第五話 カニとの遭遇
子供たちの水筒に少しずつ残っていた麦茶と、私のエコバッグの中に入っていた少しばかりのクッキーとせんべいをみんなで分けて食べる。私は大きなどんぐりのようなリングリを石で叩いて割って、中身を取り出す。アーモンドに似た香りがする。小さく砕いた破片を少しだけ口に入れてみると、少し渋みのあるナッツの味がする。
「ママ、おいしい?」
「特別おいしくはないけど、食べられなくはないかな。炒ってない椎の実みたいな味ね」
「この状況を整理しよう。俺たちは車ごと異世界に落とされた。そして、現状は食料も水もない。ガソリンは残り半分。気温は幸いにも、冷房も暖房も必要なさそうだけれど、このままここで生活するわけにもいかない」
ケンイチが立ち上がり、家族に語りかける。
「はいはーい、町行こうぜ町」
「木を切って整地してここにおうちを建てようよ! ボク、木を切るの得意だよ」
「リョウはマイクラでしか木を切ったことないやん。アタシ、どこでもいいからスマホ充電したーい」
「ママは飲み水を確保したいな。君たちの水筒を貸してもらおう」
「じゃあ、ママとヒロトとリョウは全員分の水筒を持って川を探して。俺とユウカは少し東の方まで歩いてみて、またここに戻ってこよう」
「えー、歩くのやだな。車で行けばいいやん」
「ガソリンを節約したいしな。ヒロト、いざというときはママとリョウを守ってあげて」
「おけまる」
「ボクもママを守るよ!」
「うん、じゃあ頼んだよリョウ」
リョウが意気揚々と立ち上がったので、ケンイチはその頭を優しく撫でる。
水の音を辿りながら、ヒロトとリョウと私の三人で森を歩く。時々大きなリングリの実を見つける。水筒の入ったエコバックにそれを放り入れる。
「スキルってさあ、どうやって出すんだろ。ママどうやったん?」
「わからないのよねえ。ヒロトはスキルでない?」
「念じてみたり、叫んでみたり、いろいろ試したけど全然わからん」
「ボクのタイムマニピュレーションもできないよ。ヒロトはなんのスキルにしたの?」
「俺はねえ……、あっ、あれじゃね? 川」
「わあ川だ! ボク水遊びしたい」
川の両脇は斜面になっていて、木に捕まりながら慎重に降りていく。いかにも渓流といった風情の、山の上流に見られる細い川だ。ごつごつとした岩の隙間を流れていく川は、それほど深くはなさそうだった。
「水はきれいみたいね。でもなにがいるかわからないから、川の中に入るのはやめておこうね」
「水汲んでくればいいんだろ。ママ、水筒貸して」
「ボクもやる!」
「気をつけてね」
ヒロトが自分の水筒とユウカの水筒の二つを持って、川の中の岩を渡る。私はまだヒロトが幼かった頃、一緒に川遊びをしたことを思い出す。飛び石を渡れなくて泣いていたあのときに比べると、ずいぶんと成長したものだと思う。身長も少しだけ私を追い越してしまった。もう十四歳なのだ。身体能力は四十代後半の私よりもずっと高い。
「うわっ!」
ヒロトが岩の上で足を滑らし、川に落ちてしまう。
「大丈夫?」
「浅い川だからだいじょ……、わっ、わああっ!?」
ヒロトが両手に持っていた水筒を放り投げ、水の中で後ずさりをする。
川の深さは、座り込んだヒロトの腰のあたりだった。その浅い川の水底のどこに隠れていたのか、ランドセルほどの大きさはありそうななんらかの生き物が、ヒロトを威嚇している。
「ヒロト、逃げて!」
「あ、足が滑る!」
硬そうなハサミを振り上げる生き物は、カニのようにもザリガニのようにも見えた。ただ、そのハサミはヒロトの細い腕を切り落としてしまいそうなほどに大きい。
赤くごつごつとしたハサミがヒロトのスニーカーを掴む。
「うわあああん、ヒロトぉ!!!」
ヒロトの叫び声とともに、森にリョウの泣き声が響く。
次の瞬間、ヒロトは私の足元に仰向けに寝転がっていた。
「えっ……?」
私もヒロトも、なにが起こったのか分からずに呆然とする。ヒロトはばんざいをしたような体勢になっていて、膝から下はまだ川の中にあった。そうして川べりには、ヒロトが放り投げたはずの二つの水筒とリョウの水筒がきちんと立てて置いてある。持ち上げてみるとどれも重い。水で満たされているようだった。
「リョウは?」
「リョウがいない! どこ?」
振り返ると、石がいくつも重ねられている箇所があった。ヒロトが立ち上がって石に近寄る。大小の石が積み重ねられた小山の中には、先程ヒロトを襲おうとした生き物が閉じ込められていた。
「こいつ、まだごそごそ動いてる。なんだこれ。だれがやったんだ」
ハサミのある生き物が動かないように、厳重にいくつもの石を重ねたように見えた。ふいに、まだ幼稚園生だった頃のリョウを思い出す。公園の石をいくつも集めて、小さな山を作っていた。もちろんこれほど大きくはないけれど。
「うえーん、ママー」
車が置かれている方向から、かすかにリョウの声が聞こえる。
「ヨシエ、ヒロト、大丈夫か!」
「あっ、パパ」
リョウの手を引いて、やってきたのはケンイチだった。
「なにがあったの。このカニさんを閉じ込めたのはリョウなの?」
「ボク、ボク……、うわああああーん」
私は泣き止まないリョウを抱きしめる。脇から下は水に濡れた形跡があり、だけど少し乾き始めている。リョウの服はいつ濡れて、いつ乾いたというのだろう。ほんの数分前まで私の隣にいたというのに。
「うん、大丈夫大丈夫。とりあえず車に戻ろうね」
「ヒロト、立てるか?」
「うん。めっちゃ濡れてる。頭まで濡れてる。あっ、こいつ石の隙間から出てきそうなんだけど?」
「三人とも下がってろ」