーは涼しい顔で受け流している。それがまたなんとも腹立たしい。
恥ずかしがりなどと言われて、どうして私ばかりが恥ずかしい思いをしなければならないのか。前の噂だって別にオリバーは恥ずかしくなかったのに。
「いっそ私も人前で愛でも囁いてやろうかしら」
そうしてオリバーを思い切り狼狽させて恥ずかしがらせてやるのだ。そう思って言ったのに、どうにも思っている反応をされない。
むしろなんだか、というかあまりにもあからさまに喜ばれている様子に目を瞬かせた。
「それはいいね、とてもいい」
溶けるような瞳で見つめられて、なにが氷の瞳よと心の中で文句を言った。私は今まで一度だって、あの瞳が冷たい色をしているところを見たことがないのだから。
「いっそ火傷しそうだわ」
とかして差し上げる必要なんてどこにあるのか、こちらの方がとけてなくなってしまいそうだというのに。
見つめられながら口に含んだ紅茶は、少しさめて渋いはずなのにトロリと甘いような気がした。