第五十四話 私たち家族はなにも悪くない
「ヒロト、ボタニクに連れて行かれちゃったねえ」
リョウが空を見上げる。樹冠龍ボタニクは空高く飛んでいってしまい、もうその姿は見えない。
「大丈夫かな」
「ヒロトなら大丈夫だろう。それよりアレをなんとかしなくては」
ケンイチが立ち上がり、空に浮く教会を睨みつける。
洗脳兵器ハルモニア・サンクトゥスは、周囲を旋回するボタニクに気を取られていたようだが、その姿が見えなくなると、気を取り直したように再び音を鳴らし始める。
「また始まった」
たどたどしくも感じられるその旋律は、ユウカがパイプオルガンで弾いていた音楽とは違っていたし、私たちの世界の一般的な音楽とも違っていた。
低くゆっくりと響く不協和音は、脳の奥底を刺すように不安を誘う。
「ボク、この音いやだ」
「耳を塞いでいて、リョウ」
私も耳を塞ぐが、とはいえこのままでは戦うこともできない。耳を塞いでも音はわずかに聞こえてくる。
「うわああああっ!」
町のあちこちから叫び声が聞こえてくる。
玄関から走り出して、通りを走って行ってしまう人がいたと思えば、二階の窓から飛び降りようとする人もいる。音に洗脳されてしまったのだろう。
「ヨシエ、あれは魔法の力で動いているのか?」
ミカラスが耳を塞いだまま尋ねてくる。
「うん、リードとトーンという名の双子の魔術師があの洗脳兵器を操作しているはず」
「ならば、そいつらを撃ち落とせばいいんだな」
ミカラスは屋台から地面に散らばり落ちていたパンを拾い上げ、それを両耳に詰める。
「そうか、ユウカ。凝望壁をできるだけ近くまで伸ばせるか?」
ケンイチの言葉に対して、凝望壁はしばらく反応をしなかったが、やがて返事をするように点滅して、壁を階段状に斜め上に伸ばしていく。
ユウカも迷っているのだろう。リードとトーンはユウカにとっては大切な友人だ。洗脳されていたとはいえ、撃ち落とすなど本意ではないに違いない。
階段は四階建てビルほどの高さまで伸びたが、ある程度の幅を維持するために、それ以上先に伸びることはできないようだった。
ミカラスが階段を駆け上がる。
リョウが弓を引くミカラスを見上げながらつぶやく。
「ボクも蒼翔 で戦いたいけど、ヒロトがいなくなったから、コントローラーが消えちゃった」
「そうか、ヒロトがそばにいないと、遊戯創生は使えないのね」
遊戯創生が使えるのは、せいぜい二〇メートル程度の距離だとケンイチがいっていた。
皆で使える便利なスキルのようだが、ヒロトから離れてしまえばケンイチとリョウはコントローラーを持つことさえもできないのだ。
ミカラスは凝望壁の先端に立ち弓を引く。
「ミカちゃんがんばれーっ!」
リョウが耳を塞いだまま声援を送る。
ミカラスの放った矢はハルモニア・サンクトゥスにぎりぎり届いたが、下部の瓦礫に刺さった。
「くそっ」
ミカラスが悔しそうに何度も弓を引く。しかし、どうしても聖堂にまでは届かなかった。
「みんな、援護しろ!」
冒険者の一人が、いつのまにか家屋の屋根の上に立ち、ボウガンを構えていた。
私は周囲を見渡す。洗脳にかかってしまい怯えたり混乱したりしている人もいれば、上空に向かって弓や槍を構えている冒険者もいる。人により、洗脳の効き具合が異なるのかも知れない。
女性や子供たちは、いつのまにか姿を消していた。建物の中か町の外に避難したのだろう。
私もリョウを連れて、一緒に避難するべきだろうか。
それはそうだ。私がここにいたってなんの役にも立たないのだ。あとは町の人たちがなんとかしてくれるだろう。
どうしてこの有様が私たちのせいだなんて思ってしまったのだろう。
リードもトーンもこの世界の住人だ。私たち家族はなにも悪くないし、責任を果たす必要なんてない。
いますぐリョウとユウカを連れてこの町から出なければ。
「ママ、痛いよ」
気づけば、リョウの腕を強く握っていた。
「リョウ、逃げよう。ヒロトも探しにいかないと」
「ミカちゃんががんばってるのに?」
「ミカラスちゃんはエルフだから大丈夫。私たちはただの人間なのよ!」
「ヨシエ、落ち着け! 耳を塞げ!」
ケンイチに怒鳴りつけられて我に返る。
頭の中が不安に満ちていたことに気づく。これもハルモニア・サンクトゥスの洗脳だ。
耳を塞いでも不安は消えなかった。自分は洗脳されつつあるのだという客観的な理解と、ここにいてはいけないという恐怖感がせめぎ合う。強く両耳を抑える。
ぐらり、とハルモニア・サンクトゥスが傾いた気がした。町の人たちがどこからか持ってきた投石機が、石を放ち教会の一部を削る。
ミカラスの放った矢が、教会の壁に刺さる。
「高度が落ちてる……?」
教会を乗せた地面が、少しずつ降りてきていた。
周囲の瓦礫も次々に落ちてくる。いつの間にか、ミカラスの矢は教会にいくつも当たるようになっていた。
凝望壁が伸びたのではない。ハルモニア・サンクトゥスが、音を奏でながらも落ちつつあるのだ。