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303号室の美女

 飛鳥が初めての一人暮らし先として選んだアパートーーフジワラ荘は、高度経済成長期に建てられたという、ボロアパートだった。


 そのあまりのオンボロさは、内覧時点からよく分かっていたのだが、それでもキャンパスへのアクセスが抜群に良いことを考えると、ここが最良の物件だったのだ。


 第一志望の有名私立大学に合格したことで、心が浮ついており、住まいはどうでも良かった、というのもある。



「……重い」


 古いアパートなので、当然エレベーターもない。


 スーツケースを持ち上げながら、飛鳥はギシギシと軋む階段を一段一段上っていく。


 じんわりと滲む汗を、春風がほどよく冷ましてくれる、心地よい陽気だった。



 飛鳥の部屋は302号室である。


 フジワラ荘は3階建てのアパートなので、最上階ということになる。



 飛鳥はゼーハーと息を荒らげ、ようやく階段を上り切った。


 庭の植木が伸び放題であったことからも十分察しがついたことだが、共用部の廊下もやはり管理・清掃がされておらず、腐った落ち葉などが散乱していた。



「暇なときに、箒で掃いておこうかな」


 飛鳥は綺麗好きでは決してないのだが、最低限、それくらいはしておこうと思った。階段の脇に竹箒が落ちているのを先ほど見つけていた。



 3階には3部屋しかなかった。


 おそらく1階も2階も同様であり、このフジワラ荘は全部で9部屋の貸室で成り立っているものと解される。



 飛鳥は、真ん中の部屋のドアの前に立つ。


 中央少し下方に新聞受けがついていて、如何にもアパートのドア、という感じである。


 ドアの右上方の壁には、鉄製の表札入れがあり、アクリルの下の厚紙に「302号室」と書かれている。


 その下は空白となっている。この後、100円ショップで厚紙を買って、「幸村」と書いて入れておこう。



 飛鳥は、大家から預かっていたシリンダーキーで、ドアを開錠する。


 すでに業者によって荷物の移動は済んでいたので、フローリングの床の上に、封のされた段ボール箱がいくつか詰んであった。



「さてと……」


 それを開封しておく作業は後回しにして、飛鳥は、玄関でスーツケースを開けると、中から最中の入った袋を2つ取り出した。


 ここに来る途中に、老舗の和菓子屋で買ってきたのである。予約をしないと買えない人気の品だ。



 飛鳥は、部屋を出ると、階段から見て、廊下を奥に進んだ。


 手初めてに、お隣さんに挨拶に行くのだ。


 「隣人関係は大事にしろ」と母親に口煩く言われていたのである。


 突き当たりの部屋には、「301号室」との表札は掲げられていたが、その下は空白だった。


 おそらく居住者が名札を入れるのを面倒がっているのか、はたまた、個人情報保護の観点から名札を入れるのを躊躇っているのだろう。



 一体どんな人が住んでいるのだろう、と半分不安に、半分ワクワクしながら、飛鳥はインターホンを鳴らす。



 「ピンポーン」と屋内にチャイムの音が鳴り響くのが聞こえる。



 しかし、しばらく待っても、誰も出て来なかった。


 考えてみると、平日の午後なのである。勤め人であれば、むしろ不在である方が当然だ。



 最中を、ドアの新聞受けに入れようか一瞬悩む。


 ただ、最中は一応ナマモノである。長期出張中などの事情で、新聞受けの中が確認されないままで腐ってしまったらマズい。



「出直すしかないか」


 隣に住んでいる以上、これから何度でも手土産を届ける機会はあるのだ。最中はあとで自分で食べれば良い。



 次に飛鳥が向かったのは、階段側の部屋ーー303号室である。


 「303号室」の表札の下にも、名札は付いていなかった。

 飛鳥の実家は一軒家なのでよく分からなかったが、名札は付けない方がスタンダードなのかもしれない。



 こちらも留守の可能性が高いかな、などと勝手に思いつつ、飛鳥は303号室のインターホンを鳴らす。



 「ピンポーン」という音が屋内に鳴り響いたのは先ほどと同様だが、今度はそれを追って、「ワンワン」と犬の吠える声が聞こえた。


ーーあれ? このアパートって「ペット可」だったっけ?


 ワンワン! ワンワン!


 犬の声は鳴り止まない。声が高いのでおそらく小型犬だろう。



 決して飛鳥が悪い訳ではないのだが、これは近所迷惑なのではないかと、気マズくなる。一体下の階の人はどう思っているのだろうか。



 ワンワン! ワンワン!


……なかなかしつこい。



「はーい」という気の抜けた声とともに、徐にドアが開いたのは、飛鳥がインターホンを鳴らしたことを後悔し、時間を巻き戻したいと思い始めていた頃だった。



「どちら様ですか?」



 インターホンを鳴らして良かったーー


 飛鳥は一瞬で考えを変えた。


 なぜなら、ドアの向こうから現れた303号室の住人は、とびきり美人だったからである。


 ファッションモデルのようにスラリと背が高い。さらに、手脚や首が長細いことは、ブカブカのスウェトを着ていても分かる。


 顔も、やはりモデルのように小さく、化粧をしていないにも関わらず、肌荒れひとつなく、真っ白なのである。


 鼻が高く、パッチリ二重で、口も大きい。まるでヨーロッパ人のような顔立ちなのである。ハイトーンな金髪の髪も、その印象をさらに強めているかもしれない。


 かといって、キツイ印象は一切受けない。それは垂れ目であるためか、それとも、身に纏っているオーラによるものか。



 いずれにせよ、飛鳥が「美女」と聞いてまず想像するような「美女」が、今、目の前にいるのである。



「Amazon……ではないですよね?」


 マシュマロを噛むような、フワフワとした喋り方である。



「……あ、はい。……ち、違います」


 想像していた隣人像と良い意味であまりにもかけ離れていたので、飛鳥は戸惑い、キョドる。



 ダルっと膝上まで伸びたグレーのスウェットの下に、白い生脚が覗いている。飛鳥は、無意識のうちにそこに目が行っていたのであるが、303号室の美女は違った解釈をしたようで、


「この子は虎之助とらのすけといいます」


と、足元でウーウー唸っている愛犬を紹介した。



「……チワワですか?」


「チワックスです。チワワとダックスフンドのMIXです」


 たしかに茶毛で、チワワにしては耳が垂れ下がっている。



「……可愛いですね」


「ありがとうございます。よく言われます」


 「ねえ。虎之助は世界一可愛いんだもんねえ」と美女がしゃがみこみ、虎之助の頭を撫でようとする。虎之助は美女の手を躱し、代わりにペロペロと顔を舐める。


 なんとも目の遣り場に困る光景である。


 というか、飛鳥はまだ来訪の目的を告げていない。それどころか、名前すらも告げていない。



「あのお……」


 虎之助とイチャつく美女に、飛鳥はおそるおそる声を掛ける。



「僕、幸村飛鳥といいまして、今日から隣に引っ越してきました」


「ああ、そうだったんですね! 気が付きませんでした!」


「今日引っ越して来たばかりなので」


「この部屋にですか?」


「この部屋? 隣の302号室です」


「ああ!」


 なんだか芯を食わないやりとりである。



「それで、ツマラナイものですが、こちらをお渡ししたく……」


文転堂ぶんてんどうの最中じゃないですか! ありがとうございます!」


「知ってるんですね」


「超有名店ですからね」


 そんなに有名だとは知らなかった。



「あんこが甘くてすごく美味しいんですよね」


 あ、と美女が口に手を当てる。



「あんこが甘いって当たり前ですね」


 うふふと美女が笑う。僕も釣られて笑う。不思議な女性である。



「飛鳥さん……」


 突然下の名前で呼ばれたのでドキッとしたが、おそらくは単に「幸村」よりも「飛鳥」の方が覚えやすかったからだろう。深い意味はないに違いない。



「飛鳥さんも好きなんですか? 文転堂の最中」


「実は、僕自身は食べたことなくて……」


「ええ! もったいない! ぜひ食べてみてください! うちに来て、一緒に食べますか?」



……え?



「……今、なんて言いました?」


「私の部屋に来て、一緒に食べませんか? 文転堂の最中」



……ええっ!?



 飛鳥としては、美女をこんな近くで見れて、しかもお話までできて、それだけでもうお腹いっぱいだった。


 それを超えて、居住空間に上がり込むだなんて、そんな心の準備は到底できていない。



「飛鳥さん、ちょうど最中を2箱お持ちですし」

 

 たしかに、303号室の美女に渡す最中のほかに、301号室の住人に渡すはずだった最中も持っている。たしかに、この最中は飛鳥自身で食べてしまおうと思っていた。


 しかし、そういう問題ではないーー



「いや、その、あの……」


 飛鳥があたふたしている様子をどのように解釈したのか、美女は、


「ごめんなさい。突然変なこと言ってしまって」


と飛鳥に謝った。



「別に、その、そういうわけじゃなくて……」


 飛鳥自身、自分が何を言いたいのかよく分からない。



「ごめんなさいね。私、お隣に可愛い男の子が引っ越してきてくれて、嬉しくて、つい……」



 可愛い男の子? 文脈的に、それは飛鳥を指すということで間違いないだろう。


 たしかに美女は、おそらく飛鳥よりは年上である。見た目や佇まいからすると、20代後半くらいだろうか。

 

 とはいえ、飛鳥は今年で19歳であり、男の子、というほどでもない。改正民法によって、すでに成人も迎えている。


 しかも、「可愛い」とは一体どういうことなのだ? それは一体どういう意味なのか?


 もう、何が何だかよく分からない。



「あの……また今度お願いします!」


 飛鳥は深くお辞儀をしながら、最中の入った袋を差し出す。

 どう立ち回って良いのか分からず、とにかく早くこの場を去りたいと思ったのだ。



「……2箱ともくれるんですか?」


「はい。お好きだと言っていたので。もし多かったら、虎之助君と一緒に食べてください!」


 果たして犬が最中を食べれるのかは分からなかったが、飛鳥は咄嗟にそんなことを口走ってた。



「分かりました。そうします。ありがとうございます」


 美女はニコッと笑う。このクシャッとした笑顔は、男をダメにする笑顔だなと直感的に思う。それくらいに魅力的な笑顔だ。



「では、失礼します」


 美女が最中の袋を受け取るやいなや、飛鳥は回れ右をする。



「飛鳥さん、ちょっと待ってください」


「……え?」


 美女に呼ばれ、飛鳥は振り返る。



「僕、何かを忘れましましたか?」


「はい。大事なことを忘れています」


「なんですか?」


「私の名前を聞き忘れています」


「ああ」


 そうだった。



「私、小野瀬みことといいます。飛鳥さん、今後ともよろしくお願いします」



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