不思議の国のみことさん
みことさんが303号室に招いてくれたのは、GW最終日だった。
「飛鳥さん、GW中はずっと暇だと言ってましたよね」とみことさんはちゃんと覚えていて、「特訓する期間をください!」とのことで最終日に設定されたのだ。
みことさんの「特訓」とやらに時間を要するのかは分からなかったが、少なくとも、飛鳥には心の準備に時間が必要だったので、異存はなかった。
「ようこそ。飛鳥さん。靴を適当に脱いで上がってください」
玄関まで迎えに来てくれたみことさんは、白いエプロン姿だった。水色のワンピースに白いエプロンの組み合わせは、金色の髪と相まって、まるで「不思議の国のアリス」に見える。
考えてみると、みことさんは、見た目だけでなく内面も、まるで「不思議の国」の住人だ。フワフワとしていて掴みどころがない。
公園で言われた「飛鳥さんって可愛いお顔をしていますよね。私の好みです」という台詞は、ここ数日ずっと飛鳥の頭をグルグル回っているが、もしかするとこれも「アベコベ言葉」の一種なのかもしれないな、と思う。
飛鳥が招待された「不思議の国」は、みことさんの甘い匂いと、それから、美味しそうなコンソメの匂いがした。
「良い匂いがしますね」
「今日は飛鳥さんのためにロールキャベツを作りました!」
みことさんの「手作り料理」が何なのかは今日まで「内緒」だった。
ゆえに飛鳥はアレコレ想像していた。
みことさんのスピリチュアル傾倒を考えれば、コウモリの膀胱をイモリの血で煮た鍋などの「魔女料理」の可能性もあるなとさえ思っていたので、ロールキャベツと聞いてホッとした。
ーーいや、少しもホッとできない。
ロールキャベツというのは、手作り料理の中でも、「手作り」と度合いがとても高い。
ミンチ肉を捏ねるのも、それをキャベツで包むのも、文字どおり、みことさんの手によるものなのだ。
そんなの、飛鳥にはあまりにも刺激が強過ぎる。
玄関を上がって通されたリビングは、いかにもみことさんらしい部屋だった。
カーテンとカーペットはパステルピンクで統一されており、とても女性らしい空間である一方、角に塩が盛られていたり、本棚の上に牛の頭蓋骨が乗っていたりする。
部屋の中央には、背の低い丸机が置かれており、やはりパステルピンクのクロスが掛けられていた。
そして、その机の下には、虎之助が偉そうに寝そべっている。
そういえば、飛鳥がインターホンを鳴らした時も、虎之助はドアの前まで走って来たり、吠えたりはしなかった。
「虎之助には、僕のことが見えてないんですかね?」
「吠えないからですか?」
「はい」
「多分、飛鳥さんのことを『家族の一員』として認めてるんだと思います」
これもまた爆弾発言である。
みことさんは、いつもその気なしに飛鳥をドキッとさせることを言う。
仮にこれを意識的にやっていて、ウブな飛鳥をからかっているのだとすれば、とんだ魔性の女である。
「飛鳥さん、ビールは飲まれますか?」
丸机の前に敷かれた水色のクッションに飛鳥が腰掛けると、みことさんが質問をする。
「あの、僕、年齢的にお酒は飲めないんで」
「あれ? もう成年じゃなかったでしたっけ?」
「たしかに民法改正で成年年齢は引き下げられたのですが、相変わらずお酒は20才になってからなんですよ」
「へえ。そうなんですね。知りませんでした……でも、今日は少しくらいどうですか?」
意外にも、みことさんは食い下がってきた。
「え……その……やめておきます」
「……ですよね」
正直、大学の新歓イベントでは当たり前のようにお酒を飲まされている。
ゆえに、規範意識はとうに鈍麻していたのだが、そうではなく、今、アルコールに身を委ねることには危険に思えた。
みことさんの部屋にお呼ばれをしている大事な場面なのである。気を抜いてはいけない。
「飛鳥さんを酔わせちゃおうと思ってたんですけど」
「どうしてですか?」
「味覚を鈍らせるためです。そうしないと、料理が下手なのがバレてしまいますから」
「絶対にそんなことないです! みことさんの手料理は絶対に美味しいです!」
「そうやってまたハードルを上げて……」
そういうつもりではなかったのだが、客観的にはそうなってしまうのだろう。
少し配慮が足りなかったかなと反省する。
「ロールキャベツはもうできているので、少し温めてから持って来ますね。あんまり期待しないでくださいね」
「……はい」
みことさんは踵を返すと、台所の方へとスタスタ歩いて行った。
これはみことさんに言うと失礼かもしれないが、もはや味なんて別にどうでも良い。
みことさんが飛鳥に手料理を作ってくれているという事実だけで、飛鳥には十分なのである。
みことさんがいない隙に、飛鳥はみことさんの本棚のラインナップを観察する。
本棚のうちの下半分は、用途どおりに本が並んでいる。
飛鳥もタイトルくらいは知ってるような有名な小説もあったが、どうしても、占い関係やオカルト関係の本が目を引く。
残りの半分は、トーテムポールのような不思議な置物や、奇妙な形の壺などが並んでいる。
棚の上の頭蓋骨もそうだが、一体どれくらい値が張るのだろうか、と飛鳥は気になる。
「みことさんと話を合わせるために、僕も少しは勉強しなきゃな」
とぼやきながら、スピリチュアルやオカルト関連の本を物色する。
あるタイトルで、飛鳥の目が止まる。
「『カニバリズムの系譜』……カニバリズム……聞いたことある気がするけど、何だったっけ?」
飛鳥がその本に手を伸ばそうとしたところ、ワン! と足元で虎之助が一吠えした。
「ごめんごめん。ご主人様の本を勝手に手に取るのは良くなかったね」
よしよしと虎之助のお腹を撫でていると、みことさんが部屋に戻って来た。
真っ赤なセラミック製の鍋の持ち手をミトンで掴みながら、そーっと丸机の方へと向かってくる。なんだか危なっかしい。
「大丈夫ですか? 僕が持ちますよ」
「心配要りません。飛鳥さんは座って待っていてください」
そう言われたので、おとなしく待っていたのだが、不安は的中した。
机に鍋を置く直前に、鍋が傾き、熱い汁がみことさんの右手にかかったのである。
「熱い!」
「大丈夫ですか?」
「……全然大丈夫です」
みことさんはそうは言ったものの、みことさんの白い手が赤く腫れている。
「みことさん、ここで待っててください。冷凍庫から氷を持って来ます」
飛鳥が立ち上がると、みことさんは、飛鳥のシャツの袖を掴んで制止する。
「本当に大丈夫ですから。飛鳥さんは座っていてください」
「でも……」
「冷やすものは自分で持って来ます」
みことさんがそう言うなら、飛鳥は引き下がるしかなかった。
ここはみことさんの家である。
みことさんの家の冷凍庫を勝手に開けるのは、プライバシーの侵害になるかもしれない。
部屋を出て、戻って来たみことさんが持っていたのは、氷ではなく、2本の缶ビールだった。見たことがない銘柄のビールだ。
「みことさん、冷やすものって……」
「冷え冷えのビールです」
「1本がみことさんが飲む用で、もう1本がみことさんの手を冷やす用ですか?」
「いいえ。1本が私が飲む用で、もう1本が飛鳥さんが飲む用です」
みことさんがペロリと舌を出す。
多分一種のアルハラなのだろうが、みことさんがやるとただただ可愛い。
飛鳥に断る術はもうなかった。
みことさんが差し出した缶ビールを受け取り、封を開ける。
飛鳥の対面に座ったみことさんも、同様にプルトップを引く。
「それじゃあ、飛鳥さん、GWお疲れ様でした。乾杯!」
「乾杯!」
ゴクリと1口流し込む。
みことさんが普段飲んでる銘柄のビールは、ビターな大人の味だった。
「ロールキャベツをお皿によそいますね。あまりじーっと見ないでください。また緊張して溢してしまいますから」
「先ほど溢してしまったのは、僕が見ていたからなんですか?」
「そうです。ですので、飛鳥さんは、私が『よし』と言うまで、目をつぶっててください」
「……分かりました」
飛鳥は、みことさんの指示どおりに目をつぶる。
よくよく考えると、目をつぶらなければならないような必要性はどこにもないのだが、ここはみことさんの部屋であり、「不思議の国」のルールが適用されるのだ。みことさんの言うことにはとにかく従っておこう。
「まだ目を開けちゃダメですか……?」
「まだです。『待て』です」
「なんだか犬みたいな扱いですね」
「ごはんがよそわれている間には『待て』が小野瀬家のルールなんです」
「やっぱり虎之助と同じ扱いじゃないですか」
「バレましたか」
みことさんはなかなか『よし』と言ってくれなかった。
ロールキャベツをお皿によそうのにそれほど時間がかかるのだろうか。
たまらずに薄目で様子を見ようかなどと考え始めた頃、みことさんはようやく『よし』と飛鳥に指示した。






